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★分割自我復元★その313■ 【ブログの人達への手紙/その2】
by:
鈴木崩残
2014/01/19(Sun)21:46:15
自我復元ブログの方へのメッセージ
「その2」
●新子さん、
http://fukugen16.jugem.jp/?eid=46
●「あーかい はがね と みどりの な〜すーびっ♪ 」 さんへ
http://jibunnikaerutameni.blog.fc2.com/blog-entry-8.html
●どんがめさんへ
http://ameblo.jp/tekutekukamesan/entry-11745920107.html
●お姫ちゃんへ
http://haripoteko.exblog.jp/21513932/
それぞれの記事を、読ませていただきました。
その上で、ひとつ、紹介したいサイトがありますので、
関心がありましたら、ぜひ、その中のコンテンツのあちこちを
読んでみてください。(メニューのいろいろなところを開いてみてください)
↓
http://www.omoiyari.com/index.html
●私がこのサイトを紹介する理由は、読めばお分かりになると思います。
「人間に生まれるよりも、ここの乳牛に生まれたかった」
そんな声が広がっても不思議ではないファームです。
ところが、この会社の理念の「牛」を、そっくりそのまま「子供」に置き換えると、
次のように書き換えることが出来ます。
・人間の経済性・作業性・理想を子供たちに押し付けない
・子供たちの最良を子供の目線と立場で追求する
・子供たちの個性に合わせる
・年齢による上下はない
・子供を本来の姿に戻す努力をする
・子供を追い立てることはしません
・子供たちは自分のペースで生活します
・それぞれの個性に合わせて接し方を変えています
・心に異常が出るように親が作りかえた子供たちを
元の姿に戻してあげないと、物やお金だけ変えてもだめですし
かえって虐待になります
●つまり、まるで、人間にとって、最大限の理想的な子育てを
乳牛に対してしている、という点で、私は驚きました。
ここの経営者の方が、
このような理念に至った「背景」については、まだ詳しくは知りません。
ただ、少なくとも、酪農の世界では、それまで当たり前に行われていた、
家畜に対して、文字通り「家畜扱い」をする事の異常性に、
早期から、気づいておられたのだと思います。
●ちなみに、このファームは、砂手が見つけてきたものでした。
「経営者の書いている文に感動して、泣けてしまった」と言っておりました。
また、北海道の読者の方が、5名ほどおられるので、数名に尋ねたところ、
このファームをご存知の読者の方から、こんなメールを戴きました。
*********
この牧場に到着するまでは、広い道路にA4サイズくらいの看板が、
たった二つくらいしかなくって、
あそこは、偶然にたどり着くような場所にはありませんね。
おもいやりファームが、目立たない場所にあるのは、
たくさんの人には来てほしくはないということのようです。
(牛たちにストレスを与えないため?)
以前に、スタッフの方に話を聞いてみたのですが、
地元の人は、ほとんど来ないようです。
北海道でもその存在を知らない方の方が多くって、
本州の方から聞いて初めて訪れる周辺の人がまだ多いとのことでした。
それで、ここの牛乳(生乳)は、ほのかに甘くって、
市販の牛乳よりも、サラサラしたような感じです。
『ありがたい』という気持ちが、自然に湧くようなものです。
現地でしか購入できない商品は、夏季のソフトクリームだけで、
生乳は通販で購入することが可能です。
おもいやりファームのような理念を、実際に会社で実現しているのは、
子育ての観点から見ても、人の健全な状態に近いように思いました。
*********
●さて、次の二つは、
ある方の報告文のごく一部ですが、最近、寄せられたものものです。
*********
母親という女性に対するイメージがこびりついている為に、
常にいつも、「女性を恐怖している」という自分の姿があります。
なぜ怖いのか。
怖かったのは、子供の頃の私を虐待した当時の母親であって、
それは、今の母親でもなく、当然ながら、その他多くの女性でもありません。
なのに、どうしてそこまで怯えているのか。
当時の母親のように、私に虐待ような危害を加えてくるわけではない。
何に怯えているのだろうか。
私を傷つける言葉、私を否定する言葉、怒った顔、
そのようなことをする女性が怖い。
物をはっきりという女性が怖い、
いや、はっきりと言わなくとも、私が言った意見に、
ちょっと反対するだけでも、怖がっている。
理由が何であれ、女性が私に怒っていたら、
ただそれだけで、怖いと感じている自分がいる。
中略
私は、単に、
自分に逆らってこない女性を支配したいだけであるように感じています。
子供の頃から、母親に支配され続けてきた、
その鬱憤を晴らしたいだけなのだということが分かります。
いや、もっと問題なのは、母親を憎み切れないことだ。
今まで、トラウマ分析をしてきて、
あの母親が原因で、私の人生が台無しになったことは、明白だ。
