自殺の自由化
(サンプルテキスト)




監修・執筆:鈴木方斬(すずきほうざん)

空間開設者:黒間玄元(くろまのりゆき)
ハンドルネーム:bv


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* * * * * * * * * 第四章『特別資料編』 ある青年が自殺を決意した理由 『命の尊厳』ではなく、『死の尊厳』についての哲学 本論の総論 「人間性」とは 『人間という動物における、生物としての知的障害と身体障害のこと、 すなわち『病気』の総称のこと』である。 「文明」とは 『本来は自分でやるべき事を代行させるもの』そして 『自分に出来ない事を代行させるもの』この2つをゴミのように作り出す、 人間の奇形的な脳の産物である。 あなたは「自殺」をしても、誰からも責められる理由はない。 もしも、あなたが何かの為になりたいのならば、自殺は全く正しい行為である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ***プロローグ*** 社会や親は子供、あるいは他人にこう言う。 「頑張りなさい。みんなも一生懸命生きているんだから。 元気を出しなさい。前向きになりなさい。」 しかし、まともな頭を持った子供たちはこう言うだろう。 『そうやって、気力を出して、結局は何のために生きるの?』 この「当然の疑問」に対して、社会や親は言う。 1/そんな事を考えていないで、楽しみなさい。 2/それを見つけるために生きなさい。 3/そんな事は、自分で勝手に考えなさい。 いずれも親や社会は「そんな事も知らないで、私は生きているのだ(そして他人に生き ることを要求しているのだ)」と公言しているわけである。 社会や親が言う、人生とやら、そして生きるという意味は、かいつまんで言えば、 「どうして生きているのか、などと考える暇を自分に与えないように、熱中できるもの を見つけて、楽しみなさい」という程度のことである。 これはさらに、はっきりと言えば、「どうして、生きているのか、などという社会や親 を困らせるような質問をしないでくれ」と言っていることだ。 そして熱中できる趣味を探せというのは、心身ともに「中毒」できるものを早く見つけ て、もう2度と「生きている意味など問わないでくれ」と言っているわけである。 また、大人や社会の口癖のひとつは「そんな事を言っていないで、現実を見ろ」だ。 しかし、こういう『現実』が存在する事を思い出すがいい。 たとえば、あなたが死んだところで、よほど派手で奇妙な死に方でもしないかぎりは、 新聞の片隅にすら乗らない。せいぜい近所の噂話のネタにされる程度だ。 つまりあなたは、あなたの生どころか、死にすら、なんの価値もない。 またあなたに小言を言う親や、知人やあなたの敬愛する人間が死んだところで、同じく 社会全体からすれば全く問題外の出来事である。 さらに地球から人間がすべて死んだとしても、他の生物や自然にはなんらの支障もない。 むしろ喜ばれるだろう。 さらには、地球上の全生物が死滅したところで、地球という惑星の「天体運行そのもの 」には何の支障もない。惑星に生物がいようがいまいが地球は回り宇宙は存在するから だ。(別に人類や生物が汗水たらして地球を毎日回しているわけではないのだから)。 このように天体が運行する上は、生物などいてもいなくても関係はない。現に月は立派 にずーっと存在している。生物が生息する惑星のほうが生物がいない惑星よりも、星を 売り飛ばすときの商品価格が高いという話も聞いたことはない。 また、太陽系そのものが崩壊したとしても、銀河系からすれば、何も問題はない。 この銀河系が滅びたとしても、宇宙は銀河系の数には全く困らないのは明白だ。 したがって、あなたも人類も、生物も、天体としての宇宙そのものにとっては、 いてもいなくても、まったく論外であり、宇宙の存続には関係ない。 そして、これこそが、本当の「現実」というものであろう。 つまり、あなたは無価値だという価値もないほど無価値だと言う事だ。 全体の大きさの中での地球の小ささという「まぎれもない現実」と比較すれば、 全く人間もあなたも無価値であるのに、価値をそこへ付加しようとするのは、 常に、生きている当事者たちなのである。 すなわち、これこそが非現実的妄想の狂気である。 人類や人間が全く無価値であるというこの「全く自明な現実」に対して必死に反論し、 人類の知性は発展し、魂は進化するものだなどと言っては、 なんとかかんとか、自分の存在は無価値ではないという言い分や言い訳を言う。 それが社会や親や思想や宗教のやっていることだ。 