自殺の自由化
(サンプルテキスト)




監修・執筆:鈴木方斬(すずきほうざん)

空間開設者:黒間玄元(くろまのりゆき)
ハンドルネーム:bv


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第二章 自殺について考える空間 投稿集 『織り姫』様より 私も自殺について、よく考える事があります。 といっても自殺をしようと考える事が頻繁にあるのではありません。 「自殺は本当にそんなにいけないのだろうか」と、あらためて考えさせられる事が よくあるということです。 私の親友や知人なども数名が自殺をしました。 親友の時は、奇しくも私が遺体の第一発見者になってしまいました。 でも、彼女の顔は、けっしてつらそうな表情ではなく、 とても穏やかな安心に満ちた死に顔でした。 あれほど穏やかな人間の顔は、それ以後も私はみたことがありません。 そちらのホームページを開設するきっかけになった遺書を読みました。 あの方の場合には自分の信念のために自殺をしたのでしょうから、 他人が責める理由はないと思いました。 もちろん、その方についての事情はよく知りません。 ただ、あの方は現実的な私生活の問題から逃げるために自殺をしたのではなく、 また衝動的に自殺をしたのでもないように感じました。 書かれている文章からもとても精神病も思えません。 普通の人たち以上に自分を責める傾向は、かなりあるのかもしれませんが、 それよりもむしろ普通以上に物事を真剣に考えた方だったのだと感じました。 私個人として、正直に思う事は、人間は自分が何か本当にどうしようもない ことになったら、自殺をすればいいと思っています。 とても変なたとえですが、自殺は自分の人生の最後の切り札だと思います。 そこに罪の意識を感じるかどうかは、個人の自由であると思いますから、 それを社会や宗教がどうこう言うべきことではないと思います。 よく、心霊番組などでは、自殺者の霊は浮かばれないとか、 自殺をするとよくない世界へ行くといわれます。 でも、自殺をする人は、おうおうにして、人一倍責任感があったり、 人一倍物事に敏感だったり、人一倍物事を深く考えた人である場合が多いと思います。 必ずしも精神的に弱いから自殺するというものではないと思います。 もしも本当に精神的に弱かったら自殺を実行する勇気すらもないと思います。 睡眠薬という勇気がほとんどいらない安易な方法から、勇気が必要な飛び込みまで 自殺の方法にもよりますが、どういう場合にでも死を覚悟するのはとても 人間的な行為だと思います。 本心では、それ程人命や自分の人生に大きな意義や疑問を感じていないのに、 ただ「なんとなく社会の成り行きの中で生きて死んだ人」よりも、 自殺者の方が死後に悪い扱いを受けるなどとは私には思えません。 ただ、もし私が自分でしを選択する場合には、誰かへの当てつけ自殺とか、 子供とか恋人とか誰かの為に死ぬとか、負債とか犯罪の罪を背負って 自殺するではなくて、出来れば、全く個人的な動機で自殺したいと考えています。 自分の命なのですから、何かの影響を大きく受けて死ぬのは嫌だと感じます。 もしも私が自殺をするとしたら、人生を本当に生きて、幸福の絶頂にあり、 『あっ、もうこのへんでいいわ』と自然に感じた時こそ、 私は自殺をしたいと思います。 でも、「あまりにも幸福だったので自殺をしたという話」というのは ほとんど聞きませんから、幸福の中にいる時の自殺というのは、 やはり不可能なのかもしれません。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 『雪女』さんより 『理由もなしに私が自殺をしたくなる瞬間』 こんにちは。掲示板などを見ていて少し書きたくなりました。 私の場合自殺を思い立つ時というのは、自分でもよく言葉に 言い表せない感覚に襲われる時なのです。というのも、 決まって具体的な悩みが無い時に私の自殺願望はよく起きる からです。 今、大学生で一人暮らしをしています。私は中学、高校時代 とかもイジメとかにもまったくあっていませんし、両親と いる時も特に問題なく暮らして来ました。 私は、アルコールは全く飲めませんし、両親がそろって薬ギ ライなので、ここ7〜8年漢方薬すら飲んだことがなく、 薬とは全く無縁の生活をしています。 でも、ときどき(実はほとんど毎日ですが)こんな不安が あるのです。 本当に、言葉ではうまく言えないのですが、次のようなもの です。 (1) 目にみえる世界が全部がよそよそしい。(自分すらも よそよそしいのです) (2) 自分と世界の間に何かモヤかガラスのようなものが挟 まっている感じがする。 (3) どこにいても、自分がそこにいることが変に思えてきて 違和感がする。 (4) たとえば、お風呂場で、リラックスしているはずなのに、 湯船でも突然に、自分がそこにいるという存在感が強く 感じられて不安になります。 (5) 神戸の小学生殺害の少年が自分のことを「透明な存在」 と言っていましたが、透明というよりも、私の場合は逆 に自分の「不透明さ」が恐いのです。 別の言い方をしますと、どこかにいる時に、「自分」と いう感じを思い出す事が心地よくないのです。 何か大きな壁が世界と私の間の邪魔をいているか、それ とも何かとても大切なものが足りないという感じがする のです。でも、それは幸福とか本当の自分とか、そうい うものとも全然違う気がします。 (6) この違和感は、たとえば恋人とベッドにいる時でさえも 起きます。セックスの後で眠りに入った彼の姿を見てい るときにも、本当なら私も満たされた心のはずなのに、 突然に自分の存在感が気になりはじめると、自分がそこ に居ることそのものに対して不安になるのです。 (7) 一体何が原因なのかと考えても、特に思い当たらない 「漠然とした不安」なのです。以前に三ヶ所の病院で 逆行催眠をかけてもらい、幼児期に問題があったのか調 べましたが、虐待の形跡も無き、また行き過ぎた過保護 を受けたこともなく、ごく平凡な幼児期で、どこのカウ ンセラーも問題はないといってくれました。 (8) また、そういう不安がやってくる時は、私はボーっとし ているわけではありません。むしろ、意識はとてもはっ きりと醒めています。ですけれど、それがよけいに恐ろ しい違和感を増すのです。 (9) 部屋に独りでいるとき、テレビを消してから、しばらく してからとか、眠りに入ろうと横になったときとか、 あらゆる時にその不安は起きます。 友人と外で食事をしている時でさせも、不安は襲ってき ます。 (10)決して、その不安で動揺したりするというのではないの ですが、ただ、自分でもよく分からない疑問から頭が離 れなくなるとでもいいましょうか。 何が疑問なのかもはっきり分からないのですが、強いて 言えば、「なぜ、ここにいなければならないんだろう」、 そんな漠然とした疑問に、とても近いと思います。 だから、私の場合、社会とかには別に不満はありません。 世の中が絶望的だから自殺を考えるのではありません。 私は、たぶん、自分が存在している感覚そのものが不安なの です。 こういう不安から自殺を考える人がいるのかどうか知りませ んし、こんなことは誰にも相談できないので、メールを送り ました。 私と同じような不安を持っている方の意見などを聞かせて欲 しいと思いました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 女子高2年生さんから こんな人、死ねばいいと思う人達について 世の中には、こういうことを言う人がいるんです。 「自分なんか、死ねばいいんだよね」 「どうせ、私の事なんか邪魔だと思っているんだろうから 早く死にたいわ。」 こういう事って、普通は自分の中で考える問題だと思うんですよ。 