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[351]
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★分割自我復元★その351■ 『 自我復元の報告のいくつか 』
by:
鈴木崩残
2014/05/12(Mon)04:49:19
皆様からの報告より
●その前に、まずAbyさんのブログから重要な部分をいくつか、抜粋します。
自我復元ブログの中から、私があえて抜粋するということは、
めったにないことなのですが、それだけ重要性を持っていると
私が感じたためです。
本来であれば、ご本人のブログに前後関係も含めて全て書かれているのですから、
あえて私がここに掲載する事はないのですが、今回は異例となります。
*********
抜粋は、あくまでも「断片」になるので、必ず原文をお読みください。
・私の親は、
遊ぶなとも言わず、遊びを力づくで中断させることもせず、
声を荒げず、手をあげず、「親の都合の世界」に私を引き戻した。
・その証拠に、「させられた」感がない。
・わたしの両親の猛毒さは、いつも思うのだけれど、
「強制された感」をまったくわたしに残さないのだ。
だから、わたしは自我復元を始めるまでは、
自由で、この上なく恵まれた家庭環境に育ったと、本気で思いこんでいた。
(なのに、自分がどこにもいないこの生きた心地がしない、
きっと死ぬとき後悔するような人生は一体なんなんだ、と思っていた。
つまり、親の計画通り、親免罪、完全犯罪まであと一歩のとこだった)
・まるで刑務所のなかで、ピーとなったら即終了、
元に戻れ、早くしろ!というのと、感覚的には変わらない。
たぶんこれは錯覚じゃないと思う。
きっと、毒親は目を光らせ、看守の笛を得意げに
「ピーッ」とやっていたに違いないのだ。違和感がない。
・休まるときが、なんだか、ない。
楽しいことも、とくに、ない。
これはよく感じた感覚だったけれど、
それも当たり前だと思った。
いくら遊びとはいえ、存分にあてがわれた上に、
親から「そんなのは」呼ばわりされて、格言世界のような
親都合の世界に誘導させられて・・・
繰り返しているうちに、
ついには、自分から「あんなのは」呼ばわりするようになって、
楽しい感情も、休まる安堵感も
「いけないもの」に、自らの手で、仕立てあげてしまった。
・楽しいことの後は、「ちゃんときりかえて」シャキッとしなさい、って、
まるで楽しいと感じたり、遊んだりするのが、悪いことかのように、
その「1」悪いことをしたら、早く元に戻って「10」努力しなさい、
みたいな雰囲気が、ごく普通にあった。
・たったこの半日のエサで、残りの6日半、その週、
親都合漬けに出来たのだから、誰が得をしたかといえば親であり、
ふざけんな。なにが「よく遊ばせてくれた親に感謝」だよ。
それ以上に、「楽しいことは悪」という意識づけをしたのは、
もっとタチが悪いし、これは許せないと思った。
・楽しいことをしたい、楽しみたい、そう思ったのなら、
なんとしてでも、そのための努力をすべきだったのだ。
それをすることもせず、わたしがやってしまったのは、
「楽しかったのを、失いたくない」
として、楽しい気持ちを、まるで昆虫採集のように、
ピンでとめて、腐らせてしまったことだ。
・親の言い分を弁護し、自分の一次感情をおとしめてきてしまった。
標本にして、その楽しさを腐らせてきてしまった。
標本にしよう、としたのはなぜ?
「また楽しめば」の「また」は無い、と
思ったから?
こうしておけば、楽しさは続いてくれるはず、と
思ったから?
違う。それは言い訳。
もっと遊びたい、また楽しみたい、
それを言わずに我慢したからじゃないのか。
その都度その都度、新しく楽しむ努力を
おこたって、我慢を正当化したからじゃないのか。
親が「いけないことだ」と言ったのを鵜呑みにし、
陰でこそこそしている。
そう、わたしはいつもこそこそしていた。
・いくら毒親がそっちへと
誘導し、調教し、騙し、脅したとしても、
ついていったのは誰、
言いなりになったのは誰、
その親の言い分を鵜呑みにし、その後も擁護し続け、
自分を殺してしまったこと、楽しいといった「感情」を
腐らせてしまった責任は、わたしにある。
*********
罰する人がいない世界、罰せられるようなことがない世界、
わたしはそれを「拷問のない世界」というふうにも書いていたが、
そういう世界を望んでいる、と書いている。
自我復元をすれば、そういう世界に行ける、
そういう世界を選べると思っていた、ということか?
だとしたら、それは、間違っている。そう感じた。
きっとそれは、自我復元に取り組む姿勢そのものが、
大きく歪んでいるんじゃないか?
これでは、わたしは、
最初から「自分を守らない」と言っているようなものだ。
「罰するような人がいない、こわいことがない世界に行ければ、
絶対に安心だよね」と言うヤツと、わたしは取引をしてしまった。
そして、わたしが自分自身を守らなくてもいい、
死守しなくてもよかったことの言い訳や正当化のために、
自我復元を利用したことになる。
・わたしの場合、「なんとかしたい」と思うときは、
「なんとか上手く逃げたい」という意味だった。
なんとかしたい、という反応が起こるやいなや、その時点で、
目の前の事実にすでに「背を」向けている。
というか、もう逃げ始めている。
・それは、わたしがわたしを守らなくてもいい理由、ということ。
守らなくてもよかった言い訳。
・苦しい話をいろいろきいて、わたしはそれに共感しようとすることで、
その方々の不幸や苦しさを知ろうとした。
そうすることで、どこかわたしも「最低で不幸に」なれた気がした。
わたしこそ、不幸自慢をしていた。
AC人格のなかでも、そいつが出てくると、じんわりと
すごくいやーーーな感じがするのが「何でもバカにできるんだぞ人格」だが、
ふと、わたしは何を自慢しているんだろうか?と考えると、
最初はまさかと思ったが、不幸自慢をしていることがとても多い。
「あの人のその不幸、その苦しさ、わたし、もう知っている」
とそんなことで自慢したがっているわたしがいる。
だから、誰かが笑っていたり、楽しそうにしていたりしても、
「よかったね」の一言で一蹴してしまうのに、
誰かがつらそうな顔をしていたり、苦しんでいそうなら、
わたしは意気揚々と「なに、なに」と乗り出すのだ。
「わかるよ、わかるよ」という上から目線がしゃしゃり出てくる。
・考えてみると、父も母も、自分の母親から
無視されて見捨てられた、とずっと恨みを持っている人たちだ。
自分が不幸ならいいだろう、
自分を捨てちゃえばいいだろう、
挙句の果てに、罰するやつが悪いんだ、
そういうやつがいるから、わたしは自分の意思を
ゆずってしまうんだ、従ってしまったんだ、
そんなやつがいない世界にいけば「万事OK」だろう・・・
これらは、なにもかも、わたしが
「逃げたこと」
の言い訳だ。
ならば、やはりそれは間違っている。
どの世界に行こうが自分を守りぬく、
そのために、自我復元をしているのではないのか。
この生で、この社会で、この環境のなかで
自分を守れないような人間が、どうして
どこか他の世界で、自分を守れるというのだろう。
どういう世界にいったところで、そこで自分が主人公であれないのなら、
「罰のない世界に行きたいのなら、こうしろ、ああしろ」
という命令に従い、怯え続けるに決まっている。
・・・それって、今まで親からされたことと同じじゃないのか?
罰せられたくないなら、死にたくないなら、
こうしろ、ああしろ。そうやって、自分を捨ててきたんじゃないのか。
親の亡霊(処罰者)を自分の上に置き、
その自分の位置に甘んじてきたのは、
わたし自身だ。
今ここで、自分を守れなければ、
どこかで守れるわけがない。
そこでしでかすのは、「守らなくていい理由」を
グタグタと言って、自分を守ったつもりになるだけ。
*********
引用元
前半
http://mmjhb11.exblog.jp/20691047/
後半
http://mmjhb11.exblog.jp/20663453/
*********
■次の方の報告も、一部のみですが、
自我復元において足をすくわれてしまい、
幼少期の重大な記憶を掘れなくなることの、注意点を含んでいます。
_________________
*********
嫌な事をされて怒っているんだということを、
怒って質問攻めにすることで私は相手にそれを表しました。
黙って怒りを溜め込むよりは進歩したものの、
この質問は自分の中で引っかかる所があったので考えてみると、
自分の中には、相手に無自覚であって欲しい願望があり、
無自覚で救いようの無い存在に対し、
私が相手に対して、何の落ち度も無く批判できる口実が欲しかった、
のではないかと思います。
それを否定されその願望が達成されなくなったことで、
怒りが増幅したのだと考えました。
中略
これまで今回のような言い方をしようとせず黙っていたのは、
相手に対してどうにか優位に立とうとする対抗意識があったからだといえます。
結局は自分が嫌な目に遭い続けるだけでしたが、
心の中ではどうやって相手を言い負かすか妄想してばかりでしたので、
相手をやっつけなければ気がすまない、
「勝ち負けに支配された考え」しか持てませんでした。
この妄想はとてもしつこく、
自我復元の作業中にも割り込んで自分を不快な気分にさせます。
思い返せば不快な出来事があったときに嫌な思いをするのは、
この妄想から出ていたことが大半でした。
不快なことさえ、ありのままの状況に目を向けていなかったうえ、
その不快感を復讐の妄想によって誤魔化すつもりが、
実際よりも膨らませてさらに自分を不快にさせていました。
また、この妄想の中での批判を自分に向けてみると、
どれも自分の方がより当てはまるように思えました。
ニヤニヤする相手に怒りを感じるというのも、
自分が嫌な思いをしても苦笑いをして誤魔化す癖に目がいかないように
したかったのだともいえます。
本当は嫌なのにそんな顔をして相手の機嫌をとろう、
この場を嫌な空気にしないように、こんなことをやってしまう自分に腹が立ちます。
中略
また、ことあるごとに、父親は
「今は遊ぶものがたくさんあるが、昔はそんなものはほとんど無かった、
自分たちは物が無いのが当たり前だった」という話を何度も聞きました。
それを聞くと、自分の周りにはたくさんの物があふれている様子を想像して罪悪感を感じた。
物がたくさんある今の自分は、悪いんだ。それが当たり前で本当のことだと思い込まされた。
ゲ遊ぶことも本当は悪いことである気がして、窮屈な思いをした。
父は、物が無かった自分の子供のころが正しかったと言わんばかりでした。
中略
言うことを聞かない弟に対して暴力を振るう私を、
両親と祖母はどのように見てきたのだろう。
虫の居所が悪ければ、私は、弟に不満をぶつけてきた。
そこで気付いたのは弟をいじめる自分の姿と、
外で、私に嫌がらせをしてくる人物たちの姿が似ていることでした。
当時の自分には悪いことをしている自覚はありつつも、
妙に意地悪なことをしたい衝動に駆られて、やってしまう。
自分が正しいか間違っているのかということも、
弟を叩くことで誤魔化していた。
両親が表立って自分に弟に暴力をふるうのを止めるように言ったことは無く、
代わりに言われるのは、
家の手伝いをしろ、言うことを聞け、約束を守れといったことでした。
「勉強をしろ」とは言われず、自分の成績が良かったこともあるとはいえ、
両親はどちらも高卒でしたので、
桜の間の報告されていた方も言われたように、
子供が頭がよくなってしまい、
自分たちよりも口げんかで上に立たれないようにしたいから、
「勉強しろ」と言わなかっただけなのかもしれません。
特に父親は、私がどんなにいい成績をとっても喜びはしませんでした。
むしろ私の成績が悪かったのならば、慰めるふりをして、
「自分たちと同じ無学な奴」と、内心は喜んでいたのではないかと思います。
中略
本当は普通の家庭に生まれて、何の気兼ねなくあいさつがしてみたかった。
仲良く暮らしたかった。
どうして家はそれが出来なかったのか。
本当は私は、父親にだって母親にだって素直に構ってもらいたかった。
この文章を書くと涙が止まらなくなりました。
こんなことが起こったのは、今までで初めてだと思います。
どうしてこんなことになってしまったのか、本当に悲しく、残念です。
*********
●以下に紹介する報告の一部は、前回の投稿で紹介したケースと、
多くの点で重なるところがあります。
自我復元のうち、
特に「トラウマ掘り」と「AC人格解除」を、必ず鈍らせるもの、
そのキーワードは、「劣等感」から来る、「恨み」と「復讐心」です。
*********
中略
また自習者のブログが増えた。
まず何を思ったかというと、崩残さんから認められていいなぁ、
この方は個性的なんだろうな、個性的とは羨ましい、という嫉妬と羨
望だ。
これは、手を挙げている生徒を見ている私だ。
次にこう来る。
やっぱり私はダメなんだ、
私は先生から認めらていない、という劣等感だ。
ブログをやるのは大変だと思う。
常に何かを書き続けなければならない。
モチベーションがなくてやりたくないし、ブログにはリスクがある。
自分の内面を不特定多数に晒すことになる。
そんなの真っ平だ。
これはいつもの守りの姿勢なのだが、
羨ましいと感じる所が矛盾している。
何でだろう?と考えたら、
小4の頃の後悔に関連していると気付いた。
中略
学校で評価される行動についてだが、
まず先生の言うことをよく聞くこと、先生が質問をした時には、
手を挙げる競争をすること。分かっている人は我先にと手を挙げる。
手を挙げている人は優越感を、分からない人は劣等感を感じる。
これはトラウマ掘りでも確かにある。
「トラウマ掘り競争」です。
早く掘らないと、他の人に負けてしまうぞ。
誰よりも先に掘って、私が一番になるんだ。
そうすれば、先生から褒めてもらえて、
生徒からは羨望の眼差し、ひいては親からも褒めてもらえる。
私は得意満面だ。
書いていて気分が悪くなるが、事実だ。
北朝鮮の小学校の映像を見ると違和感を感じるが、あれと同じ事だ。
考えてみれば、分かっていても、手を挙げる必要などあるのか?
挙げたくなければ挙げなきゃいい。
先生に良く思われたくて、同級生から馬鹿だと思われたくないばかりに、
競って挙げるなど馬鹿げている。
それともう一つ気になるのは、先例が見たいという欲求だ。
独力でやるよりも誰かがやった物を見て、真似してやればいい、
そうすれば楽に出来るじゃないか。
必要ならそれを改良してやればいいのだ、という小ずるい思考がある。
この癖のせいで、見たり聞いたりした瞬間、
いいなと思った他人の言葉や思考を吸い込む。
中略
無自覚に他人の言葉や思考の仕方を吸い込んで、鸚鵡のように使ってしまう。
また、崩残さんに報告するのも、
宿題を出さないといけないからやっている思考が入っている。
報告義務がなかったら、私はトラウマを掘っているか?
