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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1197]
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「手裏剣術講座」 【武術としての手裏剣】
by:
鈴木崩残
2015/05/09(Sat)07:09:44
武術としての手裏剣が抱える問題点
「失伝するには理由がある」
●今年、これまで書いてきたように、
私の感覚では、「投剣術」または「手裏剣術」というものを、
娯楽として楽しむのであれば、本当にそれは楽しいものでもあり、
いろいろな可能性の追求が出来ます。
「課題」に尽きることはなく、一生でも楽しむことが出来ます。
この「課題」については、私は既に、著書「中級手裏剣術」の中において、
「スポーツ競技」として、それがどんな種目を持ち得るのかを
明確に羅列しました。
それらの種目のどれもが、楽しさにあふれています。
●ところが、いかめしく、まじめ腐った顔をして、
「武術」として手裏剣術を「語り始めたり」または、
口で、どこかで読みかじったような能書きをたれたり、
さらには、本当に武術であり得る手裏剣術に足を踏み込むと、
すべての心の健全な楽しさは奪われ、殺伐としたものになってゆきます。
それは当たり前です。
武術とは人殺しの手段を追及した結果のものであり、
または、他人に負けまいとした闘争心の成れの果てあり、
それをどう美化などしたり、精神鍛錬と屁理屈をいっても、
言動の正当事由にならないから、殺伐としてしまうのです。
●私が武術、またはそれに携わる人達に先天的に嫌悪感があるのは、
「必要性」から生まれた「美」が全くないからです。
たとえば、あらゆるものは科学や工芸も含めて必要性を追求した結果、
独特の美が出てくることがあります。
この場合の必要性とは、「その時、その瞬間、その時代」における
必要性であり、過去における必要性などではありません。
そういう意味では、前時代的な刀や武器が、必要性をもっていたとき、
その必要性の上で必然的に活用されていたのであれば、
その必要性こそがモチベーションとなり、美が生まれました。
たとえ人殺しの道具であってさえもです。
●重要なことは、その必要性が、今この瞬間にあるかないか?
ということであって、過去にどうだったかではありません。
ちょうど、過去の宗教がその時代の独特の社会や因習、
またはその時代にあった偏りへの「カウンターバランス」として生じた
という場合などは、
それは現代では、何の効力もないばかりか、
古い書物を妄信することが現代では有害でしかあり得ないのと同じです。
普遍性というものは、「古いほどある」というのは、
本をよく読む人たちの妄想です。
普遍性とは、時間的に長い時代を生き抜いたものにあるのではありません。
しかも、その長い時代といっても、
たかが数千年や、数万年の歴史を長いと思ってしまうほうが、
頭がどうかしています。
それでは、時間の尺度が稚拙すぎます。
長い時間とは、人間が誕生する前、つまり他の動物などを参考にしてこそ、
初めて口に出来るものであり、それゆえに、
老荘は、常に、人の道ではなくて、「自然の道」を説き続けました。
人の語る人道やら英知やら心情的脚色だらけの宗教など、
全くもってして、普遍性を語る素材にすらなりません。
それは普遍性ではなくて、ただのこの惑星の類人猿の「属性」に過ぎません。
●さて、話を戻しますと、
たった今現在、紛争地域、戦闘地域で「必要であるから生まれた武器」
というものがあります。
いまどき戦地で必要な刀剣類など、軍用ナイフ以外にありません。
体術は必要かもしれませんが、とどめは現代の武器で、になります。
●そこで、まさに現在戦闘地で必要となっている武器とは、
さまざまな電子機器のセンサー、防具、
そして、銃器や、戦闘機や、戦車や、空母や、無人攻撃機です。
これは、とても、残念なことなのですが、
私は、そうしたものには、ある程度は「美」を感じることが出来ます。
その最大の根拠は、今、まさに必要とされている、
というその「状況」の中から生まれたものであり、日々成長してもいるからです。
残念なことに、全く非人道的と言える兵器がその大半を占めていますが、
100歩譲って、それを必要だと思っている人がいて、
その人達が日夜、頭を絞って、最先端のものを作り出したわけですから。
●また、武術の中で、勝って賞金や名誉を得るという、
プロの格闘や、スポーツ競技ならば、これも100歩譲って、
生活のため、または観客の娯楽のための経済活動として、
必要性を語ってもいいのかもしれません。
また実際に、護衛や、逮捕術、制圧術に関わる職務で、
「プロ」として現場でお金をいただけるレベルの活用をしている
というのであれば、古武術にも存在意味はまだあります。
ただし、それは趣味ではなく護衛の「プロの場合」のみです。
●しかし、活用されていない「古武術」、
これだけは、「文化継承」以外に全く意味を持ちません。
文化継承したいならば、強さだの、実用性だの、実力にこだわらずに、
