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「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
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[192]
■
★分割自我復元★その192■ 自我復元報告とリンク ■
by:
鈴木崩残
2013/04/09(Tue)12:03:22
>梅の間に、最近の禅書作品を更新しました。
↓
http://www.mumyouan.com/k/umenoma.html
自我復元報告その他
●まずは、ブログで、大きな更新がされたものや、お勧めの記事が
載っているものです。
『お姫ちゃん』さん
http://haripoteko.exblog.jp/i0/
『マディア』さん
http://jigafukugen1987.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
『おめめ』さん
http://omemenome.blogspot.jp/
『新子』さん
http://fukugen16.jugem.jp/
***************************
●以下は、復元報告からの抜粋です。
>ひとりめ
今年、3/26(火)「スケッチブックを書いていない人」で取り上げられたように、
恥ずかしながら私もその一人でした。
スケッチブックは買っていたのでしたが、描いておりませんでした。
現在は、自己像、私の惑星、その内部環境、
そしてクーラーボックスを色付きで描いております。
ちなみに、カラー表現に、色鉛筆ほど手間がかからず、
鮮やかになるコピック(約50色)を使用しております。
そして、改めてDVDの見直しもして、
その概念を自分なりにレジュメに書きました。
これらをしてからというものの、
驚く程モチベーションが上がりました。
同様に、回収作業中の集中力も向上、時間も長くなりました。
機能不全家庭で育った私は、子供の頃から、DVだった父が、
いつも目を吊り上げて、顔を真っ赤にした物凄い形相ばかり見て育ちました。
もちろん、亡くなった父も人間ですから笑うこともありましたが、
私にはどうにも凄い形相の父が焼き付いて離れないのです。
だから、ずっと人の顔色や機嫌ばかり見て、過ごして来ました。
誰かが気に食わないといわないように、機嫌を損ねないように、
自分に正直になることができませんでした。
すみません、ボロ泣きです。
私自身、以前は接客されたり、店員さんの提案を断ることが苦手でした。
裏を返すと、接客業なのに、接客が下手な人間でした。
扱う商品が好きで長くいれただけであったり、
ポップや企画を作ったりするのが好きなだけで、
接客は決してうまくはなかったと思います。
そんな私が、今はどんなに長い間接客されても、平気で、
まったく怖くなくなりました。
逆に、自ら店員を捕まえて、話を聞き出すことをしてしまったり、
店員の方にいろいろ知識を教えたりして、
どちらが店員かわからなくなる時もあります。
それがなぜ平気になった のかというと、
私の実家の機能不全家庭という環境から、
父への絶対服従のもと、また母からは隠れた別の支配など、
「(余計な物など買わされたり、足下を見られたりという方法で)
他の人間から支配されること自体が怖かった」のだということが、ある時わかりました。
この変化は、私にとって非常に大きなものでした。
そういえば、思い出したことがある。
母は昔から自分がこうだと自分で勝手に思ったものを 買ってくる。
もちろん、子供の私は、説明するのも下手であったし、
今のように携帯やネットでこれ!と画面を見せられる時代でもなかった。
しかし、なかったと言ったり、
ちゃんとどれかはっきりわかろうとすることさえしなかった。
今思えばであるが。それは、私になにかを説明するときも未だにそうである。
まったくなにかわからない。
しかし、私にとっては、子供時代も今もこれが欲しいなら、
それが絶対いい!のである。他の代用品はいらない!
だが、それも子供時代に、
母の趣味にいつの間にか染められて(洗脳されて)行ったのである。
そうやって、随分といろいろな自分の趣味のものでないものを買われ、
まだ家の中に「子供の頃からの、作られた私の好みの残骸」が
いろいろあったことに気が付いた。
数十年使用していた、ある意味、子供の自分と決別した。
*********
その店舗がある空港のショッピング・フロアや食堂街へ行くのは、
8歳以来29年ぶりのことでした。
実はそこの食堂街の中華料理店で、
当時一家で行った時にトラブルがあったのをハッキリ覚えている。
当時、私たち家族四人は、
父の運転する車で、食事をしようと、夕方、その空港へ行った。
下り際、父は駐車するため、空港のどこかで待っておくよう母に言った。
そして、私と姉は母の行くまま、あるところへ行った。
それは 、空港のターミナル一階南側だった。
しかし、何分待っても父はやって来ない。
そして、私は母が待っている場所自体が間違っているのではと思っていた。
しかし、親だし、大人だし、子供の私たちよりちゃんとわかっているだろうと思い、
母を信じ、待っていたが、一向に父の姿は見えない。
当時、当然携帯やPHSなど何もない。
でも、私はたしか正面の中央側と父が言っていたような気がしていた。
しかし、母は自分の聞いたことを一向に疑わない。
そして、私たち姉弟は、ここじゃない、向こうだよと言って、
母に移動するよう促した。
そうすると、案の定、母の勘違い・・・というより、人の話を
聞いていないだけであった(聞いていないのは、今も )。
ターミナル正面玄関では、父がすごい形相で立っていた。
父は、いつも真っ赤な顔をして、両目を吊り上げて、
家族を怒鳴りまくるのが、習性だった。
[しかし、仕事上では、死ぬまで詐欺師のように、にこにこしていたので、
社内・社外共に、いい人だと思われていた。
たとえその一端を誰かが見ても、人って、こんなに認識しないものなのか、
そしてこんな簡単に騙されてしまうのかと、父の元で働くようになって思っていた。]
話は戻り、ともかく合流し、上階の中華料理店へ向うエスカレーターの途中、
怒りの収まらない父は、黒の折り畳み傘で母の二の腕を殴った。
8歳の私にとっては、衝撃的な光景だった。
そして、中華料理店に入り、注文 したものが来たものの、
そんなことが合った直後に、子供である私たちが気持ちを切り替えて、食べれるわけがない。
ものすごく重たい雰囲気だった。
私はそれでも、無理矢理少しでも口に運んでいたが、
とてもおいしいとか、味わえる心理状態ではなかった。
父母は、そんな中に置いても、
姉の名を呼んで「早く食べなさい」と食べるのを促していた。
そうすると、姉が下を向きながら、声を上げて泣き出してしまった。
16、7歳といえど、当然の反応だ。
姉の着ていたセーターの柄まで覚えているくらいだ。
初めて姉が可哀想だと思った。
こんな状況じゃ、楽しく食べれるわけがないと・・・。
私も泣きたかったが、私はどうしても我慢してしまうタイプだった。
その名残が今でもある。
それどころか、私はこの状態(雰囲気)を見て、
店員になにか察知されないかということの方が、気になっていた。
泣き出した姉をなだめていた母だが、それをたしか父の所為にしていた気がする。
いや、あんたも聞き間違えていなかったら、こんなことになっては、
いなかったんですけどと思った。
たしか結局、出された料理は多く残して、
足早に(30分以内であったと思う)店を出たと思うが、
その直後の記憶が残っていない。
今までこの空港に行かなかったのは、用事がなかったのも大きいが、
たぶん無意識に避けて来ていたのではないかとも思う。
そう、私はずっと怖かったのだ、その時の感情と再会するのが。
つまり、今回行っ たきっかけはどうあれ、
それまでは、そこまで自我率がなかったので、
その感情や場面と向かい合う余裕がなかったのだろう。
当初のお目当ての店にも行け、飛行機の着陸の姿も見れたり、
当時とはずいぶんきれいになった空港には、
新たな発見があったり、面白かったりした。
しかし同時に、ターミナル内にいる時も、帰り際のモノレールの中でも、
涙ぐみそうな自分がいた。
そして、帰宅し、数時間後、この文を書いている途中、
当時の押し殺した感情をやっと今解き放ったかのように、
声を上げて泣いた。
なんの巡り合わせか、違う目的で来たのに、
因縁の当時の場所にやっと行けた。
しかし、これはほんの一例で、父は食事をする時は、
いつも例の物凄い形相で怒り出すことが多く、
家でも父が帰ってくると、家の温度が数度下がるような雰囲気になることが、
この後も二十数年続いた。
食事の度に、父母が一触即発になるのが常だった。地獄であった。
そして、喧嘩をしても、翌日、何事もなかったかのように、
母はまた朝食を用意して、また同じ日々が始まるのが通常でした。
それを幼少ながら、奇異に感じていたのはたしかです。
そういうわけで、大学時代から、飲み会等会食の度に、
人前ではあまり食べられなくなっていた。
おそらく、こうして約30年ぶりに因縁の場所に行けたのも、
27年来のゴミ箱などを捨てたことと連動していると思う。
その当時の年齢まで、私自身が知らずと帰っているのではないかと思う。
******************
>ふたりめ
わたしは、きわめて重度のトラウマを背負っている自覚があり、
復元を始めても、じぶんのことが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
その状態のまま、トラウマ掘りに着手したために、
じぶんのことを、ますます嫌悪するようになっていた。
ところが、回収した自我を脳に送り込むようになって、
これがまちがいであることが、おのずとわかってきた。
それによって、じぶんの存在を肯定する感覚が、
じぶんの中心に、やっと育ちはじめたように感じる。
毎日のように、夕日が沈まないうちに、
川沿いにつづく長い道を、野の花や植え込みの花、
川面の鳥たちやこうもりをながめながら、
ゆっくりゆっくり散歩する。
ちいさいころのじぶんを連れて。
そんなことを続けていたら、3月のある日、
その子が「おはなのおけいこにいきたい」といいだした。
「じょうずになって、がいこくのひとにもおしえたい」。
これだ!