でも、「自分が死ねばいいんだよね」って口癖みたいに 他人に言う人がいる。 そういうのって、聞いていて、すごく耳障りでむかつきます。 「そんな事、自分で考えて決めろ」って言いたくなります。 私の母親とかも「自分なんか死ねばいいんだ」って、 全然そんな気はないのに、同情を買おうとして、 わざとらしく毎日のように私に言います。 別に、私は「死ねばいい」なんて一度も言った事もないのですよ。 うちにいるおばあちゃんとかも、「邪魔物の年寄りは、早く 死んだ方がいいよね」とか「あたしなんか邪魔だろうに、 申し訳ないねぇー」って、毎日のように言うんです。 毎日ですよ!!!。超むかつきます。 だから、母やおばあちゃんに、「遠慮しないで死んでいいよ」って、 私は言うんですよ。 すると、「なんてひどい事を言うんだろう」って言うんですよ。 自分から言い出したくせに!ですよ。ほんとにムカツキます。 世間にも人から同情されたいからそういう事言う人って、 いっぱいいると思う。そういう人は、黙って自殺して欲しい。 こういうのって、男でもいるし、会社とかでもいると思います。 でも、「死ねば楽だよな」「死ねばいいよな」「死んだ方がいい」 「私なんかいなければ」とか、そういう事って他人には言わないで欲しい。 とくに、「口癖」みたいに言う奴ってサイテーの人間だと思う。 そういう人間は、早く本当に死ねばいいと思う。 それと、世の中みんながみんな「生きたくて生きてる」ってわけじゃ ないのは、ホントだと思う。 病人とかだって周りに「申し訳ない」と思って生きてたりしても、 ちっとも面白くないだろうし、むしろ生きてて辛いはず。 何かの悩みとか病気とかで、毎日死にたいと思っている人も いると思うけど、そんな状態で生きるぐらいなら、 その人にとっては生きてるより死んだ方がマシだと思う。 だって、大人はこう言うじゃない、 「自分のやりたい事をやるのが人生です」。 じゃー時分のやりたい事が自殺なら、それをすればいいと思う。 それに、誰だって「自分がやりたくもない事」をやらされるのって 一番嫌な事でしょ? 大人とか子供とかそんなん関係なく、 自分がやりたくない事やらされてるのは、一番いやな事のはず。 だから、もしも、生きていたくない人が無理して生きていたら、 それはものすごく辛くて苦しいと思う。 だって、本人が一番やりたくない事が、 生きることそのものなんだから。 でもとにかく、ただの口癖とか、周りの同情欲しさとか、 脅迫で「死にたい、死にたい」とか他人に言うのだけは、 聞いているのがうっとおしいので、ゼッタイにやめてほしい。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 『ひかる』さんより 自殺について 基本的に自殺は許せません。 日本人は昔「切腹」という習慣があり、 死ぬことによって、詫びたり報いたりしてました。 それが「立派」とされてきた時代はそれでよかったのです。 世俗的に許されてきたのですから。 しかし、今はそうでしょうか。 昔とは少し違うようです。 他人を殺しても自分を殺しても、犯罪です。 尊敬なんてされません。 確かにこの広い宇宙のなかでは、人間なんて 無いに等しい存在です。 しかし、「ナシ」ではありません。 肉体があり、感情がある。無気力だって、無気力という感情がある。 それらを備えた物体(ヒト)が、いっぱいあり、それらの一部は 組織的に結ばれている(親族)。そんななかではめいめいにIDがあるようなもので、 失われたら、必ず誰かが悲しむ。 「悲しい」という体験を相手にさせたらいけない、というのは 一概には言えないが、基本的に喜ばしいことではない。 というか、そういうものなんだ、人間は。 冒頭で「基本的に自殺は許せない」と書いたが、 基本的というのは例外があるためだ。 ここに箱がある。この中には人1人分しかスペースがないとする。 その中に入って、絶対空かないようにする。外からも内からも。 なかは真っ暗闇で、外の音も聞こえない。ぜったい出られない。 そんな状態だったら、自殺でもするだろう。 それこそ、生きる意味がないもの。 でも、そんな状態でないかぎり、自殺は許せない。 ひかる E-Mail tcp-ip@ijk.com 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ LONLY−YOU=『論理ぃー憂』さんより 前略、「開設のきっかけの文章」を読んで感じた事を少しだけ書きます。 もしも私たち人間の生がそれほどにも無価値だとしたら、死ぬ事も無価値だと思う。 生きていることが無意味ならば、そんな無意味な自分が消えて死んだところで、 当然その死にも何の意味もないだろうから。 宇宙という尺度の中では、人間がいてもいなくても地球があってもなくても、 そんな事は誰も問題にしないくらい小さな事だとは僕も思う。だから、 自殺をしたところで、それすらも問題にならないほど無意味な小さいことだと思う。 ただ確かに言える事は、もしも「全く無意味で苦しい生」と「全く無意味な死」 があって、「どっちかを選べ」と言われたら、 やはり僕は、無意味な死のほうを選ぶと思う。 なぜなら、無意味で苦しい生は、そのまま苦しみだけが続くけれども、 無意味な死なら、そこで苦しみは終わるから。 生も死も、どっちも無意味ならば、無意味を引きずって生きるよりも、 楽になる方の死を選ぶのは、人生の取り引きとしては全く自然な事だと思う。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 匿名希望の男性より 自殺という言葉を聞くと、確かに私たちはそれが異常な事であるとか、 時には精神病の一部とか思いがちです。また、精神的に弱いから 自殺するとも思われがちです。でも、聞いた話なので、確かかどうか は分かりませんが、日本の統計では、自殺者の数は交通事故にも 匹敵する数だという事でした。 もしもそうだとしたら、 交通事故と異常ではないのと同じように、自殺が異常な事という事には ならないかもしれません。自殺というものは、言い方を変えれば一種の 「精神事故」とも見なせるからです。 自殺に至る心の状態が精神病に近いものであるかどううかについては、 精神病の患者でしたらば、自殺に限らず殺人でもなんでも行う「可能性」 はあると思いますが、その逆はないと思いますから、精神病とは 何の関係もないと思います。 つまり精神病の結果として自殺や犯罪をする可能性はありますが、 自殺願望者のすべてが精神病や犯罪者である事にはならないのは 言うまでもない事です。 ですから自殺未遂をすると(特に欧米では)必ずといっていいほど、 精神科に連れてゆこうとするのは間違いだと思います。 つまり自殺願望者は精神病とは違って社会にとって「危険な存在」 とは言えないと思います。 聞いた話では、ヨーロッパのある国では、自殺者の遺体は普通の墓地に 埋葬してもらえないとか、イギリスでは自殺が未遂に終わると実刑判決 を受ける事が有ったようです。 たぶん、その国の宗教や国民の死生観によって自殺についての位置づけも かなり違うのだと思います。キリスト教の文化の土地では、頭ごなしに 自殺を大きな罪としたり、自殺者は地獄へでも行くかのように 言われていますが、言うまでもなく、昔の日本ではだいぶ状況が 違っているようです。それも昔といっても、ほんの数十年前、 つまりアメリカの文化が入る前の戦前は、日本では自殺は社会的にも それ程異常な行為ではなかったのだと思います。 その時代のイデオロギーのせいもあるでしょうが、それにしても日本人 の死生観、特に自殺に関する死生観は世界でも かなり珍しいものかもしれません。 城のお殿様は、攻め入られて敵に殺されるぐらいならその前に切腹を したようですし、また、日本人はその心だ姿にすら美や礼節を 求めるようです。女性が自害する時は、足を縛って死に姿が乱れない ように配慮したりもしました。 ここまで来ると、自殺は日本の文化の一部でもあるようです。 切腹にしても、欧米のように、拳銃で頭を打って一瞬で終わりではなく、 気合いを入れて「ちゃんと意識を失わずに」最後まで腹を 切りおわらなければ、「末代までの恥じ」になるのですから、 つくづく、日本人は変な民族か、あるいはすごい民族なのだと思います。 切腹して何かにお詫びするとか、敵の目前で自決するとか、 殿様や天皇への忠誠から自決するとか、特攻隊の精神とか、 あるいは即身成仏とか、姥捨て山とか、子供の間引きを例に挙げれば 分かるように、とにかく日本人の自殺観や死生観は欧米とは かなり違うようです。 ですから戦前までは、あるいは明治維新までは自殺はそれ程 異常な事では無かったのだと思います。ただ、現代では、何かの為に 自殺をして意思表示をするという傾向はなくなって、純粋に 自分の苦しみから脱したい為の自殺が増えたのだと思います。 ただ、自殺に関する欧米の考え方を見ていると疑問と矛盾を 感じる点があります。 宗教上の理由から自殺は悪だと断定するわりには、あきらかに 「自殺行為」になり得るような行為を英雄的に扱っている事です。 世の中にはほんの一歩間違えば確実に死ぬような事は沢山あります。 もしも自殺が本当にいけないのだとしたら、そういう危険そのものが 避けられねばならない筈です。ところが、スタントショウや ドラッグレースや冒険家たちが行う危険極まりない行為は、 ビジネスになり、ショーになるのです。そしてその結果として事故で 死んでも彼らは誰からも責められないどころか、英雄扱いすらされます。 しかしあれらは明らかに命を軽視した行為ですし、半ば最初から 自殺行為に近い行為という見方も出来る筈です。にもかかわらず、 それをなぜ悪く言わないのでしょうか? たとえばレスキュー隊のように、誰かを助けようとして自殺行為に 近い行為をするのならまだしも、スタントショーなどは、社会とか、 誰かの役にも立つわけではない、ただの個人的な趣味なのですから、 そこで自殺行為になる可能性が十分にある事を社会が容認するのは とても変だと思いました。 多分、「何かを成し遂げようとして死ぬ場合」には自殺行為に 近いものでも良くて、「何もしないで死ぬ者」は悪いという、 とても奇妙な偏見があるのだと思います。 ですから、たとえば有名な小説家や哲学者が作品を残して苦悩して 自殺しても誰も白い目で見ないのに、普通の何でもない人が自殺を すると、まるで人生の負け犬であるかのようにどこかで軽蔑する 傾向すらあるようです。 また、何かの為とか、誰かの為ならば死んでもよくて、自分の為には 死んではいけないとかいう思い込みもあるようです。 とりとめのない事ばかり思い付きで書いてしまいましたが、 「自殺はいけない」と決め付ける最近の姿勢は、何か変だと思いました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ リトルボーイさんから 世間やマスコミから 一切とやかく言われないための 自殺法の提案 自殺の是非という事をダラダラという前に、基本的に押さえておくべき事は、 自殺は刑罰を受けるような犯罪ではないという事実だろう。 自殺者自身を取り締まる法律は現在の日本には無い。 だから、自殺の是非については、マスコミや世間の感情があれこれ言う以前に、 社会の法律が自殺を罰してはいないのだ。 法律的の慎重に検討されたのかどうか定かではないが、どうやら暗黙のうちに、 自殺志願は人権の一つとして我が国では認められていると見なせる。 ただし、自殺で公共施設を汚染したり、電車を遅らせたり、捜索願いなどを 出すという遺族に多額の請求書が回って来る事は当然ある。また、他人を 自殺に追い込むような物理的行為(暴力)や脅迫行為や自殺の手伝いは、 言うまでもなく訴訟の対象となる事がある。 それにしても、自殺行為そのものは、現法では「刑罰」の対象にはならない。 それにもかかわらず、マスコミや世間が自殺を迷惑がるとしたら、 それは「遺体を誰の費用で誰が後始末をするか、という事が論議の焦点」なのだろう。 そこで、未来の自殺には、下記の2つの方法がもっとも理想とされると考えた。 (1)ひとつには、自殺の意思を示す遺書を残して、その上で、 「骨すらも感ぜんに残さず死ねれば、誰からも文句を言われない。」 たとえば、溶鉱炉に飛び込むとかだが、現実問題となるとほとんど不可能だ。 絶対に死体があがらない方法としては、沖に出て海に身を投げるしか ないのかもしれない。 (2)もうひとつは病院に献体登録をしておいた上で、臓器が完全に無傷な状態で 自殺をして、医療に貢献する事である。 臓器移植や解剖用に使ってもらうという前提なので、絶対に睡眠薬で内臓を 汚さないほうが良い。(臓器を使う人のためを考えよう) また、脳死から時間が経過し過ぎてはいけないので、それこそ決行の事前に 自殺の予告の電話を病院にでもして、遺書と献体手帳をそばに残して、 「早く臓器を取り出せ」とメモを書いておく必要がある。 この二つの方法ならば誰からも文句は言われない。 (1)は、残骸が無いので、誰にも迷惑をかけない。 (2)は、迷惑をかけないどころか医療に貢献すらする。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 〜 自殺施設を作るべきだ 〜 しかしこう考えていくと、結局一番ベストなのは、20歳をすぎたら、 選挙権のように自殺を自由な人権として社会が認める事だろう。 そして全ての病院でが、『自殺の受付窓口』をつくって、20歳以上ならば、 本人の意志と書類ひとつで自殺が出来るような社会が必要である。 むろん、病院側は全面的に自殺幇助に協力し、自殺者の臓器は直ぐに移植に 利用される。 ・・・で、これが出来ないなら、せめて、自殺志願者が気兼ねなく、 勝手に死ねる場所として、特別に儲けられた火葬場とか、溶鉱炉とかを 作って欲しい。(自殺場である) むろん、犯罪事件の遺体処分として使われる可能性があるので、 本人の意志と身分証明をチェックした上で『自殺場』へと入場させるような 機構は必要となるだろうけど。 ようするに、自殺の方法ばかりが、いくらマニュアルで分かっても、 「実際には、他人に全く迷惑をかけずに、自殺する場所が無いというのが、 自殺をしにくくしている原因だと思うのである。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 現役のお医者さん
    HPでの誠実な姿勢を見て、私(bv)がメールで医療現場からの意見を求めたのである。
Mailありがとう。小生の拙文を読んで下さった様子、さらに感謝いたします。 自殺を考える空間HPへの短信を謹んでお送りします。 各ページをざっと読ませていただきました。 『ざっと』というのは失礼かもしれませんが、 いま気持ち的に余裕がないものですから、それに小生にとって蘊蓄に欠けるテーマなも のですから、、、おおめに見て下さい。 さて、個人的に生死への考え方の一端をのべて、自殺考に代えたいと存じます。 生きる意味も死ぬ意味も、それは個人の問題であって、 社会にも親にも問うべき性質のものではない。 個人の哲学は、まさに個人的なものであり、それら生死の意味付け(動機と言ってもよ い)が他人に説明できない混沌『カオス』の中に埋没していたって構わない訳だし、そ れを他人に責められるいわれもない。 自殺に関して言うなら、死にたい人は死ねばいいんだし、それは善でも悪でもない。 個人的な感想を言わせていただければ、 純粋に不可知論を極めて死ぬのは、まさに意味が無くてさっぱりしているし、 社会規範の枠組みの中で(不可知論では無いという意味)、例えば恋愛や人生に絶望し て死ぬ人は哀れだし、 社会規範の枠組みの中で、たとえばイジメや人権問題に悲憤して死ぬ人(死を持って何 かをアピールする人)は愚かだし、 うつ状態から死ぬ人は、自殺プログラム(??)を発動したロボットのように、つける 薬がない。 これらは、あくまで私個人の感想であり、理論ではない、念のため。 私もカオスの中で思考しているので、生きる意味も死ぬ意味も明瞭に語ることは出来な いが、生死について未分化ながら個人の哲学として感じていることがいくつかある。 たとえば、宗教も哲学も道徳も、カオスの中でもがくのではなく、すっきりと生きよう と(又は死のうと)した先人の発明品なのではないか、、、すっきりと生き死ぬために は、規範というものの存在が重宝であり、それは例えば、姦淫せず、殺生せず、盗ま ず、、、といった規則の中に身をおけば、混沌を脱し、ある程度快適なわけだ。教義を 信じるだけで、悩まなくて済むのだ。快適な人生を約束してくれる。まさに『信じるも のは救われる』わけだ。 また、たとえば、死後の世界を肯定も否定もしない(普遍的な論拠がないから)が、医 師として臨終に関わって感じることは、 世の中には、輪廻など存在せず、死は単なる思考と存在の停止(活動中のコンピュータ ーの電源を切る状態を想像してくれればいい)で、死んでいく人にとっては、単に消滅 であり、それ以上でもそれ以下でもない。(あくまで個人的な『感じ』だ) 自殺したいのに輪廻を恐れている人は、一回だけ死んでみれば、確認できるかもね? ?。 また、不可知論は論じたければ論じればいいのだ。それを否定するものではないし肯定 もしない。ただ、人間は、無やカオスという虚空の一点に、『我思う故に我有り』とい った方法で、第一定理を定義することも出来る。それはもはや無意味ではなく、意味の 発生だ。なにか、太古の原始海のなかで生命が発生したとするオパーリンの学説に似て はいないか、、、。 また、一方では、人の生に高尚な意味づけなど、basicな部分では無意味なのかもしれ な い。人の基本的欲求は食べることだし、セックスすることだし、眠ることだ。それはど んなに社会や哲学が発達したって変わらないのだ。いつの時代でも、男はいい女をみれ ばセックスしたくなるのだし、女だってそうだ。子供ができれば、親はそれを無条件に 庇護するし、そのためわが子を他人の子より特別かわいいと思うし、、、本質としてそ れは犬やネコとどう違うのは?違いはしない。それは『人』や『犬』や『ネコ』と行っ た多種の『コンピューター』にROM(普通は遺伝子とよばれているROMです)とし て最初から備わっているのだ。本能って奴だ。種にそなわったさがといってもよい。 それから、あくまで自分の土俵で話させていただきますが、 真剣に不可知論を決め込むならそれも良い。しかし 達観していない人には死は恐怖だし、自殺に踏み切ったとしても、 その行為にいたるまでの逡巡は恐怖のはずだし、 (例えば、wrist cutの場合、たいていはためらい傷がある) その行為におよんで、死から引き返せない状態にいたってから実際に意識を失うまでの 間の感覚はどんなだろう(文字どおりの即死なんてそもそも存在するのか?)。恐怖 し、後悔し、怒り、あきらめ、受容(生物は死の間際にはendorphinという脳内麻薬が 作 用して安楽な状態になると言う説がある)と展開するのだろうか? 真相は自殺者以外に知りようもないが、 そういったどろどろとした死にざまってやつと切り放した状態で、 机上の空論として死や自殺を論じないでいただきたい。 あくまで個人的感想としてつけ加えさせていただく。 97/08/22 MD 匿名希望 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ Gabuさんより エスパセアさんのページ拝見させて貰いました。 自殺について最近思うことはどんなに説得力のある言葉で、 自殺を肯定しようとも否定しようとも、手首を切って放って おけば人間死ぬということですね。人間は自殺することが可 能であるように出来ているという事実はどんなことがあって も変わらない、と。 死後の世界とかはあまり肯定派ではないのですが、少し前の 匿名リサーチ200Xで臨死体験をやっていたのが面白かった ですね。どちらにしろ死後の世界が本当にあるかは死んでみない と分からないので、何とも言えませんが死後の世界を理由に自殺 を止める予定は今のところありません。 とりあえず死については考えることも多々あるので、今後のエス パセアさんのページに期待させて下さい。 それでは、今後ともヨロシク。 ========================= NAME GABU (林 誠一) E-mail gabu@fk.urban.or.jp URL   http://www.cse.ec.kyushu-u.ac.jp/~ag195196 ========================= (*注 bv:「えすぱせあ」は1997年まで使っていた 開設者のハンドルネームです。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ ある匿名希望の医療現場経験者の方より 自殺とは直接には関係ないことですが、自殺の原因となる「うつ病」についての 意見を少し述べさせていただきたいと思います。 私は以前に数年間精神科のクリニックで助手をしていました。その後、 カウンセリングの仕事なども経てきたのですが、いかなる形であれ他人の人生に 助言をすることそのものの責任や、そうした助力の限界に大きな疑問をもち、 カウンセラーをやめました。 さて、日本の製薬会社でも現在開発中で、厚生省の許可待ちになっている 「坑うつ剤」(プロザック系統)については、ご存知の方も多いと思います。 こうした薬の是非を論じるのが今回のメールの目的ではありませんが、 精神的悩みが持つ「効能や警告信号」というものを全く無視して、 対処療法的に脳内薬品を患者に使うことは、いずれ、時間とともに大きな混乱を 招くと考えられます。 しかしながら、長年の経験から見ての私見ですが、自閉状態というものは、 多くの場合には、一種の「正常な自己防衛反応」と見ることも出来ます。 実際に、幼児期に子供がある程度の精神の自閉をしたからこそ、 親や社会の仕打ちから子供が自分を守れたケースがあるのも事実でした。 むろんそれらは抑圧やトラウマとなって、成人後に問題を起こすこともありますが、 その子供の当時の環境では、自分の心を自閉する以外には守る方法などなかった訳です。 これと同じように、誰でも、人生のある時期に、社会の断絶して個として自閉する事で、 むしろ内的な混乱や対外的な混乱が最小限で食い止められるというケースも 多々あり得ます。 そして、人間というものは、いつも、ハッピーでいればいいというものではなく、 時には落ち込んで自閉したりしつつ、内省的になり、人間としての深みを 得ていくものだと思います。 また、実際に今の現代社会というものは、かつての経済成長期に必要とされたような、 明るいコミュニケーション能力ではなく、むしろもっと深い個人的な内省能力こそ 必要とされているように思われます。 現代という時代は、本当ならば、過去を振り返るために多くの人々が孤立して 静かに自閉し、物事をあらためて考えるべき時期であることを 「自然法則の意志のようなもの」が要求した結果として、自閉やうつ病が広がる傾向に あるかもしれないといういささか「とっぴな仮説」も私は考えてみました。 それに、誰もが感じることだと思いますが、明るくふるまうことや、 外向的で積極的であることが必ず来も楽しいことであるわけではありませんし、 常に有益であったり、正しいともいえません。 