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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
手裏剣術の画像・動画が、
他に類を見ないほど多く掲載されています。
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[1191]
■
「手裏剣術講座」 【それぞれの人が求めているもの】
by:
鈴木崩残
2015/04/24(Fri)17:33:09
求めるものを明らかに
●ここ最近の投稿で、私は「求めているものを明確にすること」と、
なぜ、それを求めるのかの動機の自己分析の必要性を書きました。
私の研究してきたことは、手裏剣術という限定された分野ではなく
「直打法」という分野です。
そこで、まず、どうして手裏剣術などというものが、
現在、多少なりとも世の中の、それも武術という世界で知られているのかと言えば、
出所は、非常に限られます。
まず第一に、ルートとしては、武術からではなく、
創作的忍術からという形で、藤田西湖の「手裏剣術」の本、
次に、投擲術全般を扱った、白上氏の「手裏剣術」
岩井虎伯氏の、隠し武器についての「秘武器のすべてが分かる本」
と、だいたい書籍から知った人はこれぐらいしかないはずです。
VHS時代の磁気テープのビデオでは、「根岸流」と「明府真影流」
●しかし、かなり多くの人は、「甲野氏」の著作その他から知ったはずです。
さて、そこで、甲野氏といえば、武術というよりも、
身体の使い方という観点からの古武術という世界で知られているわけで、
そうなると当然出てくる理屈は、「昔の人は・・・」という論調です。
●私は、少し前に、私の投剣暦に記したように、ナイフ投げは長かったですが、
本格的には2003年ごろから、直打法を始めましたので、
直打法に関しては、まだたったの12年程度といったところです。
ただ、その間に、少数の人たちと接してみて、
次のような「キーワード」が、その人たちの脳、つまり思考パターンを
支配していることが分かりました。
●それは、
「武術脳」
「武道脳」
「古武術脳」
「スポーツ脳」
「実戦脳」
「アクション脳」
などです。
この中で、とりわけ、問題であったのは、「古武術脳」ですが、
これは後述するとして、
その「方向性」がはっきりしているものは次のとおりです。
●これらの方向性であれば、直打法という投剣術は、それぞれその人が、
そこに「求めている姿(自己理想像)」がはっきりしてきますので、
何を目指せばいいかが明確になり、
結果とした、すべきこと、したいことが明確になります。
■「??武術脳??」
武術とは、そもそも何かという前提問題がありますが、
これは「戦う方法」と定義すれば、格闘、戦闘術「全般」となります。
が、その定義が非常にあいまいですので、下記のように細分化しないとなりません。
↓
■「武道脳」
おそらくは、「競技武術」のことを意味するのだと思います。
何かの対戦ルールの中で、「点数を取って勝つ」のが目的です。
代表的なものは、空手や柔道を含む、何種類かある格闘技や剣道などです。
★これを手裏剣に求めた場合には、ルールを決めないとなりません。
そして危険性のない道具や防具作りです。
しかし、ここではヴィジョンがはっきりしますのでやるべきことが決まります。
■「スポーツ脳」
競技ではなくて、身体作りと、スポーツとして楽しみたい。
これも明確な目標になり得ます。
★これを手裏剣に求めた場合には、体のことを考えて、
肘を痛めない投げ方や、投げる距離にも注意しないとなりません。
ただし、投剣術では、くびれは出来ないと思いますし、
ヒップアップも、バストアップもせず、メタボも直りません。
■「実戦脳」
これは投剣術を、極端に言えば、現代の軍でも使えるようにしたり、
また「護身術」への転用などもここに含まれます。
特にスタイルや所作に決まりはなく、殺傷力や攻撃力に有効性を求め、
しかも、想定される範囲や状況は広くなり、
江戸時代や戦国時代ではなく現代で通用するかが問われます。
★これも投剣術が目指す方向性がはっきりします。
■「アクション脳」
これは、かっこいいから、ということでしょうから、
いかにして、かっこよく見えるように投げるかという、
殺陣、またはアクションを考慮しないとなりません。
振り付けの一部となります。
★それでも、これが目的となったらば、投剣術をそのように変形させらます。
*********
論点は「投剣法」というものを
「武術」の枠に入れたいのか?
「古武術の枠」に押し込めたいのか?
さて、一番、長年、ワケワカメなことを言い続けているのが、
■「古武術脳」の人たちです。
しかも、ワケワカメなことを言い続けているばかりか、
経年とともに、どんどん、「変な方向」に行っています。
しかし、どうしてそうなったのかには、その経緯というものがあります。
●そもそも、まず、「古武術的動き」ということは、
甲野氏による普及効果にかぎらず、大昔から日本でずっと親しまれてきたものですが、
「古武術的」なように見える、
または、そういう理で手裏剣術をやりたかった、という人は、
自分が見て、
「これならば、古武術のような手裏剣術だ」と思えるところを探して、
さっさと入門すれば良かったのです。
●しかし現実には、どうだったでしょうか?
ここから書くことは、私個人の意見ではありません。
私個人は、どんなスタイルで投剣術をする人たちも、
(人格的に壊れていないかぎりは)、海外の人たちも含めて、
それぞれの持つ技を、「複数の視点」から個別に高く評価しています。
が、どうも、古武術にこだわる人たちは、そうではないようです。
だから「古武術脳」と私が呼ぶのです。
■1990年代からこれまでの手裏剣術なる世界を見てきたかぎりでは、
いわゆる、「古武術」にこだわっている人で、
「手裏剣術」を本格的にした人は、非常に少ないはずです。
ただし、それは、稽古場がないからでは決してありません。
「古武術脳」の人たちは、彼らが思い描いている、
あるいは、身体で覚えたと思っている、古武術に類似する手裏剣術を、
「見ることが出来なかった」ということです。
●考えても、みてください。
そんな「古武術的手裏剣」などというものがあったらば、
古武術について、「知っている、学んできた」という人たちは、
すぐさま、どういう動きがそれであるかを分かるでしょうから、
どこかに入門したはずです。
ところが、起きたことはこうです。
何度も言いますが、これは、
「投剣術という世界全般」と親しんできた「私個人」の見解ではなく、
その「手裏剣難民」となった、
古武術脳の「複数の人たち」が言ってきたことです。
*********
『甲野氏?、ありゃ、ただの古武術研究であって、古武術じゃねぇーよ』
『根岸流?、ぜんぜん、古武術的動きじゃないじゃないか』
『八角流? 伝統武術じゃなくて、創作だろ?』
『明府真影流? ピッチングモーションで、どこも古武術じゃないじゃん』
『無冥流? ナイフ投げで武術じゃないだろ?』
と、3間すらも通せない者が、
4間以上を通す人たちを勝手に揶揄するわけですが、
「そんなに文句あるなら、
とっとと、古武術家に頭さげて、古式手裏剣術でも習えよ」
ということになりますが、
香取神道流ですら、実質的には、失伝状態にあるとしか思えません。
演武会として、見たことは「私個人」はありません。
柳生新影流の系列もそうです。
つまり、真に誠実で正直な人たちは、
実質的に継承者がいなく「失伝」していることを隠しませんでした。
また、同じく正直な人たちは、古武術とは呼ばず、
自分自身の創作であり、創意工夫の結果であることをはっきりとしてきました。
*********
それで、話は「古武術脳」に戻りますが、
結局のところ、彼らが「恋焦がれている手裏剣の動き」というものが
映像やリアルの世界で見つからなかったために、
一種の、「武術難民」となり果てて、
結局は、想像と妄想を膨らませて、適当なものを作るしかなかったわけです。
ところが、彼らの頭の中には、
冒頭に記した、投擲術のそのベクトルが明確である他の分野とは異なる、
「古武術脳」なるものがあるようである。
●よって、膨大に文書が実際に残っている「いろいろな兵法」に比べたら、
雀の涙ほどしかない、手裏剣に関する記述から、
「古武術であるならば、いや、たぶん、こう投げていたに違いない」
という推測で、組み立てています。
■しかし、そんなに「古武術、古武術」と強く執着したいというならば、
事は、非常に簡単であり、
いわゆる古武術的な動きを崩さずに、
かつ、実戦で使えることの妄想を、たくましくするのであれば、
>打剣距離は、2間で十分である。
2間ならば、剣術をしている人たちだって、
>わざわざ、どっかの講習やら、手裏剣の講座など受けずに、
>古流の形を崩すことなく、手裏剣を投げられるはずです。
たったの2間です。
>しかも「反転打法」もやっていいのですから。
■古武術にこだわり続ける人には、直打などやめて、反転打をしなさいと、
私が薦める理由は、
この動画のように、椅子に背もたれて、
しかも足を、ここまで殺しても4間近くまで投げられるということは、
>ねじれがなく投げられる、ということだからです。
↓
足を伸ばしての「反転打」です。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=KdTfUd_APGA
手首を縛られていても近距離なら「反転打」で打てます。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=HAodc0eHV8Y
「反転打」は椅子に座っていても打てます。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=P9MKxWtv-nk
●なので、そもそも、そのことが分かっていたならば、
どこの本にどう書いてあろうが、直打は、せいぜい2間から、
遠くても3間程度にして、独学でやればよかったのです。
であるのに、どうしてその古武術脳の人々は、
わざわざ、手裏剣を専門にしてきた人たちの所などに行くのでしょうか?
甲野氏や、八角流の半田師範が、10間を通したと読んだり、
聞いたり、見たりすれば、
「すごいな」と、正直に思う反面で、裏では、すぐに
「あんな距離から投げても、ただの的当てだ」といい始め、
だったら、的当てなど、やめればいいのに、
なぜか、それまでの持論を崩して、5間とかを通そうとする。
(身体作りとしても、5間などは、全く意味がないのにです)
他の実演者を見ても、「実戦的でない」とか、
(「実戦的でない」というのであれば、それはベクトルが明確で
分かりやすいので理解できますが)
「古武術的でない」というこの意味が、ワケワカメなのです。
■既に言ったように、「古武術」というものが、
もしも、しっかりとその人の頭に、定義としてあって、
また、長年の鍛錬で、その身体に、しっかりと刻んできた人ならば、
少し前に羅列したような、手裏剣術を演武してきた人たちは、
根岸流すらも含めて、
>距離3間以上あたりからは「古武術的な動きではない」と、すぐに分かったはずです。
だから、そういう人たちは、手裏剣術には見向きもしなかったのです。
決して、卑怯な飛び道具だったから見向きもしなかった、のではなくて、
「彼ら言うところの古武術」とするには、
伝書がなく、それらしい継承者や、実演武者もなく、
さらには、距離2間に限定すれば、特に師も要らない、素人でもいい、
ということで、「誰も見向きもしなかった」ということです。
■ところが、本には4間とか書いてあるので
手裏剣に興味を持った、古武術家やマニアは、
4間を通さないとダメだと、思い込む。
こういうことを繰り返してきて、結局どうなったかというと、
「何の進歩」もありません。
■私個人は、
たとえば「実戦」を想定する人がその目的を明確にするのであれば、
最近の投稿にも書いたように、現代の服装で貫けるのはどういうもので、
どういう距離からで、どういう打法のみに限定されてくるか、
ということは、おおよそは、割り出せます。
■また直打法を、競技やスポーツとして、手裏剣を楽しみたいというのであれば、
10間でも通せるように、教えることは出来ます。
これについては、私ではなくても海外やロシアのナイフスローでも同じです。
■しかし、一番困った人たちが、
「手裏剣術」を「古武術の一部だったはず、なんだから」といい続けた人たちです。
別に、古武術界とか伝統、をその背中に背負ってではなくて、
「個人」として、創意工夫をしてきた甲野氏や、半田氏を揶揄し、
根岸流も、剣術的じゃないと、揶揄し、
明府真影流など、スポーツだと揶揄し、
が、そうやってきた人たちは結局、どこにも到達していません。
(ただし、後半の二つの流派は、
「古流の流れを組む」と明確に公言してしまっているので、
その実態が乖離していれば、批判されてもしかたありません)
●甲野氏の場合には、
おおいに「古武術」に対する「持説」をぶちまけてはいるものの、
手裏剣に関しては、武器武術や、実戦性として、というよりは
「身体操作」の研究のために手裏剣をしているということは、
最初から本人が公言していますので、そこは矛盾はありません。
しかし、それを見た人の一部は、
「なんだ、たいしたことない」とか言い始めて、
では、その人たちの言う、「大したこと」とは何なのか?
というと、その「ヴィジョンの説明」も出来ず、自分で実演も出来ず、
実演しても、おそらくは、同じ他の「古武術脳」仲間から見ても、
「あいつ、何してんねん?、ぜんぜん古武術じゃないじゃん」
と言われる始末です。
*********
■かくのごとき状況に陥ったのは、
すべて「目的」を明確に自問して、自分に答えを出せなかった人たちと、
批判だけはするが、自主独立的なヴィジョンがなく、
他人のやっていることを横目で見る事に、囚われている人たち、
そして、何よりも、
「なぜ、手裏剣をしたかったのか」、「何にあこがれたのか」、
それで、「他人から、どう見られたかったのか」、
何を「誰と、心の中で、競おうとしていたのか」
あるいは、自分で何を、つかみ取りかったのか、
そういう自分の「動機」の部分について、
まったくピントがぼやけているのです。
●結局のところ、そこまで「古武術はかくあるべき」というのであれば、
そもそも最初から、
4間など打とうとせず、3間すらも必要なく、
誰にも教わらずに、
誰とも、どこの他流とも、競おうとせずに、
自分で工夫し、古武術的な動きを厳守できる方法や、
厳守できる反転打法を使うなどして、
「2間打ち」だけを徹底し、
あるいは、何度も複数の他流と「対戦」をしてみて、
自分で納得のいく「古流なるもの」を組み立てる以外にないのです。
で、そういうことをした人は、どこかにいるかというと、
たぶん、今も、どこにもいません。
むろん、私も、そんなことは、興味もないので、していません。
■いずれにしても、
>「自分は、こういうスタイルで、こういう距離で、こういう投げ方をしたい!」
それが、漠然とではなく、明確にイメージできているのであれば、
それをイラストにし、それが本当にできるかを自分で考え、
そのためには、どういうトレーニングや技が必要かを精査する、
そういう当たり前の作業が必要です。
*********
●私個人は、「スタイルに関係なく、投げて刺すことが楽しい!」
そういうごくシンプルな人であれば、
直打法での、10間打ちだろうが、
4間からの、直打法での10本の多本打ちだろうが、
5間からの直打法での、ハサミ投げだろうが、
5間からの、下手の直打法だろうが、
無冥流の「基本型」、「前後打ち」、「距離を変えつつ刺す」、
そして何よりも、実戦的かを別にすると、
その身体感覚が、実に楽しい多種の「打法」を感じられるという醍醐味があります。
「無心剣」以外、のことであれば、
初心者から、きっちりと、その人が「明確にした目的」があれば、
それに応じて教えられます。
●いずれにしても、完成したその自分の姿をイメージできるかどうか。
また、その実現に、理論的な無理はないか、
実現するには、どうすればいいかを試行錯誤して、結果を出すことです。
●私は、2003年ごろには、10間というのは、
どうやったら直打で刺せるかを、剣と打法の両面から考え続けました。
次に、同時に何本までならば直打法で、何間距離から刺せるか?でした。
6本なら6間から、10本ならば4間からでした。
これも、単に練習したのではなく、考え、工夫し続けました。
下手の直打法というのは、どこまで届くのか?
ぎりぎりで6間、安定的には5間でした。
これも、一時は、4間で行き詰りました。
続けた目的は、
それを「実現するための過程と、その結果」が楽しかったからです。
そういう、自分で、思わずガッツポーズをとるような、
「子供時代のような、素朴な楽しさ」は、
多くの人にも、経験して欲しいと私は思います。
●また、私が、ある時に、長年やめていた投剣術を、
再び始めたことのひとつの目的だった「無心剣」では、
普通では、5000分の1以下の確率であり、
おおよそ不可能な事は、心を全く空っぽにしたら、何投でできるのか?
時には、それは、無心の状態にさえ入れれば、たったの20投以内に可能でした。
50投以下では、幾度も起きました。
こうしたことを、私は、ひとつの参考までの記録として残しました。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?M1160
●あとは、最近では、
「刀と手裏剣を持って、命のやりとりをする」という「心の遊び」で
有効な戦術とは、どういうものか、ばかり考えていました。
「命のやりとりをする 気分 になる 遊び」というのは、
何も馬鹿にしているのではありません。
「事実」だからです。
もしも、本当に命のやり取りを、毎日していたら、
あなたは、刀や手裏剣や、人の血や、飛び散った人間の内臓など、
見たくもないと必ず思うからです。
自分の身を守るために、しかたなく武器を所持しているというだけで、
まともな神経をしていたら、人を殺したいなどと思うはずがないのです。
だから、「命のやり取りという精神状態の、わずかな模倣ごっこ」です。
そのリアリティーの欠如が嫌ならば、現代の戦争に傭兵として行けばいいのです。
そのリアリティーの欠如が、居心地がいいのであれば、
それは今が平和であることの証拠であり、決して悪いことではありません。
■最後に、武道、武術界にはびこる、
最低、最悪の大間違いは、
武道、武術とは、
「心を鍛える」「品性を養う」という口実である。
まったくの「でたらめ」です。
世界中の多くの賢者たちは、昔からひとつの結論に達しています。
>精神を「鍛えること」など決して出来ない。
>そうではなく、異常な状態にある精神が、
>ただ、本来の無垢な精神に戻ることが出来るのみである。と。
「鍛える」「修行」こうしたものは、
AC人格(捻じ曲がった人格)がすぐに飛びつく大好きなものなのです。
他人よりも優れられるはずだと思い込むからです。
だから、武術、武道、そして宗教や、カルトの世界は、
「心を強くする」「安定した精神」などを売りにて、
人々もそれにひっかかります。
しかし、いくら心身を鍛えようとして、どのような修行をしたとしても、
多少の精神的な耐久性(悪く言うと、「ただの我慢」)と、
多少の機転が利く、という程度のところにしか到達はできません。
●そして、何であっても、
「最大の問題」を作りだすのは「最初の動機」です。
その動機に中には、ほとんどのケースで、
その人の育ってきた、「家庭問題」が見え、
一見して問題のなかったように思い込んでいる場合も、
その問題が、中年をすぎても、老人になっても、
まだその人の精神をひどく、不自由に縛り付けています。
そもそも、精神というものを、鍛えようなどとすれば、
ますます精神は「弱く」なり、日々の感覚は「鈍重」になってゆきます。
他人から攻撃されることへの恐怖心や、
劣等感に負けまいとして、鍛えるのではなくて、
そうやって、精神が、ゆがむ前の、
「元の正常な精神とは何か」を知ること。
それは、経験を積み重ねて成熟するというものではなく、
「人間性などという幻想」の鎧を身に着ける前の
生まれたての乳児がまだ持っていた「純粋さに戻る」ということ。
その当たり前の事に到達するまでは、
まだ、人間にすらなっていないのですから。
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