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[341]
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★分割自我復元★その341■ 『計画的誕生に向けて』
by:
鈴木崩残
2014/03/30(Sun)11:34:09
Abyさんへのメール
■ブログを書いていない方のもので、
紹介をしたいトラウマ掘りの報告などもあるのですが、それは後日にします。
今回は、私信ですが、この私信を書いているときに、
ある程度、不特定多数の人にも関係することと思い、今回は掲載します。
Abyさんの側からの最初のメールは、個人情報を含むため、
ここには掲載しません。
私からの返信のみです。
*********
Aby 様
特に気が付いたところ
気になったところだけを出来るだけ簡単に書いてみます。
>> 「口にしたら絶対ダメー」
>>「頭に思い描いても絶対ダメー」
>>というような、無条件に「ダメ」と思っている、拒絶している感覚があります。
●これって、ちょっと考えると、
極端に独裁的な国家が国民に命令することに酷似しています。
口で言ったらダメ、といのは、これは
「本音では思っていいけど、他人に言うと怖い目にあうよ」
という庶民の会話で済みます。
しかし「頭に思い描いてもダメ」というのは、
たとえば、カルトでもそうでなくても宗教の世界では
まかり通っているものです。
「そんなことを思うのも、バチあたりだ」というのがそれに該当します。
思ってもダメというのは、すごいですね。
「頭の中ならば、他人に関係ないから、何を思ってもいい」が、
地球で人間に生まれることの特権のひとつだったのにです。
「***のことを悪く言うもんじゃない」これが、
さらに病的になると「***を悪く思うんじゃない」
という頭の中まで侵略してくる、
これが洗脳といわれるものです。
独裁的な国家が「行動、言動の命令」をしているうちは
最悪とはいえ、まだマシですが、
「洗脳」になったら、最悪です。
しかしその最悪なことが最初に起きる事件現場は、
おわかりのとおり「家庭(親子間)」です。
*********
>> その一番古い記憶をたどってみると、幼い頃、
>>「もしもパパとママが死んでしまったら・・・」と考えてしまったときの感覚で、
>>このとき、どういう感覚かというと、一瞬であったとしても、
>> 「両親の死を想像してしまった」というものです。
●Abyさんの記憶にあるか分かりませんが、
私の推測ですが、これは、子供のあなたに対する
両親、特に父親の「決め技」だったはずです。
「なー、Aby。お父さんが死んでいなくなったら、
お前は、大変で生きてゆけないんだぞ」
これをかなり小さいときに言われてのではないかと
推測しています。
普通の、暴力を露骨に出す毒親は、「殴ったり、怒鳴ったり」して
子供自身が、身の危険を感じ、そこで「死」を思い、恐れを感じます。
しかし、「お父さんが死んだら、お前も死ぬんだぞ」
これもまた同じように「暴力的」です。
これは立派な「脅迫」ですが、非常にタチが悪いのは、
「分かりやすい毒親」は、自らが子供に対して直接に威圧する態度を向けますから、
子供は、親を敵と認識することも出来ます。
しかし、
「親が死んだら、ボク/アタシも死ぬんだ」、
このように子供が親から刷り込まれたらば、その子供は、
親を守ること。そして親を不機嫌にしない。= それが自分を守る、になります。
●ここで、生ずる深刻なトラブルは、
「自分だけ守ればいい」のであれば、
親の暴力や恫喝から自分を守ればいいのですが、
自分も守り、親も守らねば、
この二つに子供は分裂してしまいます。
親が自分を守ろうとする言動は、
子供が自分を守ろうする言動とは、
その理由も、根拠も、全く違うことがほとんどなのですから。
●たとえば、分かりやすい例は、
友達からイジメられた子供が、自分を守るために反撃したとします。
これで済めば、問題はありません。
しかし家で親にあとから、
「世間的に恥ずかしいことをお前はした。相手の親に謝れ」
などと、大人の都合によって「大人の立場を守る」こと、
これを子供が強いられたらば、
まだほんの小さな子供で、自分のことで手一杯のはずなのに、
二つの全く異なる「守り」を、どっちを優先したらいいのか
分からなくなります。
しかし、結局はこうした場合に、親から調教された子供は、
「親の世間体」または「親の機嫌」理由にした守りを優先することを
子供はしてしまいます。
その最大の理由は、「この親が死んだり、不機嫌になると自分が死ぬ」
ということを刷り込まれたためです。
これを刷り込むのに最大の効果を発揮するのは、
「お父さんやお母さんが、もしも死んだら、お前も死んだり飢えるぞ」
これに勝る洗脳の台詞はありません。
子供にとっては、
幼少期に唯一の頼りである親から、
「もしも死んだら・・・」と仮想、仮定に基づく恐怖を刷り込まれたらば、
そうなったら自分も飢えたり死ぬ、に恐怖が直結します。
こうなったらば、親子は独立したものではなく、
もしも何かがあれば、「一家心中になる共同体であるかのように」
思い込まされているわけです。
●だから、私は、
「誰のおかげで生きていられる、食っていけると思っているんだ」
と言う親(時に父親)、
そして「私がいないと、あなたは何もできないのよ」と暗に示唆してくる母親、
これを最低の毒親とずっと言ってきましたが、
「もっと、さらに最悪の毒親」というのは、
前述したような「直接的な脅迫」を言って子供から恨まれたり反感を
持たれる事のないように策略して、なおかつ、調教するのです。
「お父さんと、お母さんは、あなたの事が大好きなのよ。
だから、あなたが旅行に行きたい、何が欲しいといえば、あなたにそれを与えるのよ。
これは私たちからあなたへの愛情の証なのよ。
でもね、・・・・
そんな私たちがもしも死んだら、あなたも、死ぬのよ! いいわね、分かったの?」
このようなことを示唆することを、やんわりと言っておいて、
お金や、おもちゃや、旅行をあてがっておけば、
親は自分の敵ではないと子供は思います。
また親も自分は、悪者にならなくて済みます。
ところが、最悪なのは、これに続く、
「でもね、私たちが、もしも死んだら」という、これです。
ここぞという時になると、
「子供の死」をちらつかせるのが、暴力や恫喝をした親で、
「自分たちの死」をちらつかせることで、子供を脅迫したのが、
「子供への調教をした親」です。
●いい大人を相手に言うならば、いざしらず、
「自分たちが死んだら」などと、
「幼少期の子供」に、親が言ってはならないのです。
どこかの他人のおっさん(例えば私)が、
「この、おじちゃんが、死んだらばね、」といったところで、
子供には何の利害関係もありませんが、
その子供が自分自身を養育している自分の親から言われたら、
たまったものではありません。
そこには、仮想上の、そうなったらば、、、
「食えなくなる、家がなくなる、=死」があります。
ですから、
「私を怒らせたら、食えなくなるぞ」も毒親ですが、
「私が死んだら、食えなくなるぞ」も毒親です。
どちらにも共通するのは、
「まだ幼い子供」にやってはならないこと=恐怖の刷り込みをしているのです。
恐怖を刷り込めたら、調教は簡単になります。
●サーカスの動物でさえも、
本当の正しい(悪くないという意味)の調教は、
食事を抜いたり、罰や恐怖を与えて言うことを聞かせるのではなく、
「芸をすると、自分も楽しいし、そしてオヤツがもらえる、
調教師も楽しそうだ= 遊んでいる感覚」ということなのです。
この調教それ自体の「よしあしは別」にしても、
少なくとも、被調教側の子供や動物の心に、
恐怖という傷は残りませんし、歪みませんので、
萎縮した子供にはなりません。
話が長くなりましたが、
Abyさんが、ご自分で、「変な癖」と称する、
「相手の死を、理由もわからずに想像してしまう癖」は、
一番最初に、親があなたに「親の死を想像させるようにしたこと」の
「影響」と見ていいです。
*********
>> 利他=「当然のこと」という先入観、無条件にいいという先入観もあるようです。
>>「ただ」よい、「ただ」悪いと唱えるだけなら、均等な心象を残してもよさそうですが、
>>罪悪感に関しては、まるで逆です。