別に無理に接しなくてもよい社会や他人というものは明らかに存在するからです。 しかし社会(社会といっても、主に企業ですが)が要求するようなスピードの行動力や 快活さ、「企業的戦略に有利なコミュニケーション能力」を脳内薬品や 自己啓発セミナーなどであおるのは、単に今の「消費社会の企業が求める人材」 に応える機械人間を量産するだけのことになると思われます。 そのようなわけで、うつ状態というのは、その時期には他者や外界から閉じて 自分を考え直す大切な機会であることを示す信号であるとも見なせます。 また、そうした時期は、他者に余りかかわらないことの方がむしろ、 結果的には良いという場合も十分に考えられます。 すでの述べましたが、現代社会に、もしも自閉や、うつ状態が蔓延しているとしても、 それは経済発展のために爆走してきた人間たちが、無意識的に自然からの声に感応して、 自主的に自閉をし始めて、今まで活動をし過ぎたことのバランスを取ろうとしている のかもしれないとも考えられます。 ですから、うつ病であれ、自閉であれ、それらに対して、無理矢理に 平均的な社会人と称する状態へと社会復帰させる手段を講じることには 私は賛成できません。 多くの芸術家や科学者もまた、うつ状態の中から、何かを生み出す場合も多々あり、 うつ状態が「いけない」という単純な考え方には私は納得が行きません。 むろん、病的なうつ状態は、多くの場合に「自殺をしたい」という気持ちを 発生することがありますが、むしろ、そういう時にこそ、今回、このホームページで 扱っているような自殺、死や生の問題に、真剣に自分で取り組むべきだと思います。 非常に、わかりやすいたとえの一例ですが、仏教の開祖である釈尊は、 宮廷にいた時には、おそらく現代で言うならば、完全な「うつ状態」にあり、 独りでふさぎこんで、人生の意味や生命について悩んでいたことでしょう。 もしも、そんな時にプロザックなどを飲ませたら、その後の探求の旅も無く、 仏教というものがこの世に生まれなかったかもしれないとも言えるわけです。 うつ状態が在ればこそ、人間は外界から必要な時期に閉じて、 その思索の中から行動を起こし、何かへと到達する場合も多々あるのだと思われます。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ ある自動車部品メーカー社長さんより
    マスコミの問題
自殺に対するマスコミの態度について言いたい事がある。 統計では、日本で毎日1時間に2人以上の人間が自殺している事になる。 しかし、そのほとんどは、新聞の片隅にすら報じられる事はない。 自殺がマスコミの気を引くのは、それがいじめが関与していたりして 誰かの責任問題を問えるとか、役人が自殺したとか、芸能人が自殺したといった 話題性がある場合だけだ。 そうした話題性は視聴率や購読率に直結するからである。 しかし、話題にもならない、その外ほとんどの自殺に対しては、 マスコミや社会は、まるで外部に見せたくない「社会の汚点」 であるかのようにそれを扱ってきた。 「臭い物には蓋をしろ」の態度だ。 自殺は、いつだって、自殺した本人の意思の弱さや、弱肉強食の摂理という、 誰でもが簡単に納得しそうな理屈にすり替えられてしまい、 一部の学者や心理学者を除いては、社会そのものが自殺を見て見ぬふりをして来た。 いったん、何か大きな問題がからんでの自殺が起きるとテレビ局の取材が ハイエナやウジムシのように殺到するくせに、交通事故に匹敵するくらいに 毎日頻繁に起きている「普通人のありふれた自殺」には、一体どこの局が、 一度だって『まじめ』に取り上げた事があっただろうか? 本当に自殺を否定しているなら、「交通事故防止週間」みたいに「自殺防止週間」 くらいやったらどうなんだ? とはいえ、自殺の問題を話題に出すと、マスコミや社会が嫌がる理由はよく解る。 番組や出版社といったものは、多くの視聴者に良く思われようとして (少なくとも悪くは印象づけまいとして)、一般世論を外れようとはしないからだ。 結局、マスコミには、言論や思想の自由だの、彼らが言うところの報道の自由だのを 言う資格など、元から無いのだ。 だから、自殺問題を扱うときには、マスコミは、すでに社会的面目というハンデを 背負っている。もともと彼らはこの問題について自由に語れる立場にいないのだから。 だから、自殺はマスコミに敬遠されるのである。 ところが、いったん、完全自殺マニュアルのような「社会現象」としての出版物 が発売されると、ここぞとばかり、その著者や出版社のバッシングを始める。 『これなら、視聴率を購買率を稼ぐのにいけそうだ』というわけである。 しかし、もしも本腰を入れて自殺の問題を考えようとすると、厄介な事に 『自殺はなぜいけないのか』『自殺は人類史の観点で見るとどうだったか』 『自殺とはそもそも何なのだろう』といった、少々哲学的な問題に どうしても行き着かざるをえなくなる。 だから、その本質を考える面倒臭さをマスコミや社会は(親や教師や世間は) 避けるのだ。最近テレビでは、タモリの哲学番組みたいなものとかあるようだが、 哲学の基本中の基本は、「人は生きるに値するかいなか、なぜ生きるのか」 であるのだから、「ちゃんとテレビで自殺を哲学したらどうなんだ」と思う。 しかし、テレビというメディアは、視聴率が取れる話題性がない限りは、 決してこの問題を扱おうとはしない。 オウムの事件のときだって、あれほどニュースキャスターや取材陣の連中は、 「なぜこういう事件が起きたのか、今後も私たち自身も考えなくてはなりませんね」 などと口先で言っていた。しかし、えらそうなことを言っていたコメンテーター たちの一体誰が、今でもなおその問題を考え続けているのだろうか。 あの事件がきっかけで出た本といえば、マインドコントロールがどうのこうのと、 そんな事は言われなくても分かりきったようなものばかりだ。だいたい、我々の 教育や社会それ自体がマインドコントロール以外の何で成り立っているという つもりなのだろうか。特に常識というやつのすべては、かけるほうも、 かけられるほうも全く自覚のないマインドコントロールであるにもかかわらず。 そうして、結局、今行われているのは、裁判の行方とオウムの残党の動きを 取材しているだけで、「なぜ人間は宗教に依存するのか」といった、最も 基本的な「人間そのものの問題」については、決して考えようとはしない。 自殺と宗教、この二つには共通点がある。 それは、『人の生き死にの問題』に触れざるを得ないという事だ。 社会、特にテレビ局は、これを最も嫌がる。 なぜならば、実は、「そんな事はろくに考えても来なかった社会人たち」 によってこそ、日本の戦後社会は作られたからだ。それを問う事は、 社会そのものの根底や、自分たちが、いかに何も考えてこなかったかに 光を投げかけるからである。 だから、せめて、このページでは、自殺について、ありとあらゆる角度から 討論していただきたいと思います。 そして、最後に、やはりマスコミには言っておきたい事がある。 以下の文は、報道などで既にご存じの方も多いだろうが、 神戸の事件で被害者の両親がA少年の両親へあてた手紙の一部分である。 その中から特に「マスコミに関しての不満部分」のみを抜粋してみた。これがすべての マスコミの姿勢であると言い切れないまでも、これを読まれれば、多くのマスコミが、 本音では商業的目的だけを優先しているという醜さを感じ取れることだろう。 ■以下抜粋文■ アンダーラインは当方による。(注bv:下線を強調に変えました) 最後に、この事件を通して、 今までのマスコミに対する認識を改めざるを得ない出来事がありました。 霊安室を一歩出たとたん、まわりを囲まれあちこちから 「今のお気持ちは?」