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「分割自我復元」
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[142]
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★分割自我復元★その141 ● 雑 記 ●
by:
鈴木崩残
2012/11/30(Fri)05:53:11
・雑 記・
自我復元と話題がズレる雑記類は、
「梅の間」に書いたほうがいいのかもしれませんが、ここに書きます。
●まず、ひとつ前の投稿内容と動画の雰囲気が、あまりにもズレすぎていたので、
ハッブルの動画は、この投稿に移動しました。
___
●前にも言いましたが、望遠鏡で私たちが観測する物理的な宇宙は、
あくまでも知覚的にも、概念的にも「限定」された宇宙ですから、
今後、各自が、移動先を検討する場合には、
いわゆる別の天体ということだけではなく、(それもいいですが)
別の「層(レイヤー)」に移動するという選択も、必要になる人が出てきます。
●以前に、転生する先の世界についてのヴィジョンは、
>「その時代に、人々が得られる情報によって違う」
という話を詳しく書いたように、
もしも私たちに、望遠鏡で見た宇宙の映像情報が全くなければ、
それなりに、違う層の別の世界を想定したでしょうから。
●ところで新刊は、もう、あらたには追加原稿を書く気がないので、
今、私が信頼している二人の方に、文字の校正を頼んでいます。
それで最後の訂正を済ませるのが、あと約一週間ぐらいで、
そのあとに製作にかかります。
既に、ブッククラブ回さんから、予定注文が100枚入っているので、
あわてて予約とかをしなくていいです。
その他の書店へも、来月の中旬以後に同時的に納品しますから。
*************************************
●それで、ずっと昔から私は、そうだったのですが、
私にとっての、私個人の普遍的なテーマというのは、
「現実の管理」です。
現実といっても、現実生活の管理という平易な意味ではなくて、
「自分が見ている現実、または選択している現実」と、
どう折り合いをつけるかです。
だから、私は皆さんにも、
各自が自分の「関心地図」をチェックすることを薦めています。
●私は、定期的に、小爆発的に現実が吹き飛ぶのが、
あまりにも昔から、当たり前になっているので、
私の書く文章の大半も、実は、「リアリティーとは何か?」
ということが、常に主軸にあります。
●誰にとっての、どの現実は、共有できるが、
どの部分は現実としてすらも共有されないのかとか、
知覚、意識、といったテーマが私個人にとっては普遍的なものでした。
そういう話も、新刊には少し出てきますが、
とりわけ、私の過去の生の記憶の部分の話については、
掲示板にも書けないし、メールにも書いたことのないような、
「私個人の妄想の爆裂」と、とらえていただいて、一向にかまいません。
断片的には、どこかでたまに語ったことはありますが、
時系列で、まとめて全部、自分の過去の記憶の主要部分を語ったのは、
今回が、初めてだと思います。
主要部分だけを、さくさくと書いたので、
いちいち、細かいことは書きませんでしたが。
そんな「私の前世にまつわる与太話」を読みたくなるかならないかは、
来月のはじめごろに、表紙と「目次」を掲載しますので、
それを見てから、「関心があれば」購入を検討してもいいと思います。
関心がなければ、当然、買わなくていいです。
●特に、前半1/3の、今回書き下ろした部分は、
今までのマニュアル本のようにクソ真面目に重ったるい文章を詰め込んだ、
というものではなく、かなり「ゆるく」書きましたので。
読む人を納得させようとする気が、全くない文だと思っていいです。
詳しい解説は書かずに、どんどん勝手に話をすすめています。
●それで、その新刊の中に、「死後のミッション」という部分がありますが、
これは、極力、内容を減らしました。
死後のミッションには、他人と共通する部分と、