はじめて、ほんとうにやりたいことをみつけた。
復元を始めて以来、スケッチブックには、
「花界」と名づけた水彩画を何枚も描いていた。
あるいは、創作書体にも似た姿の、
葉の精のような、未来の生きものを。
禅書は使い捨て感覚というけれど、
あのとき、選んでくださった〈・・・〉の文字が、
きっと、わたしをそこへ導いてくれたんだ。
細くやわらかな筆の〈・・・〉の、玄妙な、はなやぎも。
花は自然のままで美しい。
しかし、この日本には、
ひとの手でその花を活けることによって、
さらに精神性と輝きを増す、伝統的な技法がある。
わたしは日本を選んで生まれてきた。
だからそのしるしを、地球の外に去るときに
たずさえていきたいとも思った。
もっと現実的にいえば、
全自我に復帰できたときに、
親の檻に由来する分野、とは無関係な分野で、
じぶんを表現する技術を身につけていたかった。
そのためには、希釈自我であるうちに
修練を始めてもいいのではないか、と思った。
通いやすい場所にあって、
曜日の融通がききそうな、男性の師匠の教室。
そんなゆるい条件で検索して出あったのは、
驚くほどその肌に若やかな艶を保った、
父親と同じ・・歳の華道家だった。
その人は、初代家元の直弟子だ。
2回の体験レッスンを終えるなり、入門をきめた。
これからは、わたしには、
三次元のスケッチブックだってあるんだ!
「もうわたしも歳なので、あまりいただかなくても」
というわけで、お月謝もリーズナブルだ。
そして入門のお祝いに、と、
上等の花鋏と剣山と大きな黒い花器をくださった。
もう「なりたいじぶんがない」なんて二度と言わない。
わたしは復元作業を続けながら、
この師匠のもとで学び、じぶんを育てなおすことにした。
そうきめることができたのは、
まちがいなく復元方法の改変のおかげである。
もとをただせば、わたしは、
「おとなになったら何になりたいか?」という質問が、
ことのほか苦手だった。
幼稚園でこう答えたのをはっきり覚えている。
4歳のときには「みどりのおばさんになりたい」。
それは、自分の順番がきたとき、まだまわりの子が言っていない、
女性の仕事のことを、思いつきで、ちょっと得意顔で言っただけだった。
なにかに「なる」ことは、そのあとだって、ずっとわかっていなかった。
なにかに「なる」ことを考えようとすると、
きまって、それを阻止するような毒母の声が耳元できこえた。
「・・・さん!」ーーその場にいない母の声にいつもおびえた。
とはいえ「みどりのおばさん」のころはまだよかった。
親の所有物として、この分野に人生を捧げようなどとは
まだ考えていなかったのだから。
私が親から強要されて進んだ分野は、
そもそも望んだことではないのだから、楽しくなかった。
だから、他人とくらべて、じぶんがどうすぐれているか、
そればかりを考え、幼稚園でも自慢話をしたがる子になった。
まわりのだれかとじぶんを比較して、
他人のいいところをみつけようとするより、
じぶんの自慢めいたことをまず言ってしまう。
いまでもこの癖がのこっているのがわかる。
生まれてから幼稚園卒園までのアルバムを見た。
この5歳のころから無邪気な笑顔の写真が少なくなる。
母はわたしがかいた、たくさんの絵も、
アルバムにのこしてくれていた。
お絵かきのほうがずっと見込みがありそうではないか!
色づかいも線も勢いがあって、描写もどんどん細かくなって、
構図だってきまっている。
どうしてこの毒親どもは、
ありのままのわたしを見てくれなかったのか。
アルバムの1枚の絵に目が釘付けになった。
5歳のときに藁半紙の小さな切れ端にかいた、運動会の絵だ。
テントの下に体育座りしている子供たちがいる、
わたしはその子たちの台詞も書き込んでいた。
「たいくつだね」「うん」
・・歳になって、こんなわたしに出会うとは。
小さいころから
ひとの集まりに馴染めず、
いつもその埒外にいる感覚があった。
そして5歳のときには、もう人生は楽しいものではなかった。
アルバムの写真ではあんなにかわいくて、かしこそうな子だったのに、
◎分の1の自我を選んだために、こうなってしまった。
あの幼稚園に入る前から人生をやりなおしたい、と
自我復元を始める前から、ずっとずっと思っていた。
お散歩につれていくちいさな子は、そのころのわたしだ。
学校の先生に連れられて
校外で集団行動をするようなとき、わたしは、しばしばはぐれた。
はじめてひとりで小学校に行った日もそうだった。
入学したのは国立大学の附属小学校で、
片道50分かけて、バスを乗り換えて通うことになった。
入学式の翌日は、学校の近くに花見の名所があるために、
最寄りのバス停が、普段とはべつの場所に移動していた。
学校から帰るときは集団下校で、そのバス停まで、
だれかが誘導してくれていたはずだった。
ところが、わたしはその集団からはぐれた。
真新しい制服制帽に真新しいランドセルのいちねんせい。
そのわたしが完全に路頭に迷っていた。
ここがどこだかわからない。
バスにのれない。おうちにかえれない。
まわりにいるのは知らない人ばかり。
魔界に突き落とされたような恐怖が蘇る。
こわいよ、こわいよ……
一夜越しの禅書作成のとき、崩残さんが聞いた「こわいよ、こわいよ」の声は、
このときのわたしの声かもしれない。
そのわたしを、たまたま車で迎えにきた同級生のお父さんが救ってくれた。
途中の乗り換えのバス停まで、母が迎えに来る約束になっていることを伝えたが、
そのお父さんは、わたしの住所をきいて、
家まで車で送り届けてくれた。
しかし、家には誰もいなかった。
鍵をもたなかったわたしは、庭で母の帰りを待ち続けた。
母が帰ってきたときの感情があいまいだ。
なにしろ約束とちがう事態になったので、
なかば怒られていたのだろう。
が、なにが起きたかはきちんと説明できる子だった。
母はまず学校に連絡して、バス停までの誘導を
確実にするよう頼み、送ってくれた同級生の電話番号をきき、
お礼の電話をした。
その日の夕食、はじめての学校はどうだったかときく父に、
わたしはたくさんのことを話した。
しかしその横から、母がまるでうれしそうに、
「でも大失敗!」と口をはさんだのをはっきり覚えている。
行き違いはあったとしても、からかわれることはないだろう!
わたしは、こわくてこわくてたまらなかったのに。
どうして家では、こんなになさけない気持ちにさせられるの。
ちょっとの不注意で、ほかの子たちとちがって
学校からいちばん近いバス停までたどりつけなかったけど、
ちゃんと、おうちにかえってこれたじゃない。
どうしてそれが、だいしっぱい、なんだ。
叱るか、からかうばかりで、すぐ叩く両親。
それに・歳下の妹。
まともに話しあうことのない家庭だった。
いつでも毒親たちのいうことが正論であり結論だった。
毒母は女の子の話し方をきちんと教えず、
わたしはしばしば女の子らしくない言葉で、
2歳下の妹を罵倒し、痰壷にしていた。
わたしの気持ちと、わたしの言葉が、
まともに育つ家は、どこにもなかった。
まだ赤ちゃんだった妹をいじめて言った「あっちいけ」という言葉。
それだってきっと、両親のどちらかが、2歳までのわたしを、
じぶんたちから突き放したときの言葉のコピーだ。
目の前の妹が邪魔だ、という怒りの感情は
まちがいなくわたしのものだったけれども。
妹をいじめたその日の夕食は凍りついていた。
途方もない恐怖と悲しみを思い出した。
パンティをおろして、何度もわたしのおしりを叩く毒父。
じぶんの感情を出すことは、きっといけないことなんだ。
物心ついてもなお、稽古事のときに、わたしを躊躇なく叩きつづけた母は、
赤ちゃんだったわたしを、当然のように叩いていただろう。
こうして、怒りと悲しみと寂しさを、わたしは全身に溜めてきた。
それを身体で覚えている痛みとして認識できるようになったのは,
復元方法が改変されたあとのことだ。
どこか深いところから浮かび上がったその痛みに