今、こうして苦しんでいる、元々の原因が母親にあることも間違いない。
それなのに、どうして、憎み切れない。
母親を憎み切ってしまうと、母親が私から完全に離れてしまう。
それが怖くてしょうがない。いや、母親だけではない。
母親ほどではないにしても、父親の事も、完全に見切ることができない。
つまりは、自分だけ、自分たった一人になるのが怖いです。
中略
母親からの恐怖から逃れるため、それを見ないようにするため、
私は、自分が支配できそうな女性を見つけようします。
また、都合のよい時には、自分を甘えさせてくれる女性を求める
という事が言えます。
だからこそ、今のAC人格の私としては、
そうした女性がいなくなることを恐れている。
AC人格として心の支えが無くなってしまうからです。
これらの全てが、母親の事を投影していると言えます。
母親にしてもらえなかった事、してもらいたかったことを、
自分に関わる女性にやってもらいたいと思っている。
要は、「お母さんの代わりをやってくれ」ということに尽きます。
私は、余りにも身勝手で、虫が良すぎると思います。
中略
この他人に対して、ムカつくか、支配できる、または、かわいいと誤認する、
その私の判断の基準は、自分よりも仕事ができるとか、自分より頭が良いとか、
自分よりも話ができるとか、自分より弱そうだとか、というように、
全て自分と比べてました。
しかも、自分との優劣の判断も、単に自分が、
そういうふうに思えた、思い込んだという、非常に曖昧なものでした。
中略
こうやって、振り返れば、何とも幼稚な、表面的なことで、
他人のこと(特に女性)を判断していたのだということが分かります。
他の全てのことにおいても、自分自身との比較において判断し、
時には、支配しようとしたり、逆に、かわいいと思ったり、
ムカついたり、怒りを覚えたりしていました。
だから、今まで一度も、女性というものを正しく見ていなかったです。
今まで、好きになったり、かわいいと思った女性も、
基本的には、前述した判断基準で、していたと思います。
子供の頃から、常に母親の顔色を伺って、
自分がどうすべきか判断していた、
つまり、母親が、怒っていたり、きつそうことを言ったり、
逆に、優しそうなことを言ったりするということに、振り回されていました。
その癖を無自覚に、今までの人生において、女性に投影してきていました。
また、男性についても、多かれ少なかれ、
同じような判断基準を元に行ってきていました。
中略
●私というAC人格の傾向としては、
能力、性格、身体能力、身体の健康度合など、全ての場合において、
自分自身を基準として、自分の主観的な勝手な判断で、
自分よりも弱いか強いかを無意識に判断し、相手に対する態度、
(好き嫌い、ムカつくかムカつかないか、かわいいかかわいくないか等)
を変えていたということです。
簡単に言うと、強い者には従い、その反対に、弱い者には、
支配し従わせるという、何とも卑怯な人間です。
そして、女性においても、男性においても、
同じような感情パターンをしていましたが、
女性の方が私より弱いと思う割り合いが多かった為、
女性に対してムカついたり、見下げたりする場合が多かったです。
パターン別に書くと、次のようになります。
・私より明らかに弱いと思う場合、完全に見下げるか、
もしくは、かわいいと思ってしまう
・私より弱いと思えるが、もしかしたら、負ける可能性がある場合は、
負けることを恐れ、いつもビクビクし、逆にムカついたり、怒ったりする
・私より強いと思えるが、もしかしたら、勝てる可能性がある場合も、
何とか勝てる部分を探そうとする。
もしくは、何か欠点でもあると分かれば鬼の首を取ったように、
そこを非難したりして、足を引っ張ろうとする。
また、ムカつくこともある。
・私より明らかに強いと思う場合、完全に従ってしまう。
その結果として、尊敬したり、相手の言う事を鵜呑みにしたりする
このように、書いていて、本当にどうしようもないほど幼稚な価値基準で、
今まで生きてきたのだと分かります。
中略
振り返れば、母親も場の雰囲気を一瞬にして、悪くしてしまう人でした。
いや、現在もそうです。
その母親の悪癖を、私は、ものの見事にコピーしてしまっていました。
中略
今では、あの宗教に洗脳されていた自分がダメだと言い切れるのですが、
その毒、その悪癖は、まったく抜け切れていませんでした。
これが分かった時は、本当にショックでしたが、事実なので仕方ありません。
今までは、むしろその人格である自分の事を誇りに思っていたほどですから、
疑問に思ったことすら、ありませんでした。
しかし、今は、その人格に対して、疑問を持ち始めています。
今まで、この人格であることが、人生の指針でもあり、支えでもありましたので、
今後、どうやって捨てていけばよいか分かりませんが、
この人格さえも、私の元々の人格(原主体)ではないことだけは、
はっきりと分かります。
でも、どうやって、消し去ればよいのだろうか。
これがなくなったら、いったい私に何が残るのだろうか。
私の元々の人格である原主体があるのだろうということは、
何となく見え始めていますが、では、いったい、それがどのような者なのか?
