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★分割自我復元★その215■ 『有名になりたい』 と 『褒められたい』 ■
by:
鈴木崩残
2013/05/18(Sat)06:40:31
有名になりたいと思う人の理由
●最近、少し想ったことである。
「有名になりたい」という願望を持つ人の気持ちというか、
「思考」が私には、つくづく理解できないのです。
端的に言えば、有名になるなど、面倒な対人関係が増えるだけで
良いことは一つもない、と私個人は思うのである。
それでもなお、有名になりたいという人がいるならば、
有名になることで「何が得られ」「何が失われるか」ということを
熟考したのか、やや疑わしい。
たとえば、どうしても、世の中に普及させたいとか、ボランティアで
知ってもらいたいとか、そうした目的があり、
その「手段」として、まず有名になる、という使い道は無論あるだろう。
ただしその場合には、有名になること自体が目的ではない。
それが本来の目標に対して作り出す「効果」が問われるのである。
●さて、私も含めて、私たちの多くは、無名のうちに過ごし、
幸運にも、それによって、静かな一生を終えることが出来る。
そんな特権を捨ててまで、有名になりたいとしたら、
その人は、「何によって」つまりどういう活動によって、
有名になりたいのだろうか?
たとえば、その人は、自分自身が有名になりたいのか、
それとも、自分の生み出したものを有名にしたいのかでも、
かなり違ってくるのである。
自分が作り出したものが有名になって欲しいのであれば、
詠み人知らずの歌でもよいし、
自分の名前は知られなくても、
自分が開発した科学技術などが普及すればいいのであり、
何も「本人」が有名になる必要はない。
つまり、本人という存在が有名になりたいのか、
それとも、本人が作り出したものが有名になることが重要なのか、
それとも、その両方とも、欲しいのかである。
●次に、有名というのは、
犯罪者になって有名になることではないだろうから、
おそらくは、何かの「偉業」を成し遂げた上でなのだろうが、
具体的に、それはどんな偉業に憧れているのだろうか?
●さらには、
「有名」とは、どの範囲、どの地域で有名になれば、
気が済んだり、満足できるのかでも違ってくる。
「この町じゃ、ちょっと知られた有名人」になりたいのか、
それとも、全国的になのか、全世界的に知られたいのかである。
●そもそも、有名になりたいというのは、
人々から注目が欲しいのか、
それとも、有名を手段として、生活安定や利益が欲しいのか、
それによっても違ってくる。
別に、有名にならなくとも、
特許生活で、一生悠々と暮らす人もいるのだから、
何も、有名にならなくても、生活は安定できる。
有名になることには、どのようなメリットがあり、
有名にならねば、目的が果たせないのか?
また、誰が創ったか、誰も知らないままに終わる、
それでもいいという、有名な作品を創りたいのか、
本人が有名になりたいのか?
有名になりたい、と思う人は、
偉人伝とか読んで、感化されたのだろうか?
あるいは、そういう人は、親から、
「お前は、ビッグになれ」とか言われて育ったのだろうか?
子供の教育の為と称して、「偉人伝」とかを本棚に置く親がいるらしいですが、
まー、別にいいんですけど、
その横には、ちゃんと、「奇人伝」も、置いて欲しいものです。
●有名になりたいと言っても、
たとえば、「具体的に、誰のような、偉人とか有名人」に
なりたいのだろうか?
*********
それこそ、「有名とは・・・」という項目を、
私は、桜の間の自分の「辞典」に、
加筆しなければならないかもしれない。
【有名人】
多くの人が、その者の「名前」だけは知っているが、
その者に関するエピソードとなると、
ほんの一つか二つしか、知られていない者のこと。
一例
・オバマ大統領
Yes we can と言った、米国初の くろんぼ大統領。
・安倍晋三
一度目の任期では、自分の腹を壊し、二度目の任期では、日本を壊した男。
・リニアモーターカー
ついに一度も実用化しなかった事で有名。
・もんじゅ
生まれてから死ぬまで、一度も働かず、
莫大な費用のかかる精神病院にいた我が子の事を、親が呼ぶ「隠語」のひとつ、
にされた事で有名。
『どうせ、うちの子は、もんじゅ ですから。』
__
褒められたいと思う人の理由
●「有名になりたい」とは規模の違うもので、動機も違ってくるのですが、
他人から「褒められたい」という感情・・・
これがまた、私には、全く理解できません。
かなり子供のころ(6歳ごろ)に、
好きだった「女の先生」から褒められたいと思って、
褒められる事を期待しての何かしらのアクションを起した覚えはありますが、
その程度しかありません。
そういえば、確かに、小学生ごろであれば、
「ちょっと褒められてみたいな」ぐらいの気持ちで、
授業中に、率先して、手を上げて質問に答えてみたり、と、
その程度のことは、子供のときにはします。
しかし、それは、あくまでも、
「子供っぽい」行動の一つだと私は思っています。
それは、子供時代に、卒業すべきものです。
実際、子供の心の中でさえ、
自分がしている、そういう自己顕示欲や、
「お目当ての人から褒められたい」という気持ちが、
「何か、今、自分のやっていることは気持ち悪い」と、
本人自身も、感じているはずなのです。
ですので、私は、成人してからも、
付き合っている彼女からも、褒められたいと思ったり
褒められることを期待したことも、一度もありません。
●「桜の間掲示板」に書いたと思いますが、
私は、私が何かしらの事をしたことで、相手の人が「喜んだ場合」には、
相手の人が喜んだことそのものが良かった、という意味で、
私も嬉しく思います。
たとえば、それは私の書を楽しんでくれたメールが来た時などです。
また、それは料理人が、お客さんが料理を食べて喜んでくれるのが嬉しい、
のと同じです。
何も、褒められるために作っているのでもなく、
「どうだ、凄いだろう」と自画自賛するために作るのでもありません。
ただし、相手の人が、その味や作品に感動してくれたりすれば、
それは、私も、その人の「その感情が生まれた事」を喜ばしく思いますし、
むしろ、その人が喜びを感じたことに、私が感謝したいぐらいです。
●しかし、最初から、相手からの賞賛を期待して行うことなどは、
私の中には何もありません。
ただし「結果としては、たぶん喜んでくれるだろうと予測して」
行うことはあります。
相手を「喜ばせること」を目的として行うことはあります。
たとえば、一例としてですが、
以前に、「無心剣」を成功させた、ディスクと手裏剣を、
「戦車さん」にプレゼントしようと思ったときには、
動機の半分は、「自分の新記録の更新」を目的としましたが、
半分の動機は、
「戦車さん」であれば、おそらくは受け取って、大切にしてくれるだろう、
という予測から行いました。
しかし、もしも期待はずれに喜んでくれなくても、別になんともありません。
それは、自分の予測の判断が間違っていた、という「反省点」になるだけです。
●たとえば、女性とのセックスも、
相手の女性に喜んでもらうことを主な目的として行いますが、
ただし、この場合には、
もしも喜んでもらえなかったら、
それは、私の中では、「別になんともありません」では済みません。
猛烈な反省と、原因の分析をして、
二度と失敗をしないように、対策法を突き止めます。
●さて、そのように、
「これを、相手が喜んでくれたら、私も嬉しい」という感情は、
私の中にもあるのですが、
他人から、「褒められたい」というだけは、どうにも理解できません。
「喜ばれたい」と、「褒められたい」、この二つは、かなり違います。
「喜ばれたい」は、サービス精神の産物ですが、
「褒められたい」は、「相手からの賞賛を強要する」という行為ですから。
そこで、このことに関して、自我復元をしている、
「さかなさん」とのやりとりのごく一部を、掲載します。
******
崩残さんへ
・ブログについて感じていることから、
自分が「飢えていること」が見つかった
どうも、自分の書く文章に、わたしは「嫌悪感」を抱くことがある。
僅かな嫌悪感なのだけれども、どうしても、ぬぐえないものがある。
崩残さんに送る文章には、そんなこと感じないのに、
ブログに書く文章には、「嫌悪感」を持つ。
なんで、私は、こんなに偉そうに文章書いているのだろう?
トラウマが掘れて、うぬぼれているのではないのか?
他人を馬鹿にする人は嫌いだと言いながら、
私こそ、心の中で、他人を馬鹿にして、喜んでいるのではないのか?
そう、思えてならない。
『「すごい」って言ってほしいんじゃないのか?
