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★分割自我復元★その297■ 【親への失恋と奈落の底へ落ちる絶望】
by:
鈴木崩残
2013/12/27(Fri)09:37:46
『何度も泣かされる』
「泣かされる」といっても、虐待を受けて、何度も泣かされる、
という話ではありません。
私が、何度も、何度も、皆さんからの報告に泣かされるという意味です。
私の一生の中でも、今年ほど、涙した年はありません。
それぞれの人達からの、トラウマ掘りの報告の種類、境遇は、さまざまですが、
その人が、トラウマの原因に突き当たったとき、
そして理解したとき、あるいは、何かが氷解したとき、
私は何度、頬を濡らしたか分からない。
その感情は、複雑で、決まった感情はない。
それは、その人の報告が放っている、苦しみや、不憫さに対する、
「同情」でもあったり、「共感」であったり、
「喜び」であったり、「安堵」、ときには「感謝」であったりもする。
しかし、一言で言うならば、
その圧倒的なリアリティーと、
そのリアリティーに、ついに、直面する目を、
その人が取り戻した、または取り戻しつつある、
その現象の、悲しさと、美しさとか、そこに同時にある、
そのことが、私の中から複雑な涙を溢れさせる。
そして、自我を取り戻せた人を見ると、本当にほっとするのだが、
しかし、最後の最後に、私に残るのは、怒りだ。
どうして、なぜ、この惑星の人間を、こんな状態にしてしまったのか。
最初は、何ひとつとして、人間の側の責任などなかった。
なのに、なぜ、自我を希釈などしたのか。
いいや、原因も経緯も、それがロクでもない手抜き産業を
動機にしている事は、おおかたは分かっている。
絶対に、許されないことを、「彼ら」はした。
そして、気がつけば、人間としての私たちは、
私たちの毒親と、全く同じことをしてしまっていた。
正しく言うと、彼らは、私たちの親ではなく、ただの「生産管理者」だ。
人間は、自分たちが、生産効率のために、
魂、すなわち自我を希釈された、
それと同じことを、動植物たちに対して行ってしまった。
人が、生の中の苦痛と快楽の往復を楽しむため、を基準にするのではなく、
大量の人口を食べさせて社会と経済を維持するという、
ただそれだけの事のために、
ただただ、そんなことのために、
大量生産を目指し、化学肥料を大量に撒き、
養殖場で、魚介類を生産し、
家畜小屋の中で、動物の自由を奪い、
首だけ出して、餌を食べさせられる鶏は、解体されるためだけに生き、
早く育て、早く大きくなれ、早く人間たちがお前らを食えるようになれ、
と、それだけを強要された。
「出荷できる量さえ揃えばいいんだ」「味なんか分かる奴はいない」
そうした最低、最悪の生産者が、この地球のここ数百年か数千年を
支配または管理し、
結果として、自分たちがやられたことを、そっくりそのまま、
人間は、動植物たちに対して、行ってしまっている。
作物や家畜の栄養価は激減して低下し、抵抗力は落ち、
愛されて育てられることもなく、感謝され、愛でられて食べられることもなく、
ただ「消費」されてゆく「消費物」となった、生物たちと人間。
●これは明らかな「脱法詐欺」である。
全自我であることが保障され、その保障されていたことが
あまにりも、当然のこと、当たり前のことであったために、
誰一人も、それが分割されるなどとは思ってもいなかった。
ところが、それが、
「あなた、分割に同意しましたよね?」という、同意を理由に、
人類をどんどんと、細分化して、感情や思考の放つエネルギー成分の
生産量ばかりを維持しようとした。
地球という「施設利用」の契約条項の観点から見れば、
これは、あきらかな、「違反行為」である。
しかし「契約書の同意条項」に「あなたは同意をしました」
だから、文句は言えませんし、不具合も出ます、
ということをやり始めた、どこかの連中が存在する。
だが、そもそも「契約内容に違法性がある場合」、
その契約は「契約無効」となる点では、地球の法律も、宇宙法も、
大きな違いはない。
自我を分割するということは、粗悪品を提供することになるのであるから、
利用施設の管理組織側の犯した、商法違反であり、刑法違反である。
自我の希釈ということが、どれだけの危険性と、不具合と、
生命の劣化を人間種にもたらすか、
むろん、そのことに、利用者である私たちも、無知だった落ち度はある。
しかし、騙される側よりも、騙す側に、絶対的な悪があり、責任がある。
それが私の見解である。
作物の生産者、または管理者が、
作物に対する、哲学もなく、愛情もなく、
「薄めて水増して、売れて、食っていければ、それでいいさ」
このくだらない、下劣で、
救いがたいほどの美学の欠如、価値観の劣化、
これが、地球を、そして皆さんのいる人間世界を、
ここまで醜くし、皆さんの代々続いた家系の親と、
そして、皆さん自身を劣化させた、
ほんとうにくだらない、原因と理由でした。
こういうことこそ、
「二度とやってはならないこと」「二度と繰り返してはならないこと」
と言うのである。
皆さんからの報告に、多くの涙を流したあと、
最後に、私の中に残るのは、
「憤り」である。
あの連中だけは、絶対に、許すことはない。
そして、いかなる処罰、いかなる刑罰の執行が適切であるか、
そのことを、私は思うようになる。
宇宙においても、どういう、生物、種族、文化であっても、
「質より量」、これが動き始めたときから、その世界は地獄と化し、
監獄と化し、拷問のような経験が始まる。
では、なぜ、
「質より量」などという、馬鹿げたものが、はびこるのか。
あきれることに、そのたったひとつの理由は、
「元の設計からすれば、
不服ある、ぎりぎりの生命の状態になったとしても、
生かしておいて、維持した方がいい」という、
そんな、本末転倒の「生存重要主義」の妄想なのである。
「空腹で、まずいものを食って、栄養のないものを食って、
ぎりぎりの状態でも、死ぬよりはマシだし、
死んだら、おしまいだし、可能性もなくなるから、
だから、我慢して、生きていろ、生きていなさい、生きているのが正しい」
冗談じゃない。
死んだ方がマシな劣悪な環境、
ただ、ぎりぎりで命を繋いでいる生命など、
生命ではない。
*********
さて、以下に、報告文を掲載します。
私が泣かされた報告のひとつでした。
「何が」、あまりにも悲しいか、そのことは最後に記します。
個人情報を削除したことと、一部、割愛したことを除けば、
ほとんど原文どおりの掲載となります。
*********
崩残様
いつも大変お世話になっております。
本日は両親に関しての報告をさせて戴きます。
私は今まで、両親のことは、ある程度、掘れたつもりでいました。
表面をなぞっただけで、まったく掘れていなかった。
恥ずかしいことに、
ご指摘いただくまで、そのことにさえ気がついていませんでした。
****
まず父親の性格についてです。
自分の感情を表現することが苦手で、特に怒りをあまり表に出さない、
出せない人で、口数の少ない人でした。
男らしいというより、ひとあたりの柔らかい人という印象が強い人でした。
子供の頃に大声で怒鳴られたとか、勉強しろとか、
ぐだぐだ小言をいわれたとか、という記憶がほとんど出てきません。
父の叱り方は言葉で叱るというよりも、
おでこか手の甲に、「指ぱっちん」か「おしりぺんぺん」をする人でした。
それも力いっぱいするほどではありませんでした。
姉とけんかをして、なかなかやめようとしない時などには、
ほらほら、もうそろそろ止めないかと言う感じで、
姉と私、二人のおでこをごっつんこして
「ひきわけ」で終わりにすることがよくありました。
普段、怒った表情をあまりみせない父親でしたが、
プロレスを見ている時だけは別人になっていました。
プロレスが好きで、毎週のようにテレビを見ていました。
最初は静かに見ているのですが、しだいに興奮してきて顔が赤くなってきて、
テーブルを両手で持って、うぅう〜〜と唸ったり、掛け声をかけ始める父でした。
普段とは違うそんな父親の様子を、私はとても不思議な気持ちで見ていました。
たまに母と口げんかをすることもありましたが、
どちらかというと、母がぐちぐち小言を言い始める感じで、
父はそれを聞き流しているのですが、
それに我慢できなくなると表情が変わってきて、
二人で大声になって言い争うこともありました。
また、数日お互いに口をきかなくなって、
家のなかが重い嫌な雰囲気になったこともありました。
あっ、けんかしたんだなぁ・・・と分かるので、
そんな時私は、早く仲直りしてくれないかなぁ、と思っていました。
そして、いつもの二人になってくれると、ほっと安心する私でした。
小学生の頃、
父が母の頬を平手で殴ったような場面を見た記憶が一度だけあります。
けんかの原因がなんだったのかは分かりませんでしたが、
母が興奮して、泣きながら父に体当たりでむかっていったのですが、
父は母の両手をつかんで、たたみに組み伏せたのを記憶しています。
しかし、そんな夫婦げんかを見ていても、子供ごころに私はこう思っていました。
「なんで、おかあさんは、おとうさんのこと、もっと大切にしないんだろう?」
私は父親の味方になって、二人の様子を見ていることが多かったように思います。
中略
家の経理面など金銭関係は、専業主婦の母が主になってしていたと思います。
自宅兼お店でしたので、幼稚園や学校から帰って来ると、
ほとんどいつも、父と母が家にいました。
お店は日曜日がお休みでしたので、
父はほんとうによく色々なところへ家族みんなを連れて行ってくれました。
海、山、公園、遊園地、動物園、植物園、神社参り、温泉、映画、デパート、スケート・・・・・
家の中や外でもいっしょによく遊んでもらいました。
雪合戦、そりすべり、サイクリング、ボール遊び、サーカス、お馬さんごっこ、・・・・・
今度はどんな所へ連れて行ってくれるのか、
私は次の日曜日がくるのを楽しみに待っていました。
崩残さんのお手紙にありましたが、
私は、遊びに連れて行ってもらうと、うれしくって、楽しくって
ほんとうに「きゃっきゃ」して、あちこち走り回るのが好きな子供でした。
幼稚園のころの記憶で、思い出すのが、「お遊戯」です。
私は小さいころから踊ることが好きだったようで、
その日、幼稚園で憶えてきたお遊戯を父に見せたくて、見てもらいたくて
急いで家に帰ってきて、仕事中の父の前で踊ってみせたり、
お店の前の、人が行きかう道路に出て、
ひとり得意になって、知らない人にも踊って見せていたことがありました。
そんな時、父は笑って私のことを見て、褒めてくれた記憶があります。
(母親も居たはずだと思うのですが印象にありません)
小学生低学年の頃、仲良しの子の家でブルドッグの子犬を飼っていて、
それが私はとってもうらやましくて、
子犬がほしいと父親におねだりすると、
父はどこからか、猟犬とのMIXの子犬をもらってきてくれました。
その子犬は男の子だったので、私は弟が出来たようで大喜びしました。
そして、私は父親を呼ぶとき、
「おとうさん」という言葉が自分にはどうもしっくりこなかったのか、
柄にもなく、いつの頃からか「ぱぱ」と呼ぶようになっていました。
しかし、小学生になり、まわりの友達のことを気にし始めるようになってからは、
徐々に「ぱぱ」と呼ぶのが恥ずかしくなってきて、
いつのまにか「おとうさん」の呼び方に変わっていきました。
私にとって、誰よりも一番好きだったのが、おとうさんでした。
あの日までは。
以前にもメールで書きましたが、
「子供は二人ぐらいがいいよ・・・」事件。
あの時の私は、
あんなに私のことを可愛がってくれていた、
あのおとうさんが言った言葉だとは、どうしても信じられなくて、
ものすごいショックでした。
以前、トラウマを掘っていて、
この時の感情がだいぶ出てきて、かなり泣き叫びました。
しかし、今回出てきたのは涙ではなく、
怖くて、怖くて、怖くて身体中に寒気がはしって、
ぶるぶる、ぶるぶる小刻みに震えている私でした。
とにかく怖くて、怖くてしょうがなかった。
この人は私のおとうさんじゃない!!