非常に怪しい。
先生から褒められたいから掘っているのだ。
それが証拠に、自分の為には報告を書いていない。
先生に読ませるためだけに書いている。
・・・最悪だ。全然気付かなかった。
私は一度も私の為に報告を書いたことがなかった。
道理で、自分を大事にしたことがないと感じるはずだ。
どうもおかしいと思っていた。
何かがおかしい感じのだが、頭で理解できないでいた。
だからスランプだったんだ。
先生からやれと言われてやっているだけだから。
誰の為?先生の為。これは一体どういう事だ?
私は今まで一度も私の為に生きてこなかった。
私じゃない誰かの為だけに生きてきたんだ。
掘っていると、何度も何度も目の前に、この事実が突き付けられる。
小学校なんか、ちっとも行きたくなかった。
中略
ひどく後悔した。私は最低な人間だ。
私は、自分自身を裏切っただけでなく、Sさんの気持ちも裏切った。
どうしてこんな事になってしまうのか。
必死に自己中心性を抑えているのに。泣きたいよ。
もうこんなことは沢山だ。
中学を出た頃には、私は自分が「善人」でない事は身に染みて分かっていた。
色々な人を傷つけてきた。
しかし、自分さえも傷つけていた事には気付かなかった。
私がAC人格を立てたのは、本当の私を守るためだった。
今まで、AC人格が盾になって、刃物や槍から守ってきたのだと思い込んでいた。
ところが、AC人格も本当の私もボロボロになっているじゃないか。
AC人格の私が本当の私を傷つけている事に、今気づいた。
せっかく立てたAC人格は、本当の私を守れなかったんだ。
これじゃ何のためにAC人格を立てたのか分からない。
AC人格を立てない方がマシだったんだ。
中略
***をしているとき、
「あなた達の為にやっているのよ、私を褒めて褒めて」
という思考がある事に気付いて、驚いた。
というのも、今まで一度も自覚したことがなかったからだ。
もちろん、その思考は以前にもあった。
しかし、はっきりと自覚する程、浮き上がっていなかった。
夕食の後、食器を洗う時、よく感じる。食器を洗いたいから洗うのだが、
その中に「率先して食器を洗い、レンジ周りを拭いて、
布巾を洗濯する自分は、よく気が付いて偉い。褒めて褒めて」
という思考がある。
AC思考が常に混じっている。
中略
「極めて重要な自我判定用報告」を読んだ。
1月の初めに「天音さんなんか嫌いだ」と言っていた夢を思い出した。
この夢は、ただこの言葉のみの夢だった。
当初、この夢を全く解釈できなかった。
私も、マディアさんのブログは好きだが、天音さんのブログは好きじゃなかった。
でも、天音さんに個人的な恨みはなかった。
内容が女らしい所が私の劣等感を刺激するんだろうか?
なぜ嫌いなのかが掘れなかった。
ところが、この方の報告を見て、
私が無自覚だった心理を見事に明確に書き出していた。
そうだ、確かにマディアさんは上で、天音さんは下だ、
と無意識では思っていたのだ。
AC人格の解除がマディアさんなら妥当で、天音さんは不当だと思っていた。
つまり「あんたは不出来な人間じゃないか。なのに、
なぜあんたのAC人格の解除が私より先なのか。納得できない」
という思考なのだ。
だから、嫉妬と羨望で「天音さんなんか嫌い」なのだ。
ブログを読みながら、この人は私より上、この人は私より下を、
無自覚だが、はっきりやっていた。
私には、まだこれが自覚できる所まで、十分にトラウマ掘りが進んでいなかった。
だから解釈できなかったのだ。
この報告を読んだために、これで先例を見たので、
また一つ「トラウマ掘りのやり方が分かった」と自分が知恵をつけたのと、
崩残さんからどう思われるだろうかという例の思考が、また始まった。
そして、最初の文章を何度か読んだ時、
私は親に対して全力で好きも嫌いも表現しなかったと思った所から、
崩残さんを確かに代理として見ていたこと、
だから認めて認めてをやっていたのだと、
今になって、やっと、腑に落ち始めた。
そうだ、学校ACを掘り始めたら、
他者に自分の劣等感を投影していることが分かった。
他者の本質は、私にはあまり関心がなく、
「私を認めて」を押し付けられる相手かどうかが大事だった。
私は親にちっとも受け止めてもらえず、
あまりの孤独に、誰か別の、
私を受け止めてくれる人を手を伸ばして必死に探していた。
でも、探していても、
私を利用するか、私が利用するか、の関係性しか築けなくて、
気が変になりそうだった。
短期間だったが、Iさんだけが私を丸ごと受け止めてくれた。
だから、今も彼が私の心の支えだ。
家族に「私を無視しないで」と叫びたかったが、
叫んだところで誰も相手にしてくれまいと諦めていた。
だって、家族全員が、私を愛していないのを知っていたから。
「私を受け入れてよ!」という狂気のような思いだけが、
今の私を突き動かしているのだ。
不安感にさいなまれながらの長い長い孤独。
この孤独を手放したくて、何度も付き合う人を探したり、結婚しようと思った。
でも、話してみると、誰も私を受け止めてくれないばかりか、
皆、自分の都合の為に、私が欲しいのだ。
こんな事で絶対に妥協できなかった。
ここを書いていて、泣きはらした顔になった。
中略
天音さんとマディアさんのブログの差がひっかかる。
マディアさんのブログには、不快感を起こさせるようなものは書かれていない。
ところが天音さんのブログは、私の中の不快感の引き金を引く。
確かに、「あたしってすごいでしょ」も感じるが、それだけなのだろうか?
大事なのは、私の中に起きる感情の方だ。
天音さんのブログを見返してみた。
すると、
「不幸な他人が自由に幸せになって行く様を見るのが、妬ましい」と出たのだ。
天音さんが子供のように単純に喜んでいる様を見るのが辛く、
私が咽喉から手が出る程欲しがっている自由を手にしていくのが妬ましく、
逆恨みをしていたのだ。
前述したものもあるが、こちらの方が割合としては大きい。
だから嫌いなのだ。
幸福そうに見える人達に嫌がらせをする馬鹿共と、私も同じだ。
この認識は不快だが、事実だ。
嫌がらせを実行するかしないかだけの差でしかない。
私の家も嫌がらせをされる方で、たぶん幸せそうに見えるのだろう。
しかし、一定のレベルを維持する努力をしているからこそ、
そのように見えているだけで、何もしないでいる訳ではない。
馬鹿共にはその辺が全く分かっていないと思っていた。
ところが、天音さんのトラウマ掘りの苦労を読んで、
私は「この人は不幸だ」と勝手に思い込んだ。格下だと思ったということだ。
そして、私は、
天音さんが常にされている努力について、一度たりとも考えたことがなかった。
私には「不幸な人は不幸なままで居て欲しい。
絶対に幸せにはなって欲しくない」のだ。
自分よりもっと不幸な人がいてくれないと、
「私はこの人よりはまだ幸せだ」と思えないから。
結局は、父がやっていた事と同じだ。
お前は俺よりダメだを言い続けなければ、
自分の不幸を認めなければならない。
痰壺にされた私は、
今度は私が虐めることのできる被害者を探しに行く。
それは母だったり、友人だったりする。
もう、最低だ。
ちきしょう。
いつも同じじゃないか。
ここまで来て、
私は他人に、自分の意識の中の何を投影しているのか?を考えた時、
ようやく気付いた。
私が、今まで他人をどうやって見ていたか。
他人に自分の思考や感情を投影していただけなのだ。
ありとあらゆる他人に、
自分がこうあって欲しいと思う理想や勝手な思い込みを
投影していただけなのだ。
ショックだった。
「鏡」の意味が分かって、腑に落ちた。
思い当たることがあった。
Iさんがのぼせ上って私を見ていた時、私はこう感じた。
「本当の私を見ていない」彼は自分の感情を私に投影していただけで、
私自身を見ていなかった。
何かを他人に投影している間は、その人の本質を見ていないのだ。
それでは、本来の他人の見方というのは、どういうものか?
一切の先入観なく、肯定も否定もせずに、
その人のありのままを見るということだ。
そうだ、これが、これこそが、
私が、私の親にしてもらいたかったことなんだ。
咽喉から手が出る程、これをして欲しかった。
私がのた打ち回って苦しんだのは、これが得られなかったからだ。
親は、私の本質を全く見なくて、私はもがき苦しんだ。
中略
「極めて重要な自我判定用報告」を書いて下さった方のお蔭で、
自分の精神構造が分かったのだが、
今度はAC人格の思考の臭いが感じられて、嫌になる。
読み返すと、ものすごく臭うのだ。
この方の、「私は掘れた!見てくれ、すごいだろう!」
それは私のAC思考の投影でもあるのだが、
まず私は、自分の臭いととらずに、他人の臭いとして受けとってしまう。
しかも、これは同族嫌悪だ。
トラウマを掘りながら、
こうやって自分の投影癖を一個一個見ていくしかないのだが、
精神構造が分かっても、AC人格をすぐにやめられる訳でもない。
長い道のりだ。
そして、この回避癖のせいで、盲点は常にある。
先月の夢で、上司から「あなたは臭いのよ!」とはっきり言われて、
怒ったことを思い出した。
その時は全く解釈できなかったのだが、これだと思い当たった。
中略
崩残さんの言う事なんか聞きたくないと反発を感じた時があったが、
考えてみると、この時、崩残さんに投影したのは中学時代の親や先生だ。
親も先生もうるせぇんだよ。
お前らなんかこれっぽっちもあたしの事を分かってない癖にと荒れていた頃の投影だ。
中略
これを書くとキ印だと思われかねないが・・・、
優等生のレッテルを貼られて激怒していた感情が掘れた日、
夜中考え事をしていたら、
右側前から天音さんの意識が来て、優雅な声で、
「お役に立ちましたか?」と聞こえた。
なぜお会いしたこともない天音さんの意識が来たのか、不思議だった。
以前に本物の巫女殿と会ってみたいと思ったことはあったが・・・。
これも考えてみれば、失礼な話だ。
天音さんの人間性が好きで会いたいのならともかく、
パンダや100mを最速で走る人に会いたいと言っているのと同じ事だ。
勝手に他人にレッテルを貼り、
そのレッテルに該当する人を見てみたいという欲求。
我ながら苦笑する。
中略
赤いはがねさんのブログに対する真摯な姿勢を読んで、
ブログへの認識が甘かったと反省した。
ブログをやる事が、
これほどまで重圧とは想像もしなかったし、気軽に読んでいた。
今まで、他人の苦労を思いやる態度に欠けていた。
それは自分が一杯一杯だったこともあるし、
他人の苦労=他人の不幸=私はこの人より幸せだを
自動的に思考していたからだ。
中略
どこを掘ってもAC人格にしか行きつかないのだ。
他人の為の純粋な動機など一個もない。
良心などAC人格にはないのだ。
たまに父と同じ口癖を言ってしまう。
そして、無自覚に口にした後に、はっと気づく。母とTVを見ていて、
「そんなの嘘なんだよ、とか、そうだよね、〜〜なんだよ、」と、
父の口癖が口から出てしまった後に気付くのが、ものすごく嫌だ。
中略
また、買い物の途中で、ピアノの音がしていた。ピアノを弾ける人が羨ましかった。
なぜ自分がやらなかったか考えたら、親から才能がないと罵倒され、
否定されるのが、心底嫌だったからだ。
この理由で、やりたい事の大半を、やる前に諦めてしまった。
唖然とした。
父にはよく音痴だと言われて、劣等感を感じていた。
私はこんな簡単な日常の事すら、ちっとも理解していなかった。
中略
新子さんのブログを読んだ。
私には、超高速の書き換えを行った後の痕跡しか、まだ分からない。
掘っている最中に、自分の書いた文章を何度も読んで、
よくよく考えてみたら事実はこうじゃなかったという場合が多いからだ。
さらにもっと掘れば、今後引っかかりが現れるかもしれない。
今一番引っかかるのは「恥ずかしい感情だ」という所だ。
私は嫉妬したり妬んだり悲しんだり怒ったりしたくなかったから、
弟妹は欲しくなかった。
競争して負けたくないこともあったが、
この感情自体が醜いと思っていた。
自分が悪人に思えるから。
弟妹を憎むかもしれないから。
そして、そうだ、常に自分に対してみじめな気分を味わってきた。
こういう感情を持つこと自体が、自分は悪人なのだという劣等感。
なぜ悪人じゃいけないのか?
善人ぶらないと家族が私を認めてくれないから。
「私は兄弟が欲しかった」と、ふっと頭に浮かんだら、
涙が出て止まらなくなってしまった。
感情をネガティブとかポジティブとかに分類するのは、なぜなんだろう?
ネガティブな感情は一体誰の都合に悪いのか?
親だ。
また親か!
AC人格の思考がうるさい。
こんなことしていいの、仕事するふりして遊んでていいの、
トラウマ掘らないと負けちゃうよ、
全自我になったら他人に威張りに行くんだ、良い気持ちがするだろうなぁ。
いつになったら全自我になるの?ゆっくりすぎる。
他人のブログを見て、
どうやったら早く掘れるか研究したらどう?
うるさい、
うーるーさーいー。
挙動不審のAC人格を読んだ。
私が知りたい事が書いてあった。
今のままでは、どうやってもAC人格を乗り越えられない。
新子さんのブログから思ったことは、桜の間に載っていた通りだ。
こういう風にやらなければいけない、
私は出遅れているのだと思ったことは、
前記した文章にも現れている。
不快感を掘るのだという事は分かる。
だが、掘り終わってもまだAC人格が残っていたら、
それはどうやって始末すればいいのか?そこが最大の疑問だった。
AC人格のやり方がどれほどよく分かったとしても、
それがAC人格を除去する直接的な方法になるのか?分からない。
成功体験と思えるものが見当たらないので困っていた。
どれも成功していないじゃないか?
