▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[356]
■
★分割自我復元★その356■ 『 私的メモ 』
by:
鈴木崩残
2014/05/31(Sat)07:58:32
自我復元に集中している人のみが
時間とチャンスを無駄にしていない
●無明庵は、ホームページは1997年に開設されましたが、
それから、約17年になりましたが、
その間に、いろいろな人たちが去来しました。
そして、これまでに自我復元をしてきた人を除けば、
本当に、どうしようもない人たちばかりでした。
この本当にどうしようもない人たちという言い方が軽蔑ではなく、
事実であり、それこそが大問題であったことを最も深く実感し、理解しているのが
「自我復元」を現在している人、
あるいは「してきた人たち」であることは疑う余地はありません。
どれほど、おかしな人たちがこのサイトを去来したか分かりませんし、
その人たちがどれぐらい狂っているのかということを
嫌というほど理解できるのも、自我復元をきちんとしてきた人たちのみです。
●したがって、自我復元という方法がどうにか確立された、
2010年以後からが、
このサイト(サイトのあれこれのコンテンツはどうでもよくて)
無明庵として、最も重要な期間になります。
それ以前は、自我復元にいたるまでの、
さまざまなリサーチ期間です。ただし、今思うと、調査期間が少し長すぎました。
●私的なことですが、この17年に無明庵に関わった人間のうち
唯一、どうにかマトモだったのは砂手ただ一人であり、
あとは全員、ただのどうしようもない人たちでした。
その砂手さえ、来た当初は私に言わせれば、
完全に、迷惑なただのキチガイだったのですが、
その他の、中途半端な者たちとの大きな違いは、
少なくとも、キチガイにはなれていたことです。
その他のボケた連中は、
キチガイにすらなれていないという点で、
砂手よりもずっと、程度の低い「稚拙な状態の人たち」でした。
●だから、気がめいるほど、馬鹿な人たちにも私は沢山会いました。
メールのみでの連絡や相談のみならず、
物理的に会った人物たちも、砂手を除いては、
全員とも、全く愚かしくて、歪んだ、ただの悪臭を放つAC人格者ばかりでした。
(ただし、前述したように、その砂手も、
無茶苦茶に狂ったAC人格として、うちに来ました。
もしも彼女が来なければ、単に、その役目をする
他の代理人が来たと思います。
というのも、こういう構図では、個性は全く問題でありません。
重要なのは「心の病理のパターン」を誰が持ち込むかです。
そこで、AC人格が爆発した状態の砂手の相手をするうちに、
その根幹的な問題が、読者の人の多くの中にも内在していることを
探ってゆくうちに「自我の故障」という問題に行き着いたわけです。)
しかしその長い暗黒の状況が一転したのは、自我復元からです。
■さて、とにかく、
皆さんに問いたいのは、
時間を無駄にしていないか?ということです。
私自身は、情報というものは、
今日、一日、今この瞬間の行動指針に影響を与えないようなものは、
すべてゴミ屑として認識していますので、
ネットにかじりついて暇つぶしをしたり、
知ったかぶりをしたり、えらぶっているような馬鹿な人血たちは、
どんどん、私の認識する世界から消去しますし、
そもそも、情報というのは、
それが具体的な日々の行動に、刻々と変化を与えたり、
目の前にある問題が、
嫌な上司であれ、生活費の工面であれ、毒親であれ、何であれ、
それを「どうにか出来ないような情報」は、
実用性なしとして、切り捨てます。
時間の無駄だからです。
●現在、自我復元とトラウマ・AC人格掘りに「徹底して集中」をしている人は、
日々の時間を、決して無駄にしていないと思います。
つまり、無明庵の読者の人たちのうち、
時間やチャンスを無駄にしていないのは、一部の人たちだけということです。
一部といっても、自我復元をしている人たちは、少なく見積もっても数十人います。
●さて、前回書きましたように、私信の相談や、やりとりでは、
細かい個別の対応が日々なされていますが、
今回も、不特定多数に向けて書くことはほとんどないので、
私的なメモのみを記しておきます。
私的メモ
「信仰の自由」をわめく人々が多いだけで
「自由な信仰」を提唱する者が少なすぎる異常性。
この二つは雲泥の差がある。
前者はただの洗脳、調教、依存症。
後者は主体的選択だ。
だが、後者をやっているつもりになっているだけで
実は、うすっぺらな借り物と教育のせいであるものも多い
*
いわゆる「カルト信者」の特徴は
その情報統制の受け方や、
狭い世界しか知らないことだが
全く同じことが、あなたの幼少時代に起きている。
一見すると通気が良さそうな家庭と地域社会だが
そこで行われた 躾、親面、恩着せ、恫喝、泣き落としが
最大のカルトの巣窟である事に気づかない
*
親の社会的体裁を立てるための教育
親の価値観を背負わせるための教育
親のどちらかに味方するための教育
親の不満の掃き溜めにする為の教育
親の劣等感のはけ口にする為の教育
親の不安解消の道具にする為の教育
親より幸福にはさせないための教育
これらを私は「家庭カルト」と呼ぶ
*
「家庭カルト」
言い換えると「毒親カルト」というのは
さらに進化を遂げると以下のような「調教」に変異する
子供があたかも自分で自分の未来を選択している
かのように思い込ませる洗脳
親に責任はなく全てが自己責任だと思い込ませる教育
親は子供を束縛しなかったし、
自由にさせてやったと子供に思い込ませる洗脳
*
以上のことを要約すれば、
これは、子供が自由に生きているという錯覚なのだが、
これを拡大すれば
国民が自主的に何かを選んでいる、
と国民に思わせる事に成功したら
その世界は 簡単に権力者に支配されてしまうということ。
そもそも、偶然の連鎖によって明滅している人間の思考内容になど、
どこまで自主性を主張できるかは疑問なのだ
*
誰もが「自主性がある」と本人が思いこむだけならば簡単である。
毒親や教師やグルやらだってそう思い込んでいる。
だが、そいつらの精神を解剖してゆくと
全部が借り物のガラクタの寄せ集めであると分かる。
すると彼らは言う
「人間はいろんな影響を受けている」
だったら「このオレは」とか言うな。
*
この問題は「主体」
あるいは「自己感覚」とは何かに必ず行き着くのであるが
私見では「自分が自分は」と何かを主張するわりに
「自」それ自体を喪失している人が大半だ。
いくら独自な事を思いついても自主性があるわけでは全くない。
自主性とは「損傷を受けなかった幼児性」の中にのみあるからだ。
*
つまり、 真の「自主性」「主体性」
そして、それが表現される「個性」というものは
実体験の積み重ねや、知識や、学習によって成立するものではなく
本来は生まれつき備わっている機能である。
その正常な機能を
どれぐらい親や周囲から邪魔されなかったか
封殺されなかったかが鍵になる
*
よって、たとえどんな高齢・老年期になろうが
正常な自我の主体性を取り戻すということは
何かを学んで出来る事ではなく、
殺されてしまった自分を自分で救出しなければ、どうにもならない
という決断にいたる事、
こんな自分は自分ではないと、気づいた時に、起きることなのである。
だから、
無我だの無心を、その薄汚れた口で言う前に、
まず人間であれ
*
面白い事実というべきか、当然の事実と言うべきか
私は「死」に怯えている者を見た事がほとんどない。
大半の人々は 他人の死を参考にした想像上の死か
多くの場合には 死の前にやってくるかもしれない
苦痛や心身の不便さを、経験する「かもしれない」
という事を恐れている
死そのものではなく
*
ここで話はまた「毒親」と「家族というカルト」に戻るのだが
毒親は子供に
「そんな事していたらお前は食えなくなるぞ
そんな事ではお前は駄目になるぞ
そんな事ではお前は生きてゆけないぞ」
と現実的には、かなり「根も葉も無い事」を
子供を威嚇して従わせる為に 無責任に言う
*
大半の人々は
実際に死にそうな本当の臨終間際を経験した事も少なく
死とは何かの定義も漠然としか感じていない。
であるのに、子供の頃から毒親や学校や社会から
「言う事きかないと、お前は死ぬぞ」と、
遠まわしに言われ続けている。
この愚行が 実体なき恐怖を子供の中に生み出し認識が歪む
*
かなり古代からずっとそうなのだが
宇宙や生命・万物について 「ある視点」から見える
本当の事を知った知的生物というのは
多くの場合に世界に対する一つの皮肉として
自分を狂人と呼称したがるのだが
実際には、自分以外の全員(動物も含めて)が
キチガイだと確信しているし、その認識はある意味では正しい。
*
ただし、そこで起きる厄介な問題点は
ある主体が認識し得た世界や宇宙という閉じた空間にしか
知覚された世界は存在しない、
という基本的な構造からして
ある者が「この世界」とか「全宇宙」と言う場合には
その「領域・範囲」がその物語の大前提となる。
この範囲指定をすっ飛ばして話す奴は地球外生命にも多い
*
そういうわけで
宇宙では大抵の場合において
他種族や他者との関係性の終焉は
「では、お互いに、それぞれの良き幻想
又は悪夢の体験を満喫しましょう」
と平和的に離散するのが常である。
その中で若干他人の関心を巻き込みやすいので注意を要するのは
普遍性の範囲が広い話題である
*
普遍性のある話題というのを
とても簡単に理解できる事例は
酒好きの二人が飲んでいて
「この酒美味いな」と言い、
もう一人が「ああ全くだ」 と言い、
何かを共有したかのような錯誤を生じ、
また、
「いや美味くない」といわれると簡単に混乱する。
普遍性の有無の実例である。
*
次の事例は少し広大な話であるが、
マゼラン星雲のある酒場(飲んでいるのは酒ではないが)で
生物Aが
「この宇宙は、最初から大失敗してしまった」と言い、
生物Bが
「え?そんなわけないだろ」 となると、
もはや全く普遍性や共通項が成立しない。
ただし共通認識が、成立しないから悪いのでもなく
成立したから良いのでもない
*
私が知覚宇宙について、わずかに経験して知った事は、
細かいところでは色々あっても、要約すると、とてもシンプルだ。
何度も何度も、宇宙が出来るたびに
「困った問題ばかり起き続けている」
苦痛や混乱を感じるという意味での苦労を
いつも生物たちが経験させられる。
修正出来ない宇宙など早く壊せ、との声が大多数であろう。
*
うっかり私も「範囲の定義」をすっ飛ばしてしまった。
宇宙など早く消せという見解 (何億年も観察分析した結果の結論)が
大多数を占めているのは、ある次元での話である。
その他大勢は 相変わらず存在の謎解きに夢中になり
やっつけ仕事で作られた今の宇宙を
能天気に賛美してやがると言える。
*
ただ、宇宙自体に対する見解の2派には、中間層も存在する。
極右派となると
「何であれ存在する事自体が悪だ」 といった絶対無・推進派となり、
一方で、この宇宙は修正されながらも継続すべきだという極左派。
中間層は、
多くの場合には前者に賛同しつつも
何度自殺しても「本体」が死ねず
なすすべがなく、生存の維持を余技なくされている。
*
たとえ相手が、万象の造物主でさえも
反論が出来ない絶対的な真理がある。
それは 「何も無いのであれば何も問題は生じない」
これだけには宇宙で誰も反論できない。
だから たくさんの銀河と沢山の次元を旅した旅人たちが
最後に、いつも言うのは、
「たのむから もう おしまいにしてほしい」となる
*
さて知覚のスケールというか
フォーカスを見慣れた知覚に戻してみる
すると私の目前にあるのは、食事や猫といった、とても無害なもの。
有害きわまりないこの宇宙で
無害だと錯覚できるものを探すのも、悪くは無い
*
どんなに日常生活の事に没頭している人でも
自分が好む宇宙を観る能力と自由を持つ
宇宙がどうなのか 生命が何をしているのか
「本当に本心から観たいものであれば」は何でも観る事が出来る。
ただし いささかでも 自分が思うところの
正気とやらを保とう、などと、しさえしなければ、である。
*
時には人は 自分を狂人だと呼ぶ事で正気を保とうとする事もあるが
そんな事も捨ててしまえばいい
「人間嫌悪症」になる事などは、実に簡単なことであり
程度の差こそあれ、ほぼ万人がなれるものだ。
そこに特別な事は何ひとつもない。
また、文句を愚痴るよりも早く、
洞窟や山に篭る、といった厭世的生活を、楽しむ人たちは今でもいる。
だが稀有なのは「存在嫌悪症」であり、
これは世界中を探しても なかなかいるものではない
*
この地球でという前提ならば
人間自体やその社会性を嫌悪するのはごく正常な神経であり
反論の余地はない。
だが、そういう者たちは自然や自然科学や、
他の生物や 山や川や空気や、
綺麗な、ねぇーちゃんや、兄ちゃんや 自分の子供や、
あげくには神々や、霊的存在とやらまでを含んで、
「存在する全てまでは嫌悪出来ない事」において、非常に脇が甘い
*
極度の鬱患者、または重篤な身体症状に陥るか
もしくは形而上学的な次元までを含む自問に入り込んだ場合のみに、
この稀有な現象は起き得る。
その存在拒否が徹底しており、
息をするのも眼を開けているのも苦痛であり
自己や人間のみならず外界全ての拒否
という段階になった時に開示される鍵がある。
*
平凡な人間であれば
いくら人間を嫌悪したところで、特定の人間には嫌悪感を持てず
またいくら全人類を嫌悪しても、
人間以外の生物に違和感を持てず
仮に生物をすべて嫌悪したとしても鉱物は嫌悪できず
何かしらの「例外・除外」が発生してしまう。
しかし、その例外こそが、
その者の絶望を不完全にしてしまう。
*
絶望の深さが不純で不完全な者は
とうとう、こう言いだすのである。
「さて仕事があるので忙しい」
「何の為かは、とりあえず問わず、生きてゆかねばならないのだ」
そんな事の方が重要な問いよりも優先するなら
始めから人生や世界など問うな。
問うなら無休で問え。
それとも倒れて病院に送り込まれてから考えるおつもりか?
*
そういうわけで 毎度おなじみの、
集中力と探究心のない者は
生死の意味は 「そのうちわかるさ」=×分かるわけがない
「死期が近づけば考えるだろう」=× 考えるわけがない
と、肝心の疑問を延期し続け
死ぬ間際、又は死んでから
「しまった、もっと早く考えておくんだった」と
毎回、死人たちは後悔している
*
そういうわけで 地球のこの時代の人間というのは、
「あれこれ、ごちゃごちゃ」と考えるが 「深くは考えられない」
「あれこれ、ごちゃごちゃ」と覚えるが 充実感には繋がらない
「あれこれ、ごちやごちゃ」やることの大半が、
中毒性を持ち、 日々の不快感から逃避するための麻酔にされる。
*
あらゆる意味での主観的不快感
(集団的不快感とは身体の痛みのみである)に拮抗できるのは
その不快感の反対側を想定し夢見たり理想として
自分の鼻の先のニンジンにすることではなくて
徹底的に、その不快感の原因を突き止め、
見極めようとようとする事で突破できる事がある。
*
原子力災害について
多くの人々が「原因究明もされていない」と言う。
まーそれは一つの事実としておいて置き、
では、あなたが生まれてしまったという「一種の災害」について、
あるいはあなたの家族の問題や病理について、
その「原因究明」は、
数十年、あなたが生きてきて、たったの一歩でも進んだのか?
*
子供や弱者が悲しい目をした「戦争写真」を掲載しては
あたかも戦争に反対している気になっている者が多い。
だがその前に、
よく今、あなたの周囲のいる人たちの笑顔や眼を見てごらん。
その笑顔が真に美しく、心から楽しんでいるようら思えたら
その妄想こそが戦争を作り出す。
つまり戦争は、実は、エセ幸福から生まれる。
*
あんたねー、そりゃ戦争とか終戦時の写真で、
にっこりして、笑顔でピースサイン出している奴なんかいるわけない。
家や家族を失い、打ちひしがれているに決まっている。
だがその者たちは かつては、又は、未来のいつの日か、
勝者の側で「醜く傲慢な笑顔」を振りまく者になる可能性を孕んでいるのだ。
*
だから私はよく感じる。
憎しみでもいい、嫌悪でもいい、殺意でもいい、
悲しみでも、寂しさでも、何であれ、
本当にそれが本物であるならばマシだ。
だが虚構の、見せ掛けの笑ったふり、
他人を巻き込んだ安心感の捏造
こうした、へらへらとした、「嘘の笑い」こそが、
むしろ戦争を生んできたというのが事実だ。
*
時間の無駄−1
インターネットをあちこちうろつき
たいした計画性もなく読みふけり
それで何かを知ったり、やっていたり
あげくには生きている気になっている人々が多すぎる。
情報とは今日この日、この今の瞬間の
「身の振り方」を決定する結論を出せるものでなければ
全く意味がないただのゴミ屑だ。
*
時間の無駄−2
時間の無駄の最大の原因は
人間が日々の生活や労働の目的を明確にしていない事だ。
あるいは自己のあり方に明確な軸を持たない事。
そのような状態で千の事を知った気になり
寄せ集め情報でブログを書いたりしても、
さて 今、あなたの目前ある、自分の問題を、
たったの一つでも軽減できたのか?
*
時間の無駄−3
ネットにかじりついているニートも、
ご立派な社会人も、退職した老人も
3時間ネットを見たとする。
ではディスプレイを閉じて立ち上がり
何をなし得た?
具体的に何か変わった?
気にいらない上司や家族や知人をどうにか出来たのか?
目的もなく 結果も出ない情報収集は、
ただの中毒症だ。
*
時間の無駄−4
情報を集め関心を持つ事自体に是非(善悪)はない。
ただしネット、ツイッター、メール、なんであれ
ただの井戸端会議
同意や共感欲しさ
あるいはうっぷんのはけ口
ないしは知ったかぶりによる自己満足
あるいは論戦による暇つぶしと自己顕示欲
退屈しのぎならば
ネットなど、今、即刻止めろ。
*
時間の無駄−5
自らの今日一日の
「行動指針への影響」
「思惟への影響」
「具体的行為への影響」
「判断基準への影響」
こうしたものに寄与する情報だけを集める事が目的であり
もとよりメールによる私信を除けば
インターネットはコミュニケーションツールではない
*
例えば、知っても役に立たない情報には、
昨年にアップされた動画で次のようなものがある
http://www.youtube.com/watch?v=z31ooPjx1T0
http://www.youtube.com/watch?v=qnELrccF22c
http://www.youtube.com/watch?v=2Ww0U-TMGnE
一部を除いては、概ね事実であろうと私は思っているが、
問題はこの話をネタに騒ぐのではなく
「自分はどうするか」を、決意し、決定する事だ。
*
英語が読めるなら 前述に関する下記原文を参照すると良いだろう
↓
http://www.stopthecrime.net/docs/nasa-thefutureof-war.pdf
【NASAの未来計画】と題され、
昨年に「中途半端な私見」を混ぜこぜにした
見るに耐えない、馬鹿っぽい複数のブログでも話題にしていたが
ようは、
知ったら「具体的に、自分は、どうするか」なのだ。
_____________________________
決意が出来た人だけが復元出来る
●自我復元において、最も重要な事は何ですか?
と尋ねられたら、私は、今ならば、こう答えるだろう。
【 決 意 】
すなわち、
絶対に、AC人格などに占領されたままで人生を無駄にしたくない、
そう、決意し、決断するかどうか。
この部分は、いくら強調しても、し足りないぐらいに非常に大きい。
●自我復元を好奇心から始める人のはその意を決するということがない。
また、既に多くの人たちが書いてきたように、
自我復元というもの自体に挑む姿勢自体が、
AC人格に特有の、
「何か、ちょっとは注目される者」になって、
「えらそうにしたい」とか、または、
「何かに勝ちたい」「馬鹿にした親や他人に復讐したい」、
といった無自覚的な動機であることもしばしばである。
前回書いたように、入り口は間違っていてもしかたない。
しかし、ブログを書いている人も書いていない人も、
これだけ多くの人たちが、
AC人格は、本当に醜い、食えない、使えない、歪んでいる
と、自我復元とトラウマ掘りの「実体験」を通じて、
明確に、幾度も、何人もの人たちが語っているのですから、
「自我復元」を絶対にあきらめないと、
かつてブログに書いたりメールで言った人たちの決意が
もしも「それだけは本物」だと自分で自負できるのであれば、
トラウマ掘り、AC人格に犯されてたままの状況を、
自分に絶対に許さない、という決意が必要です。
●しかし、どうしても、
一生を支配することになるほどの、その決意が出来ないのであれば、
いよいよその決意をしなくてはならない自覚が出るまで、
自分は間違っていないと自己暗示をかけ続けて、
自他に迷惑をかけて、間違い続けて、自己妄想に逃げて、
生きているのではなく、
生をずるずると引きずっているしかないのです。
●他人を許すとか許さないとかではなく、
100%、絶対に一歩も譲らない「自分への決意」を、
自分に対してしたことがあるのかどうか?
たんなる、頑固や、見栄や、自己保身の為に必死になるのではなく
自分のために、自分で決意するということ。
もうこんな無駄なことをしている自分は、絶対に許さない、
と決意するかどうか、
その自覚にすらも至られない人には、私は用はないのです。
また、「自覚はあります」と示すだけで、それでいいんだと、
気が緩んでしまったり、それでまーいいとしてしまう、
どうしようもない人たち。
そもそも、
AC人格には明らかに問題があり、
その問題を解決できる方法があり、
解決した人たちがいるのですから、
それでも決意できない人に、
これ以上私が言うこともありません。
ただし、その決意が起きるまでに残された年数はわずかですし、
決意を起こしてから復元をする時間も、限られるのです。
_____________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(356 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -