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「分割自我復元」
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★分割自我復元★その117 ●公認の自我復元ブログの追加と、新刊についての雑談●
by:
鈴木崩残
2012/09/08(Sat)03:05:46
>9/8 15:40更新。 ところどころ、加筆しました。
追加された自我復元ブログ
●最初のふたつは、
最近になって、新しく追加された2つの、無明庵の公認ブログです。
1.
http://fukugen16.jugem.jp/
2.
http://blog.goo.ne.jp/hakodate2012
以下は以前にも紹介したものです。
3.
http://kogetu.tsuyushiba.com/
4.
http://blog.goo.ne.jp/glico-shohei
5.
http://ameblo.jp/tekutekukamesan/
6.
http://einfunftel.blog.fc2.com/
7.
http://ameblo.jp/gaibukiokuhako/
8.
http://jigafukugen.blogspot.jp/
9.
http://fukugengo.blogspot.jp/
■それと、「自我復元ブログ」は、トラックバックやコメントを
すべてoffにしてください。
それは、ブログ主の人が、
自我率の低い人からのコメントに、いちいち答えるのが無駄、ということでもなく、
また、自我率が高い人からのコメントなら答えるのがいい、という事でも全くありません。
書き込む相手の自我率の数値そのものは、関係ありません。
そうではなく、たとえ、自我復元を現在行っていても、
その「効果を明確に経験していない人」、そして、
「公認の自我復元ブログを書いていない人」とは、
やりとりそのものが「無駄である」ということです。
うわっつらだけは、話になっているように見えても、
現実には、話になりません。
なお、既に、他の公認ブログの執筆者の方から、コメントを
戴いている場合には、それも消していいです。
(別に、どなたも気を悪くする人なんか一人もいませんから。)
もしも、それが必要な時期が来ましたら、
公認ブログの人だけが交流できるBBSを用意しますので。
掲示板は既にありますが、現在は、まだ「交流BBS」にはなっていません。
自我復元のすすめ
●以前に、自我復元をある程度行って、効果を確信している人たちから
アンケートという形で、2度ほど自我復元の「推薦文」を書いていただいて、
桜の間に掲載したり、一部を本に編集して入れたことがあります。
しかし、開発者の当人である私が、自我復元を「推奨」するどころか、
自我復元を「やれ」
「やらないならば、無明庵のサイトを見たり関わるな」とまで
言い切る理由は以下の通りです。
●かつて、悟り系の分野に関しては私は、
「覚悟もなく関わるな」「ほとんどの人には、関係なく、必要もない」と、
強く釘を刺しましたが、
「自我復元」となると、真逆です。
どれだけ低い位置にいようが、どれだけ困難な中にいようが、
あるいは、どれだけ自虐的な絶望の中にいようが、
切迫した危機感さえあるならば、必ず行い続けてください。
悪いことは、何ひとつも起きません。
「自我が希釈された状態で起きる事よりも悪い現象」など、
そんなものは、この世界に、あり得ないからです。
私がそこまで、「やりなさい」と、断定して、
迷いなく押し付ける事すらする理由は、
>■第一に、・・・
自我を復元していない人は、
私とばかりではなく「他者との正常なコミュニケーション」は、
一切成立しません。
自我復元をしていない、または効果を実感できていない希釈自我の人は、
他人とコミュニケーションが成立していると思い込んでいるだけであり、
もしも自我復元を少しでもやって、20%程度の復元をしてる人たちが
その人たちを見たら、話にもならないでしょう。
そして、このコミュニケーション能力とは、人間相手ばかりではなく、