どれが成功と言えるのか、分からない。
成功体験ではなく、思い癖と言う意味でなら分かる。
ただ、思い癖は他人からははっきり分かるが、自分ではよく分からない。
でも、こだわっている所がネックとすれば、
私のAC癖は、親から自立できないと、頑なに思い込んでいるという事だ。
自立しない方が美味しい飴をもらってきたからだ。
そうだ、私の最大の仮想恐怖は「貧乏になること」だ。
私がこの家を出れないのも、今の仕事をやり続けているのも、
真中心の恐怖はこれだ。
親のお蔭で今まで生活に困らなかったというだけで、
成功している訳ではないのだが、
まるで信仰するみたいに
「今まで私は生活に困らなかった。今までの事実が証明している。
だから、これからも生活には困らないのだ」
と必死に自分に向かって唱え続けているんだ。
そうやって必死に信じ続けないと、
明日貧乏になるかもしれないという恐怖に打ち勝てないから。
中略
精神世界にいた頃、
「あなたは逃げ回っている」と言われたことがあり、ものすごく不快だった。
図星だった。逃げているのは分かっている。
学校では、途中から勉強が出来なくなり、読書や美術館へ逃げ込んだ。
社会に出てからも、嫌な事があると逃げ回った。
他人と比較し、私は中の上くらいの位置付けだと認識していた。
上には上がいるし、下には下がいた。
競争をやって、他人に勝てれば鼻高々だが、
自信がない状態では鼻高々も続かない。不安でしょうがなかった。
他人に勝てなければ、劣等感を感じて、逃避するために行動する。
転職もそうだ。
転職先が落ち着いた良い職場だったら大当たりだが、そうでない所も多かった。
転職先というのは、条件が一見良さそうでも、
行ってみないと実際には内情は分からなかった。
結婚問題が起こって、精神世界へ逃避した。
精神世界に来ると、問題が起こった時、問題から逃げるなと言われた。
「逃げてもまた同じ問題にぶち当たる。それなら逃げずにやってみることだ」
正論には感じたが、本当にそうか?
自分のキャパの限界を感じていたから、
現実には出来る所までしか出来ないではないか。
それ以上を求められても、脱落するしかない。
また、無理をすると精神的に追い詰められることは明らかで、
精神が崩壊するかもしれないと不安だった。
母方の叔父のように精神を病みたくなかったから、
私は自分を絶対に極限まで追い込みたくなかった。
精神を病んだら、終わってしまう。
また、私には少しでも才能があると思い込みたかった。
もし才能も何もないただのダメ人間では、それだけで心が折れてしまう。
心が折れることが本当に怖かった。
ダメ人間では、私の存在価値を誰も認めてくれない。
それが恐怖だった。
それ位なら、逃げ回る方がいいと思っていた。
中略
精神世界にいた頃、友人に
「あなただけが不幸なんじゃない」と言われて、激怒したことがある。
この言葉を今でも恨んでいる。
この友人が私に不幸を嘆いてきた時、
この言葉をそっくりお返しするつもりなのだ。
この頃、私は、精神的にはどん底だった。
恐ろしく自分を不幸だと感じていた。
それを友人に共感してもらいたかった。
ところが反論を喰らった。
「お前だけが不幸なんじゃない」と言われて、どう感じたかというと、
字づらの通りに受け取れば、
「お前だけが特別不幸なんじゃない」これは正論だと私にも思えた。
確かに私よりずっと不幸な人は幾らでもいるだろう。
また、「私に向かって不幸を主張するな」と言われたようにも感じた。
なんで自分の不幸を嘆いちゃいけないのか、分からなかった。
「不幸を主張するな」と言われることは、恐ろしく不快だった。
そういえば、この友人は善人になろうとしていた。
彼女は、昔虐められたことがあって、
それで善人を目指して努力していると、以前話してくれた。
変なの。
なぜ善人じゃなければならないのか、悪人だっていいじゃないかと思っていた。
そうだ、この時、私は彼女に「親」を投影した。
彼女がやっている事は、親がやっている事と全く同じだ。
善人ぶった偽善者から説教されるなんて、死ぬほどムカつく!
あんたなんか偽善者のくせに、
善人じゃない事を最初から認めているこの私に説教するな!
そして、私は、彼女の事を部分的に見下していた。
私は「自分と同類で、ちょっと見下せる人間」を
友人として利用していただけなのだ。
中略
猛烈に腹立たしいのは、本当の私のやる気を削いだ毒親共だ。
うるさく言われたことは、
「大人しくしろ、
年長者の命令を聞け、
大人の行動をよく見て手本にしろ、
感情は出すな」
の一辺倒だった。
人形のように無表情で無感情で、
何も考えず、言われた通りに行動すれば、親は満足だった。
こうしていれば、怒られることはなかった。
何も考えず無気力でいること自体が、成功体験だったと言える。
馬鹿だったから、これはある意味で楽だった。
自分で考えるのを放棄し、何一つ自分で決めなくていいのだ。
周りに流されて生きていれば、それでいいのだ。
だが、心底辛かった。
ストレスがたまる一方で、ストレスを発散できる場所が一つもなかった。
ああ、自由になりたいと、ずっと思っていた。
私を人形に仕立て、自立させないのが親の狙いだった。
私には自立への恐怖が常にあった。
一人で独立して食っていけるのかという不安、
死んでも貧乏しなくないという生来の恐怖心、
そして、今まで一切自分で考えてこなかったのに、
これからは何でも自分で考えなければならないという恐怖心。
今までは親が悪いと親のせいにもできた。これからはそうできない。
さらに追い打ちをかけたのが、今まで培ってきた無気力だ。
自立できるはずもない。
中略
父は、私の為に遊びに連れて行ってやったと固く思い込んでおり、
私が大人になってからも、
「連れて行ってやったよなぁ」と恩着せがましく自慢していた。
自分は海へ行ける、
母に対しては父と私が仲の良い所を見せつけることができる、
私には恩を売れる、
第三者には休日に家族サービスをする良き父親をアピールできる。
父にとっては良い事だらけ、
休日を一日潰してもやる価値があったのだろう。
今では、父の思惑で、子供の頃の純粋な喜びが汚されたように感じる。
不愉快だ。
幼少期から、家にいても本当につまらなかった。
家族は、面白みのないつまらない人達で、綺麗なものの無い家だった。
中略
幼稚園に行く頃には、既に生活を楽しめなくなっていた。
今思えば、家も幼稚園も刑務所のようだった。
大人の言いなりになってさえいれば、
それで何とか罰を受けずに毎日やり過ごせるのだ。
私の目から見ると、大人達は稼ぐことに必死だった。
一定の生活水準を維持する事は大変な事なのだと分かった。
娯楽を犠牲にして働いていた。
休日は週1回で、ただ体を休めるだけの休日だ。
私という存在は、
余計な仕事を増やすだけの厄介者で足手まといとしか思えなかった。
祖母には趣味が全くなかった。強いて言えば、神仏への信仰だ。
定期的に決まったお寺を巡っていた。
祖父にも趣味がなかった。盆栽をやっていたが暇つぶしだったし、
よく町会の旅行に行っていたが、
これは、うちは成功した家で、自分も成功した人間だという事を
対外的にアピールする絶好の機会になっており、趣味ではなかった。
