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Title
手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
手裏剣術の画像・動画が、
他に類を見ないほど多く掲載されています。
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[1214]
■
手裏剣術講座【根岸流の刀術組込形の完成度の高さ】
by:
鈴木崩残
2015/06/13(Sat)07:25:22
根岸流の刀術組込み形の完成度の高さ
■なぜ「予備動作」があるのかの説明(=ただし推論)その他。
↓
>↑この動画は16/13 13:50に更新しました。
>一部お詫びと訂正となります。
>>原型の刀術組込の形では、手裏剣を構えるまでの間に、
>>刀は「左側頭部」にあります。ただし「防戦効果」は同じです。
オリジナルの形の動画
↓
https://www.youtube.com/watch?v=tnp9tcd5bpI&feature=youtu.be&t=20m50s
*********
■ちなみに、手を下に垂らした状態から→打剣→柄に手がかかるまでは、
早くて0.9秒、遅いと1秒ぐらいかかっていました。
「構えたところから打つ」という場合には、
打ち始めてから、柄に手がかかるまでは約0.5秒でした。
垂らした手が動いた瞬間から、構えの位置にあがるまでは、
大体0.3秒強、ほどかかっていました。
この形を「順体構え」でやってはならない
■根岸流の刀術組込み形は、必ず逆体から打剣しなければならず、
これを、順体固執信者が、順体構えでやってはならない。
「5本目」の形は、打ち終わりが逆体でないと、
その次の右足の順歩での抜刀がスムーズ出来ないこともある。
この形の構えからの「順歩打剣」をしてはならない
■さらに、この刀術組込み形で、絶対にやってはならないのは、
逆体もしくは順体から「順歩」による打剣である。
「打剣してから抜刀」の速度の比較
■次に「抜き身」ではなく、「打剣してからの抜刀のパターン」ですが、
ここでは、違いをわかりやすくするために、
抜刀は抜ききらずに「柄が側頭部か、または左腰の前方」に来たところで、
あえて止めています。
それによって以下のパターンをすべて行うと、違いがよくわかります。
1/自然体打剣からの「逆歩と順歩」での抜刀
2/逆体固定の打剣から抜刀
3/順体固定の打剣から抜刀
4/逆体から逆歩の打剣から抜刀
5/順体から順歩の打剣から抜刀
揃足(せんそく)での打剣
「揃足(せんそく)」とは私の造語です。
両足が揃った状態で打剣をする状態が、過去の古流の体系にも、
現代流派の中すらもないために、新しく用語を造らざるをえなくなりました。
たとえば、自然体での打剣というものはあるかもしれませんが、
それらは肩幅に開くので「直立」に近い「揃足」ではありません。
(しかし、自然体の打剣すら、見たことはないです)
また、自然体での片手打剣を非常に重視してきたのも、無冥流しかなく、
基本形や武術形の中にも必ず「自然体打剣」が組み込まれています。
■座打ちは結果としては一種の自然体なのかもしれませんが、
立って行うのは当流だけです。
両手で交互に打つタイプの打剣は、単にやりやすくしようとする結果として、
自然体になってしまっただけで、
意図的に自然体を重視しているわけではありません。
また、それは「揃足」ではありません。
結果や結論は、あとから生ずるもの
●物事は何事でもそうですが、結果、あるいは結論というものは、
激しい探求、または深い「探求の結果」として、後から生ずるものであって、
予定調和的に、最初に、そこにおいておくべきものではありません。
「結論先にありき」は、最も「非科学的で、非客観的な姿勢」です。
結論や結果というものは「最後の最後」になって、立ち現れてくるのであって、
最初に結論を用意するのは、科学実験の世界では絶対にあってはならないことです。
●途中で起きる、あらゆる予測できなかった事象や、
時には「反証」にすらなってしまう現象をも「すべて認めて、汲み上げて」から、
そこから整理と精査をして結論を出すのが、科学的姿勢として当たり前です。
●この重要な手順を無視して、
>「こうなるはずだ」「こうであるべきだ」「こうであって欲しい」
という「下心」を握り締めたまま行うことは、すべて、
ただの「信仰」またはカルトとすら言ってよいものです。
■少し違う話ですが、つい最近、某流派が、海外でのレクチャーで
「手裏剣術というのは手裏剣だけではなくて、投げた後に、
刀で留めを刺すものなのです」
などと、自分の流派の「現状のレクチャー」の中では、
きちんと実演をやってもいないことを、平気で説明する姿を見て、
口あんぐりでした。
●しかし、一方で、では「手裏剣を投げてから刀で斬る」を、
「実演したらそれでいいのか?」、となると、
むしろ(特に他人様の前)では「やってはならないこと」となります。
私がここのところ、再三にわたり、解説し説明し、
その根拠も、きちんと羅列してきたように、
そもそも、
「直打法」で手裏剣を投げてから、「刀で攻める」というものは、
ほとんど、幻想チャンバラの世界です。
何よりも「剣術」の世界の中にあっては、
過去に「二刀流」としては有り得たり(現代では剣道の試合であったり)、
またはそれが「礼儀ある試合」として成立するでしょう。
なぜならば、刀が届く距離が、お互いの勝負の対等な間合いですから。
しかし、
>相手の武器の届かない間合いから、物体を手裏剣に打つなどということは、
>江戸時代以後の、作法や礼法を編み出した武士のすることではありません。
(鎖鎌については、「半・飛び道具」といった感じでしょうか)
■江戸時代より以前の時代で「勝てば、手段は何でもいい」という考え方ならば、
刀や武器を「刺すことを重視せず、投げつける=打ちつける」ということは、
本能的に、または必要に迫られて行ったであろうことは推察できます。
しかし、「刺す事」を重視する「直打法」は、
それとは独立した「技、または芸」の領域であることは、
ここで、今さら、繰り返し言うまでもありません。
剣術に手裏剣術を混ぜると
剣術の品格が汚される
●余談となりますが、下記のような抜刀術・剣術を観れば、
こうした「完成された美」を持つ演武の中に、
手裏剣や、刀飛芸、などというものが割り込んだら、
どれだけ、それが剣術の品格を落とすものか、誰でもわかるはずです。
ここに手裏剣術が割り込む有様を、どうか想像してみてください。
刀そのものの美しさも、動きの美しさも「台無し」になります。
そう思わない人がいるのでしょうか?
■日本刀というものに、全くシンパシーを感じないこの私ですらも、
こういう人たちの演武は高く評価しますし、
もしも自分が教わる機会がこの人生の中であったのであれば、
こうした人たちに教わったと思います。
これらの人たちから私が感じるのは、本物の「追求心」です。
↓
「関口流/山田道場」
(演武者によっても差があるのでしょうが、
必要不可欠な殺気、または品格があると個人的には感じました)
1
http://www.yourepeat.com/watch/?v=-iVKJmEIAFc
2
http://www.yourepeat.com/watch/?v=NmeBcsNoS78
「奄美養心流 抜刀術」
(こちらは古流なのかそうでないのか、私はまったく知りませんが、
抜刀の確かな力強さが、気に入りました。
最初に逆手で畳表を切っていますね)
http://www.yourepeat.com/watch/?v=1d6rdkZ5jew
こういう動きの中には、
「手裏剣など割り込んではならない」、と思わないのであれば、
美的センスのなさのからも、人格的にも問題ありです。
******************
■つまるところ、
剣術で生計を立てるプロではなくて「趣味」としてやってきた人が、
「直打法手裏剣術」という、
いまだ(いいかげんという意味でも)未開な分野に、
着手したり、足を踏み込む場合の「理由」「背景」「動機」というのは、
>私の目から見ると、その人たちが、そもそも、その剣術や抜刀術においてすらも、
>技や、その腕前が「未熟」「半端」であるために、
>その剣術の至らなさの穴埋めに、
>直打法手裏剣術を悪用・誤用していると私は感じました。
実際、その人たちは、自らの「抜刀・剣術の動画」をアップロードしていません。
つまり、自ら進んで「他者からの批判に自分を晒す」ということを、
「していない」のも、特徴でした。
●一方で、剣術や武術をやってきたのであっても、
剣術や武術「とは別に」、非常に長く手裏剣術やってきた人は、
安直に、併用などしていません。
(私の知るかぎりでは、甲野氏すら刀との併用などしていません。
講習会の余興などで遊びではやった事があるかどうかは、私は知りませんが)
●逆に「手裏剣術を中心とする流派」が刀術を組み込んだ場合となると、
今回テーマにした根岸流が代表例となるのですが、
刀術組込みの形は、常に、代表者また古参の方、
(以前は、齋藤宗家や苫米地師範でしたが)が、
最後に、「つつましく行う」のみであり、メインはあくまでも
「直打法手裏剣術」にありましたし、今もそうです。
●以前に、苫米地師範が、演武中に納刀を逆にしてしまい、
剣術側の人たちから陰で批判をされたこともあるようですが、
(最初に鞘を逆向きにしてから抜刀をしたためと思われますが)
私に言わせれば、そんなことは問題ではありませんし、
根岸流の場合には、刀術の部分は、ある意味では「おまけ」でいいのです。
「その形自体が、非常に完成度の高い刀術組込みの形」なのですから、
文化遺産としてずっと残すために、
控えめに、演武の最後に「その確かな存在感を示す」ということで、
十分な価値を持っていると、私個人は思っています。
●もしも、根岸流の演武者の刀の振りに文句があるならば、剣術をやっている側は、
直打法の手裏剣術の基礎を、たんまりと4年ほど稽古してから、
自分で他人に文句のつけられない刀の操作をやればいいのですから。
ただし、今回の投稿のように、
直打法の専門でもない人は、肝心の「構え」などの部分には、
「思慮のない改変」や「創作」を勝手にしてはならないということです。
また「投擲術」というものは、
各自が何の武術を背景にしてきたかに「全く関係なく」、また距離に関係なく
「逆体」「逆歩」が原則です。
これは「投擲術の原則」ですので、崩してはなりません。
順体打剣は、体勢の都合上で緊急性がある場合のみの使用法です。
しかしながら、そうは言っても、やはり、
>剣術・抜刀術は、
>「それ単体の演武」であってこそ価値があると、私個人は思います。
●また、そもそも手裏剣術を教えるなどというレベルから遥かに遠い人が、
他人様に教えてしまっていたり、教室や同好会を開いている例も、
身近にも見ましたし、あるいは遠巻きに、数例ほど見ました。
(ただし、こうしたレベルの低さは「手裏剣術の専門流派」には、
ほとんどありません。
決まってそれは、手裏剣術ではない「他武術・他武道」が中心の、
流派または個人においてでした)
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