おとうさんなんか、大っ嫌い!!
私はあの日のおとうさんを消したくって。
あんなことを言ったおとうさんを、消してしまいたくって。
あんなことを言ったおとうさんを、どうしても許すことが出来なかった。
私のことを裏切った奴のことが許せなかった。
ばかやろうー!!
てめーなんか、とっとと死んじまえっ!!
私の頭の中は、この憎しみの言葉でいっぱいになっていました。
小学高学年、中学、高校・・・
家でおとうさんとの接触はもうほとんどありませんでした。
会話らしい会話もしなくなり、
私は父の存在を無視するようになっていきした。
父親を怖がるどころか、女の子とは思えないような、
ふてぶてしい態度の醜い嫌な女になっていきました。
心の中では常に父親のことを「この、ばかやろう・・・・」と思っていました。
思っているだけではなく、
私は父親に向かって凄い言葉を吐き捨てるように言ってもいました。
それでも、そんな私に対し父親は何故か黙っていました。
怒って、思いっきり私のこと、ぶっ叩いてくれたらよかったのに、
そしたら、
もしかしたら、私はもっと素直な気持ちをおとうさんに出せたのかもしれないのに。
今、こうして書いていて、急に涙がとまらなくなってしまいました。
ほんとうは、ものすごく寂しかった。
ものすごく寂しかったのに・・・・・
私は、この正直な気持ちには触れないように、触れないようにして、
奥深くにずっと隠し続けてきてしまいました。
あんな悪態をつきまくっていた私、
あの時の私はAC人格に乗っ取られた私でした。
(あの時のこと、「ごめんね、おとうさん」って 一言、どうしても言いたい。)
今までの私は、
おとうさんが死んだのは、私の長年の「恨み」が原因だったんだと思い続け、
自己嫌悪と罪悪感に取りつかれてしまっていました。
私がおとうさんを呪い殺したんだ、
という妄想でしめくくっていました。
そして今までは、
常にこの時点で思考をストップさせ、
掘り下げることをやめてしまっていました。
しかし・・・・・
ここから、さらに掘り進めていってみると
私の本当の気持ちはまったくちがっていました。
あんな心無いことを言ったおとうさんだけど、
そして私はあんなに、おとうさんのことを憎み続けていたけど、
でも、心の奥深く、本当の心の中は、
やっぱり、おとうさんのことが大好きでした。
そして、今もやっぱり大好きなんです。
でも今までの私には、この正直な気持ちを認めることが、
どうしても出来なかった。
自分の感情を素直に見ることが、どうしても出来ませんでした。
どうしても、あの時の辛く苦しい感情にとりつかれ続けてしまい、
憎しみの感情にしがみつき、
そこから抜け出せなくなってしまっていました。
もしも 「このこ」だったら
あの時、おとうさんにすぐ、こう聞いているとおもう。
「どうして おとうさん そんなこというの ?
わたし が いらないってこと ?
わたしのこと きらいなの ?」
きっと、これだけで、ほんとうは納得できていたのだとおもう。
崩残さんが感じた、
ずっと少女のまま止まっている部分があるような雰囲気・・・・・
ということの意味がやっと分かったように感じています。
おとうさんとの楽しかった記憶を私はどうしても忘れることができなかった。
出来ることなら、ずっと、あのころのままでいたかった。
子供の時のあのころ、私はとっても幸せでした。
だから出来ることなら、時間を止めてしまいたかった。
しかし、ここまで掘り進めてきて、
今やっと素直に、 おとうさんのこと大好き! って正直に言えて、
少しほっとしたのに、
でも、何か。
どうも、何かがすっきりしない。
この、もやもやとしたひっかかりは何だろう、
何なんだろうと探ってみても、
なかなかたどり着けない・・・・・
だいぶ日数が経過してから、やっと・・・
この、もやもやの正体が見えはじめてきました。
それは、
「死」 を避け続けてきたこと。
「死」 を見ないように、見ないように、逃げ続けてきたことです。
あの日の朝、コタツにあたっていた父は、
急に「頭が痛い! 頭が痛い!」 と叫んで倒れました。
その時、母と私ふたりが家にいました。
父の苦しんでいる様子を見た瞬間、
私は怖くて、怖くて、その場にいることができなくて、
とっさに隣の部屋に逃げ込んでしまいました。
私は、父の苦しみ叫んでいる声を、
どうしても聞いていることができなくて、
両手で耳をかたく塞いで、身体を小さく丸め、
隣の部屋の隅っこで、がたがた、がたがた震えていました。
母親がすぐに救急車を呼んで、家に車が到着する間、
私はとにかく、怖くて怖くて、
隣の部屋でただただ震えているだけでした。
「死」に直面している父親のそばに居てあげることもしないで、
私は目の前でおこっている 「死」 から逃げました。
恐怖のあまり。
あの時といっしょです。
14歳の時の私と。
知り合いの犬が、目の前で事故で死んだ時、
何もせずに逃げてしまった、あの時の私と。
「死」に対する強い恐怖。
そこから私はいつも逃げてしまう。
どうして、私は「死」をこんなに怖がってしまうのか。
私が肉が食べられなくなった原因となったのは、
小学校入学前の頃に見た、毛のない丸裸の鳥の死骸でした。
あれ以来、私にとって「肉」は食べ物ではなく、
死を連想させてしまうものでした。
そして、小学生だったあの当時、通学路にはなぜか、
ねずみの死骸が置き去りになっていることがよくあって、
私はそれがものすごく怖くって、(ねずみが一番苦手ということもあって)
飛び跳ねるようにして、その場から走って逃げる子でした。
そして数日間はその道を通らずに、遠回りをして学校に通うほどでした。
中学の時の理科の授業では、
ホルマリン漬けの瓶に入った、
動物の解剖の標本をクラス全員にまわして見る時間がありました。
私はそれを見るのも触るのも、どうしても怖くって、
私の席に、その瓶が回ってくる前に、前の席の子に頼んでおいて、
私の机の上には置かずに、私の所を素通りさせて、
後ろの子の席に渡してもらっていました。
高校の時には、
二人一組でかえるの解剖をする授業がありました。
その時にも、私はどうしても解剖は出来ないと言って、相方に頼みました。
その間、私は先生に気づかれないように、下を向いて目を閉じていました。
まわりの友達はみんな、平気で解剖していましたが、
私はとても怖くて、その場に居ることがやっとでした。
こんな怖がりの私でしたので、子供の頃は猫がまったく苦手でした。
ねずみや鳥を捕まえて口にくわえてきたら・・・
と思うだけでも、ぞっーとして、とても猫は飼えませんでした。
現在の土地に住むようになって、猫達との不思議な出逢いがあって、
一緒に生活するようになってからは、必然的に鳥やねずみを埋葬する機会が増え、
徐々に「死骸」に対しての恐怖は薄らいではきました。
が、今でもやっぱり苦手です。
私は子供の頃から、
「死」の恐怖が異常に強いのではないのかと感じています。
どうして、こんなに「死」を怖がるのか??
これから、さらに深く掘り探っていかなければいけない、
大きな壁のように感じています。
*****
次に母親についてです。
私の母親は、現在**歳です。
背中は丸くなり、身体もだいぶ小さくなって、沢山の持病を持ってはいますが、
まだボケることもなく、現在も一人で生活しています。
母親は普段、外ではおとなしく、自分の考えをはっきり言うことや、
人前に出て何かすることがあまり得意な方ではなく、
心配性で引っ込み思案な人です。
また、人間関係を穏便に維持しようとし、自分を抑えてしまう傾向が強い人です。
しかし、私が子供の頃の母親は、
おしゃべりな人ではないのですが、家では小言の多い人でした。
父親が無口だったせいもあるのかもしれませんが、
あーしろ、こーしろと言うのは圧倒的に母親の方が多かったです。
そして、少ない収入での生活のやりくりは母親が主になってやっていたので、
生活全般の主導権は母親の方が握っていたように思います。
中略
子供の頃のことで、母親と父親のやり取りで記憶に残っていることがあります。
父親は生真面目な人でしたので、修理などの仕事を受けると、
お客さんに引き渡す前に、汚れを出来るだけきれいに掃除して、
ぴかぴかにして返してあげることが好きだったようです。
しかし、その時は仕事が立て込んでいる時だったのだと思うのですが、
母親はそんな父親の様子に、いらいらしていて、
「そんな頼まれてもいないことまで馬鹿丁寧にすることないでしょ!」
と怒鳴っていたことがありました。
それに対して、父親がどんな様子だったのかは記憶にないのですが、
私はその場に居合わせていて、
なんだか、とっても寂しい気持ちがしたことだけは覚えています。
おとうさんは、お客さんが喜んでくれればと思って、きれいにしてあげてるのに、
それを、なんにも怒ることはないでしょう・・・
冷たいおかあさんだなぁとその時思いました。
中略
***
ある時期、
我が家に住み込みで、一人の若い男性が父親の下で働いていたことがありました。
母親は私達にだけではなく、
その人にも、口うるさく、注意していたように記憶しています。
早く起きるようにとか、早く片付けるようにとか、早く食事をすませるようにとか。
以前にも書きましたが、母親は、
「早く・・・しなさい」という要求の多い人でした。
自分の狭いテリトリーの中でだけは、母親は強くなり、
人を自分の思うように動かそうとする人でした。
母親は外ではやさしい口調で、はずかしそうに話す人なのですが、
なぜか家の中では、小言でも口調がきつく、しつこくなるのです。
ですから、私は母親のことが、うっとおしくなって、
ちょっとしたことで、口げんかになってしまうことがよくありました。
父親が亡くなってから、私が引っ越すまでの数年間は、
母親と私、二人だけで生活していた時期がありました
この頃の時期だったと思うのですが、
母はよくこんなことを私に言っていました、
「一人男の子がいればねぇ」
「男の子がいてくれたら良かったのにねぇ」
「だれか一人、男だったらねぇ」
そして私はこの言葉を聞くたびに、むかむかしてきて、
「そんなにほしいなら、今からつくって産めば!」
と何度か母に言ったことがありました。
中略
母親がしつこいと言えば、今思い出しました。
小学生のころ、母親は私に、一度だけでなく何度も
「あんたの鼻、あと3ミリ高かったら良かったのにねぇ〜」とか、
「おとうさんの鼻に似ればよかったのにねぇ、可哀そうに私に似ちゃってねぇ・・・」
と言い出したことがありました。
それまで私は、自分の鼻は低いとは思っていましたが、
この低くて、ちょこんとした丸い鼻が私らしくて好きだと思っていました。
それなのに、母親ときたら、わざわざ、
私がコンプレックスをもってしまうようなことを平気で言ってしまう毒親でした。
「そうか、私の鼻はかっこわるいのかぁ、この低い鼻では駄目なんだなぁ・・・」
と、私は思うようになってしまいました。
母親は、自分の子供が傷つくだろうということすらも考えられないのか??
まったく、信じられないほど鈍感な人でした。
***
母親は10歳の頃に実母を病気で亡くしましたが、
私の母親の母親(祖母)が亡くなった時、
私の母は、悲しくて、悲しくてよく泣いていたらしいのですが、
母は自分の父親(祖父)から、
「お前が泣くと、おれも悲しくて泣きたくなるから、泣くな・・・」と言われたそうです。
それから母は、泣かないように我慢した、と話してくれたことがあります。
私の推測ですが、
祖母が亡くなった時、母はまだ10歳だったということもあって、
周りの大人達は母親のことを心配し、
必要以上に気にかけすぎたのではなかったのかと思います。
また、当時のことを母親に聞いてみた事があるのですが、
母は、友達皆にはおかあさんがいて、とっても羨ましくてしかたがなかったそうです。
父親、兄、姉、叔父、叔母、いとこ・・・みんなに可愛がってもらったけど、
なんで、私にだけは、おかあさんがいないのか、
と、いつも思っていたそうです。
「やっぱり、母親がいなくて、すごく寂しかった。」
と話してくれたことがあります。
母親がなぜ、
「○○おばちゃんの子供になる?」と、私や姉に言ったのかを、
もう少し深く掘り進めてみました。
当時、母は、他の子達、
「母親のいる友達」に嫉妬していたのではないかと思います。
その時の、母の嫉妬の感情が、いつしか、
ちょっと、いじめてやりたい感情に変わっていき、
子供の頃に深く押し込めてしまった、その時の感情が、
姉と私に言った、「あの言葉」になって出てきたのではないのか。
と、最近ふと思いました。
あの時、母親の中では、
私と姉が、
当時の「母親のいる友達」になっていたのではないのかと思います。
***
母親の口調、口癖に関連することなのですが、
以前の私の口調は母親とそっくりでした。
特に語尾がきつくなる言い方をしていました。
自我復元をする以前に、友人や彼に言われて気がついたことなのですが、
例えば、私が「えっ?」と聞き返したその一言が、
友人には、私が何か怒っているように感じたらしいのです。
しかしその時、私は友人が何と言ったのか、よく聞こえなかったので
「えっ?」と、ただ普通に聞き返したつもりでした。
しかし、その友人が私に
「ちょっと、その言い方怖いよ。 何か私のこと怒ってるの?」と言ったことで、
私は初めて自分の口調がきついことに気がつきました。
それから母親がよく言っていた例の、
「さっさと・・・・してよ」(早く・・・してよ)
この言葉も以前によく、私は異性に言っていたことがありました。
「さっさと片付けてよ」 「さっさと起きてよ」 「さっさと行ってきてよ」・・・
狭いテリトリーの中で、相手より自分の方が優位と感じると、
相手を自分の思うように動かそうとする。
まったく、これも母親のコピーそのままでした。
恐ろしいです。
毒親の毒が私の細部まで浸透してしまって、
毒親そっくりなAC人格が出来上がっているのですから。
あれから、私の口調もだいぶソフトにはなってきたとは思うのですが
ふとした瞬間に、以前のきつい口調がまだ出てきて、はっとする時があります。
今の自分にはまだ分かりませんが、
本来の私の声、話し方というものが、きっとあるのではないのかと感じています。
そして、数年前に気が付いたのですが、面白いことに、
姉(長女)の言う「えっ?」の口調が、
以前の私とまったく同じなのには苦笑してしまいました。
やっぱり、きつく、鋭く聞こえる言い方なのです。
***
そして、
もっと幼少の頃の記憶になりますが・・・
私は母親のことが大好きだったことを思い出しました。
夜寝る時に、母親は毎晩のように私に添い寝してくれて、
昔話をしてくれたり、絵本を読んでくれました。
そして、母は私の背中をやさしく撫でて寝かせてくれました。
それがとっても気持ち良くて大好きでした。
そして、旅行かなにかで母親が家にいない夜には、私は寂しくって、
母親の匂いのする物を探してきて、それを抱いて布団に入って寝ることがありました。
こうして書いていて、今思ったのですが、
あんなに父親のことが私は好きでしたが、
父親がいない夜に、
寂しくって、父親の匂いのする物を抱いて寝た記憶は一度もありません。
幼少の頃の私にとって、母親という存在は、父親とはまた違う、
かけがえのない特別な存在だったのだろうと、今あらためて思います。
***
それから重要なことを忘れていました。
「子供は二人ぐらいがいいよ・・・」と父親が知人に言った時、
そばに母親も居たはずですが、それに対し母親は一言も何も言いませんでした。
私はあの時、
母親が「そんなことないよ・・・」と言ってくれることを期待していました。
しかし、私のその期待はすぐに崩されました。
私は父親を憎むと同時に、
母親に対しても自分の気持ちを閉ざすようになっていきました。
結局あの事件後から、
両親に対する私の気持ちは180度変ってしまいました。
おとうさんなんか大嫌い! そして おかあさんも大嫌い!
私は家に居ても、心安らぐことはなく、
次第に無口な暗い子供になっていきました。
「きゃっきゃ」と飛び跳ねていた、あの頃の私は、
いつのまにか何処かへ消えて、いなくなってしまいました。
そして、私は学校でも、口数のすくない、おとなしい女の子でした。
おしゃべり好きな女の子の友達の中にいても、
私は自分のことはほとんど話さずに、いつも聞き役にまわっていました。
この聞き役というポジションは私が大人になってもずっと変わりませんでした。
(私にとっては本当はどうでもいい話だけど・・・)
あなたの話聞いてあげるわよ、もっと話していいのよ、
という態度を装って、嫌われないように、関係性を保持しようとしてしまう私。
まだまだ、この悪癖を完璧には脱してはいませんが、
これもまた、やっぱり、母親そっくりでした。
*********
引き続き、掘り進めるべきことが沢山ありますが、
今回の報告はひとまず、ここまでといたします。
以下、アンケートにお答えいたします。
_______________________________
1
無明庵のサイトは、2003年頃から拝見していると思います。
以前から無明庵の本を読んでいましたので、拝見するようになりました。
2
書店で和尚の本に出逢ったのがきっかけです。
3〜6
子供の頃から漠然と感じ続けていた、自分自身に対する違和感と不快感。
何かが、しっくりこない、不安感。
時々感じる「これは私ではない」という感覚。
この感覚がいつも私に付きまとい、
「何かが変だ」と感じていた私でした。
私が小学3〜4年生頃の冬休みでした。
詩を書く宿題がありました。
冬休みも終わりに近づいてきているのに、
それでもなかなか書けないまま、冬休み帳を目の前にして、
私は一人、茶の間のコタツにあたっていました。
そして何気なく、ふと横を見ると、
壁にかけてあった鏡に私の顔が写っていました。
そして、鏡に映っている自分の顔を見た、その瞬間、
私は瞬きもせず、自分の顔をじっと見ていました。
今でも、あの時の情景が鮮明に記憶に残っています。
そしてそのすぐ後、
私はすらすらと詩を書きはじめました。
こんなような詩でした。
「不思議だなあ。
どうして、自分で自分の顔が見えないんだろう。
鏡をみても、本当の顔じゃない。
写真を見ても本当の顔じゃない。
他の人の顔はあきるほど見られるのに。
一度でいい、自分の本当の顔が見たいな」
そして、詩の題名は「本当の顔」とつけました。
私はあの頃から、
自分のことが嫌いになり始めていたのだと思います。
たいして楽しいとも感じていないのに、
楽しい振りをして友達と遊んでいる自分。
家では暴れまわっているのに、
学校では、小さくなっておとなしい女の子を演じている自分。
うまく誤魔化して、
食べてもいない給食を、食べたような顔をしている自分。
嘘をついている自分。
どんどん嘘つきになっていく自分。
誤魔化すことがどんどん得意になっていく自分。
そんな自分が嫌で嫌で、でも、どうしたらいいのかも分からない。
いつも不安で、緊張している自分がいたことだけは確かでした。
私はずっと、こんな自分をどうにかしたいと思いながらも、
一体何をどうしたらよいのかがまったく分からず・・・・・。
ただ苦しくて、苦しくて。
とにかく、何とかしたかった。
どの自分が一体、「本当の自分」というのか
それすらも自分では分からないけれど、それでも、
「これは私じゃない」
「この私は何か違う」
「何かがしっくりこない」・・・・・
この感覚だけをたよりにして、彷徨い続けてきました。
私は、こんな自分をどうにか変えることが出来るかもしれないと期待し、
インドの和尚の所で色々な瞑想や、ワークショップを散々やってきました。
しかし、どうにかしたいと思っていた自分は、どうにもならず、
結局、根本的には、まったく、何も、変わっていない、
以前とまったく同じ、自分がいただけでした。
この現実に突き落とされた時、
私が今までやってきたこととは、いったい何だったのか。
今までの「自分」とはいったい何だったのか。
何を手掛かりに、この先をどう生きていったらよいのか、どう生きたいのかも、
もう私にはまったく分かりませんでした。
結局、私は、自分の問題を本気でどうにかしたいとは、
これっぽっちも思ってなんかいませんでした。
自分の問題には目もくれず、
ただ和尚という存在に憧れ続けてきただけでした。
本当に馬鹿まるだしの低能人間でした。
そんな時、出逢ったのが無明庵のEO氏の本でした。
私が理解できるようなレベルの本では、まったくありませんでしたが、
こんな凄い日本人がいたんだという衝撃と嬉しさに、夢中で本を読みました。
それから私は、
とにかく、今までやってこなかった、
あたりまえの生活を、
一つ、一つ生き直してみるしかないと思いはじめました。
地に足を着け、自分の身体のこと、食事のこと等、等、
今まで日常生活で手抜きしてきたことを、
一からやり直さなければと感じました。
新しい土地での生活を初めて10年近くが経過した頃でした。
それまで生活していた環境を変える必要性を感じ、
新たな居住地探しが始まりました。
私は、これからどんな場所でどのような生活をしたいのか??
土地探し、家探しをする時に、私が一番に掲げた希望はこんなものでした。
外でも家の中でも、踊りたいと思った時にすぐに踊れる場所があること。
庭に出て、すっぽんぽんになって、裸んぼになっても平気で踊れるような場所。
周りを気にしないで、思いっきり大きな声を出せるような場所。
そして、私のこの願いは、どうにか実現しました。
しかし、環境が大きく変わった生活も、
根本的には何も変わっていない、以前の自分が継続しているだけですから、
やはり、どこか何かがちぐはぐで、靄の中で生きているような、
何かすっきりとしていない、ぼやけた自分がいる、
この不快感が付きまとっていました。
そして、他人との共同生活のなかで、私は毒親をやってしまっていました。
共依存、そして無自覚に彼を自分の思うように動かそうとしていた自分。
(この点に関しても、また改めて報告したいとおもいます)
私が一番最初の禅書をお願いしたきっかけの話になりますが、
あの時、私とパートナーとは別居をしている時でした。
私は自分のPCを持っていませんでしたので、
禅書に関することは知りませんでした。
彼が禅書を注文したことを聞いた時、私は彼にこう言いました。
(ご無礼にも)
「人の書いたものを飾るより、自分で書くか、
白紙のままの紙を飾ればいいんじゃないの」と。
しかし、
彼の住んでいる部屋に行き、
壁に飾られている禅書を初めて見た時、
私は訳も分からず、涙をながしていました。
この書は「ただならぬ書」だと、何か強烈なものを感じました。
そして、すぐに禅書をお願いしなければ、と思いました。
今になって思うと、
あの時の、あの涙は「このこ」が流した涙だったのだと思います。
自分のことを救い出してくれるのは、この人だということを、
「このこ」はあの時に気付いていたのだと思います。
先日、崩残さんからご指摘がありました、
無自覚に、他人の真似をしている自分。
都合のよい妄想癖、自己演出癖のある自分。
そして、だいぶ前には虚言癖と指摘されたこともありました。
そのことが、とても、恥ずかしいです。
今、そんな自分で、生きているなんて、とても嫌です。
今すぐにでも、そんな自分を終わりにしたいです。
4
*人家族でした。
姉妹間での特別大きな問題はなかったように思いますが、
成績の優劣から二人の姉達と自分を比較するようになり、
自分に自信がもてず、劣等感をもつようになったと思います。
この点に関しても、トラウマを掘る必要があると感じています。
7
「悟りなき悟り」「手裏剣術」以外は殆ど読んでいると思います。
「バナナを創った宇宙人」は手元にありますが、
80%を超えるまでは読まないと決めているので、まだ開封していません。
8
子供の頃、一番好きだったのが、「ドリトル先生」でした。
(尊敬する人は?という質問に、
私は中学の頃まで「ドリトル先生」と書いていた記憶があります)
あと一冊選ぶなら、和尚の「存在の詩」です。
9
a: 何かを、「無自覚」にしてしまっている、
そんな自分がいるということがとても情けなく、恥ずかしく思います。
とにかく、「無自覚」な自分でいることが、とても嫌です。
b: しいて言えば、真面目なところでしょうか。
こんな自分をどうにかしたい! 何とかしたい!
と真面目にずっと思い続けてきたことだけが、
唯一評価できることだと思います。
10
関わったのは「和尚」のところだけです。
11
***の仕事をしています。
12
踊ることです。
余談になりますが、桜の間の「ギリシャ音楽」私もあの曲が一番好きです。
どこか懐かしく、初めて聴いた時、胸がきゅんとしました。
他の曲より、あの曲だと自然に踊りたくなってきます。
*
あとは、山へ行ったり、小川の流れに沿って歩いてみた・・・
自然散策を時々楽しんでいます。
13
中学3年間は、**をしていました。
小学生の頃からの友人と最初は楽しくやっていましたが、
結局、勝ち負け重視のスポーツの世界がつまらなく感じてきて、
惰性でやっていた感があります。
現在は特にスポーツはやってはいません。
が、竹の間を拝見していると、弓道をやってみたい、とほんの少し思っています。
14
今回で、人間を終わりにしたい。
もう二度と地球に生まれてきたくない、と思っていたからです。
私のこの願いを達成するためには、
「自我復元」をやる以外、道はないと確信しているからです。
以上です。
********
今年もこの一年、崩残さんには本当にお世話になりました。
心より、心より感謝いたしております。
今年という年が、私にとって、どれほど重要な年だったのか、
今、あらためて、「このこ」のことを思うと、胸がいっぱいになります。
崩残さんには言葉では言い尽くせない、感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。
今までは、判定して戴いた後や報告のメールの後に、
ほっと気が緩んでしまい、
無駄に過ごす時間が多かったことを反省しています。
やっと、半分の自我を取り戻しただけの、ぼけぼけの私ですが、
来年は、全自我に可能な限り近づくことを目指しています。
また、トラウマ堀りも手を抜くことなく継続して、掘り進めていく覚悟です。
崩残さんには
誠に恐縮ではありますが
来年も引き続き、
なにかとお世話をおかけすることになるかと思います。
来年も何卒、よろしくお願いいたします。
これから寒さも、また一段と厳しくなってきます。
崩残さん、砂手さん、博士くん、ラインちゃん、ブリちゃん
みなさん、くれぐれもお身体大切になさって、
健やかな良いお年をお迎え下さいますように。
本日は貴重なお時間を最後まで読んでくださいまして、
本当にありがとうございました。
_______________________________
■この報告の中で、いくつか、私が涙したポイントがあります。
しかし、最大級の悲しさを伴う悲劇は、
この方が、両親を、大好きだった時期がある、
そのことなのです。
これは、つらい。
本当につらいと、私は実感する。
私自身に、そのような経験はないが、
だが、想像力を最大級にしなくても、この悲しさには涙せずにはいられない。
自分が、大好きだった、親、母、父、その両方または片方、
その大好きだった人から、
「裏切られた」と思ったときに、子供の中に生まれる悲しさには、
想像を絶するものがある。
だから、私はマディアさんや、お姫ちゃんや、天音さんの報告にも
幾度となく、涙した。
生まれた最初から、ボコボコにされ、生まれてきたことを親から悔やまれ、
虐待を受けていた、そういうケースもある。
それも悲劇であり、ひどいことであるが、
それにも増して、つらい思いをしなければならないのは、
実際に、自分を愛してくれていた時期の親についての記憶がある場合、
それが一瞬で、失われることの辛さは、痛々しいことこの上ない。
次のように、たとえれば誰でも理解できることだ。
異性から、「あんたみたいなクズ、私は嫌いだから、私に近寄らないで」
そのように異性からあなたが言われたとしたら、
そこに生ずるのは、その相手への憎悪、あるいは殺意すらあるだろう。
しかし、もしもその異性が、
あなたと、本当に素敵な日々を過ごし、何ヶ月か心底愛され、
幸せの中にいたのに、それがある日、
その異性が、浮気をしていた、
その異性が、あなたを嫌いになった、
その異性が、あなたを捨てた、
その異性が、あなたの想像を超えた、あなたの許せない行為をはじめた。
そうなったら、
あなたは、「あのときのあなたに戻って欲しい」、
「あのときの、あなたは、私を愛してくれたじゃないか」
という、その過去への執着は、どんどんと膨れ上がり、
そして、
あのときに戻ってくれる可能性のない現実の前に、
あなたは絶望感に打ちひしがれる。
大人になった時期の恋愛の中でさえ、その心の傷は、一生の間残る人もいる。
ならば、子供が、その「大失恋」「大失望」「大絶望」を、
自分が最も信頼し、愛し、愛され、幼いころの日々の生活を共にしてきた、
その自分の親に対してしたら、
それは、あまりにも、つらいだろう。
一生、死ぬまで立ち直れないほどのダメージを、子供は受けるかもしれない。
だから、この報告は、悲しかった。痛かった。
私は、読んでいて、あまりにも、不憫で、不憫で、
涙が止まらない。つらかった。
もしも、ことの最初から、馬鹿丸出しの毒親で、
子供に対して、100%の「敵」であったならば、
こんな、悲劇は起きはしない。
最初は、それが、どれだけ短い期間だったとしても、
誰しもが、自分の親のことは、大好きだったのである。
実際に、親も、幼子のあなたには、一定の慈しみを投じたであろう。
しかし、それが、あるときから、豹変したり、
何かをきっかけとして、
あなたの予測を裏切る毒親になっていたとしたら、
私は、心を鬼にして、
あなたの頭をひっぱたいても、
こういわないとならない。
「優しかった、その親が、
途中から、毒親になる、
そんなことは、あり得ないのだ。
優しい親は、最後まで優しい。
もしも、それが途中から、毒親になったのだとしたら、
その親は、もともと、毒親だったのである。
ならば、
どうして、あなたの親が、そんな毒親になったのか、
その毒親の両親を調べなさい。」
*********
最後に、今回の報告の方が、以前の報告にあった、
「知っていた近所の犬の事故死を目の前にして、
動けなくなって逃げ出した、そんな自分を卑怯者だと、自己嫌悪したこと」
これは、言うまでもなく、
それが、お父さんの倒れたときの記憶と瞬時に重なったためです。
この方にとっては、すべての種類の死は、
「大好きだったお父さんの異変、あるいは死」を、
フラッシュバックさせます。
「自分が、大好きだったものが、去る=死ぬ」
「自分が、信じていたものが、去る=死ぬ」
この方が、知っていた「和尚」というインド人は、
その幼少期に、大好きだったお祖父さんの死に直面し、
お祖父さんこそ、自らの世界の全てだったと言えるものだったために、
それは自分自身の死そのものに感じられた最初の自己喪失だった、
というエピソードがあります。
対象が、大好きだった、もの、ひと、生き物、信条、
なんであれ、そこに自分の全てが、かかっていたもの、
そして、自分のすべてを、積極的に、かけていたもの、
そうしたものが、
ある日、
虚構であり、嘘っぱちであり、間違いであった、
そう気づいたとき、
その時から、道は二つに分かれます。
ひとつは、
間違っていた、嘘だった、それは使えない、死んだんだ、
という現実から、逃避するために、
悲しさを無視し、神経を麻痺させ、平気な顔を繕うとして、生きてゆくこと。
もうひとつは、
何かが、もう使いものにならないこと、
何かが、死んだこと、
愛されなくなったこと、
それが、どれだけ、みじめに感じられて泣いてもいいので、
それを「認めること」。
それを認めたあとには、死があるのかもしれないし、
絶望だけが残るのかもしれないが、
しかし、
それだけ、何かを好きになり、夢中になり、愛したことのない者は、
その死がやってきたときに、悲しむことも出来ない鈍感さの中にある。
あるいはまた、多くの場合、
そもそも、その鈍感さの中に、気を失っていった事の発端は、
物事の「事実」を直視できなかったことにある。
過去にも、未来にも、現在この瞬間にも、
その事実を、本当に「直視」できる、唯一のもの、
それが、原主体です。
だから、皆さんは、最初に、事実から目を背けて、
妄想の中に逃げ込む原因となった、幼少期の最古のトラウマを掘り、
AC人格の原因をつきとめ、その敗北という死を受け入れたとき、
やっと、人間に戻るのです。
_______________________________
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