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「分割自我復元」
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[146]
■
★分割自我復元★その145 ● 自我復元の報告 ●
by:
鈴木崩残
2012/12/08(Sat)10:12:05
よせられた自我復元の報告
●この方は、「判定依頼」「実施報告」「トラウマ報告」「所感・雑感」と、
丁寧に、報告を分けてメールしてこられました。
そのうちの「所感・雑感」の部分についてのみ、今回は紹介いたします。
この方の個性的な表現を活かすために、ほぼ原文どおりとなっています。
_____________________________________________________________
「自我復元活動による所感、雑感等のパラフレーズ」
・「無駄出し」
先生の警鐘通り、
自我の薄い者は意識・無意識問わず業務中に水をさしてくる。
彼等の中で、ふっと湧き出た事柄を、
自らの脳内で繋ぎとめる事がができない焦りのため
その湧き出た事柄を、
あたかも「緊急性の高い業務」であるかのように虚飾をほどこして、
相手の都合を無視し勝手に話しかけてくる。
そのくせ、相手からの返答を全く聞かず、
勝手な想像でその場を収めてしまう為、
その後「言った言わない」の水掛け論が生じる。
そして彼等は、常に先入観と妄想の中で自己完結してしまってる以上、
こちらが正論をもってしても全く取り付く島なし、
ということを発見できた事で、
自分が無駄だと思える事に
無駄だと感じることに自信を持つ事ができる。
つまりは、
「これ以上関わる事は自分の時間を浪費するだけで全く無駄」という、
「無駄出し」センサーが自らにはたらく。
自我復元中でもこのような人間関係の気苦労は絶えないが、
ただ、感情的になった相手を、こちらが腐心してまで、
フォローしようとしなくても良いと思うようになった。
・日常生活における選択のまずさ
確かに自我率が低いと、
生活における様々な場面での選択に関しても、
残念な結果に終わる事が多く、後悔が常につきまとう気がする。
(例えばスーパーで選んで買った大根が食べたら不味かったとか、
虫歯治療の歯医者を選ぶ段に、ようやく選んだ歯医者が残念な感じだったとか・・・etc)
そこには吟味するという大事な考察部が欠けているだけではなく、
考察を支える意識下の体力が無い。
おっちょこちょいとは、サザエさん的形容で聞こえは可愛らしいが、
ただ単に意識下における考察点の保留ができていないだけの、
エクスキューズでしかならない。
・「旅における自由=浮遊"霊"」
体制に対する抗い、反骨を表す表現は無数にあるだろうが、
規律や規範といった枠組みに対するアンチテーゼとして、
よく「自由」という言葉を全面に押し出していたりする媒体がある。
どこか、ボブディランやチェゲバラ的な幻想を抱かせる、
単なる情緒操作なのだが、
確かに、どこか無骨な海外の風景写真にロックンロールの歌詞をレイアウトし、
そこに「自由」とうたわれては、ある種の幻想を抱かずにはいられない。
少なからず(100パーセントその雰囲気自体が動機ではないが)
そんなノリで過去に海外に旅行した事、今となっては恥ずかしい。
本質は単なる現実逃避のくせに、
「楽しいはずなんだ」と妄想を肥大化させ、
そんな色眼鏡でその土地や人々をみる。
こんな、まるで酔漢の千鳥足の旅なんて全く無駄だった。
分割自我時に渇望していた「自由」なんて、
浮遊霊の「浮遊」の事だった。
・「民主主義反対」
圧倒的にゾンビの個体数が増えている現在、
どこにこんな概念に価値があるのか全く意味が解らない。
・「運?」
「運」なんていうものを具体的に説明する術は僕にはない。
しかしながら、強いて「運」というものが、
地球の力学外のものである、とするならば、
そんな地球の引力外の物を引きこむ、即ち運を持つ、という事自体、
自分の比重が地球の引力のある部分を凌駕していないと、
呼び込めるわけなんてないと思う。
また、呼び込んだとしても、
つまりはこの地球の地場、重力、引力とサシで渡り合える
「自我」が無いと、押しつぶされるのがオチだ。
・「ベートーベン」
自我復元活動を通じ、音楽を積極的に聴く頻度はかなり減少したが、
その分自らの手で奏でるということに対しては貪欲だ。
さらいたいと思える楽曲も骨太のものを好む。
今はベートーヴェンにとてもシンパシーを感じてやまない。
この間、彼の後期ピアノソナタ集を借りてきて、
少し初見でとある楽曲の終楽章をさらってみた。
とにかく、音の配置配列、記譜、
そして弾きこなす為に要求されるテクニックが物凄く奔放すぎる。
32の彼のソナタの中でもとりわけ異種すぎて面食らう。
とりわけ、このテクニックが強烈に「たちが悪い」。
結局、見開き2ページで譜読みを中断したが、
しかし、たった見開き2ページの譜読みだけでも垣間見えたのは、
靄のかかる不安漂わせる和声をくぐり静から動へ、
そして爆発を伴いながら決然と屹立し、龍のようなトリルを両脇に抱え、
そして「全自我」を高らかに宣言する巨大な「フーガ」だった。
http://www.youtube.com/watch?v=RCEaNiLBTXE
・マンネリ打破についての考察
今まで一度しか判定を依頼していない私が述べる事でもないが、
全自我への道程を進んでいる中では明らかに終点しかみえておらず、
自らを俯瞰して見る事が私はできない。
また、判定をお願いする前、
私はこともあろうに
「自分は全自我ではないにしろ、
今の生活をたのしむことのできる満足した自我だと思っている。