しかし、社会や大人、あるいは宗教が、何をどう言ったところで、 人間の人生とは、 1/『死ぬまでの暇つぶしを、なんとかやりくりする事』。 2/『死ねなくて、しかたなく生きている(「そのうち」何かあるさ、と言いながら) 3/『生存の根本疑問から逃げるための行動 (あらゆる精神的修行もここに含まれる)』 4/『自殺することが、恥じ、敗北、また罪悪と勝手に思う強迫観念』によって生きて いるわけである。 5/『せっかくもらった命を途中で死ぬのは、この先まだ何かおもしろい事があるかも しれないし、なんとなくもったいない感じがする』とか言って生きるのだが、そうやっ て期待して生きた場合に、目立った何かが人生に起きたためしはほとんどない。 (強いて言うならば、この本論に出会った事は、あなたにとって生きていてこそ出会え た面白い事件のひとつかもしれない。) 6/『自然からもらった命であり、自分の意志で生まれたのではないから自殺は罪だ』 などと思う者もいるようだが、ならば、なぜ自然の意志で死ぬ時期がきている病人を無 理に長生きさせようとするのか。人間は、生をもらうときばかりに自然や神に恩義を感 じるくせに「同じ自然の摂理である死」や災難をもらうときには文句を言うのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、人間たちが、自負するもののひとつに、『知性とか理性とか良心』などと呼ばれ る奇妙なものが存在する。それをもってして他の生物と自分たちを差別し、自分たちの 作り出した道具や科学技術や知識、すなわち文明と呼ばれるものをもってして、人間は 「すごい生き物だ」という倒錯した考えを持つのである。 しかし現在人間の社会に存在するあらゆる技術とシステムは、本来の動物が持つ「正常 な進化」から落ちこぼれた結果としての「欲求不満の産物」である事は明白である。 人間がここ数万年で作り出した主なものを以下に羅列するので、それがなぜ作られたか を考えてみるとよい。 **道具** 本来動物は、長い時間をかけて、自分の身体そのものを変化させることで環境に適応す るものだ。ところが、人間は自分の爪を鋭利に進化させる代わりに刃物を作り出してし まった。何万年もかけて自分の腕力やこぶしを強くすればいいものを、棒切れを持つこ とで、自分の弱さを補った。 **火** 寒さに耐えるためには、何万年もかけて自分の体毛や体温調整機能を進化させればよい ものであるのに、これまた火を使うことで、本来の生息領域ではない寒い土地にも生存 圏を拡大してしまった。また火は道具と同じように他の生物への武器としても使用した。 **畑** 本来ならば、食物を探して移動すればよいものを、安定した食を得たいという勝手な欲 望(楽をしたいという欲望)から人間は食物の栽培を始めた。 畑とは「人間にとって勝手に都合よく作られた、人工の自然」である。 こうして、移動しなくなったために足の運動能力が衰えたのである。 また、家畜を飼うという手段も基本的には畑と同じものである。 その後も、これらの基本的な「楽をしようとする」欲求が、身体機能を変化させること で満たそうとするというのではなく、「道具を作ること」で満たそうとしたために、そ れ以後の数万年に人類がやってきたことは、とどのまつりは、生体としての進化に役立 つ事ではなく『本来は自分でやるべき事を代行させるもの』そして『自分に出来ない事 を代行させるもの』、この2つをゴミのように作り出したのみである。 科学も、労働や教育の社会システムも、すべては、 『本来自分がやるべきことを他人や道具に代行させたり、 自分にできないことを他人や道具に代行させる』という事で成立している。 というのも、人間が自分たちが知的生物であると自負している根拠たる次の生産物をよ く見てみるとよい。 1/火の利用、各種の燃料、電気の利用、核の利用といったものは、 本来は自分の身体でやるべき「発熱や冷却を代行させるもの」である。 2/衣服、建築物といったものは、本来は自分の身体でやるべき「身体の保護能力、耐 久性能」を代行させるものだ。 3/馬車、自動車、飛行機、船といったものは本来は自分の身体でやるべき「移動能力 」を代行させるものだ。 4/農業、漁業、畜産業、そしてクローン技術といったものは、本来は自分の身体でや るべき「食物獲得能力」を代行させるものだ。 5/文字、絵、カメラ、ビデオ、そしてデジタルデータといった記録媒体は、本来は自 分の身体の脳でやるべき「記憶能力」を代行させるものである。 6/メガネ、レーダー、レントゲン、赤外線カメラ、高感度カメラ、サーモグラフィー、 顕微鏡、望遠鏡といったものは、本来は自分の身体でやるべき「知覚機能」を代行させ るものだ。 