EOに関する方斬メモ



    EO師に関するこぼれ話  BY 方斬

    「人に会うのは、もうやめよう」としょっちゅう彼が言っていた時期があります。 出会った人達は本当に少なく、2年半で数十人だったと思います。 そして、会うのはやめようという、その原因はこうでした。 『今までに出会った人間達には、数種類の典型的なパターンがあった』というが彼の話 でした。 1/はなから「悟ったなどというのは嘘だろう」という事で拒否と疑惑に満ちた人達。 特に変に地位のある人とか、いわゆる学者や教師や職業的セラピストなどのプライドや 立場を傷付けられる事を一番恐れている人の中に、こういう者が若干いましたが、 EO師はこういう人と会ったことは、ほとんどありません。 2/彼の文書を読んで、明らかに大悟しているのは確実だと思っているが、実際の彼を 見て、その外見やごく普通のふるまいをする、そのギャップに混乱する人達。(と言っ ても彼は全く普通の容貌でした。ただ、どうも読者の人は、いわゆるローブや袈裟でも 着た聖者か行者のようだと「勝手に」思い込みたかったようです) 3/EO師に対してグルのように傾倒して、彼に依存してしまう人。 このタイプは、彼は断固として受け付けませんでした。『探求は本人自身の探求なのに 導師などに依存しようとするのは責任のなすり付けだ』と怒っておりました。1度だけ ですが、たずねて来た者の背中を棒で何十回も打って、ドアからたたき出してしまった ことがあったようです。 4/親しくEOと友人関係になり、最初は指示された通りに瞑想していても、 次第にそれが馴れ合いになってしまい、行法がおろそかになってゆく場合でした。 ある面では彼がどんなグルよりも厳しい面がある、ということを理解しなかったり、 またその厳しさについてゆけなかった人達もいて、彼の元を離れました。 多くの場合はEOが直感的に時期を見て、突然に破門や絶縁をしていました。 この4種類のパターンのどれも彼は嫌だと言っていました。しかし師が、 こんりんざい人に会うのをやめると思った最大の原因は、次の二つだったようです。 5/人の話を・・たったの10秒すらも黙って聞けない人間があまりにも多すぎる。 6/『この惑星に、どのような法と導師と技法が現れても、しょせんは、豚に真珠だ』

    ブタに真珠

    「悟りたいだのと言う以前に
    真の『探求者』になれ」

    以下は、EO師に関する回想録のようになってしまうが、興味のある者は、 一読すると良いだろう。 師が『悟りの15段階』(詳細は『反逆の宇宙』と『虚無宇宙からの伝言』 参照)の9図と10図にいたとき、師は来る者にはほとんど別け隔てなく、 法を説き、またある種の不可視の次元で働きかけをしていた。 しかし、11図に移動した段階で、師は完全に探求者とそうでない者を 振り分け始めた。この事に関しては、『小さなブッダの大きなお世話』 『反逆の宇宙』『虚無宇宙からの伝言』といった死期が迫っていたEO師 の説法には数多く登場する。 記憶する限りにおいて、彼の最後の言葉は、次のようなものだった。 『豚に真珠だ』、『宝の山を目の前にしても、そもそも探求者にもなっ ていないやつには、そこから何ひとつも得る事ができない』 悟り、光明、解脱という問題に関しては、その問題点の多くが、導師にあ るのではなく、探求者、特に「自称探求者」にある事をEO師は語った。 そこで、これに関連するもので、師が私へ充てた手紙の一部を紹介する。 中略・・・ 『瞑想や哲学とは、その石が宝石の原石である場合に、そこに磨きをかけ る作業である。 しかし、それは原石がただの石であった場合には必要となる作業ではない。 磨きをかける作業としての哲学や瞑想などをしようとする以前に人々は まず、地中で何万年もかけて「宝石の原石」の成分に変化すべきだ。 「悟りたい」だのと言っては導師を転々として、何も変わらない者は、 世の中には腐るほどいる。 また、他人にかかわる事が下手で、自分一人で考えていたり我流でやって いても、自分に対する怠惰から、何も変化しない者も腐るほどいる。 しかし、やるやつは、他人に言われなくても、とことんやる。 逆に、出来ないやつは、他人が何を言っても、誰が助けても出来ない。 私の元に本当に弟子入り出来た者は、実は3人もいない。 その理由の一つは、 弟子という形を取る覚悟があるならば、絶対服従が条件となる。 それが出来ないならばやめろ。 他人からガタガタ言われて不機嫌になるなら、勝手に一人でやればいい。 という事である。 そして、勝手に一人でやるやつのアドバイスなどは一切御免だ。 どうせ彼らは安全な地点にいるのだから、のうのうと怠惰な行法になるか、 または、すぐにチョロチョロ目移りして、別の体系にいくか、 あるいは自分の過去にしがみつく。 しかし、恐らく、古今東西、どこの体系でも問題になるのは、次のことだ。 「絶対に従います」と言っておきながら、都合の悪い指示には従わない者が 必ず出る。いや、弟子の99%はそうなるだろう。 というのも、それだけの服従の覚悟を、始めのころだけではなく、 その後も、何があっても持続的に師に対して維持出来るという事は、 それだけでも、それは探求者の資質の一つだからだ。 そして、そこで師弟関係で必要になるのは、実は「信頼」ではない。 インドの和尚は、降参とか信頼という事を強調したが、 そんな事は、欧米人には出来ない。 そしてまた戦後の教育を受けた日本人にも出来ない。 重要なのは、導師に対する信頼と服従ではなく、 本人の中にある、「絶対に、時間と共に弱まらない探求心」だ。 むしろ、時間とともに、加速して、探求心が強くなる必要がある。 悟った者の経緯をよく思い出すがいい。 誰か一人でも、大悟に至る経緯が尋常だった者などいるだろうか? 彼らの探求心や、やってきた事、そして、かかえた問題そのものが、 あなたたちとは全く質が違う。 彼らは、決して、過去の誰かに憧れて修行したりはしない。 多くの場合、彼らには手本も師もいない。 というのも、それだけ彼らの探求していた問題がユニークであり、 前例がないところから始まっているからだ。 和尚をニューエイジの一部や、 ただの宗教家や瞑想家に分類する事は間違いだ。 彼は、まだ「一人の探求者」であった時には、 宗教というものに対しては、完全な無神論者だったからだ。 そして、彼は自分でも言う通り、その探求の頂点では、 「疑問につぐ疑問で、真っ暗闇の海を漂流していかのようだった」。 そして、彼は、「助けを呼ぶぐらいならば、このまま沈んだほうがまし、 あるいは、それもしかたがないことだ」と思っていた。そしてまた、 彼が「ブッダ病」と命名した、完全な妄想にも取り付かれていた。 すなわち、悟るだの、どうのこうの以前に、 そもそも彼らが陥った「病状そのものの質」があなたちと全く違う。 これはEOイズムでも言えることだ。 EOイズムでは、神または宇宙を論敵とする所から哲学が開始される。 一方、あなたたちは、どこかの、もっとよさそうな神様やら、異星人やら、 導師やら、心身に良いマニュアルを探して、ウロウロウロウロして、 「いいもの探し」のハシゴをやっているだけだ。 すなわち、EOイズムの門下、あるいは精神世界の探求者というのは、 そもそも、助けを求めて進むべきではない。 助けを求めるのではなく、 自分が疑問に思った事の解明をする事そのものが目的であり、原動力だ。 そして、もしも宇宙や神を論敵に回したら、助けなどは皆無となる。 悪魔すら助けてはくれない。 というのも悪魔もまた宇宙という機構の部品の一部であるからだ。 こうした時にのみ、あなたの孤立は絶対的なものになる。 あなたは、心身にいいものとか、自分に快い結論を探すのではなく、 「真実だけ」を探すことを目的にする。 この「真実」を「渇望する」「強い飢え」と、 一生をそのために人生を棒にふる「覚悟」と、絶え間無い「持久力」も なしに、『悟りたい』などと軽率に口で言う者があまりにも多すぎる。 悟った者たちは、決してエリートではない。彼らはむしろ、脱エリートだ。 しかし、悟る直前までの彼らは全員、 精神世界という分野での超エリートなのだ。 行脚していたシッダールタに、彼の求めた法を教えられる師はいなかった。 宇宙の創造目的を問いかけた私にとっては、既存する宗教や瞑想や宇宙人すら、 そして異星人の言葉も、何ひとつも助けにはならなかった。 そのような点ではダンテスや、過去の禅師たちというのは、 悟ってはいるが、どこか2番煎じで、徹底した壊れ方には、ほど遠い。 あの程度の「悟った不良中年」「はみ出し者たち」は、古い時代の日本や 中国には、比較的あちこちにいた類いの大悟者たちだ。 かなり異色な例は、バーナデットロバーツだ。カトリックの道を歩んで 悟るという、通常ではほとんどあり得ない道を歩んだためにカトリックの 世界では誰も彼女の力にはならなかった。禅師すら力にならなかった。 そのような点では、彼女にも師は存在しない。 彼女は言う『私の人生は神との戦いだった』。 つまり、彼女は「神への信仰」に身を投じたのではなく、 「神への探求」に身を投じたのだ。 ・・・・・・・・・ 無師独悟には、失敗(特に、この場合の失敗とは、死ではなく「発狂」 というケースが多い)の可能性も含むが、 導師が存在しない分、誰もその探求を、押しも引きもしないという 自己責任が明確になる。 つまり、あなたの探求の結果を、誰かのせいには出来なくなる。 確かに、導師は、悟りまでの手順を、うまく準備出来るという点では、 弟子が発狂する可能性が少ない。 どう準備をしたらいいのか分からずに、ただ勢いだけで修行する者は、 発狂という「駄作」になる事も多い。 そこで、私は無師独悟を命じると同時に、心身の準備として必要な項目、 または必要な生まれつきの資質について繰り返し何度も語ったはずだ。 1)そもそも生まれつき自覚して、探求を目的として、今回の転生をしてきた事。 2)思考力に集中力がある事。同一のテーマについて何カ月も休みなく考えら れること。そして、そもそもそういうテーマがある事が大前提。 ただし、そのテーマは、他人からの借り物や言葉ではなく、自分の中から、 はっきりと問題意識として浮上しているものに限る。 何が大問題なのかすらも自分でわからない者などは完全に失格。 3)もんもんと考えるのではなく、思考を構造化し、図式化できること。 4)丹田がある程度形成されており、思考や行動に持続力がある事。 5)サハスラーラに対する極端な集中を長期的にしている事。 6)闇の瞑想に類似するような、存在世界の一切の消去をしている事。 7)自分が欲望した事は、すべて、満足するまで徹底して経験している事。 8)ある程度の霊的資質。主に別の宇宙次元に対する感知能力。 9)サバイバル能力 この9)のサバイバル能力というのが、逆説的だが、重要な点だ。 悟りの状態とは、完全なる「脱サバイバル」だ。それは戦いの放棄だ。 彼らは他人とは戦う「ふり」をしても、彼ら自身の内部では、 もう決して戦いは起きない。それが彼らの恒久的リラッスクの秘密だ。 そしてまた、普通の事がまともに出来ないやつには、 悟りの修行など出来ない、というのも、私を含む多く導師の見解だ。 しかし、私が言う『普通の事』というのは、「世間常識の事」ではないのだ。 ある馬鹿な禅寺の住職の一人などは、この「普通の事」というのを、 あいさつが出来るとか、礼儀があるとか、そういう全く思慮のない低次元で 弟子に強要している。 しかし、私の言う普通の事というのは、 人間という「病的な動物」としてではなく、 自然界の生物として、もっとも『普通な事』である「サバイバル能力」の事だ。 つまり、敵を倒す戦闘力、生き延びる知恵、身をひそめる技術などだ。 私が言う「普通の事」とは、『動物的な次元のバランス』の事だ。 したがって、軽度でも持病を持っているという事は、 そもそも、サバイバル能力が整っていないので私は病人への指導は断る。 また、ヒューマニズムだの、宗教的理由から、自分の殺意や敵意や、暴力を 抑圧している者も御免だ。それは人間としては、常識的(社会的に無害)で も、動物としては落第だ。 そして、サバイバル能力を発達させ、生き延びて、最後まで強者として 生き抜いた者が『自分は何の為に生き続け、戦うのか』と問う場合にのみ、 その問いは、本物の問いになる。 しかし、欲望を生きてもいず、コソコソと他人の目を気にして、戦ってもい ずに、その戦わない口実を宗教戒律や人間性に押し付けてきた者は、 動物としての「普通」からは失格だ。 生と存在の意味を、本当に問えるのは、生と存在を極めた者だけだ。 グチグチと哲学書やら、本や情報を読み耽ったり、ボランティアごっこや、 座禅や瞑想をして、あれこれと考えているような者ではない。 また、動物が戦う場合には、彼らには明確かつ、単純な理由がある。 それは、体裁のためであるとか、社会改革のためであるとかではなく、 自分一人が生き延びるため、という極めてエゴイステックなものだ。 そして、これこそが探求者の資質として必要となる。 ただし、注意すべき点は、戦うならば、 人間的なやり方ではない方法で戦えという事だ。 詐欺、集団暴力、盗聴などの情報戦、武器の使用などではなく、 極めて「原始的な戦い方」で行えという事だ。 また、一対一で戦えという事だ。 動物や特に昆虫には、その性質上、集団でのみ天敵を襲う種もあるが、 類人猿の場合には、一対一が原則だ。 つまり、戦う場合には、リスクとして「痛みを伴う方法」に限る。 インターネットの中やら、武装した安全な地点から戦うのでは、 それではあなたの「戦闘神経回路」というものが鍛えられないのだ。 人生が空しいと心底思うに至る者は、必ず強烈に生きている。 そして、強烈に生きようともしていない者は、いつまでたっても、 「生には何かもっと可能性があるはずだ」などという幻想を見続ける。 物事が、一歩も動けないほどに、完全に可能性も希望も八方が塞がるという 本当の「限界点」にぶつからないかぎりは、 その「限界点の先のもの」は、あなたの人生には出番がないというものだ。 だから、生のサバイバルの限界にも行き着かない者が・・ (たとえば、まだ学生だったり、20代の者、自活していない暇な主婦や、 自活していない男性、そして宗教団体やら瞑想センターや寺に定期的に 足など運ぶ者、こうした者が)、 人生つまらない、退屈だ、かったるい、自己変革したい、などのモンモンと、 漠然とした理由から瞑想などしたところで、彼らは絶対に、 どこにも行き着くことはない。 「自分に出来ることは、すべてやった。  自分に考えられる事は、すべて考えた。  自分が、楽しめるものは、すべて楽しんだ。  自分が、戦える者に対しては、すべて戦った。  自分が保護したり愛情をかけられ者に対しては、すべて心を注いだ。」と  言える者。すなわち、生きた者の前にしか、 「哲学的な死」は立ち現れない。 ただのうつや、無気力や、社会的な敗北から自殺を考えても、 それは哲学的な自殺でもなく、探求者の自殺でもない。 それは「生きそこねた、ただの弱者」だ。 そうではなく、戦いもしたし、愛しもしたし、考え、行動した者。 これらの者は、なんらの瞑想をしなくとも、チャクラがすべて整う。 なぜならば、人間のチャクラは、「生き方」によって作動して、 その結果としてその環状構造が成熟するのであり、 単に、そこに意識を向けていればいいというものではないからだ。 ちょうど、あなたの足は歩き、走り、飛ぶことで機能が成熟するように、 チャクラの機能というものは、ヨガの行者みたいに、ただへんてこで稚拙な イメージを集中していても、何も成熟などしないのだ。 むろん、こうした者には、死人禅の行法などは、全く役にも立たない。 彼らは、ただ頭がボケてゆくのを、「安心」だと勘違いをして終わるだけで、 知的に成熟する事もない。 死人禅の行法とは、思考と思索がその限界まで酷使されてこそ初めて、 「出番」がある。 また、その場合には、瞑想をすると「安心する」のではく、 逆に「緊張が増してゆく」のだ。なぜならば、緊張が増すという事は、 その瞑想が、思考や生体の「死活問題に影響するレベルに達している」 という証拠だからだ。 だから、死人禅で、気持ちよくなるだけ、やる気がなく、 怠け者になるだけという者は、瞑想が瞑想としては機能をしていない。 このように、思考が酷使もされていない者が頭頂留意をした場合には、 一種の失敗作、つまり発狂しやすい。 それも、完全な発狂ならばまだしも、精神病にすらも分類できないような、 中途半端な狂い方で終わる。これらの者たちの典型的な性質は、 全く無自覚に、余計な事を自他に対してやり、集中力がなく、 意識が散漫としている点だ。 これがすなわち、「豚」である。 だから、彼らに、EOイズムという真珠を与えても、 全く無意味な事なのだ。 しかし、別に、豚が悪いわけではない。 そして、真珠が正しいわけでもない。 単に、豚と真珠は、「組み合わせとして相応しくない」というだけの事だ。 EO

    人の一生を左右するキーワード

    質問 あなたの人生に影響を与えた「一言」というようなものはありますか?? EO これは、ものすごく、おもしろい質問だ。そういう一言は、誰にでもあるはずだ。 どんな人にも、それなりに一生または半生ほど影響してしまうような、 『単純なキーワード』があるものだ。 さて、私には、たぶん次の5つのキーワードが決定的な影響を与えていただろう。 しかも、それはピッタリと小学校、中学校、高校、大学、社会という5つの時期に、 それぞれに個別に存在していて、私の生活に全体かつ全面的に影響をしていた。 1/小学生のころだったか、私の母親は「 人間は考える葦(あし)である」 という 言葉を私に教えた。むろん当人の母親は深く物事を考えるような人間ではないので、 テレビか本か、どこからか仕入れた言葉だったのだろう。 ところが、悲しいかな、子供の私は、本気でそれを真に受けた。 「人間は、考えるから動物と違うのだ」という勝手な価値観がここで形成されたし、 また、その後、徹底して考え続ける癖がついたのもこの言葉が原因だろう。 2/UFOの世界ではジョージ・アダムスキーの名を知らない者はいない。 彼の体験は実際に宇宙旅行をしたのではなくて体外離脱によるものだとする説もあり 賛否も多く、また疑問や謎も多い。 しかし一方で彼は一つの「宗教」のようなものを世間に持ち込んだ。 それは宇宙哲学と名づけられた実にチンケなものだが、中学生だった私にとっては、 その中に何らかの生き方の指針となる言葉を探した事もあった。その過程で、確か、 「 結果ではなく、常に原因を見なさい 」という言葉があったと記憶している。 そのせいで、私はどんな事に出会っても、どんな経験をしても徹底して、「原因」に ついて考えるという癖がついた。1の考える癖はここで「考えるテーマの軸」を獲得 したと言える。このために、一つの疑問についてその原因の原因の原因は何か?? といった追求の基本姿勢、どこまでも掘り下げる癖が私の中に生まれたのは確かだ。 3/高校生のころ、ふとした事で私はバグワンの言葉に出会った。当時はまだ星川氏 が手書きで日本語訳のバグワンの『存在の詩』を発行していた、相当に古い時代だ。 ここで私を捕らえた言葉は「 無努力にして絶対真理の状態 」という概念だ。 そして、もうひとつは、そのための「 絶えざる覚醒 」という概念だ。 しかし、このふたつは、矛盾と葛藤を生み出しやすい。というのも、 「自我の意志による覚醒」と「無努力」は本来は相いれないものだからだ。 しかし、高校生の私は、その矛盾を必死に自分の何で統合しようとしていた。 さらに、この『無為自然』の概念が、まだ高校生だった私の中にすぐに浸透したには わけがある。それはそれ以前に、私は親鸞の「歎異抄」に影響を受けていたからだ。 今にして思えば、とても中学生に扱えるようなしろものではない経典だったのだが、 その中に「自然法爾(じねんほうに)」という概念がある。自力を使うことなく、 ただ無心に任せていればよい、といったような意味だ。このせいで、バグワンの言う 「感応」あるいは「無為自然」の概念は、あっさりと受け入れられたのだろう。 しかし、ここで最初の大きな問題が発生した。 原因について考える作業と、無為自然とは全く相反するものだ。 しかし、私には、そのどちらも捨て難かった。徹底してひとつの問題について、 その原因を掘り下げてゆく作業が身についていた私にとっては、 自分のすべてを直感だけに任せるのは困難だった。 しかし、一方で、私の中には、無心で直感に全託しているといえるような無為自然の 経験も既に数多くあり、そのために、かえって、大きな葛藤が私の中に生じた。 「一体、生き方としては、どちらが正しいのか?」と。 「思考を放棄するか?、それとも直感を放棄するか??」という難問である。 普通の人間ならば、適当にその時の都合に併せて直感を使ったり思考を使ったりして 生きて行くことだろう。ただ単に世の中を生きてゆくのならば、それでいいだろう。 しかし、私の中には、「絶対にいつでも正しくなければ嫌だ」という考えがあった。 そのために、直感か思考のどちらかに完全に方針を決定しなければ気が済まなかった のだ。「真理はひとつならば、方針はふたつあってはならない」と私は感じていた。 しかし、この「 真理はひとつだ 」という概念も困ったもので、どういうわけか、 私も含めて多くの人間は、何一つも疑うこともなく、これを信じてしまう。 そして、私は適当に何かを両立するという事は、全くできない性格だったのである。 この矛盾との葛藤は、かなり重度のノイローゼ状態に私を追い込んだ。 高校生の時に、既に私は「形而上学的な重病人」になっていたと言える。 周りの同年代の知人たちが、勉学や遊びに熱中しているのに、 私は「直感かそれとも思考か」という葛藤の中で、いわゆる精神世界の多方面に渡っ て探求を始めていた。それから約数年、私は自分よりも年上の多くの人に出会った。 一方では、原因について考えるという姿勢と、無為自然をなんとか両立した体系にで きないものかと考え「独自の体系」を作ることも、この頃から企てていたと言える。 4/大学に入った時は比率的には哲学よりも、むしろTAOイズムに傾倒していた。 自分の中に、無為自然の境地を確立しようと必死に葛藤し、独りで瞑想もしていた。 しかし、ここでもまた単純にTAOイズムにのめり込めない理由があった。 それは当時、どういうわけか、いわゆる別の次元の知性体との交流が私の中で始まっ ていたからだ。その中には異星人もいれば、妖精や聖霊のような存在たちもいた。 時には彼らの不安定な姿は「第3者の肉眼」に目撃される事すらもあった。そして、 彼らの生き方は、とてもTAOという単純な枠の中には組み込めないものだった。 5/だから20歳でアルバイトを始め、22歳ごろに最初に就職した時にも、 私は、既に社会と折り合いをつけるには、かなり困難なものを抱えていた。 徹底して原因を哲学すること、無為自然、そして異次元の存在たちとの付き合い、 こんなものを全部背負ったままで、私は社会へと出て行ったのだ。 しかし、ここで私はひとつの概念に出会った。それは「自立しろ」という言葉だ。 だが、それは別に「社会的な自立」を意味しているのではなかった。 当時、付き合いがあった、ある非常に小さなオカルト的サークルの中では、 「 何にも依存せずに宇宙で自立してやってゆく為の独自のシステムの構築 」という のが、そこの基本方針の一つになっていた。 いわば、完璧なる「自力」による『宇宙でのサバイバル技術』だ。 しかし、これがまた困ったことに、「無為自然」には完全に反するわけだ。 しかし、私はそれをも学び始めた。西洋魔術や東洋の呪術に関する興味は、この過程 で生まれたものだ。魔術というのは、すべて心身の「操作」にかかわるものだ。 それは、無為自然には全く反するものだ。しかし『宇宙での自立』という目標は、 少なくともその後数年間は、私の主なテーマ、つまり「生存の言い訳」にはなった。 この指針のおかげで、社会での生活は、その労働や人間関係も私にとってはすべて 『遊び』の実験の対象となった。少なくとも当時の私は単純に生きているのではなく 全てに形而上学的な目的や実験課題を付加していた。どんなささいな人間関係や労働 でも、私は、何かしら、それを探求の素材や実験対象にしていった。 むろん、この間にも、やはりこの「完璧な自力」と「完璧な他力」である無為自然の 間に、何らかの「かけ橋」はないものかと思索し、その葛藤は常に続いていた。 以上の5つのキーワードが私の人生でかなり大きく影響していた。 