自分の価値は自分が決めるとか言ってるけど、
他人に認めてもらいたいって、全く思わないわけじゃないんでしょう?
優越感に浸りたいんでしょ?
私ってすごい!って。
そういう、お前は、やっぱり、醜いんだよ。』
これって、なんなのだろうか。
自己否定なのだろうか?
_____________________________
ブログを書きはじめて、
心の中に刺さっているとげのように、ずっとあったのですが、
「そんなはずはない」と、否定するのに必死でした。
でも、あまりにも気持ち悪くて、直視してみたら、
これは思った以上に、重症でした。
こんなものを、放置していてはだめだ。
これは、自己否定だ。
私は、褒められることに、罪悪感を感じている。
正確にいうと、
「褒められて、うれしい」と思う気持ちに、罪悪感を持っている。
本当は、頑張ったら、褒めて欲しい。
でも、それは、とても浅ましいことだ。
誰にも見てもらえなくても、頑張るべきで、
褒められたからといって、喜んでいるのは、みっともない。
だから、
「すごいでしょう」とか、自分の成果を発表するような、
すごいねって言葉を、渇望している、
そういうお前のブログは、とても醜い。
______________________________
ちょっと待て。
なんで、浅ましいん?
褒めてもらったことを、喜ぶことは、
罪悪感を感じるようなことちゃうやん。
なんで、そんな妙なことを思ってしまうのか、
わたしはもう知ってるよな。
親に、さんざんに、けなされて、
その結果、自分で自分に言い聞かせたことが原因やろ?
「褒めてもらいたいと思うことは、浅ましい。ダメなこと。」
そういう風に、私は、私に何年もかけて刻み込んだよな。
その癖が、全然取れていないってことやん。
親に、「頑張ったから、褒めて欲しい」と思った時に、
褒められたことは、ほとんどない。
頑張ったねって、言われたことない。
親に、褒められたときは、親の都合のいいことをした時だけだった。
私自身を褒めているのではなくて、
私が、私を、殺しているときだけ親は、私を褒めた。
私が、自立できないように。
私が、自分自身に誇りを持てないようにするために。
なんて親を選んでしまったのだろう。
出来たよ!見て!!って言わない子供が、どこにいるんだ。
頑張ったんだよ!って言わない子供なんて、おかしいよ。
でも、言わないように、私に強要した。
明確に言葉で言われたわけではない。
「あんたは、物分かりが良くて、ほんまに偉いなあ。」
この言葉に、私は、いつも強要されてた。
________________________________
私は、「賞賛」に飢えているけれど、
それを、恥ずかしいことだと考えている。
なぜ、飢えているのか考えもせずに、
その「飢え」を悪いことだと思っていた。
「できたよ!頑張ったよ!見て!」って、子供が親に言うのは、
当たり前のことではないのか?
満たされない「飢え」は、私の心の中に、ずっとあって、
それが、文章の中に、にじみ出てる。
目がよくなった私には、それが嫌でもみえてしまう。
どういう動機で、書いているのかも、
見ないふりしても、消せるわけではない。
だから、嫌悪感を持つ。
この「飢え」は、私自身が、これから満たしていかなければだめだ。
でも、どうすればいいのか、正直なところ、分かりません。
これから、たくさん、自分で頑張ったことを、
自分で褒めていくくらいしか、思いつかない。
********* ********* *********
飢えについては以上です。
自分の中の、もう一人の自分と、一人で二役で喋っているような文章だと思います。
でも、こうやっていつも、私はトラウマ掘りをしていたなあと、最近思います。
***
最後に、
今、「桜の間」で話題になっている、同居人の問題ですが、
あれは、私にも無関係のはなしではありません。
実際に、彼には、復元のことは絶対に秘密にしていましたが、
私の復元作業は、ある時に、ぴったりと止まってしまいました。
「本当の自分を探しに行ってください」と、
崩残さんに叱られたときのことを思い出します。
あの時、めちゃくちゃつらかったですが、
叱られて本当によかったと、
自分の中に、辛くても探しに行く決断をして本当によかったと、
私は思います。
私も、ひそかに、頑張ってほしいと、応援しています。
あの「3例目」の旦那さんの言動は、私の父にそっくりでした。
父も似たようなことをしていましたので。
そして、奥さんの反応は、母とそっくりです。
「二人欲しかったのに」、って子供のことを言っていましたが、
そこも、私の父と同じようなことを言っています。
あの親の元に生まれてしまった子供が、
トラウマを持たずに成長するとは思えません。
私のように、「道具」扱いされて苦悩するのではないかと思います。
そんなことには、なってほしくないと、私は勝手ながら思います。
*********
●さかなさんへ
******
たぶん、さかなさんの毒親が、
「自分の親から褒められたいのに、褒められなかった」、
だから、親は、さかなさんにも、
自分のように「惨めになって欲しかった」のでしょうね。
しかし、ここで注意すべきことがあります。
普通のカウンセリングでしたら、
「褒められたいと、正直に思っていいんですよ。
褒められたら、率直に喜んでいいんですよ」
と言うと思います。
しかし、私はそう言いません。
なぜならば、そもそも、
「褒められたい」という願望が、
生まれつき子供の中に、先にあるのでしょうか?
ありません。
子供が褒められたいと思うに至るには、
最初に、「不当に、褒められなかった」経験の積み重ねがあります。
そして、「けなされた」嫌な経験の積み重ねがあります。
となれば、
「褒められたい」という気持ちそれ自体が、
まずは、褒められなかった事の「不満」から出てきたものです。
正常な子供も、親や周囲から愛でられれば、
むろん、それは単純に、嬉しいでしょうが、
正常でない子供が、親や周囲に愛でられたり褒められると、
極端に舞い上がるか、
さもなければ、喜ぶことすら我慢します。
たいていの場合には、
毒親は、子供が喜ぶ姿を見ると「自分は喜べなかったのに」と、
ムカつくものですから、そういう高圧的な親の怒りを子供が感じ取ると、
喜びを表現しない子供になります。
つまり、私の結論としては、さなかさんの場合には、
「褒められたら、すなおに、喜んでいいんだ」
ということで、自分を解決するのではなく、
「なんで、そもそも、褒められたがるんや?
それは、私が親や彼氏に褒められなかったからやろ。
なんで、私が喜んだらあかんのや?
それは、周囲が、それを嫌がったからやないか。
じゃー、私のことを褒めた人のほとんどは、
本当に、私を見て褒めたんか?
ちゃうやないか。彼らに都合のいい事だけ褒めただけやんか」
このことが、現実として自覚できたら、
「私は、私自身以外からは、
誰からも、彼らの勝手な理由で、褒められたくなどない。
ただし、私は、誰も褒めなくても、認めなくても、
私が喜びたいときに、好きなだけ喜んでいいのが、当たり前だ」
と決めてください。
そもそも、人間というのは、
自分で勝手に喜んでいて、
自分で自分を褒めているときが、最も「楽しい」瞬間なのです。
それ以外は、例外なく、他人に依存した喜びです。
また、褒められて、それを喜ぶ事に、罪悪感を感じてしまうのは、
むろん、心が歪んでしまっていますが、
「褒められたい」、と思う事そのものも、厳密に言うと、既に歪んでいるのです。
そして、実は、「問題の根っ子」は、
褒められたか、褒められなかった、ではないのです。
たとえ、親から怒られた事の方が多かったにしても、
そこに、親の言い訳ではない、
本当の愛情(気遣い)があったどうかなのですから。
事実、「あんたは、ほんまに、えらい子やね」と、
「親や、他人に役立つから」という「他人の都合」で、
いつもいつも、褒められて育った子供が、
歪んだ性格になってしまっていた事例は、無数にあるのですから。
******
●で、ここ数日内に、更新のあった自我復元ブログです。
マディア さん
http://jigafukugen1987.blog.fc2.com/blog-date-201305.html
さかな さん
http://love3nyansfukugen.blog.fc2.com/
お姫ちゃん さん
http://haripoteko.exblog.jp/i0/
どんがめ さん
http://ameblo.jp/tekutekukamesan/
ちき さん
http://chikadelyocompleto.blogspot.jp/
ところで、ちきさんの投稿に答える形になるかわかりませんが、
こんな記事が、過去ログにありますよ。
↓
■試合前にセックスをすると負けるか?
http://www.mumyouan.com/k/?U1160
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