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「分割自我復元」
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[206]
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★分割自我復元★その206■ 希釈自我が原因で、引きずる前世の癖 ■
by:
鈴木崩残
2013/05/07(Tue)09:21:19
>5/8−0:30更新。本文を少し加筆しました。
_______________________________
前世を終えた時の選択が原因で、
希釈自我の状態で望んだ事項に、
不備があった場合の契約修正法。
●これは少し、面倒な話題になりますが、3人の事例をあげます。
まずはじめに言っておきますと、
今回の生で、30歳になってもまだ、自分のなりたい何かになれていない、
という場合には、基本的に、契約した時の皆さんの状態に、
重篤なエラーがあると見ていいです。
●ただし、30歳になって、
なりたい自分になれている方は、やりたい事が出来ている方は、
これには該当しません。
それは、予定したとおりの人生をやっている証拠だからです。
そういう人も、自我復元者の中にはおります。
●しかし、30、40、50にまでなって、
なりたい自分になれていないとしたら、
それは、原因のひとつは、むろん自我が希釈されていたことですが、
もう一つ、要因となるのが、前世から引きずった思い込みです。
この前世の問題については、前世があるのかないのかについては、
私は、「分割自我復元」のDVDの中でも、
記憶というものは「レンタルされていたり合成できる」と言いました。
ただし、合成できたとしても、
いくつかの既製品の記憶を複数なり単数なり、
「選んだ」のは、あなた本人です。
自分が実際には経験しなかった、他人の記憶だからといっても、
自分で「選び取った」のですから、
それに対する責任、それを生きて、コンテンツを変化させる責任は、
本人自身にあります。
まず、この責任問題があることを「大前提」として踏まえて、
この先の話を進めます。
*********
前世でやり残したこと、または悔恨を残したこと、
または、死に際で、「次は、こういうのは嫌だ」とか「ああいうのがいい」
と望む局面に及んで、
どうしてそう望んだのか、という理由を探るには、
実は、今回の生の中にあるトラウマなどだけでは説明がつかない、
整合性の取れない事例が出てきます。
沢山の人が、実は、この前世の「経験の記憶」を原因として、
その後の死後に、中間状態で、今回の生のアウトラインと契約したのですが、
そのときに、余計な契約をしてしまっている例を挙げます。
私から見ていて、それは、沢山、何人もいますが、
今回は、とりあえず、三人の方の事例に留めておきます。
いずれも、契約事項の一部で、失敗をしています。
だから、30歳を超えても、決めたことが実現できていないのです。
この人たちの特徴は、意志と目的の「ブレが多すぎること」です。
これを修復する具体的な方法は、
現在、1人の方に、私からテストをするようにお願いしていますが、
もしもそれが上手くいけば、公開します。
ある程度の自我率になれば、その書き換えが可能なのか、
それとも、全自我にならないと書き換えられないのかは、
その方からの今後の報告がないと、まだ分かりません。
*********
●それにしても、「自我復元法」というのは、
気がついてみれば、精神世界の主要素のオンパレードです。
復元法そのものに、「体外離脱の側面」や「明晰夢」の部分を、少し含んでおり、
トラウマ問題の発掘プロセスという「カウンセリング要素」があり、
ついには、「前世」まで探らないとならなくなる、
さらに、「身体機能で改善される面」まで効果として装備されており、
ごくごく最近の報告では、長年の花粉症が「改善」ではなくて、
「完治」した方からの報告すらありました。
●そして、復元が終わったら、ようやく精神世界が、
それまでの不満タラタラの人生の反動としてではなく、
「正常な、娯楽性を帯びてくる」、という点で、
自我復元には、他では、何十万円も支払っても得られなかったような、
「美味しいところ(味)」が満載されているようです。
ここまで、たったひとつの、ごく単純なシステムの中に、
フルコースの料理が詰まっていると、
他の精神世界の分野や宗教が、効率が悪すぎて馬鹿馬鹿しく思えてきます。
●もしも私が分割された自我で生まれて、この方法が当時あったらば、
20代のころには、私は、自我復元以外には、
何も興味を持たなかったと思います。
そして、まずは、全自我に「復元してから」、その後に、
はじめて、魔術や、OOBEや、瞑想や、気功や、
その他の精神世界の領域に、自分に必要なものだけを正しく選び取り、
手を出したり、足を突っ込んだと思います。
・・・というのは、少々自画自賛過ぎなので、
調子に乗るのは、ここら辺までにしておきます。
_____________________________
>・更新情報・
>ひとつ前の投稿↓、の後半に、「瞑想用の動画」を貼り付けておきました。
誕生契約ミス第一例
●自我率が97%以上になっている方からメールを戴きました。
>>(2)前回メールでアドバイスいただいた
>>「どのような人間になりたいのか?」に関することです。
>>色々自分像についても書いていたのですが、今行き着いているのが
>>「思いやりのある人間」という単純なものです。
>>もっと適当な言葉を探しているのですが、
>>今の自分のボキャブラリーの範囲ではこれが妥当かと思っています。
>>それじゃあ私は思いやりということを的確に定義できるか?
>>と自分に問いかければ、なんと、答えられませんでした。
>>出てくる答えといえば、お節介のような愛情の押し売りと、
>>妥協するときの言い訳に使う臭気の漂う「優しさもどき」でした。
>>もしも、地球でも宇宙でも立派に通用するような「思いやり」
>>というものがあるのだったら、私はそのような人間になりたいし、
>>そのような存在になりたい。
>>今は思いやりとはなんだろうか?
>>地域、文化、種族によっても違ってくるのだろうか?と考えながら
>>未来図を描いています。
●ご本人は、冷静に、自己観察しつつ書いている「つもり」なのですが、
私は、相当の「違和感」を感じました。
むろん、そもそも「優しさ」「思いやり」を上手く定義できないことは
ご本人も分かっているようですが、
でしたらば、わからないものを、どうして、目指したい、などと
言ってしまうのか、私にはさっぱり分かりません。
●そもそもの、間違いは、
「思いやり」とか「優しさ」を、「自分は持った人間になった」と、
「誰」が、そのような評価をするのでしょうか?
言うでもなく、この方、本人です。
だとしたら、それはこの上もなく醜い偽善または妄想です。
そもそも、「優しさ」とか「思いやり」というものは、
「なろう」としてなれるものではありません。
和尚が昔
「恋、というのは、”する”ものじゃない。
する?なんて、どうして可能なんだ? 恋は落ちるもの、
恋や愛は、”起きるもの”であって、”する”ものじゃない」
といった趣旨のことを言い続けた時期があったはずです。
これには、私も80%ぐらいは同意します。
●同じく、優しいとか、思いやるとか、そういうものは、
「結果」として生ずるものです。
では、それは何の結果に生ずるのかといえば、
多くの人から傷つけられ、多くの人を傷つけ、
多くの人から助けられ、多くの人を助けたという、
そういう、ダイナミックな経験の中から、
自然に、ある局面で「優しさ」と他人には見えるような行動をするだけです。
ここで、注意が必要なのは、それを評するのは「他者」であって、
本人が、自分で自分を「優しい」「思いやりがある」などと
思っていたら、大きな間違いであるということです。
もしも、本当にそうならば、本人は、他人から、優しいとか、
思いやりがある、と言われても、全く他人事のように、ピンときません。
本人は、そうしたいからしたのであって、
他人のことは、配慮をしたかもしれませんが、
配慮と優しさは違います。
どうやったら、事故った原発が再臨界をしないようにすべきかを
「配慮」するのは、何も原発に対する思いやりからではありません。
「すべきことをしているだけ」です。
単にすべきだと自分が確信したことをしているだけで、
そこには、「それをしている自分は、思いやりがある人間になってきたようだ」
だのという、自己評価は起き得ません。
●だとしたら、そもそも、この人の言っている「思いやりのある人間」に、
「なろうとする」ことなど、全く目的としては無意味なのです。
無意味どころか、馬鹿げていますし、醜悪ですらあります。
●なぜならば、どこの誰が一体、「思いやり度」の点数を自らに与えるのでしょうか?
それが、もしも周囲の人々の評価をもってして、それを判断するのでしたら、
その人は、97%の自我になっても、またも、他人の評価に、
自分を売るのでしょうか?
しかも、その他者は、この人を正しく評価など出来ないと思います。
誤解をして、優しい人だと思いこむに違いありません。
だとしたら、この人が、なりたい人間といっている、
その「優しさ度」「思いやり度」は、誰が点数をつけたり、
これで良いとか、悪いというかといえば、この人の自己満足にすぎません。
そもそも、客観的に人に優しい事をしているように見える人は、
自分自身を優しいとは、全く思いません。
そんなことには、全く無関心です。
***
●「余談」
となりますが、自分が他人からどう見られるかに本当に、
無頓着な人は、自分のことを、
「私は、良い人ではありません」、などとすらも言いません。
それでも、あえて、そういうとしたら、
その理由は、大雑把に推測しても、3つあります。
1/たびたび、あちこちで、良い人であると誤解されてしまい、
それによって「迷惑した経験」が多くある。
2/「私は、良い人じゃありませんよ」と言うと、
他人から「この人は正直な人だ」と思われて、得することがある。
または、トークの掴みでのウケ狙い、または打算です。
3/悪人の面もありますよ、と言いつつ、
実は、かなり、良い人に見られたがっている。
しかし、打算のない人は、自分の「人間性」については、
あまり多くを言いません。
***
●しかし、この現在、97%の自我率の方の場合には、
「優しさ」や「思いやり」を「人生の目的としたい」と豪語するぐらいに、
「関心がある」ようです。
●しかし、優しさというのは、それを「誰が感じる心情」なのでしょうか?
それは、あくまでも、優しさを「受けたと感じた人が感じるもの」であり、
自分が、自分のことを「思いやりがある」などと思ったら、
それは、100%、他者を自分の自己満足のために、悪用しているに過ぎません。
●私個人は、自分に優しさがあるなどとは思ったことはただの一度もなく、
すべては「どう、解決するのが良いか」という「処理に関する思考」であり、
心情的な、優しさなど、自分にフィードバックして感じたことは、
ただの一度もありません。
それを感じるのが恥ずかしいどころか、
そもそも、そのような感覚は、あり得ない傲慢と嘘なので、
そんなことは口に出来ません。
●他人様から「崩残さん、優しいですね」と言われる場合、
その人のその感情は、その人に生じた率直な感覚なのですから、
全く否定しませんし、尊重しますが、
ただし、私がそれに同意したり、
それを「私が喜ぶ」必要など、何もありません。
喜ぶとしたら、相手の人が、「心地よく感じてくれたこと」のみに対してであり、
私自身は、思いやりがあるなどと、全く思いません。
●優しさの自覚、そして定義、などいうものは、幻想であるのに、
この報告をした人は、
「心情的に自分が自分に感じる、思いやりあるぞの自己満足感」の幻想を、
「目的」として、しまっているのです。
もしもこの世界にそうしたものが存在するとしたら、
それは、人間が「自分で悦に浸る」ような、思いやりではなくて、
ただの「判断能力」のみです。
日本語ではこれを「気遣い」と言います。優しさとは呼びません。
また、それは、時には、全く優しくない態度を、他人に取るということを
当然の作業として、受け入れるだけの器を必要とします。
●ですから、
この方は、もう一度、よくトラウマを掘ったほうがいいと思います。
誰かに「お前は、優しくない」ということを言われ、
自己否定されただけだと私は思います。
すなわち、スケッチブックまで書いて出した、この人の出した結論は、
それも「毒親の希望した、適当な理想」にすぎないということです。
***
●大切なことを言い忘れました。
もしも自分のことを「思いやっていてやさしい」などと自覚する人が
いたとしたら、その人は、明らかに、
自分の中で、したくないことを「我慢」している、
という、自己犠牲の自覚を含み、それによって、
「自分よりも、相手を大切にしているんだ」と意識し、
それによって「自分は優しい」と思っているわけです。
この構造が理解できるでしょうか?
「自分よりも相手を大切にしている」と口にした瞬間に、
「自分の本心のところは、多少犠牲にして、相手の為に我慢している」
「これは、私の思いやりの気持ちだ」などと、なってしまうのです。
●一方で、自分を犠牲にしない場合には、
「自分よりも相手が大切」などという言葉も認識も出てきません。
逆に、自分のわがままな「愛でる気持ち」や「相手にしたいこと」を
相手が受け入れてくれていることに「感謝」こそすれ、
自己犠牲の上になりたつ「自分よりも相手」という思考など存在しません。
ただ、そうしたいから相手にする。その自分勝手な気持ちを、
「相手が、自分の気持ちを拒否しないでいてくれたことに、
感謝が起きる」のみです。
●誰もがもっと、わかりやすい説明を試みてます。
たとえば、あなたが、もっとも愛する人間、ペット、子供、なんでもいいですが、
その相手のためならば、喜んで命を投げ出すとしたら、
このとき、それは「自己犠牲」ではありません。
進んで、それを喜びとする行為には「犠牲」など成立しません。
犠牲が成立するのは、唯一、自分と相手を天秤にかけて、
自分を捨てることに「躊躇や打算がある場合」のみです。
その場合には、それは「自分」がまずあり、
「しかし、今は、自分よりも相手のことだ」という、
苦渋の犠牲的な選択をしたことになります。
●しかし、本気で、自ら喜んで、何かに命を投げ出した者のことを、
私たちは、一度でも、投げ出したその対象に対して「優しかった」などと
言ったためしはありません。
自分の子供やペットと、命を引き換えに出来るならば、
喜んで自らを捧げる母親や人間はいます。
彼らは、子供や動物に優しかったのでしょうか?
いいえ、優しいのではなく、「単に愛でていた」のみです。
「天皇陛下万歳」と、本心から本気で言って死んでいった人間は、
「天皇陛下に対して、優しかったり、思いやりがあった」のでしょうか?
そんな解釈は全く成立しません。
むしろ、死ねることをその人は、光栄にすら思ったはずです。
相手が何であれ、本人が自己を捨てることに「満足する死」は、
断じて犠牲とは呼びません。
●しかし自分が「思いやり」や「優しさ」を持っているか否か、
などという「自覚」は、そこに、
「自分の方が、犠牲になっている、
少し損をしていることを、自分は我慢している」
という意識がなければ、生じないのです。
***
●だから、この方は、このまま死んで、次の契約で、
もしも、「思いやりのある人間になりたい」などと契約したら、
もう、完全に「おしまい」でしょう。
具体性が全く何もないばかりか、
本人が、その言葉の「定義」を全く出来ていません。
*********
誕生契約ミス第二例
●次は、とてもシンプルな契約ミスです。
>>だんだんと 自分自身がひどい人間のようにおもう。
>>だれも、助けないし、助けたくない
>>他人が死のうがどうなろうが関係ない、関わりたくない
>>天使のように、弱い人 困っている人を見つけても、
>>手を差し伸べることができなくなった
(「弱い天使」などは、存在しませんので、この文脈は、
天使のように手を差し伸べることが出来なくなった、と解せます。)
●この方の生前契約は、シンプルです。
困っている人、弱い人を見つけたら、
「天使のように、手を差し伸べることをしたい」です。
これを「目的」として、うっかりミスで、書いてしまったのです。
「おいおい」です。
なぜならば、
殺人鬼が、弱って、困っていたらどうするのか?
むろん医療現場にいれば、先日の動画の「染森氏」みたいに、
医療に携わる人間の立場にいれば、「相手を差別しない」という姿勢。
これは、社会ルールの中では通用しまか。
しかし、1人の人間の自分として、「医療現場を離れたらば」、
「困っている」「弱っている」人の中には、
彼ら自身の責任によって、そうなっている人もいるのであり、
誰でも、助ければいいというものではないという、
あたり前の「現実」に直面します。
しかし、「どういう種類」の、
「弱って、困っている人の場合は、天使のように助けたい」
という「肝心の条件」を、何も書かなかったのが、この方です。
せめて、
「正直で、誠実に生きているのに、困っている人だけは、助けたいです」
ぐらいに最低限書いておけばいいのに、肝心の条件部分は「空欄」です。
●その結果どうなったかといえば、
結婚して、幸せな家庭を持つことを望んだものの、
結婚して一年しないうちに、ご主人が事故で障害を持つ事となり、
旦那さんは働かず、家の各部屋は、旦那さんの玩具とゴミで、
何も捨てられないゴミ屋敷となり、
働けないというわりには、暴力的に、この奥さんにセックスさせろと強要し、
何か苦情を言うと、
「俺は一家の長だ、主人とは一家の殿様だ」と言う始末。
でも、この女性は、そう「契約してしまった」んですよ。
対象となる相手に、何も条件もつけずに、
「困っている人、弱い人を、天使のように助けたい」と。
●おそらくは、前世に、
よくありがちな、キリスト教的な教育を受け、それに感化されての
今回の生の契約内容となったと思います。
この契約は、「ただし、どんな人には、天使づらは、しませんよ」という
条件に書き換えないと、
この方は、一生、わがまま放題の旦那さんの面倒を見るだけで、
この女性自身の人生を、完全に破壊することになります。
そんな、悲劇的な、何も解決しない不毛な自己犠牲では、
結局は、ご主人すらも、何も助からないのです。
*********
誕生契約ミス第三例
●次の事例は、まず、私が推測した、
この方の前世の「与太話としての物語」からはじめましょう。
*********
面白いもので、人間というのは、
自分と価値観や性質の違う者を「嫌う」ことは多々ありますが、
「憎しみ」までもが、そこに混入するケースのほとんどは、
「自分自身の自己嫌悪の対象の類似品(恥部)を、そこに見たくない」、
という場合のみです。
この事例から漏れるものは、ほとんどありませんでした。
つまり、「嫌う」と、「憎む」は、次元が違ってきます。
*********
★時代は、不明だが、少なくとも400年前以上。
場所は、ヨーロッパのどこか。
あなたは、貴族階級の「男子」で、
それこそ、何の苦労もなく、家系の財産で食い、勉学も、芸術鑑賞も、
その時代としては、好き放題に出来ていた。
一方で、貧富の差、差別は激しく、
あなたは、一般庶民など、下品な小汚い者たち、と馬鹿にしていたかもしれない。
性格としては、かなり傲慢な類にはいる、
いわゆる、「嫌な奴」であるが、
それは、苦労知らずが当たり前である、その日常生活の「環境」から来るものも多く、
一方では、正直さ、気さくな面も多くあった。
そんなある日、あなたの身内か、あるいは、あなた自身が、病に倒れた。
宮廷内のお抱えの医師が手を尽くしたが、誰もが治療を断念した。
そんなときに、貧困な町中から、優秀な町医者を探すように命じられていた従者が、
手を尽くした結果、一人の医師を、宮廷に連れてきた。
その医師はまだ若い男性だった。
おそらく当時のあなたよりも少し若いだろう。
その男性は、助手として、妹か妻か分からないが、女性を従えていた。
あなたは、最初、彼らのことを鼻で笑った。
「こんな、薄汚い、しかも私よりも若造に何が出来る?
一流の宮廷のお抱えの医者に、何も出来なかったんだぞ」
「おい、貴様、そんな汚い手で、病人に触るな」と、
大層に、横柄な態度を取ったにちがいない。
●ところが、そんなことを意に返さず、
その若い男性の医師は、手際よく、宮廷内の病人の処置をし、
のちに、ほどなくして、その病人は完治した。
そして、あなたの目に残った、その青年と女性は、
この上もなく、品格を持ち、知性的にすら見えた。
*********
そして、ここからが問題の根です。
あなたは、非常に大きなショックを受けた。
宮廷の中で育った自分が、到底「得がたい技術」、
到底「かなわない品格」、
どうあがいても、勝つことの出来ない、実力と知性を
彼らが持っていたことを、目の当たりにして、
貴方の中には、この上もない「劣等感」が生まれた。
それは心の傷となった。
小馬鹿にしていたはずの、無学で無力な庶民だ、
と思っていた者たちの中にいた、その若い医師が、
教養を見につけたはずの自分よりも、遥かに、人として優れていたことに。
自分が見下げていた中に、自分が到底かなわない人々がいたこと、
これが、のちに、その宮廷内での貴方の人生を一辺させた。
結果として、あなたは、宮廷を出て、町に行って、
その生活に馴染もうとしたのだが、早々に、倒れて死んだ。
死因の間接的な原因となったのは、おそらくは食中毒だろう。
そして、死に際にあなたは、考えた。
正しく言うと、死に際だけではなく、
その生前からも考えていたことであるが、
その内容は、以下の通り。
*********
資産も、力も、何もないところから、
底辺から、這い上がってこそ、本物の技術は身につくんだ。
私は、あの青年に嫉妬している。
嫉妬もしているが、同時に憧れている。
生活に何も不自由しなかった私は、
そのせいで、大切な何かを学べなかった。
私の人生全体が、完全に、あの青年に負けた。
だから、私は、この自己嫌悪を解消するためには、
私自身が、「彼と同じ環境から」スタートすべきだ。
*********
●客観的に見れば、
これは、正しい考え方と言えるかは疑問であり、
苦労知らずのボンボンの若者なりの、精一杯の、一種の強迫観念であった。
「・・・を、せねばならないのだ」と、意気込んでいる。
しかし、彼を動かしていたのは、
「医療技術は、何と素晴らしいのだ」という思考ではなく、
「人として、恵まれていた、自分のだらしない生活では、
彼には、人として勝てなかった。」
そう思い込んだが故に、
「より、過酷な環境の方が、私は好みだ」
「そうだ、彼と同じ、貧困の中から這い上がってやる」
と、「他人の真似」をしようとしたわけである。
これとよく似た心理は、昭和の根性モノのアニメを見た子供が、
「厳しい境遇にあこがれる」という心理である。
「みなしご」
「豪華なボクシングジムよりも、涙橋の下のジム」
「巨人の星」しかり、「タイガーマスク」しかり、
その他、不遇の環境の中から、這い上がるという、
サクセスストーリーが、どこでも好まれるものであり、
特に、子供は、
「自分が、むしろ、橋の下に捨てられていた子供であったほうが、
かっこいい」とすら思ってしまう。
むろん、同じアニメを、終戦後、食べることに困った世代が見たら、
決して、心地良いものではない。
毎日、イモばかり食べていた人たちが、
「毎日、ご飯と、納豆と味噌汁だけで、野球で這い上がる」
などというストーリーを笑って見られるわけはない。
しかし、それよりも少しのちの昭和の時代、
ある程度、生活が安定してきた平和な時代の子供たち、
つまりは、苦労知らずの子供から見れば、
「過酷な境遇で、本物や、ヒーローは育つ」とすり込まれており、
現実としてもそうした面も確かにあるので、
「恵まれない環境」に憧れさえするもである。
*********
これほどに文明的に洗脳されたものではないが、
かつて、この人が宮廷にいたときに感じて、
コンプレックスを持ったのは同質のものであり、
それ故に、
「本人が努力で得たものしか、評価しない」
「苦労しらずは、馬鹿だ」という観念(信念)が形成され、
よって、
「ならば、そうしなさい」という契約に基づいて、
生まれたのが、今回の生。
すなわち、人生の幼い頃から、生活に苦労が出て、
望みどおりに、あの憧れの青年医者と同じスタートに立った。
******************
むろん、この前世物語は、単なる「断片的な映像からの推論」であるが、
この人の中には、自らの美学とするものの中に、
「他人の真似」というものが混ざりこんでいます。
たとえば、何もボクサーとは、矢吹ジョーのように、橋の下のジムで
トレーニングをする「必要」などなく、
恵まれた環境のジムや生い立ちでも、それを十分に生かして、
「恵まれた環境と、技術の両方」を手にしても、全くいいのです。
生まれつきの環境を、本人の感覚として、
それを恵まれていると感じることの、何がいけないのでしょうか?
