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「分割自我復元」
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[292]
■
★分割自我復元★その292■ 【自我判定の際の報告の一例】
by:
鈴木崩残
2013/12/17(Tue)09:36:36
自我判定時の報告文の一例
■2例紹介しますが、今回は二つめの方のが、異常に長くなります。
しかし、非常に重要な問題を含んでいるので、
なるべく多くの部分を掲載することにしました。
まず、お一人めは、断片のみになります。
*********
前回の自我率は67〜68%です。
〇復元回数は183回です。
8月下旬から、主体性を取り戻しつつあることを自覚、
その時から復元による変化を確実に捉える事が出来るようになり、
トラウマ掘りに伴う感情の上下の変化は苦しいですが、コントロール可能で、
精神的な安定を取り戻し、地道な復元を行えております。
以来、変化による効果を認識しない日は無い状態に至りました。
●周辺環境が自然に整う
トラウマがなかなか掘れなくて、
自分を追い詰める意図で一人になる時間を増やすことにしました。
最初は不安や寂しさ退屈さも感じていましたが、
あれほど一人になる事、孤独を恐れて自らを売渡し、
他者と群れる事を望んでいたのに、
次第に孤独が落ち着きを呼ぶようになりました。
そして気が付けば周辺環境が自然と整い、
今は一人でいる事を自然に感じるようになっています。
中略
ほんの2年前は、毎日のように酒を飲み安定剤や睡眠導入剤を使用して、
思考の明晰さを鈍らせ現実逃避していたことが嘘のようです。
目的に向かって充実感を味わう人生は、
渇望はしていたものの得られるとは想像していませんでした。
永遠に得ることが出来ないと予感しながら渇望する、
その虚無感は去って行き、
今は目的とその先の開放に向かって細い道を確実に歩いています。
中略
一方で、事例の無い事を避けたがる保身的な人や、
問題解決に対する意志や資質の無い人との不毛なやり取りに対して、
以前より強い違和感や怒りを感じるようになっていて、
その人々に対して必要以上に攻撃し影響力を行使し無視した事は、
逃避行動に感じる部分があります。
また、出た結果に対して自己顕示してしまっている部分も感じていて、修正が必要です。
中略
●夢、病気、怪我について
夢や怪我も、起こった日に、または数日後、
「桜の間」を開くと夢や怪我に関連する記述があり不思議です。
そして心に深く刻まれます。
時系列に並べて記します。
●9月上旬に見た夢、寝室で目が覚め窓の外を見ると、
直径100mはある黒い円錐形の物体が空中に静止しています。
「黒い物体」は地球の管理者の持ち物だと直感しました。
次の瞬間「時間切れだ、世界が終わる」と感じ、
その物体をよく観察しようとリビングに向かいます。
するとリビングに亡くなった**と自殺した**が佇み私を見ていて、
その表情はこの世のものではなく、違和感はあるものの恐怖は感じません。
それより「黒い物体」が重要です。
その物体は、私の部屋にゆっくりと近づき始め、
表面の腐食した錆の様な部分が見えるほどの距離まで近づき
衝突の寸前でゆっくり上昇し去って行きました。
私は「まだ少し時間があるが、全自我を達成しておらずこのままでは死ねない」と思い、
この状況の打開策は無いかと考え始めましたが見つからず途方に暮れ、
ヒントを求めるため書斎に向かいPCを立ち上げ、
無明庵のサイトを開きますが、フリーズしてしまい閲覧できません。
その時気づきます「崩残さんは、もう此処にはおられない」と。
そして目が覚めほっとします。
困って崩残さんに頼ってしまった自分を反省しながら、夢で良かったと。
数日後「桜の間」を見ると、
崩残さんの「自我復元に対する視点が変化する」と云う趣旨の短い
コメントがありました、すぐに削除されましたが。
夢に関して、あまり細部の解釈をすると誤認してしまいそうなので、
おおざっぱに捉えようと思います。
この夢は「警告」と捉えています。
時間が無いから急ぎなさい!と云う意味と、
崩残さんに頼るのではなくもっと主体性を持ちなさいという、
2つの意味だと思います。
中略
自我復元によって自我率が上がるにつれ見える風景が変化し、
世の中の真の姿がかくも酷く救いの無い事に愕然としています。
中略
今はまだ純粋な恋愛の定義を完全に理解した訳ではないですが、
崩残さんの著作を読んでの理解は、
全自我な男女が完全な主体性と自立性を保持して人生で出会い、
自然と互いの道筋が寄り添い恋におち、
互いを与え合うことで純粋で高次元な空間と時間を創造し、
それを味わい尽くし満足し尽くして、
またそれぞれ別の人生を歩んでいくと云う理解なのですが・・・・
私達の場合は、
男女を籠の中に入れて各種のストレスを与えたら、
生存と云う保身の為と生理的欲求の結果こうなった貧相な関係です。
そして現在もその延長線上にあり、
間違った土台の上に構築してしまった関係の現実を認識し理解するのは苦しく、
そして妻との現在の結婚生活を失うことに恐れと不安を感じ、
たまに訪れる妻との平凡で平穏な空間と時間を無価値と否定する事は、
今の私にはできません。
ただ妻との結婚生活に対する違和感と、
将来突き当たるであろう「別離の選択」を迫られるという予感は感じています。
中略
妻は安心できてコントロール可能なパートナーが一人いれば他は必要としておらず、
彼女の枠の中に安住し安らぎ、仕事し趣味を楽しめる妻の父親の様な男性を、
求めていたのです。
私は交際中から妻が心から楽しんでいないのを気づきながら、
そんな事はお構いなしに妻を連れまわします。
そして妻の逆襲つまり私に対する調教が始まりました。
それは私の家族・友人・仕事・言動・行動と全ての分野に対する否定で、
しかも絶妙なタイミングで感情を放ちます、
タイミングは達成感や開放感を味わおうとした瞬間や娯楽を楽しもうとして、
気持ちが高まった時で、落ち込んでいる時や低調な時には放っては来ません。
低調な時に放っても他の問題と混在して効果的でない事を、
感覚的に理解していて、弱っている時は放置される事が多かったです。
最初のうちは討ち返せていたと思っていましたが、
ボディーブローの様に精神的にダメージを受けて次第に気力がそがれて行き、
自分の空間が急速に圧縮されていく感覚、囲い込まれていくそんな感覚です。
中略
そう、母親とは逆の調教方法です、
母は弱っている時に放ってくるパターンが多かったと感じています。
そして、妻との問題に正対せず突破口と誤認した現実逃避を行い始めます、
いや当時もそれが問題解決にはならないと知りつつ最悪の選択をしてしまいます。
中略
妻との結婚や友人・家族・職場の人脈など全ての人間関係に、
分割自我を根本原因とする機能不全家族由来の、
AC・トラウマ問題から発生した影響が全てに存在する事を再認識し、
自身の中に存在する魑魅魍魎の痕跡に慄然とし、
人生の記憶は消し去ることは不可能ですが、
トラウマ堀りによって、その事象を俯瞰し消化する事が、
唯一の解決法であると再確認する事が出来ました。
これは不快年表を作ってみて気付いた事ですが、
中略
3.11東日本大震災は自我復元を真剣に行う転機になっていて、
原発事故の衝撃が無ければ、
自我復元による自我率の変化の起動が遅れたか挫折した可能性を感じました。
中略
あれほど自由と主体性を渇望しながら、
他者との関係性を失う事を恐れ、妻・家族・友人・仕事に依存し始めます。
特に妻には以前より遥かに依存が強くなりました。
ただ生存する為そして孤独を避けるために、僅かしかない主体性を捨て、
自らの意思で依存と云う牢獄に入って行きました。
しかも何重もの監獄の扉を開けて・・・・
>「監獄にいるから、死にたくなるだけの話である」
私の人生は完全に「桜の間」に書かれていた、この言葉そのものになっていきます。
何重にも囲い込まれた牢獄、
妻・家族・仕事・社会・国家そして地球その全てから主体性を持って分離し、
ただ個として気負いなく悠然と静寂に満ちて立っている、
それが今の私にとって理想の姿です。
脈絡がありませんが、私の生の最初の記憶を記したくなりました。
私の最初の記憶は、3歳の時の記憶です。
中略
それまでの人生を立ち止まって考える為の良いチャンスでした。
その後人生が新しい流れに入り、
人生を根本から変える無明庵と自我復元に出会えました。
自我復元に出会うことは、
ピンポイントに、数年の誤差さが許容範囲で、
日本と云う地域に日本語を言語として成人し生息していなければ、
実践が難しいと理解しています。
この事は確率計算など成り立ちません。
奇跡に近い事だと捉えています。
本当に幸運です。
もちろんまだ油断はできませんが
中略
「桜の間」にアップされていた「枯葉たち」拝見しました。
「枯葉たち」とタイトルされいる意味解ります、枯葉が妖精のようです。
BGMもファンタジックでマッチしていて素敵です。
一番好きな部分は、
落ち葉がまるで意思が在るかの様にレンズに入って来るカットです。
最初観たときゾクゾク来ました。
*********
■おふたりめ
精神世界という場所は、無明庵が初めてで、知ったのは31歳の時です。
きっかけは、アンケート1で述べた通りになります。
>■3-ご自分の問題についての原因は、ご自分で分析は出来ていますか?
まったくできていません。
今までは、自分の問題、特に自分の不安感、焦り、苛立ちについて
問題だというサインが出ているのに
他の事で誤魔化す、憂さ晴らしのようなことをして、解消したような気になる。
ということしかせず、解決できていないのに
それが解決するということなのだと思ってきました。
今、ほんとにここ数日前から気が付いたのですが、
私は、トラウマ、AC人格に起因する焦り、不安感が
ほとんど、解消されていないために
いくつかの、抱えてしまっている問題が同時多発的か将棋倒しのように、
一つ出たらそれが切欠となりまた一つと
いくつもの原因が混在した焦りや不安感を発症しているのではないかと
思いました。
そういったことから、掲示板でも語られておられるように、じっくりと腰をすえて
一つ一つ原因を究明し解決していくしかないと感じております。
>■4-ご自分と御家族の間に何か問題はありませんでしたか?
>(同居されている、いないに関わらず、兄弟姉妹の構成もお書き下さい)
私は、トラウマを掘るまで、自分の家族は問題があるけれども、
それはどこの家庭でも同じような物でそんなに、たいしたことではない、
自分の家は他人の家よりもましな位だと思っておりましたが、
今は、親から受けたトラウマが、
これほどに自分に影響を及ぼしているのかと、驚き、
問題だらけであると思っています。
「私の家の家族構成」
私の家族構成は父、母、祖母、妹、私の5人家族でした。
以下、報告文と重なる内容もありますが、家族についてまとめてみました。
●兄妹の二人兄弟で年齢は1つしか違わない年子●
私が2歳のころからおおよそ11歳の頃まで、私は酷く妹を憎みいじめていた。
原因は母が二人平等に愛情を注ぐ事が出来なかった、もしくはしなかったためで、
親よりも、自分の友達関係に自分の重点が行くようになってから急速に
妹を憎むということは薄れて行きましたが、
当時はどうしてそうなるか全く気が付いていませんでした。
妹は、今も私のせいでトラウマを持っていると思っています。
「誰かに、指示をしてもらわないと、何も出来ない。
それは私だけ?なのかな?」
「親は絶対的な存在だから、何を言われても従うしかない、
だから親はめんどくさい」
と、つい最近も言っていたのが印象に残っています。
●父の恫喝、多少の暴力もあった●
憶えている限りでは、私が5歳ごろには恫喝、暴力があり、
15歳頃までは私は完全に父に歯向かうことは出来なかったと思います。
「主な父の恫喝内容について」
◎人に自分が思っていることを言えず、
主導権を握られ自分が馬鹿にされたと思ってストレスを溜め
家族の前で怒りながら愚痴を言う。
◎子供が自分の言う通り、思った通りに動かない事。
それにストレスを溜め恫喝、暴力、により脅して支配しようとする。
◎子供が戦争時を想定した、行動を取らなければ恫喝する。
◎子供がすることを馬鹿にして、
無駄だとか、意味が無いと、持論を交えながら話すが、
その際冷静さはなく、何かに苛立っている。
社会で自分がされたことを、子供に復讐している、ということだと思います。
そして、その父そっくりに私は今なってしまっています。
●子供を自分の慰めるペットにする母●
自分の問題を、解決できないために子供を慰めるペットとして
飼いならそうと、ほぼ無意識で行うタイプ。
最終的に使う手口は「泣き落とし」で、かわいそうな自分を演出し
私に、「こんなに悲しいのはお前のせいだ」
「こんなに悲しんでいる母をあんたは放っておくのか」
と罪悪感を植えつけて調教しようとする。
また、天然ボケとまでは言えませんが、それに近い印象を受ける人で
口論になると、お互いの論点に食い違いが何度も起こり
何もこちらの言う事が伝わらないという感触のまま、
母が泣き出すというパターンが多い。
それでも、
私はこの泣き落としになると、今でも自分が悪いと思ってしまう部分があります。
●がまんをして、家では何も意見しない祖母●
祖母の印象は本当に、すっきりとしない味気の無い人でした。
家でしゃべることはほとんどなく、
そのために、嫁姑の争いも目に見えて激化するということはありませんでしたが
たまに、思いが溜まりすぎたのか、母の前で謝るように自分の主張をして
泣いていたことが何回かあったと思います。
でも、母には「なんでそんなことを言うのかわからない」としか
受け取ってもらえていなかった様子でした。
我慢して、思いを溜めて、いやなのに他人に従い
その人が喜ぶ事で安心している。そんな人でした。
また、家に生活費を納めないなど、
人として自立できていないと思わせられることも多い人でした。
私は、その祖母から我慢がとても大切な事だと教えられ
それが、家族の安泰に繋がるし、自分の対人関係に使える物だと思い、
我慢するという事をはっきりと自覚して行うようになったと思っています。
>■5-そちらは、何を人生において、最も重要視していますか?
>他者や本に書かれていることではなく、
>御自身の中から実感として確実に、出てくるものだけを書いてください。
自分の精神的な安定、解放感を得ることです。
今、思えばトラウマ、AC人格であったため、
自分に自分で嘘をついて、やりたくない事をやり続けるはめに
自分でしていた事が原因で不安定になっていたと思っているのですが、
その解消のために、趣味も含めて、
全てこのことを求めてやっていたのだと思います。
>■6-ご自身の何かに問題があり、それを解決したいと思っていますか?
>その場合、何を解決したいのか具体的に書いてください。
●自分の不安定感、焦りにより、通常のことが出来ないぐらいに緊張する時が、
たまにありそうなることを止めたい。
●自分が自分に嘘をついて、他人に迎合し、
やりたくない事をやり続けるはめになっていることを止めたい。
●自分に嘘をつき、自分と他人を騙そうとする事を止めたい。
などですが、今それらはトラウマ、AC人格の解除、自我復元によって
改善してゆきたいと思っております。
中略
>■14-自我復元をしようと思った、最大の理由は何ですか??
無明庵サイトを拝見させてもらい、5年ほどたった頃
自分は、ここで言われる事を何一つ実感をもって読むことも
実行する事も出来てないと感じていました。
これでは駄目だと少しだけ感じてはいたものの、
自分には無理だ、できないと諦めていました。
その後、2007年ごろ、機能不全家族の問題と死人禅行方によって、
自分の問題点をあぶりだす。ということが書かれていた時期に
私は、「これなら、自分が係われそうな事だ」と思い実家近くへ戻り、
親から貰ったものを捨てたり、話し合ったりと、いろいろ行ったものの、
大きく変化もなく、自分がしていることに
実感が持てず、何か1つでもよいから無明庵で行われていることを実感してみたい。
そう思っておりました。
ですので、無明庵で言われる事は、考察することなく全てやってしまう。
そんな、不純な動機もありました。
また、「どうして私は無明庵から離れないのだろうか」と考えたのですが、
私は、小学校3,4年の頃に受け持ってもらった担任の先生が
私を気に入ってくれ、私の人生でその2年間だけは充実したと思えるものでした。
美術を専攻しておられた方でしたので、私の絵を展覧会へ出展してもらったり
楽器を弾けたと思えたのもこの先生の時でした。
とにかく、その2年間は、私は「自分もやればできる」
そう思って過ごせた最初で最後の時期でした。
その小さな成功体験をもとに、今までずっと私は
「自分を指導する人さえいれば、自分はまともな人間になれる」
そう思っていたのだとわかりました。
その指導指針を崩残さんの書かれる文章に頼り
それを、コピーすれば自分は自由な自分を手に入れれる。
まともな自分に変れる。
その指針を誰かに与えてもらわなければどうにもならない
という延長に自我復元があったのだと思います。
『トラウマ掘り出し、AC人格についての報告文』
>梅の間1852無明庵日記●猫の足跡その602●
>【私も、欲しい、と言えないAC】
この記事は、私にとってトラウマ掘りの大きな転機となりました。
中略
そしてこの日をきっかけに「たいしたことはない」
「兄妹げんかはよくあること」ぐらいにしか考えていなかった、
「妹をいじめていた、憎んでいた」記憶を掘ることで、
過去の記憶がいくつか思い出されるということが始りました。
それは、記憶の古さだけで言えば、
私の初期のトラウマ、もしくはAC人格の深部の出発点の一つに到達した
のではないかと思われ
注意深く、気を緩めぬように今も掘り続けている状態であります。
中略
妹をいじめていた事がトラウマに深く関係しているかもしれないと
思い始めたころ、私は実家に行き幼少時のアルバム(写真集)を借りてきました。
アルバムは10冊ほどあり、年齢別にあるていどきちんと整理されていたり
写真に何年のものか記されてあったため
私が何歳のときにどう思っていたか、どういった事があったのかなど
忘れてかけていた事を思い出したり、
その思い出を年代順に整理する事が出来る掘り起こし作業の資料としては
非常に役立つものでした。
特に毎年正月に同じ部屋で撮影された家族の集合写真では
妹が生まれる前と後での私は中身が入れ替わってしまったような
印象の違いを如実に感じました。
妹が生まれてからの私の表情は毎年、不満だらけだとすぐに感じれるほど
歪んだ顔に感じられるものばかりでありました。
移り変わりの激しい年頃ではありますが、それだけではないと
言いきってもよいと私は思っています。
当時、普通であれば笑顔を作る写真撮影で
「自分の不満を訴えたい」そう思っていたような記憶があります。
その他の「妹が生まれてから」の私の写真に写る顔も
子供らしくなく、どの顔も笑っていても怒っていても造っている。
「すごく、かわいくない、はずかしくて見たくない」
何度見てもそう思わせられる顔でした。
それは、私はまだ2歳にもなっていない頃からです。
また、そうなってもおかしくない思いでもいくつか思い出しました。
逆に妹が生まれる前の写真は本当に生き生きしているように感じます。
決して写真に写ることを意識していない私の顔は、
ふてぶてしい顔をしていたり怒っている顔やもちろん笑顔もあるのですが
自分でも、こんな自分がいたのかと思えるほどです。
中略
そこには感じたままに遠慮なく自由に生きていると感じる私がいました。
そんな自分がいたんだという事実は大変うれしい出来事でしたが
それは、現在の私がそんな表情をしている他人を見かけたらムカついたり苛立ったり
「あいつはろくなやつじゃない」と非難してしまう、
そういった表情でもありました。
しかし、そのうち、時期をみて掘ればよいだろうと思っていた程度の
妹との関係とは、どういうものだったのか?
妹が生まれてから私が憶えていることは?と記憶をたどり
最初に思い出したのは「がまんし始めた」という感覚でした。
妹が生まれたのは私が1歳と4ヶ月の頃で私と妹は年子の兄妹でした。
今回、最初に私は親が何故、子育てが特に大変な年子で産んだのだろうか?
その事が子供に影響が出るとか
自分達の育児能力で可能なのかどうかなど、考えていたのだろうか?
「年子」と言う事が親を頼りたい子供にとって
トラウマになりやすい環境なのではないか?
ということがすごく気になりました。
母は私が生まれる以前に1人流産した経験があったために
「年子でも産んでおこうと思った」
という理由があったことは聞いています。
母は、ついこの前も、「私は子どもに愛情を持って育てたと自負している」
と自慢げに、断言していたのですが
母のこの言葉には、どこか自分を誤魔化すために嘘をついているか、
自分を褒めてもらいたいという主張しか無いような印象を受けました。
実際に記憶を掘り返すと、1歳4ヶ月で母親が妹に付きっきりになることは
私にとって、ものすごく環境が激変する辛い出来事でありました。
妹が出産された直後の家での写真をみていると
母が、赤ん坊の妹を慎重に抱く姿や、その現場での出来事が記憶の中に
強い印象として残っている事に気が付きました。
それは、母に今までのように抱きついたりしたいが、
そういった雰囲気ではない。どうすればよいのかわからない。
妹を抱っこしている母に、何度か今までのように遊んで欲しいと言ったが
赤ちゃんがいるからできないと言うようなことを言われる。
そういった思い出でした。
アルバムの写真脇に母のコメントに
「妹をよくだっこさせてと言って小さい体で抱っこしてやった」
とあり当時の私が妹を抱っこする写真も何枚もありました。
それを、見たときに当時妹を抱っこしながら
自分に違和感を感じていたという、微かな記憶を思い出しました。
ほんとに微かである記憶であるのだけれども、
それは確かに在ったと言える物でした。
私は、その時の私の心境をさぐってみました。
同じ言葉を心で思っていたわけではありませんが
当時の現場を思い出し、その時の自分の感じていた胸の違和感を思い起こし、
それが波立たないように慎重に静かに集中して
それを、言葉に変換すると、大体以下のような事を考えていました。
「妹を抱っこする事が自分は別にしたくないのだけれども、
何とか抱っこしたいと思いたい。」
「別に抱っこが、たのしいとは思わないのだけれども、
楽しんでいると家族に思われたい。」
「この前は、全然楽しくなかったのだけれども、
もう1回やってみれば楽しいかもしれない。」
「この前は、楽しくないまま終わったから、もう1回だっこして、
最後に楽しいで終われれば、次に楽しくないと思いながら抱っこするまで、
自分は抱っこが好きだと言っても良いはずだ。
そうすれば家族が妹を可愛がる気持ちに合わせやすい。」
しかし、抱っこしても楽しいとは心底思えず「母と妹」という枠があって、
その外に私がいるという感覚は、なくなりませんでした。
そして、母は私が抱っこしている妹を落としてしまわないか心配し
私ではなく、私に抱っこされた妹ばかりを注意深く見ていて、
私にとってはその表情や妹しか見ない目線が冷たく感じられたり
私が少し動くと、ささっと近くに寄ってきて私には目もくれず
妹が落ちないように手を差し伸べる姿に、
母との距離感を感じて辛い気持ちになったり、
焦ったりしていた思い出があります。
このころは、まだ、妹を憎んではいなかったような気がします。
それよりも、母に自分が抱っこしてもらったり、抱きついたりしたくて
母の手が妹から空いた時に、やっと空いたと思い
急いで母に抱きついていた思い出もあり、妹を憎むよりも
母に甘えさせてもらいたい。そればかりだったと思います。
そして、私は傍からみたときに
「妹が好き」「母と妹を温かく見守る」というような人間を家族の前で演じるようになり
その自己矛盾にストレスを感じるようになっていたのではないかと予想しています。
ここは、保身を覚えたAC人格の発生地点であろうと思っています。
少し時代は飛びますが、五歳ごろの私の記憶にあるもので
自分がした行為を誰が見ていたかを重要視していて
私を見た人の前で私の行為が矛盾しないように、
気を使い自分の行動を行うようにしていたという事があります。
人毎に見せる自分を頭の中で整理していた記憶もあります。
その頃は、「その場その場で嘘つくしかしかなかったとか、そう言わなければ
相手に怖い目に合わされるから当然の事だ、
だから矛盾しても仕方が無い。しかし面倒な人達ばかりだ。」
「でも、いつかはこんなことせずに自由な自分を出す時が来る」
と言うような話をいつもする、自分の操縦士が想像の中にいて、
その操縦士に説得されて、自己矛盾を自分に納得させていく展開の
妄想をよくしていました。
これも、私のAC人格の一つだと考えています。
こういったことを、二歳の時から私はやっているということなのだと思います。
これでは、自分の人生が送れるはずがないと思いました。
★そのすこし後の妹が歩き出す辺りの記憶
●私が2歳頃の写真
「妹が母に抱っこされて写っている。その横で私は祖母に抱っこされて写っている。」
このころ私はいつも母に
「僕も妹のように抱っこしてもらいたい、以前のようにいつかそうしてくれるはずだ」
と思っていた記憶が甦りました。
また、この時は幼いからなのか、まだ妹ができたので
自分はもう以前のように相手にしてもらえないとは気が付いておらず、
「なにか、最近お母さんは遊んでくれないな」、
「またいつか、以前のように遊んでくれるだろう」
ぐらいにしか思っていませんでした。
そして、その写真を写した日、妹を抱っこする母に自分もそうやって
写真を撮って欲しいとか、抱っこしてくれと頼んだ記憶があります。
しかし、母は「もう、あんたは大きいから抱っこされる年じゃない」
「お母さんは、妹を抱っこしなければいけないから、
これからは、おばあちゃんにしてもらわれ」
と言われ、祖母に抱っこしてもらいました。
祖母にしてもらった抱っこは私にはあまり、満足するものではありませんでした。
この日は、私にとって母から
「もう妹で手いっぱいだから、遊べないよ」と決別を言い渡されたような日でした。
この悲しみは結構、私にとって堪えてその後おそらく何年もの間
この日のことを思い出しては寂しくなっていました。
この件が夢に出てきた事も何回かあったぐらいです。
母の「あんたはもうお兄さんだから」という言い分も
2歳になったかならないかの事ですから本当に無理があったと思います。
●当時、私は妹が持っているもの、遊んでいる事に母の愛情
(やさしさなど、自分が安心できるもの)が込められていると感じていて
それを、取り上げたり邪魔したりしていました。
その物を取り上げて手にすることで自分も安心できると思ったり
取り上げて妹も自分と同じように不安定にさせないと気が済まないように
なっていた思い出があります。
●私が2歳ごろ、妹が1人で赤ちゃん用のせんべいを食べていた事があり
私は、それを見て取り上げた思い出があります。
そして、妹は泣いてしまったと思います。
少し曖昧な記憶ですがこの時、初めて妹を泣かせてしまったような、
泣いてしまいどうしようと思っていたことがあったと思います。
妹が泣くと私は自分がかわいそうなことをしてしまったと罪悪感が沸いたのだけれど
その後、妹に謝るのではなく、
「母になんて言い訳しようか」ばかり気になっていたと思います。
自分に嘘をついて自分の保身にすぐ走る。
そういうことを、してしまったのだと感じています。
そのお菓子は赤ちゃん用の柔らかいおせんべいで
まだ小さい妹用に母が用意していたもので
僕にも欲しいと言うとちゃんと別のお菓子を出してくれました。
しかし、本当はお菓子が欲しいのではなくて
母が妹にお菓子を上げている、その行為全てを私にも同じにして欲しい。
私にも妹と同じようにかまって欲しいと私は母に言いたかったし、
平等に与えて欲しい、そう理解してもらいたかったのだと今は思います。
後で「同じお菓子が欲しい」と言って、赤ちゃん用のおせんべいはもらえたのですが
もらっても満足できなくて余計に腹が立って、
いてもたってもいられなくなった思い出があります。
おそらく、自分が母にどうして欲しいのか言葉に出来るぐらいには
わかっていなかったか、自分の本心を言葉にして表明する力のような物が
なかったという感触を今思うと感じます。
その後、母はどう思ったのかわかりませんが
私用に、その赤ちゃん用せんべいを一袋買い置きしてくれたのですが
私はその味がおいしいと思ってなく、
おいしいと思っているように母を思わせなければ、また妹だけに
与えられると思いながら、食べる姿をなるべく、母に見えるように食べていました。
●2歳ごろ、家を掃除機で清掃する母を毎朝、私と妹は後をつけて行き
母から離れないようにしていた時期がありました。
ある時母は「掃除のじゃまだから、来ちゃ駄目だよ」と言い、
私は「お母さんが困っているから、やめなきゃ」と我慢して
清掃中は1人で遊ぶ事にしました。
この、母の指示に従わなければ行けないと思ったときに
胸に「キュッ」と締め付ける感覚が走った気がします。
それは、これよりも以前に、私は母から叩かれたか、言葉で叱られていたか
していたのではないかと思っています。
今の所、どうして母の指示に従うようになったのかは、
まだ、思い出せず、掘り悩んでいます。
しかし、先日「もしかしたら、恫喝、暴力があったのでは」と思ったとき
母か、父に平手打ちのようなことをされたような記憶が一瞬、脳裏に浮かび、
自分がここ最近、トラウマの原因をつかみ掛けた時におきると感じている
頬辺りがググッと上に上がって顔が変形するような感じになり、
怒りが胸の辺りにおきてほんの少し吐き気を催すと言う事が起きたので、
必ずここは掘ってみるべきだと思っています。
また、母が以前私に言い訳をするように
「男の子は危険な事をするからねー 。小さい頃、あんたを叩いて
躾けようとして途中で申し訳なく謝りながら泣き崩れた事がある」
と言っていたので確かに暴力があったようであります。
私も、物凄い暴力ではありませんが、
父だけではなく母に叩かれたり、恫喝されたことは、憶えているのですが、
どう母がしゃべり、どう叩いたりし、それはいつ頃あったことなのか、
などとなると今のところ全く憶えていないとしか言いようが無い状態であることと、
それが自分にトラウマになっているという実感がまだ、ありません。
ですが、諦めず掘っていかなければならないと感じています。
話は当時に戻ります。
妹は母の注意などはお構いなしに、どんどん母の後をつけていき
私は羨ましくてしょうがなかったが真似しないようにしました。
母に「妹もいっしょに遊んでやって」と頼まれた事もあり
階段で妹と遊びました。
でも、妹は飽きたのか、また母の元へ行ってしまう。
私は妹を追いかけて「お母さんの邪魔になるから、一緒にあそぼうよ」
と言うような事を言い、母が「さすがはお兄さん」と褒め称え
父にも、うれしそうにその話をしたと思います。
でも、結局妹は母の後を毎日つけていくようになり
私が誘っても来ませんでした。
私は諦めてまた1人で遊ぶようになりました。
それは、すごく寂しい時間だった記憶があります。
☆以下、その時の事で憶えている私の情況です☆
洗面所の方へ赤い掃除機で掃除に行く母
その後ろを追いかけていく小さい妹
そんなことを、思い出して想像しながら1人で祖母の畳の部屋で
積み木を寂しく積む私。
私は、全然楽しめない。
積み木を積んでいるのだけど心ここにあらずといった感じで、
自分が何をしているのか
わからなくなって、焦っていた思い出があります。
☆そのひとり遊びのときによく私が心の中で考えていた、思っていた事です☆
母が自分の要望と妹の要望を同じ数だけ聞いてくれると思っていて
私は妹が母親に何回しかられたのか、回数を数えており、
私の回数と比べたりしていた。
そして、
「母はきっと同じ回数ずつ二人平等に叱るはずだ、要望を聞いてくれるはずだ」
とずっと思っていました。
(正確な数字は途中でわからなくなっていたことも憶えています。)
この頃を思い出すと、私は、親(特に母に)は
2人平等に愛情を与えてくれるから、それをおとなしく待っている兄妹でなければ
いけないと思っていたことを思い出します。
しかし、私から見てですが、
私のほうがいつも叱られたり要望を聞いてもらえなかったり
と妹ばかりが母にかまってもらえているように私は感じていて
「いつか、お母さんは気が付く、
僕はお母さんを信じる、お母さんが大好きだもん」
と我慢していました。
しかし、その後「そうではないのかもしれない」と気が付きはじめ
「もしかして母は平等とかそんなこと考えていないのか?
僕は途中まで回数まで数えていたのに、母だってそれぐらい
出来るはずなのに。」としばらく悩みました。
そして、母に苦情をいうのではなくて
母に甘えれた回数が平等になるように、甘えようとする妹を妨害して、
妹を管理しなければいけない、
それが兄の役目、もしくは兄にはその権利がある
そんな感じに思っていました。
また、酷い事かもしれませんが、私は妹が生まれた当時、
妹の事がかわいいとか、産まれて、めでたいとかは思ったことがなく
ただただ、自分の立ち位置が変った事で母に遊んでもらえないこと
家の人が、妹にばかり注目すること、などにやきもきする事でいっぱいだったと思います。
また、いじめていたのですから、当然の事かもしれませんが
私は妹を自分よりも下の人間に見ていました。
当時の私の心境は、
妹がもしいなくとも自分は死ぬこともなく、特に何も不便はないことは判っていて
妹は私よりも小さくて女の子で当初は赤ちゃんなので
暴力的な面でも私に勝てるわけがないと思うことから、自分よりも下の人間。
自分には歯向かうことが出来ない人間
そう認識していました。
そして、5歳ごろには妹のめんどうは年上の兄が見るものと母に言われ
父が普段、私を支配しようとするスタイルで妹を飼いならした犬のように
黙らせたり、指示通りに行動させたりするのが「妹のめんどうをみること」
と思っていました。
また、妹に命令し支配することで、
父の恫喝で受けた屈辱を晴らすことができると感じた記憶と、
命令しながら「父から受けた恫喝を真似しているな」と気が付いた時の記憶もあります。
他にも、私の命令に従ったり、泣いたりする妹の姿に
かわいそうなことをしていると思った時もありましたが、
謝って、自分が酷い危害を加えたと言う、
自分でもわかっている事実を妹に知られたくないし
自分も認めたくない。
「自分が妹よりも醜く歪んでいる人間だと妹に知られたくない」
そうどこかで、分っていたような気がしています。
そして、妹に心底から「ごめんなさい」と謝ったことはないと思います。
また、唐突に妹に優しく接することを、していたのですが
それは、そういったことが妹にばれないようにするためと、
自分の罪悪感を慰めるためにしていたのだと思いました。
読み返して、自分の酷さに涙が浮かぶ時もありました。
私は、醜い臆病者の毒人間でした。
これだけ掘っても、書き出した事実を読んでも
まだまだ、解毒しきっていない毒人間なのだと思っています。
今もその癖はまだ抜けきっていません。
妹を憎んでいた事、その頃、その前の親とのことは
まだ掘りつめなければいけないと思っています。
まだ、ただ掘っただけという感触しかないというのが私の感触です。
特に、妹をいじめていた時に自分が母に思っていることを
言えないが為に、妹をいじめてしまっている、
と言う事に気が付いていたのか、感じれていたのか。
感じれていないならそれは、恫喝によるものだったのか?
私は、当時どう感じて、どういう嘘を自分や他人についたのか?
と言う事を知りたいと思っています。
■次は父と祖母の話もからんできます■
●「父の恫喝から祖母の我慢という教育そして、エスカレートする妹いじめ」
それは、5歳の誕生日のことでした。
町のお祭りで父が私に誕生日プレゼントを買ってくれるというので
私は楽しみにしていたお祭りとプレゼントで嬉しくて、お祭りに行く夕方を
「早く来ないかなぁ」とすごく楽しみにして、幼稚園で人に自慢までして
待ちわびていたのを憶えています。
その日、私が欲しかったおもちゃは超合金ロボでした。
しかし、父にとってそれは高価すぎたらしく、
何件も出店をまわって値段を聞いたのですが
どこの店も同じ値段で祭りでごった返した人と値段にとうとう父は激怒して
「こんなもん買うために俺は働いているんじゃない。」
そう言ったのを私は強烈に憶えています。
そこからの私は、もう恐怖で最後まで何も言えず、
おもちゃよりも早くこの時間が過ぎ去って欲しいとまで思っていました。
そして「僕はものすごいわがままな子供で、お父さんの大事なお金を無駄にしている、
どうしようもない子供なんだ、
こんな高価なものは他の子供は欲しがったりしないんだ。
(当時は誰でも持っていた)」
と自分を追い込むことで、
怒りが収まらない父の気持ちに賛同しようとしていたと思います。
また、超合金で楽しく遊んでいる子供を想像して自分はみんなと同じように
楽しんではいけないんだと自分に言い聞かせ
自分を痛めつける事で父に迎合しようとしていました。
最終的には欲しかった物よりも小さくて安価な超合金を
ほんとうにいやいや父が買って帰りましたが、
私はその日以来しばらく、
「おもちゃをもう二度と買ってもらえないということか?
もし、次に買ってもらうとすればそれは自分が父に憎まれる、恨まれることだ。」
そんな感じで落ち込み悩みました。
この事は、自分が何日も続く同じ悩みをもったのは
始めての出来事だったのではないかと思うぐらいに印象に残る事件でした。
そして、祖母にそのことを話しました。
当時私は、母に言われて祖母の部屋で寝起きしており
昼間も母が居ないことが多かったので祖母と遊ぶことが多く
ずいぶん祖母を慕っていましたし、母へ相談することは父に知られること
ではないかという恐怖から、ちょっと距離を置いた祖母に相談することは
私にとって自然な流れでした。
私は祖母に「お金ってどこからやってくるの???」と聞きました。
(この日まで私はお金の心配なんて、したことがなかった)
祖母は「お金はね、お父さんが大変な思いをして嫌なこともがまんして働いて
やっと、もらえるんだよ」
私「お父さんて、いつ働いているの???」
祖母「毎日だよ」
私「毎日って今も?」
祖母「そうだよ、月曜日から土曜日まで毎日朝から夜まで働いてるんだよ」
その時、私は「そんな辛い事に僕は耐えれない」と思ったのを憶えています。
私「お父さんはおもちゃを買うために働いているんじゃないって言ったから
もう、僕には何も買ってくれないと思う。どうしよう。
もうおもちゃは買ってもらえないんだよ」
祖母「そんなこと、ないに決まっているよ。良い子にしていればまた買ってくれるよ」
「お父さんは、つらい思いして、がまんしてがまんしてやっとお金をもらっているんだから
買ってもらったものを大事にして、大切に使うことだよ」
「がまんして、耐えて、良い子にしていればきっとまたおもちゃを買ってくれるよ」
祖母とこんな感じの会話をして、私は父が毎日働いていることや、それがつらくて
大変なことであって、そのことを知らずに
自分がおもちゃをねだっていたことを知って
心の深くに罪悪感をいだきました。
それは、心の中に新しい場所が出来たような、それまでには無い
感情を作り出す場所が出来たような感覚であったと思います。
これは、AC人格の一部を形成させたその時だったと思います。
当時、そのショックを受けた自分の姿を夢でも何度も見ました。
その会話の内容を母にも話したことを憶えています。
「お父さんは我慢して働いているから、そのお金は大事に使わなくちゃだめだね」
そんな感じで伝えたと思います。
母はそれを聞いて、祖母がわが子を教育することに子を取られる
と感じたのか、その教育方針に異論があったのかどこか腑に落ちない様子で、
母の姉にそのことを相談したらしくて、その一連の話を友人にどう思うか、
聞いている現場を私は盗み聞きしてしまいました。
母の姉の反応は
「まー、お金を大事にするなんてうちの子は言わないわ。さすがおばあちゃんね」
「昔の人は、やっぱり偉いわね」
といった感じの内容で、母は姉の意見を友人にどう思うか聞いたり
私が我慢を憶えたと言う話をしたりしていました。
その友人は、「良いことじゃないの」「偉いわねー」
といった感じで褒め称えました。
(少し、記憶が定かでないところがありますが、
大体こんな感じの流れであったと思います。)
そして、私は「我慢」することが他人に自慢できる事だと思い、
母が喜んでいる様子もあったので
我慢すれば、母を喜ばせる事ができるとも思いました。
そうして、私にとっては欲しいものがあっても「我慢する、耐えること」
父、母になにか言われて嫌な思いをしても
我慢、耐える、そして嫌でも言うことを聞く
そうすれば、母は私を褒めてくれるし、
父が私を恨んでいるのではないかという恐怖心からも抜けれる。
と、我慢が良い事尽くめに思えて高揚したのを思い出します。
そして、それが家族が仲良く楽しく暮らすことに続いていくんだと
連結させて思うようになりました。
また、不安定感や恐怖の原因となる、父や母の恫喝、
躾の意味が私にはまったく理解できず、
どうすれば良いのか全くわからないという不安は
我慢や耐えることを「覚える」、というより「導入する」感覚で
これが解決に繋がると期待していました。
このころの事を思い出すと私は家族が仲良く暮らすことを
すごく大事にしていたんだなと思わせられます。
また、子供ですから当たり前なのですが現在にはない
「親と一緒に生活しない世界は考えられないぐらいに
それが当たり前だった感覚」も思い出しました。
そんな情況だから家族、特に親が私に怒ったり、恫喝したりすること。
嫁姑、夫婦の喧嘩や嫌味の言い合いが子供の私にとって強烈に不安定になり
恐怖心をもつ原因になっていて、そういう状態を何とかしたい。
そういうことが、仲良くありたいと思うようになっていたのだと思います。
特に母親が不機嫌な時がとにかく不安で私には理由が不明でも、なんとか
その場を解消しなければいけないとあれこれと気を使ったりしていた記憶があります。
そして、祖母が教えてくれた我慢を覚えてからの私は
もっと醜く歪んでいった思い出があります。
私は「我慢すれば、母に褒めてもらえるんだ」と嬉しくて仕方がなかくて
以前よりもっと、我慢するようになっていきました。
実際に「我慢してえらいね」と親や祖母から褒めてもらったこともあり、
自分が我慢する事を誇らしく思っていました。
しかし、私から見ると、
どれだけ我慢しても母に伝わらないことのほうが圧倒的に多く
私が我慢していることを母は気が付いているけど、何かの原因で今は褒めないだけだとか。
ここは、ぐっと耐えて耐えて我慢して母にも父にも我慢していることを知られず
それでも我慢して家族が仲良く生活するために僕は耐えるんだ。
そう思って自分に酔っていることもありました。
また、我慢はとても息苦しいものでしたが、
父の恫喝から受ける恐怖や母の機嫌が悪くなって
自分の居場所がなくなるような恐怖を感じるぐらいなら
僕が我慢していたほうが楽だ、そう思っていた記憶もあります。
今思えば、徹底的に「我慢」を肯定して自分の意思に蓋をして
しまう方程式のようなものが出来上がってしまったのだと思います。
そして、妹が全く我慢などせず親に甘えているように見えて
私は無性に腹が立っていました。
殴る蹴るなどの暴力はほとんどなかったと思いますが
妹のおもちゃを取り上げ、やっていることを邪魔する。
いじめが最高潮だった9〜10歳ごろには、妹に触るだけ、
触れるだけ、妹が触ったものに触るだけで、私は「汚い」と言って
怒りに満ち溢れて、何も私に危害を加えない妹を憎んでまでいた記憶が
はっきりと残っています。
妹に触れたときに、体に虫が入っていくような感触を想像して
本当に汚いんだと自分に思わせていた記憶もあります。
また、自分でも何故妹に触っただけでこんな気持ちになるのか
わからないと思った時があり、
その「わからない」という気持ちがのさばらないように、
無視するような事をした記憶もあります。
祖母から、教え込まれた我慢を始めたのが5歳という年齢のために
それ以前のものよりも記憶に残っているのかもしれませんが、
掘り起こすと、どういった心境で妹をいじめていたのかけっこうわかりました。
以下、その頃の、妹に対する私の心境を思い出し、言葉にしてみました。
「オレは我慢しているのだから、お前も我慢しろ」
「お前が信頼して崇めている親が奨励しているのが
オレのやっているこの我慢という行為だ、
だからお前も従わなければならないはずだ。
だから、私のしている我慢をお前もしろ、私に従え、間違いは無い」
「お金はお父さんが嫌な思いをして、一生懸命私たちのために犠牲になり
働いてもらってきた物だ、そのお金を無駄にすることは許されない。
だから、欲しいものがあっても、欲しがるな。がまんしろ。
私は我慢して何も欲しいと言わないようにしている。
わかるか?。このつらさをお前も味わえ。
なんでお前はわからずにそんなに楽しそうに過ごしているんだ?
憎たらしい。わかっていないお前は馬鹿なのか?」
「馬鹿に何言ってもだめだ、お前にもう説明はしない。
いじめられて苦しんでも当然だ」
(これは、父が他人を馬鹿と決め付けて、
関係の無いストレスまでその相手にぶつけまくる、という行為を
相手にではなく私の前で言葉で言ったために覚えたトラウマ)
「妹にも我慢させなければならない。そうする事が家族の安泰にも繋がる。
そして妹のためにもなる、だから私は家を守るために妹に我慢を教えこませる」
「母には嫌われたくない、父に歯向かうのは怖い。
妹なら大丈夫だ自分より力も弱いし、親と違い、
いなくなっても自分は何も困らない」
(本当に酷すぎる自分。
それは、こうはなりたくないと心底思っている父や祖母方の親戚に
そっくりで、私はこういう自分を絶対に他人に知られたくないと
必死に隠している。)
何度も思うのですが、
こういった在り様は一番なりたくなかった父の姿と瓜二つに思えます。
関係ない妹に八つ当たりすると私は
終わりの無い憎しみとぬるい解消感のようなものを感じていました。
また、妹をいじめる時に自分の気持ちを押し殺した思い出もあります。
何かそれに蓋をするとか奥へ押し込めて隠すことをした。
そして、自分を押し殺すこと、
自分に妥協することなんてたいしたことはないし恐れることは無いと思い、
言いたいことを言わなくて生きていける方法を見つけれたと思って、
取り合えずこれでいい、
次からもこれで対処していこうと決めたのを記憶しています。
これは、妹に対してだけではなく他の人間関係でも行っていました。
妹をいじめた事について掘り起こしてから
>桜の間:247重要記事『なぜ、トラウマを掘るのか?』
に記された
>「自己矛盾」こそが、
>「なぜ、思ったとおりにならないんだ?」となる、最大の原因だからです。
この文を文に呼ばれるように読み返し、
やっと理解が出来てきたと思いました。
何度か読んでいるはずなのに、
私はまったく身に沁みてはいなかったのです。
●妹のことを掘り始めてから私は、
自分がもっとも苦手で、解決したくてもできない対人関係についても
トラウマ、AC人格が関係している事に気がつきました。
幼稚園から中学生ぐらいまでの思い出ですが、
私は友人と呼べるような存在が居ませんでした。
どこまでが友人かという問題もありますが、当時の子供の私が欲しい友人、
他人を見てこういう関係を自分も経験したいと想像していたのは
何も無くても常に一緒に遊ぶ事が当たり前になっているような、
子供であれば良くあるような関係でした。
そういった、自然と一緒に遊ぶような人物は1人も居なくて、
私から遊んでくれるように頼むか
何かイベント的な物(町内の盆踊りなど)があるので集まって一緒に遊ぶか、
そういう関係しか築けませんでした。
後は誰かに支配されるという関係もありました。
(情けない話ではありますが、正確には当時から現在まで、
ほぼ同じようなものです。)
特に、小学生の頃、近所に4人の同学年の子達が住んでいて
表面上や大人から見れば仲の良い友達のように見えていたのかもしれませんが
その中では、私はいつも煙たがられる存在であった思い出があります。
私から一緒に遊ぼうと言わない限りは、
向こうから遊びに来る事はほとんどなく
何も言わないといつも私抜きでみんなで遊んでいる。そんな感じでした。
妹の事を掘り返してみるまで、
私は「どうしてあの時、自分は煙たがられたのだろうか?
みんなと自分に違いがあるとは思えないから、理由がわからない」とずっと思っていました。
しかし、今回私の中で、
友人と接していた自分と妹をいじめていた自分が重なって見えてきました。
それは、妹をいじめたのと同じように、
恫喝で私を支配しようとする父のコピーで友人に接していたということです。
私はその子達に対して私の思うとおりに動けと命令して、
常に相手が我慢しなければいけないようなことをさせる。
暴力を振るったりと言う事はありませんでしたが、
「お前も俺と同じように我慢して苦しんでくれ、
そしてこの苦しみに同感や共鳴する人間になろう、そういう仲こそ友人だ」
と思っていました。
こんな、遊びに行って我慢するようなことばかりさせられていては、
その子達が私とまた一緒に居たいと思うはずがありません。
私はその子達のことを、大事にしていなかったと思います。
私は家で父に言われた
「俺の言うとおりに世界が動くのが一番正しい、それを世間は聞くべきだ」
「だから、お前も俺の言うとおりにしろ」
という恫喝をコピーし、
友人に父にされたように同じ調子で接する事が
父が世間に自分の意見を知らせたいという気持ちに迎合して、
自分が安心できると言う事になり、
そして、父は正しいのでみんなも正しい事を知る良い機会になる。
と思っていました。
父宗教の布教活動家のようなものでした。
これでは煙たがられて当然だったと言えます。
それと、私は13歳の頃に一度、友人が出来ない事に悩み
理想の友人像を思い描いたことを思い出しました。
それは、
「他人に従うことしかできず、
家でも親に従うことに我慢して耐えてストレスをためていて、
世の中の楽しそうな人たち、我慢しない人たちを軽蔑し馬鹿にしており、
いつか我慢している人間こそが立派な人間になる、
今自分を馬鹿にしているやつらはその時私を見直す時が来る。
そう思って疑わない人。
私のように人を思いやり自分を殺して他人を立てる生き方こそが
本当に人間らしい生き方だと思っている。
そういう人とストレスを共に語り合って同感し合う。」
そういう友人が欲しい。そういう人となら自分は親友にでもなれると
思っていました。
さらに、妄想は膨らんで、
そういう人ばかりの世界こそ人間の目指している世界、
理想郷だというような考えまで思っていました。
実際にはそれが本当なのかどうか検証したりするわけでもなく、
またそんな能力も無く、そう思うことで自分を慰める。
そういうことをしていました。
今思えば、宗教団体などに入っても充分おかしくはない人間でした。
そして、当然ながらそういった理想の友人は現れませんでした。
現れなくてよかったと思っています。
書いていて気持ち悪くなるような理想だと今は思います。
●対人関係で思い出したことがもう一つあります。
幼稚園に行った初日のことが深く記憶に残っているのですが
幼稚園のお遊戯室に入ると子供達はがまんどころか、
思う存分に暴れまくって遊びまくる子がほとんどで
誰も我慢なんてしていませんでした。(私の主観ですが)
思いっきり暴れまくって遊びまくる子ども達に私は圧倒されて怖くて
とても中には入っていけませんでした。
★その時、私はこう心の中で喋っていました。
「みんな、何でこんなに、迷惑もかえりみずに暴れれるのだろう?」
「怖い、暴力でいじめられたらどうしよう。」
「みんな、私と心の中で思っていることが違うんだろうか?どうなんだろう?
知りたいけど、心は見れないからわからない」
「もし、私と違うなら、それはどうして?どうして僕だけちがうの?」
「もし、僕と心の中がいっしょっだってわかれば僕は誰と一緒に
遊べばよいかわかるけど、わからないと僕は怖くてなにもできない」
「僕は平気だ、今心の中で平気だって言ったから平気なはずだ。
でも、あれれ、平気になれないよ。どうやったら平気になれるんだろう?」
「誰かに僕が平気じゃない、怖がっているって思われたらどうしよう。
そんなこと思われたら恥ずかしくて耐えられない。」
「どうしよう、何かしなくちゃ、でも誰かの邪魔になったらどうしよう???」
「あそこで、ブロック遊びなら混じれるかも!やっぱり無理だ誰かの邪魔になりそうだ」
「そうだ、誰かの迷惑になるから僕は何もしたくないんだ、そういうことにしておこう。
だからみんなを眺めることにしよう」
「でも、どこでながめればいいんだろうか、、、、、、」
といった感じで、心の中で必死に会話していました。
家に帰り、母に
「どうして、他の人の心の中は見えないの?お母さんは見えるの?」
と聞いた思い出もあります。
この日の写真では、無いのですが、この前年に行われた幼稚園見学会で似たような
情況になり、全く同じ心境になっていた時の私の写真は
本当に何か「行き場の無い深い悩みに取り付かれてしまった。」
そんな表情で下を向いたまま立っていて、見るのが辛いぐらいでした。
隣の子供と比べても、比較にならないというか
次元が違うぐらいに怖がっている、そんな表情でした。
私にとって、他人のことなど関係なく自分の思った通りにあばれて
遊ぶなんて事は、この世のことでは無いと思うぐらいの衝撃でした。
この日のことは私にとって物凄い衝撃であったのですが
今まで、どうしてこんなに怖かったのか全くわかりませんでした。
私にとって「初めて親のいない社会へ出た」事で、
怖くなっても当たり前のことである、とも考えたのですが、納得できずにいました。
それは、他の子たちも同じ情況なのに全然臆することなく遊んでいたからです。
ですが、この日の心境と、
妹をいじめていたことを掘り出してみて思った事は
私はこの4歳の頃にはすでに、AC人格が形成されており
自分が、どういう人と付き合いたいかという「自分の意見」はなく
相手はどう思っているのか、どう合わせればよいのかが
私の人付き合いだったのではないか?
ということでした。
それだけではなく、自我が1/7に希釈されていた為に自分を保てない
という、
大元の原因もあったのだと思うのですが、
当時は、とにかく大勢の子供がいる場所が怖くて怖くて仕方が無かった
そんな、思い出が多くあります。
また、普段会わない親戚の大人の人などに会って物凄く人見知りをしていたのも
自分の真意などは怖くなってすぐに手放し、相手に合わせて恐怖を回避するしか
出来なくなっていたからなのだと思います。
そんな、私が大勢の子供たちが遊んでいる中にいきなり入り
どうやって、これだけの大人数に合わせればよいのか
わからなくなり、パニック状態になっていたのではないかと思います。
●「当時(3〜7歳頃)の家族模様掘り出し」
3歳頃の写真を見ると祖母と一緒に祖母が買ってくれたブロック(積み上げるおもちゃ)
を私はすごく必死に積み上げていました。
ブロックを祖母と共に全部積み上げれたときは
私は「見に来てー」と母を呼んで褒めてもらおうとしていました。
それは最初に積み上げたとき母がすごく関心を見せてくれたので
私はそのことをもう一度再現したくてやっていた思い出があります。
とにかく、このブロックを積み上げると最初の頃は祖母も母、父も
すごく関心を持って私を見てくれたのがうれしかった思い出があります。
家族、特に母に「褒めてもらう」ことをしようと初めて思ったのもこの頃でした。
母の愛情に飢えていた自分がはっきりと記憶にあります。
そして祖母の事を、よくよく思い出してみると
愛情表現の少ない味気の無い人という印象が強かったために
孫の私のことなどあまり関心が無かったように思っていたのですが
幼少の頃(3歳〜だいたい7歳の間)は、隣で一緒に寝てくれたり、
外へ遊びに連れて行ってくれたり、絵本を読んでくれたり
ブロックのおもちゃをけっこうな量で買い与えてくれたりと
祖母なりにではありますが、私はかわいがってもらっていたのを思い出しました。
そこから、いろいろと掘り進めるとトラウマの原因になる
私の家族模様の一部が出てきました。
ある時、母が祖母と私が仲良くしているのに嫉妬してか
私に「あんたは、ばあちゃんの子?」「それとも私の子?」
「どっち?お母さんから見たらまるでばあちゃんの子どもみたいだわ」
と半泣きで私に迫ったことがありました。
当時の私の年齢は自作の自分年表と記憶、アルバムなどを頼りに
割り出してみるとおそらくですが6歳か7歳ぐらいの時だったと思います。
(小学校に上がったばかりの頃と記憶しています。)
そのころ、私は確かに1歳下の妹ばかりにかまう母の
気を引くためにわざと祖母と仲良くする演出もするようになっていました。
その時の私の気持ちは
「母がどうしてこんなことを聞いてくるのか、はっきりいって全くわからない。
もしかして、私が母を嫉妬させようとした事でこうなったのかな?
でも、母は私の相手なんてほとんどしないから、しょうがないよ。
それに、祖母と遊ぶことがそんなにいけない事なのか??僕にはわからない。」
という気持ちをもちながら、
とにかく母が悲しんでいるのがつらくてその場を収めようと
「僕はお母さんの子どもだよ。おばあちゃんの子どもになれるわけないよ」
と言って、私は母を慰めながら
自分に罪悪感が植え付いてしまった事を憶えています。
しかしそもそも、私の相手を祖母がするようになったのは、
普段から自分からは人に提案などを出来ないタイプの祖母が進んでするように
なったのではなくて、家庭内ルールの主導権を握っていた母が、
妹に手一杯になった為に提案したことは確かであると思っています。
中略
そういった状況で、母にとっては、
父と祖母という他人の親子の中で暮らす孤独感と不満が
心の中に渦巻いていた様子で当時母は、
よく祖母がいない時に私達の前で
「私だけはこの中では赤の他人。
あんたたち(兄妹)も私にとっては赤の他人。
私だけはこの家の血が流れていない」と言って、
私は寂しい思いを何度かしたことがあります。
また、母に
「そうじゃないよ、僕はずっとお母さんの子供だし、
お母さんとずっと一緒にいたいよ」
と母を説得した思い出もあります。
そして母が半泣きしたこの事があってから祖母は私に何かを買い与えたり
積極的に私を遊びに連れて行ったり私をかまうことが少なくなりました。
また、私も意識して祖母に共感したり遊んだりもしないようにしてしまったのでした。
そんな中、祖母は、
近所の友人の孫におもちゃを買い与えたりするような時期があり
母はそれを見て
「自分の孫には何も買い与えないくせに」と私の前で猛烈に怒ったことがあります。
これらの一連を、思い返してみるまで私は一方的に祖母を悪者扱いしてきました。
しかし、それは母側に立った物の見方で母に洗脳されていたようなものだと思いました。
祖母が一緒に遊んでくれたり何かを買い与えてくれたりしたことをほとんど
私は忘れていたか、憶えていてもそれに感謝することをしてきませんでした。
このことは、いくらなんでも祖母に申し訳なかったと今になって思います。
(こういった、誰かに迎合し、それまで付き合いがあった人を
迎合先の理由で、嫌うという卑怯な癖は、まだ続いていると思います。)
また祖母は、いつも押し黙っていて、
いっしょにいても楽しくないなといった印象の人であり、
決して立派な人間ではなかったと私は思っています。
その人間性が一方的に悪者扱いされても、違和感が起こりにくいために、
余計に「母の言い分は間違っていない、いつも正しい」と
盲目的に母を奉りたてたり、早く母の不安を解消し安心したいと思う自分を
納得させやすい、そういった環境にあったのだと思いました。
また、この件でもそうですが、母の最後に使ってくるいつもの手口は「泣き落とし」です。
私は自分が母から見捨てられるのではないか、家族が崩壊するかもしれない、
と怖くなり怯えて自分は母の見方なんだと認めてもらうために
自分の違和感を何度か無視した記憶があります。
この件以外にも母は私が2〜3歳ごろ何回か
「お母さんは、離婚して遠くにいくから、あんたとはもう会えなくなるよ」
と何度か言ってきたことがありました。
最初は、意味がわからず、楽しい旅行にでも行くんだねと母に言ってましたが
それではまずいと思ったのか私に
「お母さんはいなくなるんだよ」「お父さんだけしか居なくなるんだよ」
「お母さんか、お父さんどっちが居なくなっても良い?」
「***ちゃんは、どっちと一緒にいたい?」
と自分を慰めさせようと誘導する質問をしていました。
私は、父へ早く報告して何とかしないと母が居なくなると
大変にあせった思い出があります。
そして、その時もその場では「お母さんと一緒だよ」と
なんとか母を食い止めようと必死になっていました。
しかし、暴力や恫喝を振るってそうしたのではなくて
泣き言や泣き落としによるものだったために、母の勝手なんかじゃない。
しょうがない事なんだ。と自分が調教されているとは気が付かず
本気で、「自分が何とかしなければ」
「お母さんがかわいそうだ、悲しませてはいけない」と考えていました。
これらから見えた母の言い分は
「お前は私の物だ。それが自分の思い通りにならないと
私は気分が悪い。それに、親だからこう思って当然だ。」
だから
「私が不安にならない為に私の言うとおりにしろ」
そのためにはまず
「私(母)を見たらかわいそうな気持ちになれ。
そして私を放っておけなくなれ」
という事を母は子どもに対してやってはいけないことだとは知らずに、
またはそう気が付いている自分を無視して、
自分が思ったままに感情を吐き出し、
我が子を慰め用のペットとして飼いならそうとしていたのだと思います。
今でも母は、
「私の管理を自分から抜けていった時から、あなたはおかしくなった。
ずっと私の管理に従っていれば良かったのに」と言ったり、
私が高校生の時に好きだった******を見ると
「この人達に、私は息子を取られたんだ」と、
びっくりするようなことを言います。
それが、子供にとってどれだけの毒、負担になるかわかっていない。
「子供といえども一人の人間であり、
子供の自立を邪魔するのは絶対にやってはいけない事」
そういう風には心の底から思ってくれることは何度も話し合いましたが結局ありませんでした。
思えば、
私はこの事を理解して欲しい為に、
20年以上の人生をすべて使ってきたような気さえします。
自分が子供を縛り付けることを、
「自分は子供を愛していること」だと勘違いしたまま
その妄想につかったままで、その夢からは覚めてくれないという事実。
「母がその勘違いに気がついて欲しいと願う私」
「私が自立することで自分の手から子供が離れてしまうことに
深く悲しむ母を思い、つらくなる私」
そして、子供の自立で悲しむ母を思う自分に負け、
自分の自立(自分のやりたいことをする)を阻害してきた私。
それでも母を完全に嫌いになることはできない私は
母といて安心していたいという願望がまだあるのだと感じます。
>(桜の間 [270] あなたがどうしても『認めなければならない事実』
にあるように生物として最初からそうだったという実感までは、まだ至りませんが)
現在、それを母の代わりとして、
異性に子供のような自分を受け入れてくれとせがむ自分もいます。
(最近はこの癖をのさばらせないように注意し、
気が付ける限り容赦なく斬っています。)
●「母を守らなければと思うと不安から解消され安心する私」
2歳か3歳ぐらいの頃には、
私は「僕はお母さんを守るんだ」と強く心に誓う時が
よくあったのを憶えています。
当時良く見ていた「地球を守る正義の味方系アニメ」の見すぎなのか、
それとも男であるから動物として当然の本能なのかと今まで思っていましたが、
思い出してみるとすごく変な行動を私はしていました。
当時、私は何故か友人につらく当たられたりすると
そこに母はまったく関係ないのに、
「お母さんがかわいそうだ、母を守らなければ」
と母もその友人につらく当たられるかもしれないと思って
心配することがよくありました。
そして、かわいそうな母を想像し胸がギュッと切なくなって苦しくなり
その心に
「お母さん大丈夫だよ、僕はお母さんを守ってあげるよ、
僕はいつまでもずっとお母さんの見方だよ。
安心して。僕はお母さんとずっといっしょだよ」
と言葉で言うわけではないですが、
そういう気持ちでそこをずっと見守っていました。
(また、寒い日に暖かい湯船につかる時も同じ気持ちになる時がありました。)
そしてその状態まで行くと
私はすごく暖かい場所で安心してすごしているような気持ちになり
そこに少しでも長く留まっていようとしていたのを思い出します。
また、一人で遊んでいるときや寝る前に布団の中で
何も問題は無いのに、わざと母がかわいそうだと思うような
場面を想起し、母に「大丈夫だよ、僕が守るからね」と行って
暖かい場所で安心することをやっていました。
(このような、予定調和的に辛い場所から安心できる場所へ行く
他の想像もよくしていました。)
少し自分の為になりますが、まとめる意味で順序立て思い返してみると
1、友人につらく当たられる
2、母に守ってもらおう、母のところに逃げようと想像する
(「おかーさーん」と母のもとに抱きしめられようと駆けていく想像)
3、母の元につくと、母がかわいそうになる。
「お母さん、僕が守ってあげるよ」となる
その場所で母に抱っこされてあったかく感じて、そこにずっといたくなる。
母以外にも、祖母や父でも回数は少ないですがやっていました。
最初は母ばかりでやっていたのですが、祖母と父にこのことを知られたら
嫌われて捨てられてしまう、酷い人間だと思われたくない、というような感じで
焦り、意識的に「この前は母だったから、祖母でもやらなければかわいそうだ」
と思い想像したのを憶えています。
祖母か父どちらか忘れたのですが、
「かわいそうだ、守らなければ」と思えないとなったことがあり、
あせりながら少し無理やり「僕がまもるからね」と
想像したこともありました。
母を守ると言わなければ、母の愛情をもらえない経験をしてしまっていた。
それは、家庭が崩壊するという深い不安にまで繋がっていた。
という、答えがみつかったと思っております。
こういったことは大人になってからも、少し形を変え残っています。
26歳の時いろいろと辛い事があった時
母も自分も安心できるそういう時間と場所と環境を求めているんだと思い、
実家へ戻ろうと思ったときがありました。
その時は「私の人生の目的は「母を安心させるため」だったんだ。」
「いろいろあったけど、自分が求めているものはこれだったんだ」
とすごく納得していました。
もし、竹の間で書かれていた機能不全家族の記事を読まなかったら、
分割自我復元法がなかったら
私は人生の目的を「母を安心させるため」で手を打っていたと思います。
もちろん、その目的も果たせずに不毛な結果になっていたことと思います。
分割自我復元法を教えていただき
アドバイスもしてもらい、本当に本当に感謝しております。
そう思うと、涙が出ると同時に、
「それは、嘘だ」という自分が出て来ました。
まだまだ、AC人格に揺られている私がいます。
母のことはまだまだ、掘らなければいけないと感じます。
中略
★今回、トラウマ掘り出しや報告文を書かしていただき、
その過程で、わかった最大の出来事は、
私は、自分にも他人にも、
ずっと嘘を大量につき続けている大嘘つきだったということです。
自分に嘘をついて、その嘘を守るために、
やりたくない事をやりたい事だと嘘を言って
やりたくない事をずっとやり続けるはめになっている。
それをずっとずっと繰り返している。
と言う事でした。
今までの人生は、ほとんど全部嘘だったと思います。
そして、よくブログの皆さんが言われるように
本当に、ごっそりと何かが剥がれ落ちて
自分に嘘を付く事を全部やめたいという思いが、
剥がれ落ちた後に毅然とした態度で現れました。
そこから、私の嘘ばかりつくAC人格との戦いが始りました。
はずかしながら、ほんの最近のことであります。
今も、自分が自分に嘘を知らずのうちに言ってないか
注視して行かなければならない状態です。
中略
●料理が楽しくなりました。
これは、同居人と共働きという為にやらざるおえなくなり始めたのですが
今年の4月ごろから始めた料理が7月頃から楽しめるようになって来ました。
まだ、ほんとにレシピを見てやっとやっと、と言う事も多く、
「料理している」と言い切れませんが、
それでも調味料の種類、量、食材や料理の献立を考えて、
自分の今日食べたいもの、同居人は何が食べたいのだろうか、
今日の気候的にはこれは食べにくいか食べやすいかと
食卓を想像しながらの作業は結構楽しいです。
ですが、まだ食べて「これは、うまい!!!」
というのが、まだなく、まだまだであります。
でも、この料理を始めれた事は、
「どうして今までこんなに、楽しくて身近な事に気が付けなかったのか?」
「気が付けて、自分は本当によかったよかった」
とかなり、うれしい収穫であります。
ずいぶんと前に掲示板に崩残さんが書かれていた、
「食の惑星地球」といった題材のお話を思い出し、
少しはわかったような気持ちになりました。
私は食は得られる感情や、感覚は他の趣味などに比べれば、
抜きに出て種類も得られる量も手軽で豊富で、
そして比較的リーズナブルに楽しめると感じています。
中略
そして今回、私は自分の体に対して今まで、
物凄く鈍感であった事を痛感いたしました。
今までの私は、体が痛んでも、いつも思考や感情に振り回されて
微妙な体の変化を察知する余裕がないのと
自分が本当にやらなければいけないと
命をかけるほどに思えないことばかりなので
体を大事にしなければという必要に迫られることが少なく
動けなるほどに痛めるまで、気が付かない。
また、毒親に恫喝されたように、命令して奴隷のように扱い
体なんて、自分の命令どおりにやってれば良いんだ。
と思っていたことがわかりました。
また、私が痛めた場所は背中の筋肉で、
そこが原因となり腰の神経へ痛みが走るようになったのですが。
その筋肉を傷める原因になりやすい姿勢は猫背であり、
前屈が出来ない人がなりやすいと病院で言われました。
そして、幼少期のアルバムをみると、
私は2、3歳の頃から物凄い猫背だったとわかりました。
また、私は憶えているだけでも5歳ごろにはもう、
前屈で手が足首までも届かなかったことを憶えています。
腰痛の原因の根本に父の恫喝によって猫背になって萎縮したという
トラウマがあるのだと思います。
今後、掘り出してみます。
中略
●頂いた匂い袋について
トラウマ掘り出しをする際に、ふと匂い袋をただ持っているだけだなと思い、
書をファイルなどに収めるのではなく、
そのまま壁に貼り付けるという崩残さんの掲示板アドバイスを参考に
匂い袋を鼻にあて、思いっきり匂いを吸い込んだことがありました。
その匂いを脳へ送るイメージをしたところ、
過去の忘れかけていた思い出がいくつか、よみがえり、
それ以来、気が付く限り匂い袋の匂いを嗅いで気合をいれ、
記憶を辿るということをしています。
また、先日、自我判定の際に頂いたお手紙を読み返した時に
やっと気が付いたのですが
私の回収時の赤いリングの色に合わせて匂い袋の色を選んでいただいたのでは
ないかと思いました。
もし、そこまでお心使いされているとしたら、
今まで気が付かなかったことは、申し訳ないと思っています。
中略
やりたくない事をやることは、
いいたくない事を言うことに繋がり
いいたい事を言えなくなり、
そして、気が付けば
やりたい事をやってない。
私がやっていることは、その典型であり、
それを、体が壊れるまでやっていました。
その後、腰が少し良くなり開放感から、
途中自分の感情に大きく振られて、
余計な事ばかりしてしまうことがありましたが、
その感情がAC人格でありそれを押しのける事が解除、
復元が進むことになるのではないかと思い、本格的に掘り始めました。
その際、自我復元ブログの方々の記事がすごく参考になり、
やっと読むことが出来るようになったと思った時期もあり大変助けられました。
新子さんの座ってやる呼びかけ、回収も取り入れさせてもらっています。
現在、自分が自分に大嘘つきであった、
そのせいで他人に大しても嘘つきになっていた。
という現実が理解できてから、一段と決意が固まり、
まだ報告文へまとめるまでになっていない掘り出し最中の物や、
普段不安になる、焦る原因が掘った物と結びつき出すなど、
課題がごろごろと、出てきている状態にあります。
私は、宇宙までの道は、そんなに簡単なものではないであろうと考えております。
来年は、覚悟を決め、他人の都合、自分の感情を阻止して
このまま自我復元一本で突き進む覚悟であります。
今後も判定申し込み、中間報告文など、お送りする事があると思います。
その際は、お手数をお掛けすると思いますが。
どうか、よろしくお願いいたします。
お忙しい中、最後まで長文にお付き合いいただき、本当に有難うございました。
それと、ものすごく余談になりますが、
私は博士君の背中の感じがとてもとても大好きです。
それでは、寒くなると思いますので、お体にお気をつけ良いお年をお迎えください。
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■この方の今回の報告文は、プリントアウトして60ページに及んでいました。
どうでもいいような「日記のような文」が延々と40ページ書かれている報告とか、
まったく感情が掘れていない、ただの過去の記憶の羅列で、
トラウマ堀りにもなっていない文が50ページとか
そういう読者の方からの報告を読まされてしまう事もありましたが、
今回の60ページは、質がありました。
実は、この方のこの報告の中にある、
「妹のことを、毒父のように、いじめたこと」、
そしてそれが、
「妹が生まれた後から、自分に与えられなくなった、母親からの愛情への飢え」に起因する、
と、そのように単純に、それをこの方のAC人格の原因として、
推測してはならないのです。
巷の安物カウンセラーならば、それで原因が分かったと思い込んで、
病名をつけたり、薬まで出すでしょうが。
この方の機能不全家族問題は、私の観察によれば、
母親だけではなく、もっと「父親」を掘る必要があります。
さらに、少し前の投稿で書いたように、
御自分の「両親のそれぞれの生育環境にいた(貴方の)祖父母」を、
どうしても調査する必要があります。
そのことを、判定の手紙の中で、この方には強く勧めました。
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