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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1211]
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手裏剣術講座 【無冥流の実戦形】【無冥流の演武の掟】
by:
鈴木崩残
2015/05/30(Sat)15:54:27
>前の動画の投稿をここへ移動し、新たに一本動画を加えました。
>5/31更新 無冥流の「恐怖の作法」を追加しました。
「第三の形」
■さて、無冥流の刀術組み込みの、さんざんな模索を経て、
最終的に、刀なしの「打剣のみの形」に「蒸留・精製」された形を、
お見せしたいと思います。
無冥流には、「基本の形」「前後打ちの形」までは今までありましたが、
それにもうひとつ、新しい「形」が加わり、ようやく完成となりました。
それは「実戦型」です。
すべては実戦で通用するか否かのみを基準として組み立てましたので、
そのための基礎はすべて入っています。
一見すると簡単そうですが、どの歩法も、片足打剣のタイミングも
きちんとした基礎訓練を重ねないと出来ません。
この訓練方法は、新しく発売された手裏剣術の「DVD−2」に収録されています。
●これで、やっと、1年にわたる、歩法や、対戦想定という、
ある意味では、私にとっては面白くもなかった試行錯誤を詰めていった結果を、
元の純粋無垢な「打剣(直打法の技)」だけに戻してあげることが出来ました。
●出来上がったものは、かつての無冥流の「基本形」を基礎にしていますが、
起こりが少ない点が異なり、
また、歩法も極度にシンプルになるまで練り込まれてきましたので、
居着かずに移動し、しかも非常に強い打剣力を秘めながら、
見た目にそうは見えない、とても「静かで、穏やかな形」となりました。
これは私の美学の一つでもあります。
見た目は、力強い動きに見えない、迫力としては見えない、
が、質的には、力強いという「構造美」です。
4間から「素早い動作」で打つ方法。
計7本の剣を使用して「横打ち」も使う「形」。
刀術組み込みを「左手打ち」へと変換。
刀術組み込みのゆっくりした操作。
別種の「居打ち」の座り方。
◆ ◆ ◆
無冥流の「恐怖の作法」
■稽古中には、私も、ここまで厳密には、行うことはありませんが、
演武となったらば「義務づけられる作法」が、無冥流にはあります。
*********
もしも他人様の前での演武で、5本の剣を打つことなり、
2本を刺中ミスをしたとします。
貴方は、その2本を地面から拾い上げ、
他の剣とまぜてしまい、また5本を手にして引っ込むか、
あるいはまたその5本で別の演武をしてしまうと思います。
しかし、
>これは、私に言わせれば、きわめて「失礼」な動作です。
私は動画の編集の都合から、カットすることも多いですが、
ふだんの稽古においては、地面に落ちた剣を、そのままにしません。
刺さらなかった剣を必ず拾い、それを刺します。
屁理屈をならべて武術や礼法を、謙虚を「装っただけ」の口調語っても、
「このことの意味」が分からない人が大半でしょう。
私は、何も、全部の剣が刺さらないと自分の気分が悪いから、という理由で、
そうしているのではありません。
失敗した剣を、そのままにして、次のイニングに行くということは、
>刺中ミスをした「剣に対して失礼」だと感じるからです。
>それは無責任です。
ミスをした剣は、それが刺さるまで打ち、
全部の剣が刺さって、はじめて終わりとします。
■皆さんが「演武会」で、特に、5本、8本を打つという場合に、
これをしている「ご自分の姿を想像」してください。
5本を打ったが、2本が落ちた。
その2本を拾い、もう一度打つ。
もしも失敗したら、また拾い、そして打つ。
この様子は、誤解をしやすい人には「未練がましい」としか見えないでしょうが、
そうやって全部の剣が刺さるまでやめない、という行為は、
次のことを意味します。
>1/刺さらなかった剣を、「ちっ、失敗だ」と心無く切り捨てずに、
> 落ちた剣を大切に扱い、刺さるまで打ってあげるという「心」。
>2/見ている観客も、打ち損ねを、何事もなかったようにスルーするよりも、
> きちんと最後まで責任を取る様子に、すっきりとした印象を持つ。
>3/何度失敗したとしても、それを恥じずに、刺さるまで繰り返すことで、
> 自分に対して、失敗をそのままにしないという姿勢を貫く。
>4/またそのような、せっかくの、打ち直しのチャンスがあるのに、
> それを生かせなければ、2度目でも刺さらないという自己嫌悪と、
> 刺さらない事の焦りに引きすり込まれるでしょう。
> まさに自分の内面との戦いです。
■私が見るかぎり、現存する流派の人たちは、過去にも現在にも、
失敗した剣は、ただ、「あとで拾って、まとめてしまうだけ」です。
しかし私に言わせれば、
演武の「途中で打った剣」が失敗をした場合にも、
それは、一番最後には、丁寧に拾い上げ、
もう一度立ち位置を変えてから、刺さるまで打剣すべきです。
それを見ている人や、後世の人達が、その所作を何と言おうと、
「その姿勢」の中に、「人生に対する姿勢」が現れます。
刺さらなかった剣を、単に、自分の「未熟さを受け入れた」
などという「甘い意味づけ」だけでは終わりにせずに、
最後まで、本当に誠実に「やり直す」という点が重要なのです。
******************
■生きてきて、過去に失敗したこと、後悔のあったこと、
やり残したままのこと、何かの恨みや恐怖が、鬱積したままのこと、
そうしたことを、必ず、
その目的が終了するまで、やり尽くすということです。
だらしなく、自分のした打剣ミスを、やりのこしたまま、
さも、「何事もなかったかのように」、5本の中に、まとめてしまい、
「さぁー、心をリセットして、リフレッシュして、また5本だ」
とするのではなく、
>その落ちた2本を、「決して見捨てない」ということは、
>「自分の中の2本」を見捨てないということであり、
>「観客の心の中の2本」を見捨てないということであり、
>「その2本の剣の魂」も見捨てないということです。
おおげさに、仰々しく、いかにも礼法やってます、
などという、形の動作の中においてではなく、
落ちた剣は、そのままにしない=「自分の過去の悔恨をそのままにしない」
という、人生そのものに対する姿勢です。
●また、それは落ちた剣に対する「慈愛」でもあり、
(落ちた剣とは、「自分自身そのものの一部」なのですから)
失敗という恥を忍んでも、それをきちんと拾い、
刺すまで繰り返すという、自分への厳しさでもあります。
そして結果として、上達もするのですから、一石4鳥となります。
■落ちた剣というものを無視したり、「失敗だったな」で終わりにしてしまうほうが、
ずっと貴方は「楽」なのですから、
>「楽ではない道」を選ぶわけです。
ある意味では、失刺・失打のやり直しという、恥ずかしいことを、
自分から進んでするのです。
しかも、それでも刺せなければ、あなたはだんだんと自分の技量のなさと、
精神的な焦りへと追い込まれます。
■なお、後から打った剣の衝撃で、前に刺さっていた剣が落ちた
という場合には、その落ちた剣を打ち直す必要はありません。
******************
■礼法とか、心とか、精神というものは、
いかにもそのように見える形の中にあるのではなく、
その礼法を「その人が、自然に生み出した」のはなぜか?
どうしてか?、ということを見極める、澄んだ意識が必要です。
******************
■私が、ふと、あるときに、これを始めたのは、
落ちている失敗の剣を「自分」が、気にいらなかったからではなく、
「剣」のほうが、私に語りかけてきたように感じたからです。
「私も、他の剣たちと一緒に、並びたい」と。
■それまでは、私も、多くの人たちと同様に、失敗して地面に落ちた剣は、
そのままにしていて、ほとんど注意も払いませんでした。
「ただの失敗した、地に落ちた剣」にすぎませんでした。
しかし、その日からは、拾った剣に、
「よしわかった。一緒に、並ぼうね」と、
(少し危ない人のように)心の中で語りかけるようになりました。
しかし、そののちに、考えてみれば、
「無数の失敗した剣」こそが、今日までの創意工夫を支えてきたのですから、
>「失敗した剣を、ぞんざいに扱いべきではなかった」と、
あとになってからですが、気づきました。
******************
■皆さんは、いつも打っているその剣を、
じっと何分も、本当に、意識の眼を向けて、
その剣に、注意を向けたことは、あるでしょうか?
手裏剣の外見の出来がいいとか悪いとかではなくです。
ちょうど他人を先入観で見ないのと同じ姿勢で、
手裏剣という物体を、よく見たことがあるでしょうか?
剣が、何か言っていないか?、何か要求していないかと、
そういう電波なことを、真面目にやったでしょうか?
>私は「剣のことは、剣に聞き耳をたてろ」と、よく言ってきました。
物体に対して、聞き耳をたてるということは、何ら電波なことではなく、
道具や素材に対して「職人さんたち」も常にやることです。
ですから、稽古が終わった剣は、必ず綺麗にして、
保管する前には、剣先も、必ず研いで下さい。
たとえ自分が、その夜に、疲れていても、
よほど、剣先が、つぶれていないかぎりは、
手入れには、ものの「10分」もかからないはずです。
投げ捨てる道具だからといっても、
それがもしも、過去に、人の命の境界線を分けたものだったのだとしたら、
手裏剣に対する愛情や気遣いとは、
投剣愛好家や武術家が、何十万円もする刀に向けるそれと差異があってはなりません。
■私は稽古前に手裏剣に一礼はしませんが、
終わったあとには「今日も、楽しかったですよ」という気持ちを
本心からこめて、手入れをします。
形式的に、一礼されて扱われるだけの、中身のない心よりも、ずっといいと思うからです。
■玄関先で、出社の時に、ダーリンがキスをする、
がそのあとに、妻は、別の男と浮気に勤しむという、
メリケンドラマのような、「形ばかりのラブ」を繰り返すよりも、
玄関でのキスはなくても、生活のひとつひとつの中で、
心から愛されている妻のほうが、ずっと良いいのと同じです。
■他者や古人の中からでもなく、
自分自身の中から「湧き上がるもの」だけが本物であり、
その湧き上がるものが、何であれ、
それを他のものや、本や他人の言葉を悪用したり、
「本心だったもの」に上塗りしてしまって、誤魔化してはなりません。
また、他人の中に、おのずと湧き上がった結果を模倣しても、
決して、その人のその原点には至れません。
いつまでも、それは、チープな「借り物」、そしてただの「盗用」です。
「昔の人がやっていたのだから、自分もやれば、近づけるはず」
とやって、真に近づいた人は「誰一人も」いません。
一方で、それに「本当に、近づいた」のは、
>まず最初に、「自分自身の本心」に、近づいた者だけです。
ですから、今回私が書いたような、
私自身の剣に対する礼法についても、
その形だけ誰かが真似をして、剣を拾って刺しても、全く意味がありません。
それは私自身が、剣の声を聞き、
「世話になってきた、失敗した剣を、
落ちたまま、だらしなくするのは、申し訳ない」
と、「本気で感じた」から、その後も、行うようになったものですから。
■よって、自分は手裏剣のことをどう思っているのか?
本当に好きなのか、手裏剣の「何が」好きなのか?
それとも手裏剣が好きなのではなく、「別のこと」や、
「自己顕示欲」こそを目的にしているのか?
こうしたことを自問して、自問するだけではなく「自分の答え」を出して、
そこから、自分の「生き方」の中から溢れ出した、
「自分らしい礼法」を、たとえ、他人に、それが分からなくとも、
手裏剣に加えてあげてください。
■それはたとえば、
「今日は、演武会なんだから、頼むから、全部刺さってください」
と、みっともなく「手裏剣を拝む」というのでも、全くいいのです。
ただし、もしも、それが「本気で」そう思っているのならばです。
「まー、一本ぐらいミスしても、1本ならいいだろう」
と考えているなら、そんな「嘘っぱち」の心で、
この作法をしても意味がありません。
ポイントは、常に「本気、本音かどうか」のみです。
本気で、本音ならば、その礼には「魂」が入ります。
しかし、そうでなければ、
ただの、もうとっくに、枯渇して死んでいる、骸骨やゾンビが、
生きているフリをして動いているようにしか、
私には見えません。
******************
■この作法(恐怖の掟)があるだけでも、
無冥流に入門しようとする人は皆無となるはずです。
もっとも、未熟者が、他人様の前で、軽率に演武などしなければいいだけの話であり、
それを食い止めるためにも、この礼法があります。
下手くそだったら、幾度でも「刺し直し」をする事になりますから。
●「事例」をいくつか、わざと作ってみました。
↓
●さて、無冥流には、「基本形」の出来具合よりも重要な、
ひとつの「印可」基準というものがあります。
それは、「その人らしさ」の個性が、
打剣や、打剣の合間に、にじみ出た時です。
まだ「他人の猿真似を、やっとんのか」ではなく、
「あ、実に、**さん、らしい!」
これが手裏剣においても、「その他」においても、合格基準なのです。
その人の本当の「個性」とは、
情報や経験の「混合物」「堆積物」つまり、積み重ねではなく、
今この瞬間に、「元から在るもの」だけから発芽します。
その芽が息吹いた時というのは、私に分かります。
それは、ただの打剣動作のスタイル、その他の「癖」ではありません。
それは、見ると、生き生きとしているので、それを「息吹く」と言うのです。
******************
●ところで、私が昔から罵倒する事象の中に、
性格のねじれた者が引用したがる「禅語」というものがあります。
どういうわけか、実力のなさを誤魔化して、虚勢を張るために悪用する人が、
武術家や、その他の精神世界の分野でも絶えません。
しかし、禅語というのは、
「本来の禅以下」の俗世間の価値観の中では
決して、引用してはならないほど、絶対的に荘厳なものなのです。
■悟りというのは、
自分が、生きたり、死んだりすることに、
「新たな言い訳」や「知見」を見つけることではない。
自分が、生きたり、死んだりすることの
その「言い訳の 一切を、すべて失う」
ということだからである。
最も尊い「それ」には
一切の 意味がなく
一切の 価値がなく
一切の 知恵もない
それ故にこそ、それはその純度を保ち
汚れなき「本来の面目」「不生」「不二」と呼ばれるのである。
「それ」が
いかなる種類の、勉学や、瞑想や、座禅や、訓練をさせても、
人々に絶対的なまでに伝わらない事を、不立文字と呼ぶのであって、
断じて、「それ以下の次元の文脈」で使うな、ということである。
感情や、思考や、体感、技、心などは、すべて、
言葉以外の訓練で、「伝わり得る」ものである。
だが、「それ」「これ」だけは、絶対的に「伝わらない」ものであり、
それが伝わらないのは、文字においてだけではない。
何度生まれてきて、500年修業しても、
決して、伝わることもなく、体得できるものでもありません。
●ところが、時間と訓練を、はるかに超えて、
今この一瞬に、それを体験する者たちが過去にも現在にもいました。
そこに、すべての妙と法の原則があります。
そのことの一端を、いろいろな禅語は表している。
だから、学者といえども、どこの誰であろうが、
「ある種の禅語」の一部は、
半端者が、軽率に、もて遊んだり、いじる為の語句ではないのである。
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