他の動物や生物、あるいは地球外の何かとの接触能力も含みます。
そもそもコミュニケーションと聞くと、
「他人と、どう上手く付き合うか、意志の疎通を図るかという技術だ」、
と、とんだ勘違いをしている人が世の中には大半であり、
そのせいで、コミュニケーション能力の為のカルチャーセンターまでありますが、
コミュニケーション能力とは、そもそも、まず自分の中で、
他者への「反応」として起き続けている事への観察力と統率がなければ、
出来ないのですから。
>■第二に、・・・
自我復元をしていなければ、この世界にどのような体系があり、
仮にそれが有用で効果的であったりするものでも、
希釈自我の人には、それを使うことは、ほとんど出来ません。
その体系(魔術、瞑想、占術、その他何であれ)が優れていて、
正しいほど、自我復元をしていない人たちには、
その体系を使うことは出来ません。
もしも自我率が全自我か、それに近ければ、
現存する中で、本当に効果的な体系であれば、100%に近く、
その体系を応用することが出来ます。
魔術的手法でも、OOBEでも、瞑想でもなんでも(その体系にミスさえなければですが。)
また、そうした専門家からアドバイスや教習課題も、
希釈自我の人は、ほとんど何も生かせないで時間を無駄にします。
>■第三に、・・・
この世界には、100にひとつか、200にひとつぐらいは、
確かに有用な体系を含むものがありますが、
その他99%は、本当に、ロクでもないものと思っていいです。
そして、そのわずか1%以下の比率で、
ここに存在している体系に関わる場合に、全自我でない人は、
必ずそこの主催者に迷惑をかけたり、「足手まとい」になる事をしでかします。
そういう、他人や重要な体系組織の足手まといな行為をしてしまうような、
人間になりたくなかったらば、自我をまず復元することです。
>■第四に、・・・
自我が復元された人は、そもそも、本物の体系または、
一部に有用なものを含む体系の中から、
自分に本当に必要なものだけを正しく見分けて、
それ以外のものには、かかわりません。
ただし、そういう、有用な体系中にも、
いわゆる「クソとミソの区別」のつかないような、ひどく希釈された、
低自我の人たちが多く含まれますので、
すぐれた体系に、たまたま関わっていたからといって、
本人の自我率が高いなどということは全くありません。
それは、「クリシュナムルティー」や「和尚」や「ラマナマハリシ」の
本の愛読者や、それに感化されてしまった人たちが、
どれだけの馬鹿ばかりだったかを見れば、すぐに理解できます。
カルト仏教よりはマシなものを見つけた、からといって、
それを見つけたり縁があった本人が、
鼻がきく人間だったり、マシな人間だなどということは、
断じてあり得ませんので。
(その程度の超低空のプライドで生きて行けるとは、何たる低俗さだろう)
●それに、実際、無明庵のような前衛的な所を見つけてさえも、
救いがたいほど、「鈍感に麻痺してしまっている人たち」も沢山いましたので、
何を見つけたか、という事などは、全く価値を持ちません。
希釈自我の人は、何を見つけ、そこに、現実に、どれだけ関わっても、
かかわったという自尊心以外には、何一つも持って帰れないで終わり、
またはその人の自我の希釈率に応じた、全く取るに足らないほど微量な
成果しかありません。
以上の4点が、私が自我復元をしろという理由です。
*********
●そういうわけですから、
自我復元によって、自我率を最低限でも、ある変化率まで変えれば、
第一に、時間の無駄となるような馬鹿げた体系に関わることはなくなり、
自分にとって、その時に必要な体系に、必要な期間だけ、効率よく関わることになり、
その結果も、等身大の自我率に応じて得ることになり、
さらには、関わったその体系の主催者や代表者を煩わせたり、
そこで迷惑な人間になることもなくなります。
●とても、重要なのは、
スタート地点の自我率ではありません。
スタート地点の問題よりも、「変化率」が大きいほど、
「自我復元おそるべし」という紛れもない事実を認識する人たちが、圧倒的に多いのです。
逆に言うと、スタート地点の自我率が低い人の方が、
中途半端に生まれついての自我率が高かった人よりも、
感動的だったり衝撃的な、変化内容を経験することになります。
自我が復元されてゆく人の特徴
●ちなみに無明庵では、それまで、
他で「瞑想の指導ごっこ」をしていたり、
「占い」を仕事にしていた人や、「カウンセリングごっこ」をしていたり、
「整体だのマッサージごっこ」をしていた人、
そして、自己満足の為に、さも分かったような事を、
「ブログ」に書いていたり、他人と論戦などしていた人たちも、
まともに自我復元が出来ている人は、ほぼその全員が、
その仕事を廃業し、くだらない自己顕示欲に起因するブログをやめました。
理由は、ごく明快です。
>そんなことを、他人様にする資格など、自分にはなかった。
>不完全な自我の状態では、絶対にやってはならない。
>その事を自我復元による「直接的体験」として、痛感したからです。
自我復元を進めていった人たちは、
「生活のためだから、続けなければ食ってゆけない」などという、
みみっちい事は言いません。それでは良心と魂を捨てることになります。
ですから、復元をしている人は、それまでの精神世界系の職業にしがみついて、
そこに執着するような人はおらず、潔く、廃業にしています。
今後、もしも再びその職業を、再開するとしたら、
必ず全自我に戻ってからでなければ絶対にしない、という人ばかりです。
●さらに言うならば、
過去において、本人が何がしらの、
瞑想的体験や、悟りの一瞥、神秘体験やら、意味と価値のある気づきでもしたと、
勝手に思い込んでしまい、何十年も歳月を無駄にした人たちがいるならば、
自我復元を、地道に、きちんと、まじめにする事です。
「過去に瞑想してきたんだから、俺様は、他の奴より大丈夫なんだ」
などという事をほざく、大馬鹿者もいるようですが、
その結果は、程度の低いポンコツ人間に成り下がっただけです。
生きている間に、その愚かさが分からないのでしょうから、そういう人は、
死んでから、手遅れだった事に後悔して戴く以外にないでしょう。
●一方で、自我が復元されてゆく過程では、
その当時の体験が本物だったかどうか、意味があったのかどうかなどについて、
正しく自己評価したり、または正しく「自己批判」ができるようになります。
他人や、どこぞかの教祖などに聞かずとも、ご自分で明確に分かります。
(全自我に戻った人なら、なおさら分かります)
ただし、それは希釈自我の者が勝手に自己評価して自己満足しているのとは、
比較にならない雲泥の差であり、自己判断の質そのものが全く違います。
●そういう意味では、自我復元による自我の回復は、
正しい自己チェック、自分の過去の分析ツールとしても十分に使えます。
事実、その「自己分析力回復」の成果の一つが、この桜の間にある、
沢山の人たちの、トラウマの自己分析の報告ですから。
******************
●繰り返し言いますが、現在の地球では、
希釈自我でない全自我の人を見つけるのさえ、難儀します。
たぶん、皆さんは、一生の間に、片手の指の数の人数すらも、
絶対に見つけられないと思います。
ですから、何かの体系で全自我の指導者にめぐり合うことは、
ごくごく稀なことと覚悟しておいてください。
●しかし、そんなところを探して梯子するよりも、
みなさんが、全自我に戻れば、それで事足りるのですから、
他人のことは、どうでもいいから、自分自身の自我をまず復元してください。
●私は、自我復元という方法が、人をスーパーマンにするとは言いませんし、
特殊能力が開発されるなどと、詐欺のような事は言いませんが、
ただし、
精神科医ら、心理学者らが、この過去、数百年もかけて、
結局のところは、ほとんど何も出来ず、太刀打ちできなかった、
人間の心理的病理については、世界中で、誰一人としてなし得なかった、
根幹的な治療法を実現したと自負しています。
しかし、その治療をしたのは、私ではありません。
自我復元をしたその人自身です。
私はただ、自我復元という方法を提示し、
「このあたりを掘ってみてください」と言っただけなのですから。
私は、執刀すらしていません。
「ご自分で、御自分の腹の、このあたりを、切って調べてください」、
と言っただけです。
掘り起こしも、その分析も、私はほとんど全く関わっていません。
ただ、切る場所を示唆したのみです。
あとは自我復元で復元された率の皆さんの自我が、自分で自分を修理しただけです。
したがって、自我復元が普及すれば、
精神科、心療内科、カウンセラーは、その職種そのものが廃業となります。
残るのは、外科と内科等だけです。
人間の不安定な心理につけこんで、金を得ようとするヤクザな職種は、
この世界から、消え去ります。
●そして、自我率は99%まで回復しても、意味がありませんので、
必ず全自我に戻るまで続けてください。
そして、今の日本や世界の生活安定には、
時間制限があることも覚悟しておいて下さい。
******************
自我復元を実現しないならば去れ
●それと、これも繰り返しになりますが、1997年に解説された、
この「無明庵」というサイトを見つけたきっかけが、「悟り」という
検索用語であった人は多いと思います。
おそらく、その次に多いのが「自殺」、
その次が、「機能不全家族」や「AC」に類する検索語で、
その次が「オーガズム」であろうと思われます。
●私は断言しますが、全自我である人間は、決して悟りなどに
あこがれたり、そういう事を売りにしている団体や個人には、
近づきません。
これは、意識と自我の原理原則から、100%確実なことです。
全自我の人は、知識としては、そうした伝聞や、
悟りに関連する本に目を通すことはあっても、
決して、そこから、お馬鹿なサニヤシンになったり、禅寺などにも行きません。
それが営利目的であっても、なくて全くの無料のものだったとしても、
決して、悟りを売りにするような、宗教には関わりませんし、
「そういう人がいる所」へ、出かけたりも、絶対にしません。
●その最大の理由と根拠は、
全自我の人は、そうした本を読めば、たちどころに、
それがどういう事を意味しているのかを、理解するからです。
むろん全自我の人は、悟りの状態にはありません。
しかし、悟りの状態に対する、全自我の人の推測は正しいものとなります。
彼らは、悟りという領域に移動するのに、そのためには、
おのれが、どういう「首」を差し出さねばならないのか、
どのように自分の「腹」を切らねばならないのかを、
正しく理解します。
正しく理解するが故に、「これは、まだまだ自分には必要ない」と、
明確に、自分の自我の状態と、立ち位置を、理解します。
彼らには、明確に「悟りはこの自分には必要ない」、
「捨てられないものを捨てる事など無理だ」という、
「正しい自覚がある」のですから、
全自我の人は、悟りの事などについて、べらべらと他人と、知ったかぶりの、
おしゃべりなど、絶対にしません。
●よって、全自我の人たちは、悟りのことについて本で少し読んだ、
という程度の接点はあっても、全自我の人たちは、
絶対に、寺にも行きませんし、どこかの教祖や導師を訪ねたりも、
絶対にもしません。
そんなことは、全自我ならば、あり得ない事なのです。
なぜならば、彼らは、「自我」の大切さを、直観的に本能的に知っていますので、
それを手放せないのは当たり前です。
また、多くの場合に、その自我は、手放さないと本人が壊れてしまう
という切迫した膨張や飽和点には、至っていませんし、
彼らはまだ自我の持つ力を十分に使えています。
●一方で、そうした健全な自我としてここに生まれたのではなく、
単に自我が希釈されて、弱かった人たちが多くいます。
彼らの不満だらけの弱い自我や、劣等感やトラウマをかかえた、
そんな弱弱しい自我など、その、もともとの価格が安っぽいのですから、
そのような自我は、「捨てる意味」すらもありませんし、
数秒だけ捨てても、直ちに、またすぐに拾ってしまいます。
●そもそも何かを「捨てる」という事に、単なるゴミ捨ての廃棄処分ではない、
「重大な意味」と「重大な決断の必要」が出てくるのは、
捨てるものが、恐ろしく価格の高いもの、
恐ろしく価値のあったもの、
おそろしく自分にとって、大切だったものを捨てなければならない、
ということになってのみ、初めて意味を持つのです。
●私は、悟りという問題に関して、
その言葉足らずと、状況(集まった人間の質)の悪さから、
誤解や曲解をこの地上に生んでしまった、
和尚やクリシュナムルティーの撒き散らしたものは大嫌いですが、
それでも、OSHOの、この言葉には、絶対的なまでの真実がある。
それは、
>出家する(または導師の弟子になる)という事は、
>あなたがそれを「自殺の代わりに選んだもの」でなければ意味がない。
ただし、かつては自分にも、自殺願望があっただの、
現在、自分には、自殺願望があるだの、
あるいは、昔に、自殺をしそこねたような、ポンコツ人間、
そんな者には、その門の前に立つ資格すらも、一切ないのです。
●また、現在は、この地球には、この悟りの領域の問題では、
「全自我」の人に対してさえも、助けになる導師は、もういませんので、
そんなに瞑想したり、ポンコツの馬鹿者が、悟りを体験したり知りたいならば、
まずは、まっとうな全自我に復元して、
自覚的に生死の選択権を行使できる力を持つことです。
そうしてから、地球外のどこか別の世界と契約して、
「そういう事ばっかりやっている世界」を選んで、
そこで思う存分に、やってください。
●何度も同じことは言いたくありませんので、
この私の、絶対的に正しい説明に、あなたが納得できないならば、
二度と、このサイトを見ないで下さい。
新刊は、どういう媒体が良いか
●まだ何も内容が決まっておらず、書く気も起きていないのですが、
書籍は、どういう形式が良いのかについて、少し考えていました。
何かを伝える時の伝達媒体は、
1/文章のみ
2/文書と図版
3/声(音声のみ)
4/音声と映像
この4つがあります。
●「4」は、講演会などで、スライドを見せながら解説するスタイルで、
その講演会を録画したDVDなどがそれです。
動画サイトで皆さんがよく見る形式です。
私の今までの著作の中では、「分割自我復元」のDVDが、
「入っている要素」としては、これにあたります。
これは「カウンセリング書」を書いている過程で、
自然に出来上がったスタイルでした。
私は顔出しはしませんが、十分に私の雰囲気は伝わっているはずです。
●「3」は、講演会の演説や、個人の独り言を録音したものです。
大昔は、無明庵でも、非公開のテープ講話のようなものを、
数名に配布していたことがあります。
また、過去の無明庵の書籍では、唯一「反逆の宇宙」だけが、
テープ起こしをして書かれたものです。
「宗教に汚染された地球人」の中の、砂手と私(大猫)の対話部分は、
私が口頭で話したことを、砂手がその場でメモしたものです。
●「2」は、図版と文で、これが最も顕著なのが、私の本では、
「性のレシピ」や「手裏剣術」の本です。
解説用の「図版だらけ」の本になったというわけです。
●そして「1」のスタイルが、本文を主体とする書籍としては、
最も一般的で、無明庵の大半の書籍がこれです。
●では、何かを正確に、「他者へ」と伝えようとする場合、
または、正確に伝えたい「もの」が何であるかによって、
どの媒体が最も良いのかを考えたとき、
実は、最も良いのは「1」の文字だけ、というのが、
私が今、考えていることです。
●たとえば、私のところにも、
会議録音用の小型の録音機がありますので、
それで6時間とか話を録音したものを、オーディオファイルとして、
CDに入れるという方法は使えます。
ところが、結局のところ、多くの人は、
人の「話」など、ちゃんと聞くことは出来ません。
長すぎれば、睡魔に襲われてしまいますし、
ごく短い短文ですらも、耳で聞いて理解できる人は稀です。
耳で聞いて理解する場合には、概念とかイメージをつかむ場合にも、
話し手のペースに、必死に追いついてゆかねばなりません。
●たとえば、皆さんも「電話」で相手の言っていることを正確に理解するには、
言葉をただイメージに変えているだけでは駄目で、
相手の話し方の癖をまず理解しなければなりません。
●その点では、文として書かれているものは、
耳で言葉を追いかけずとも、皆さんが自分のペースで、
ゆっくりと書かれている文字からイメージに変換できますので、
せかされないで済みます。
●さて、問題は、文章というものは、著者の思っていることを正確に伝えられるか、
という点になると、次のような問題が起きます。
くどくどと説明するよりも、一覧表や、イラスト図面で説明したほうが
ずっと早いものがあります。
それはデータ資料や、特許図面のようなものです。
いろいろな本やブログにも、図面が多く入っているものがほとんどです。
●しかし、それは本文を補足するための図面やイラストであれば、
入れた方がいいのですが、
「著者の思い」や「著者が感じていること」は、決してイラストでは
伝わりません。
●ひとつの例をあげますと、
たとえば、私が、本の中で「こういう未知の次元の生き物を見ました」
ということを書いたとします。
その場合に、イラストで書いてしまえば、それをどう感じるかは、
絵画を見るときと同じように、見る人の好みや主観や美観で判断されますが、
少なくとも、誰が見ても、同じ生物がそこに描かれることになります。
●しかし、では、それでいいのか?となると、
人間というのは、写真や画像を見ると、ぼけーっと見るだけで、
好きか嫌いか程度の反応しか出来ず、
見てしまうと、何も考えることもなく、たいして記憶すらしません。
●逆に、私がもしも、文章で、
頭がこうで、体はこうで、こういう色で、こういうしぐさをして、
こういうことを、私に伝えてきた、とか、
そこの世界は、こうなっていたと、文章で書いた場合、
その場合には、皆さんの頭に描くイメージは、
その人のボキャブラリーに依存し、またその人の想像力に頼ることになり、
およそ、私が見たり感じたものとはほど遠い、間違ったイメージをするかもしれません。
●ところが、結果として、文に書かれたもののイメージが、
私が見たものとは、大きく間違っていたとしても、
少なくとも、読んだ人は、自分の頭の中でイメージを作ろうとした結果、
私が見たものの一部に共鳴するということが起きます。
つまり積極的に皆さんがイメージをしようとすることによる効果が、
文章だけの本の場合には起きます。
いわゆる、小説のようなものがこれにあたります。
そのシーンや風景は、皆さんが組み立てないとならないのです。
●これを、もしも、いちいち挿絵や図版で、本文の補足説明をしてしまうと、
読む人は、全員が同じイラストを記憶してしまいます。
これゆえに、漫画を読みすぎると、脳の機能が衰えて、馬鹿になります。
著者が見たり感じたものを、正確に書けば、
たしかにその絵は、私が見たものに似ているかもしれませんが、
形が正確に描かれたからといって、本質が伝わるものではありません。
●ましては、図版では絶対に伝わらないものがあります。
それは、私が何を見たり知ったかと別に、
私がどう「感じたか」です。
睡眠中に見る夢で言うならば、
夢の中で何を見たり聞いたかということは、
映画のようなシーンにして作ることは出来ますが、
夢を見ていた本人が、
それを「どう感じたか」を、図面で表現するのは難しいのです。
そういうものは、今度は、「絵」で表情のようなものを書くか、
心像絵画のようなものを描かなければならなくなりますが、
それではディテールは伝わりません。
●こうしたことを、今、考えていますが、
録音した媒体は、耳で聞いて、メモを取って理解しようとするほどの
積極性のない人には、結局は、吸収することが出来ません。
サヴァン症候群のような特殊能力のある人は、
一回聞いた曲や、一度でも見た風景や文章は全部再現できるでしょうが、
私たちには、そういうことは出来ません。
もしも耳から入る話であれば、3回も4回も繰り返し聞く必要があり、
繰り返し聞いてすらも、聞き落としがあるでしょうし、
真意を汲み取ることも出来ないことの方が多いのです。
そういう意味では、図版すらも極力減らした、文字だけの本、
というのが、今のところは有力な候補です。
★
.
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