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Title
手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1228]
■
手裏剣術講座 【間違いだらけの飛刀術】
by:
鈴木崩残
2015/07/17(Fri)18:01:29
「飛刀術」を正しく考察する
■直打法による「飛刀術」などという「見せ芸」を、
あの手裏剣伝習所でやってしまっているわけであるが、
単なる「直打法」の可能性のひとつとして行い、
You−tubeなどでの個人研究に留めるならばともかく、
大衆の前で、とってつけたような、本からの借り物の言葉を述べて、
しかも武術としてしているなどとドヤ顔で言っていた馬鹿者については、
すでに当掲示板で述べました。
■そもそも、日本で最初に、刀(または反りのある脇差)を
4間以上の距離から投げて刺したのは、どこの誰かといいますと、
ほかならぬ、私です。
史実にも4間半から直打法で刺した記録などないはずです。
では、なぜ、私がそうしたことを試したかと言えば、
言うまでもなくラルフソーン氏が米国産の日本刀(メーカーは不明)を、
直打法で、約3間から刺していたからであり、
それを見て、私は、
「小さなものを投げることだけに、自分の考えが縛られていた」
ということを一瞬で痛感し、
その日から、大小、さまざまな剣や道具を試験的に投げてみました。
2008年のことでした。
当時の初期の動画が以下ですが、動画はあとでご覧ください。
先に本文を読み終えてからにしてください。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=mZcAFoq94IY
■当時、重心理論を確認している最中でしたので、私もいろいろな物体が、
どんなものでも重心理論さえ守れば、4間以上からでも直打法で刺せる、
ということを確認できました。(極端に重いもの以外はです)
■ところが問題はここからです。
それを見ていた「武術趣味」のある者が、それを安直に、
「古流の剣術でも、そういう技があったんだ」と、ホクホクして、
舞い上がってしまったというわけです。
ラルフ氏もデモンストレーションとして行い、
私も、ただの見世物芸(正しくは研究のひとつ)で行ったに過ぎないものを、
よく精査、研究、検証もせずに、
大げさに、武術だとか他人様の前でも言い出し、
しかも、その見せ芸すらも、たかだか2間程度の距離(踏み出し位置では1間半)。
その上、さらに、まだほとんど技にもなっていないレベルの飛刀術を、
他県の道場にまで言って、わかったような解説をする有様。
しかも、「普通は、2間からでも刺せない」とか言い出す始末である。
■私が、もしも剣術を稽古されている方たちにレクチャーをすれば
数時間のうちに3間から通せるようにできます。
それができないのですから、ようは、その者は、
とにかく投剣術については、とことん無知で無技術なのでした。
なぜならば、回転半径の長い刀を直打法で投げるほうが、
小さな手裏剣よりも、ずっとやさしいのですから。
むろん、その時にはまず「逆体」で投げるべきです。
■前にも言いましたが、剣術をやっている人であろうが、
剣術をやっていない人であろうが、そんなことには関係なく、
打剣の基本は、すべて、「逆体打ち」です。
その逆体打ちという基本がきっちりと出来た後に、
注意深く順体を稽古すべきであり、
稽古の順番は、決してこの逆ではありません。
自分が「やりやすいか、やりにくいか」で稽古内容を決める、
そんなことが、剣術や他の武道には、あるのでしょうか?
そんな、いいかげんな稽古があるわけが絶対にありません。
■ちなみに無冥流というのは、「直打法」の可能性を追求していますので、
本来であれば、反転や回転打で投げるほうが、攻撃力の効率としては良い、
というものまでも、わざと無理をして、直打法で投げています。
(たとえば、ハサミや、ドライバー)
そこが武術とは異なっている点です。
■また、ここで重要なのは、雑誌「秘伝」の取材の際に、
私は、脇差のみではなく、脇差と太刀の中間ほどの長さの模擬刀を投げています。
このことの重要性はあとで説明します。
脇差ではなくて、太刀を投げる方が飛刀術としての実質的な意味がある、
ということは、「秘伝」の編集部の人にも当時話したと思います。
*********
■さて、その後に、あくまでも「直打法の可能性の研究の道具」として
鋼鉄で脇差と、ほぼ同じ長さと、幅の金属の板を加工したものを
そこの伝習所の生徒さんにも渡しましたが、
これはあくまでも、直打法の研究や手裏剣に役立つ修練のためのものであって、
武術として考えるには、十分に長い時間をかけて、
テストや検証や精査をする必要がありました。
しかし、精神年齢がまだ小学生のままのようなそこの庵主に、
うっかり、こうした「玩具」を与えてしまった責任は私にもあります。
精神年齢というよりは厳密には、物事を行う「動機」への盲点の問題です。
余談ながら、もしも、私がそこの生徒さん二人に、
直接に飛刀術を教えることができていたらば、
間違いなく、まったく違う内容になっていましたが、
自分の生徒さんではないので、こちらは、どんなに変な指導の間違いを見ても、
部外者ですので、外部から少し助言するという程度に、常に控えめにしていました。
■しかしやがて、その過程で、まだ飛刀術としての基礎すらも、
そこの生徒さんも庵主もできていないのにもかかわらず、
「飛刀術に関しては、二人とも免許皆伝だな」などと、
へらへらした顔で、軽率なことを言う有様もずっと以前に見ました。
そのあたりから、私は、異常を感じていました。
四方打ちも、「武術的には無意味で無駄な運足」が目立ちました。
つまり、本人や生徒さんの実力の実状(現実)を分かっていない。
恥ずべき点も、改善すべき点も分かっていない。
投剣術に関しては、とにかくまったくの素人でありながら、
屁理屈と、勝手に投げやすくする邪道に入ることだけには、
一生懸命なご様子でした。
■さて、そもそもその彼の、どうしようもないほど、レベルの低い打剣は、
そもそも他人様に見せてはならないものです。
(あくまでも未完成のものとして動画をアップするに留めるべきレベルのもの)
そのチャンバラごっこのごとき飛刀術の、どこか間違いであるかを、
端的に、その彼のお好きな「武術的観点」から以下に述べておきます。
*********
最初に脇差を抜く事はない
■脇差を投げるという事自体が、実は飛刀術の本道ではない、
という話は、今回の投稿の最後に記しますが、
その前に、脇差を持っているということは、
大前提として、「二本を差している」ということです。
二本の刀を差している武士が、
太刀のほうではなく「脇差を先に抜く」ということは、ほとんどあり得ません。
つまり、「脇差を抜きながら、歩を進めて刀を投げる」、
などということ自体が、あり得ないわけです。
そんな演武は、武術ではないばかりか武術的考察すらされていません。
■大小二本の刀を携帯しながらに、短い刀のほうを先に抜くということは、
きわめて不自然です。
屋内や、その他の、よほど狭い場所で太刀が使えないなどを除いてはあり得ません。
また、その時に片手で抜いて上段などに構えれば、
あきらかに投げてくると相手に警戒されますので武術的ではありません。
■また、そもそも、脇差を抜いて、
その直後に投げるために上段に構えることそれ自体も、
どこの伝書にもないと思えます(私が知る限りに過ぎませんが)。
「投げる際に」、両手で持って「脇構え」にして、
そこから転じて「上段に構える」という伝書もないはずです。
それらしき記述があったのは、
下段から、いったんまず上段に構えてから、また下段に構えて放つ、
という記述のみで、これは以前の投稿で指摘したように、脇差ではなくて、
太刀の下手打ちをする(正しくは刺すのではなく打ち付ける)動作と解せます。
■太刀より前に単独で脇差を抜くということは、
長さにおいて不利な方の刀を抜くことですから、普通はしません。
すると、次に出てくるのが「二刀流」うんたらの話です。
「二刀を、既に抜いている」という想定の話です。
しかし、二刀流は、日本人において利き手となる右手に太刀、
左手に小太刀が一般的であり、逆二刀となると、用途は限られます。
■宮本武蔵の「逸話(神話)」を何かと持ち出す人がいますが、
そもそも、鎖にからめられた「太刀のほうを、相手にほうり投げて」、
脇差を「抜いて刺した」とされていたり、
また、別のところでは、鎖に太刀をからめられたので、
その太刀を左手に保持して、あいた右手で小太刀を持って投げた、
ともあったりしますが、
このときの脇差、または短刀の鞘の位置や、鞘の向きも不明です。
しまいには、結局、武蔵は二刀流は実際には使わなかった、
という説すら出てくる有様です。
■また、仮に「後者(右手で投げたという話)」が事実であったとしても、
鎖に太刀をからめられた、という、そんな状況からの「脱出法」として、
脇差を投げつけたのだとしたら、
それは、きわめて「特殊な状況」であり、
そこには技としての普遍性や、それを練磨することの意味がありません。
「比較的あり得る状況」を想定して行うのが稽古の基本だからです。
鎖で太刀の動きを封じられるといった、そんな状況を想定して、
それで「短刀などを投げる稽古が必要だ」というとしたら、それは行き過ぎです。
■すると、
「刀を投げたことが、手裏剣術に通じていると、本にも書いてあるんだ」、
と言い張る者たちに、最後に残る主張が例の、
「ぐるぐる脇差を振り回して投げつける」、
という、みっともない??秘伝的??動作ですが、
言うまでもなく、これは「脇差を、手裏剣に 打つ(放り投げる)」
というだけの話であり、
そのような投げ方では直打法で刺さるのは、まぐれか、かなり低い確率です。
(実は、無冥流では脇差を振り回しながらでも高い確率で刺す方法は
分かっているのですが、古流にはない手法となります)
■だからこそ、もしも刀を投げたことが手裏剣術の源流である、と、
ドヤ顔で、聴衆の前で、自らのその思慮の足りなさと、軽率さを、
恥じることもなく言うのであれば、
源流では、刺すことは重要な目的ではなく、
「手裏剣に打ちつける事が目的なのであるから、刺すな」と私は言ったのである。
刺そうとすれば、それは「見せ芸根性」を露わにするのであるから。
振り回して畳に当てるだけで十分であると。
(より武術としてのリアリティーに近いのである)
■手裏剣「に 打つと」は、それこそ、コップや書籍や、カバンでも
投げつければ、それで「手裏剣に打った、ということになる」のであり、
この定義は、物知り顔の、あちこちの自称手裏剣通の皆さんも変わらないはずです。
つまり、「手裏剣 に打つ」とは、
「直打法で刺すこと」と同じ意味ではありません。
それは、「術」の字をつけるまでもない、ただの「投擲(投げつけ)」ですから、
刺さることは二の次であり、むしろ、ダメージの有無が重要ですから、
「命中率と投げる速度」のほうが、ずっと大事なポイントになります。
その点で、知新流が「速く当てることのほうが重要である」
というのは全く正しいわけです。
■これは「真に武術」として考えるならば当然の話であり、その点では、
「手裏剣術とは、当てることが重要で、刺さらなくとも良い」
とする考えの方が、むしろ「武術としての本質」を捉えています。
■このようなわけで、小太刀や脇差を投げるという行動は、
追い詰められた時の「秘策」という程度のもので、
しかも、確実に直打法で刺すための体系も明確にはないために、
そもそも、物を投げるという行為は、「術」にはなり得ない
ということを私は幾度か、この「松の間」に書きました。
■それが、あたかも「術」や「技」、「のように見えるもの」になったのは、
羽などの「補助具のない小型の剣」を、
「直打法によって刺す」ということを目指し始めた時代になってからです。
ところが、そうした「術」や「技」の必要な「難しいもの」に変容した瞬間に、
それを境にして、それは「武術的な有効性」を失ってゆきました。
■ちなみに、直打法というのは、
それこそ、江戸時代中期あたりの古い時代にあっては、
当初は、想定されていた間合いが近すぎるために、
結果として、反転させるよりも直打の方が相手に先端部が当たりやすい、
というだけのことです。
また、刃がついた武器の場合には必然的に柄の側を持つことになるためです。
しかし、柄を持って「一回転」させようとした人も、必ずいたはずです。
そのほうが、威力と命中率が上がるからです。
しかし結局は、間合いは2間以内だったために、
あえて反転打や回転打にする必要はなかったことが、
「結果」として「直打法」が主流となった理由です。
■ですから、直打法が特別に「世界的に珍しい技法」とは私は思いません。
それを生み出したのは、たまたま「間合いが近いから」だったのですから。
おそらく、白人がナイフや斧などの武器を、敵に投げようとすると、
「日本人の親しんでいる武術の間合いよりも遠くからだった」、
そのために、斧やナイフ投げが、
回転打や反転打になったのだろうと思います。
*********
■その日本での投剣術の流れに、大きな変化を与えたのが、
根岸流だったのだろうと思います。
対戦を想定した実用性から考えれば、
3間、4間、そして、7間あたりは、本来は有効な射程距離ではない、
ということになりますが、工夫に工夫を重ねて、
安定した刺中や、飛距離を伸ばそうとした形跡があります。
言うまでもなく、こうしたことに没頭できたのは、
時代がかなり「平和になって、時間と心の余裕ができたから」と推測されます。
■もしもそれ以前に、棒手裏剣のようなものが実際に活用されていた、
とするならば、以前にリンクした図版のように、
「鳥の羽」をつけたタイプが主流だったことが推測できます。
これは系列としては、刀を投げた事に由来するという(これ自体疑問ですが)
「それとは別の発生系列」となります。
おそらくは、戦場で折れた槍の「先だけを再利用」したり、
「投げ矢」や「打根」から変化した、そういう手裏剣術の伝系もあったものと、
私は推測しています。
*********
さて、ここからが重要です。
*********
最も有効性の高い飛刀術は、
「太刀」を投げる
■すでに書いたように、二本差しをしていながらに短い脇差を先に抜く、
ということは(ほとんど)あり得ませんので、
あり得るとしたらば、最初から二本の両方の刀を抜いているというケースです。
しかも、その場合には、
打ち捨てたら自分が不利になる太刀から打つことはないので、
必然的に、逆二刀(右手に投げる準備のある脇差、左手に太刀)となります。
また右の片手で太刀を投げても、動きが大きすぎるものとなりそうです。
(後述するような「両手」による投げだと、速度は違ってします。)
■この点で、根岸流の、刀術組み込みの形は、
いちおう、形としては武術「的」ではあります。
ただし、二本差しをするようになった時代の武士が、
脇差という「大切なもの」を、むやみに投げるということは考えにくいので、
やはり、そこは右手には「手裏剣」を持っている、という現在の形で、
品格を、しっかりと維持している思います。
■すると、もしも、本当に「飛刀術」というものがあり、
緊急避難的な用法や、ぐるぐる振り回して威嚇したり、奇襲する、
というのではない、実質的に「有効な使い方」があったとしたら、
それは、脇差ではなく、
「太刀を投げる」という事に、必然的に収束してゆきます。
つまり、以下の動画で、私は2008年にすでに解説をしているのに、
この稽古を、きちんとやらないままに、
身勝手な脳内チャンバラの飛刀術ごっこしか、できないままで、
7年以上も経過しているわけです。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=6rC1Tyo-fzc
既に述べたように、
そもそも太刀を抜かずに脇差だけを投げるために構えていることなど、
不自然極まりないのですから、
「太刀」を使って、この投げ方をしないかぎり、有効な技にはなりません。
そして私は、重要な説明を、ここでもしています(2013年)。
↓
https://youtu.be/wyzb29k8jAQ?t=7m8s
(動画の中では、脇差程度の長さの剣しかないので短いものを
使っていますが、「太刀」で飛刀を行うのが本筋です)
■つまり、鞘から脇差(または太刀)を抜いて、すぐさま歩を進めて投げる、
などというのは、本当にチャチな脳内チャンバラ劇の産物か、
「時代劇」のドラマでも見すぎた子供の考えることです。
最も有効な飛刀術とは、
ごく「普通に」構えて、ごく普通に剣を振る、
そのまったく「普通の動作と区別がつかない状態」で、
至近距離から放つ飛刀術のみです。
つまり、そこには、派手さは全くなく、
余計な、見せ物芸のような要素もなく、
余計な動作もなく、
上段(その他)に構えた太刀を、1間半程度の距離から、
斬りの動作と見分けがつきにくい動きによって、
ただそのまま、放つのみ。
脇差ではなくて、必ず不自然さが全くない太刀を使って行う、
静かで、特に目立った曲芸でもない、この動きこそが、
最も洗練された飛刀術となります。
これ以外のものは、どう武術的な理屈をつけても、
曲芸を見せたがる根性から作られるものにすぎません。
あるいは、かなり姑息な戦法を使わないと勝てないことの現われです。
私のように最初から曲芸性を目指すならば話は別ですが、
「武術」を語りながらなど、やってはなりません。
「例外」としては、
柳生新陰流に、たまに見られる「太刀の下手からの投げ」です。
■ですので、脇差に似た長さに調整しただけで、反りもないような、
脇差ですらもない「鉄の板」というのは、あくまでも、
「直打法」を研究する工程で、私が試作したものにすぎず、
そんなレプリカにもなっていないものを、たかが2間から投げて刺しては、
しかも、武術的でもない投げ方で、「これは武術なのだ」、
などと他人様に言ったり、他人様の前で披露してはならないのである。
■あくまでも、ただの個人的な直打法の稽古や研究課題であるものを見て、
「あ、ボク、それ知っている! 古流にあるんだい」
と、彼が、ガキみたいな思考法になってしまったのは、
よく相手の本心を観察していなかった私にも責任があり、残念な結果です。
口だけは達者ですが、打剣すらも「基礎」を積まずに、
また生徒さんや「親交のある人たち」にも、
正しい基礎すらも教えられず、本人自身がその基礎すらできておらず、
基礎ができていないだけならば、まだしも良いのですが、
最も問題だったのは、それに留まらず、
どんどんと「間違った打法を捏造」してしまった事です。
自分にとって「楽なほうの道、自分を納得させやすい楽な道」を、
選び続けた結果、飛刀術も手裏剣術も、その全部が間違ったままです。
■そもそも、自分に苦手なことは、やりやすいように曲げてしまい、
打剣法の中に「多々ある基本」を、自分用に捻じ曲げるので精一杯で、
「学ぶ」という姿勢がない、これが最も大きな欠陥です。
もしも他の武術では、彼にも「率直に学ぶという姿勢」があるのだとしたら、
手裏剣術や投剣術だけは、ずいぶんと彼に舐められたもんですね。
■その結果として、演武会の動画で私が見たものも、あまりにもひどい飛刀術で、
そんなものを誰かに見せたら、恥ずかしいものなのですが、
それを生徒さんが知らない(理解できない)のは本当に生徒さんが可愛そうでした。
だから、私は、庵主と二の人生徒さんたちには、
「手裏剣術の他流派の人が見たら、
お三人とも、一目瞭然で、打剣の甘さ(トロさ)がバレます」
と、3月か4月の時点で、渡した私信のDVDの中で言ってありました。
●ちなみに次回の個人レッスンの合宿では、ひとつ項目を追加しますが、
無冥流は、スポーツとして考えるにしても、武術として考えるにしても、
決してどちらも、理に合わないことや、いいかげんなことはしませんので、
実用性があろうがなかろうが、
飛刀術は、3間半から、コンスタントに刺せなければ、
「スポーツの曲芸技」としても私は合格点を与えません。
実は飛刀の技には、武術性とは関係のない「稽古上の利点」があるからです。
●次に、武術的には、
抜いてから投げるなどといった、余計なアクションなどせず、
また意味もなく「脇構え」にすることもなく、
ただ、静かに構えたところから、すばやく打つ方法だけを、その稽古とします。
ただしここは「余興」なので、あまり時間はかけません。
メインは、スポーツとして楽しむために、より遠くから刺すことです。
無冥流の飛刀術の「はじまり」は、そこからだったのですから。
前にも言いましたが、全ての物事は、
その「始まりの動機」に戻るものです。
*********
■ところで、本来は、この武術としての実用性のある飛刀術の為には、
太刀と同じ形状と重さの模造刀が必要になります。
それは重量が1キロ弱にもなります。
当たり前の事ですが、工業用に成型された金属板は、
焼入れをして冷ましても、反りは出ません。
また、レーザーで刀と同じ形に鋼鉄板をカットすると、大変に高価になります。
そこで以前に、木刀の先端部にドリルで穴をあけて、
小型の棒手裏剣か五寸釘を埋め込んで、それを投げて刺すことを稽古にする、
という方法を考えていましたが、
刀法併用手裏剣ごっこ、ではなくて、
本格的に「武術としての想定をした場合に、意味のある打法」などは、
その伝習所なるところには、必要なかったということになりました。
■ただし、基本的には、
自分にとって大切な武器である刀(太刀や脇差)を投げるなどということは、
「武術」としては、あってはなりません。
>できるかぎり「そんな事をしなくて済むように、戦いを進める」のが、
>武術の本来のあり方であると思うのは、私だけではないはずです。
すなわち、
剣術は、二刀を使わず、「一刀」で、
剣術は、手裏剣(=投擲物)などに頼らずに刀のみで、
手裏剣術は、刀に頼らずに、手裏剣のみで。
そうであってこそ、各武芸の正しい「住み分け」ができます。
ただし、何度も強調しますが、
「直打法で武器を刺す」ということは、
とっさの緊急時であるほどに、武術的には不安定なものであり、
距離や位置がめまぐるしく変化する中にあっても、安定性に問題があります。
「だから、そういう時のためにこそ、日々の稽古をするのだ」などと、
脳内にアニメチックな状況を想像しながら、
いくら、唾を飛ばして、自己正当化したところで、
命を守ったり、命を奪ったりするのが目的であった武術とは、
相容れない「弱点」を、「直打法」は持っています。
そのような、当たり前の道理すらも理解せずに、
「直打法」を「武術だ」と言い張る精神状態を、よくよく反省し、
他人から馬鹿にされたくないという心からの見せ芸根性と自己陶酔、
他との差別化を図るために、パッチワークのごとき独自性を捏造したいだけの性根、
と、言われたくなければ、
「武術としてやっているのである」と、それほどに言い張るのであれば、
物を 手裏剣 に「打つ」=投げるの古語」という原始的な本能動作として、
手裏剣術を語ったり、行うべきである。
が、それでは、もはや「技でもなく、術でもない」のであるが。
******************
私に言わせれば、「直打法投剣術」の基本とは、
どこまでも「己の心の乱れの有無」こそが、真の標的となるのである。
だからそれは、動かない標的を射る「近代の弓道」と似たものとして
静かに、つつましく、能書きをたれずに、行うべきである。
■そもそも、「直打法」などという用語それ自体が、
おそらくは、そう古い時代にはなかったであろうと私は考えています。
時代が近代になるほどに、特に武術の世界では、
その流派にのみ固有の、新しい用語もまた造られるからです。
*********
■前回の投稿の最後に追加した動画を、この投稿に移動しました。
先週の週末に収録したものです。
■次回の合宿で使用する予定の「新しい剣」の試打を行ってみました。
4間〜10間の距離では、これまで通り、「長剣」を使用しますが、
3間以内では、「長剣」は少し長すぎるので、
新しいサイズの剣を使用してみることにしました。
↓
台風も去ったので、この3連休は、この新しい剣を、
納得出来るまで、打ち込めそうです。
*********
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