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[157]
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★分割自我復元★その156 ■ 『現実の選択と現実逃避』 ■
by:
鈴木崩残
2013/01/03(Thu)08:43:39
>「梅の間」も更新されています。それと、
>珍しく、松の間で、お勧めの「映画」の紹介をしておきました。
「現実の選択」と「現実逃避」
●正月早々から、少し「面倒な話題」について、書いておきます。
ちょうど前回「惰眠をむさぼることによる現実逃避(麻痺)」という話が、
おたよりの中にありましたので、それにからんで、
皆さんの人生や生命や意識の、根本的な問題について論じておきます。
●「現実逃避」という事を定義するには、まずその前提として、
「現実とは何か」、正しくは「その者は何を現実と定義したのか」、
という根本問題を押さえることが必要になります。
ある特定の現実を、まず現実と認識し、
それに目を向けたくないと思う者が、別の対象物にしがみつくとき、
それは現実逃避の対象となりますが、
この時点で、新たに選んだその対象物が、その人の現実になります。
ただし、これがもしも、主観だけで成り立つ世界にいるのであれば
あなたは自分の創作した、お花畑の世界にいればいいので問題はありませんが、
この世界では、最初に現実と認識した世界(つまり逃げたいと思った世界)からは、
完全には逃避できないという現実があります。
●これ故に、いつまでもニートをして、ぬくぬくと暮らしていたいと思う者は、
周囲から世間の現実の中に引きずり出されることになり、
いつまでも、惰眠をむさぼっても、それは目を覚ますことになり、
いつまでもトラウマを無視していても、それが及ぼす影響に
毎日のように引きずりまわされ、
いつまでも、続いて欲しいと思って行ったあらゆる現実逃避は、
結局は、長持ちすることもなく、終わりを迎えます。
それは最後には、自殺という形の現実逃避を選ぶこともしばしばですが、
それもまた、次の生を強制されることで、すぐさま終わりますので、
現実逃避の手段としては、全くの「無効」です。
●さて、私から見ると、人々が行っている現実逃避には、
4つの種類があります。
その「最下層部」から説明しますと、
4/違法合法に関わらず、麻薬または、処方された向精神薬の依存症となった者。
これは、現実逃避というよりも、完全な「麻痺」です。
彼らには逃避する現実を自分で作る能力さえもなくなっています。
それ故に、この同じカテゴリーの中に、他人が作った宗教、
特に瞑想と呼ばれる分野に逃げ込む形で、麻痺する人達を、
私は沢山見てきました。
この最下層部の現実逃避は、積極的に妄想することすらも放棄していますが、
ただしかなりの部分が「ひどい脳内妄想」に依存もしています。
重度の精神病の患者を想像すれば、おおむね本質は似ています。
3/次の層にいるのは、薬物漬けにはなっていないが、
思考しないでフィーリング重視と称する瞑想ごっこに依存していたり、
「妄想」、それも他人が与えた妄想だけで頭の中が出来上がっている者です。
ここに類するのは、薬物以外のものに中毒した患者で、
ゲームオタク、アニメオタク、といった人種も多く、
また、行き過ぎた陰謀脳と呼ばれる状態にある人種も多く、
当然のこととして、カルト、カルトでないを問わず宗教信者にも、
この層に生息する現実逃避者は、かなりいます。
最下層部の4とタブる人種も多く、
一例をあげれば、数は少ないのですが、今までに無明庵に迷惑をかけて、
挙句に警察が介入するようなハメになったような人種がこれにあたります。
この現実逃避をしている者たちが、次の2の層と異なるのは、
彼らが逃避している世界には、
「全く生産性もなく、創造性もなく」、何よりも欠落しているのは、
「現実に即した考え方」が何も出来ない、ということです。
多くの場合に、この3と4に生息している者は、何も私からだけではなく、
ごく一般的な感覚を持つ大勢の人達からも、「壊れている」「行ってしまっている」
「救いようがない」と見なされて無視されているはずです。
***************************
2/さて、いよいよ、ここからは、壊れてはいない、
一般的に(標準規格として)マトモな人達が持つ、
二つの現実についてです。
前述した4と3の人種については、喩えると、
ずっとパチンコ台を見ている時間をつぶしている者か、
全く仕事もしないでアル中や、薬中になっている者、
または、一日中、妄想にふけっている者、
といった者の雰囲気がそれに該当し、
こう言っては、申し訳ないですが、私はその者たちを人間とも、
動物とも認識していませんので、
はっきり言って、そうなった理由から抜け出す気がないのであれば、
生きていない方がいいので、可能なかぎり早く自殺した方が、
周囲にも迷惑にならないので、その方がいいと思います。
それでも一時的な逃避にすぎませんが、悪くはない選択です。
自分で自分の生に目的と意味を見出せないのであれば、
生きている意味は、ありませんので。
(他人がどう言おうが、生死の決定権は、本人の問題ですから。)
●さて、2の層と、1の層、ここでも現実と現実逃避の問題が
生ずるのですが、皆さんは、実は、次のような事実を認識していないと思います。
2の層にいる人達は、現実的な問題の解決に即した思考をします。
たとえば、3や4にいるニートや、部屋が片付けられない者が、
怠惰に、何もしないで、ゲームに夢中になり、現実逃避を続けるか、
さもなければ、「いつか、そのうち、楽に死にたいな」とか、
「面倒になったら死ねばいいさ」と、妄想を続けたまま、
死ぬ決断すらも出来ないままの廃人状態であるのに対して、
現状を抜け出すには、どうしたらいいかを考えて、行動し、
実際に、そこを抜け出す人達です。
つまり問題が起きたときに、問題の原因を考え、解決するという
当たり前の事を当たり前にする人達で、
これは現実主義であるとか、夢を持たず、つまらない現実だけを見ている、
ということではなく、必要最低限の「自己管理」が出来ているということです。
現在、無明庵で実現している「自我復元」とはこれにあたり、
いわば、「正常な自我」にとっての「最良の現実」の選択です。
●現実とは「自分の思考が作り出すものだ」と認識している人たちは、
ここに属します。
いわゆる巷にある、おおよそすべての魔術体系がここに属しますし、
願望実現法と称するものも、広義には、ここに属します。
これ自体を、私は否定はいませんし、むしろ、遊び飽きるまで、
自分の思考が作り出せる現実を、積極的に楽しめ、と、
一環して、ずっと言い続けてきました。
それをしないような人間は、人間という乗り物を経験する意味がないと。
●ただし、一つだけ注意が必要なのは、
「自我」の層にとっては、思考世界が現実の素材であっても、
「意識」から見れば、今度は、思考することそのものが、
「現実逃避である」という認識が生ずるという点です。
意識にとっては、
「意識それ自体以外に現実で在り得るものは存在しない」ので、
意識からすれば、思考はその内容に種類に関わらず、
すべて非現実的なものと見なされます。
これは「仮に意識の視点に立てば」、
全く正しい認識、ということになります。
●逆に、自我によって自己管理されている思考世界から見れば、
意識は現実の構成要素を破壊する作用を持つので、
出来るならば、敬遠したい視点となります。
「人間は、自ら観たものが、その者の現実となる」と考える傾向にある者は、
この2の層に、そのまま永久に留まります。
これは、宇宙にも標準的に多く存在しますので、何も目新しいものではなく、
ある意味では、正常であるが、
ある意味では、「これだけ」では、やはり異常です。
意識からすれば思考の世界そのものが、
「意識の現実」という領域から見れば、
あきらかにその現実から逃避をしていると、見なされます。
1/さて前述した、「意識」の視点に立つと、
今度は、「生命は、何も知覚しない時に 視点それ自体の現実が現れる」
と認識するのが、1の領域です。
ただし、この時点で、2の層の自我は崩壊しますし、
思考それ自体が全く無意味になります。
この知覚という世界が始まる前の「本質的な1の意識」と、
「世界を作った思考」という意味での2との「ベストミックス」を目指す者も、
宇宙には、腐るほどいますが、
今のところ、あまり上手くは行っていません。
上手く出来ていると思い込んでいるほとんどの者たちは、
2に留まっています。
逆に1の状態にある者は、2との折り合いをつけるのに苦労している。
******************
●このように、安易に、現実逃避と言う前に、
まず、どの視点や、どの対象物をまず、自分が見たくない現実と決めて、
そこからどういう対象に注意を集中することで、
現実逃避を成立させているか、には、少なくとも数種類あります。
4と3は、もはや、精神異常の領域なので無視して構いませんが、
2は、人間が社会生活を上手くやり過ごすには、非常に重要なものであり、
これゆえに、私は、自我をきちんと復元して、
思考の世界を自分で管理するように、と言います。
この2の領域をろくに、きちんと生きてもいない者が、
1の領域のことを、したり顔でしゃべってはならず、
また、それを目標になどしてもならず、
それ(意識)自体に立脚点を移動できたら「無心になれて楽だろうな」、
「他人に偉そうに、グルぶることが出来るんだろうな」、とか、
「苦が消えるって言うじゃないか、じゃー、やらない手はない」と、
軽薄な人が指導する瞑想ごっこに手を出して、
人生の大半の時間を無駄した多くの人達は、
私から見れば、まぎれもなく、3の層の人達です。
悪化すると4まで行っている場合も多くあります。
社会や家族から、嫌な目にあったという、
そんな、つまらない、くだらない理由から、2の層を大切にせずに、
2を否定してしまい、2の自我を育てず、1に逃げればいいと、
安直な勘違いをしてしまった挙句に、
全く1には、ほど遠く、むしろ、1を汚すようなことしか出来ず、
逆に2の普通の自我管理すら出来ない、「3以下」に落ちた人達、
これこそが、無明庵が、常に徹底的に批判し続けてきた人種です。
●これゆえに、私は、精神世界に現実逃避などしなかった人達の方が、
自我復元を高速で実現できることを、今までに多く見てきています。
正確に言うと、精神世界でも、東洋医学などの医療や、
その他、「現実の利益」に即したもの、
現実的な目で「検証可能な形」で研究をしてきた人はいいのですが、
気分だか、妄想だか、区別も出来ない現象をもってして、
結果が出たと思い込んでいる、
そういう精神世界や、宗教や、瞑想ごっこに勤しんでできた人たちは、
私の目には、本当に、愚鈍に見えます。
●しかし、2の層よりも、さらに繊細な領域を扱っていたのが、
初期の無明庵の著作であり、
そこでは、普通ではごく正常であると評されるはずの2の領域に対してすらも、
「すべからく、すべての思考そのものが、
意識という現実からの逃避の手段である」
という認識の上に成立していた。
●1の領域に住む人たちというのは、数は非常に限られるが、
地球上に全くいないわけではないし、過去にいなかったわけではない。
彼らにとっては、思考による創造そのものが、無益であるという視点にいる。
この1と2とをベストミックスしているとか、
ベストミックスするのが理想的だとか、
1と2を往来出来るとか言っている人で、
本当にそれが出来ている人を、私は、ただの一人も見たことがありません。
出来ているとしても、2と1が、よくても9:1の配分です。
逆に、1が優勢になっている人は、1が9で、2が僅かに1程度。
どちらも、バランスは非常に悪い。
●これは新刊では書かなかったが、
私がまだ若いころ、一人の青年に出会った。
彼は、あきらかに、地球外をその主な生息地としていて、
今回地球に生まれてきたが、植物を育てることが非常に得意で、
「三重螺旋」のDNAというものに詳しいようだった。
私が彼の家を訪れ、彼が私の家を訪れたことが数回だけあったが、
その彼の見解では、
「意識の領域に移動するのは、僅かな量にしておき、
大半を思考の領域を足場にすればいい」、という考えで、
これは、私が知るかぎり、銀河系宇宙では、ごく一般的な、
とても保身的で「安全確保をした上での生存スタンス」である。
ただ、その「無難なスタンス」というものでは、どうにもならなくなる
宇宙や世界の限界というものを私は知り尽くしているので、
彼の意見には全面的には、賛成はできなかった。
1と2つまり、意識と思考、この二つのある意味では、
「異層」としては対立する要素を、
少なくとも、5:5まで混合しないかぎり、
この宇宙に発生している問題の多くは解決しないことを知っていたからである。
●これについては、これ以上の話をする気が急に失せたので、
今回はここまでとしておきますが、
自我復元をやっている人は、とにかく
自分の「関心地図」に常に注意を向け、
現実に振り回されることなく、自分で現実を「選択」してください。
●現実というのは、必要な時に、定期的に消去する必要が出てきますが、
それはまた、別の機会に、個々の読者の人に、私が個別に話をします。
それぞれの人が現在立っている位置は、異なるので、
一般化することは出来ないのです。
1と2の比率の処方はすべて、その時の個人の状態によって違うものだからです。
●余談ですが、前述した非地球人型の彼は、
私のことを、LE・・・と呼んだ(フルネームはもっと長いです)。
これは、彼のいた世界の視点で、私の「ある側面」に注目した場合に
導き出される「音」の一種であった。
そのように、各種族がどこの出身で、何に価値観をおいているかで、
他者に名前をつけて呼ぶときの音は異なっていた。
ある人(意識や生物)は、私のことを、PA・・・と呼び、
彼は私をLE・・・と呼び、
別の生命は、私のことを、LA・・・と呼び、
TAU・・・と呼ぶ者もいれば、
A・・・と呼んだり
HI・・・と呼ぶ。
それぞれの種族が、彼らの宇宙観に基づいて、私のことを
勝手に、いろいろと呼んだことがあった。
しかし、いろいろな者たちに、いろいろな呼び名で呼ばれるのが、
ある時期から、めんどうになったので、
私は、自分で自分の名前を、自分の宇宙観と視点に基づいてつけるようにして、
今の「Houzan」という音を選択し、そこに漢字の意味も
含めて現在、「人間を相手にする時の名前」として使用していますが、
彼らは、それを全く無視して、
今でも、彼らの勝手で、私に名前をつけて呼ぶ。
まー、逆に言うと、
それによって、誰が私を呼んだり、私に声をかけたのかが、
すぐに分かる、という利点はありますけど。
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