プロローグ「詩句」
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絶対暗黒の闇
以下の法の言葉から、あなたの中にいかなる価値観も生まれてはならない。
当然の事として、いかなる組織的な価値観も生まれてはならない。
悟りは、個人たったひとりを、
その個人が抜けられなくなった狂気から助け出すための最後の道である。
だから、それは正しい道なのでもなく、
すごいものでもなく、役に立つのでもなく、それで世界がどうなるのでもない。
それはたったひとり、あなたが楽になればいいのだ。
まったく、それは個人、ただひとりのためのものだ。
・・・・・・・・・
悟りの体験そのものへの執着や
世間と悟りの関係云々、
悟りの未来への意義、価値についての云々、
悟りと迷いの区別云々、
こうした本質的には『再発する迷い』の部類に入るようなあらゆる同一化を
絶対の闇を観想する事によって切り落とせ。
わたしは非常にエゴイスティックに聞こえる言い方をあえてする。
『私ただ一人が、楽ならばいい』
世間も世界も配慮することなく、私ただ一人が楽であればいい。
これが悟りの本当の姿だ。
なぜならば、
ただ自分一人が楽であり続ける事だけが、本当に誰かの役に立てる。
それは全く役立とうとしないが故の助けとなる。
なぜならば、「誰かの役に立つ、助ける」などという思いそのものが、
そもそも迷いだからだ。それは全く、余計な思考なのだ。
同様に、TAOや禅やブッダが世界に役に立つなどというのも
まったくもってして、幻想だ。
この幻想に、陥った人達を見るがいい。
組織宗教ばかりか、瞑想センター、禅寺、なにもかもすべてだ。
彼らは「悟ることがいい」「助けることがいい」「役にたつことがいい」
になってしまった。「あるがままがいい」「無心がいい」と・・。
しかし、本当の悟りには
『いいもの』などというものは、全く何もありはしない。
そんなことをしたら必ず分別の思考が『悪いもの』を生み出すからだ。
だから、無知だけが救いになる。
無頓着だ。無慈悲、無明、無名、無価値、無力が私の光明の原則だ。
あなたが『2度生まれ』すべき、その子宮は、
ただひとつ・・
完全な無だ。
完全な無意味の闇。
絶対的な不毛の世界だ。
それが故に、もしも闇をあなたの対面する家となせば、
誰も、どんな体系もどんな価値観も
あなたの意識に、余計な上塗りをすることは不可能となる。
何を塗られても、闇の前では『無』だ。
あなたに付加された、あらゆるものが、しばらくすれば剥がれ落ちてゆく。
それは最終的には悟りさえも飲み込んで無にするものだ。
だから、あなたの導師は生涯ただ一人、
何もない闇だけだ。
この闇に親しみなさい。
本当の導師はこの闇だけだ。
いつの時代の、どこの宇宙でも
『導師グルの導師グル』はいつでもそうだったのだから。
誰かや何かを導師とせず、
闇なら万人の導師だ。
あらゆる次元、動物、植物も含めて、万物のグルだ。
だから、形式的な寺としては死んでしまったにもかかわらず
『禅の法脈だけ』は、現代にまで生き延びた。
それはすべて瞑想者、座禅者が対面し続けた無の闇のおかげだ。
悟るたびに、つまり一瞥するたびに、酔いは冷まされ、
繰り返し繰り返し闇にほうり込まれて、その無意味を深めるべきだ。
そうやって、本当に悟りは悟りであり続ける。
そうしなければ、いつの日か、悟りでさえも『宗教』になってしまう。
論理になってしまう。技術になってしまう。道になってしまう。
『なんでもないもの』を何かにしてはいけない。
『なんでもないもの』は『なんでもないもののまま』だ。
本当は何があなたを楽にするのか?。
本当はどこが、一番楽なのか???。
それは闇である。
世界、宇宙、価値、
そんな一切が一掃されたほうが、
清々するのだ。
本当のあなたの住み家は
完全な『闇』だ。完全な無だ。完全な死だ。
何度も私は門下たちに語ってきた。
ただ『いる』という悟りの、その次のステップはもう最後だ。
ただ『いる存在性』までは語れる。方法もある。道もある。
世間とのかかわりもある。
それはただの無垢な存在だけだ。
人畜無害で時に奇抜な生の散歩だ。
だが、そのあとはただ『いない』という次元だ。
これは、もはや次元ですらない。