とマイクを向けられました。 最愛の娘を亡くしこれ以上の悲しみがない時に、「悲しい、つらい、苦しい」、 これ以外にどんな言葉があるでしょうか。 告別式を終え静かに冥福を祈る間もなく、 昼夜を問わずマスコミ関係者が押し寄せて来ました。 また、ある時は、登校する息子を待ち伏せて取材をしたり、 ご近所の方に私どもの勤務先や、その日の行動を聞いたり、深夜にインターホンを押し、 こちらが応対しないとドアをたたくという非常識な記者もいました。 息子は登校したくても、出来ない時がありました。本当に精神的苦痛を味わいました。 そして、私達だけでなくご近所の方にも迷惑をかけ、本当に申し訳ない思いでいたこと などをわかっていただけますでしょうか。私達は芸能人ではありません。 平凡な市民です。しかも被害者です。 静かで穏やかな生活を、だれにも侵す権利はないはずです。 「悲しみに追い打ちをかけるようなことはしないでほしい」。 ただ、それだけだったのです。 全てのマスコミが非常識だとはいいません。誠意のある人もいましたが、 ただ、やみくもに取材するのではなく、 もう少し常識ある大人として、節度を持って行動してほしいし、 これからも「読者や視聴者の心にひびくような心ある報道を!」と、願ってやみません。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 老荘列子さんより 〜生死の問題をテーマにすると、必ずといっていいほど頭の悪い哲学かぶれの 人間はこう言うものなのである。「生存至上主義を前提として語られる死は、 相対的であり、しょせんケンカ両成敗だ」。同じような論理は、禅仏教などで 絶対無か絶対有を問題とするときにも、いつでも汚らしいツバを飛ばしながら、 熱弁をふるって取り上げられる。 一見すると、「すべては相対的な思考の産物だ」というへ理屈は、まことに 論理的に見えるが、「実用性のなさ」という点では、これは最低の論理である。 たとえば、「お湯に手を入れて熱いと感じるのは、冷たいとか、普通の温度を 記憶している事を前提に言っているのだ。だから、熱いとか寒いはなく、どち らも同じ事だ」と、冷笑的に、勝ち誇ったように哲学者気取りのあなたが言っ たところで・・・ あなたは、お湯に手を突っ込めば、顔を歪ませて火傷するだけの事だ。 ロジックなど、実際の生の中では何の役にも立ちはしない。 〜死や自殺を語る場合にも、この事が問題になる。「生と死、どちらへの執着 にせよ、それは同じ思考の産物だ」と、いくらあなたが頭で分かって、口で言っ たところで、あなたは毎日の自分の肉体や感情を制御できるわけではない。 『完全自殺マニュアル』が出版された時の、読者の声の多くは「この本を読ん で、死ぬ選択肢がある事をしっかりと見定める事で、気が楽になった。」とい うものだ。 ところが、いくら気が楽になったところで、その中学生たちは今日もいじめに あい、明日もサラリーマンたちは倦怠の毎日を続け、主婦たちは、明後日も、 その次の日も、毎日の献立に追われる。つまり、どう言ったところで、苦は苦 のままである。痛いものは、痛い。 〜「生きるのも、死ぬのも、個人の自由だ」とか、「生死は同じ思考の次元の 産物だ」と言ったところで、あなたは実際に、自由な生や自由な死があるわけ ではない。 また、「生きる意味もないとするならば、死ぬ意味もないだろう」ともっとも らしく、観念の中和をしたところで、あなたは今日も相変わらず冴えない顔で、 生きている充実感もないままだ。万物、あるいは人間の思考が常に相対的であ る事を理由にして、「どっちも同じ穴のむじなだろう」と、冷笑的に『中道モ ドキ』に留まる者は、結局は自らの理性を放棄したようなものだ。 〜ところが、実際に、思考の限界と生死の問題点を超越した古人たちは、決し て、「生死のどちらも同じだ」などと言わず、生死のどちらも「自在に使いこ なして生きていた。」その場、その時代、その相手に応じてある時には全くの 生存至上主義にもなり、ある時には死の法を強調して説く。 ところが、無能な哲学者は、いつでも「中間」という『どっちからもつつかれ ない安全な逃げ場所』に逃避して、そこに安住しようとする。 〜ところが、真に二元性を超越したものは、たとえ二元論の両極まで自分が転 げても、自らの意識は完全に自由である事の「体得」をしている。 だから、彼らは生死にこだわらない故に、生死を使いこなす。 それが、「体得者」と、「単なる理屈屋」の次元の大差である。 〜A・ピアスの「悪魔の辞典」の中にこんなものがある。 『解放』とは、<自分以外のものによる暴虐から、自分自身による制圧へと、 奴隷がその身の上を変える事> これを、言い換えれば、『中立的な論理の姿勢とは、二元論の信仰によって首 を絞めている者が、自分の首を絞めているその縄を、不確定性(または相対性) という別の信仰へと、単に名前を変えるだけのささやかな自由』というところ である。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 『ベラドンナ:女優』さんから、
    自殺の是非にいれたリトルボーイさんのご意見や この上の老壮列子さんの意見に対する感想をまじえたご意見を頂きました。
リトルボーイさんの意見には、とても納得しました。 自殺をする人のマナーや、社会的な施設がきちんとしてれば、 社会とか誰かから、とやかく言われないというのは本当だと思います。 現に、今だって、誰も後始末をしたりする事も無かったような 発見されない遺体も沢山あるのでしょうし、世の中には行方不明者だって 沢山いるのですから、その人達のうちの何パーセントかは、きちんと マナーを守って自殺をしたのだと思う。 やっぱり自殺をするのなら、ショットガン自殺の男性みたいに 「誰かへの当て付け」や「復讐心」とかでなく、 人知れず、自殺をするのがいいなと思います。 ですから、富士山の樹海とかも、よけいな捜索や遺体探しなんか しないで欲しいと思う。 誰にも知られずに死のうとして、みんなわざわざあそこへ 行くんですから。 遺骨にもし魂があったら、きっと「そっとしておいて欲しい」って 言っていると思うの。 それに、もともと他人の自殺なんかには誰も関心などはないのです。 関心があるのは自分の自殺の事だけですから。 自殺者に対する本当の本音は、 「誰も頼まないのに自分の意志で死んでくれるんだよね。 人口が減っていいんじゃない。資源不足とか環境問題から言っても いいかもね・・・」というのが、 口に出さなくても、多くの人の声だと思います。 ******** あっ、それと「献体」って、以前わたしも手続きしようと思って 「白菊会」というところから資料を送ってもらったんですけど、 けっこう面倒なんですよ。 わたしなんか、家出同然で両親の元を離れたんです。 でも、献体するには、同意書に親族たちが記入しなければ ならないんですよ。 だから、わたしの場合は、献体とかは出来ません。 溶鉱炉なんかに飛び込むのは実際には出来そうもないので、 やっぱり自殺マニュアルかなんかに書いてあったように、 わたしがもし自殺する時には、四国かどこかの、死体があがらない 事で有名な岩場に飛び込むしかないのだと思います。 ******** えっと、それから・・・老荘列子さんのメールは、わたしは頭が 悪いんで、あーいうのは、よくわかりませんが、 わたしも哲学みたいな言葉の上の理屈は嫌いです。 だから、「痛いものは、痛い」という老荘列子さんの言葉には 同感です。 それと、自殺マニュアルの著者の鶴見氏って言う人も、マスコミには あれこれ反論しているけど、結局は「自殺をしてはいけないなんて ナンセンスだ」っていう、もともと当たり前の事しか言っていないのよね。 (彼の本は全部読みました) それで、彼は「どうでもいい事ばかりの、くだらない世の中で、 どうでもよくない事は、どうやって生きるかだ」なんて言っているんだけど、 わたしは全然そうは思いません。 「どうやって生きるのか」じゃなくて「なんで生きるのか」の方が わたしには興味があります。 なぜ生きるのかが分かれば、どうやって生きるのかも、 自然に浮かび上がって来ると思うからです。 「生きることなんて最初からどうせ無意味なんだから、 生きてる意味の事じゃなくて、どうやった、気楽な生き方が 出来るかが問題だ」というような意見には、わたしはあまり共感できません。 もちろん何を考えてもそれは個人の自由ですけど。 だから、「なぜ生きているんだろうか。理想論じゃなくて 実際には人間は今まで何をしてきたんだろうか」とあれこれと 考えて、生に意味を見いだせなくて自殺を決意した、 あの「青年の遺書」の方が、わたしにとっては響くものがありました。 「人生なんて無意味だよね」って言葉で言うのは簡単ですし、 他人も「そうだよね」って言うかもしれませんが、 そうやって「本当の無意味さの苦しみに直面すること」を 避けているんだと思います。 また逆に、「人生には意味があるんだ」と言ったりする 宗教家とかの人たちも、やっぱり「意味ばっかり口にして、 現実の痛みから目をそむけてる」って思います。 ******** 頭の悪いアホな子なのに、変なことばかり書いてしまいましたが、 結局、みんな「言葉」を使って正直な疑問や苦しみから 逃げているんだと思います。 だから、自殺をしちゃった人の方が、現実から逃げなかったんだと 思うのです。 世間で言うように「現実から逃げようとして自殺をする」のではなくて、 逆に、現実から言葉で逃げなかったからこそ 自殺に追いつめられていくんだと思うんだよね。 よくわからないけど、何かを言葉で言ってしまうのは、 一番簡単な逃げ道なのだと思います。 だから、よく仕事がらいろんな男の人と接していても、 気が小さい臆病な人って、言葉とか言い訳が すごく多いんですよね。 でも、感じるものを言葉にしないでダイレクトに受け止めるような タイプの人が、自殺をするように思う。 そういう正直な人の方がわたしは好き。 Love、End 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 海垂 周地さん より 以下の文章は、自分のHPにも公開してありますが、投稿いたします。  人間は、なんらかの理由の為に、人を殺したり、自ら破滅する以上、 自分の死より恐ろしいモノが世の中にあってもおかしくはない。 社会とて、犯罪者を復讐のためもしくは社会の安全の為と称して殺している。 戦争では国家の為に人を殺している。 これらの行為が黙認され、続けられている以上、 何らかの理由をつけて自分を抹殺する人間を非難できるのであろうか。  個人の命や行為など、ものともしないものが今の世の中であるのかもしれない。 果たして普通の健康な人間の認識した常識的な世界は、この世の実体なのであろうか。 むしろ、世の中とは、底知れぬ程、不快で救いようのないものであるのかも知れない。 自殺した人間は、あらゆることに絶望したのだろう。 この世に希望があるのなら、まだ生きているはずである。 彼らはもはや自分の希望は、この世では打ち砕かれる運命にあることを知っている。 もしくは、そう信じている。彼らの希望が、非現実的なのか、 それとも彼らが未熟で達成する手段を習得できなかったのか、 どちらにしても彼らは、この世では満たされず絶望し自殺した。  主体を失った、彼れらの希望は、自殺者の死によっても消滅せず、 また似たような人間にとり憑き、誰かをまた破滅させる。 多くの人間が自殺していく。 彼らの希望が満たされるまでこの世から自殺をする者はなくならない。  現代の教育は、人間は社会という効率のよいシステムの部品であると言い聞かせ、 人間の希望を通俗的なものにするように努力している。 たとえば、よい会社に入ること、よい大学に入るこ、出世すること、 もしくは社会を乱さない平均的な人間になることを、希望に持つように刷り込み、 そして、その為の能力を養成している。 そうすれば社会は、一つの方向を向いて みんなで競争しながら前進するというわけである。 また、劣等生にはよい大学に入れなくても、 彼に適した社会のシステムに組み込まれればよい教え、 希望がくじけなくて済むように配慮もしてある。 もし希望がくじけてもテレビ見たり、愚痴をこぼしたり、嫌がらせでもして、 適当な気晴らしをとるすべを親を見て家庭で学んでいる。 このようにすれば、絶望することもなく 自殺もする人間もいないと教育者は考えている。 現代の教育とは、個人の希望を実現する能力を養成するのではなく、 希望を通俗化させ皆で社会の効率を上げる為にある。  しばしば、平均的な生活をしている人が口にする、 漠然とした不安とは、希望を平均化され、 通俗化された現代人の不能になった 精神のうめきではないのか。 「理念とは不可能を可能であるかのごとく扱うことである。」    希望を通俗化された人間は、 もはや理念を持つことのない精神の不能者である。 自殺した人間は、 まだ、平均化されていない希望を絶望するまで持っていた精神の 殉教者なのだろうか。   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆ 『音楽家 28歳』さん より そちらの「自殺を考える空間」のページをすべて3度読みましたが、 結局のところ自殺については、ほとんどの場合は、 反対する理由がないという事だと思いました。 人間は自分の意志で自由に生きて、自分の意志で死ねばよいと思います。 自分で死を選択する場合に「周辺に発生する問題」も、 その多くはきちんと心遣いをすれば最小限のものとなります。 例えば計画的かつ段階的にあらゆる他人から少しずつ離れて疎遠になれば、 誰にも迷惑も悲しみも生み出さないからです。 さて、本題に入りますが、自殺の是非を論じる場合というのは、 実は他殺を論じる場合とも似たところがあると思います。 つまり、これらの根本の問題は、自殺の是非ではなく、 『死そのものの是非』にまつわって発生していると思われるからです。 極端なことを言いますと、もともとの「死それ自体の善悪」(仮にですが) 善と定義されてしまったら、自殺も他殺もその日から善になるからです。 いまのところ、たまたま人間の価値観が生死のうちの生に95パーセント以上 があるので、その周辺にある自殺や他殺が悪のように語られているに 過ぎないと思いました。 そうなりますと、そのホームページでは自殺をテーマにしているようですが、 そもそも、その前提となる「死」を論じるスペースを作のが前段階の作業として 必要不可欠だというのが私の見解です。(自殺とは死の周辺問題にすぎない) 以下の文は私が個人的に考えていたことですので、削除してもかまいません。 ここでは、自殺ではなく『死』についてあれこれと考えました。 しかし、私自身、その結論はまだ出ていません。 死についての個人的メモ 死という対象はそもそも存在しない。 したがって死への恐怖とは妄想にすぎない。 原則: 自分の死は経験の対象とはなり得ない。なぜならば、 そこでは、死を経験する「経験の主体」それ自体が消失するからである。 死人は死を問題にはしない。 それを問題にするのは常に生の世界の住人である。 あらゆる「問題」が存在するのは生の中であり、 死の中には問題は存在しない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 死の恐怖とは存在しない。 正確に言うと「死の中」では恐怖は存在しないのである。 一般に言われる死: しかし、一般に言われている死の恐怖とは、 実際には動物をも含めた「他者の死」を見る事の嫌悪感をさしている。 また、死の恐怖が自分自身におきる場合にも、その恐怖とは、死そのものへ のものではなく、死に際しての「各種の痛み」に対する嫌悪感をさしている。 苦しむのは死ぬまでのプロセスである。 生き物は、「死そのもの」を苦しむ事は決して出来ない。 また世の中には「自分自身の死」を悲しんだ者などはただの一人もいない。 我々が悲しむのは、いつでも他人の死である。 また病気で苦しみつつ死ぬ場合にも、 死を苦しんでいる者はただの一人もいない。 そこでは「病という生の現象」を苦しんでいるのであるからだ。 仮にもし死後も魂というものがあり、死後に自分の肉体の残骸を見て寂しさを 感じたとしても、それは主体といての自分の死への悲しみではなく、 「もはや他者になってしまった自分の肉体の死」への悲しみである。 あたかも長年着ていた衣服に対する愛着のようなものから、 悲しみを感じたとしても、それはただそれだけの事である。 死には値段と是非がある: また、他者の死を見て人が感じるところのもの、あるいは思うことは、 常に「自分とどういう関係にあったか」、 あるいは「自分がその者をどう思っていたか」によって変化する。 つまり他者の死が、「いちおうに悲しい」というわけではない。 たとえば社会や個人が憎悪の対象とする「犯罪者や敵国の兵士」が死ねば、 当事者は安堵と喜びに満たされるのである。 逆に、社会や個人が「愛着の対象」とした者、あるいは「利益関係の対象」 とした者が死ねば、悲しむというだけの話である。 しかし「死人本人自体」は何も悲しみも喜びもしない。 それらは「生きてる側のもの」が勝手に行なう事なのである。 主体の死: 人にはいろいろな恐怖や苦があるが、実際には「死そのものの中での恐怖」 と「死の中での苦」だけは存在できないのだ。 恐怖や苦しむ事が出来るのは、常に「プロセス」の中においてのみである。 例えば、空腹の苦はある。痛みの苦はある。冷熱から来る刺激の苦はある。 内臓疾患から来る苦はある。性欲から来る苦はある。 過剰運動から来る苦はある。退屈から来る苦はある。・・・しかし・・・ 「死の苦」だけはどこにも存在しない。 それらの全てを感じ取る中心である「主体」が、 「厳密な意味での死」の中では存在しないからである。 仮に、肉体が死んでも主体としての何かが継続して存在していると仮定した 場合には、それは「そもそも最初から死とは呼べないもの」となるからである。 それ故に、天国や転生や多次元宇宙を信じる者の場合は、 そもそも「死」を論じているのではなく、魂の「引っ越し」について論じて いるのであるから、彼らには「死」というものを論じる資格がない。 ここでの死の定義とは「知覚の無化」であるからだ。 生死の線引き: では我々はどこで物事の「生死の境界線」を引いているのだろうか? 物理的次元で見る限り、動植物には明らかにその標しとなる境界線がある。 動物は、死後急速に身体の熱を失い、腐敗が始まる。 植物においても、分解と腐敗というものが死のひとつの証である。 つまり生とは「有機的は結合状態」とも定義できる。 厳密に言うならば、有機体の分解後も元素は生き続けるのであるから、 そこには元素の次元では死などはないのである。 従って、普通に言われる死とは、 あくまでも「ある範囲の」有機性の死のことを言っているようだ。 では、死とは「修復不可能なまでに壊れる事」なのだろうか? しかしこの場合は「どこまでを修復されたとか修復されない」と 言っているのだろうか? また生とは「熱を発生している」という事なのだろうか? これはありそうな話である。 なぜならば、あらゆる分子レベルの生物は絶対零度で、生命活動を失うので あるから。ただし失われるのは活動であって、構造そのものではない。 (細菌や生体の『冷凍保存』の例が参考となる) では死とは「停止」なのだろうか? しかしそれは「何の」停止だろうか? 生の自覚の停止だとしたら、我々は寝ている間は死んでいる事になる。 意識不明の病人も死んでいる事になってしまう。 (といっても、他人が見ていて意識が無いように見えているだけなのだが) また生とは「動き」なのだろうか? もしも、そうだとしたら、 「何か」が停止した場合や、何かが分解した場合には、 その「何かにとってだけ」は死が訪れたと言えるのかもしれない。 ただし、動きの停止の場合には次のパターンがある。 (1)環境の凍結・全体または一部を活動できない環境に置く(冷凍など)。 (2)動力源の一時停止(回路を一時的に切った場合など)。 ただし、この場合には、再起動する可能性がある。 (3)全体構造の分解の場合はそもそも形態そのものが存在しなくなるので、 再起動する事はない。 自分の死だけは論議の対象にならない: 諸問題は死の中にあるのではなく、生における苦の中にある。 そして苦は死の中ではなく、誰かの死や何かの死がもたらした残留物として の記憶や状況が、まさに今なお生きている「この生の中」にしか存在しない。 故に、すべての問題は生の中にある。 厳密な意味での自分の死、すなわち魂の移動や衣更えではない 「本当の主体の死」があるとしたら、 それはそもそも自分にとっては哲学の対象にはなり得ない。 それは、そもそも自分の意識の観察対象として存在できないからである。 我々の社会で死が生を動かす「脅迫」として成立しているのは、 死それ自体への恐怖ではなく、死のつながるほどの「苦痛」を自分がこうむる かもしれないという脅迫によるところが大きい。 また、誰かの死が別の誰かに心理的苦痛あるいは 物質的な利害関係をもたらすからである。 それ故に、誰とも利害関係を持たない者の死は、 誰の脅迫にもならない事が良くある事だ。 死の一体何が嫌悪の対象となるのか: 死は実質的に人間に対して脅迫の効力を持つのだろうか? たとえば死を脅迫として使用するパターンは次の通りである。 ・・・・・・・・・ (1)もしも、突然に誰かに「今、ここであなたを殺しますよ」と言われたら、 我々はどういう反応をするだろうか? (2)また、明らかに死が予測される災害に巻き込まれたら、 我々はどうするだそうか? 同じ事は、「もうすぐ死にます」と医者に言われてもおきるだろう。 こうした「突然にやってくる死への兆候」に対して、楽観主義や理想論では なく、あるがままに見ると、我々はどういう反応をするのだろうか? 一体、死というものの「何が」人間には嫌悪されるのか? それは、 (1)自分の「意志に反した」突然の、あるいは段階的な生の中段という現象が 嫌悪されるのだろうか? つまり、「意志に反している事」が苦なのか? (2)もしもそうならば「自分の意志の即してやってきた死」は、はたして 歓迎されるものとなるのだろうか? この結論はまだ出ない。 仮の結論と疑問符: いろいろ考えると、どうやら、生や社会というものが物質や知識や経験の 「蓄積料やその質」によって評価されてきた「習慣」と誤解から(ゴミ以外 に関しては)、「存在している何かが減ることや無くなることは悪いことだ」 という思い込みが人間にある。これが本当の問題の根本のような気がするの である。つまり、我々が日ごろ全く疑う事もしない盲目的な、 「存在は善だ」というものこそが一度は完全に解体されて、解析されてみる べきだとも私には思えるのである。そういう点ではそちらのホームページの 開設のきっかけになった文章には、今もなお大変に考えさせられております。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ☆ ☆ ☆
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この空間は 1997/08/15 に生まれました。