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★分割自我復元★その144 【男性原理と女性原理に対する勘違い】
by:
鈴木崩残
2012/12/05(Wed)12:01:21
可愛がられる事と、可愛がる事
●ある読者の方へのメールに、こんな趣旨の事を書きました。
>>自分がどういう異性(または相手)を好きになるかで分かる事があり、
>>自分がどういう異性(または相手)から好かれるかで分かる事がある。
●よく考えたら、この重要なことを私は、性と恋愛関係の本に書くのを
忘れていました。
この話題、梅の間の方がいいのかもしれませんが、
梅の間は、今、昔の竹の間のような時事話題と雑話が増えたので、
ここの桜の間で書いておきます。
●皆さんは、自分がどんな異性(または異性でなくても相手)から、
好まれるか、好かれるか、という事を把握しているでしょうか?
通常は、正確にそれを把握ている人は、あまりいないと思います。
逆に、自分はどんな異性や相手を好むかということは、
ある程度は、自覚している人が多いはずです。
●しかし、この2つのことは、次の事を表しています。
1.どういう相手から好かれるかは、
あなたの「女性原理(または母性)」の性質を現し、
2.どういう相手を好くかは、
あなたの「男性原理(または父性)」の性質を現している。
●しかも、これはあなたの性別には、関係ありません。
たとえば母親が、自分の子供に愛情を向けたり、優しくしていると、
多くの人はそれを「母性愛」だと思い込みます。
しかし実際には、それは母性愛ではなく、「男性原理」です。
つまり、自分から相手に対して放つベクトルは、
あなたの性別に関係なく全て「男性原理」であるということです。
逆に、あなたの性別に関係なく、
あなたがどういう相手から好かれるかということが、
実は、あなたの「女性原理」を現しています。
●男性原理とか女性原理と聞くと、多くの人は、漠然とした
父性や母性のイメージをしています。
しかし私の定義によれば、
自分から相手に放つものうち、特に「好意」は、すべて、
あなたの男性原理の性質に影響されたものであり、
相手から自分に放たれるもののうち、特に「好意」は、
すべてあなたの女性原理の側面を現しています。
●もう少し分かりやすく言いますと、
これは相手が、異性ではなくて、動物でも同じです。
猫のラインお嬢様は、もっばら私に甘えることが多く、
彼女の側から私を好いています。
この場合、私の中にある性質または、引き出される性質は、
「母性」です。
一方で、私の側が、逆に、博士君を可愛いと思い、
私の側からじゃれてゆく場合には、その時の私の性質は、
「父性」です。
●冒頭にも書きましたが、女性が、子供やペットを愛でていると、
それを母性や女性原理だと勘違いをする人がいますが、
それは、私から見ると、明確に「男性原理」です。
つまり、自分の側から放つ好みや、愛でたり、好意を持つという
このベクトルにあるものは、すべて男性原理です。
方向として、自分から外へ放つものです。
それを見れば、あなたがどういう性質の父性を持っているかが分かります。
この逆に、相手から自分の側へ向かってくるベクトルを知ると、
自分がどういう母性を持っているかが分かります。
●むろん、男性も女性も、ともに性別に関係なく、
父性と母性を両方持っているのですが、
では、どういう時にその二つの違いが現れるかというと、
それは前述したような、「ベクトルがどちらか」で分かります。
●もっとこれを分かりやすくいいますと、
「相思相愛」の恋愛というのがあり、これはお互いが相手を
強烈に好きであるという感情を放つ場合です。
実は、この場合には、両方が「男性原理」を作動しています。
よって、ここで起きるセックスというのは、
両方が男性原理を作動しているのがその実態であり、
何も、そこで女性が女性原理をもっていて、寛容だったり、女性的に
なっているわけではまったくありません。
●女性原理または、母性というものは、
自分から相手に対して放つものではなく、
相手から放たれたものに対する「受容性」です。
それはあくまでも受け止める能力であって、
その時に、相手を愛でたり、可愛いと思ってはならなのです。
それをやったら、それは「父性」になります。
●よって、「母性を持ってして、相手(子供や異性や動物)」を
愛している気になっている女性というのは、
とんでもない勘違い女であり、実際にはそういう女性は、
きわめて「暴力的」であったり、または、「男性的」です。
これをよく理解するには、女性がストーカーになった場合の
攻撃性を見るといいです。
むろん男性がストーカーになった場合もそうです。
自分が勝手に相手を好きなる、または愛でる、可愛がる、
という行為は、すべて「男性原理」であるので、
それが、母性的であるわけがないのです。
●一方で、本当に母性的、または女性原理を作動するということは、
相手を愛でることではなくて、相手のすることを許容するという形での
ベクトルになります。
よって、この「女性原理」または「母性」というものは、
とうぜん男性も持っています。
●そもそも、お金の利害関係や、権力とか、魔力とか、知識とか、
そういった「力」の有無に関係なく、
「女性から愛される男性」というのは、
何がそこで愛でられているかいえば、すべて、
その男性の中にある「母性」です。
断じて、それは「父性」や「男性原理」ではありません。
そもそも、男性原理とは、一方的で勝手なものであり、
その性質は、一般には頼りがいがあるとか思われていますが、
では、女性が、耳が腐るほど言い続けている、
「優しい男性がいい」という場合の、
その優しさとは、それは父性でしょうか?
いいえ、それはまぎれもなく、「母性」です。
●母親のような性質を持っている男性こそが、
女性からも、男性からも、動物からも愛でられたり、好意を持たれるのです。
むろん、そうした母性をきちんと持った女性も同じです。
●一方で、自分の側が、異性であったり、異性でなくても、動物でも、
その相手を愛でて、自分がそれに好意を寄せる場合、
この場合には、あなたの性別に関係なく、相手が子供だろうが、
それは、「男性原理」です。
●そこで、最初に話に戻りますが、
あなたが、どういう異性から、どういう点を好きだといわれるか、
ということを客観的に羅列すれば、それがあなたが放っている母性に
由来するものだと分かります。
逆に、自分から勝手に相手に好意を寄せる場合、
その好みのパターンは、あなたの「男性的」な性質に由来すると分かります。
●そういう意味では、母性または女性原理をきちんと持っていない男性も女性も、
どちらも、異性からも同性からも愛されないし、気に入られない
と言うことです。
男らしく振舞えば、女性から好意を持たれるなんて思ったら、
大間違いです。
機能不全家族ではない家庭環境で、母性を育てなかった人間は、
異性から愛されません。(依存されたりはするでしょうが)
男性的であれば、女性がついてくる、なびくと勘違いしている男性は、
ようは、女性から見ていても、ちっとも「可愛くない」のです。
●ただし「草食系男性」というか、最近の希釈自我男性というか、
なよっとして、男らしくない男性が、母性を持っているのかとなると、
それは、「全くの別問題」です。
そういう男性は、もしも、女性から「あら、あなたって可愛いいわ」と思われて、
愛でられたらば、最初は少し心地よいかもしれませんし、
「これで、この女とセックスできるぞ」と喜ぶかもしれませんが、
相手の女性は、実は、その男性のことを、
「年下か、子供」のように見ており、
そのことに男性が気づけば(すぐに気づきますが)、その男性は、
「ふざけんじゃない」となり、ここでその男性は、
「母性」を持って、その相手の女性の好意を受け止めるのではなく、
自分が愛でられるような、つまり、自分が男性原理を発揮できるような
「もっと若い、可愛い子」を愛でるようになります。
●つまり、もしも男性が女性の側から愛でられたときには、
そのときには、男性は、「母性」に徹しないとなりません。
もしも女性が男性から愛でられたときにも、
その女性は、「母性」に徹しなければなりません。
性別に関係なく、
相手の側から愛でられたときには、愛でられた側が「母性」を
受け持つことになります。
●これがもしも、相思相愛になると、
それは、「父性」対「父性」となり、実は、厳密にいうと、
異性関係とはちょっと違った形になります。
生殖、または性行為においては、性別が逆でも、
精神的には、両方が、「男性原理」になっています。
●よく、セックスの行為の中では、
女性は、より女性らしい母性が発揮されているかのように思い込む人がいますが、
私はセックスの最中に、女性らしかった女性など、
ただの一人も見たことがありません。
セックスの最中は、男性と変わりなく、性欲に貪欲ですし、
ある意味では、攻撃的ですし、私的に言えば、
セックスのときだけは、女性は、あきらかに男性化しています。
声や仕草がいくら女性のそれでも、
その内面で起きていることは、男性原理の作動です。
そういう意味では、クリトリスがペニスの退化したものだという説は、
どことなく説得力があります。
女性はセックスのときには、少なくともその時は、男性になる
とも言い換えられます。
また卵巣や、子宮や、膣内、または乳腺といったものも、
それがあることによって、「女性ホルモン」は分泌されるでしょうが、
それが、即時に「女性原理」になるわけではありません。
第一、私に言わせれば、「授乳」という行為そのものが、
与えるわけですから、あれは「父性」的な行為なんですよ。
●では、母親としての本当の母性的行為は何かというと、
それは子供がすることを、どれだけ黙って、優しく受け止めるかということです。
ただし、これは相手に対して「我慢」するということでは断じてありません。
さらにいえば、そうした姿勢を男性が子供に示せば、
そのときには、その父親は「母性」を発揮しているという事になります。
●皆さんの多くが、勘違いをしているので、
混乱しないように、もう一度言いますが、
自分の側が相手を愛でるとしたら、
自分の性別、相手の性別に関係なく、それは「男性原理」または「父性」に属し、
相手の側が自分を愛でるとたら、
自分の性別、相手の性別に関係なく、それは「女性原理」または「母性」に属する、
ということです。
●ということは、ここで、注意すべきことは、
もしも、カップルがいたら(男女であれ、同性同士のカップルであれ)、
どちらかが、「父性」の役目で、どちらかが「母性」の役目をしている、
などと決め付けてはなりません。
母性と父性は、何度も言うように、「ベクトルの方向」により定義されるのですから、
それは、刻々と、その二つが入れ替わります。
あるときには、母性的な人も、とたんに父性に転じたり、
男性原理を発揮していたと思っていた人が、次の瞬間には、女性原理を
放つことがあります。
これは「持って生まれた性別や、性質」ではなくて、
そのときに、「愛でる側」「愛でられる側」のどちら側になるかで
決まります。
●特に、注意すべき点は、
「愛でる」という行為は、男性的であるが故に、
それは、攻撃的であったり、戦闘的ですらあり得る危険性を持っている
という点です。
これ故に「屈折した溺愛」による機能不全家族が生まれたりもします。
●実は、この「母性と父性に関する、正確な定義」の学習を、
私がした(神々たちから教育された)のは、ギリシャ時代です。
そのことが、新刊の中には少し出てきます。
今回の生で、私はいろんな女性に愛されたり、愛でられましたが、
私の外見というのは、全くハンサムでもなく、甘いマスクではありません。
むしろどちらかといえば、むさ苦しい顔です。
生粋の江戸っ子ですが、沖縄系に見える、濃い男性顔です。
(痩せていた若いころは、武田真治に、やや似ておりましたが、
現在は、勝新太郎に、やや似ておりますので、顔の造形は想像がつくかと。)
仮に、いわゆる男性として愛でられる面があるとしたら、
それは、セックスでは、女性の心身に対して100%の満足を提供できるという点だけが、
唯一、「生物学的男性」の機能としての私の側面です。
しかし、そのセックス最中でさえも、そこに私は、
自分の母性を作動させて、織り交ぜています。
ある時、読者の女性が私のことをメールで、
「お父さんみたい」といいましたが、
私のその性質は、お父さんではありません。
お母さんです。
●ところで、最後に、
では、「男性原理」とは何か、という話をしておきますと、
一言にいえば、父性というのは、
「主体性」「独自性」「創造性」「戦闘性」です。
総じて言えば、それは「緊張感」そのものです。
であるので、それは人間に「安心感」は与えません。
母性が安心感を与えるのに対して、父性は、緊張感そのものです。
●そして、「正常な形での父性」が強い場合には、
たとえば、男性の場合には、同じ男性から、敬服されるような人になります。
たとえば「職人的な達人・鉄人」とか「指導的な立場の人」です。
では、そういう人が家庭にいたら、女性は安心したり、
その人を愛でられるか、となると、違います。
つまり「父性」とは、愛でられる対象ではなくて、
ひとりの人間として「敬愛・敬服される対象」が男性原理だと思えばいいです。
社会的には尊敬と人望を集めますが異性から愛されるかとなると、話は全く別です。
「緊張感」を愛する人などは、そんなにいないからです。
●つまり、女性原理が男性原理を愛でる事などは、あり得ません。
なぜならば、愛でるというその行為自体が、男性原理であるので、
そこに存在できるのは「父性原理を受容できる女性原理」があるのみです。
あるいは、その父性原理を「愛でるのではなく」、
「敬愛」する事が出来るのみです。
●そういう意味では、
男性が、勝手に相手の女性を一方的に愛でて、
愛でられた女性の側は、それを受け入れ、
なおかつ、その男性を「愛でるのではなく」、
その男性の父性(主体性や力)に対して「敬愛」を持つといった、
なにやら昔の「武家」のような図柄が、
「理想的な形の一種」にも見えてしまうのですが・・・
逆に言うと、母性的な男性が、父性的な女性から愛でられ、
その男性は、相手の女性を愛でることなしに、それを受け入れ、
かつ、その女性の中の父性に敬服する、といった真逆の形も成立します。
しかし、もしも相思相愛になったり、あるいは片想いでも、
とにかく、相手を愛でた側の人間は、ずばり「緊張感」の中に
放り込まれますので、安心など出来るわけがありません。
人間は、安心感のある人を、好きになるかもしれませんが、
好きになった途端に、好きになった側は、緊張感を背負います。
これが、恋愛の初期の数ヶ月に、胸が苦しくなる原因です。
あれは、緊張感による、身体反応で、
一過性の病気と定義しても間違いではありません。
断じてそれは安心感ではありません。
●実際には、これらの入れ替わりは、
「かなり複雑な動き」をしているわけですが、
何度も繰り返しますが、これは、固定したものではなくて、
一人の人間の中で、刻々とスイッチが変る「ベクトルの向き」として
「母性と父性」を定義する必要があります。
________________________________________________________
多くの、精神世界や瞑想教室で、口先では、男女平等をのたまい、
生徒に向かって、ハートをオープンにしろとか、
女性の受容性や、母性の重要性、を口にしながら、
自分や他者に対しては、未だに「女だから、男だから」、
という観念に呪縛されたままでいる事に気づけない人は、
この投稿を何度でも読んで、咀嚼してください。
人間の心理現象は両性具有であり、そこには「性別」などありません。
単に、そこで作用する「力学」の違いがあるのみです。
また、この地球上に、これほどまでに、争いがあるのは、
戦争好きの男性がいるからではありません。
女性原理や母性のなんたるかを、
女性すらも、それを見失ってしまったということです。
しかも、紀元前の遥か昔にです。
だから、
「相手を暖かく包み込む」という行為そのものが、
十分に暴力的である事実にすら、気づけないのである。
だが、真の母性とは、ブラックホールだ。
●しかし、この事を理解するには、次のことを理解している必要がある。
女性でも男性でも、相手から「優しくされたい」とか、
優しくされると嬉しいと言うが、実際にはそれは「条件つき」である。
その条件とは、「自分が好意を持っている相手から」
優しくされると、嬉しくなるのであり、
もしも、自分が全く好意を持っておらず、嫌悪も持っていない相手、
すなわち、自分が相手に全く無関心な場合、
その相手から、愛でられたり、感謝されたり、優しくされた場合、
あなたは、果たして「嬉しくなるか」と自問すればよい。
もしも、それでも、他者から優しくされた時に、
あなたが嬉しくなるのだとしたら、
あなたは、トラウマなどの心的病理を持っていることになる。
その場合に、あなたが優しくされて舞い上がるときには、
その相手は誰でも良くて、あなたは、単に、幼少時代の飢えに、
口をあんぐりしている、ということになる。
また、もしも自分が好感を持っている相手から優しくされて
嬉しい場合には、既に述べたように、それは、
「自分が好感を持っている相手が、自分に好感を持っている」
という意味での感情にすぎない。
いわば、この場合には、両方とも「男性原理」なのである。
●一方で、それが、本物の母性である場合には、
あなたは、自分が全く無関心で、
好感も、嫌悪感も、どちらも抱いていない相手からの優しさや、
感謝や、好意に対して、あなたは、全く嬉しくもなく、うざったくもなく、
全く何の感情もなしに、それを吸収することになる。
このブラックホールのごとき、
「条件なし」「意図なし」吸収性のみを、
真の意味での「母性」と私は呼ぶのであり、
それゆえに、それは完全に沈黙しており、
「子供や弱者や動物を、私は、受け入れます」などという、
そんな「エセ抱擁性」すらも偽装していない。
しかし、その本質を理解している地球の人に、私は一度も会ったことはない。
その母性に「無意識的に影響をされている人たち」は沢山見たが、
構造を理解をしている人は、皆無であった。
しかし、私が、かつて地球に持ち込んだのは、その母性であり、
高濃度の女性原理の根源である。
それは、人間から見れば、抽象化されすぎた高濃度の状態にあるので、
人間が、感傷的にそれを理解することは不可能であろう。
古い時代に、タントラの一派が、「死姦」を儀式の一つとしたが、
それは完全な間違いである。
それは「象徴」としては間違いではないが、行為としては無意味であり、
狂気しか生み出さない。
彼らが本当に交わるべきだったのは、死体ではなく、
「死そのもの」であったのだ。
「死」こそが、「母性」の真の根源なのだから。
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