7/医薬品と医術といったものは、本来は自分の身体でやるべき「免疫機能」を代行し、 加えてさらに自然の摂理である「自然死」を全く無意味に延期させようとするものだ。 8/さらに、精神安定剤や、脳内薬品、あるいはカウンセリングやセラピーといったも のは、本来は自分でやるべき「感情管理」を代行させるものだ。 9/そして、最後に人工頭脳(早い話が電化製品から軍事用までのすべてのコンピュー ター)といったものは、本来は自分で考えるべき「思考機能」までをも代行させようと するものへと至った。 10/おまけとしては、宗教(禅や仏教の思想も含むあらゆる宗教のこと)は、 本来、そうしたものなしに純粋に生きるべき「あるがまま」を「思想や技法」に代行さ せようとするものである。 11/また、あらゆる芸術は、本来は自分で自然界に対して感じるべき美の(粗悪な、 あるいはデフォルメされた)代用品を作ることである。 さて、こうなると、文明だの科学だの、そこにおける法律やモラルなどは、こうした、 無数の代行業務によって、経済(つまり物資の消費)を円滑に「悪循環させる」ために 機能するのみである。 人間が何万年もかけて作り出したものは、ひとつの「個としての生命力」をますます、 ひたすら『無能』にしてゆく結果となるものである。 前記して羅列したように結局は、本来は自分が自分の心身でやるべきことを道具や他人 (社会システム)に依存したために、その結果は、 社会システムが奇形的に発展してゆくだけで、個としては無能になってゆく。 また、道具には自分ではできないことを代行させるために、ますます道具への依存が深 まった。依存とは、「いざそれがなくなったら困るもの」という事である。 畑などがなければ、食を求めて移動する能力も、遠方の餌を感知する能力も、長い時間 をかけてだが、それなりに進化したであろうし、場合によっては何億年もの時をかけて、 人間は鳥や魚にもなれたかもしれない。しかし、それを身体の機能変化で実現する事を せずに、思考を使って道具に代行させてしまったのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

したがって、たとえば、こういう「現実」にも我々は目を向けるべきだろう。 我々は、文明人とか未開人といった奇妙な差別を持っている。だが、 「文明人」などという種は人間には存在しない。 存在するのは、「文明化社会に育った未開人」であるにすぎない。 つまり、人間の中から、個人をひとつ取り出したらその中にはいかなる生物的な「遺伝 的進化」も全く起きてはいないということである。むしろ、文明化社会で育った者は、 心身の機能は遺伝的には退化しているだろう。その原因は言うまでもなく、心身の機能 を発達させずに、『その代行手段を発達させた』からである。文明人などというものは 存在しないという点を、わかりやすく言えば、こうである。 要点 人間は「個」としては、全く進化していない。 ただ社会システムが変化してきたのみである。 未開人、文明人などという「人種の差」は存在しない。 あるのは、文明《社会》人か、それとも未開{社会}人かである。 というのも、人間の個人それ自体の脳は、進化した事は全くないからである。一例とし て、未開社会の両親から生まれた新生児を出産直後から文明社会で育てた場合は、その 人間は、文明社会人となる。 逆に、文明社会の両親から生まれた新生児を出産直後から未開社会で育てた場合には、 その人間は、未開社会人となる。 すなわち、未開人、文明人などという種は存在せず、どのような環境を経験したかによ ってその人間の性質は決定されるのである。 つまり、人間が進化したという場合、変化したのは社会環境のシステムであって「個人 の脳それ自体」ではない。 もしも、縄文時代の新生児を、出産直後に現代の先進国社会で育てたら、 その学習能力には全く問題はないことだろう。親が摂取した各種の医薬品や食品添加物 に脳細胞が影響されていないために、むしろ、学習機能は現代人よりも高いことさえあ り得る。逆に、もしも現代社会の両親から生まれた新生児を、原始的社会環境に送り込 んだら、その人間は縄文社会人として育つだろう。 また、実際問題として、現代社会のひとつの国を見ても、個は進化していないと判断で きる。例えば、我々は相互依存したために、個としての生存能力はほとんどない。 もしも無人島に一人でほうり出されたら、衣食住の自活さえも個では困難である。 最低限、動物として生きるサバイバル能力さえも失われている。 こうしたことは、「個の進化」と言えるだろうか?。  否である。「個」としては、ますます思考力や生命力は弱くなっているのである。思考 は唯一人間が人間たる根拠として自負してきたが、実際には人間は、考えさせる道具( 人工頭脳)を作ろうとしている。これが生み出す結果は、考える能力までも道具に頼る ことになるのである。 極端な話であるが、もしも新生児を100人無人島に放置したらば、当然彼らは死ぬだ ろう。いかなる文明社会で生まれた脳を持っていたとしてもだ。 同じく猿や鳥類の新生児を100体、無人島に放置しても、その大半が死ぬ。 ところが、生まれたばかりの昆虫を100匹離したら、彼らはほぼ全員生き延びる。 これが意味するものは、生まれた直後から、自立するまでに、生存手段を親や群れから の教育に依存するような生物は、本来は生き延びるには極めて不利であるという事だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて話を人間に戻すと、我々個人は、なんとか社会生活、それも文明社会生活なるもの の中で生まれて生きているが、我々は身の回りに散乱するそのほとんどすべてのものの 創作者ではない。電気製品が壊れれば、専門家に依頼しなければならない。食物の生産 やその運搬すらも、生産者に依存している。 我々の文明社会は一部の学者や発明家によって偶発的に発見、あるいは意図的に無理や り発明されたものの「一般化」の産物によって成立している。 つまり、個人の脳それ自体、あるいは個人の進化と言う点で見れば、人類の大半は、単 なる『無能な消費者』であり、生存という本来の目的から見たらどうでもいいような専 門職に従事し、社会システムに依存して一生を終える。その彼らが従事している労働と は、そのほとんどは、本当に必要でもないものを作ることによって循環する経済システ ムによって生きているのである。 分業が士農工商の時代ならば、(ちなみに芸人など身分は最も低かったのである)まだ しも少しは健全であったのが、現代においては、生存には全く無関係なもの、あるいは むしろ人間の今後の生存には結果として不利になるものを、資源や労力をつぎ込んで作 り出し続けている。 さて、もう一度論点に戻すと、「人間は進化した」というのは全くの誤りであり、 (進化と呼ばず変化でよいが)変化して発展したのは、相互依存性の強い社会システム (つまり極めて弱い個)のみである。 何度も言うように「個人の脳それ自体」や人間の身体機能には進化の形跡は全く見られ ない。むしろ、遺伝的な次元での身体機能、たとえば筋力や免疫力は文明社会人におい ては、あきらかに退化してきた。 我々先進国の人間は、自分があたかも「文明人」という種族であるかのように思い込ん でいる。しかしこれまでに説明したように、地球上には文明人、あるいは未開人などと いう「種」は存在しない。 どちらで生存したとしても、我々の個人としての身体や脳は、何万年も経過しても依然 として発達していないのが事実なのである。 ただ、それぞれの環境で経験される教育や習慣や情報を詰め込む事で、それぞれの社会 で、「それらしく振る舞うようになってしまった」というだけの事である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ もしも本当の意味での新人類と言うものが生まれるとしたら、それは原則として、次の 世代に身体的に「遺伝」しなければ意味がない。教育によって刷り込まれる情報によっ て保たれているような人間性や知識や習慣は無教育の環境、あるいは習慣が変われば通 用しないのである。 結論 もしもまともな神経の持ち主であれば、 人間に関する洞察は次のようになる。 1/人間は、そもそも、その生存それ自体からして地球には迷惑な種である。 しかも60億という繁殖の量はすでに、生態系としては異常事態であり、 ここにはいかなる自然との共存も成立し得ない。 2/人間は、生き物の固体としてはほとんど無能である。 3/人間は、その精神と身体に常に「新しい病気」を作り出してきただけである。 4/人間は、心理的欲求不満の原種を植え込まれた珍種の奇形である。 A/つまり、人間は、単に毎日、食って寝て生きているだけでも、それだけでも十分に 罪悪感を持ってしかるべきであり、早々に集団自殺をするというのが、自然に対しての 最大の貢献である。 B/(仮にだが、もしも価値基準を)自然の側に立てれば、Aこそが人間がとるべき正 しい態度であるが、 もしも人間を家畜として「製造管理する側(高次元知性集団)」からすれば、地球とい う牧場が、人間によって多少汚染されたとしても、人間から摂取できるさまざまな感情 は、彼らの食品、燃料、香辛料、医薬品、建築素材として活用できるため、 3の「新しい病気の生産」を促進することが今後も優先されるだろうから、単に人類は、 自ら進んで環境を破壊し、社会システムを複雑にして病気を増やせばよい。 このAとBが、唯一、あなたが人生を生きる指針となるものである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そして、もしも(仮にだが)Aの立場に、物事の正しさの基準を置いた場合は、 とうぜん次のような疑問や結論が浮かんでくるはずだ。 既に述べたこともいくつか重複するが、ここでまとめてみる。 1/人類とその社会や文化に貢献する事自体に疑問や嫌悪を持ち、 「人間として生きていたくない」と思うことから始まる正当な疑問がある。 それはすなわち、『そもそも人類は生存に値するか否か?』である。 2/もしも存在に値するというならばその根拠は何なのか?。 その生存に値する行為とは具体的にどういうものか? その価値は他の生物や資源を犠牲にしてまで、促進するに値するものなのか否か? 人間が他の動物よりも優れていると、勝手に自負する根拠があるようだが、 他の生物にとっては迷惑存在でしかないという根拠も無数にある。 たとえばこうである。 *動物と人間の違い* 1/動物は一生、身体ひとつで生きて行く。 ところが人間は、無理に環境に適合しようとしたために、一生の間に無数の衣服を必要 とし、そのために資源を消費する。それも必要性からではなく。 2/動物は、限られた食物しか取らない。 ところが、人間はただ自分たちの味覚の貪欲さから、必要もない無数の食物を捕獲した り、生物の尊厳など全く無視して、無理やり動物を食用の家畜として生産する。 3/動物の建築物は自然に還元される素材で作られる。 ところが人間の住居の素材は自然に還元されない。 4/動物は火は使わない。 ところが人間が火を使って暖を取ったために、生存領域が不自然に拡大した。 5/人間は、他の動物と違って脳が発達したと自負するが、 その思考が生み出した、快楽追求と生存手段の為に、 微生物から霊長類に至る、無数の生物たちが犠牲になってきた。 つまり人間の産業のそのほとんどすべてが人間以外の生物には迷惑な産業である。 このように、人間だけが楽しむために他の生物を犠牲にしている。 狩猟民族から農耕民族になった以後は、人間が自然に貢献したためしはない。 しかし、人間が他の生物を殺戮する時には、実に奇妙な口実が存在する。 それは、すなわち「食べるために」殺すのだからという口実である。 しかし、実際には、食べるためにではなく殺している無数の生物がいる。 特に、害虫や雑菌、あるいは不潔だからと言われている生物たちである。 そして、その口実は、人間の清潔な生存のためであると言うのである。 ちかごろ、やっと人間たちは、無数の雑菌が毎日我々の身体の内外を守っていることを 認識している。結局は清潔にしすぎた環境が身体の抵抗力を落として、多くの現代病の 原因となっている事に気が付き、発病抗菌ブームに疑問をもち始めたようだが、そうし た雑菌の見直しとても、これまた、あくまでも人間のご都合によるものである。 さて、まともに話にもならないキリスト教徒たちときたら 「人間は他の生物を統率するように神から特権を与えられた」という、デマを まともに信じている有り様だ。さて、馬鹿はほっておいて、次の話。 *人間の社会に理想形態などあるのだろうか?* 1/簡単に言ってしまえば人間の生存に関係ない職種とは、衣食住以外のものであるが、 さらには衣食住に関する「代行業務」でさえも、本来は必要ないのだろう。 つまり、農業、建築、衣装も、本来は個人が自活すべきであると言える。 2/また、医療は必要ないと言える。 医療それ自体が、病による自然死という自然法則に反するからである。 3/究極的に考えて自然に迷惑ではない職業とは、衣食住の完全自活のみである。 4/では、もしも脳(正確には自我の主体意識)が現在のままで、 有史以前の生活に戻したとして、それではたして我々の精神は安定するか? 新陳代謝をしている中枢が食物中枢だけではないために心理的に飢えや不安が出ること になり、結局は衣食住以外の分野に心理的飢餓感の充足を求めることになる。

*哲学疑問へ* さて、我々は地球という惑星へ生まれて、そこから一体人間は何を本当に経験的に学ん だと言えるのか?。「精神世界や宗教が、人間の秘められた能力を称賛し、人間だけが 何か特別な存在である」などと言う綺麗事には、我々はもううんざりしている。 1/さて、我々がなぜ死なないのか(自殺しないのか)と誰かに聞けば、当然その者は、 そこで「なぜ生きているかの口実」を捻り出さなくてはならなくなる。 2/では、仮に「『何か』の為に生きている」と答えた場合には、 その「何かそれ自体の存在理由」は何かと問われたらどうするだろうか?。 (『何か』とは例えば学習や知識の応用、意識の進化・精神的成長・悟りなどの事。) 3/自分の為、という場合には、自分の「何」の為なのか?。 自分の快楽、楽しみ、自分の幸福感のためと言う場合は、 快楽や幸福感とは何かを、はたして正確に定義する事など出来るのだろうか?。 自分が、正確に定義も出来ないものを、自分の生の標にしているのだとしたら、 それこそが完全な気違いである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 何もかもが分からない時空間に我々は、死ぬまで生きている。そして動物のように本能 だけによって生きるならばまだしも、人間ときたら、人間の勝手で作り出した社会的習 慣によって、ただダラダラと生きて死ぬだけである。 我々は、生まれた時には、自分一人を扱うための「取扱説明書」すらも持たされず、 生命というゲームの「ルール」すらも誰も教えてはくれない。 社会や親が教えるのは、生存のための「方法」だけであって、 それは「生存そのものの理由(なぜ生きているかの答え)」ではない。 また、その生存の方法さえも、親や社会や教師が教えるものは常に絶対のものではない。 絶対どころか彼らの論理ときたら、ひとつの家庭内、学校内ですらも安定した効力を持 たない事がほとんどである。 こうした『生命の本当のルールや目的』を親や教師に尋ねても無駄で、彼らは、 「そういう事は宗教家に聞きなさい」とか「図書館へ行きなさい」と言われる。 そして、彼らの言うとおり、宗教家と図書館へ行き、かつまた神と「自称」する者と話 した結果、私は神とは以下のような事を言う存在であると判断するようになった。

宇宙の絶対者からの伝言 DO WHAT EVER YOU WANT 私に対する知的生物たちの誤解 端的に言ってしまえば、私から被造物たちへのメッセージはただ一言である。 それは、『好きなようにしたまえ』という事である。 要点1 君達の生死、および行動や思考、あるいは君達が精神寄生する生物の選択は完璧に君達 の自由である。 もしも、現在君達が自分の生存状態に対して何かの不服を感じるのであれば、君達は、 自分の生死の決定や次回の生物経験(輪廻)の種類を自由に選択をすればよろしい。 ・・・それとも、君達は、自由を望んでいると口にしながら、好き好んで私が提示する 善悪や規制などというものに縛られたいと言うつもりかね。 要点2 私は一切何ひとつも君達に禁じてはいない。 殺戮や憎悪、そして友愛を始めとして、私はいかなる徳も悪徳も容認している。 したがって、私は何ひとつも、君達を罰したことはない。 ・・・それとも、君達は、自由を望んでいると口にしながら、好き好んで私に罰せられ たいとでも言うつもりかね??ただし「君達の同胞が君達を罰する事」はあるだろうが、 申し訳ないが、それは私の関知するところではない。 要点3 また、同時に私は何ひとつも、助けることはない。 罰することもしないが、私は君達の手助けをした事もない。 それとも、君たちは自由を望んでいると口にしながら、いちいち誰かに頼って生きたい とでも言うつもりかね。 要点4 私は宇宙の創造、またはその破壊に対しては、いかなる責任も有さない。 君達としても、宇宙の諸法則に対しては、いろいろと不服はあるであろうが、そうした 不服は存分に述べてくれたまえ。それもまた君達の自由である。 私はそれら、君達の苦悩と快楽を私自らの食事、または鑑賞対象とするからである。 また私には、そこには好き嫌いというものは存在しない。 ・・・それとも君達は、自由を望んでいると口にしながら、 私に対する被造物からの供物の、その善し悪しを決定して欲しいとでも言うつもりかね。 要点5 君たちのような生存形態、特に人間のような生物をやっていると、いろいろいと不快な 事はあるだろう。空腹、性欲、ケガによる痛み、暑さ寒さ、微生物による病気、その他、 君たちの同胞による君たちへのいじめや、さまざまな仕打ちなどだ。 だが、それらの不快がもしも耐え難いものであった場合には、遠慮なく自殺をしたまえ。 私は自殺を禁じた覚えは一切ない。もしも禁じるつもりがあるならば、私は自殺が出来 ないように君たちを設計するばずだが、私はそんな事はしていない。 だから、現に、君たちには自殺が可能ではないかね?。 自殺は、いとも簡単なことだ。それは苦痛に耐えて生きるよりも、何百倍も簡単なこと であろう。だから、私は自殺できる意志を人間や知的生物に与えた。 覚えておいてほしいことは、自殺出来るということは、 「人間だけに優遇された大きな特権」のひとつなのだから、必要になったらば、それを 利用しない手はあるまいということだ。 ・・・それとも、君たちは、自由を希望していると言いながら、 不快と苦から逃れるために、せっかく私があたえた最後の自由である、死ぬ自由、 最後の希望である自殺までをも、君たちから取り上げて欲しいなどと言うつもりかね?。 ***結論*** 以上の文章をもってして、あなたが「死ぬための正当な理由」は確実に準備され、 弁護されているので、あなたはいつでも堂々と死ぬ事が出来る。 もしもあなたの自殺を誰かが止めようとしたとしても、この論理に対して、 反論できる者でないかぎりは、耳を貸す必要はない。 世の中に「生きるための口実」というものがあるならば、 「死の口実」もまた公然と明確に存在しているべきだからだ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

情けない事に人間の種類は たった4種類しか存在しない 生年月日だの、血液型だの、性格分類などの基準ではなく、大ざっぱに分類すれば、 結局、この世には(基本的には)以下の4種類の人生観を持つ人間しか存在しない。 1/ 生きる事は何にも増して重要である。 (ただし、この場合の生きるとは、「自分」を中心とした「自分」に必要な事物や、 「自分」が愛着を感じるものには、「生きるのが重要である」と言っているのであり、 そのほかのものは、「死んでも『自分』には関係ない)というのが本音。) このタイプの人間の口癖は、「死んだら可能性もすべておしまいだ」である。 ただし、生きていれば可能性があるなどという『保証は何ひとつない』という現実を 直視しようとはしない。 また、もしも生きることが何にも増して重要であるのならば『誰が』生きることが重要 であるのかを、はっきりと定義しなければならない。 もしもここで、すべての者、すべての万物が生きるのが重要であると言ったとしたら、 既にこの時点で1の者は弱肉強食の自然界法則や死を否定する矛盾に陥ってしまう。 2/ ただ生きているのでは動物と同じであるから、学習して楽しむことである。 人類にもっとも多く見受けられる平凡かつ、誰にも反論されそうもない人生観だが、 学習して楽しむといっても『何を』学習し『何を』楽しむのかが優先されるべきかは、 いつでも明確でなはく、いきあたりばったりに学習し、楽しみを追求するだけだ。 つまり、このタイプには普遍的な効力を持つ価値観への探求心というものがない。 彼らに存在するのは、個人的な好みでの学習と楽しみであり、その楽しみや学習が生の 中で重要であるかという洞察や思索は全くやろうともしない。 また、彼らの言う学習とか、楽しみというものは、学習ならばカルチャースクールへ 通ったり、読書をして知識を詰め込むこと、あるいは自然環境をふんだんに体験学習 する事が学習だ、などと思っており、また、それらを応用して産業に役立てることは、 さらにいっそう意義があるなどと思っている始末である。 加えて、彼らの楽しみとは、せいぜい温泉に入った後の一杯のビールに至福を感じるか、 恋愛やセックスで、つかの間の生理的快楽と欲望の満足を楽しむか程度のもの、 あるいは美味い食事でも食べて幸福を感じるか、寝るときの安心の程度の幸福感でしか ない。つまり、大げさに「これぞ人間にのみ許された分野だ。これこそが人間の偉大さ の証明だ」などと言うほどの価値ある幸福には全く程遠いものばかりである。 3/ 学習にも楽しみにも興味はなく、ただ生きている事それ自体すら苦しい。 うつ病、心配事や不快感、または哲学的思索が長期化、あるいは慢性化した結果として 発生する状態。ただし、このタイプの主原因にはA・Bの二つがある。 A/ ひとつは、実際には多くの物事を楽しめる精神的資質を持ちながらも、慢性化し た特定の思考が障害を形成している場合。この場合には、カウンセリングおよび薬品で 解決される。 このAタイプの場合には適切なカウンセリングで2または1の人生観に復帰する。 B/ もうひとつは、陥った問題が哲学的問題、すなわち「人はなぜ生きるか」であった 場合には2の人生観などは、そもそも軽蔑の対象とされており、1や2のような人生観 しかこの世界に存在しないが故に、3のタイプは世界と自分に絶望しているのである。 したがって、*この3−Bタイプの状況は自殺の「正当な理由」となり得る。* 4/ 興味や楽しみや学習の対象は特に目立っては何もなく、 かといって、ただ生きていることそれ自体も別に苦というほどではなく、 なんとなく漠然とした、(強烈な不満もない)習慣生活の中で生きてしまっている。 この場合には、自殺への切迫した意志も感じないので『自殺にすらいたらない』。 病状が明確でないので、医師の治療を求める事もない。したがって、そのままダラダラ といつの日か死ぬのを待ちつつ、「なぜ生きるのか」と不平を言いながら、あるいは、 「人生や人間なんて、つまらなくて無価値さ」とグチを言いながら生きるだけとなる。 もっとも最悪の状態であり、これならばまだしも、1、2、3の方がマシである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なお3−Bにとって自殺の正当な理由がある根拠は以下の通りである。 **理由1** 2のタイプは言うだろう。「人生はただ生きるのではなく楽しまなくちゃ価値がない」。 となれば、3のタイプの者は、人生を楽しんではいないので「人間として価値がない」 という事になる。2のタイプの人間は、「価値も無しに、ただ生きる事はよくない」と しているわけだから、そのよくないたいぷの3の人間が自殺をして、この世界から消え れば感謝されてもいいぐらいであり、タイプ2の人間が文句を言える筋合いではない。 だがここで、おせっかいな2のタイプは、3のタイプに対して「人生は楽しめるものさ」 あるいは、一般的な手口としては、『人間を超越する別の宇宙の次元世界がある』とか 『悟りや光明を得られれば万事解決する』などと余計な説教を始めるわけであるが、 その口先に騙された場合には、タイプ2の人生観を持つ「宗派」の一員となり、もしも 口車に乗らなかった場合には、そのままタイプ3−Aまたは3−Bに純粋に留まる。 また『なぜ宇宙そのもの、存在そのもの、自分の意識そのものが存在するか?』という 疑問に対して、既存する宗教が説明する、その一切の答えにさらに、 『では、それはなぜか???』と問い続けた場合には3−Bに死ぬまで留まるか、 あるいはその疑問が時間とともに気力を失ってタイプ4の怠惰な生活に陥る。 **理由2** 人生の目的は「なんでもかんでも、とにかく生きる事ではない」という、1を否定する 認識は既に一般化しつつある傾向を見せている。 事実、そこから生まれたのが、安楽死法に基づく安楽死の執行である。 本人に『耐え難い苦痛』があり、その病が『不治』であり、本人に死を選択する『明確 な意思』が存在するとき、それは特定の地域社会では合法的に許可される。 残念ながら現在のところ安楽死法は、肉体的疾患の認められない精神科には適応されて いない。しかし、精神病とは明らかに病気であり、本人が苦痛を訴えているのであるか ら、他人がそれを「気のせい」だとか「考え過ぎ」と言う権利などはない。 (むろん3−Aのタイプの場合には治療した方が良いかもしれない。また4のタイプ の者も、もしもその気があるのならば自発的に治療を受けた方が良いだろう。) また、安楽死は精神病にも適応されるべきであるとする意見も存在する。 たとえば、「完全自殺マニュアル」の著者の鶴見氏は、別著「人格改造マニュアル」 (大田出版)の中でこう述べる。(注、カッコ内は当方の追加文) 「(苦痛を訴える患者にとっての)、目標は苦痛から逃れて楽になる事であり、 『とにかく生きること』などではない。 自殺も、転職や失踪と同じく、苦痛から逃れる手段の一つにすぎない。 『どんなことがあっても自殺だけはすべきではない』などと言う極端な考え方自体が、 既に認知の歪みである。『自殺をしない方がいい場合もあれば、したほうがいい場合も ある』というのが合理的な考え方だ。『自殺は絶対に駄目』などと思ったとたんに、 うつ状態に悩む人々は、『生の鎖』に縛られて身動きが取れなくなり、かえって最後の 逃げ場が塞がれてしまい、余計なプレッシャーを感じる結果となる。『いざとなったら 自殺してしまえる』と思っていたほうが、患者にとってはよほど楽なのである。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、まとめると、『タイプ2』はタイプ1を否定し、またタイプ3と4には説教をす るか単に無視する。 『タイプ3』は、タイプ1と2を軽蔑するが、もしも3に長期的かつ情熱をもって徹底 しないと、ほとんどの者は『タイプ4』の怠惰に無意識的に陥ってゆく。 (早い話が人生に不感症となり、ボケて老化するだけ。本人はそれを「自分は普通の者 より囚われが少ない」などと、トンチンカンな勘違いをする事が多々ある。) また『タイプ3(A・B共に)』のなかには、容易にタイプ1か2のいずれかに簡単に 復帰して立派に生きてゆくことが可能な者が多々含まれるのが人間の実状である。
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この空間は 1997/08/15 に生まれました。