>>ただ唱えるだけ、ただ思い描くだけで、正反対の心象を残します。
子供または大人がこうなる最大の理由は、
言葉の意味それ自体を、自分で考えて定義しないことですが、
そこまで難しいことを言わずとも、
言葉によって簡単に、自分の中の「心証」が決まってしまうのは、
やはりこれも、頭ごなしに、親が、子供が納得できるような理由の説明もなく、
「**はいけません」「**と口に出して言ってはなりません」を
繰り返したために、頭の中で思ったり言う言葉すらも、
悪い言葉とされてしまうものがあり、
使っていい言葉すらも、制限され、
また、子供が使っていいと親から言われた言葉すらも、
自分で自由に定義しては使えないものになっています。
*********
さて、ここで私の考えていることを言います。
>> もしも仮に全自我になって、しかし、まだAC人格の影響を強く受け続けていた場合、
>>「あなたは純粋な利他行為ではなく、自分のためにやった利他ですね。
>>それ自体利己的な生き方であり、あなたは再度、地球で学び直す必要があります」
>>と言われてしまう、そう思いました。
●これに対する反論、拒否は、
「この利他を学ぶという契約は、破棄します。
なぜならば、この契約の結果、
私も相手も幸福にならず、不幸になったからです。
苦しむことが、最後になってすら、楽しみとならないのであれば、
それは拷問であり、また自虐であり、家畜的な労働であり、
いつかくる幸福のために今苦しむのは良いことだと思い、
幸福が来たら、すべては終わってしまうと恐怖し、
いつまでも苦しむことに依存する結果となります。
契約違反と言うのでしたらば、処罰して構いませんが、
契約違反をしているのは、契約書を作ったあなたたちです。
なぜならば、地球誕生における本当の契約内容は、
1/意識を狭くし、自分一人という意識を高め、
他者とは必要最低限しか心を通わせず、
自由に考えて、その新しい経験の成果を持ち帰る事。
2/喜怒哀楽の感情を経験し、それを放つこと
この二点のみだったはずです。
しかしあなたたちの契約書の内容では、
この二つに違反するような結果となる内容となっています。
よって、違反は、私ではなく、あなたたちが私に同意をさせた
契約書そのものが不正であり無効になるような、不法契約書です。」
これが、地球人の代理人弁護士としての私の主張です。
たとえ当事者が合意しても、
契約書の内容が違反だから無効になるのは、地球の法律と同じです。
>> また、もしも全自我になって、しかも、AC人格からの影響を解除できた場合、
>>その場合は、「利他契約違反です」と言われてしまうのでは?と思いました。
●「利他の為の奉仕に合意するという、契約書そのものが違反です」
で、突き返せばいいです。
>>「すべきこと」がある、と思いこんでいた(いる)わたしは、
>> いつも「私の上に誰か」を置いてしまっていました。
>>成人するまでは、それがわたしの親だったということになると思います。
はいそうです。
その後は、その「自分よりも上のもの」が、
本で読んだ思想になったり、他人の言葉になったり、グルになったり、
宗教教義になったり、自由とかあるがまま教になったり、
あげくに、無明庵までもをAC人格が、
「自分よりも上」においてしまっていた人たちが大半ですが、
その原型は、常に、親を自分よりも上においたことにあります。
正しくいうと子供が自主的に置いたわけではなく
「親の君臨によって、親が子供よりも上だと思い込まされた」わけです。
それが最初にかいた、
子供自身に、恫喝や暴力の脅威を与えて「死」をちらつかせる強制的な支配の方法か、
または「親が死んだら、お前も死ぬから、親を大切にしろ」という調教方法です。
・中略・
>>死後に「他人を守れなかった」という罪悪感を持ってしまうのではないか・・・。
これに関しては、私からの弁護は、
「他人(自分の子供ではない)を、守ったとしても、
その他人は自立できまい。
しかし、その相手が自立が出来ないようになったのは私のせいではない。
それはもともと、本人に自立の意志がないからだ。
しかし自立以外に、何がその人自身をその人自身が守れるか?
あなたたちの書いた契約書は人間を不幸にした。
あなたたちの価値観が、生命と意識の進化という事に対して、
完全に失敗だったと認めなさい。
そしてこの契約書は、契約書が違法ですから、
私が従う義務はありません。
私が契約を破棄しても、私を処罰する事は違法です」
>>「約束したじゃん」という言葉に、ギクッとくる気がします。
>>「他者を守るって約束したじゃない?」というところに、罪悪感の影がありそうです。
約束自体が、間違っているものは、破っていいです。
この場合、間違いとは、
その結果、「誰も、楽しくなっていない」ということです。
楽しいというものは、
「喜怒哀楽」の中で保障されている、喜びと楽しさという単純な感情であり、
怒り、悲しみ、と同様に、本来、保障されているものであり、
それを抑圧するような結果を招くすべての契約は、違反です。
>> わたしは成人するまで、いや、自我復元をはじまるまで疑いなく持ち続け、
>>失わなかったのは、「親に対する忠誠心」だった、ということです。
これも最初に言いました、
「死」のちらつかせ、によるものです。
ですから、勇気をもって、Abyさんは
心の中で、こういえばいいのです。
「楽しくもないし、
自分の意志も思考も、自由に行使できない、
そんな契約違反の生ならば、
殺したければ、この私を殺せばいい。
何がどうこうしたら、お前は死ぬぞ、とか、
何をしないと、お前も死ぬんだぞ、とか、
そんな、情けない、脅迫しか出来ない、間抜けな生命を、
いつまでもやっていたいならば、
私を好きに、殺しなさい、あるいは苦しめてみなさい。
あなたたちが、愚か者にとどまるために、
そうしたければ、そうしなさい。
二度と私はあなたたちのような愚か者とは
契約などしない。」
・中略・
>> 少し話がそれますが、もしもこの「不幸にする親」という本を
>>一年前の今頃に読んだとしても、わたしはこの本とは無縁だ、
>>「何ひとつ、該当するものがない」と疑いなく思ったはずです。
>> 全部該当する、といってもよいほどなのに、です。
>>このことを考えたとき、ぞっとしました。
>>読んでもここまで何も理解できないことがあるんだ、と思いました。
>>そうして理解できないだけじゃなく、「自分は違う」とかずっと
>>勘違いして生きることになる。自我復元をやっていなければ、
>>この本はわたしにとって、無価値どころか有害になったと思います。
そのとおりだと思います。
あの本が、痛いほど身にしみるのは、
自分のトラウマ、自分のAC人格や、自分の中の被調教人格、感染人格、
これらを「自分で掘った人たち」だけです。
掘っていない人は、過去の事実を見ないようにしているので、
自分はこれに該当しないと、思い込んでしまったり、
反射的に、無意識的に、そう思いたがってしまうのです。
>> 自己犠牲の搾取の上になりたった利他、
>>これこそ、幻想の上になりたった利他だったと思いました。
>>そんな利他など「いらない」と最初から宣言している自分がいます。
>> 邪魔されている、とずっと思ってきたわけですから。
>> それでなんとかしようと、そのなんとかするやり方が
>>歪んでいたのだと思います。
>>ストレートに「誰も邪魔するな」と言えればよかった。
>>自分は強いんだ、自分は平気なんだ、と、
>>そうやって生きてきた父と母が見せなかったもの、隠そう隠そうとし続けたのは、
>>なにより、「こわいという恐怖」や「本心の感情」だったと思いました。
>> 両親にとって、世の中は「こわくない」と思いこむ必要があったと思います。
その両親もまた、そのまた親から、
「死ぬ、飢える、凍える、放り出される」ということを
子供が怖がるように、されたのでしょう。
暴力や恫喝による、子供自身の死か、
または「親の死を通じた子供の死」
、
という「仮定を使った死」を使った脅しによって。
●ちなみに、前回の投稿で、桜の間に、書きかけた、
「人物列伝」をどう扱うかには、注意点があると書きましたが、
掲示板で書くより前に、Abyさんに伝えておきます。
あれらの人物列伝は、自我率そのものが、先天的な全自我の人も
含まれますが、そうでない人も含まれます。
したがって、ポイントは全自我のサンプルということではないのです。
それなのに、愚かな人は、今回のあれを、
全自我のサンプルだと思い込んだり、
あげくに、またまた、AC人格にとっては何の役にも立たない
あれらの人についての本を買って読んだり、情報をネットで探してしまうのです。
その人たちは、本当に愚かです。
情報や本を見たあげくに、そのキャラクターについて云々したり、
あんな変な人は、馬鹿だと見下げたり、
あるいは逆に、何か、全自我の人の作ったものや、言葉から刺激を受けよう
という、姑息な「ご利益主義」。
はたまた、見習おうと無理をしたり、
自分にも一部は出来ているさと思い込んだり、
とにかくAC人格のやらかすことは、
すべて、「自分はそんなに間違ってはいないのさ」という言い訳に、
ああした情報を悪用することです。
●しかし、私があえて、数人の人を例として出したのは、
彼らは、そもそも、元々が違うのですから、
それを真似たり、自分と比べて、上に見ても下に見ても間違いであり、
彼らから、何かを得ようとしてはならないのです。
私が、あの人物たちの羅列で示したかった唯一のことは、
「親を着実に選んできた人」のサンプルであり、
「親を選ぶには、それ以前に、本人の目的が明確である」
というサンプルであり、
その人たちは、絶対に、毒親は「選ばない」ということであり、
かつまた、その人たちは、結局は「何者か」になって
目的を達成しているということです。
もっとも達成しているから有名になってもいるのですが、
彼らは、単なる有名人ではありません。
●彼らの親が、毒親ではない、という根拠は、
私が言うように「子供の意志の邪魔をしなかった」
という一点においてです。
岡本太郎のケースも同様に、親は子供の「邪魔」を一切していません。
岡本太郎の両親が、他の親と唯一違ったのは、
育児放棄をしていましたので、
毒親の罪である、
「子供に、食事を与えない、泣いても関心を向けない、泣くと怒鳴ったり殴る」
このう3つのうちの「関心を向けない」には該当していますが、
ただし岡本太郎は「異例」です。
彼は、「この親たちと、一人の人間として張り合わねば」
と思い立つような親を、自分で選んでおり、
彼には、親の気をひくためにそうするなどという動機は一切なく、
終始、自分を奮い立たせる環境として、あの両親を選んでいます。
分かりやすくいいますと、
岡本太郎が「芸術で爆発」する前に、
彼の両親そのものが最初から「もう爆発していた」ということになり、
彼は、そっくり望んだとおりの両親を、手にしたわけです。
●他の人たちの親のケースは
「子供のしたいこと、したくないことの邪魔をしない」
という大原則は、岡本太郎と同じですが、
ほとんどの場合に、
「子供に食は与える、泣いたら見に来る、泣いても殴らない」
という点は、クリアーしています。
いや、基本をクリアーしているどころの話ではなく、
ハンデを持っていても、もっていなくとも、
とにかく完全に、親、周囲の人たちが、その人に、
奇跡的なほど「協力的であった」、という形跡がわかるはずです。
計画的に人生を設計し、
計画的に、その目的を達成できる環境の「親」を選び、
そして実際に、現実生活でそれを達成する、
あれは、そういう人たちのサンプルなのです。
●ですから、これから先、自我復元を、自我率という面では作業を終えて、
それだけではなく、その後、AC人格の後始末をして、
さらに原主体が、なんとなくこれだろうかなどという甘っちょろい
認識ではなく、明確に分かったとき、
その人たちが、次にどういう計画的人生を自分で決定すれば、
あとで後悔をしないか、楽しめるか、生命を謳歌できるか、
そのひとつの見本として、「計画的誕生」を例にあげたのです。
そこに見えてくるのは、
その人たちが、早咲きか、遅咲きか、の違いはあれど、
選んだ親も含めて、「全ての準備はそろっていた」ということです。
ちょっと、想像してみて欲しいのです。
前の投稿に、列挙した、彼らのような人間が、
もしも、死んでから、いざ次の「生の契約」となったらば、
契約の交渉の際に、彼らが、全く「臆することなど一切ないこと」は、
目に見えています。
そればかりか、転生の相談担当員が、逆に気圧されるぐらいのはずです。
彼らに「何か後悔することは?」と問い正しても、誘導しようとしても無駄です。
彼らは、「いい人生だった」と嘘偽りなく言い放つでしょう。
*********
●ですから、自我復元完了後は、
次の生の準備に、必要となるであろう経験が、それなりにあるわけです。
Abyさんの場合には、
「他の自我復元者の人たちの生前契約とは、大きく違う一面」があり、
よって、ちょっとした変更で対処するのではなく、
まず、今回の生の契約内容それ自体を破棄することになりますが、
それに関してのサポートは、出来るかぎりさせて戴きます。
今回のAbyさんの報告内容は、まとめようとせずに書いたものでしょうし、
またこれから、自己検証する部分もあるでしょうが、
大変にきっちりと分析できていると思います。
他人には全く分からなくともいいですから、
ご自分のブログでの記録のひとつとして、経過の「足跡」として、
アップされるのは悪くないと思います。
崩残
雑 記
●昨日、ちょっと、珍しい事がありました。
見知らぬ小学生の女の子から、お礼の「プレゼント」なるものを貰ったのです。
なんでも、私が、
「猫について、いろいろと話をしてくれた事へのお礼」だそうです。
ラインお嬢様をみせて、小学生二人組みの女の子に、
2度ほど、話をしたのは、確かです。
まー、私は見た目は、いかついので、ふつう、小学生は近づきませんが、
なぜか、その子たちは、礼儀正しくかつ、フレンドリーに近づいてきた。
この土地にきて、小学生ぐらいの小さな男の子に声をかけられたことは、
2度だけあったのですが、見知らぬ女の子というのは、はじめてです。
昼ごろに話をして、しばらくいなくなったと思ったら、夕方ごろに来て、
寝ていた私を砂手が起こした。
私は、
「えっ? その子たちは、ラインお嬢さんに会いたいんでしょ?、
猫でしょ、猫に・・・」
と言ったのですが、
砂手が言うには、
「猫じゃないんだって言っているよ。
「おじちゃんに会って、渡したいものがあるんだって言っているよ。」
と、ガンとして、私のことを待っているという。
どれどれといって、半分、しぶしぶ出たら、
「これ、お礼ですっ!」と、プレゼントをされた。
嬉しいとかなんとかではなくて、??と、唖然としてしまった。
●にしても、・・・・ここまでAC・トラウマ問題を目にしていると、
そうした子(小学校2年ぐらいの女の子が二人)を見ても、
「この子の親って、きっと毒親なのかな」と思ってしまいました。
「話をしてくれたから、お礼に」なんて、
もしかして、普通の会話を両親と出来ていないのかな、
などとまで、邪推して、かんぐってしまうのです。
砂手が、
「子供扱いをしないで、普通に大人としゃべるみたいに、話したんでしょ?」
と言ったが、確かに、子供向けの言葉ではなく、普通に話をしました。
そういう「対等な扱い」をされる事に対して、
プレゼントしたくなるほど嬉しかったというその子は、
いったい、どんな家庭で育ち、これからどうなるのか、
少し、気になりました。
さりとて、
「辛いことがあったら、ここへ来て、文句を吐き出していいよ」
なんてこと言ったら、きっと、毎日のように来るようになるだろうし、
何よりも、その子の親と、えらい面倒なことになるのは確実なので、
とりあえず、普通の話だけにしておきました。
その女の子は、
なんか、ちょっとドラマの子役みたいな雰囲気も持っていました。
「話をしてくれた、お礼です。これ、受け取ってください!」と、
ビニール袋にくるんで、手渡してくれた、
素敵なプレゼントは、これでした。
↓
イカ しているぜぃ。
______________________________
★
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