この二人が心底何かを楽しんでいる所など見たことがない。
父の趣味はレコードを聴く事と読書だが、こんなの現実逃避だ。
私が小学生になると、父は勝手に両方の趣味を押し付けてきた。
母は実母の影響でクリスチャンかぶれで、聖書を持っていた。
信仰などしていないのに、一時は教会に通っていた。
疑問に思っていたが、ただ単に仕事から逃避したかっただけなのだ。
中略
うちでは子供は要らない存在だ。
早く大人になりたかった。
そうすれば、一人前に扱ってもらえる。
中学生になり、ようやく棚卸の手伝いが出来る事になった。
これで一つ、大人と認められた。まるで通過儀礼だ。
うちは全員早食いだ。
食事を楽しむという観念はなかった。
基本的に食事は仕事の合間のやっつけ仕事だ。
外食をしない代わりに家で美味しいものを食べようという方針で、
食費をケチる事はしなかったし、祖母の料理は美味しかったが、
手の空いた人から順に食べ、全員が揃って食事することはなかった。
中略
肌荒れが酷いのも、肌のどこかをかきむしらないと寝れないのも、
溜め込んだ感情がちっとも解放されていないからだ。
不快感が上がってくるのだが、咽喉元まで来ているのに、
吐きたいのに吐けない。上手く感情の吐き戻しが出来ない。
中略
幼稚園の頃、寝ていて目が覚めると、
横で、母が具合の悪い父の背中をさすっているのを見て、ショックを受けた。
母は、私は愛してくれないのに、父は愛しているのだ。
と思った。
幼少期から、母が私を愛してくれないのを知っていたので、
私の精神状態は不安定で、いつも宙に浮いているような感じだった。
どこかに着地したいのだが、私を受け入れてくれる人は誰もいなかった。
不安で一杯の私は、何かにすがらなければ生きていけなかった。
そこでAC人格の私は、理想の母親像を作って、それを信じ込む事で不安を回避した。
中略
ここ半年位、呼びかけをする時に、料理の匂いがする時がある。
すき焼きやクッキーやグラタンなど、その時々で匂いが違う。
祖母が家族の食事を作っていた。
祖母は、家族を手なずけるためと賞賛を得るためだけに料理を作っていた。
これは、料理に対する冒涜だと思える。
自分が美味しいものを食べたいからでもなく、
家族が健康で幸せになるようにでもない。
祖母は年中、私や父に「美味しい?」と聞いていた。
今の母の方がまだマシだ。
母は料理が下手で、自分でも「美味しい物が食べたい」とよく言っている。
美味しい物が食べたい時は、私が自分の食べたいものを作るか、外食するのだが、
しかし、私がAC人格である限りは、
料理に、私を認めろが入ってしまい、祖母同様に料理を冒涜しているんだ。
中略
私が他人の子供を見た時に、こうだったらいいのにという投影は、
大人しくて、脆弱で、私の命令をよく聞く、
私が扱いやすい子供というものだ。
これこそが、家族が私に押し付け、丸飲みさせた虚像だ。
家族は私に、彼等が私に望んでいる投影を全て丸飲みさせた。
げーっと吐き戻すものが、吐いても吐いてもある。
中略
絶対に譲れないものがあるとすれば、
私は今まで生きてきた人生に、これっぽっちも妥協できない。
今までのAC人格の人生に妥協できない。
こんな人生、ちっとも納得できない。
親は、投影や虚像を飲み込ませて、これで納得しろと言う。
これが普通の人の当たり前の人生だと勝手に主張するが、
私は絶対に納得できない。
こんなやり方を許しては絶対ダメだ。
親の願望をかなえるためだけの人生で終わりたくない。
死ぬ時に「ああ、最後まで空虚な人生だった」と振り返るのは絶対に御免だ。
中略
お姫ちゃんさんのおたよりの最初の方を読んだ時、不快だった。
AC人格の私には、
上から目線をしているAC人格の戯言にしか感じられなかった。
昨年暮れから職場に、年上のパートのおばさまが増えた。
彼女は、本人はプライドが高くて、他人に対して卑屈と尊大を交互にやる。
こんな仕事ができるのよと妄想誇大表現をするのを聞いていると、
腹が立って仕方がない。
・・・と今度は、私が上から目線をしている。
本音では、私は、彼女の卑屈も自慢もスルーしたいのだが、
上から目線と感じた瞬間、自動的に不快になり、怒りはじめる。
ちっとも偉ぶりたい私の癖が抜けない。
最近、**をお願いしている**屋さんに頻繁に行くのだが、
そこでも、やはり店員さんに偉ぶりたい癖が出てしまうのが気になって
いる。
なぜ偉ぶりたいかというと、
そのコミュニティに優秀だと受け入れて欲しい・排除されたくない
という気持ちがまずあって、
そのコミュニティの中で「中より上の位置けを確保し、
そこに常に居たいという気持ちがあるからだ。
この中途半端な位置は安心感のある位置だ。
本当の上や下は、大変なのを経験上知っているからだ。
中略
AC人格の言う「私は正しいのよ!」という主張は、
一体何が正しいんだろう?
AC人格の言う正しさには、論理も何もなく、
ただ「私が正しい」と主張するのみで、
私を認めろ以外にないのだが、よく考えると、
私の言い分は正しい=ずるい大人の言い分は間違っている、
と言いたいのだった。
幼少期、ずるい大人の言い分なんか、1個も私は認めたくなかった。
ずるい大人は汚い。
私はこんな風に汚くなりたくなかった。
真っ白な自分は大事にしまっておきたかった。
それで、真っ白な自分と汚くなってもいい自分と2つに分けて、
使い分けることにした。
ところがその後、真っ白な自分の出番は、一切なかった。
そして、真っ白な自分の存在を忘れてしまった。
中略
年下の従兄弟とおもちゃの取り合いをして泣いた件で、
私はてっきり祖母が私の側に立って、私を庇ってくれると思い込んでいた。
ところが実際には、祖母は従兄弟を取った。
私は、またも愛されていないのだと思った。
この時こそ、本当に泣きたかった。
だが、泣くなと白い目で見られた。
泣きたくても泣けない。
誰からも愛されていないのは分かっていたが、
それでも私は断じて認めたくなかった。
何かある度に、悲しかった。
私はいらない存在だと思うと、死にたくなる。
でも、ずっと悲しいと感じていては、生きてゆけない。
だから、悲しいと感じないようにしよう。
誰かのせいにすればいい。
目の前の親、目の前の他人。
この人達に責任転嫁すればいい。
そして、怒ればいいんだ。
お前達のせいだ。
私が悲しいと感じるのは、お前達のせいだ。
私に悲しみを感じさせないで欲しい。
楽しいことよりも悲しい事ばかりだ。
一体何のために生きているんだろう?
中略
自由に外出できて、自由にやりたい事をやって、女は不自由だ、
何も好きなことができないと思っていた。
私は「男の人が怖い」と認めたくなかった。
男の人が怖いことを認めると、男の言いなりになってしまうではないか。
男の人達は、女より優秀だと、事ある毎に変な自慢をしている。
だから、男を怖いと思ってはならない、
男より優位に立たなければ、女は男に見下されたまま、
奴隷のように生きなければならない。
そんなの嫌だ。
私が幼少期、女らしさをしまったのも、男が怖かったからだ。
中略
そういえば以前、天音さんを羨ましいと思ったことがあった。
しかし、本当の私は羨ましいと思ったことはなく、
羨ましがっているのはAC人格の方だ。
この自己矛盾は一体なんだ?
AC人格は幻覚を見ている。
不必要な自己矛盾をあえて作っているAC人格のメリットは何か、
と考えると、
自分自身を誤魔化すためだ。
現実を認めた時に生じる苦痛を誤魔化すためだ。
自らの現実と、そこに生じる苦痛をすべて認めて、
受け入れられるなら、AC人格はもう不要だ。
中略
以前、崩残さんから桜の間で叱られたことを思い出す度、憤慨していたのだが、
AC人格が剥がれてきたのか、
「ああ、あの時はおかしかったから。崩残さんの言う事はもっともだ」
と冷静に考えられるようになってきた。
一番変わったのは、
怖いものを怖いとその場ではっきりと感じるようになったことだ。
美容院やコンビニのレジの人が男の人だと怖いと感じたり、
桜の間で、
「親への借金を計画的に返す事を決めた方の話」を読んだ時、
私にも同じ恐怖心があるから、怖かった。
血の気が引くような感じがした。
中略
私は、感情を出さない従順なYESマンでいることで、
人生をやり過ごしてきた。
だから、他人と怒鳴り合うのが本当に怖い。
怒り狂っている人とやり合うのが、たまらなく怖い。
私は誰とも怒鳴り合いの喧嘩はしたことがない。
母と結婚問題で言い合ったが、怒鳴り合いまでいかず、
常に平行線のまま話し合いが終わる。
父とも喧嘩はしたことがない。
考えてみれば、父も私と怒鳴り合うのが怖かったに違いない。
中略
私のこの思考回路は、AC人格の基本的な思考回路だ。
まず、自分と同じ考え方を他人もするだろう、という思考。
お礼に品物をあげるというのは、
親がやっていた私をコントロールする方法だ。
親の場合は、先渡しする。
まず物をあげたり、何かを勝手にやってあげる事で、恩を売りつけ、
相手より優位に立つことで、相手をコントロールする。
〜〜してあげたじゃない。
だから今度は私に〜〜して。
ここぞという時に、相手からより多くの従順・報酬を要求する。
中略
親が汚いと思うのは、子供に本当に欲しいものを与えず、
的外れな品物や行動で、より多くの子供の従順を要求する所だ。
親 take > give 子 ←親は、子供からより多く搾取する
夫婦は、giveとtake を賭けて、お互いに争っている。
他人 take > give 自分 ←お礼をする時はこれが常識
他人 take < give 自分 ←これは非常識
「お礼は多めに返せ」は童話でも聞いた。
わらしべ長者やカサ地蔵の話。
恋人の時はお互い与えあい、夫婦になると今度は引っ張り合う。
釣った魚に餌はやらないという話をよく聞く。
そういえば父も、何かあった時のために保険をかけておけという考え方だった。
他人に献金するのも、
他人に善人ぶるのも、
お金に汚くないフリをするのも、
先にお金なり、何かを他人にやっておいて、
何かあった時、他人からより多く回収するために、
困ったことが生じた際に自分を守るために保険をかけておく。
その基には、仮想恐怖による不安がある。
不安だから自分を守るために、
他人よりより多く何かを持ったり、
他人に自分はこういう人間ですと、
これ見よがしにアピールしておく。
自動思考で、瞬時に、頭の中に天秤を置いて、
相手と自分の関係性を考えている。
対等か不等か、優位か劣勢か、常識か非常識か、など。
夢の中でもやっているように、本心がばれないように、
全然違う事を言って、他人の目を誤魔化すことをしている。
本音を言えば、親から罰せられる可能性があるため、
その恐怖心で本当の事が言えないのと、
私自身も本心と違う行動をしなければならないため、
自分自身すら誤魔化さなければならない。
そうしないと、
自己矛盾と葛藤を直視しなくてはならなくなるからだ。
中略
黒丸さんのメールを読んで、成程と思った。
嫌な事をしているご褒美だ。
沢山集めて安心感を得たいというのも、以前はあった。
それが分析できても、
相変わらずまた新しい物を欲しがるのはなぜなのか、
よく分からなかった。
確かにご褒美がなければ、こんな事、やっていられないからだ。
一瞬でもご褒美で満足できればそれで良くて、
後に残った品物は必要ない。
中略
年下の子供の扱い方が全く分からなかったし、今でも分からない。
そもそも子供が嫌いだ。
物心ついてから、子供らしくのびのび出来たことなど、一度もない。
ぎゃあぎゃあ騒いで自己主張するだけの、うるさい子供なんか大嫌い。
私は一度も自己主張できなかった。
私に向かって自己主張するな!
むかつく!私に甘えるな!私は甘えられたことなど、一度もない。
なんで私ばっかり我慢、我慢、我慢しなけりゃならないんだ。
大人は言いたい・やりたい放題、年下の子供も言いたい・やりたい放
題、
私は一体何なんだ。
お前らなんか、大嫌いなんだよ!
現実に年下のイトコは全員嫌いだ。
体裁を繕って仲の良いフリをしていたが、本当に最悪の人生だった。
保身、外聞、体裁、欺瞞しかない人生だ。
私の欲しいものは、何一つ、手に入らなかった。
本当の愛情や友情、信念を貫く人をこの目で見てみたかった。
子供の頃、赤毛のアンという本を読んだ時、
この本の中には、愛情も友情も、自分が欲しいものをプレゼントしてくれる家族もあった。
本にあるのだから、現実にもあると思いたかったが、
うちにはなかった。大人になってからも、病気の時は、愛情が欲しくて、
赤毛のアンと細雪を繰り返し繰り返し読んだ。
無償の愛情が欲しくてたまらない。
取り引きじゃない愛情が欲しい。
きっとどこかにこういう愛があって、
誰かとどこかで巡り会えたら、こういう体験ができると思い込んでいた。
今思えば、私は必死に助けを求めていたんだ。
このまま生きていたら、本当の私は死んでしまう。
本当の私が感じたかった、体験したかったことは、こんな事じゃない!
本当の愛情や純粋な信念が見たい。
まじりっ気なしの純粋さ、100%純粋なものが見たい。
周りの人間は嘘つきばっかり。
私は、私心なしで、無心で、
100%全力で何かを追及している人が見たかった。
嘘つきじゃない、こういう人が必ずどこかにいると信じて疑わなかった。
ずっとずっと探していた。
梅の間を見ていた時、
この人は全力でやっているじゃないか、
この人ならもしかしたらやってくれるかもしれない、と思った。
このままいけば、この人は、この人なら、
私を救ってくれるかもしれないと思った。
だから自我復元を始めたんだ。
私は、てっきり、地球から出たいから、未来の目的のために、
復元をやっているのだと思っていた。
確かにそれもあるのだが、
私は死にたくなかった。
このまま窒息死したくなかったんだ。
これが、私が自我復元を始めた本当の理由だ。
私は、AC人格になど絶対に屈しない!
絶対に屈するものか!
AC人格なんか壊してやる。
中略
Abyさんの「空気を読めるAC人格」を読んでいて、
私の場合は、子供の頃、
家の中で親の顔色を一生懸命読まなければならないのが負担だった。
元々他人の事には関心がなく、顔色を読むのは不得意で、
やりたくないことをやろうというのだから、疲れる。
それで、外ではこんな面倒くさい事をしたくなかった。
同級生の顔色を読みたくもなかったし、
クラスの中で起こっている事にも無関心だった。
そういえば、会社に入ってから、
自分でも空気を読める時と読めない時があることが不思議だった。
が、考えてみると、
自分に影響のある上司、同僚、顧客に対しては、
保身や評価の為に必死に空気を読もうと努力していたが、
どうでもいい人に対しては、空気を読む気もなかった。
中略
マディアさんの
「もっともっと生産的でなければならない」という強迫観念を読んで、
うちもまさにこうで、これは自営業の性なのかもしれないと思った。
でも、私は親のやっている生産的なことに疑問があった。
目的の無い生産に思えた。
誰も目的も信念も持っていない状態で、何のために金を稼ぐのか?
生活を豊かにするためなら、お金が溜まった時点で、何かを楽しめばいいじゃないか。
ところが誰も楽しんだりしていなかった。
趣味と称して車やオーディオも本もあったが、
それを純粋に楽しむというより、
現実逃避や外聞のためにしか使っていなかった。
私もご多分に漏れず、お金を持っていても、楽しむために使えない。
私の最大の癖は、
「私は人より優れている」を常にやっていることだ。
本を読んでいるのだが、
明治時代の女主人公は、美人で高慢で、
学歴のある将来有望の男を捕まえて、
この男と結婚したいと思う一方で、
この男より優位に立とうと必死になって、
男を見下したり、コントロールしようとしたりしている。
この女の思考回路は私そのものだ。だからこの本が好きなんだ。
中略
AC人格に屈しないと言っているのも、
もしかしたら、私のAC人格の方なのではないかと疑っている。
中略
自分は汚くて真っ黒だという思いがある。
自分は汚いからダメ人間だと思い込んでいる。
そうだ、私はダメなのだと肯定すれば卑下をし、
いや、私はダメじゃないと否定すれば傲慢になる。
どちらも同じ事だ。
自分はダメなんだという自己否定が全ての元凶だ。
自己肯定できれば、AC人格は終わると思うが、
どうやって思考転換するのか?
中略
幼稚園の頃、プールの授業があった。
プールが深くて、水に入るのが怖かった。
溺れるんじゃないかと不安だった。
ここから私はずっと泳げないのだが、
考えてみると、溺れるんじゃないかなんて仮想不安だ。
私が本当に怖かったのは、他人と比較されることだ。
幼稚園に行くのが、死ぬほど嫌だった。
他人と常に競争させられるのが、いたたまれない。
自分がどれだけダメな人間かを何度も何度も自覚させられて、嫌になる。
この嫌悪感から逃れるために、沢山の不安症を発症した。
水が怖い、暗い所で寝るのが怖い、絵が怖い・・・。怖いものだらけだ。
言いようのない不安感、
常に不安に追い立てられているような感覚がある時がある。
存在不安。仮想不安。
襲われる・かもしれない恐怖、
溺れる・かもしれない恐怖、
落ちる・かもしれない恐怖、
怒られる・かもしれない恐怖、
失敗する・かもしれない恐怖、
貧乏になる・かもしれない恐怖・・・。
未来への不安。
私は正しく不安を感じていない。
いつも何かと混線している。
もう一つの問題は、他人への恐怖の投影だ。
自分の恐怖心を他人に投影し、
怖くない人にまで恐怖を投影する。
すると、相手が怖く見え、自分の恐怖心に自分が負けてしまう。
この投影癖を止めないと、相手の本質が全く分からない。
この投影癖は、
親から愛されていない自分を、自分が直視しないために始めた。
「私は親から愛されている」という幻想の投影が最初だ。
先入観と勝手な思い込みの投影だ。
外出する時、
「自分が他人からどう思われるだろうか?」と思うと怖い。
_______________________________
●
今回、抜粋しました3例と、前回の投稿で抜粋した方、
この4つのAC人格の事例は、いずれも、
「トラウマ掘り、記憶の発掘、AC人格分析が難しいケース」に
属していたのですが、
本当に、根気よく、掘ってきている人たちだと思います。
私個人の中では、それは、敬服に値します。
●Abyさんの場合の親との関係で出来た人格を、
代表的な「調教人格」としますと、
本人が、暴力は全くなかったと思っているケース、
あるいは実際に暴力はなかったケースでも、
やられた本人が全く自覚してこなかっただけで、
いくらでも子供にとっては、
恐喝や恫喝になるものが、家庭の中での出来事には、沢山あります。
また意図的な調教ではないが、劣等感を生み出し、やる気を失せさせ、
その結果、いつまでも子供扱い出来るような「親に都合のよい子供」を、
40歳、50歳を超えても、今もやってしまっているケースもあります。
「感染人格」は、親と同じ事を他人に向けてやっているケースですが、
これも、親に屈した結果です。
●これらは、明確に、トラウマを受けるような恫喝や暴力があったケースよりも、
見つけにくく、分析しにくく、つまりは自覚しにくいので、
私が思うに、
トラウマが掘れない人、
AC人格が分からない人、
分かってもそれに負けてしまう人の持つ、大きな理由のひとつが、
【恐怖感が、その形を変えた劣等感から生じた、復讐心と恨み】
この部分が大きいと思いました。
しかし、自分が、実は、親に対して、
恐怖を持っていた、
恨みを持っていた、
寂しさを感じていた、
怒りを持っていた、
不安だった、不満だった、
こうした記憶の事実認識にまで蓋をしてしまっている人は、
知らぬ顔をしているだけではとどまらず、
無自覚になって、それを見ないように蓋をするために、
かたっぱしから、
「あらゆる事を、言い訳の為に悪用」するにAC人格になります。
そういう人は、私も、どうにも出来ませんし、私は関心もありませんし、
自我復元という方法ですら、無理です。
そこまで腐っているということですから。
●ですから、
絶対に、親から代々受け継いでしまったAC人格から、
絶対に抜け出てやる、
その代々からの連鎖を、自分の代で食い止めるという決意の出来ない人、
また、その決意をするような機会にすら恵まれない人は、
「原主体」や私が「本質」と認識しているものから見れば、
明確な「汚染物」です。
これまでに、本当に沢山の人たちの、
身を切るようなAC人格との格闘を見てきた「今」の私から見れば、
私はAC人格を、
「本人のみならず、社会的にも害性のある敵」とみなしていますので、
いつまでも、偉ぶったり、勝ち負けでしか物事を感じられないような人は、
そもそも、この無明庵のサイトなど読まないほうがいいのです。
●今にも死にそうになっている本人の中の本質が、
身体の命を賭けても、今、戦わなければならないのは、
「本人自身」に対してであって、
他人に勝ちたいとか、負けたくないとか、優位に立ちたいとか、
優位に立っていると思い込みたいだの、という、
そんな、AC人格に特有の腐ったことをしている猶予も暇も、もうないのです。
●しかし、すべての、とっかかりは、
幼少期の記憶を、正しく、事実認識することからです。
トラウマや感情が掘れない人のほとんどは、
普段の生活の中でも、あらゆる事を「事実誤認」していますから、
過去の記憶に対して、本気を出して決意して掘らないかぎりは、
記憶までをも嘘で埋めてしまい、
そこに自分を直視しないために捻じ曲げた勝手な解釈を加え、
自分の親子関係に、「問題がなかったこと」に摩り替えています。
そういう人たちは、真犯人である親が、
しめしめと、ほくそ笑むのを助けてさしあげて、
何もなかったと思い込んでいればいいのです。
そういえば、よくも陰謀論について、
斜に構えたり、時には、感情的になって、
偉ぶったり、知ったかぶりをする人たちが昔からネットにいますが、
>おめぇー自身の親が子供にしてきた陰謀にも気づけない馬鹿に、
>社会の陰謀が分かるわけがあるまい、
というのが、私の率直な見解です。
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