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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1086]
■
■手裏剣術講座●「武術とは何か?」「戦争とは何か?」という根本的な問い
by:
鈴木崩残
2010/03/29(Mon)08:51:14
人間は、なぜ戦うのか?
●この問題については、既に松の間に昔投稿し、結論してありますので、
興味のある方は、過去のログをお読みください。
ただし、もう一度、その「根本」「根源」たる部分を簡潔に説明します。
人類が最初に「戦った」相手は、言うまでもなく、人間ではありません。
それは人間を襲う猛獣などです。
あるいは、食べる為に他の動物を攻撃したのがその始まりです。
部族同士の戦いは古くからあったとはいえ、
もっとも「死活問題」の根底に存在し、部族間闘争すらない集落ですら、
生活のために根本的に存在した敵(または食)としての相手は動物です。
従って、武器術の方が、素手による格闘術よりも起源が早いというのは
異論のないことでしょう。
●さて、次に、今日私たちが耳にする武士の生き方、武士道、
あるいは武家、侍にまつわる心構えや、所作、といったものは、
当然のこととして、
殺人術としての武術の「後」になって生まれたものです。
そして、その「原型」は、言うまでもなく、
(動物とではなく、)人間同士が、戦う為に「体系化された技術」を、
意図的に訓練することを武術と呼びます。
つまり、俗に言うケンカや殴り合いは、場当たり的にする行為であり、
意図的に、日ごろからシステムとして稽古するものではありませんので、
武術とは呼びません。
また、動物相手の場合には武術ではなく、「狩猟技術」と呼ばれます。
●さて、では、武家や侍は、「何の為に」戦うのでしょうか?
これが武術の根底にある最も根源的な問いです。
武術を語るときに、けっして回避してはならないものは、
武術の「現代での存在意義」を云々する前に、そもそも戦う道具だった
武術なのですから、
何の為に戦うのか、が最も根底にあるべき問いです。
●するとその結論はたったの二つしかあり得ません。
戦う動機とは、次の二つのみです。
>1−自らの側から個人や集落や国家を侵略する為に相手を殺すため。
>2−そうした侵略を受けたときに、反撃して相手を殺すため。
これらを、殺しという方法で行わないものを
我々は、政治(政=まつりごと)あるいは外交交渉、または裁判と呼びます。
●このように、攻撃する目的か、反撃する目的、
たったこの二つの目的が、「武術を使って他人を殺すこと」の理由です。
■さて、「二番目の反撃という動機」が「極論」に走ると、
それは「護身術」または「治安維持」、「正当防衛」などと
呼ばれるわけですが、
そもそも、一番目の「殺しによる他者への侵略」というものが、
最初になければ二番目はあり得ません。
したがって、武術の根本とは、
まず侵略行為ありきであり、反撃は二番目です。
■では、なぜ他国や他部族や、他の村を攻撃して、人を殺すのでしょうか?
いかに武術や武士道を美化したところで、
その根本にあるのは、
「生存圏や支配権を拡大すること」が、古今において「戦い」の目的の
ほとんどであったことは否めません。
簡単に言えば、
あなたが「子沢山」になってしまって、食料を自給できなくなり、
>隣の家の人の畑を奪い取るために、隣人を殺したり、追い出すために
>暴力的な手段を使う、これが「武術の発生の根本」です。
それに対する防衛や反撃といったものは、二次的に発生したものです。
■では、どうして他者を侵略して土地や物資を略奪などするのでしょうか?
もう一度いいますが、
「武術」とは、その他者侵略の為に発達したという事実を否定できないことを
よくお考えください。
人間が他者を殺してまでその土地を奪う唯一の動機は、
二つあります。
>1−家族単位または、集団単位での「自給自足」が限界に来たとき。
>2−単なる「野望と欲望」による支配権の拡大。
●しかし、いずれの場合にも、
「人殺し」によってそれをするというのは、いかがなものでしょうか?
交渉というものは大昔から存在しましたし、
そもそも相手と同意して共存すれば、産業的な発達も望めます。
しかしそれが出来ないで、21世紀の現在も、戦いつづけているのが
人間が全く進歩していないことの証拠の一つです。
●以前にも論じましたが、
動物の世界での同種同士の戦いは、
縄張りやメスをめぐるものが主目的ですが、
結果としては命を落とすこともあるような激しい戦いはあるものの、
相手の命を奪うのが目的ではありません。
同種の動物の世界での勝敗は常に「しっぽを巻いて逃げる」
という形で平和的に終息します。
●では、なぜ人間に限っては同種同士で、
殺し合いをしてまで、他人の領地を奪おうとするのでしょうか?