1/人間は考える葦である 2/結果ではなく原因について考えろ 3/自然法爾と無為自然(実は、頭頂留意はここに関係していた) 4/真理はひとつである 5/宇宙では何にも依存せずに自立しろ(そして、この自立の為の手法の中に、 現在確立された「闇の瞑想」・・というより闇との『契約』があったのだ) そして、これら5つのキーワードから、実に多くの葛藤が私の中に生まれた。 たとえば、真理がひとつであるならば、『どれ』がそうなのか?。 またそれは『どうして一つであるべきなのか?』。 では絶対の正しさとは何か?を、そもそも『誰が』『どのように証明できるのか?』 『自立や思考する行為と、無為自然とのギャップを埋めることはできるのか?』。 こうした葛藤は22歳から32歳までの約10年間「一日も絶える事なく」続いた。 そして結局、こうしたものが、混然一体となって、私を「一つの問い」に導いた。 5つのキーワードは他人から与えられたものだったが、その最後の問いだけは、 誰かから与えられたものではなかった。 最後の最後に私を動かしたキーワードは、 5つのキーワードを「生きた結果」として生まれてきた自発的なものだった。 それは 「なぜ万物は存在するか、あるいは存在するかのように見えるか」 である。 この問いに答えられる、いかなる神秘家も、チャネラーも宗教家も存在しなかった。 それまでに私が何かを学んだ人達や、さらには異次元の存在たちからも、 たった一つ『この答え』だけは、どうしても得られなかった。 しかし、なぜ万物が存在するかの答えが明確でなければ12345のキーワード自体 の有効性そのものが、すべて不安定になって崩れてしまうのだ。 つまり12345の言葉のいずれもが「万物の存在理由の答え」よりも上ではない。 だから、私の探求は最後には、『たったひとつのこの問い』に行き着いた。 ・・・・・・・・・ 私は、あなたたちに、「宇宙の存在理由を考え抜け」と言う。 しかし、これはあなたにとっては、私という他人から与えられた問いに過ぎない。 しかし、自分の『精神の死活問題にかかわる問い』は、クイズのように他人から与え られるようなものではないのだ。それは自発的に生まれてくるものだ。 自発的に生まれてくるものは、確かにその背景には、いろいろな他人から影響された キーワードが関係する。しかし常に「最後に残る」のは、たった一つの問いだけだ。 たとえば「生きるべきか、死ぬべきか??」。これもまた、もしもこれが他人や書籍 からの問いでは、それには何の意味も効力もない。しかし、それが、その者の、 いろいろな問いの中から出て来た『最後の問いのエッセンス』であるならば、 その問いは、その者の探求にピリオドを打つのに効力を持つだろう 。 最後に問いがたったひとつとなる。これが悟りの最も「直接的な原因」なのだ。 しかし、もともと「問い」というものは常に『二つのものの間』に生まれるものだ。 「こっち」が正しいのか?、「あっち」が正しいのか??と。 だから「最後の問い」とは、別の言葉で言い換えれば、それは最後の2元性であり、 最後の分裂状態・・・つまり最後に残った唯一の「動き」だと言える。 だからこそ、それが「本当に、最後の最後の最後の動き」ならば、 それが止まれば、それは本当の対象化の停止、すなわち『悟り』に変容し得るのだ。 しかし、もしも、ひとつの問いがあなたの中に次の新しい「別の問い」を生んだり、 ひとつの問いを片付ける前に「別の問い」にフラフラと流されてゆくようでは、 まだあなたは「最後の問い」には行き着いていないという事になる。 山ほどある禅の公案が、現代では何の効力も持たない原因がここにある。 山ほどある哲学題材が、現代では何の効力もない原因がここにある。 山ほどある瞑想体系が、現代では何の役にも立たない原因がここにある。 だから、『問いは、最後には、たったひとつでなければならない』。 そして、それは、他人や外部からもらうものではない。 いくつもの問いの中から、出てくる最期の問い、つまり、 「これが最後の私の問いだ」 と言い切れるものがあるかないか・・・ それが、迷悟の繰り返しに決着をつける決定的な要因となるのだ。 EO


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