文化人として、「武術研究家」を名乗っていればいいのであり、
そういう意味では、たいていの古武術家たちは、
治安組織の指導員になるわけでもなく、ボディーガードで生計を立てるわけでもなく、
文化継承という残された、唯一の存在意義に、何とかしがみついているだけです。
●一方で、その文化継承にしがみつく連中を見ていて、
全くクソ面白くもない、と思うに至ったような人たちは、
より実戦に近い「防具」を開発して、刃引きした真剣で試合をしていたりもします。
●また、古武術をスポーツに応用してみた、といった流れに持っていったのが、
甲野氏であり、それはそれで、ひとつの「方向」であったとは思います。
それが「強さ」を求める人には、インチキに見えたり、
伝統を厳守したい人には創作に見えたりと、なんだかんだ言いながら、
甲野氏のもたらした「経済効果的恩恵」にさずかった、
すっかり廃れて、カビが生えていた古武術家も多いことでしょう。
ちょうど、ブルースリーが、
それまで寂れていた空手道場を一気に儲けさせて、
ほとんど誰も買わなかったようなヌンチャクが飛ぶように売れたり、
中国武術を世に広げたようにです。
●ようは「流行」を作り出す人を軽蔑しながらも、
自らも、その経済効果に乗っかる人達も多いわけです。
すると、そういう人達は決まってこう言います。
「彼は、古武術に再び注目させた功績はある。が、あれは武術じゃない」
とか、言いながら、「本当の古武術とはなんぞや」とか、
鼻息荒く、語り始めるのである。
しかも、近代スポーツでの「試合もせずに」である。
すると、近代スポーツは「武術ではないから」と言い出す始末。
●本当に、それは、めちゃくちゃなスタンスで、もはやカルトの領域です。
そういうわけで、私は、
「この現代において、庶民の生活の必要性から」生まれたか、または、
「この現代において、人殺しの必要性から」生まれたものであれば、
そこには、そのフォルムや内部構造に一定の美学は感じることは出来ます。
●しかし、何のために「必要」なのか?本当に「必要」なのか?
これに疑問のある分野は、私は興味がありません。
私が見たところ、自称であれ、肩書きがあるのであれ、
現代格闘家ではなく「古武術家」を名乗る人達のほとんど全員が、
「イジメや、または試合で、満足の行く戦績を残せなかったり、
特定の他者に負けたことの悔しさ」
「お家代々の事情で、しかたなく文化として継承する羽目になった」
「映画やアニメで、侍や刀に憧れた」
と、そんなところです。
ただし、これ自体は、全く「悪くはありません」。
しごく、正直な動機だと思います。
所詮、動機というのは、そんなものなのですから。
ただし、それが動機であれば、
その動機だった目的をまず成就させるべきであり、
それが成就できていないままに、その後も生きて、武術をしているならば、
その人は、死ぬまで、
その「敗北感」や「何かへの恐怖」の奴隷のままです。
●私が許せない、または、嫌悪するのは、
こうした、「ただの個人的な事情」で始まっていることを、
どこのどういう悪い本を読みすぎたり、悪い師についたのか知りませんが、
やがては、古人の言葉を乱用するようになり、
あたかも、そこに「道」や「精神の練磨」がある「かのように」語るやからです。
●そうではなくて、
試合やケンカで何かに負けたなら、まずリベンジして勝ってこい、ということ。
何かを恐怖して、どこかから逃げ出したならば、戦ってこい、ということ。
誰かに、いびられたならば、その当事者と戦えということ(たいていはそれは毒親)
それらに、「落とし前をつけないまま」にすれば、
その人は、「その記憶の亡霊」に支配されたまま、
その後は、何をやったり、
何を動機にしていると自分で勘違いをしていても、
その「初期の動機の時刻」から、一秒も「その時計」は進んでいません。
しかし、ほとんどの古武術家がそうです。
だから、タチの悪いカルト並みなのです。
自己分析があまりにも足りません。
>自分が「始めた」原点の動機を知る事こそが、「終わりの位置」を知ることです。
●また、逆に言うと、過去の時代の人達の事を想像で安直に語るというのは、
昔の時代に、本当に斬り合いをしていた人達に対する侮辱であると
私は思っています。
当時の人達(武士たち)は、
日々、必要性に迫られた斬り合いもしていない「貴方なんぞに」
自分たちの事を語って欲しくないと、きっと思っていると、私は思います。
●ちょうどそれは、
この現代で、火薬式の銃器をぶっ放して人を殺したり
自分を守っている人達のことを、
100年ほどあとになって、
「昔はこんな銃を、こう構えて、撃っていたんだ。
そうじゃない、構えはこうだ。
昔の人達の精神は、勇敢だったんだ。
今みたいに、無人兵器だけの戦争じゃなかった。
だから、彼らの精神に学びなさい」
とか、この手のことを、
「現代」で言っている馬鹿にしか見えないのです。
この今の、現代の兵士は、勇敢なのではなくて、
職がなくて金が欲しくて兵士になったり、
銃で人が撃ちたくて兵士になったり、
命令で兵士になったりした、のであって、
「学び取って、見習うべき勇敢な精神」を持っているわけではないのですから。
さて、では手裏剣はどうするか?
●前振りが、長すぎました。
ここからが本題ですが、
そのように、楽しいはずの投剣術を、かくも殺伐たるものにしてしまい、
美もなく、何の必要性もなく、それだけならまだしも、
>「最も非効率な武器」と、私は手裏剣術のことを定義しました。
特に、直打法はそうですし、特に棒手裏剣はそうです。
これが投げるのが簡単な車剣や石投げであれば、
実用的であり、それは剣術に何か有利さを与えます。
投げて相手に打撃を加えるのが目的なのであれば、
「失敗率があまりにも高いというリスク」を持つ手裏剣などは、
自分の家族や藩を守るために、決して使うべきではありません。
それこそ昔の人達は、生き延びるためにやっていたのですから、
生き延びるために、手裏剣など使った人がいるわけがありません。
>だから、泰平の世で、ド暇だったか、
>剣術その他の武芸で、周囲の者たちよりも劣っていたか、
>投げて刺すのが、たまたま好きだった。
>そんな人達が手裏剣を投げることをしただけです。
これを言うと、馬鹿がすぐに言い出すのは、
「だって、だって、宮本武蔵が・・・」である。
本当に、カルト信者並みの脳みそです。
その時の使った「といわれている」のは、
「鎖分銅を相手にしたケース」であって、剣術相手ではなく、
また脇差を投げたのは、その後の「直打法の術」とは「直接」には関係ありません。
●普遍性とか、その時代における価値というものは、
>それが、広く、誰もが使って普及したときにのみ、
>「当時、生き延びる技術として、重宝されていた、その実績があった」
ということになるのであって、
>「変わり者の武芸者」の一人ぽっきりや、少数がやったからといって、
>それで、普遍的な強さの証明になるわけではありません。
>何よりの証拠は、刀剣類はこれほどに今も残っていて、
>剣術流派も数多くあるのに、どうしてその家系には、
>骨董品としてすらも、手裏剣が少ないかです。
>実際に多く使われたものは、必ず「数が残存」しているものなのです。
>まさに残量が少ないことこそが
>「使われなかったり、実用性がその当時に認められなかった」証拠です。
>脇差は、時には投げたのでしょうから脇差は残っているわけですが、
>棒手裏剣は、一体、どこに「沢山残っている」のでしょうか?
●何よりも手裏剣に関しては、実際にやればわかることです。
>もしも石や金属板ではなく「刃物や棒手裏剣」で、
>「直打法」を使うのであれば、
>相手に認識をされている「対戦状態」では、
>有効射程距離は「2間半以内」。
そこに厳しく「制限」されます。
●スポーツとして楽しめば、沢山の楽しみがあるこの「投剣術」を、
それほどまでして、
本当に、しょーもない「武術」という形にしたいのであれば、
並々ならぬ努力をせねばならず、
また、技も極端に制限しなければならず、
> 3間以内での、
> 刺中率、速度、命中率、
> すべてを徹底して向上させないとなりません。
●手裏剣という、この「実に面倒な過去の遺物」を、
「武術」にしたいのであれば、本当にそれは、
努力だけではどうにもならない「 難 題 」であるのに、
そのことが分かってもいないのに、武術だと言い張る、
「手裏剣術」だけをしてきた人達、と、
「手裏剣以外の武術」をしてきた人達ばかりです。
●そこで、そんな、キワモノ扱いを受け続け、
邪魔者扱いを受けて、時には、虐げられていて、
また時には、あちこちで好き勝手に、大げさな嘘を言われ、
人間たちに、こづきまわされている、あまにりも、かわいそうな
この「直打法・手裏剣術」というものに、
なんとかして、武術という世界での「居場所」を与えてやれないか、
それがこの数ヶ月の私の試みでした。
●なので、こういう特訓が必要となります。
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