いけないものがあるとしたら、生まれつきの環境を
生かせないという人がいる場合ですが、
それとて、何も、めくじらを立ててまで、批判するまでもなく、
それは彼らの自業自得であり、
「チャンスをモノに出来なかったという事象」にすぎず、
自分には関係ないはずです。
しかし、他人の怠惰や、生来の環境に過剰反応する理由は、
やはり、それと同じ、自分の「過去の心の恥部」が刺激されるケースが大半です。
●そして、今回の生で、他者よりも、急いで学び、急いで理解し、
早く、何かを達成したり、結論を出したいという、
これらのすべての行動原理が、
やはり、「勝ち負け」への囚われに支配されてしまっている面があります。
その原型は、前世のショックなのかもしれませんが、
今回の生では、
「頭脳も体も、早く、大人にならないと、経済的に自活できない」、
という観念も、そこに加わり、歪みを手伝ったようです。
●そういえば、うちの砂手も、
小さい頃の望みは、「早く、大人になることだった」ようである。
これは、典型的なACです。
なぜならば、
いつまでも、出来るだけ長く、子供は子供っぽく生きた方が、
あとで、ずっと、ちゃんとした大人になるのですから。
常に重要なのは、「先を急ぐ」ことでもなく、
また、気に入ったところに立ち止まって「居座る」ことでもなく、
その「成長時期にしか出来ないこと」を、その時期に存分にすることです。
自然界の生き物たちは、「常にそうしている」のですから。
●前述した「第三例」の方の場合の生存契約も、
よくありがちな「条件」の「記入ミス」です。
技術や人格を、自分独自の美学に基づいて、練磨をしたいのであれば、
何も、金銭的に貧困になる時期を持つ環境など、選ぶ必要は全くありませんでした。
しかし、この方が、かつて過去で、宮廷の青年だったときには、
貧しいとは、経済的な貧困という単純な定義しか出来なかったのです。
それは、人生経験のなさが、なせることです。
●一方で、世の中には、この「不幸」や「恵まれない境遇」という
試練を自分の力で「超えなければ」と、馬鹿なことを考えて、
「金銭的な不幸」などよりも、
もっと「過酷な環境」を選択してしまう人たちがいます。
それが、「虐待する毒親」を誕生環境として選んだ場合です。
●多くの場合には、契約時の希望漏れや、注意事項のチェック漏れでそうなるのですが、
少し違う例が、「砂手」でした。
砂手は、この地球の親が子供に与える毒としての影響を甘く見ていたようです。
「あそこの両親、特にあの手の母親というものが、
子供を自分の不満の捌け口にするほどに愚かなのは、よく承知しているが、
この自分は、あの程度の苛酷な環境は、全く大丈夫だろう。」
そう、たかを括った挙句に、契約してしまい、
とんだトラウマ持ちACとなり果てました。
一時は、小悟までしましたが、本当の意味で、まともになったのは、
徹底的に、思考の中にある癖を一つずつ理解して潰していった結果の
数年前からのことです。
*********
●このように、地球や、希釈自我についての無知から、
「大丈夫だろう」と甘く見たり、
あるいは、自分から進んで、しなくてもいいような「条件」を
契約書につけることで、
今回、ここで生まれた人たちの多くが、
そもそも、本当にしたいことを、その前の前世の段階で、
見失っていることがほとんどです。
たぶん、3/4以下の希釈で生まれた場合には、
その自我では、前世の段階からして、
あまり大した目的ではないことが大半ですから、
それこそ、全自我復帰してから、
今回、「今後の目的そのもの」を、作り直すのが良いと私は思います。
今回選んでしまい、拘束されている生活環境も、
その一部の条件を解約できるかもしれませんし。
だから、こうした契約を、書き換える方法を、
今、模索しているところです。
***
■「願望実現」という軽薄な言葉が地球にはあります。
しかし、多かれ少なかれ、皆さんは、願望を実現しています。
1/8自我の人は、1/8だけ、実現しています。
しかし、残り7/8は、他人の願望に振り回されていることになります。
これが、生来の自我率と、願望実現の式です。
その人の自我率だけ、その人は、思ったことを実現しています。
自我率で不足している部分は、他者の願望に侵蝕されます。
しかし、そのことよりも、もっともっと、恐ろしいこと、恐怖すべきことは、
人は、自分が望んだことが、
「実は、とんでもない願望」であることに気づかない事です。
もしも、それが、
とんでもなく、曖昧で、危険で、矛盾した願望である事に気づかなければ、
その願望が実現することは、自己破壊的な結末となります。
だから、バナナを創った宇宙人の書籍の、本当のテーマは、
「生の契約内容には気をつけろ」
ということだったのです。
***
______________________________
★
.
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- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -