▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■松の間へようこそ■
掲示板
Title
手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
手裏剣術の画像・動画が、
他に類を見ないほど多く掲載されています。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[958]
■
■努力が「向けられる方向の違い」、または「無自覚的努力」の世界、そして「正常な論議」とは何か
by:
崩残
2007/09/21(Fri)04:35:29
>9/21。文末に、剣尾の形に関する考察を追加しました。
http://www.geocities.jp/phantom1868/syurikennronniti.html
↑
■非常に分かりやすく、面白い手裏剣論-1でした。
ひさびさに、本当にマトモな文を読んだ思いがしました。
さて、以下は記事を読んでの私見です。
●長年の「経験」からの私見ですが、
そもそも「本物の努力」というものは、
ことさらに他者に強要するようなものではありませんし、
本人もまったく、地味な努力だなどとも、
「一切思わないで」やっているものです。
なぜならば、合理性のある下積みに対しては、
人間は決して「地味である」などと一切思いません。
つまり、努力が必要だとか、地味だとか、そんな事が、
いささかでも、やっている本人の「頭をよぎる」としたら、
それは、理論的に他者を納得させられない体系である、
ということになります。
■話は少し脱線しますが、懐かしの巨人の星というアニメの中には
「合理的練習法」というものがいくつも登場します。
たとえば、星雲高校で、星一徹が監督になったときに部員にやらせた草むしり、
そして、星をマウンドの後方から投げさせることで、打者にはボールになれさせて、
同時に、当時バットを振ると補球できなかった伴にも、
キャッチャーとしての練習になるようにしたこと。
大リーグボールの最初の開発、二度目の改良法のボートの上での特訓、
3号は一晩で竹林で完成された、それらのプロセス。
一徹がオズマに1号打倒法としてやらせた3球打ち、
花形が、打倒2号のために、雪の中にボールを仕込んだ特訓。
一徹が、サッカーボールを打たせた特訓。
それらは全部、
「目的を果たすために、最も合理的に」組み立てた特訓や練習法であったわけです。
●また、
「ドラゴン桜」というドラマをご存知でしょうか?
出来の悪かった生徒数名を、東大に入学させるために、
受験のプロが集まって、可能なかぎりの「合理的な学習法を叩き込む」
という、非常に面白いドラマでした。
(むろん、前述のアニメと同様に「作りもの」ですが。)
このドラマも、原作が、漫画のようです。
●つまり、
ある練習法に、どういう合理性があるかという明確な説明の理解と、
その結果が明確にじわじわと本人に意識されること、
このふたつが揃ってこそ、
人間は、「俺は努力しているんだ」などという、
陳腐な「傲慢さ」を感じたり、心の中に持つことも一切なく、
淡々と、その同じ訓練を「継続できる」ものなのです。
つまり、なるほどと心底理解されたものと、成果が目に見える訓練です。
これによって、現代のスポーツトレーナーなども、
その評価が分かれます。
イナバウアーのお姉さんが、
他人との比較をして、「マオちゃんを見習いなさい」
などと、ほざいてばかりいた「前のコーチ」を、斬って、
首にしたのもそのためでした。
こんな具合に、どんな下積みにも、
ただやれではなく、そこには、
>「明確な、モチベーション」が常に必要です。
>また、「動機の純粋さ」という名の、精神的な「動力源」です。
●もうひとつ、記事から感じた事、それは「別件」なのですが、
世に言う、「性能のいい剣」とやらの結論を出すまでに、
一体どれほどの人が、それこそ「地味な」検証を繰り返したかです。
世の中には、伝授されているというだけで、性能を盲信する者がいますが、実際には、元の設計図から、
次の何種類もの「ファクター」を、すべて、変形してみる必要があります。
>太さは、1mm単位で、最低でも、前後7種類をつくる。
>長さは5mm単位、または1cmで前後させた、計9種類の試作品をつくる。
>剣先の研磨の開始位置(横手筋)からの距離や(=先端の角度)を1cm単位で変えてゆく。
>絞り方の基部の剣底の径を、これまた1mm単位で変えてみる。
>(結果として、横手筋から剣底までの剣身側面の角度が変わる)
それこそ、これらというのは、
うんざりして、嫌になるほどに、地味でコツコツとした作業です。
そして、そうしたものを何十種類と試作してみれば、
>ある特定の、「これと決めた打法」をやったときには、
>古来から伝えられている剣が、
>実はあと数センチ長い方がいい、または逆に短い方がいい、
>あと数ミリ、どこが太いほうがいい、そしてここは逆にもう少し細いほうがいい、・・・などなど、
>多くの場合にはそうした結論が出るものなのです。
>(すべてのケースにおいてではありませんが)
そして、もしも、これらの「地道な努力」をすれば、
試作品の過程で膨大な量の「失敗作の剣の山」が出来るのが、当たり前なのです。
●しかし、剣に対する本当に「純粋な探究心」と地味な努力を避けているが故に、
あるいは、看板やら、何かの権威や、何かの盲信にしがみついているが故に、
そうした地味な努力と、定説に自主的な疑問を持つことの出来ない人が多いと、
私は思っています。
実名で挙げて、もうしわけないですが、大東流もそうです。
本当に、あの剣が「最終的に良いのかどうか」、それが、
どれほどの、何百本の試作品の山からあれが生まれたのか、
私には疑問です。
そういう意味では、染谷氏の方がよっぽど真面目に研究したと私は思います。
ただし、この点に関しては、手裏剣術のコンテンツを書かれた道場主に
私は、まだ直接には、完成までのエピソードを伺っていないので、
むろん断定は出来ませんし、私の勘違いかもしれませんが、
とにかく「個人的に疑問視をしている」のは、ひとつの個人的な事実です。
●個人的な感想をいいますと、大東流の剣は、その
フォルム(形状)は、「抜群に美的」です。非常に美しいものです。
刃の形状もよく尖れています。
写真から体積計算をすると、重心の位置が、おおよそ分かりますが、
わずかにですが、前過ぎるような気も、しなくはありません。
問題は「反転打の時」に、
あのバランスの剣はうまく飛ばないということです。
それと手には「やや」危険かもしれないという点です。
そこで、もしも、反転打を斬り捨てて、直打法に徹するならば、
中距離(6間内)までの性能は、「かなり良い」と推測しています。
実際に、手に持って打つことが出来ればいいのですが、
今のところは、どなたかにまる一日だけ、借りられればと思っています。
__________________________________________________________
●さて、最後に言っておきますが、
世の中には、「何かを少しでも、疑問視したり、批評をすると、
動物の条件反射さながらに、すぐに、流派批判と、
ステレオタイプのレッテルを張り、
「論理批判」を、すぐに「他流批判」と、いとも簡単に混同してしまう、
「性格の悪い者」がいます。
しかし私は、今まで、一度も、くそみそ一緒にして、
「他流そのもの」を批判したこともなく、
糞みそを一緒して、他流の「剣」を批判したこともありません。
私は、
>「ある特定の個人」が、
>「何の問題」に対して、
>「何を言ったのか?」
に基づいた批判をしてきたのみです。
たとえば、明府のその看板を私は一度も批判していません。
私が批判したのは、そこの「特定の者」が言ったことです。
同様に、後藤流とやらもそうです。
今回、疑問視の引き合いに出した、大東流にしても、
そこの体系も看板も、一切批判もしていません。
ただ一点、剣について、「どれほどの実験がなされたのか」の記述が
不足しているために、個人的には、性能的な信頼がおけないという、
小さな疑問符を投げました。
なぜならば、
普通、本当に、何かの目的を果たすために剣を自分で試作したらば、
その過程で、本当に多くの貴重な体験をするものですから、
甲野氏や、半田師範矢、染谷氏のように、その工程で経験したことが、
かならず、物品の写真や、「言葉の記録」として残るものなのです。
それが残っていない流派というのは、(ちょっとした実験程度はしても)、
「大量の実験」をしていないからだと、私個人は見なしています。
_________________________________________________
●そういうわけですから、
論というものを元にした、論議、論戦というものは、
「論点」というものが明確にあります。
>「誰が」、「何の問題に限定して」、「どういう事」を言ったのか、
それについて、おかしな疑問点があれば、
その特定の絞り込まれた問題については、賛否の論議をすることは、
それは、単純な感情的な批判や、好き嫌いに基づく偏見や、
他流軽視や、他流侮蔑ではありません。
何かを論じるときには、
まずは、そこで共通に使われる「いくつかの言葉の定義」そのものから、
きちんと双方で明確化して、
「特定の定められた問題」に対して、
「論点の軸のブレない、的を絞った論議」をして、
それを各自、双方が「自分の未来のために生かす」ということ、
それこそが「正常な論議」というものであると私は定義しています。
■
【余談】
そういえば、昔、私は30代のころに、
毎日、毎日、同じ呼吸法を、何年も続けました。
その呼吸法が完成するまでには、考えられる呼吸法を全部試して
その中から、本当に必要なエッセンスだけを取り出すのに、
検証するのだけで、まる2年かかりました。
その後その独自に開発した呼吸法を、3年、4年と毎日のように続けました。
その結果が、この歳になっても、
セックスのときに、女性の膣内でも、私の男根は、1時間でも
持続しますし、また自由に勃起状態をコントロールできます。
これらはすべて、非常に地味な呼吸法を、毎日、何年も続けた結果
私の中に、蓄積された、仙道的な「気」なのですが、
私は訓練をしていたときに、ちっとも、苦しいとも、努力だとも
地味だとも思いませんでした。
それがどういう結果をもたらすかを、すでに検証済みだったからです。
●また、セックスで実際に使われる前戯れ、体動、女性のツボの刺激の仕方、
いろいろな秘技、すべてを自分で、検証し、組み立て直し、
もっとも効率のよいものにしました。
ですから、相手の女性が、オーガズムの連続状態にならない
などということは、もうここ約15年間、一度もありません。
そして、その結果出来た「現代の性の指南書」の名作が、
「性恋愛教本」他の、大人のための性教育にまつわる3作です。
↓
http://www.mumyouan.com/i3.html
●それらを読んだ人たちは、何一つも地味だとも、努力が必要だなどと
思う心も一切なく、
その端から見れば、地味な「呼吸鍛錬」や、精力の強化法を、
「楽しく続けている」のです。
なぜならば、その良き結果は、
確実に相手の女性とのセックスに出るからです。
自分の好きになった女性を、自らの、とりこに出来るのですから。
(ちなみに、私は、過去につきあった女性の、その半数は、その技で、
すべて、元彼から「寝取り」ました。)
●実は、今回の「手裏剣術入門の手引き」も、
まったく同じ「精神的な姿勢」で、作りました。
それらは、本当に必要なことですから、
皆さんは、成果を自分自身の体と打剣で確かめながら、
どこまでも、「楽しく」手裏剣をステップアップしてゆけるものと
私は、確信しています。
_____________________________________________________________
【某流派の口伝に対する異論】
>>棒手裏剣の直径が10ミリ以上になったらば、
>>柄を尻つぼみにするべきだ。
などという事か伝わっているという話がある。
仮にこれが「自己主張」の為の「都合のいい創作話」ではなく、
「口伝の事実があった」場合にも、この口伝は、
「間違い」か、または「不備がある」と見なされる部位が存在する。
その根拠は以下の通りである。
↓
9mmを超えるというのを、10mm以上と、仮にした場合、
なぜ、「現代の尺度で」10mm以上なのか??
その根拠たるや、おそらくは、単純なもので、
9mm以下の太さのものの剣尾に対して、絞り込む加工をすると、
「細くなりすぎるという金属の強度の問題」と
「手の内における安定性」から「不具合が生ずる」
という「憶測」に基づくものであろう。
(一体、どこの誰の、憶測なのか知りませんがね)
しかし、これは、
剣尾を細める事による不具合が生ずる「■下限■」を根拠にした言い分
であるに過ぎない点には、注意すべきである。
すなわち、この10mm以上という言い分は、
「ひどく単純な根拠にすぎない」のである。
◆なぜならば、一方の「太さ10mm以上」の「寸法領域」となると、
10mm 11mm 12mm 13mm 16mmの、全て太さの剣において、
その「剣身の全長」を、仮に「18cmから22cm」の通常の手裏剣の範囲に
したとしても、「なんらの不具合が生ずるものでもない」からである。
すなわち、直径が10mm以上に「太くなっても」、
剣尾を絞るように細める「必要性」、などは特になく、
その主張には、客観的な根拠が何もない。
◆これゆえに、その客観的な根拠のないことを
一体どこの馬の骨が言ったのかに、私は興味がある。
その者を名指しして、
「前提をはっきりしないままに、間違ったことを言っている」
と指摘するためにである。
◆次に、このように言うと、おおかた、すぐに言い出しそうことは、
そもそも「手裏剣」というものを、
長さや太さを、「どの範囲に限定」して「手裏剣と呼ぶか?」
という「基本的な争点」である。
というのも、たとえば、仮に、世の中の誰かが、
直径10mm以上の剣、15mmの剣、
そして時には、直径20mmの剣(柄が木製などのもの)を、
問題なく、7間以上の距離で刺したとなると、
「長さが23センチを超えるものは、手裏剣とは呼ばないのだ。」
などと後出しジャンケン的な事や、あるいは「都合のいいcm寸法」を、
言い出しかねない者も、世の中には「たまに」いるからである。
◆では、手裏剣とは一体、
どういう形状と、どういう長さや太さの制限があるのか?と問えば、
「その制限を明確に書いた人間」などは、
歴史的にも、ほとんどいないのである。
にも関わらず、国内ばかりではなく海外ですらも、
「長さが16cmを超えたら、手裏剣ではない」などと言い出す馬鹿者までいる始末である。
つまり、「手裏剣とは隠し武器であるべきだ」の通説の流布による
「弊害」がこれである。
◆そこで、ここをご覧の皆様に尋ねてみたいのは、次のことです。
手裏剣の「寸法上の」正しい定義とは何でしょうか?
私見を言うならば、
そもそもこの論議それ自体が「不毛でくだらない論議」である。
なぜならば、たとえば、「23cm以上は手裏剣ではない」とか、
「どの太さや、どの形状の寸法からは、それは手裏剣ではない」、
なんぞということを「不注意に」言っているようでは、
必ずや「意図せずとも」、古流も含めての「他流否定に陥る」からである。
◆そこで、私は、この根本的な「不毛な論議」に終止符を打つために
手裏剣術を「手離剣術」としたり、
「総合投剣術」というカテゴリーにして、
「すべての、新旧流派が、漏れなく包含されるように」と、
用語の変更をすることがよくあります。
ちなみに、台湾でもこれらの術のことは、総称して、
「飛剣術」「飛刀術」などとも言われているようである。
◆そういうわけですから、
>>9mmより太くなったらば、剣尾を絞るように加工するべきだ。
というのは、当然のこととして、
>広い「手離剣術」という領域での「一般論」としては全く当てはまりません。
実際、直径10mm以上で、
剣尾に「極端な絞りの加工」や「ほぼ中央重心になる加工」を、
特にしない古い流派も、資料文献にはありますので。
______________________________________________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(958 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
松の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -