▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[181]
■
★分割自我復元★その181■ 自我率判定の報告の一部 ■
by:
鈴木崩残
2013/03/04(Mon)16:33:34
トラウマに関する報告
今回の、どちらの方も、原文はこの約倍ぐらいありましたが、
読み手によっては、正しく理解できず、
誤解をする可能性のある部分については、私が編集をしました。
_______________________________
>●おひとりめ
トラウマ掘りでは前回の報告でかなり掘れたと思っていましたが
それでもまだ私の中に「おかしい」と感じる部分があったので
自分の中を納得がいくまで掘り返しました。
自我復元をやり始めた当初は、日本のイメージを「見よう」としていた。
これがどうも上手くいかなかった。
イメージというのは「見る」のではなく、思い描くもので
全く違う感覚が必要になることが分かった。
目を瞑ったまま見るというのは、視覚を使っていたのだが
そうやって見たものは、上手く固定できない。
しかし、その視覚で見たイメージのスクリーンの
更に奥に別の領域があるように思える。
まるで薄いカーテンがかかっていて
カーテンのその奥がイメージの世界であると私は思っている。
見るのではなく、入っていくという感じである。
結局大切なことって全部自分のことだった。
自分の生き方の管理だった。
よく、自分と向き合って、こうやって本音を書く。
自分が何を望んでいるか、書き出さないと
わからないほど心の中は散らかっている。
きちんと整理するために。
必要なものと、必要でないものを仕分けている。
結局、どこまで行っても自分なのだと。
自分こそが1番大事で、それ以外は時間とともに変化していく。
だが、相変わらず自分はここにいる。
自分は自分にとって1番大切なもの。
個である限り自分という感覚があって、
それをちゃんと管理してやらないと、何も始まらないんだ。
いまの私は欠陥品だ。だからいま修理しているとこ。
ここ最近感じることは、とにかく布団に入ってから呼びかけを行うと
あっという間に眠気が襲ってくる。
歯を食いしばらないと、意識が飛びそうになる時もある。
座ってやるなり、時間帯を早めるなどして、工夫したほうがいいかもれない。
やれと言われたことだけをやる。それが今までの自分だった。
それが、状況や問題を解決するのに何が必要なのかを考え
それにどう対処していくのが1番いいかを考え、
問題を整理し行動することで、早期に問題を解決できている。
能動的になってきたというべきか。
なんとなく全自我というものが、どういうものか、わかってきたような気がする。
対人での対応能力が全く違う。
元々の全自我は自分というものが,できてしまっているために、自分を作らない。
作る必要がないというべきか。
希釈自我は相手によってコロコロ自分が変わる。
自分の軸がふらついたり、土台となる部分が発達していないために、
つい相手に合わせてしまったり、下手をすると直ぐに屈してしまって自分を貫けない。
もとより希釈自我というのは、自分という意識が薄いため、
主導権を簡単に相手に握られ、都合のいいコマにされてしまう。
だが自我率が変化していくと、どこにいても、誰を相手にしても、
ここいにるのは自分自身であると、分かるようになってきた。
相手と状況に合わせようとするのではなく、
自分に合うように周囲が変化するというのは少し言いすぎか。
コロコロ自分が七変化するのではなく、
どこにいても、ありのままの自分でいられる力。
力というのも違う。才能でも能力でもない。
当たり前の自分がここにいる、というのが正確な表現だと思う。
いま私は自分という土台を作っているのだとわかる。
土台がしっかりしていないと、いくらその上に何かを積み上げても、
直ぐに壊れ崩れてしまう。嘘で塗り固めただけの人格で土台を補強してきた。
そんなものは嘘っぱちなのだから、どんどん剥がれていく。
剥がれていったその先に、本当の自分の土台を固めればいい。
その上になにか成し遂げられることがあるならば
それは決して無駄にはならないと思う。
それは嘘ではない素直で正直な自分の心。
いつも自分を貶し蔑ろにしてきた。
自分をもっと大事にしてやれ。
でなければ人生がもったいない。
私は嫌な問題からはいつも逃げ腰になっていた。
それが癖づいていたのがわかる。
自分の目の前にある問題は自分のものなんだ、
という考え方が出来始めているのかもしれない。
イライラしても仕方がない、というのではなく、
そう考えるよりも先に、思考が問題解決に向かっている、
と言った方が正しいと思う。
復元を始めるまで、こんなことは1度も起きなかったこと。
たまに幻聴が聞こえてくる。幻臭がすることもあった。
私は今まで薬物をやったこともなく、アルコールも一切飲まない。
つまり、完全なシラフの状態である。
復元を始めてから、これまで3度こういうことがあった。
>崩残記
>この人の場合に限っては、前後の状況を私は知っているので、
>これは幻覚ではなく、ある大切な事を知らせている、本人の声、
>またはこの人に関係のある、他人の声であると判断しました。
自分を新しく作り直すために、復元をやっていると言える。
ここまで暴力的に育ったのはなぜだ。
なんでも力ずくとか、おかしいだろ。
話し合いができない家庭。
許し合いができない家庭。
おかしい。
それは私が逃げてきたからだ。
両親のいないところにいけば、私の心の中はキレイになるのか。
両親が死ねば私は心の底から自由になれるのか。
私の中にある、ひっかかりは2人と向き合わずには解決できないと思う。
逃げても私の心の中にあるものからは、逃げられはしない。
私の心を縛っているもの。私の自由を縛るもの。
歪んでいるのは、この私。
その歪みをいま正しているんだ。
歪んだ私が私を縛っているんだ。
もっと自由でいいんだ。
自分の望む人生を自分でデザインしていいんだ。
何かを制限して可能性の芽を摘んでいいわけない。
閉ざしているのは私のほうだ。
閉じざるをえなかった。
理由が幼少期のトラウマや、両親の悪影響から自分を守るため。
結局、守れずに歪んでしまったが、復元と共に元に戻るはずだ。
母は「もう、あんたの好きなようにやりなさい」そう言ってくれている。
父は「どうせ言っても聞かないから」というが、お前に言われたくない。
分かり合おうとか、理解とかそれは望んでいない。
ただ私に口出しして欲しくない。
邪魔立てして欲しくない。
束縛して欲しくない。というだけのこと。
つまり私はどこまで行っても、あんたらのモノではないということを、
ちゃんと分かって欲しいだけ。
産み育てたのだから親のものという考え方を、さっさとどこかに捨てて欲しい。
そんなことを望むのだったらロボットでも制作しておけばいだろ。
あんたらのロボットでも玩具でもないから、おれは。
親はとっくの昔に対立することすら忘れ去ってしまっている。
結果、私だけが過去に囚われ、昔の苦しい思いに引っ張られ、
親を許せずに、向き合うことを拒んできた。
私だけが立ち止まり、進みことを拒んでいただけ。
自分に酷い仕打ちをした、という行き場のない怒りをどうすればいいのか。
くたばり損ないの親に今やり返すか? もう老人だぞ。
こうやって書き出すことで、公開することで何か変わるのか。
もう親の世話にはならない。 きちんと金を払って自由になる。
心から自由になる。今必要なこと。
心理的な自由というものを手にしなければ
いつまでも父親から自由になれない。
自分の自由は自分で手に入れる。
私を心理的に縛っているものの正体は、
まだ親に依存していることから来ていた。
そこに心苦しさがある。引け目がある。
だから自由になれないんだ。
それをクリアできれば、やっと自由になれる。
「私が本当の意味で親から自由になること。
それが本当の意味で親への復讐になる。」
もうあんたらの道具じゃないぞ。
もうあんたらに縛られないぞ。
私は私の意志で生きていく。
自分の面倒は自分で見る。
これができてはじめて私は親からの影響を受けなくなるんだ。
私はこれ以上、親に依存しないためにも、
私に対するお金は全て自分で出すと決めた。
当たり前のことだが、いままでできていなかった。
自我復元をし、自分の管理という基本的なことが、ようやくできはじめたんだ。
まずはその一歩である。
●桜の間で連日、復元者のトラウマの報告があり、それを読めば
自分のトラウマのことを思い出し、涙が出そうになる。
まだ、自分でも残っているトラウマがあるのではないかと、
感じずにはいられない。
特に兄弟の仲が悪いのは、親からいつも、いつも妹ばかり可愛がって、
「あんたはお兄ちゃんなんだから」そういっては我慢させられたり、
妹を贔屓目で見ては、私を相手にしてくれなかった。
だからいつもいつも私は、妹に対して、
「コイツさえいなければ」という思いがあった。
そしていつも冷たく当たっては、その度に泣く妹。
そして叱られるのはいつも私だった。
本当に邪魔だった。
なぜだ、こいつさえいなければ両親は、
私を可愛がってくれ、私だけを見てくれるのに。
これはただの私のワガママなのだろうか。
・才も歳が離れているのだから、可愛がってやってもよかったのに、
なぜこうなった。
喧嘩をするのは悪いことなのだろうか。泣くのはいつも妹だった。
それを見た親は私を叱りつけて私も泣く。
どうして喧嘩をしては怒られるのだろう。
泣かすと手間がかかるから、うるさいから。
「どうして仲良くできないのか」といつも言われたが
責められるのはいつも私だけ。
「お兄ちゃんなんだから」、という理由で、
喧嘩をした責任は全て私にあるのだろうか。
喧嘩をして怒られるのは私。
もう怒られたくない。どうすればいい。
喧嘩をしないために相手に関わらなけれないい。
これによって、もう妹には一切関わらず、口を利かなくなった。
すると、叱られなくなった。静かになった。
両親共に満足だ。全てうまくいった。はずだった。
だが、それによって、
私は人との付き合い方を知らずに育ってしまった。
どうして妹のことが嫌いなのか。両親はいつも妹の味方をした。
悪いのはいつも私のせいにされた。叱られるのもいつもいつも私。
もう、妹なんていらない。
小さいから、女の子だからといっては差別していた。
これが許せなかった。
私は両親を妹に取られたと感じていた。
それまで私だけを可愛がってくれてたのに、妹ができたことで
構ってくれなくなった。見てくれなくなった。
こいつさえいなければ、と。私は歪んでいるのだろうか。
私だけを見て欲しいと子供心で思うのはいけないことだったのか。
自我復元を開始して1年が経過した。
私自身どれだけ変化できただろうか。
私にとっての現実。 いまこの瞬間に目で見ているもの。
現在、置かれている状況。そして私の頭の中の思考。
これらが今の私自身の現実を作り上げている。
本当の自分の個性というのは、こうだったはず。
それはトラウマを掘り起こして、
自分がどうしてこんな性格になってしまったのかを知った。
これ程、歪んでしまった原因と、そうなってしまう前の自分。
歪む前の自分は、こんな性格ではなく、
もっと優しく素直な子供だったはずなんだ。
歪みも捻れもない子供が、そのままの形で徐々に大人になっていれば、
あのかつての自分は形作れなかったはず。
それが、今になって悔しくて仕方がない。
好きでこんな人生を選んだわけじゃないし、トラウマを受けたわけじゃない。
トラウマが掘れたせいか、最近変化したことがある。思い出したこともある。
・昔は面倒見の良い子だったこと。親戚の子供の面倒をよく見たものだ。
・もう、子供を許してやれ、昔の自分と比較して憎むのはやめろ。
・子供が好きだということと、自分の子供が欲しいというのは同義ではない。
・子供がおかしくなるのは母親の愛情が足らなかったからではない。
親から受けたトラウマのせいである。
・本来、私の中に子供嫌いは含まれていなかった。なのに嫌いになった原因は、
トラウマの有無であり「トラウマのないような子供」を見ると
憎たらしくて仕方なかったのだ。
・それでもトラウマが掘れたせいか、最近は子供を見てもイライラしなくなった。
子供は子供なんだと。元気があっていいじゃないか、そう感じるようになった。
私の中にある最大最悪の問題。
この原因と原理がわからない限りトラウマを掘ったとは言えない。
この両親はおかしかった。だから私が心を寄せたのは祖母だった。
・中略・
私の心はどこだろう。
どこにいってしまったんだろう。
遠い昔に置き去りにしてきてしまった幼い心。
これで個性なんか育つわけがない。
表に出せばひたすら否定されてきたんだ。
私は両親に従うしかなかった。
そのことがおかしい。窮屈だ。
私はなんで親の言うがままになっているんだ。
うるさい!いい加減にしろ!
私の心が悲鳴をあげたのが中学に入ってからだった。
とにかくこの時期の反抗期は凄まじかった。
今まで自分を出さず否定してきた自分に対しての
ベクトルがそのまま母に向かったのだ。
母だけではなく父にも向かった。
そして関係のない祖母に対してまで向かってしまった。
このことには今でも後悔している、祖母に対して。
いつも寄り添ってくれたのは祖母じゃないか。
祖母の前でどれだけの涙を流したかわからない。
弱い弱い自分を母親がわりと言わんばかりに
包み込んでくれたのは忘れなれない。
どうしても祖母のことになると涙が出てしまう。
それはあの頃の弱い自分をはっきり思い出してしまうからだ。
私の家は共働きで、私が帰っても母はいなかった。
しかし、そばに祖母の存在があったからこそ
私は寂しい思いをしなくて済んだのだ。
私の幼い心、遠い昔の歪みのない心は
祖母のもとに置いてきてしまったんだ。
だから祖母と一緒に居られた時を思うと涙が出る。
それなのに私の反抗期は見境なく祖母も巻き込んでしまった。
あの頃の弱い自分を打ち消すように、否定してきた。
否定されたのが本当の私だ。
弱い私と、それをかくまってくれた祖母。
更に弱い私は自分の過去を破壊するように攻撃した。
無茶苦茶だ。
強く在ろうとした私は更に弱くなった。
脆い偽物の人格を作るしかなかった。
家ではその仮面を外さないようにした。
いつしかその仮面が本物の人格にすり代わってしまった。
最も弱い、か弱い自分、本当の自分を見つけたとき
涙が止まらなくなる。
助けを求めるように、祖母の膝にしがみついて大泣きしている自分。
私を守ってくれた存在。私が壊れなかった最大の理由。
ありがとう、ばあちゃん。
大きくなって、きつく当たってごめん、優しくしてくれたのに。
何一つしてあげられなかった私は最低だ。
今になって後悔しても遅いのに。
もっと思いやりのある人間に育つはずだったのに
なんでこんなに心を閉ざした人間になったんだろうな。
両親に対する怒り。弱い自分を覆い隠すように、
強がってばかりのニセの仮面をかぶって、生きてきたと今になってわかる。
遅いよ。
・中略・
私は、かつての彼女のこと、未だに許せないんだろ。
これ程傷をつけてトンズラされたんだ。
しかしこれも自業自得の自爆だった、という結論になる。
私は彼女が私を捨てたことを、まだ根に持っているのか。
とんだ馬鹿野郎だよ、まったく。
彼女は悪くない。彼女は彼女の人生を歩んだ。
彼女の隣に私はふさわしくなかった。
別の男を選んだ。
彼女と別れた時、気持ちが楽になっただろう。
肩の荷がおりただろう。
ほっとしたんだよな。
これもまた事実だ。
そう思ったのも私の人生の一部だ。
誰も彼女を責められない。
彼女はオレの被害者だった。
彼女を傷つけたのは私だった。
感情的になれば事実が歪むという例だ。
・以下省略・
******************
>●おふたりめ
私自身、 若い頃から現実逃避人間であるとは認識していたが、
今までの私の生きざまそのものが、数十年間も、
「ひきこもり」状態だったのか・・・・・と愕然とした。
家で父親が、知人の新婚さんとの会話のなかで、
「子供は2人ぐらいがいいよ」と一言いったその言葉を、
おこたの中でうたた寝をしていて聞いてしまった、
小学校3〜4年ころの私。
そして母は父のその言葉に反対するでもなく、
黙って何もいってはくれなかった。
三人姉妹の末っ子の私にとって、
あの言葉の意味は「おまえはいらない」ということだった。
私の存在そのものを否定した、両親のこの言動。
あの言葉を聞いたあの瞬間の、呼吸が止まるほどの耐えがたいショック。
ショックをうけたという事実だけは鮮明に記憶してはいたものの、
あの時に受けた計り知れないほど大きな傷に、
真正面から向き合って、
解放し決着をつけようとはしてこなかった私。
そして長年、やり場のない感情を覆い隠し、深く押し殺してきた。
あの時のあの場面が鮮明によみがえった瞬間、
おこたの中で寝そべっているあの時の私が蘇ってきた。
全身が恐怖でぶるぶると震えだし。
すごい寒気が全身を蔽い。顎ががくがくし始めた。
そして、やっと涙があふれ出したと同時に、
小さく震える声が大きな唸り声に変わり、
気が狂ったように泣き始めた。
底なしの谷に突き落とされたような恐怖と絶望感。
悲しみと憎しみ。強い怒り。
私はあの時、両親のことばに殺されたのだ。
両親から肉体的な虐待をうけたという記憶はいまだに出てはこない。
しかし私の場合、精神的なトラウマが、かなり深刻なのだ。
小学校高学年のころだったとおもう、
夜、私が洗面所で歯を磨いているところに母がやって来て、
後ろから、唐突にこんなことを言いはじめたのだ、
「あんた、ばちゃんち、の子供になる?」
「ばちゃん、子供できないから、あなたのことほしいんだって。」
「おばちゃん、あなたちゃんのこと、かわいくってしょうがないんだよ。」