個人的に違う部分がありますので、
あまり、多く、いろいろな人の見たものの体験を掲載すると、
それを読んだ人が、それに固執してしまったり、
他人の見たものを無自覚に「盗用」をしたり、
思い込みが刷り込まれてしまい、
個人によるイメージの「幅」がなくなる恐れがあるので、
あくまでも、単なる「参考」程度にしてください・・・、
という意味で、掲載したものに過ぎません。
●そもそも、別に、他の宇宙や、他の銀河を探るばかりが、
「移動」ではありませんので、
かならずしも、銀河系にフォーカスをあわせる必要はありませんが、
ただし、一点、こちら側の世界(つまり皆さんの現実生活)にも、
その「影響が反映される」という意味での「利点」があるので、
あえて、新刊の中での死後のミッションでは物理的な天体としての宇宙を、
皆さん個人が、情報収集範囲を広げる手段としての、
「とっかかり」の一つとしました。
現実と非現実
さて「現実」の話に戻りますが、
皆さんは今、この画面を見ていますが、
それによって、今、固有の現実を見ています。
書いてある内容について、各自の中にある記憶で、想像をあてはめて、
思考をして、この画面に書かれていることを見ている、
という「現実の一部」を形成している最中です。
しかし、私が最も重視するのは、そうやっている皆さんが、
PCの電源を落としたあとに、皆さんの中にあるもの、残るものだけです。
●私も、これを書く直前までは、熟睡していましたので、
目が覚めてから、しばらくは、暗い部屋で「現実認識の整理」をしていました。
ところが、いったんPCの電源を入れたら、
そこに固有の現実がはじまります。
開いたら、メールが来ていたので、それに対応している間は、
私の見る「現実」は、そのことに極度に限定されました。
●私が、出来るだけ、自分で見ると決めたサイトだけを見て、
それ以外は、とにかく、情報と接することに無自覚になるな、
ネットに中毒するなと口を酸っぱくして言う理由は、
人間は見たものや、接したもので、自分の現実を作ったり、
または「受動的に現実を作らされる」からです。
PC、とりわけ、インターネットに繋がった画面というのは、
本当に恐ろしいもので、無目的なネットサーフは、
皆さんの脳味噌を腐らせるだけです。
それは妄想の「連想」が延々と続く状態に酷似しています。
だから私は年齢や性別や職業や無職であるかに関係なく、
PCの前で、ネットに長時間、しがみついている人を信用しませんし、
すでにそれだけで、それは十分な病気だと思います。
●確かに、商業的に必要となる作業や、
自分の生活で必需品となるものを探すには便利ですし、
時事の情勢などについて、それなりの情報も得られますが、
それに無自覚的に、しがみついて、自分でも制御できずにいる、というのは、
>あなたの頭の中が、他人がバラ撒いた情報に汚染されまくっているわけです。
●そういう意味では、PCやテレビや本などの情報から
「切り離されたとき」に、あなたに何がそこに残っているのか、
ということだけが、私にとって意味を持ちます。
ただしそれまでの現実として「残留している印象」すらも消えた後の、
あなたという意味です。
●ただし、私が大嫌いな人種というのがいて、
それは、いわゆる、宗教や瞑想で、修行とか称して、
毎日、そういう生活をしようとしている人達です。
そういう意味では、カルト信者ばかりではなく、
権威あると言われている僧院の僧侶も大嫌いですし、
あらゆる種類の宗教的集団の偏執狂的な姿勢が、私は大嫌いです。
●なぜならば、そういう「生活スタイルそのもの」が、
既に「決まりきった現実」としてその人達の意識を制限するものに、
成り下がっているからです。
つまり、仮に、PCを離れて、自給自足や、自然農法か何かに没頭したりしていても、
あるいは、宗教的な生活をしていても、
そこでは、「そういう現実」が単に、その人の前に立ち現れるだけであり、
基本的には、その重さと、束縛や、「執着心」の醜さ、
そして、無自覚さでは、ネット中毒と、あまり変らないということです。
●またPCを離れたとたんに、周囲に「自分が嫌いな家族」がいたりして、
そのせいで、ネットにしがみつくといった、ニート的な人種もいますので、
とにかく、人間というのは「これは情報収集の為だ」という言い訳を悪用して、
現実逃避をしたくてたまらない生物なのだ、としか思えません。
一方で、既に言ったように、仮にネットやテレビや本を一切離れても、
そこには、「別のレイヤーの現実」が、その人を重く取り巻く事となる。
●しかし、私に言わせれば、
どの現実を選び、どの現実と同化するかという選択とは別に、
現実感覚の「濃度調整」という機能が、人間にはあります。
カメラをどの方向に向けるか、ということが、「現実の選択」だとすると、
フォーカスのあわせ具合が、その「濃度調整」の機能に類似します。
●特に面白いのは、それが「今の自分の現実だ」と思い込んでいる生活や知覚から、
関心が別の領域に移動するときの、その「中間領域」であり、
そこでは、いったん、そこまで現実を構成していた思考や知覚情報が、
無効・無力になります。
この現実と現実の間の、「透き間や裂け目」こそが、
私にとっては、真の意味で、「非現実」につながるチャンスです。
●そういう意味では、瞑想的な生活をしていると思い込んでいる人達のほとんどは、
そういう生活という、非常に重たるい「現実」に執着して、
自分をしばりつけているだけ、ということです。
ネット中毒が、修行中毒や、あるいは仕事中毒に変っただけで、
基本的には、何も違いはありません。
●たとえば、しょっちゅう、霊的なものが見えたり、
宇宙のことばかり感じ取ろうとしたり、考えている人がいた場合も、
それが、「固定化」された「関心地図」を構成してしまうと、
それ自体が、柔軟性のない現実を作り出します。
何事も、一定期間は、それを「固体化する作業」としては、
しつこいまでに、そこに、のめりこんでゆくことは必要ですが、
「切り離すべきタイミング」になって、切り離せなくなる人達が多すぎます。
●私たちの、各自の個別の知覚に登場する「現実」というのは、
なされるがままに、おしつけられるべきではなく、
そのすべてではないにしても、「主要な対象」は、
個人が自分の意志で、「選び取る」ものであり、
個人が自分の意志で、「切り替える」ものであるべきです。
流されるままに、というのは、おうおうにして、直観などと呼べるものではなく、
単なる「ふらふら」とした無駄な気変わりにしか過ぎないことも、
かなり多いと判断するといいです。
●「自主性」と、直感的な「集合協調」の線引きは、ある程度できますので、
何でもかんでも「これは直感的で自然な流れなんだ」という事にしてはなりませんし、
何でもかんでも「これは自主的だ」の言い分も信用がおけません。
本人としては、極めて、自主的に個人的な感覚でやっているものでも、
集合的な無意識との共鳴の結果であることもあれば、
逆に、全体の流れに乗っていると自称する者が、
ただの、個人的なテーマで他者を振り回しているだけのこともあります。
●こうした「現実」の選択において、
どこまでが自主的で、どこからが集団の意識との境界線が曖昧であるのかについては、
それを言葉で理解した気になるのではなくて、実感したい場合には、
とにかく週に何度かは、
>「関心地図」を確認する作業は続けてください。
●部屋を暗くしたり、あるいは目を閉じて、
さて、あなたは何をしている、どこの誰であるのか?
今、何を知覚しているのか?
今、何に関心が向いてしまっているのか?
それらへの関心がなくなったら、何が残っているのか?
そして目をあけると、
どういう現実が、再び、あなたの世界というドラマを開始するのか?
そういう、現実と現実の切り替わりの「狭間」にこそ、
私が「一種の、非現実性」と呼ぶ「亀裂」が、そこかしこにあります。
10年周期の大改装
●自我復元は、現在の皆さんには、極めて重要ですが、
「全く何もしない時間」というものが、それと同等に重要であることは、
当サイトでは、今も、昔も、変りません。
ただし、むろん、そういう時には、酒もダメ、瞑想すらダメです。
単に、だらだらと、部屋で、ねっ転がっているだけではなくて、
内的にも「全く何もしない」というのは、どういうことなのか?