だから鑑定を受けなくとも、
この掲示板を読むだけで理解できるし、満足だよ。」
と、うそぶいていた。
しかし、自我復元を勧めていく中、当たり前ではあるが、
このようなうそぶきは全く空回り、そして消え去り、
何時の間にか自らの根幹が、全自我を渇望し、その思いが占めるようになった。
変な例えで恐縮だが、
「上手くなりたければ、やはりレッスン」をお願いしないとダメだ。
先生にはご負担をかけてしまうが、やはりきちんと鑑定をうけ、
自分の立ち位置をしっかり俯瞰してもらわないと自我復元は進まない。
・呼びかけの時のインターラプト
呼びかけの際に、全く関係のない以前ネットかテレビで拾ってきただろう、
くだらない画像の記憶が浮き出てくる事がある。
先生のご指摘通り、
どれだけ自分の脳にはゴミが溜まっていたのだろう!?と呆れてしまう。
・他者について
他の人々を見ながらこんなことを思う。
「おそらく彼らは、"死"というものが自分には降りかからない、
とでも思っているんだろうか」と。
そして、無自覚無意識的に輪廻転生というものが存在することを、
信じきってしまっているんではないか、とも。
そうでなければこんなにも惰性でダラダラと生きているはずはないだろうに。
なので、「生気が無く死んだように生きている」のでは無く、
「次また生まれ変われるから今はなんもやんなくていいや、めんどくさいし」、
といった潜在的「インナーニート」の阿呆の集団にしか見えない。
・時間
恐ろしいくらい時間の経ち方が早い。
さっき通勤のため会社近くの駅に降り立ったかと思えば、
気がつくと辺りは暗くなり、
そして帰路についている。
仮に、数時間同じ場所に立たないといけないという苦行を強いられたとしても、
今ではそれを遂行できるだけの自信はある。
だって時間の経ち方が本当にあっという間すぎるから。
・お金とは?
自分の欲求を満たす為のプロセスを、
その物質の質量に応じてショートカットできるツール。
そのツールを得るためには、
自らの時間を、他者の欲求の為に費すことで得られることか。
・「深化」から「変化」へ
自我復元は自らを「深化」させる行動だと思う。
("進化"という言葉のニュアンスも含むが、
アンカーのごとく自らの考察を底面に深く降ろしていく作業をする為に、
先の言葉の方がしっくりくる。
また、深化に耐えうる自らの深層体力が確立してくる。)
その為には、遊軍活動のように内的視点を張り巡らせて、
そこからの映像を観察する。
そして映像をストックする。
そして、書く。
そのようなプロセスを経て、
とにかく書き行き、そして上下左右斜め全ての内的面体に向かって
掘り進むことで得ることができる「脚」や「触手」などがある。
やがて自らの姿はもしかして、
それら得たツールを身につけることによって、
巨大なウニのような姿に変わるのかもしれないし、
蜘蛛のように変わるかもしれない。
・お笑い芸人を安易に真似ることの恐怖
たけしはよく自分をネタにし笑いをとることがある。
彼が全自我か否かはともかくとして、それを我々がやると、
それは単なる卑屈としか映らない。
その「卑屈さ」が「自分に対する永続的な評価」へと、
いつの間にか変わってしまい、
その後他者から馬鹿にされ軽く見られるようなことが多い。
・地球の「ネタバレ」
まだ「漠然」とだが、
地球における様々なアトラクションの(?),「ネタバレ」感が強まっている。
まるで誰もが知っている「親指切断の初歩手品」を、
延々と見させられている様な感じがします。
・生まれながらの借家住まい
分割自我の身体に居るということは
生まれた時から借家住いしているようなものです。
しかも窮屈で狭苦しく、居住まいがとても悪い、そんな歪な借家。
しかも、剥奪された分割分の自我を大家に人質に取られている状態で、
しかも時折人参をみせられる。
悔しい。
「トラウマ報告」
1 自分自身の原型のこと
心ここに在らず。
物心ついた時より、私はどこかやや傍観気味のスタンスで生きていた気がする。
家族、親戚、保育園の人々等々、誰に対しても遠慮がち、
かつ引き気味で、どこかしら、えもいえぬ「妥協の感覚」を、
無自覚に引き受けてしまった諦観気味の、おおよそ子供らしくない子供で、
そんな状態のまま怠惰な意識の中に浮かぶように、
生きていただけのような気がする。
その自らの心の立ち位置は、
幼少期から、音楽を学ぶ為に上京する青年期までこんな感じだった。
確かに、こんな不良物件のような「自分」というハコモノに
よく考えもせずに乗り込んでしまったとは、おっちょこちょいすぎる。
(分割自我を選び、なんの考察も無しに自らの原型、
そして生活する環境を安易に選びとった自分自身を大いに恥じる。)
萎縮癖、胸の違和感等、幼い時よりそれら種子の内包感は微々あったが、
これらが助長させられたのは家庭内の十数年の生活の中である。
ただ、全自我にを目指す過程上、この「トラウマ掘り」の必要性は果たしてあるのか?、
自分の中では既に消化済みで、とうの昔に過去の瓦礫と化し
何の影響も及ぼさないだろうと、たかをくくっていた家族の問題、
現在の自分自身は、その当時に比べるとある程度強くなり、
耐性は出来上がり、このことは消化済みだとどこか強がりうそぶいていたが、
トラウマを掘りはじめてみると、
確かに、このトラウマからの毒性は、
今現在の生活を行う中でも影響を受けている事がわかり、
相当根深いものと痛感する。
まさに、「トラウマ」という「放射能汚染」は、
自らの中においても進行中であった。
■以下は、個人情報が多いため、省略させて戴きました。
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