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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[748]
■
■弓道や手裏剣術の中にある、無心の極意
by:
鈴木方山
2005/09/15(Thu)08:20:18
【手裏剣道と弓道】
◆ここに来て、私は、はじめて、
手裏剣「術」ではなく「道」という言葉を使うことになります。
なぜならば、「術」では、どうしても超えられない限界があるからです。
「術」は、技の修練と、意志と努力によってなされますが、
「道」というものは、「人為の技を捨てること」によってなされるからです。
◆そこで、日本のみならず、欧米でもよく知られた
有名な本の一節を引用しておきます。
「・・・・
針のように細い線香に火を灯させた師は、
先ほどから一言も発せずに、やがて矢をつがう。
もとより、線香の火以外の光はない。
闇に向かって第一の矢が射られる。
発止(はっし)という音で火が消え、
弟子は矢が命中したことを知る。
そして漆黒の中、第二の矢が射られる。
師は促して、二本の矢を弟子に改めさせる。
第一の矢はみごと的となった線香の真ん中をたち、
そして第二の矢は、
第一の矢に当たりそれを二つに割いていた。
◆あまりにも有名な「日本の弓術」Eugen Herrigel オイゲン ヘリゲル著
の一節である。
これと、非常によく似た記述は、「手裏剣の世界」白上一空軒 著 97頁の中に、
利根川師範が、成瀬氏に見せた打剣にも描かれている。
暗黒の道場の中で打たれた第1打の剣と、第2打の剣。
その第2剣は、
鈍い音を立てて、第1剣の尾部に突き刺さったというものである。
こうした記述を、単なるオーバーな表現や、逸話の盗用、
または、神話的な伝説と考える者もいるようですが、
これらの事が事実として、起き得るかと問われれば、
私は間違いなく、「起き得る」と断言できます。
なぜならば、私を投剣の世界にいざなったのは、
まさに、そうした「奇跡的」な打剣の数え切れない経験だったからです。
普通の修行をしている人たちが最後に到達するものに、
私は、最初に位置していました。
そして、その現象が何であるかを探るために、
技というもの、術というものを、あとから学び始めました。
そういう点では、順序が普通の人たちとは逆なのかもしれません。
最初に奥義が会得されていて、あとから、その「順路にあるもの」を
知ったわけです。
____________________________________
◆こうしたある意味で「神業的」な現象は、
手裏剣の打剣以前に、ナイフ投げでも
経験してきましたし、また、吹き矢などでも経験してきました。
手裏剣においては、3間半からの距離で、
剣の尾部に次の剣が突き刺さるということもありました。
(私の一部の剣の尾部には、木がつめてあるためです)
また、吹き矢においても、15メートル先から
蝋燭の炎を消すといったことは、通常、これをしようと思ったら、
100本近くも放たねばなりません。
言うなれば、「数打てば当たる」というものです。
しかしそれを一本とか、5本以内に結果を出すということは、
もはや、「狙って出来ることではない」のです。
まさに「狙いではないもの」「人為的な作為」ではないものが必要になります。
自分が狙うのでもなく、自分が放つのでもない、
そういった心境なき心境が必要となります。
吹き矢の場合にも、第一矢の後ろに、第二矢がささり、
さらに、その後ろに第三矢が刺さるといった、見るも奇妙な
現象を見たことがあります。
技をどう極めても、限界というものがあります。
「術だけでは、どうにもならない次元」というものが、
確実に存在しています。
それを人は、「道」と呼びます。
◆しかし、中には、単に打った数という統計的な現象によって、
何万回かに一度は、偶然に、そうした事が起きることもあります。
それは弓矢においても、何の射撃においても同じでしょう。
しかし、偶然ではなく、確率的には、ほとんどあり得ない現象が、
手裏剣や、弓道や、吹き矢などで起きることは事実です。
では、そうした奇跡的な現象は、なぜ起きるのか?、いかにして起こすのか?
そのことを伝承した記録は、ほとんどありません。
ですから、ここではその事を記します。
◆偶然に起きる「珍しい現象」と、
人の無心さが生み出した「希な現象」、この二つの違いというのは、
それを見分ける方法があります。
たとえば、手裏剣の打剣にしても、弓道にしても、何の競技にしても、
人は、自分の平均的なアベレージというものを知っています。
「的中率」です。
しかし、それが、ある瞬間に、飛躍的に、実力以上に跳ね上がることがあり、
のちに、それを再現しようと意図すると出来ないか、何年もかかってしまう
ということを、多くの術者や、スポーツ選手たちは経験しているはずです。
中には、それは、一生に一度きりの技であったという場合もあります。
まさに、それは、時として伝説にもなる、
神かがり的な試合であったり、個人の技であったり、するわけです。
それらは、自分の平均的な実力を、
どう考えても何倍も上回るような結果を出しますが、
では、そのときに、果たして、「自分がどういう状態であったのか」を
振り返ってみれば、何がそこで平素とは違っていたのかは、
おのずとわかるはずです。
◆絶対に、そこには「技を意図して操作している本人」がいないのです。
これは、「道」を極めようとするならば、「大原則」です。
技を行っている中心がいないことです。
「技が、ただ技を起こしている」、という状態で、
人というものが、不在なのです。
◆技という名の術を成熟させれば、誰でも、
その「成熟の結果である、良い当たり」を出すことは出来ます。
しかし、「成熟の結果である、良い当たり」というのは、
たとえるならば、木で、よく熟れた果実のようなものです。
とてもよく熟れていますので、完成度も高いものです。
しかし、これに比べて、人の側からではなく、
「道の側から起きる技」というのは、
あたかも、その果実が、「地に落ちる瞬間」のようなものです。
それは、熟しきった果実が、「地に落ちる」現象によく似ています。
そして、それは、単なる技の成熟とは、
その質において、「天地ほどの差」があるものです。
これが、打剣または、人が何かを放つ瞬間に起きるのが、
「道」の技です。
◆そこで、これを、現実のものとして体現する場合に、
人は、「自分が狙う」という「作為」とその意識を捨てるわけです。
それが引用した同書の有名な、言葉となったわけです。
「これは、私から出たものでもなければ、私があてたものでもない。
この暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。
それでもまだあなたは、狙わずにはあてられぬと言い張られるか。」
そして、同著者の「弓と禅」 (改版)においては、
そのために必要となる、心の放棄について、極めて正しい教授が
されています。
「悪い射に腹を立ててはならないことは、
あなたはとっくにご存知のはずです。
善い射に喜ばない事を付け足しなさい。
快と不快との間を右往左往することから、
あなたは離脱せねばなりません」
そして・・・
「笹の葉に積もった雪が自然に落ちるように射なさい」
_________________________________
◆「真の」禅の世界では、当たり前のことですが、
起きる現象について、よしあしを一切差し挟まないで
「完全に自他の現象を傍観する」か、
もしくは、「意識に分裂なく、現象と、ひとつになること」です。
だから、「手裏剣道」においても、
良き当たりに喜んだり、悪しき当たりにいらだってはいけません。
◆ただし、これは、「道」として手裏剣を極めようとする場合です。
もしも、技として、術として極めようとしている過程にいるのであれば、
悪い打剣と、良い打剣は、明らかにあります。
それは、自分で修正してゆくためにも、明確に判断することが
必要です。私もそうやって、「道」とは分離して、
術はあくまでも術として、よしあしの区別をつけて、磨いてゆきましたから。
◆しかし、いったん、「手裏剣道」の修行期間に入ったら、
自分の打剣の状態に、それが悪いと「ちっ」と舌鼓を鳴らしたり、
首をかしげたり、あるいは良い打剣に「にやり」としたり、
そんなことは、一切あってはなりません。
心の中ですら、一切、ほくそえんでもならず、
また、いらついてもいけませんし、反省すらしてもいけません。
打剣時には、終始、一切、心の中では、沈黙のままでいることです。
__________________________________
◆ところで、弓道と手裏剣術とでは、ひとつ、違いがあります。
それが原因で、武道を通して、無心ということを会得するのに
弓道よりも、手裏剣術は難しくなりやすい面があります。
弓道は、引いた力を、最後の瞬間には、手を離す、
という動作によって、行います。したがって、それは
心が静寂点に停止した瞬間に、「力をゆるめる事」で放たれます。
ところが、手裏剣というのは、放つ瞬間に打ち出す「力」が必要です。
吹き矢もまた、放つ瞬間には、息を強く吹き出します。
この最後の瞬間の動作が、「動的」であることが、
最後の瞬間が、手を離すという
「静的」行為で射る弓道と異なるところです。
◆それゆえに、そんな動的な動作の中で、
一体どうやって心を脱した打剣をするか?、
自分の意志ではない、果実が落ちるような自然な無心の剣など
どうやって行うのか?、という事が、まったく解らない人や、
あるいは、自分の打剣の中で、区別がつかない人もよくいます。
ある手裏剣術の師範の人でさえも、
私に、こう質問したことがあります。
「禅的な手裏剣では、
そのとき、剣は刺さらなくてもいいのですか?」
断じてそんなことは、あり得ないのです。
たしかに、大リーグの「イチロー的な思考」で言えば、
「凡打にも、良き凡打と、悪い凡打がある」ように、
打剣にも、良き失敗と、本当に悪い失敗があります。
しかし、それでも、それを論じるレベルは、なおも、
単なる「術」の世界にすぎません。
しかし、無心の打剣というのは、確実な結果がそこに出ます。
良い失敗とか、「良き凡剣」というものはないのです。
それは、第2矢が、第1矢を貫くにも等しいか、
それに類する「結果を出すもの」なのです。
◆ただし、その結果には、いくつかのレベルがあります。
個人で、そのレベルの違いはありますが、
すべてに共通していることは、単なる「調子の良さ」では
「説明のつかないことが多い」ということです。
たとえば、通常10本中7本が刺さるのが、
その人の平均値であるとしたら、
倍の20本が、全くノーミスで刺さるとか、
通常は、直径10cmの的に10本中、やっと2本程度のものが、
9本刺さるなどの現象です。
また、通常は、十分に修練を積んだ自分の技を駆使して、
100本打っても、ほとんど貫通出来ない布を、
ひょいと放っただけなのに、
たて続けに何本も貫通するなどの現象です。
その人の実力によって、それが無心の結果であるかどうかを
計る基準は、違いますが、
いくら、「たまたま調子が良かったから」などと言っても、
だからといって、意図的に再現できるものではないのが特徴のひとつです。
単に「調子が良好であるという程度の結果」と、
あきらかに、自分のアベレージを「何倍も上回る結果」が出るとき、
その違いを生み出すのが、
無心という現象であることが圧倒的に多いのです。
◆弓道よりも手裏剣術の方が、その確認作業という点で持つ利点、
というのがあるとしたら、それは以下のことです。
演武における、「動作の手順」や「動作の速度」の違いから、
弓道で射る本数よりも、手裏剣で打つ本数の方が多いために、
手裏剣術の方が、自分で、無心の打剣に
「遭遇する確率が高い」ということはあります。
◆ただし、その、無心の現象が起きている最中に、
「よし、なんだか知らないけど、凄いぞ!。よしこの調子だ」と、
そんな、愚かな邪念を一瞬でも思った瞬間に、
それは、その瞬間に、あっという間に消えてしまうことは必至です。
ですから、終始、打剣の最後の最後まで、
一環して、いらつかず、喜ばず、無心のままでなければならないのです。
_______________________________
◆「的を狙うな」とか「無心だ」とか、
「自然に落ちるように」とか、
「当てようとするな」とか
そんなことを、いくら、言われても、
こうした用語を聞きなれていない人には、
まるで、禅問答のようで、手のつけようがありませんね。
あるいは、言葉だけで、こうした禅語もどきの言葉を聞きなれていても、
結局は、何もそれを実現できなくて、
ただの、知ったかぶりの頭でっかちになっていしまった人にも、
畢竟、一生かかっても、そんな技を生み出すことは出来ません。
◆そこで、では、「無心の剣の道」の、手がかりはどこにあるのか、
それを最後に解説しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「無心剣」または「無心の矢」を放つために必要なこと。
●それまでに、あなたは、十分に「技の修練」は積んだのですから、
その自分の実績を信じて、「技について、どうこうしようとする思考」を、
「一切、例外なく」すべて、心の中から、捨ててください。
そして、打とうはせず、的を狙おうともせず、
ただ手を垂らして的に向かっているか、
または剣を構えたままで、静止していてください。
もしも打剣の動作が、自然に起きて来ないのであれば、
そのまま、ずっと、打たなくてもかまいません。
「自分で打つ」という事を捨ててください。
そして、「打つことが起きる」のを、
ただ静かに、「待たずして、待つ」だけです。
●そして、もしも動作が起きたときには、
その動作の最初から最後まで、終始一貫して、
自分に対して「完全な傍観者」に徹してください。
自分の意志が、その動作に、一切参加してはいけません。
自分の体が、勝手に打剣を開始して、終える、
そのプロセスに一切、「コントロールをしてはいけません」。
打剣をする者ではなく、打剣を「見る者」に移動するのです。
最初のうちは、打剣の結果は、よくないかもしれませんが、
このときにも、一切、心の中で、何も思ってはいけません。
剣がどうなろうが、結果はすぐに忘れて、
自分の動作に対する傍観者であり続けることです。
●そうした傍観のコツ、つまり、これは自分の意志を捨てることですが、
そのコツがつかめたら、今度は、
打剣が、開始される、非常に微細な動きを捉えるようにしてください。
このことは「中級手裏剣術」の中で、「初動の微動」と呼んで解説した
通りです。
自分の体が打剣を開始するときに、最も最初に僅かに動きを起こした部分に
意識の点を集め、そのまま打剣し、手離れの最後の瞬間にまで、
その動きの観察意識が途切れなければ、間違いなく、その打剣は、
無心に打った剣となり、通常とは異なる結果を現します。
●無冥流では、これを「無心剣」と言います。
自分の動作に、自分の意志も、意図的な操作も一切無参加のままで、
あたかも「他人事の現象」のように「傍観に徹する」という修行法です。
これが、十分になされたのちに、その観察意識すらも放棄するのが
「無 無心剣」ですが、これは、打剣をした現象そのものに
意識と記憶が、ほとんどありません。
もしも、これを禅の世界の、意識の段階に対応させるならば、
「無心剣」は「無心に、ただ、あるがままに見る」までが、
出来るようになったレベルです。
しかし「無無心剣」は、
あるがままに「見る者もなし」です。
「意識という鏡」を曇りのないように、磨くのが、
無心の修行であるとすると、
無無心とは、鏡それ自体をも、
最後に、捨ててしまうことですから。
◆ただし、このことは、言葉でどう説明しても、
それを、単なる「無自覚状態」と「混同」したり、
「自分の不注意さ」の言い訳に「誤用」したり、誤解をする可能性が
極めて高いものなので、これ以上は、ここでは語りません。
ここでは、ほとんどの人が、たぶん誤解はしないであろう
「無心剣」についてのみ、解説をしておきました。
ちなみに、私はこの無心剣を、他人の前で行ったことは
一度もありません。一度だけ、意図的に行おうとしたのですが、
傍観意識の切り離しに必要な座禅の時間を取らなかったためと、
相手の人が、それを見せるに値する人でなかったせいなのか、
はたまた、見ても、何も学び取る事が出来なかったかもしれず、
どうにも、気が進みませんでしたので、
そこでは無為の打剣が起きず、あくまでも「作為の打剣」となってしまい、
おもしろい、結果は、出ませんでした。
たいていの場合において、その打剣は、ふと、起きるものなので、
それが起きる瞬間を「ひたすらに、じっと待つこと」は出来るのですが、
起こすことは出来ないものなのです。
そういう点でも、その
「無為、自然にして、
技それ自体が、自然に動き出すのを、静かに待ち、
ただそれを見守る」という、
無心のスイッチにすばやく切り替えることに、慣れた人というのが、
「伝説的な技を行った達人たち」であるわけです。
■これが、本当の、動と静の、完全なる調和状態です。
身体は完全なる動となり、心中は、完全なる無風の静。
このふたつが「全く同時に在る」のが、「無心剣」のような状態であり、
あらゆる武道やスポーツの、最終的な奥義です。
■ただし、世の中には、
いいかげんな怠け者というタイプの人が多くて、
最初から、楽をしようとして、奥義の方に、適当に中途半端に
手をつけようとして、ちょっと何かをつかんだり、
何かを解ったような気になる人が、よくいます。
こうした人は、結局は、自分の未熟な技を、
「一発逆転」的な魂胆で、奥義というものを悪用して、
自分を誤魔化そうとする人ばかりです。
あるいは、コンプレックスの強い人に、
この「必要なプロセスを、勝手に省略しようとするタイプ」の人が多くいます。
技の基礎というのはあくまでも、積む必要があります。
手裏剣術も、基礎に3年はかかります。
無心剣は、そのあとからの課題です。
それを地味に積んで、
それが、もったいなく思い、執着もあり、
「捨てがたいもの」になってこそ、その時に、
それを、あえて、捨て去ることに、意味があるのですから。
__________________________________
●余談ですが、「中級手裏剣術」の本にも書きましたが、
無冥流は、もともとは、
手裏剣の打法と剣を、打剣が最も「簡単なものにすること」で、
実習者の人が、より早く、「禅手裏剣」に着手できるようにと、
剣と、打法の研究をしてきた経緯があります。
その過程では、結局のところ、いろいろな打法を研究しなければ
ならなくなり、異流派の剣を打つことも、しばしばで、
見るも複雑な「打法論」になってしまいました。
「中級手裏剣術」本の中で解説されたのは、6打法ですが、
現在ではそれに、「握り打法」と「八角流的」な打法までもが加わり、
全部で、8種類の打法を、剣や、打剣距離に応じて、使い分けています。
●しかし、原則として、もっとも打剣が簡単な剣で、
身体運動にフィードバックする学習要素を備えていて、
禅手裏剣としても良い、
おまけに、実戦でも使える威力がある、
ということで、開発したのが、
今回の、限定数生産の、手裏剣でした。
打法は、「無滑走2点打法」に、
自分で滑走率をわずかに加える、というあたりでかまいません。
直進打法系の打法は、腕をまっすぐに突き出して振るという
やや特殊な運動をしますので、初心者の方には難しいです。
剣の方は、98gもありますから、重量剣に慣れていない人は、
重い!と感じるかもしれませんし、
きちんとした安全な場所で稽古をしないと、撥ねたときには、
確実に、近くにある物品を破壊しますよ。
また、威力は十分ですから、下手をすると怪我をします。
くれぐれも、自他共に、安全な場所を整備して、稽古をしてください。
●この剣がなぜ、稽古用としてすぐれているかは、
この剣を、6打法などで打った後に、いつもご自分が使われている
剣を打てばわかります。
それは、今使っている剣の多くが、打ちやすくなるように、
フィードバックをしてくれるのです。
その一番の理由は、剣の保持の仕方に変化をつけたりして、
「いろいろな打ち方が出来る長さと重心位置を持っている」
という点にあります。
また、この剣が、万人にとって、打ちやすい剣であることを
証明するのは、非常に簡単なことです。
以前に、私は、そうした統計のデータを正しく取るためには、
50人以上の、手裏剣未経験者にテストをする必要があると書きましたが、
なんのことはありません。
いま、手裏剣をやっている人が、利き手でない手で、
打剣すればいいのです。それはほとんど初心者と同じことですから。
そうすれば、どういうタイプの剣が、
速く刺せるようになるか解ります。
軽量剣は、ゼロからの打剣をするときに、かならず暴投をします。
しかし重量剣は、重量と身体の動きを「しっかりと感じながら」
打剣動作が行われ、
かつ、飛んでゆく剣も、遅いですから、目視で自分の打剣を
学習することが出来ます。
私は、この剣で、全くいう事を聞いてくれない左手での打剣を始めて、
10日目には、9本中、7本が、2間の距離から刺さりました。
むろん、威力のない、「ひょろ剣」です。
しかし、同じことを、70グラム代以下の軽量剣で行うと、
どうにも、全く、うまくいきません。
まだ身体が、左手の使い方の学習を飲み込めていないからです。
だから、女性だからといっても、剣は軽くないことが
上達のコツです。
重めの剣で練習をしてきた人は、軽い剣を持っても、
あとは、打法に少しだけ変化をつけるだけですから、
軽量剣に慣れるのも早いです。
___________________________
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