たったこの、ひとつでさえも、
「一生分の、公案」になり得るものなのです。
●ただし、昔、無明庵に来ては、
「私は、何もしてません」だの、「無です」だの、
本当に、「軽々しく」語る者が多すぎました。
頭の中がぐちゃぐちゃのまま、静かなフリを偽装している人達、
鈍重な眠りの中にいるのに、それを何もしていないことと勘違いをしている人達。
もう、そういう「チープな偽装品」は、金輪際、私は見たくありません。
●そもそも、「内的にすら、何もしていない状態とは何か?」
ということを本当に突き詰められる人というのは、
その真逆にある「すること」や「自分が、してしまっていること」に対する、
極度なまでの繊細なセンサーと、自覚がある人だけに限られます。
自分の中で起きていることに無自覚な人には、
絶対に、「何もしないとは何か」という状態の「検査」は出来ません。
あらゆる点で、「自分は何かをしてしまっている」ということを、
心底自覚している人だけが、そうではないものを垣間見るチャンスを得ますから。
●だらしのない「鈍重な静けさ」と、退屈した「無為」は、ただの夢遊病と同じです。
しかし、繊細なセンサーで自己の内部を自覚しながら、
「これでもない」「これでもまだ静けさではない」と突き詰めた者とは、
その到達点には、雲泥の差があります。
************************************
●思い起こすと、1990年代に、無明庵と関係を持った人達というのは、
本当に、ダメな人ばかりでした。
いわゆる、ボケがまわった人ばかりで、彼らが口にする悟りのことなど、
ただの「屁理屈」をいじっているだけで、現実逃避のあがきに過ぎませんでした。
●ちょうど、ぴったりと「2000年」代に入ってから、砂手がやってきて、
それ以後は、私自身の私生活にも、かなりの支障が出て、
ひともんちゃくも、ふたもんちゃくもありましたが、
それ以後から、ようやく無明庵にも少しはマシな人達が来るようになりました。
そのころから、機能不全家族の問題が、
竹の間や梅の間でも主題になるという傾向が増えました。
多くの人たちが、トラウマ問題を抱えているわけですから、
明確に解決すべき自分の問題を「自覚」ぐらいは出来ている人たちが、
増えていったのがこの時期でした。
●とにかく、その前の、1990年代に無明庵に出入りしていた人達に、
最も欠落していたのは、この「自己の現実面に対する問題意識」です。
その次の2000年代のころに、
同時進行して、性と恋愛の問題で掲示板をめぐりましたが、
そこで私が見極めようとしていたのも、機能不全家族の現実と「その原因」でした。
単なる性のテクニックだけでは解決できない巨大な壁が必ず男女間には存在しており、
その原因のほとんどが、その人達の成育過程、特に親子関係にあったからです。
●そうこうするうちに、その、どうすることも出来ないほど酷い、
世代間に連鎖する、虐待(代理復讐)の現実を見て、
絶望的で、絶対に修復できない「社会としての機能不全というその現実」を、
ただ受け入れるしかない、という結論を「宗教に汚染された地球人」にまとめ、
その後に、推測と分析によって編み出されたのが、「分割自我復元」でした。
これが本格的に起動したのは、「2010年」からです。
●このように、今になって振り返れば、ですが、
「約10年おき」に、無明庵が大改修をされていったというのは、
奇妙でもあり、また必然でもありました。
1990年代からの古い読者の人も多くいますが、
本当に長い間、当サイトの閲覧や、お付き合い、ごひいきを戴いて、
特に、2010年以後からも、引き続き、
「自我復元の共同プロジェクト」にも乗った人たちの中には、
まともな人たちが、かなり増えてきました。
そして、周期から言うと、次の改修工事は、2020年ですが、
・・・・いや、その時期には、私は生きていないと思う。
★【無明庵の「主人公たち」】
もしも画面に「フラッシュプレーヤー」がどうのこうの、
という表示が出たら、迷わず、右の「拒否」をクリックしてください。
●先日撮影した紅葉の写真をスライドショーにしてみました。
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