ある意味では、
>武術とは、その最初の一歩からして
>のちに屁理屈をつけたような、礼も仁義も美学もあったものではなく、
>「無礼極まりないもの」であり、「非道なもの」なのである。
●私が推測し、結論した武術と戦争発生の根底の理由とは、
>人間の最大の欠陥の一つである、「人口管理能力」の欠如です。
もしも、食や生活物資に飢えた場合には、回復するまでの間、
一時的に意図的に産児制限をするのが、当然の対処法です。
しかし人類は、今ですらそれを「ほとんど」しません。
次に単なる「野望」による勢力の拡大。
これも多くの場合には、実は「野望」とか「天下統一」などという
>大義名分ではなく、その根底にあるものは「恐怖心」である
>という事実を見る必要があります。
戦国時代の日本の「天下統一」なるもののような形は、現在は、
「ワンワールドオーダー」という形で、ユダヤ資本によって
着実に行われています。
しかしその根底にあるものは、理想主義でもなく、共存法の模索でもなく、
利権争いと、一部の者が富を独占するためのものであり、
支配者側も、支配される側も、
そうした歪んだ思考に陥る最大の原因は、人間の「恐怖心」です。
●これが全く存在しない、珍しい原始的な部族が今も存在します。
ヤノマミと呼ばれる部族です。
彼らの生活の主目的は、毎日「何をして遊ぶかを考えること」です。
彼らは他の部族を侵略しようとは思いもません。
同じように、他国(主にスペイン人や、米英)の侵略を受けるまでは、
戦うなどということを考えもしなかった素朴な民族は沢山存在しました。
●私は平和主義では決してありませんが、
あまりにも無駄な戦いの結果として生まれたのが武術であった
という事実を直視するとき、
今も昔も、決して武術というものをその存在意味の根底からして、
評価できません。
●「理性と、品格と、礼儀と、知恵」をもっとも欠く「恐怖心」が、
野望に、その姿を変え、
時には(アメリカのイラク攻撃のように)正当防衛という口実に姿を変えたもの、
それが戦争であり、
その戦争の道具であるのが「武術」です。
これに反論できる、どのような学者も、哲学者も、宗教家も、
軍事評論家も、武術家も、私はただの一人も見たことがありません。
>戦争の根底にあった、「衣食住」の確保というものは、
>人口管理と、外交交渉で行うべきだったのが、人間の本来の姿です。
●現在は、かろうじて、「法規制」によってそれがなされています。
たとえば、他人を単に侵略すれば、その動機を問われ、
また不注意に反撃すれば、正当防衛かどうかを問われます。
そういう意味では、法律によって個人レベルでは、
なんとか秩序は作りだしたものの、
実は、その秩序や法律というのは、人間の理性に基づくものではなく、
国家内の「内乱を防ぐ」のがその主目的です。
中国と日本を比較した場合、
国家権力による規制対象は、相当に違いますが、実は
どちらも、人間性に基づくものというよりは、
集団生活を円滑に運営するという、内政問題、
>つまり、反乱・反逆の防止が、法治の目的にすぎません。
一方で、国家レベルでは、やっていることは、
国連も、仁義もあったものではなく、
依然として、無礼な他国への内政干渉と「侵略行為」であるに過ぎません。
>その卑怯で、非道な戦争というものの、
>最も下っ端の、前線の兵士に課せられた、人殺しの為の訓練、
>それが「武術そのもの」の起源です。
******************
さて、「武術や武器」を作ったのは戦争であり、
その戦争を作ったのは、「飢えと野望」であり、
その飢えと野望を作ったのは、「恐怖心」である、
という武術史の「レイライン」を見るとき、
あなたは何を思うでしょうか?
●武術そのものが、単に血に汚れたものであるだけではなく、
「人間の無知と恐怖心に汚れたものである」というのが事実です。
ここまで考えを及ばせねば、
その途中または結果の端くれにある、
やれ「技だ」の、やれ「武術だ」の、やれ「精神性だ」のについては、
何も語る資格はないのです。
戦争の手段の一つである(または、過去にそうであった)武術とは、
同種同士が殺すためのものであり、
殺す目的は、侵略か防衛のみであり、
侵略者の動機の根底には、常に、恐怖心がある。
_______________________________
■さて、ここで、皆さん、特に武術を愛好している人には、
耳の痛い話かもしれませんが、
実は、私は現存する、(一部を除く)ほとんどの自称武術家に共通した
性質を見ることがよくあります。
既に21世紀の現在では、武術は生活必需品ではなく、
それを映画や小説や、漫画や、アクションシーンや、
テレビの格闘番組で知って、
「憧れ」から、その愛好家となるケースがほとんどですが、
そうではなくて、何かの自己防衛の必要に迫られて武術をした人、
または、自主的な意志とは別に、家系的にやらされて受け継いだ人、
特に、その中でも、「強くなりたい」または「弱くありたくない」
と思って始めた人たち、
特に、この人たちに共通に存在するもの、
それは「小心さ」です。
私は、かなり多くの武術家と称する人たちの目の中に、
「臆病さ」を見てきました。
ところが彼らは、まるで武術を通して、それを克服できた
「かのように」、言う人もいるわけですが、
ところがどっこい、武術によって養われるのは、
「場慣れ」または「ケンカ慣れ」だけであって
そもそも、動揺しまくっていた自己の精神状態を、
なんとか力づくで自信(または誇大妄想)に変えて、
なんとかして「精神安定」を図ったのが、彼らの不動の精神?とやらに過ぎません。
●セラピストまがいの人間の端くれとして言わせていただけば、
最初にそこに「恐怖心」が存在する場合には、正常な解決法とは、
その恐怖心の出所、理由を明確にして、
それと向き合い、自己分析することです。
恐怖心を武力や力で補うということは、
最も知能のない人間の行うことです。
恐怖心というものは、恐怖心の由来について、
たとえ、自分の生死がそこにかかっていてさえも、
実は、「根拠が、あまりない場合が多い」という事を徹底してみれば、
そもそも恐怖に打ち勝つために、力や武術を必要とすることは
ありません。
なにしろ、その恐怖がなくなれば、
おのずと、本当にそこですべきことは、見えてくるのですから。
●こうしたことに、実生活の中で自問を繰り返していた人の
武術家の「ごく一部」が、
禅僧に、教えを受けようとしたのは、ごく自然なことです。
ただし、現代で、単にハクをつけたいとか、
武術家ぶりたいから、といって、禅門など叩いたり、
口先で禅師の言葉を引用したりしても、
そこにいるのは、単なる葬式坊主、能書きだけの糞坊主や、
禅かぶれの馬鹿者にすぎません。
何も平和主義になったり、武士を捨てるために
一部の武術家は、禅門を叩いたのではなく、
また、「技を磨くために、禅門を叩いたのではありません。」
技を磨くために禅門を叩くのは、もっとも愚かなことです。
なぜならば、仏教がそもそも殺生を禁じているという事を、
この際、脇にどけたとしても、
禅門で学ぶことの一つは、「いらぬ恐怖」についてだからです。
>恐怖とは、常に、
>「死」または「喪失」「損失」に対する心の作用です。
世間では、これをまるで生き物が持つべき「当然のこと」
「生存本能だから当たり前だろう」として、全く疑うことすらしません。
しかし、禅門では、
「とっとと、座って、そこで死ね」
「人間、本来無一物」
「無欲で一切は足りる」
といったことが、その「方便」の根幹にあるわけです。
ただし、これらを言葉の通りにとってはなりません。
また、それらは、
物まねや、知ったかぶりで到達できる境地ではありませんし、
いわんや、禅は「恐怖と欲望の産物である武術」とは、
何のかかわりもありません。
それでも、禅門を正しく叩いた、「ほんのわずかな武士」がいたとしたら、
それは、そもそも「武芸、武術、殺生、侵略」のその根本を作り出しているのが、
「自ら個人の恐怖心に他ならない」と、気づいた人たちのみです。
だから、現代ではなく、昔の中国や日本の禅僧というものは、
礼儀やら常識やら、生存競争とは無縁のところで、
ひたすら、
人間は、無理をして生きようとするほど価値のあるものではない、
よって、世間の常識のみならず、「悟り」へのこだわりをも含む、
あらゆる執着の心と妄想が落ちれば、
自らの内面は、どこまでも、あるがままで、愉快で、美しい。
少なくとも、自分を悩ませた心の不安と苦は、もうそこにはない。
ということを発見した稀な宗派、
偶像崇拝や、神など必要としない、人間個人の自主独立の為の宗派、
形式や、魔術や、何かの神仏への崇拝を強制などしない宗派、
ただただ自分の苦から逃げずに、それに向き合えという宗派、
それが、禅宗の前身である、「原始仏教」の到達点です。
(現代の、ごちゃ混ぜ異端仏教モドキではないことに注意)
_____________________________
■さて、最後に、
日本では、年間3万人以上の人たちが自殺をしています。
動機はさまざまですが、
ある意味で、この人たちは、社会生活という「戦場」で、
戦って死んだ人たちです。
●本来、「哲学者」以外には、自殺者など出してはならないのが
社会や国家というものである。
しかしこの3万人という数をよく考えてください。
ここ数年で年間3万人を維持していますが、
15年というスパンで見たら、なんと、約30万人以上になります。
30万人といったら、大規模な戦死者数や、大規模災害での死者数ですよ。
日本という国は、戦争もしていないのに、
これだけの数の「戦士」を失っているのです。
そういう意味では、
私は、自殺者のことを、
「人生の負け犬」とは呼ばず、こう呼びます。
愚かさの多い、この「社会的な生存競争」という「戦場」で倒れた、
「戦死者」たち。
◆最後に、私が好きなビデオを紹介します。
たったの8分ですから、飽きずに、どうぞ最後まで見てください。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=MdOHVOhrVak
私は断言します。
これらの悲劇から、
人類や家族を「守るため」に武術が発達したのではありません。
これらの悲劇を「作り出した」のが、武術であり、戦争です。
それが「現実」です。
◆だから、私は堂々とこう言います。
「何の為に手裏剣を放り投げているか?」だって?
あんた馬鹿か?
刃物投げという、「曲芸の道楽」に決まってんだろ。
じゃー、聞くが、
あんたは、何の為に手裏剣をほうり投げているのかね?
何の為に、日本刀や古武器を、振り回しているのかね?
私は、自分の手裏剣(投剣術)という「道楽」の趣味に、
一点の心の曇りも、一点の迷いも、精神修養という目的すらもないですよ。
私の手裏剣の動画が、あなたたちと違って、
いつもいつも「常に楽しそう」なのは、それ故ですよ。
◆でだ、一方で、
断じて、「道楽」ではなく、「これぞ、真の本物の武術だ」とか、
「これでこそ人を殺せる技なのだ」とか、陳腐な小心者の臆病者が、わめいて、
「正当防衛」や「護身術」や「侵略の為の武術」として、
あるいは、
その動機も、結果も、血塗られた、汚れた歴史を持つ「伝統文化」
として重んじているのだとか言う、そのあんたは、どうなのさ??
武術の「発生」の歴史と、その事実について、深く考えることもなく、
何をやってんのやらですよ。
***************************
■ちなみに、
現在、日本の優れた文化的「ブランド」として海外でも評価を受け、
また自負できる日本の伝統文化の(全部ではないが)かなりの部分が、
江戸時代にその基盤が形成されたことにも注意して戴きたい。
すなわち、戦にあけくれていた時間を、
他の事に使えるようになってこそ、
初めて文化を熟することが出来たのであり、
さらに言えば、武士の心得や、剣術やその他の武芸の体系化もまた、
多くの部分が、実際にそれが殺人の手段として、使われなくなった時代に
作られたり、まとめられた、という点も留意すべきである。
このように、戦争というものは、
常に「文化的発展」を妨げたり、過去の資料を損失する人災となってしまうものだ。
■しかし、黒船がやってきたときに、
軍事力において、日本が天下泰平の中で、
全く進歩していなかったことに焦りを持った人々によって、
その後の日本は変わっていった。
そのままもしも江戸時代を続けていたら、
日本の文化は、独自にもっともっと発展していたかもしれない。
しかし、その一方では、もしもそうしていたら、
他のアジア諸国のように、米英に簡単に植民地にされたかもしれない。
いずれにしても、「侍の精神」を云々などする前に、
まず、人間の精神を云々すべきだろう。
_______________________________
■ところで、
これは、フェンシングの一種なのか、
それとも派手なアクションを伴う、中国剣術を真似ているのか
さっぱり私には分かりせんが、
防具を使用する、こんなスポーツがあるようです。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=wwTHY4AQwsI
http://www.youtube.com/watch?v=nHC9edA-LsU
http://www.youtube.com/watch?v=iCgkd1bJShY
_______
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