元々の、汚されていない純粋無垢な私とはいったい何なのか?
今の所、分かりません。
今言えることは、このままの私では、ダメだということだけです。
このままでは、いつまでたっても、
今の不幸や苦しみから、けっして逃れることはできないのですから。
いつになるか分かりませんが、
本当の自分は、どのような人格なのか、必ず出会いたいです。
*********
●もうおひとり、
ご自身のAC人格の癖についての報告がありました。
*********
自分が書いたり、他人に発した言葉から、私の性質が自覚できました。
それは、自分の事を、
無知、無知識であってはいけないと思い、
何とかしようと行動する点です。
無知、無知識であると、
「相手からきらわれそうだ。」
「年齢や、経験に不相応だ。」
「かっこ悪い。」
「恥ずかしい。」
「人がついてこないかもしれない。」
「仕事ができないと思われそうだ。」
「バカにされそうだ。」
「見下されそうだ。」
と考え、情報収集を行い、
間に合わせの情報や、
過去の経験からの推測でなんとかしようとする性質です。
なんとかしなければ、
これら仮想の恐怖や不安と直面することになると考えてしまう。
その性質の為に、
自分が無知、無知識で、あることを、認めようとせず、
許せない。
だから、素直に、「知識が無いので判らない。」と言えない。
言ってこなかった。
自分に許せないので、
「わからない」と表現した他人に対しても、
状況分析前に、まずは、
「それぐらいの事がどうして判らないのか!
できないのか!」
と、出てきます。
そこには、
「他人から、知識が無い、無知と思われたく無いために、
時間を割き、苦労して勉強した、
やりたくないことをやってきた、
同じ苦労をお前もしろ。
おまえだけ、やりたいことができるのは許せない!」
というACトラウマ人格の声が聞こえてきました。
ベースに、親の影響と、
その上に、私の成功体験などから上塗りしたものが、
機能しています。
未知の分野に踏み込もうとしている時でも、
「これまでの方法でなんとかなる」
という前提から入ろうとする。
かっこよく、前提といいつつも、
十分な検証を繰り返した結果ではないので、
よく見ると、実際は、私の希望的観測のつまった思い込みで、
使えなさそうです。
*********
それと、私は、常に誰かから、
「怒られる」事に過敏でした。
「無視される」
や、
「否定される」
や、
「悪口を言われる」
ではなく、
「怒られる」
何故、他の言葉ではなく、「怒られる」となるのか、
何故、「怒られる」から、私の思考が始まるのか。
社会に出てから、主に仕事で受けたトラウマと思っていましたが、
掘ってくと、社会に出た時は既に持っていた私の性質でした。
私が不愉快になる場合の殆どの根源は、「怒られる」です。
予定通りにならないと、怒られるかもしれない、
だから不愉快になる。
間違うと、怒られるかもしれない、
だから不愉快になる。
お礼をちゃんと言わないと、怒られるかもしれない、
だから不愉快になる。
では、誰から怒られることが不愉快かと問うと、
「両親から」です。
その上、不愉快な中にも、存在意義のようなものを見出し、
あえて、自分が不愉快になるような環境に、
身を置きたがる性質もあります。
私が何かを手がけるときには、
暫定でも、明確に目標とそれに至る項目を設定したことがなく、
目の前に障害が発生すると、
それを解決していくという方法「だけ」を使っていました。
この方法ですと、目的が逸れ始めている事に、
気が付きにくくなる場合が多かったと思います。
そして、関心が逸れた(逸たせた)方向には、
多くの場合、他人の目線の意識が存在していると思いました。
本来の目的ではなくて、
「他人から、認めてもらいたい」という動機が混ざり、
方向が逸れていました。
この性質が、弱者を前にすると、
「こんなにすごいことをしている、私を認めろ。」
という上から目線になることもありました。
実際行っているのは、「私を認めろ」という押し売りです。
これらの性質が私の中で機能している時、
私が誰に似ているかと考えると父です。
そこで、父に関して掘っていきました。
商店を経営していた祖父と祖母は、戦後間もないということもあり、
仕事が忙しく、父は蔑ろにされていたようです。
実際に父から聞いた話によると父が成人してから、祖父に、
「おまえには、よくかまってやれなかったなあ。
あの時はすまなかった。」と謝られたことがあったと聞きました。
また、驚いたのは、
祖母の結婚するときの写真を、父が見た時の言葉です。
それは、「見てみろ、この嫌そうな顔。」という言葉です。
私は結婚なので、てっきり幸せそうな顔をして写っていると思いましたが、
見てみると確かに写真の中の祖母は「嫌そうな顔」をしていました。
理由は、祖父と祖母の結婚は、恋愛結婚ではなく、
家と家を結ぶ為の、親から強制された結婚だったようです。
父は祖母の写真を見ながら、
「むすっつとして、恨めしそうな表情、
余程この結婚はいやだったのだろうなぁ。」と言っていましたが、
これはそのまま、
子供の頃、父が祖母から受けていた感覚なのだろうと思いました。
父が祖父から怒られてきたという話を聞きましたが、
怒られた理由が、商店の物を盗んだり、いたずらをしたり、
多くの場合、祖父の関心を惹く為に、
あえて怒られるようなことをしているように見えました。
推測ですが、子供の頃の父は、
祖父と祖母の関心を惹く為、あえて怒られそうな行動を行い、
怒られることで、存在を認めてもらい、
「安心」を得ようとしていたのかもしれません。
両親から父は怒られどすれど、
「褒められた」という話が無いことも気になります。
父の記憶の中で、両親から褒められるのは、弟と妹ばかりで、
父はそれが羨ましかったようです。
父が、自分が危険をおかして盗んだ物を、
近所の子供に与えていたという話を聞きましたが、
これは、相手を思っての行動ではないと思いました。
物を与えれば、他人がついてくる、
言うことを聞いてくれると父は体験したようで、
こうして数人の子供を従えた自分はすごい、
という思いに浸りたい為と思っていましたが、
根源にあるのは、両親に対しての、
「子分を従えている、すごい僕を見て」
という思いだったのかもしれません。
そのほかにも、色々とやんちゃなことをやった話を聞きましたが、
殆どの場合が他人に自分の存在を示す為の行動のように見えます。
しかし、父が本当に存在を示したかった、
存在を認めてほしかった、かまってほしかったのは両親だと思います。
また、このような状況では、
「不安だ」「苦しい」「痛い」「寂しい」「悲しい」を
父は両親に対して、ストレートに伝えることはできずにいたと思います。
この感情は父にとっては溜め込むもの、我慢するものとなり、
他人に対しても出してはならないし、出すことは許してこれなかった。
だから、何かを訴えようとする私に対し、
最初は聞いていても、私が感極まって泣き出したとたんに、
「めそめそするな!」と怒鳴られたのだと思いました。
理由は、自分が許されなかったこと(泣く事)を、
私がしていることが不愉快だったのだと思います。
怒られることによって、
自身の存在を認めてもらうことはできるのですが、
常に「怒られる」かもしれないという、不愉快といる事になる。
不愉快は回避したいのだけど、
「不安だ」「苦しい」「痛い」「寂しい」「悲しい」を、
他人に表現できないまま、不愉快の回避行動をする。
回避できない場合は、希釈するか、抑圧をする。
そして、ここで不愉快を回避できた記憶だけが、
「成功体験」(間違ってますが)となり、
その後の行動はこの経験を基準にして、見たり、分析したりする。
こうして出来上がった人格を、
他人の関心を惹き見せびらかしたり、押し売りすることで、肯定する。
私が消去するべき、性質を確認できました。
自己矛盾を文章化できたことは、今回の収穫です。
やっかいだったのは、
自身の中で起きている自己矛盾を文章化すると、
文章としても矛盾しています。
それを見た私は、
目的と結果に至る行程が繋がっていない矛盾した文章こそが、
今の自分の状態だと判らずにというか、
そこから目をそらせたいが為に、脚色や創作をしてしまう
という性質があったことです。
自動化されていて、無自覚に行っていた行為でした。
そして今回、この習性を父と、
父の両親の関係を掘ることによって、
さらに明確に認識でき始めたことが、収穫です。
やってる最中は、それが、創作や脚色だとは思わず、
単なる文章上の修正だったり、つじつま合わせだと思って、
軽視していましたが、実際行っているのは、
現実逃避や視点コントロール、現実の湾曲でした。
創作や脚色してしまうというより、そうせざるを得ない。
でなければ、自己矛盾を他人に曝すということになる。
それは、トラウマを作動させるので、避けたかったです。
しかし、実際は思考を文章にすると、どうしても矛盾が出てくる。
トラウマ回避の為、目の前にある矛盾している文章から、
矛盾を取り除く為には、創作や脚色は必然でした。
ここでの問題は、当初の目的が何であろうとも、
目的が「トラウマ回避」にすりかわっているところだと思いました。
もう一つは、自身の思考こそが矛盾しているという現実を垣間見ても、
そこから目を逸らせ続ける為に、
いつまでたっても修正作用が起動しないという点にあると考えています。
それどころか、
運良く(悪く?)トラウマが回避できてしまうと、
それは目的と結果関係なく、成功体験としてまとめられてしまうので、
偽人格の補強に作用していき、どんどん本人が埋もれていく。
●この人格を、ゴミ箱に捨てるイメージをしようと思いましたが、
不要といえど、粗末に扱うことに躊躇がありました。
そこで、こうしてみました。
(以下 略)
_______________
最後に、「朱いはがねさん」とのやりとりです。
本日は、復元ブログについて、申し上げておかなければいけない事があり。
メールさせていただこうと思いました。
先日、私はメールにて
「父、母の生育環境について近日中にまとめて
ブログにアップし報告もさせてもらいます。
そのほかのトラウマについても掘り出したものは
アップと報告をさせてもらいます。」
とメールにて申し上げたのですが、
現在、どれから掘っていけばよいか、
迷うぐらいに辛い出来事が思い出され、
どう処理していけばよいのかと焦りながらも
日々、ノートに向かっている状態であることから、
今後トラウマ掘り、に関しましては、
その時自分が掘り出したいと思った事を優先して掘り出し、
ブログにアップしたいものはアップし、
どうしても「個別にお伝えしておきたい」「ブログにはアップしにくい内容」などは、
崩残さんへメールさせていただくという方向へ、
勝手ながら変更させて頂きたいと思っておりますので
よろしくお願いいたします。
そして、こんな、小さな出来事にお時間を割いていただくことは
大変に申し訳ないことであるとは承知の上のお話なのですが
私は、これだけの事を、お伝えする事が怖くてできませんでした。
実は、私はメールを差し上げた後から、ものすごいプレッシャーがかかり
悶々と以下のような悩みを持つようになっていました。
●ブログにアップするのに、
メールでも同じ内容を報告するのは失礼ではないか?
そこに、自分を見て欲しいという
浅ましいAC人格根性が紛れ込んでいるのではないか?
●ここで見捨てられてはいけないと、
本当は思ってもいない事を言ってしまったのではないか?
●他の方はどのように。崩残さんと接しておられるのか?
●そんな事は、気にせずに無かった事にして、掘り出しにだけ集中すればいいよ。
などと、「言いたいことを、怖くて言えない悩み」で息苦しくなり、
耐え切れずにでた感情が、
大変無礼な発言である事を承知の上で、
本当に申し訳ないと思いながら書きますと、
「こんな、気分にさせやがって」と、崩残さん対する憎しみでありました。
このような、失礼な発言をしておきながら、恐縮ではありますが
この時、私は、
初めて自分が「誤爆する瞬間」を見る事が出来ました。
そして、即座に自分がおかしいと言うことに気が付く事ができたのですが
こういった、他人がどう思っているのかなどは、その人に聞かなければわからないし、
自分が間違ったと思えば、
改めて変更したい点を申し上げれば良いだけなのに、
それが怖くて、怖くて、できない。
そして、自分の中で、出口を次々にふさいで迷路をさまよう様になり、
苦しさから何が問題なのかを見失い、
まったく的外れな相手に八つ当たりしてしまう。
そして、解決できずに悩んで、苦しくなり
やりたい事、やらなければいけない事を、止めてしまうか遠ざかってしまう。
こんな、自分で自分を苦しめてしまうトラウマ、癖が、
自分には相当重くのしかかっていることに気が付きました。
そして、今回このようなメールを出すにあたり、
「こんな、本題から離れた作業ばかりに注目して、
本題から遠ざかるということを、自分はいつもやってきている」
「このメールを、出そうとする事こそ、
AC人格が言っている事ではないか?
どう訂正しようと、また同じように悩むに決まっている。
気にせずに、トラウマ堀りを進めよう。」
とも、思ったのですが、この事が気になり、
胸が熱くなると同時に息苦しくなって、大げさではありますが
「このまま、この苦しさが増していけば、狂ってしまうのではないか?」
とまでになり、
このまま、自分の発言を変更しないままで
ブログを書くことは、絶対にトラウマになるし、失礼にも当たると思い
メールを出させていただく事といたしました。
こんな、病人のような自分を絶対に治そうと思います。
今回の胸の苦しさは、幼少期に親から恫喝され、納得できず、
言い返したいことが沢山あるのに言えずに、悔しい自分を押さえ込んで、
親に「ごめんなさい」と謝った時とそっくりであり、
その事が、こうなる原因であると、私は感じています。
もし復元やトラウマ掘り、
と言うものを知らなかったり、やった事がなければ
この時点で、怖くなって投げ出していたと思います。
ですが、「自我復元だけは絶対に最後まで諦めない」、
という決意を曲げる気は全くありませんので
どうか、最後まで宜しくお願い申し上げます。
また今後、ブログの更新を、なかなかできない事もあるかもしれませんが
精一杯続けさせて頂きたいと思っておりますので
お時間がある時には、ご覧いただければと思っております。
どうか宜しくお願いいたします。
本日は貴重な時間を割いてお付き合い頂き、真にありがとうございました。
*********
朱いはがねさん、への返信です。
*********
まったく、そのやり方でいいですよ。
他の方も、そうしていますし。
原則として、戴いたメールは「ここは伏せてください」という
指定がないかぎりは、個人情報を削除して引用することも多くあります。
もしもどうしても、
ブログに出すものと、そうでないものの判断ができないときには、
ブログに出す前に、メールしてください。
特にブログに「すべてを込める」という必要はありません。
>> 大変無礼な発言である事を承知の上で、
>>本当に申し訳ないと思いながら書きますと、
>>「こんな、気分にさせやがって」と崩残さん対する憎しみでありました。
これを聞いて、非常に嬉しく思いましたし、ほっとしました。
理由は、それを、親に出すべき感情の性質だったことに、
即座に気づいたからです。
しかし、それ以上に重要だったのは、
それを、きちんと私に言ってくれたことです。
もっといえば、感情をそこで出して、
どこから出てきたのかを見極める手がかりに出来たことです。
感情は、誤爆や、曲がったものもあれば、
そうでないものもありますが、
AC人格が出した感情でも、全くいいのです。
もしも、分析的な思考だけで掘ろうとしたら、
トラウマ掘りは、絶対に失敗します。
手ががりは、感情のみです。
だから、恨みでも、誤爆でも、なんでも
出てくる感情は、大切にしてください。
もう一度いいますが、
感情の原因は、間違っていても、理不尽でも、逆恨みでも、
なんでも良いのです。
それを否定しないで、感情の通った言葉として、出してください。
あとは、何故、その感情が出てくるのか?
と自問すれば、答えは、必ず、子供時代の親との関係の中に見つかります。
崩残
_______________________________
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