私は、すかさず声にならない声で母親にむかって叫んでいた。
「やめて。 やめて。 もうそれ以上なんにもいわないで!!」
「そんなこと聞きたくなんかないよ!!」
「おねがいだから、もうそんなこと言わないで。」
男の子を望んでいた両親にとって、
私は「期待はずれ」の存在なのだと確信したのだ。
以前私の存在を否定されたあの瞬間の恐怖と同じ恐怖。
おこたで聞いたあの時の記憶がよみがえってきた。
私が押し黙っていると、母はそんな私の気持ちなど、まったくおかまいなしに、
「ばちゃんちにいく?」とまた聞くのである。
あの時、私はやっとのおもいで、
「いや」 とひと言い放っただけだった。
・中略・
あれほど「大好きな 父」のことを、
あの日を境に、
「大っ嫌いな ばかやろうー」にすり替えてしまった私。
強い恐怖と絶望感、深い悲しみを抑え込み、
激しい怒りの感情だけがエスカレートしていき、
いつしか、父のことを
「呪い殺してやる」 と考えるようにまでなってしまった私。
私が・・歳のとき、
亡くなった父の体にすがりついて、人目をはばかることもなく泣きつづけた私。
ほんとうはどれほど父のことが大好きだったのか、その時にはじめて気がついた私。
ほんとうは、もっともっと素直にただただ父に甘えていたかった私。
でも、もう手遅れだった。
そして残ったのは深い罪悪感と自己嫌悪だった。
あの時なぜ、母のことも呪い殺してやろうとはおもわなかったのか・・・・・。
私は怖かった、とても怖かったのだ独りになることが、
母親に依存していた私には、
彼女のことまで殺すことはできなかった。
母は「見捨てる」という脅しを巧みにつかって、
私を自分に依存させようとしてきたのだ。
日常、母は私に対し必要以上に、
過剰な心配をするような言動をとることが多かった。
そしてそれをいつも聞かされていた私は、
「また失敗するのではないか」、うまくできるだろうかと
過剰な不安をもってしまうことが、子供の頃からよくあった。
自分に自信がもてず、
すぐに母や、姉達に頼って依存してしまうという悪癖を、
小学生の頃から深く刷り込んでしまっていたのだ。
また、おねえちゃんは塾に行けていいなぁ・・・・・でも、私はだめなんだ。
そのように、いつも私はすぐ上の姉と自分を比べ、
劣等感と惨めさの感情をもつようになっていた。
・中略・
小学校から、中学に入り、
面白くもなんともなかった、女子高を卒業するまでの12年間。
地獄の学校生活をなんとか終え、これでやっと自由になれると思った。
友人達は大学進学の勉強に必死な様子だったが、
私にとってはまったくの他人事でしかなかった。
とにかく早く、自分の自由にできるある程度のお金がほしかった。
早く家を出て、旅に出たいと思っていた。
高校卒業後約1年半会社に就職し、お金をつくり退職した。
しかしそのまま家を出て、「自活」だけで生活できるほどの収入はなかった。
金銭的に不安になると実家に戻り、
バイトをしてお金を貯めてまた旅にでるという、
結局のところは、親に依存してしまう状態をぬけだすことはできなかったのだ。
その後、私は、本格的に・・・の勉強を開始し、・・・で働きはじめた。
これを本職にして生きていこうと思っていたのだ。
そして、社会生活にも少しは適応できるかと、おもいはじめてきた、
・・歳の時だった。
あれほど打ち込んでいた仕事を突然辞め、彼氏とも別れ、
次に逃げ込んだのは、インド人のグルに群がる猿軍団のサニヤシン社会だった。
自分自身の苦しみを曖昧にし、
しっかり直視することもできないほど弱い意志の私にとっては
あのサルの群れ世界は、世間から隔離された安全地帯だった。
立身出世を求める現実社会と、悟り(エンライトメント〉を求めるサル社会、
強欲に求めることに関しては、その二つには、なんの違いもない世界だったが、
歪みが激しい分だけ、サル社会の方が「重い精神病患者」が、うようよとしていた。
その国境なき精神病棟に隔離され、長く入院していた私。
そしてある日、
Oshoという、「病院長」が突然に、いなくなり、
途方に暮れ行き場のなくなった私は、
否応なく現実社会にひきもどされたのだった。
・中略・
私は子供の頃から大人になることがおそろしく怖いと思っていた。
私は大人になりたくなかった。
(だから、この年齢になっても幼稚なままの、おばさんできてしまったのだ)
両親をみても、教師をみても、回りじゅうのどの大人をみても失望するだけだった。
子供の頃からあんな大人達にはなりたくないと思いつづけていた。
だから、
こんなひどい世の中に私は自分の子供を産むことなど絶対にできないと思っていた。
自分のことだけで、いっぱいいっぱいの私が、
自分の子供を産み育てるなど恐ろしくてできないと思っていた。
ひとりの人間を育てる責任をもつことはこの私では無理だと思っていた。
だから、
今回のこの生で私は子供を産まない。・・・と10代なかばの頃に決めた。
母は無意識のうちに見捨てるという脅しをつかったり、
反対に私が自立しようとすると今度は過剰なほど心配してみせたりと、
母は精神的にかなり不安定な人だった。
そしてその母の言動に翻弄され続けてきた私。
精神的自立もできず、
自分と他人の境界があいまいで、
他人に依存してしまう悪癖を長年かけてしっかりと刷り込んできてしまったのだ。
また母からの心配性の影響が大きく、
常に漠然とした不安感が大きくつきまとい、自分に自信がもてなかったのだ。
母の実母は、母がまだ10歳になるかならない頃に病死し、
・歳上の姉が母親のかわりに、母の面倒をみてくれていたようだ。
つまり、私の母は、幼少の頃からの不安定な心理状態のまま、
彼女は母親になってしまったのだ。
そして昨年、
実家に帰り、すぐ上の姉と話をしていて驚いたことに
実は、なんと姉も母親に
「ばちゃんちの子供になるかい?」と聞かれたことがあったというのだ。
あの時のことを、85歳になった母にはじめて話をしてみた。
あの時、私がどれだけつらく、悲しいおもいをしたのか・・・・・。
すると母は、あまりにもあっけらかぁ〜んとした明るい声で、
「あらぁ〜〜〜そうだったのぉ〜。
だっておばちゃんかわいがってくれてたからねぇ〜。」
というだけだった。
あの時の私を、絶望の淵においやった張本人であるこの年老いた母親。
この鈍感さはいったい何なのか。
あの時私の感じた苦しみや悲しみを、この人に少しは知ってほしいと思った私。
しかし、そんなことを期待すること事態、無意味だった。
親は軽い気持ちで、
なにげなく言ったつもりなのだろうが、
その毒の刃は、子供の心も体をも、ずたずたに傷つけてしまっているのだ。
そしてそのことをバカ親はまったく気づこうともしないし、
気づけるほどの感性もないのだ。
>以下に、この上もなく、物凄く重要なことが書かれているので、
>私(崩残)の判断で、その部分だけ、文字色を買えます。
●トラウマ堀りを進めていく中で、感じたことがある。
私は、よく泣くことがあるのだが、
むやみに、ただ泣くことと、
トラウマをうけた、
「その瞬間」の自分自身にもどって、泣くこととでは、
感情の解放には、かなりの違いがあると感じている。
トラウマを受けた瞬間の、
その時の場所の明るさや暗さ、冷たさや温かさ、匂い
そして自分のどちら側に、だれがどのような状態でいたか・・・など。
「その瞬間」、どのような周囲の状況のなかに自分がいたのか、
記憶を可能な限りリアルに呼び覚まし、
「その瞬間」を再現してみる。
すると、
自分でも想像もしていなかったような、
無意識の層に深く押し込め続けてきた感情が、
噴出しはじめてくるように感じる。
なかなか、うまく言えないが・・・・・
トラウマは、強弱の差異はあるものの、
「思考、感情、肉体」が、それぞれに「同時に刷り込まれ」、
より複雑にリンクしあっているように思う。
何度か、おもっきり泣けたから、感情の解放ができたから、
それで、そのトラウマが解消できたかというと、そんなことはなく、
よりしつこい、深い傷の層、無意識の層が
肉体部分に、かなり手ごわく、
しつこく、刷り込まれているように思えてならない。
・中略・
自分のやりたいことを、
いったい幾つ「がまん」して生きてきたのだろうか、この私は。
もう少し自分がやりたいように生きることができていたなら、
希釈された自我とは言え・・・・・
私の生きざまも、今とは、だいぶ違っていただろうにと思ってしまうのだ。
・中略・
かつての私は、一日のうちに、ぼ〜〜〜っ とする時間がないと、
精神的にも肉体的にも、すぐに疲れてしまうことが普通だった。
それが、
現在はその ぼ〜〜〜っ の必要をほとんど感じないのだ。
気が付くといつのまにか ぼ〜〜〜っ の時間が少なくなってきたのだ。
その時間がなくなった分だけ効率よく動けるのだ。
そして、 あの時間が私にとっては
現実逃避のひとつの手段だったのだということを、
今頃になってやっと気づきはじめた。
起きているにもかかわらず、
眠りこけ逃げ込む世界を常に私は必要としてきた。
その時間を確保することで、
私はどうにか自分の居場所も確保してきたのだ。
以前は睡眠時間も、たっぷりとらないと心身ともにしんどかった。
時々、長時間寝むり続けるか、
一日中布団の中に出たり入ったりして、
うだうだと、寝たり起きたりすることが好きだった。それが必要だった。
誰からも侵害されず、
自分が安全にいられる唯一のスペースが睡眠だった。
現実から逃げる手段を子供の頃から私は常に探して生きてきたのだ。
現実をしっかりと認識し、その中で生きて生活するというあたりまえの事を、
認識し実践できるだけの意志も自覚も、あまりにも希薄だったのだ。
そして昨年3月に見た、あの「脱出」以後、
人間関係に変化が見えはじめたのだ、
*****
私は、私なのだから、私自身でいることがあたりまえで、
誰かのために存在しているのではないのだから。
私は、 私は、 私は、 私なのだ。
今ここにいる、私のことを、自分自身で宣言しなければ、
この私は、どこかへ消えて逝ってしまうと感じた。
そして徐々に、ものおじせずにはっきりと、
自分の考え意見が言えるようになっている私がいたのだ。
以前は人に対し逃げ腰になって斜に構えていた自分がいた。
しかし今は、正面を向いて人と対等に接しはじめている自分がいる。
今では結構きついこともはっきりと言っている私がいて、
以前には表にだすことができなかった自分の姿に少し驚くことがある。
ある集会の司会も、失敗したっていいから、
とにかく自分の硬く汚れた殻をはぎ取るための一歩にしてみよう、
という気持ちで、引き受けることに決めたのだ。
司会当日の私は、今までの私ではなかった。
心臓がばくばくするでもなく、顔が真っ赤になることもなく、
はっきりとした口調でしっかりと話せているではないか・・・・・。
うれしかった。
この歳になってやっと・・・・・という情けなさはあるものの、
少しだけ強くなった自分のことがうれしかった。
しかし、
自分の考えを自分の言葉で話せているのかということに関しては
今の私の状態ではまったく納得などできるようなものではない。
他人のものを拝借したり、
親や社会から洗脳されたものに占領されている私がいる。
長年持ち歩き続けてきてしまったゴミの山を
ひとつひとつ自分の手で処理していかなければならないのだ。
他人からの借りものに占領されていることを
しっかりと認識できない弱さと甘さ、無自覚さがまだまだ私にはあるのだ。
話をするということ・・・・・
文章を書くということもなのだが・・・・・
言葉を発するということを通じてみえてくるものは・・・・・
結局、核となる私自身が、まだまったくないということなのだ。
この歳になって・・・・・
かなしすぎるけど、これが私の現実なのだ。
これから、その核を自分自身でみつけていくしかないのだ。
自分自身で、つくるしかないのだ。
必死でやるしかない。
妥協せずに。
・中略・
今までの私は、恐ろしいことに
自分は自分、他人は他人と言う、
ごくごくあたり前に出来るはずのその区別すら、
しっかりと自覚することができなかったのだ。
ずるずる、ずるずると依存の渦の中に吸い込まれていき、
いつのまにか無自覚に私自身の存在を自ら消し去っていたのだ。
本当の自分は何をやりたいのかも、見えなくなっていってしまい、
自分自身を他人に、あまりにも安易に売り飛ばしてしまっていたのだ。
現在のトラウマの掘り方がまだまだ甘いことも、
掘り進めるべきトラウマがまだまだ沢山あることも認識しています。
******
昨年から急に人と接する機会が増えてきたのだが、
人々の中にいることで、人々の中にいるからこそ、
自分自身でいることを以前より明確に自覚することができる。
より ひとり でいることを強く感じている。
人々の中での ひとり は立ち向かっていく強さがある。
両足がしっかりと地面を捉えている強さがある。
ひきこもりの中での ひとり は
硬い殻の中に閉じこもって誰をも寄せ付けない、
ただの弱々しい ひとりぽっち だった。
常に目に見えない他人の存在に怯え続けているにも関わらず、
幻想のなかでの ひとり を自分の都合の良いように演出し、
現実から逃避していたにすぎなかった。
******
小学生のころ、学校と教師達に向かって何も出来なかった私。
あの時の怒りと悔しさが私の根っこにはある。
今、私の出来る事を、ちいさな事からでも何かやらなければ・・・・・
あの時の、「あの子」は、今でも叫び続けているのだ。
頭で考えているだけではなく、
行動にして動いてみようと思うようになってきたのだ。
・中略・
今、変化報告を書いていて思う。
以前の私にはなかった、前向きで挑戦的な私がいる。
そして、もっともっと、もっと強くなりたい! と思う私がいる。
そして、
まだまだ私の掘り進めていかなければならないトラウマも山積している。
最後の最後まで妥協することなく、すべてを掘り起こし、
全自我を達成させるまで気をひきしめていく覚悟です。
●そして、
新たな 回収方法 に変えての変化報告です。
回収作業の直後だった、
その・・に突然電流が流れ込んだかのような激痛がはしった。
何十年も前の古傷を
なぜ、この体は覚えつづけているのだろう。
なぜ、忘れようとはしないのだろう。
記憶し続けることに何か意図するものでもあるのだろうか。
この痛みと圧迫感は、きっとこれだけが原因ではないだろうとも感じている。
今はまだ、はっきりとは浮上してきてはいない他のトラウマ、
掘りおこすべき記憶がこの痛みと圧迫感の中にまだ隠されているように思う。
・中略・
このあと数日してのことだった。
夜中にまた突然目が覚めた。
するとお腹、とくに左わき腹からみぞおちの辺りまで、大きく膨れて苦しいのだ。
まるで便秘でガスが大量に溜まっているかのようだった。
しかしその時便秘でもないし、この膨らみはいったい何なのか・・・・?
苦しくてそのまま眠れるような状態ではないので、
とにかくお腹に手をあてたり、ストレッチをしたり体を動かしていると、
突然、猛烈な吐き気がしてきたのだ。
そして数回吐くうちに、その膨らみが少し小さくなっていった。
やっとお腹も、すこしは落ち着きはじめたので、布団にはいって寝ようとすると、
今度はしゃくり上げる様な、あの泣きがまた自然にでてきたのだ。
息もできないような泣き方なのだ。
学校に行きたくない! 学校に行きたくない! 学校に行きたくない!
何度も何度も何度も・・・・・泣きながら訴え続けるあの子がいた。
今度はしっかりと言葉にして訴えているあの子がいた。
そして、ひとしきり泣いたあの子に私は声をかけた、
「もう、行かなくていいんだよ」
「もう、行かなくていいんだよ」
あの子はやっと納得したようすだった。
そして気がつくと、あの膨らみは消えお腹はぺったんこになっていた。
私は今まで、小学生のあの時の私にもどって、何度となく泣いてきた。
自分では、あのトラウマは、もうだいぶ解放され解決されたと思っていた。
しかし、
あの時のあの子は、まだ苦しいままの状態のなかに、
ひとり取り残されたままだったのだ。
そのことに気づけず、見過ごしてしまうところだったのだ。
・中略・
私は、やせ細った自分の体をやさしく、やさしく時間をかけてさすってあげた。
自分の体がいとおしくて、いとおしくてしかたがなかった。
涙がとまらなかった。
自らが自らの存在にNOをつきつけ、
長年、この体を無自覚に消し去ろうとし続けてきた私。
私は自分の体を消し去ることのできる「踊り」が大好きだった。
そうして踊る時間が私には必要だった。
しかし、気が付くとこの1年
驚くことに、あの時以前の踊りを、ほとんど踊っていないのだ。
いつのまにか、あの踊りが私には必要ではなくなっていたのだ。
そして今、はじめて気づいたのだ。
「あの踊り」が私にとっては、現実逃避の重要な手段だったことを。
しかし、今はもう、あの以前の踊りは私には必要ない。
今の私の踊りは、
体の中へ中へと細部まで入り込んでいき、
この体に長年深く浸みこんでしまったトラウマの記憶を、
掘りおこすための踊りだ。
トラウマを見つけ出そうと、
細部をくまなく探りあてているかのような踊りだ。
私は子供の頃からストレスにはかなり弱く、
すぐ体に抱え込んでしまうタイプだった。
しかしそれにしても、
トラウマがこれほどまで強固に、
肉体に記憶されるものだとは想像してはいなかった。
記憶を呼び覚まし掘り下げ、
頭では納得し解決できたとおもっていたトラウマだが、
私が受けたトラウマの全体像からしたら、
それはまだまだ表面的な解放でしかないように思えてきてならない。
そう思うとき、
この私の存在はもしかすると、
「トラウマの塊そのものでしかない」のでは・・・と思ってしまうほどである。
新しい回収方法は、今まで以上に強力に
トラウマの記憶を炙り出し、
さらにさらに、深部へと掘り進めることができることを実感している。
すべてを炙り出し、
気をゆるめず、妥協をゆるさず、
最後の最後まで掘りつくす覚悟です。
*********
まとまりのない、長いメールになってしまいました。
本日は最後まで読んで下さいまして、
ほんとうにありがとうございました。
_______________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(181 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -