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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
手裏剣術の画像・動画が、
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[1182]
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「手裏剣術講座」 【武術界の厄介者としての手裏剣術】
by:
鈴木崩残
2015/04/10(Fri)12:47:50
自虐的 手裏剣論
投稿のタイトルに「武術界の厄介者としての手裏剣」と書きましたが、
私の中で、「手裏剣術とは何か」と尋ねられた場合に、
ひとつの結論が出ていますので、それを記したいと思います。
自虐史観ではありませんが、あえて、自虐的に、
「手裏剣の、どうしようもないところ」を、書き連ねますと、
これまでにも、ここ過去数回の投稿に書いたように、
>「確実性の低い、または不安定な武器は、武具の意味をなさない」
ということ集約されます。
が、もっと突っ込んで、そもそも、手裏剣術はなぜ発生したのか?、
という単純な事実を推察してみる必要があります。
●手裏剣術の起源は、非常に単純なことであると推測できます。
それは、
>「たまたま、手元に投げるものがなく、尖ったものを、投げつけた。
> そうしたら、それが相手に当たって、たいそう相手は痛がった。
> またあるときには、たまたまそれが相手に刺さってダメージを与えた」
誰でもやりそうな、そういう事をやった者は沢山いた筈ですが、
何を血迷ったか、その中の少数の者が、
>「この尖った棒、または刃物を、たまたまではなくて、いつも刺さるように出来ないか?」
と考えて、木に向かって、馬鹿みたいに、尖った棒や刃物を投げていた。
この起源以外に、いかなる起源も、手裏剣術にはありません。
●では、どういう者がそんなことをするのか?となると、
>1/第一に「暇人」です。
練習をした労力のわりに、確実に刺さる確率の低さと難しさから、
「こんなことをやっている暇があったら、剣を100回振っていたほうがマシだ」
そう考える人が「正常な頭」の持ち主です。
よって、暇があったから、手裏剣術に勤しんだということです。
>2/第二は、「弱い者」です。
剣術その他の武術で、弱くて劣等感があった者が、
なんとかして勝ちたいと考えて、尖った棒や刃物に頼ろうとした。
しかしこの2のケース、よほどの馬鹿でないかぎりは、
そん稽古をしようともしませんので、2は圧倒的に少なく、
早々にそんなことを見限る人が、大半だったはずです。
>3/第三に「売り物」としてです。
時代がもう少し進んで、実際の戦がなくなった江戸時代に入ると、
剣術道場が、門下生を集めるため、または、どこかの書で読みかじったかして、
手裏剣もやるべきたと、思い込んだ場合です。
それでも、ほとんどの流派が失伝したのは、
言うまでもなく、手裏剣術には「優れた点がなかった」
実際には「使い物にならなかった」これが圧倒的な理由だということは
容易に察しがつきます。
難しいから続かなかったとか、傳系が失われたのではなくて、
効果的でないと考えた、まともな神経の人が多かったということです。
結果として、現代に残ったのは、わずかな流派ですが、
残ったから、優れていたというのではなくて、
たまたま、「受け継ぎたい者」たまたま投げる動作が「器用だった者」
「投げて刺すのが好き」だったり「かっこええ、と思った奴」がいた、
というだけで、何かの権威があるわけでも、文化保存の価値があるわけでもなく、
すべてが、たまたま、です。
*********
●私は次のことは否定しません。
1/
人は、刃物や尖った棒を、距離の離れたところから投げて刺せたときに、
独特の快感が生ずる。(この生理的、または大脳的な理由はまだ不明です)
2/刃物やナイフや斧を、投げて刺すのは、見た目がかっこいい。
自分もやってみて、出来たら面白がれると思う。
この二つは、投剣の世界では、否定しようのない事実です。
それ故に、高度な技は、曲芸やサーカスの芸となり、
また、ナイフスローという競技になりました。
●ただし、私が絶対的に否定する言い伝えがあります。
それは、
>>食べる物がないときに、手裏剣で小動物を倒して食した。
これを言う者がいたら、どんだけ有名な奴でも、
「バーカ」と思って間違いないです。
常識でものを考えられないぐらいに馬鹿だからです。
時代背景が、江戸時代ともなれば、手裏剣一本を作る労力も
現在の機械製造のように簡単ではなく、また鉄も貴重ですし、
そんな貴重なものを、たかが野ウサギを食うために、投げる馬鹿は
絶対にいません。
いたという話があったら、それがどんなに敬意を持たれる文献に
記されていたとしても、完全な「与太話」です。
あなたは、たとえ、一本1000円という安い手裏剣であっても、
当たるどうかも不確かで、あたっても、外れても、
場所が、もしも草むらだったら、あとで見つからなくなることもある、
という、そんなものを、何本も、たかが小動物を食うために、
捨てるよう投げると思いますか?
仮に、かなり腕に自信があったとしても、距離は3間程度です。
●しかも、過敏な動物を相手に、仁王立ちして打つわけがなく、
身を低くしての打剣となるのは必至なので制限が加わります。
そもそも、人間が、小動物に3間まで近づいて、
その動物が警戒して逃げないということ自体が稀です。
3から4間の距離に止まっている小動物で、
手裏剣で気絶させられるもの、となると非常に限られてきます。
それならば、石で十分です。
また動いている小動物や鳥など、めったに手裏剣で落とせませんし、
そんな確率が悪いことを、自分が飢えているとき、
自分の行動の優先順位のトップにする馬鹿はいません。
というより、動物の肉なんか探している暇があったら、
>「食える野草や木の実を覚えておけよ、この馬鹿者め」という話になります。
●というわけで、
「昔、侍が食うものがないと時に、
手裏剣で獲物を打って、飢えをしのいだ」
これを、「そうだったらしい」と書くにしても、
「そうだったのだ」と断言するにしても、
これを、疑問もはさまずに、著作に引用として書いていたり、
サイトに書いていた者や流派がいたら、馬鹿だと思って間違いないです。
それが現実に、出来るか出来ないかの問題ではなく、
そんな馬鹿なことを書き記したり、
手裏剣術の歴史の一部として、自慢げに書く必要がないのです。
>小動物がいる植生の場所には、必ず人が食べることの出来る植物があります。
>そうした木の実や草を食べていたに決まっていますので、
投げたら結果、失くしてしまい、おろおろするような貴重な手裏剣を、
あとで見つけられるように草木もなく、見晴らしがよい場所で、
座打ちで打って、しかも相手の動物は、その人間に気づきもしないほどにトロイ。
そんなことは「狩猟」ですらありません。
●日ごろ、先生とか言われている、全国の手裏剣をたしなむ師範、宗家、
先生の皆様、きちんと、これぐらいの常識は、おわかりでしょうね?
だったら、どこどこの昔の書にそう書いてあったなどとと、
恥ずかしいことを書けば、せっかくのその書そのものの信頼性が失われます。
●また、「川や池に浮かべた果実に刺す」だのというは、
「どんだけ雅」な「馬鹿殿の遊び」なのか知りませんが、
川や池が浅いならば、まだしも、底が深かったならば、
手裏剣をそんなふうに、ぞんざいに扱えるとは、
たいそう、「裕福な人」だったのでしょう。
まさか、従者や召使に、投げたあとで、
川底から手裏剣を拾わせていた、とかじゃないですよね。
*********
●さて、話を戻します。
冒頭に書いたように、手裏剣術の発生は、ご大層なことではなく、
たまたま、投げた物体が、尖っていたり、刃物だっただけのことです。
それが、何かに当たるのは当たり前だが、
>それが「刺さった」のを見て、再現性があるかどうかを
>暇人、または、弱い奴、または、かっこいいと思う奴が始めた。
>これが今日「手裏剣術」と言われているものの根源です。
●むろん、作られたその最初から、
投げて刺す事を目的にして作られたものではありません。
手で投げて刺すためにこそ作られたのは、投げ槍、打根だけでしょう。
そして、その効果と殺傷力をより確実にするために、
弓矢へと発展したり、「投石道具」として進歩します。
ところが、手裏剣ときたら、せっかく投げやすく作っても、
直打法とかいう、けったいな、無理なことをして刺そうとする。
とっとと、車剣などにしてしまえばいいのに、
物づくりが起用な日本人のくせして、車剣は携帯性がどうのこうの言ったり、
とにかく、あれこれの理屈をつけては、
いつまで経っても、馬鹿みたいな時間をかけて訓練しないと、
まともに思った所に刺さりもしないという、「超・低能力の武器」、
それが手裏剣です。
「隠し武器」ならば、他の物の方がマシです。
*********
ですから、「手裏剣術」というものは、
生き死にを決定するに際して、確実にその能力を発揮する、
刀類、剣類、杖、またはその他の飛び道具に比べたらば、
自分や自分の家族、村、藩、を守るには確実性が低い、という点において、
>そもそも、武器としては、お払い箱になって、しかるべきものなのです。
目的が、戦って、勝つこと、村や領土を守ること、ならなおさらです。
●何度も言いますが、石、その他の物体を相手に投げるのは、
ある意味で、本能的なものでもあり、その効果と意味があります。
車剣を投げるのも、それが実在したかどうかは別として悪くありません。
●が、しかし、刺さりにくいもの、投げにくいものを、
わざわざ、時間までかけて刺そうとするのは、
間違いなく、暇人であるか、かっこよさに憧れているか、
または、正攻法の武術では「弱かった者」、これ以外にありません。
●これ以外の理由というのは「武術」ではなくて、
投げて刺さるという現象の「再現性への興味」があったり、
それが「快感、好き」という、私のような人間だけです。
実は、私は、ナイフや手裏剣を遠くから投げて刺すことが、
「かっこいい」などと思ったことは一度もありません。
すでに、私が投剣を始めた理由や、その経緯の投稿で書いたように、
「実用性」ではなく、「そういうことは安定的に出来るのか?」
という好奇心だけが動機でした。
そして、その後、その感覚に、しばらく何年も馴染んでいました。
しかし、投げ打つという動作は、
>その身体運動も、舞踊や武術型のように、特に優美なものでもなく、
>ただ投げている動作ですから、美も品もありません。
三振を取るピッチャーでもないので、全くかっこいいとは思いませんでしたし、
今でも、他人も自分も含めて、ナイフ投げや、手裏剣術を見て、
>かっこいい、などと思ったことは一度もありません。
私がいつも、他者の投剣を見て思うのは、
「たくさんの練習をしたのだろうな、
きっと、投げて刺す事が、好きだったのだろうな」
ということのみです。
*********
手裏剣術は武術界の厄介者である
●この場合の、「厄介者」というのは、
ヤクザ的だったり、はみ出し者だったり、強いという意味ではありません。
「お前、なんで、古武術界に、顔なんか出しているんだ?」
という意味での「厄介者」です。
●皆さんに、よく考えてほしいことがあります。
それは、
>「武術」とは、そもそも何か?というです。
その原点をさかのぼるならば、
それは、原始社会の「殴り合い」に始まったはずです。
道具をまだ使わない類人猿であった時代に、
「自分の縄張りを維持」するため、
逆に、「相手の領地を侵略」したり、
作物や物資を「略奪する」ため、
食べるための「獲物を捕獲」したり、
自分を「襲ってくる動物を殺す」ため、
いずれも、最初にしたことは、
手で「つかむ」または「殴る」という動作です。
猿で、踏みつけることはしても、「蹴り技」を使う猿がいないことから、
類人猿にとっても、道具なしの時代の、もっとも基本的な、
「戦う」ということは、「つかむ」「殴る」という行為です。
>●武術または「戦争」の原点は、素手で殴ること。これに尽きます。
これに異論はないはずです。
「威嚇」の為の雄叫び、というのがその前段階にはあるかもしれません。
いずれにしても、
>戦いの原点というのは、「殴る」、「つかむ」、か、「逃げる」です。
足が速くて、逃げ切るのも、むろん勝利です。
●相手が人間であれ、
動物であれ、道具をまだ使わない原人という前提ならば、
最初は、
「手で殴るという行為」、「とっくみ合う」、または「足で踏む」、
これがすべての武術の根源であり、「蹴る」は、たぶんもっとあとからです。
●そして、「2001年宇宙の旅」のように、
一本の骨を手して、それで相手を殴ったこと、その道具が、
やがては、核ミサイルにまでつながるわけです。
その骨や石という武器から、現代の「無人殺戮機」に至るまでの、
その長い武器の歴史の中の、ほんの一時期に、
刀、その他の、前時代的な、古い武器があるだけのことですが、
ただし、それらの武器は、時代のニーズとともに、より洗練され、
よりその目的を果たせるようにと作られ、
速く斬れる、操作しやすい、曲がらず折れない、など、
それで人殺しをしていた時代には、まさにその目的のために作られました。
今では、試斬をしない流派や、コレクターにとっては
ただの美術刀ですから、折れてしまうような刀でも良いらしいので、
すでに、その目的は観賞用へと変形しているようです。
●一方で、刀は戦いの現場から消えて、また弓矢も現場からは消え去り、
すべては、銃器に変わりました。
「武器」は、常により「確か」に相手を殺せるように作られますし、
その操作法も、確実に、相手を殺せるか、または自分を守れるように
作られます。
(捕縛や逮捕術のための、人道的な武器は、
「捕縛/護身・武具」として武器とは分類を分けたほうがいいです)
●刀は、それが実際に使われていた時代には、最大限に、
いろいろな確実さを求めて作られ、また使い方にも確実性が求められました。
その「確実に勝てる可能性のある操作法」が「刀法」と呼ばれるはずです。
●しかし、手裏剣術という「やから」は、
そうした、一環して「より確実な武器を練磨していった人類史」に
横から、どういう拍子で「割り込んできた」のか知りませんが、
あきらかに、
効率の悪い武器、
進歩しない武器、
進歩させようともされない武器、
その上しかも、難しいわりに、現場では不確かさを伴うという、
こう言ってはなんですが
「ほんとうに、しょうもない厄介者」なのです。
>「武器術の歴史」の中でも、
>また、「武術、武道の歴史の中」でも、
>価値も、収まり場所も、上手く獲得ができなかった、
>過去の遺品なのです。
何度も言いますが、石や車剣とは違った現象としての、
・投げて刺すということの快楽や、自己満足感覚、これは良いのです。
・スポーツ競技としても良いですし、
・他人様からお金を戴けるほどの曲芸の域に達した人は、素晴らしいと思います。
●しかし、「武器」としても、中途半端で、
武術としては、習得が難しいわりには、
実用性のある技としても、中途半端で、
ようは、手裏剣術は、武術という世界に、
正当な理由や、存在価値をもって、収まる場所は、今でも、まだないのです。
だから、手裏剣術というのは、武術界の、はみだし者、
などという、かっこいいものではなくて、
「どう扱えば良いのかが難しい、武器の中の劣等生」である、
だから、多くの、まとも人は、そんな劣等生は、
自分たちの生き死にをかける真剣勝負の中には組み込まなかった。
つまり、原則としては「つまはじき」。
これが正解であろうと思われます。
●私は、武器、武術としては、手裏剣の価値を軽視していますが、
一方では、なんとかして、
恥ずかしくない「居場所」を、手裏剣に与えられないだろうか、
ということで、ここのところ悩んでいるわけです。
個人的には、投剣は好きでやっていますが、
「文化的な意味」では、私は、やはり、
それをする人たちが、他の武術の為の稽古時間を無駄にしてしまいかねない、
「馬鹿げたこと」を、やろうとしている人間である、との自覚はあります。
黒田氏も、ここでは生き生きしていますね。
↓
と、同時に手裏剣を外せば、こういう刀法が向かってくる
ということを覚悟しないとならないわけです。
*********
★
.
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