声をかけて、しばらく寄り添って解放する。
この報告を書いているいまも、
身体のあちこちに、まるで炎症がおきているような不快感がある。
そのために、ひどく疲れやすくなっている。
朝寝も昼寝もしたいのは、きっと赤ちゃんのやり直しだ。
以前にも書いたが、6歳になってまもなく、
幼稚園の劇で、わたしは妖精役のひとりになった。
ところが母は、「自分の母親」に手紙を書くとき、
この妖精たちのリーダーの役に選ばれた、と
わざわざわたしに嘘を書かせた。
あれは、母親が、じぶんの母親に評価されたいから、
故意にわたしにそうさせたのだ。
じぶんの母親にほめられるようなことをしたがる毒母。
しかし、その母親はほめかたを知らない。
だからよけいに、毒母は母親のご機嫌取りをする。
毒母はじぶんの母親にも、夫=毒父にもそれをしてきた。
これをたっぷり受け継いだのがわたしなのだ。
わたしが成人したころ、家で犬を飼い始めた。
犬を躾けるときの母親の声に、いやな懐かしさがあった。
「いけません」「いけません」「いけません」
あれは、赤ちゃんのときからいつもきいてきた言葉だ。
母方の実家もそうだったが、
父方の実家でも、出される料理は悲惨な味だった。
父の父は・・・・会社の社長で大酒飲み。
あげく食道がんの大手術の末、わたしが生まれる前に亡くなった。
父の母は、息子2人と娘3人を育てあげたが、父はこの母親を徹底的に嫌っていた。
非常に陰湿な性格の持主だったらしく、わが毒母ですらつきあいには苦労していた。
ヘビのような目をした女性だった。
幼いわたしは、この祖母と折り紙をした。
でも、つるを折りたかったのに、やっこだこしかおしえてくれなくて、
楽しくなかったのを思い出す。
長男である父が実家を逃げたため、
そこにはいまも父の弟が、独身の一男一女と暮らしている。
この父方の祖母が産み育てた男2人の子4人のうち、
結婚できたのはわたしの妹ひとりである。
機能不全家族の連鎖の見本のようだ。
しかし残念ながら、うちには蹴りを入れる仏壇がない。
「わらわれるぞ」。
毒父がよくつかっていた、いやな言葉だ。
脳に自我を送るようになって思い出した。
地方の城下町で育った父は、おそらくこの言葉を、
両親のどちらかから、たびたび聞かされてきたのだろう。
でも、わらわれる、って、だれがわらうの。
わたしが失敗したりうまくいかなかったりしたとき、
家の外では、なにか教えてもらえることはあっても、
べつにだれも面と向かってわらったりしないよ?
わらわれる、って、毒父よ、おまえがじぶんで、
わたしのことをわらいたいだけじゃないの?
実際、わたしの不首尾を、この人は目の前であざわらう。
テストで、難しい漢字の読みを知らなかったときの誤答を、
わざわざ読みあげ、声をあげてわらうような人間だ。
以前にも書いたが、この毒父は、
なにか予想外の新しいことを、わたしが始めると冷やかし、からかう。
つい先日も案の定、お花の稽古で使った花を家に飾ったら、
わたしが小さかったときと同じように、からかってくれた。
また、親は私が危険なことをしようとすると叱咤し続けたために、
他人がしようとしていることに、わたしが危険を感じると、
その危険を、さも客観的なものであるように主張して、
なんとかそれを制止させようとする。
ときにはそのことで相手を責めたりもする。
他者に対する、高圧的なコントロールなのだが、
これをわたしはまったく無自覚にやっていた。
わたしは、生まれて50年あまりも、
毒父所有のお人形として生きてきた。
だから、この男にじぶんの名を呼び捨てにされるのが
とにかくおぞましく、嫌で嫌でたまらなかった。
毒父に反抗するなんて絶対に許されなかった。
受けいれられないことはいっぱいあった。
すると手を出すのだーー「はげまし」などと称して、
本で力まかせに背中を叩いたって、
目にみえて身体が壊れるわけじゃないからね。
そのかわり、いつまでも身体はそれを覚えているんだ。
家でずっとだいじに使ってきたラジオを、
わたしが野球の実況をききながら勉強をしていたからといって、
力まかせに床に投げつけたことだって忘れてない。
凶暴すぎる毒父が、怖くて泣いた。
それでも、この家庭こそが
社会でもっともまちがいのない場所だと
わたしは信じ込まされていた。こんなのカルトだ。
毒母は、夫のことをいまもなお「おとうさん」と呼ぶ。
毒父がこの家の絶対権力者だからだ。
こんな家で、親に従順に育ったわたしは、
小学生のころから、家の外に出ると、
大人の揚げ足取りに、はげんで満足をおぼえる
いやらしい子供になっていった。
教材の誤植を見つけると、嬉々として先生に報告する。
板書のまちがいをいそいそと指摘する。
先生に気に入られそうなことを実行する。
学校を出たあとは上司に対してそれをやる。
気に入らないことがあれば、面と向かって感情的に抵抗する。
場の空気を読むことなんてぜんぜん考えてやしない。
30代のときも40代のときも、
そんなことの繰り返しだった。
わたしは子供のままなのだ。
この毒父、とにかくなんでも力任せだ。
食事をするときでもうんうん唸り、
食卓に物を置くにもいちいち大きな音をたてる。
車を運転するときには全身を窮屈にこわばらせ、
ハンドルを握りしめ、がくがくとシフト操作をする。
いちいちそれがみっともない。
もちろんそれはわたしにも伝染した。
運動するには手足に力を入れるものだと擦り込まれて、
バレーボールのサーブは高校卒業までうまくできなかった。
速く泳ごうとしてまた手足を緊張させて疲れる。
楽器を速く弾こうとしてもちっとも指が回らない。
20歳をすぎても実家で暮らしていたわたしが、
化粧をしていて、薄く青系のアイシャドウをつけたら、
そんな水商売のような化粧をするなという。
バブルのころに流行っていた、
身体の線の出る服で肘掛け椅子に座っていたら、
挑発されていると勝手に勘違いした毒父に怒られた。
なんていやらしい目線で自分の娘をみるのか。
女性として成熟するのはあたりまえなのに。
子供のころも少女のころも、まともな大人に出逢い、
まともな生き方を教わる機会は極端に少なかった。
だから、わたしは年上の既婚者としか恋愛ができなかった。
そのひとりは「まるでお父さんのいない人のようだ」と
わたしのことをはっきり評した。
なぜそう見えるのか、問い返すのを忘れたけれど、
恋愛関係にあって、実の父とは異なる、
社会経験ゆたかな大人の男性の献身を求める癖は、
ずっとずっと続いてきた。
毒父は「わらわれ」ないために、母を結婚相手に選んだのだろう。
そして、実家に住む弟にさきに子供が産まれて、
「わらわれ」ないために親になったのだろう。
そして親になってみると、
子供が原因で「わらわれる」ことをおそれて、
娘のわたしを、もっとも「確実」と信じた分野の教育に縛りつけ、
自立できない人間に育てあげたのだ。
毒母もまた、泣かない人だった。
わたしの小学校の卒業式のときに、
泣いている同級生たちのことをあきれていたほどに。
実の母が死んでも泣かなかった毒母が泣いたのは、
仲のよかった・・歳下の妹が死んだときと、
わたしの結婚の破綻が決定的になったときだけだ。
「すべてを犠牲にしてやってきたのに!」
あのね、それがいけないんじゃない。
わたしは、どんなにかなしい音楽をきいても、
テレビのアニメがどんなにかなしい場面になっても
どんなにかなしい思いをしても、
泣くことをがまんする子になってしまった。
夕食のときにテレビをみていて、いちばん泣きたいときに、
「お醤油とって」とか、いうように。
高校時代の友人も、心配してわたしに言ってくれた。
進路のことは、ちゃんと親と話しあったほうがいいよ、と。
しかし、話しあうということが成立しない家庭だった。
美大に進みたいというわたしの思いは、
毒両親にはどうしても通じることがなかった。
「美術の先生にそれをすすめられたのか!」
ひたすら毒母に罵倒されるだけだった。
そういう思いを抱くことも非難され、否定された。
なにしろ「金をドブに捨てたつもりで」
わたしを今の仕事に縛りつけてきたのだから。
絶望した。
もう生きている意味はないと思った。
つぎの日の早朝に、近くの踏切に横たわることを考えた。
が、その朝は、不覚にも、昼近くまで目覚めることはなかった。
もう、こうなったら親のなすがままの路線で
どこまで行けるかやるしかない、と思った。
不幸にして、かなりの難関であるその専攻に
合格するだけの学力はあった。
しかし、入学後のことはなにも考えていなかった。
大学はそれなりにおもしろかったけれども、
本物の知性と才能を育ててきた仲間たちには、まったくかなわない。
それはわたしにもわかる。
教師にも、じぶんの核がないことを見抜かれていた。
もうこの世界ではやっていけない。
毎日ひどい恐怖感に苦しんだ。
家の自室で毎晩ウイスキーをがぶ飲みして吐いた。
4月には大学の最終学年になり、
将来の進路を考えないわけにはいかず、
また免許を得るための厄介な行事も続いた。
そんななかで、わたしの内分泌系が悲鳴をあげた。
わたしがわたしを破壊した。
わたしの身体が、体内の化学的な平衡を犠牲にして、
毒親どもに叫んだのだ。
長年聞き届けられなかったことを。
わたしのことを見て!
その年の夏は、毒親の目が届く部屋に布団を敷いて静養した。
しかしそのために就職活動ができなくなってしまった。
当時の就職活動は、最終学年の夏以降のことだった。
休学を勧めてくれる向きもあったが、一浪していたので、
もはやそうするわけにもいかないと思った。
やむなく病床で、9月末の大学院入試の受験勉強を始めた。
ほかの選択肢を考えることはできなかった。
9月のはじめ、入試まであと3週間というころ、
それまで経験したことのない、ひどい鬱状態に見舞われた。
ひとりでに涙があふれ、死ぬことばかりを考える。
死ぬことを考えるのは、小学生のときにはじまって、
中学生のときにも高校生のときにもよくあることだった。
しかし、身体からの声として生きることを拒否する感覚が、
あれほどにも強かったことは、あとにもさきにもなかった。
それは、ほんとうのじぶんからの警告だったと思う。
受験勉強を続けて、大学院に進んだとしても、
それではけっして望むようには生きられない、と。
しかし、あのころのじぶんには、立ち止まる余裕がなかった。
数日のうちに抗鬱剤が効いたため、また勉強を再開し、
試験の本番を無難に乗り切って合格してしまった。
これでますます毒親どもの望み通りだ。
ある年から、大きな変化がやってきたが、それには明確な理由がある。
実家住まいでありながら、毒母の作る食事を拒否して、
自分で料理をするようになったからだ。
毒父の機嫌をとるために、
高価な牛肉を買ってきてそれを炒めるか、
あるいは天ぷらなどの揚物に走るしかない毒母の料理は、
どうにも堪えがたいものだった。
あの病気がもっとも重かったときの、
全身が燃えさかるような不穏な状態を、
身体がはっきり覚えている。
それがトラウマがあぶりだされるときの
不快な身体感覚とよく似ていることが、
最近になってやっとわかった。
社会に出てみると、わたしはますます困ったひとになっていた。
親の檻での流儀しか知らず、
対人能力を磨く機会が著しく欠けているのだから。
じぶんに固有の問題があることは、このころには明らかだった。
だが、なにをどうすればいいか、ずっとわからなかった。
もう・・歳になるけれど、自我復元の方法が発見されたことには、
どんなに感謝してもたりないと思っている。
自我復元を知らなければ、このころのじぶんとおなじように、
生涯じぶんをごまかしたまま死んでいって、
また地上で、現状以下の生を繰り返したであろうから。
今年2月のバートナーとの別れのあとには、
しばらく否認の時期を過ごすしかなかった。
なんの後悔もなかった、といえば嘘になる。
かれは、わたしとは対照的な生育歴の持主だった。
3歳で両親が離婚したとき、
じぶんの意志でそのどちらにもついていかず、
生家の使用人たちに育てられてきた。
それで自己肯定感でいっぱいなのかといえば、
つきあってみると、どうもそうではないらしい。
自らの才能には、誇大なまでの自信を抱き、
創作によっては途方もないひろがりを誇っているにもかかわらず、
社会人としては、相当の生きにくさを感じていたらしく、
じぶんの財産を失う何年も前から、
抗鬱剤と、途方もない量の睡眠薬を常用してきた。
かれの場合は、親がいないから、じぶんを見てくれなかった。
わたしの場合は、親がいたのに、じぶんを見てくれなかった。
双方が「見捨てられ不安」を抱えていた。
しかし、両者の性質のちがいから生じる距離を埋めるのは、
今年の2月までのじぶんの自我率では手にあまることだった。
かれは、じぶんが満たされていないと感じているときでも
無条件でじぶんを受け止めてくれる存在を求めていた。
批判されたり責められたりするのはもってのほかだ。
わたしに求められたのは、かれがなにをしようと、けっして叱ったりせず、
やさしく見守る、理想の母親役だった。
世に毒親なるものが存在することを、かれは知らなかった。
離別した両親を、慈悲深い神のように崇めていて、
母親の再婚相手だったDV男の恐怖を覚えていても、
じぶんには、なんのトラウマもないと信じていた。
ところが、わたしは、正真正銘の毒親しか知らない。
そんなわたしが求めたのはむしろ、
じぶんが満たされている、と感じているときに、
それをふくらませて、もっと幸せにしてくれる存在だった。
楽しかった子供時代も、
じぶんで人生をきめる権利も、
自立できる知性を育てる機会も、
わたしは毒親たちに奪われてきた。
そのうえ子供のころから、
大事にしてきたもの、大好きだったものが
毒母の「あれ、捨てた」の一言で、
永遠に消え去っていることもしばしばだった。
だから、目の前にいるパートナーが、
じぶんのあずかりしらぬうちに、
じぶんにかかわるなにかを奪い去ることを、
わたしは潜在的にとてもおそれていた。
いま、わたしが、わたしを育てなおしているように、
わたし自身がわたしの母親となり、
そのまなざしをかれにも向けつづけることができたなら、
かれの理想の母親役も、同時につとめられたかもしれない。
しかし、わたしはまだ、
じぶんのトラウマと戦っているさなかなのだ。
のみならずそのトラウマを、かれの天真爛漫な言動が
しばしば炙り出してくれる。これが苦しすぎた。
そのうえ、じぶんが親にされたのとおなじことを、
どれだけ無意識に他者に向けてしまっているのか、
認識する力がまだ十分ではなかった。
そしてなによりも、じぶんの軸がなかった。
見解の相違が生じると、そのたびに、それだけで、
かれは、わたしに責められていると感じていたらしい。
そんなときのかれのメールの文面も、
かなり攻撃的に感じられもしたけれども、
たしかに、わたしの言葉が、いらぬ棘を含みすぎることには無自覚だった。
わたしがかれに怒りの感情を抱くときには、
その都度、それなりの具体的な理由があった。
しかし、わたしはその怒りの感情を、いつのまにか、
相手をコントロールする手段として使うようになっていた。
かつて家で、両親がわたしを支配していたときのように。
また同居する両親に不満を述べるときのように。
実際にはそれによって、いまも親の支配を継続させているのに。
このために、小さいころのわたしが毒親に抱いていたのと
同質の恐怖を、かれは感じていたのだと思う。
だから謝るべきはこちらなのに、
かれはひたすら私に平謝りし、発言を撤回し、
こちらからみれば必要以上に譲歩することで、
なんとか関係を保とうとしていた。
2月下旬、復元方法の改変が桜の間に公開された翌日に、
わたしはかれのアパートにおいていた
調理器具などをすべてひきあげた。
二隻の船が静かに方向をたがえるような別れだった。
見捨てるのは本意ではなかった。
だがこれも、共依存の癖からくる発想だと思う。
かれとの関係は、その彼の理想の母親像の前提となる
無償の愛、とは正反対の状況から始まっていた。
関係を結んだ当時、生まれたままの1/4自我で、
じぶんを育てなおすなど及びもつかなかったわたしには、
できることとできないことの区別もつかなかった。
そんな現実をつきつけられたのが、とても悔しい。
・変化。
・つい最近のことだが、「あなたと話していると安心できる」と
生まれてはじめていわれた。
・寒さに強くなるといわれるのはその通りで、この冬は一度も風邪を
ひかなかった。花粉症はもともとなく、今年も症状は出ていない。
>>■9-次の二点について、具体的に書けましたらご解答ください。
>>これは、モチベーションの部分の分析の為です。
>>a-ご自分の最も嫌いな点
過去のじぶんの行動や思考の癖にしばしばひきずられていること。
まだまだ感情が乏しいと思えること。
物事の理解が浅いこと。
>>b-ご自分の最も評価できる点。
いまはぼろぼろでも、本来のじぶんを取り戻すことをあきらめず、
そのために行動していること。
>>■14-自我復元をしようと思った、最大の理由は何ですか??
長年にわたって思うがままに生きられず、
じぶんがちいさくて薄っぺらで、
また、どす黒い汚れをためこんでいるように感じられることに、
どうしてもたえられなくなったから。
昨年9月に自我復元を始めたときにも、ほんの2ヶ月前ですらも、
花に、じぶんからちかづいていくなど、考えられないことでした。
しかもその新しいものにちかづくための行動の速さが、
それまでのわたしにはなかったものでした。
復元方法の改変が、わたしのなかの動きを加速させているのか、
じぶんのなかにあったなにか固いものがすとんとぬけおちて、
ずいぶん軽やかになったように感じています。
この季節の清々しい光のせいでしょうか。
自我判定、どうぞよろしくお願いいたします。
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