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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[763]
■
今年も手裏剣術講座をよろしくどうぞ。
by:
鈴木方山
2006/01/04(Wed)07:37:01
最近、無冥流以外の打法を自得しようとしているので、
フォームがちょっと変わってきています。
しかしそれにしても、袴の位置が高すぎます(汗)
裾を縮めればいいものを、裾が長いまま無理に履くせいで、
帯の位置が、あがりすぎる。しかし、どのみち、どう着こなしても、
私は、袴が嫌いです。
正月だからと、ちょっと履いてはみたものの、
自分の打剣のスタイルや、剣の装備の方法には、まったく合わないので、
いつものオリジナルスタイルにします。
●↓は、年の初めてに家の中にある紙垂をすべて、新しい紙に交換。
古いものは、火で灰にしました。
_____________________________
以下は、私の大切な剣友にあてた手紙の一部です。
今年の自分のテーマについてのようなものです。
_____________________________
今年は独自の打剣フォームの練りに入ろうと思います。
その場合には、いかにして、「やわらかく」がテーマです。
力の追求ではなく、むしろ逆の方向です。
どうやって力を阻害しないかです。
私が、それを最初に、思い知ったのは、
大昔の小学校とか中学校のときでした。
それ以来、大きくなるにつれて、
自分的には「邪道」である力やバネといったものを24歳ぐらいまでは、
自分なりに養いましたが、
今は、もう一度、その前の原点に戻ろうとしています。
私が小学校と中学のときに経験したものというのは、
人は、完全な力や技を発揮するときには、
まったく抵抗がゼロであるし、身体感覚すらほとんどない
ということでした。
突然にまるで身体がないような軽さと、抵抗ゼロで、
太い木が自分の蹴りで折れてしまい、
自分より背と体の大きい人間を4人立て続けに10数秒で倒してしまう。
何ひとつも武術をやったことのない人間の中にも
危機的な状況になり、さらに頭が全く無心になると、
何かが身体をのっとるかのように動くことがよくあります。
しかし、それは明らかに、学習外のものです。
ひとつめの経験は、
自分よりも体格の大きな4人をまるで漫画のシーンのように軽々と
倒してしまった経験でしたが、それは、小学生高学年のときでした。
悪がきの家に遊びにいったときに、プロレスごっこになり、
しかも、かなり悪質で暴力的だった中で、私一人がクラスが違う
ということもあり、その、いたぶりゲームのターゲットにされました。
子供の遊びの一番怖いところは、首の絞め方ひとつでも、
「加減というものを知らない」ことと、
集団心理による「悪ノリのエスカレート現象」です。
そんな中で、おそらくはそのままにしていたら、大怪我になるか、
事故で死んでいたであろうような状況になったときに、
突然に私の体が勝手に動き出して、10数秒ぐらいで、
4人をある者は、放り投げ、ある者は足で首を挟んで180度くるりと
回転させ、あるものは突き飛ばし、あるものはねじ伏せ、
それでいて、しかも、
ただの一回も、殴るという動作はありませんでした。
自分の体が動くのを自分ではっきりと感じ取っていましたが、
明らかに、「それ」は本能以上の何かの技を持っていました。
悪ガキどもが、彼らよりも小さく力のない私に、次々に跳ね飛ばされて
行ったことに、彼らが、あぜんと言葉を失ってしゃがみこんでいたことは
むろんですが、それ以上に唖然としたのは、当人の私でした。
あきらかに、何かがそのとき、
私の体を駆け抜けていったのを覚えています。
もうひとつは、ごくごく普通に武術の練習をしていたとき
たまにあることなのですが、まったく予定外のところに
間違いで、突き蹴りが当たってしまうことがあります。
そんなときに、普通にやっていたら蹴って折ることなど出来ない棒が
何の抵抗もなく、折れてふっ飛んでゆくということがあります。
場合によっては、逆に、そういう想定外のものにぶつかることは、
大怪我になる場合もあります。
しかし場合によっては、そこに破壊すべき、木板やレンガを
意識しすぎることの弊害で、力の有効な発揮が阻害され、
逆に、単に、ごく普通に、力まずに、型の練習をしていたときに、
その途中で「間違って」突いたり蹴った物体が、
簡単に破壊されてしまうということがあるものです。
たとえば、これは打剣においては、距離を意識すると
届かなくなる現象に似ていますし、スピードを出すことを意識すると
本当にはスピードが出ない。コントロールも、しかりです。
標的と技を意識しすぎることで、
心身の全体のバランスが崩れることの弊害ですね。
それぐらいならば、目的を忘れて、
ただ無心に打剣の身体感覚と一体になっていた方がいいわけです。
______________________________
そんなことから、手裏剣において、
その感覚をもう一度取り戻すのが
今年のテーマになりそうです。
「訓練の末に行き着く力」については、5000年、一万年と、
人類はそれを、無数の職人とスポーツ選手、
武術や戦争や芸術が、何億人と同じことを続けてきましたし、
それが、いつも到達するところは、「同じ場所の繰り返し」です。
それは私の興味の対象ではありません。
努力することの果てに「達成感と無力感を繰り返すという事」を
感じとりたいという人たちが、今までに、自主的にその努力の道を
大勢、歩いて来たのですから。
しかし、私は生まれてきたときに、少し違う方向に全人生を傾けることを
予定してここへ来ました。
その禅のような作業の中に、どう手裏剣術を取り込むか
というのが、面白いところです。
____________________________
また技術面については、私の役目というのは、
技術の体現ではなく、技術の分解です。
「技術の習得」は、それをやるための使命をもって、
人間に生まれきて、生涯をそれに注ぐ人たちがいます。
ですから、本にも書きましたように、
私の位置というのは、「剣の検品師」としての最低限の打剣技術と、
あとは、「剣を選ばす」打剣できることが目標のひとつです。
説明が出来ないことを説明にする、
私の生まれてきて、死ぬまでにやる仕事の大半は、執筆なのです。
体得できる人が必ずしも、うまくそれを伝達できるわけではなく、
また伝達できる人が、必ずしも体得をできるものではなく、
そこでは、実は、その人の中から発揮される「分野」が違います。
_____________________________
ところで、私が一度でも見てみたいものがあります。
それは、「この上もなく、美しい打剣」です。
機能性がフォルムやフォームに自然に現れるのとは、
また違う次元の打剣です。
うまく説明は出来ないのですが、
技を極めた人を見ると、
「あー、凄いのはわかるけど、
また、この手のものか・・・」というほどに、
世の中には、そういう技に到達した人はいるのですが
(たとえば、バイオリニストの五島君とか、大リーグのイチロー氏とか)、
しかし、「技がその人の身体を完全にのっとっている人」
というのは、私はほとんど、見たことがないのです。
(この後者の例は「書」を書く人にたまにいたのを覚えています。)
竹の間掲示板で少し前に「味噌汁」の話をしましたが、
力のぬけた技に少し似ていますが、まだあれだと余計なものがあります。
そんな打剣を、今年はビデオに収められたらいいなと
思っています。
あとは、他人の打剣の中に、ふとその片鱗を見ることは
ごくたまにあります。
世の中には、最近流行りの「大道芸の世界チャンピオン級の技」も含めて、
「凄い技」というのは、氷山の一角にいますし、
または「技の山頂の地点」であるとはいえ、歴史的にも沢山あります。
しかし、私は、
「凄い技」ではなく、
「心を打つ技」を見てみたいのです。
たとえば、それは刀匠が打った剣による殺傷力が
すごい技の極みだとすると、
「自然が作った氷の剣」の殺傷力のようなものです。
その役目を終えたら、そこに自分の栄光を
何ひとつも留めようともせずに、
無欲に、溶け去ってしまうようなものです。
そんな打剣を今年こそ、本腰を入れてみようと思っています。
追うと2度と手は届かないが、
追わねば、常に、いつもこの一瞬の中にあるもの。
すごい技というのは、どれだけ正確な
それこそ、5間から、蝋燭の火だけ消しても、
それでも、畢竟「すごいな」の感覚だけで、終わってしまうのです。
●私がここ最近、数名の師範に惹かれるのは、
実はその技の完成度ではないのです。
その技が出来るまでのプロセスです。
ある手裏剣術の場合には、その主体が術者ではなく「剣」である
という点などです。
つまり、人ではなく、剣が「この剣を打ってみろ」と
人間に挑戦してきていて、それに後継者は良い意味で、
とり付かれている、という点です。
剣がその人の運命を動かしているわけです。
運命の流れと鍵を握っているのは剣です。
別の師範の場合には、
10間の飛距離をさらに20間にまでしようと研究していたとします。
つまり、ここでの鍵を握るのは、「極限的な距離の壁」です。
これも、人がやっているというよりは、
その「距離」に魅せられて、距離の神様が「届かせてみろ」と
いわんばかり。そしてその師範は、それを体現しようとする。
そして、私は、書き下ろすという作業において、
人と繋がっていっています。
どうだ、説明できるものならしてみろ、と文の神様に言われて、
書いているようなものです。
このように、私が着目したのは、
その人の欲望とか、
その人が人生を生きている間に自分の技を完成し、達成したいということの、
「そうした個人の目的や動機以上」に、
その人たちを、根底から突き動かしているものが、
「人ではない剣の魂」とか「距離の壁」とかである場合です。
手裏剣術を「自分の小さな達成感や自己満足のためだけに利用したり」、
手裏剣を支配したり、または無意味に自己宣伝のために広めようとする人たちではなく、
逆に、手裏剣術というものに、自らが支配されてゆこうと
どこかで運命を決めた人たちです。
だから、私は、自分のための手裏剣、自分の流派の手裏剣しか
見えていない盲目の人たちとは、昨年に、縁をきりました。
その手裏剣術の根底で、その人という一個人などというものよりも大きな
目には見えない背景に、
個人という「人間以上の次元に存在する力」がそこに働いていないと、
私は何かに本当には、興味を持てないからです。
どんな技を見たところで、「凄い技ですね」ということはあっても
「いいものを見せて戴きました」とは、なかなかなれないのですよね。
私にとって、「いいものを見ることが出来ました」というのは、
個としての人の努力や意志が、そこに不在となる瞬間を意味するのですから。
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