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[359]
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★分割自我復元★その359■ 『 私は自我判定で、皆さんの何を判断しているか? 』
by:
鈴木崩残
2014/06/07(Sat)13:20:00
精神状態とは何か?
●まず、天音さんのブログからの引用です。
↓
「この人の言うことは、正しいはずなんだ」と、思い込みたい私がいる。
●これについて、少し書いてみました。
ところで、これからは、皆さんのブログやメールに刺激を受けて
何かを書くという方向が増えそうです。
それだけ、貴重な問題提起を、抜群のタイミングでしてくれる
復元ブロガーの方が多いからです。
だから、ある言葉を受けて書くという方法ですね。
自我復元の今後(多重構造やネットワーク作り)については、
いろいろな算段はしていますがまだ発表する段階ではありません。
●さて、天音さんの一文を見ての私の独り事です。
世の中には、何かを信じるという場合(とりわけ言葉)を信じる時に
二つ側面がある。
ひとつは、その人の「その言葉」を信じる
もうひとつは、「その人」を信じる
この双方にはそれぞれに長短があり、
結果的に何かの失敗が発生した時には、
どちらのケースも相手に責任があるのではなく
見る目がなかったか情報不足だったかだ。
前述の「ひとつめ」は、
たとえば誰がが 「1+1は2だ」と言ったとすると
それは間違いではないので、信じるものとなるが、
その同じ人間が
「もう二度としないから許してくれ」といっても
その人は、自分のかみさんにも
また同僚にも信じてもらえない事も多々あるだろう。
つまり、その場合には、信の「対象」が違うからである
また前述とは真逆のケースというものがある。
ある人の言っている「内容」ではなく
「その人」を信じる、 というのは判断を間違うと、
カルト信者寸前状態なのだが
ただしそこには一定の整合性もある。
なぜならば、
信じるに値する「人」とは、間違わない事を言う人ではなく
間違っても修正できると信じられる人だからだ
一方で、その者が「言っている事」がどうあれ、
信じるに値しない人は沢山いる。
その人たちを見ていると、とにかく、間違う事を極度に恐れていて、
とるに足らない細かい事で他者を責めたり、いびったりしている。
おそらくは、間違った事を言ったりすると、
親から侮辱された幼少経験が多いのだろう。
そうした親の話は、復元ブログ内のエピソードや、
メールでの報告にも、いくつもあります。
その結果、
悪い意味で「データ」とか「既存資料」「知識」などをなんでもかんでも、
自分を支える「権威」と思い込んでしまい、それを盾にする。
むろんデータや資料には客観的価値が十分にある。
問題は、それを何の為の盾とするです。
データを解決の道筋への手段とするのではなく
「自分の示した(といってもそれも他人のだが)
データは間違っていないんだ。
お前はそれを認めろ。認めないお前は間違っている。
俺の勝ちだ。いや、少なくとも、オレは負けてはいない」
これをやらかす精神病人が多い。
しかも、勝つのではなく「負けてはいない」という
中途半端なところで、満足してしまうという精神的虚弱体質。
これもAC人格の特徴です。
それはとうぜんです。
毒親は、あなたに、
健全な意味で、「勝つという満足感」を、
決して経験させてくれなかったのですから。
あなたがいつも親の言い分に負けている方が親には都合よく、
絶対に親は、あなたを認めませんでした。
そうなったらAC人格のやらかすことは、
親を打ち負かすことではなく(AC人格ではそもそもこれが出来ませんが)
親に「負けなかった」という口実になる事実ばかりを
自分の中で捏造するだけで、精一杯になります。
これが転じて、社会へ出てからも他者との関係において、
たとえ戦うという局面になっても、
何かに完全に勝つまで満足せずに徹底的に直接に相手とやりあう、
ということが出来ずに、
「少なくとも負け戦にならないようなところ」、
かつてこの掲示板で書いた「中(ちゅう)の少し上」あたりで手を打ってしまいます。
親から健全な意味での「勝利感」を教育されなかったために
ゆがんだ勝利感しかしらないのです。
実は、健全な勝利感というものがありますが、
それを書くと、またまた言葉の曲解による誤解を招くので
ここの掲示板には書かずメールでします。
実際にはそれは、勝利がきっかけとなりますが、
勝利感ではなく、すばらしい充足感や安心感なのですから。
さて、独り事を続けます。
つまり、
その人物が自分の両親と口論や話し合いとなったとき
幼少期に、その時に、毒親はどのような態度であったかよって
相手に勝とうとする「力点」が異常化して精神や身体が歪むのである。
ところが、前者とは「真逆」の人たちもいる。
その人たちはしょっちゅう間違い、
間違った事も言う。
しかし、それでも「信じられる人」であり、「大丈夫な人」なのだ。
一般的に、このキャラクターは、
「愛されるキャラクター」となり、信頼されるキャラクターとなる。
なぜならば、彼らは自分の失敗や本音を、
決して隠さないからだ。
しかも、よく阿呆な人がやるような、
わざとらしく「正直さを演ずる」こともない。
*********
●では、私は何をもってして、その人を信じられる人として、
何をもってして、その人を、信じられない人とするか、
これが本日のメインテーマです。
これに関連することは、お姫ちゃんのブログにもありました。
↓
なんだか、幼児が、いちいち後ろにいる母親を振り返り、
母親が自分を見てる事を確認し、
安心してまた、遊びだす、みたいな感じだな。
●この時に、この母親がもしも健全でAC人格でなかったならば、
その母親は、少しずつ子供に自信をつけさせてゆきます。
むろんそれは子供の自主性を尊重しての話です。
しかし毒親だった場合には、子供がいちいち、親の顔色を見るように
さらには、Abyさんのところの毒親のように、
顔色を見ただけで、親の指示、意志した通りに動くように
仕込んでしまったわけです。
私の顔を見るのはかまいませんし、
私が見ていることも確かです。
しかし、自分の親と同じように見ている、あるいは
自分の親への渇望を投影して、勘違いをしてしまう人が沢山いた、
ということは今年の年始あたりに書いたとおりです。
仮に、当事者に分かりやいように、
「無明庵人格」と仮名をつけましたが、
現実には、同じことを、どこへいっても、誰に会っても
その人格はやらかしますので、AC人格と言えばいいです。
崩残先生が、いいと言ってくれたら、なんでもできる、そう思ってしまう。
私は、めったに「いい」とは言わないと思います。
ただし、「それでいいです」という時には明確な根拠があります。
信じてどうなるものではないですが、
それは、私が「いい」と言ったから良い、のではなくて、
「あなたは、そこは大丈夫です」と私が言っているということです。
この「**は、良いですよ」、は、自我判定文の中に、
いままでに無数に書きました。
特定部分については、それでいい、ということは、
報告の中に、本当に沢山あるからです。
ただし、全部OKの意味ではありません。
しかしOK出しをした部分については、OKであることを信じていいです。
なぜ、そこまで、「私がOKといったら信じなさい」と
私が確定的に、断言して言えるかには理由があります。
●私は、皆さんの毒親のように、
親の言うとおりにしたらいい、などという基準など全くありません。
私の側の都合などは、あかの他人の皆さんに関係あるはずもありません。
しかし、私が自我判定や、メールのときに、「そこはそれで良いです」
という場合には、二つの意味があります。
ひとつは、「今は、それでいいです」という意味。
もうひとつは、「もう大丈夫です」という意味。
●たとえば、もしも私が医師だったらば、
(実際、かなりそれに近似することを毎日しているのですが)
私が「良い状態です」と言う場合には、
「傷の治りの状態は良いですよ」と言っていると思ってください。
私は、その人全体を別に、褒めたり、あるいは、けなしたりしている
のではなくて「傷の状態」を言っているのです。
「あなたの胃に、こんな腫瘍がありますよ」と写真を見せて、いわれて
医師に腹を立てる人がいたら、変な患者ということになります。
自分に腹を立てるならばともかく、診断した医師に腹を立ててもしかたありません。
しかし、これが病気という眼に見えるものではなく、
精神的な心の作用、おもにAC人格という大病についてのこととなると、
「私は、そんな病気じゃない」と、医師に食いつきます。
表面的には、食いついていないように装っていても、
本音では、「診断されたくない」と言っています。
それゆえに、現在、自我復元をして、成果をそれぞれに出している人
というのは、もしも私が医師だとしたら、
その医師の言うことを信じたということになります。
しかも、私の診断や助言が正しいか否かの証明法は、
レントゲンを撮れるわけではないので、たったひとつしかありません。
それは、皆さんが前よりも、明晰になったり楽になったかです。
これについては、それぞれの段階で、好転反応のようなものがあり、
天音さんや、マディアさんのブログの過去記事を読むと分かるように、
楽になるどころか、追い詰められてゆくこともあります。
しかし、苦しみながらも意識が明晰に変化してゆく事例もあります。
たとえば、無干さんがそうです。
●また、本当の意味で楽になってゆく人もいます。
人によっては、40年以上もしてから、
本来の才能が開花することもあります。
こうしたことを、証明する、あるいはこれまでに証明してきたのは、
私ではなく、沢山の、皆さん自身だったのですから。
私がいくら「自我復元すると、こんなになりますよ」なんて言っても、
そんなものは、盲目的に信じる程度しか出来ず、
それに乗じた「お祭り」を頭の中でするだけになり、
全く何ひとつも、その人自身の病的状態は変わりません。
これが、かつて2009年までの無明庵の状態でした。
万の言葉を尽くしても、何ひとつも、伝わらない。
何ひとつも、読者の人に利することがない。
何ひとつも、実用性がない。
●多くの人たちが、本当のことを知りたいと望んだのだからと、
それで、話をしたつもりでしたが、
多くの人たちが、本当に知りたいことは、
宇宙だの、悟りだの、そんなことではなくて、
自分の中にある、違和感や、苦しさや、不快さ、
それをなんとかする方法を皆さんは、欲していたはずです。
ただの説明や、批判精神などは、そんなクソみたいなものは、
誰一人も、助け出すことが出来ません。
●その状況が一変したのが、自我復元からだったわけですが、
自我が増えることによって、当然に、処理すべき問題も
実際には増えますから、
ちょっとやって、出てくる感情や自称に、たじろいで、
やめてしまう人もいます。
たじろぐ、ならば効果を無意識下で察したのですからマシですが、
ちょっとやっただけで、その後、全くやっていない人もいますし、
あまりにも鈍感すぎて、復元作業すら出来ない人もごく稀にいます。
●しかし私が、過去百数十人のデータを見る限りは、
まったく何も起きなかった人は、ごくごく稀です。
「大丈夫かな、この人?」と、
もしも自我復元が開発される以前ならば、
私個人の好みや感覚や、美観としては、
「門前払いけにしたであろう人たちに対しても、
相当の余白を残してみた結果、
その人たちが、どんどん変わっていったのは、
この「自我の復元法」の開発者としては、
心底、嬉しい以外の何ものでもありません。
●さて、話があちこちに飛びましたが、戻します。
が、話を本線に戻す前に、
少しだけ、お姫ちゃんのブログ記事に補足します。
かなり、私のメール内容の主要な部分が抜けいているからです。
要約しますと、
1/私が、今年に食べた市販のイチゴは、それなりに美味しかった。
甘かった。
2/ただし、市販のものは、美味しいが「面白くなかった」。
3/お姫ちゃんの(叔父さんの)畑のイチゴは
甘さと風味に、ムラと個性があって面白い。私はそういう方が好き。
4/土壌は確実に汚染されている
かなり広大な面積を「天地返し」という方法で土を入れ替える
または化学肥料でなんとかする方法はあるが費用と作業が大変になる。
5/毒母親の両親の兄弟という点では、その叔父さんは
毒のある人ではなかったかもしれないが、
毒母親の両親の所で畑をやるのは、練習にはいいが
本格的に一から自分の味を作るには不向き。
もともと他人が調整した土壌だから、自分の味を作るには
年数はかかっても、新天地で、一からはじめると良い。
6/よって、汚染は移動したり再拡散するとは言われるものの
現状では、西日本の土地のほうが、肥料に気をつければ、
関東よりは、ずっと安全で、
お姫ちゃんも、自分でも誇りを持って、他人に進められる作物が作れるだろう。
私もそれならば私自身がぜひ定期的にずっと買いたいし、
ふだんから、私と親しくしている知人らにも薦めたい。
といった内容、ここまで細かくは書きませんでしたが、
これよりも、ずっと短い文の中で伝えたつもりでした。
なにしろ、毒親大賞を受賞した父親が、
干渉してくる場所ですから、その毒父親が仮に、おっ死んだとしても、
晴れてきれいな土地、とはならない因縁を引きずっている気がします。
*********
●また、長くなりそうなので、手短に結語とします。
冒頭に書いたように、
ある言葉を信じるか、その人自体を信じるか
という局面になるとき、
特に、自我復元の報告では、私は、段階的な基準があります。
何度か繰り返してきたことですが。
1/自我復元への決意
2/具体的な記憶を掘る
3/当時の感情の再生
4/不快年表
5/十分に掘られた段階で、ようやくAC人格分析をする
6/親の親についても分析する
7/AC人格を実際に解除する
8/原主体が主導権を取る
これらの各段階があり、
おおむね、この順番でやらないと、失敗します。
この順序の組み立てにあたっては、
この数年間の、皆さんの努力の成果と、その知恵が凝縮しており、
順番をはしょったり、より後半部にあるものをやろうと焦ると
2や3あたりで、あっけなく躓く人もいるからです。
*********
それで、私が「いいですよ」と言う場合、「そこではなく、ここを掘ってください」
と言う場合には、段階ごとに「確かに**は出来ている」
という基準があります。
記憶が、本当に掘れ始める人には独特の文体があり、
感情が、本当に掘れ始める人には、独特の文体があり、
不快年表、AC人格掘り、親の分析、自分に感染したものの分析、
AC人格の解除。
どれひとつとっても、それぞれの領域や段階で、
絶対に、他人の真似など通用せず、
やっているフリをする事も出来ず、
私から見れば、「あ、そこ、ちゃんと越えたね」と見えるものがあります。
それを私は、「意識状態の変化」と呼んでいます。
●現在、自我復元を書いている方たちは、全員、
前述した、1から8のどこか、またある領域をカバーしています。
(音信不通の人は論外として)
以前に、復元ブログを取りさげて戴いた方たちは、
「2」で躓いていました。
さすがに、2で躓いてしまうと、参考にならなくなってしまいます。
また、「3」もとても、重要なのですが、
取り下げて戴いた人たちには、全員その「3」がありませんでした。
ですから、今は、最低限、「2」と「3」そして「1」の基盤がある
ということが、それらのブログが残っている理由です。
●それで、簡単に言いますと、
そうしたいくつかの段階での基準で、その人の意識状態が変わったかどうか、
これを私は見ています。
言っている内容だの、主張していることだの、掘った記憶の種類だの、
それこそ、何回か前の、何人かの方の報告にあったように、
宿題感覚や、学校の授業や、認めてほしい願望でやっても無意味なのです。
ようは、それらの作業を通じて、
本人の意識状態が、少しずつ、ある方向へと進んだかどうか。
●「意識状態」という用語を使うと、馬鹿っぽい人たちは
すぐに瞑想だの、へんてこな魔術ごっこ、のことだと思ってしまいます。
しかし、それが何であるかは、
マディアさんや、天音さんや、黒丸さんや、
Abyさんや、朱色のはがねさんや、新子さんらのブログを見ていれば
誰にでも分かることです。
私が言っている意識状態の変化とは、
自分自身を可能なかぎり、誤魔化さない人たちになった、ということです。
また誤魔化さないと決意できた人たち、ということです。
どんな、他の意識状態と称するものよりも、これは重要です。
だから、私は、今、音信不通ではなくて、
ブログを書き続けている人については、
「その人」を信じていますし、信じることが出来ます。
その人たちは、たぶん、何度も間違った事を言うかもしれませんし、
何度も、間違って、失敗するかもしれません。
でも、私は、その人たちの間違いは、問題ではなく、
「その人たち」は、かなり大丈夫だ、と思っているわけです。
これらの人たちは、いわば、
「間違う準備」が出来た人なのです。
間違わないように、間違っていいると言われないようにと、
びくびく、せこせこ、チンタラ、生きている人ではなく、
間違うことを怖がることを、もうやめようとしている人たちです。
●だから、
その人が間違った判断をしたり、間違った事を言っても、
私は、ほとんど気になりません。
そもそもの、
「在り方」が間違っている人のほうが、はるかに多いからです。
そもそもの在り方の間違っている人のいう事は、すべからく、
独自性は何もなく、ただの文句たれと、ただの知識の披露だけで、
その人たちは、それによって、幸せになっていないのがよく見えます。
情報としては使えますので、その人の「言った事の一部」は使えるものとなります。
何から何まで使えない、全部が嘘つき、というのは
実際には、「逆に難しいこと」だからです。嘘すら貫けないのが人間です。
しかし、そうした者たちは、「人」として信じるには値しません。
ただの情報の「伝書鳩」ですから。
●私が「人」として信じるときには、
その人が、それを、きっと解決する、出来るだろう、
たとえ間違っても、その後、大丈夫な人だ、
という信頼を、私がその人に持っているということですから。
また、その人の中に、基軸が発生したことを、
私が認識したという事です。
●いちいち、その人と意見が一致する必要はないのです。
ただし、これまでの経緯を見るかぎりでは、
全自我で、AC人格が掘れた人たち、
または全自我でなくても、AC人格を見破った人たちの見解といのうは、
多くの点で見解が一致してたり、共通性が出てくるものでした。
*********
最後に、いくつかの言葉を散りばめておきます。
______________________________
情報というものは、まず
1/それを収集する前の段階で、
自分がそれをする動機と、最終目的が、明確でなければならない。
2/収穫した情報を見て暇つぶしをする事が目的ではなく
情報からは結論(仮説)が導き出されねばならない。
3/それによって行動を起こす起こさないの決意をする
4/現実の行動に、実を結ばない情報には全く意味がない。
というような事を書くと
「1の情報が間違った前提や間違った情報だったら
洗脳されたり間違いをするから、情報収集は綿密にすべき」
とかグタグタやって、
情報集めとただの文句垂れに成り下るクソがよくいる。
だが、ようは精神状態が健全ならば、
誤認情報に判断修正が効くが、AC人格にはそれが無理なのだ。
極端にわかりやすい例は、
戦場とか格闘とかあるいは、危機的状況に人が直面した場合である。
あり方そのものが、冴えている兵士は、
間違った情報による行動でも、
行動を恐れないので、どこかで自然に軌道修正出来る。
ボケた奴はいくら正確な情報を得ても
行動指針の「動機」が不純すぎ、
かつ、明確な「理想のヴィジョン」もないので、
とことん、使い物にならない
余談ながら、ちなみに、私自身も昭和のテレビ世代であったが
思い返せば、テレビによって、
たとえ、それについて考えた事を元にした事があったとしても、
果たして人生が豊かになったのか問うと、かなり少ない。
死ぬ時に思い出す番組や情報などないと断定しても良いぐらいだ。
では何が人が死ぬ間際の生の記憶として、
最も影響しているか?だ
あらゆる種類の、
ただの記憶
(受動的に知覚したものの記憶=風景や自分にとっての事件など)
思考した事の記憶
経験した事の記憶
経験している現在の状況
これらは単なる素材や枝や幹のようなものとすると、
では死ぬ時に
「これが私でした」と差し出せるような、
あなたの人生の、全部がそこに結実している「果実」は何か?
そうしたものを持っているか自問するといい。
ただしその果実とは、
「これが私の個性の唯一のものですから
それが無くなったら私は私ではありません」
などという個性の主張を指すのではない。
一言に言えばそれは、
精神の内容(個性や記憶)ではなく
「精神状態」と言い換える事も出来る。
精神状態とは、万事に相対する以前の「調整」のようなものだ
●自我復元が到達しようとしている修理完了とは、
そこにある。
そのためには、自分を誤魔化さないという、
基本的な「在り方」それ自体をゆがめてしまった、
毒親との記憶を掘り出し、解除することが、
絶対的に必要になる。
なぜならば、
原主体は、断じて、
あなたのAC人格の味方ではないからだ。
私は、全面的に原主体の味方として、この世界にいますが、
ただし、AC人格の相手を全くしないというわけではありません。
自我復元とトラウマ掘りさえしている人ならば、
その、トンデモなAC人格の、後ろに、
あなたの本質が必ずいるからです。
だから、私は、常に、
皆さんの中の2つの人格と、やりとりをしています。
ひとつは、とんだ、嘘つきの偽者で、見るからに、みすぼらしいものです。
もうひとつは、
そもそも、最初から、絶対に嘘がつけないように出来ている本物。
ただし、その違いを、私が見ているだけでは何も進みません。
皆さん自身が把握しなければ進まないのです。
多くの無明庵読者は・・・
残念な結果となりました。
どういうことかと言いますと、
うちに来た大半の読者が、
「ぼくちゃん、少しは、ほかの人より マシでちゅよね?
だって、自殺考えたことあるし、他の世間の馬鹿どもと違って
人生に悩んでいまちゅし。
それに、ほら、こんな事も知っているし、あんなこともしたし、
だから、ちょっとは、褒めてよね、他よりマシだって、認めてよね」
と、これが大半で、
死んだような鈍感な腐った目をしてうちに来ました。
屈折していると、「叩かれないと苦しめない」ほどの鈍重さで、
さらには、叩かれても気づけないほどの精神病のような
救いようのない者もいました。
●そして、総じて言えば、
その人たちは、もう自分は多少は、苦しんだんだから、
無明庵なら、瞑想とか教えているし、何もしなくていいとか、
他のグルみたいなこと言っているし、
あー、きっと、楽になれるかも。
とか思い込んだものの、
しかし、書籍や、掲示板の蓋を開けて、よくちゃんと読んでみると、
「あんた、ぜんぜん、苦が認識されていないよ」
と言われてしまい、
「あー、仏陀も苦だと言っていたし、自分は鈍感なのがいけないんだ」
と、やってしまうか、または、
「何もかも苦だって、無明庵の本に書いてあったことぐらい
体験したり、考えて、わかってましゅー」
となってしまったり、
そこまでの自らの鈍感さに「これでいいや」と甘んじる馬鹿になる。
●そんな事が、私が直接に掲示板に投稿するようになった、
2000年から以後、ずっと何年も続いてきた末に、
ようやく、何かが根本的に変えられると分かった「自我復元」。
そこでもまた、人々は、
「楽なる」「無敵になる」「心が乱れないようになる」
などになろうとしてしまう人も一部にいる。
●しかし、私は、最近、よく思う。
教師と生徒がいた場合、これは「何の分野」でも同じであるが、
たとえが、武術だとわかりやすいかもしれない。
●武術の師範は、生徒にどうなって欲しいのか?
あるいはどこが、その道場での卒業の地点なのか?
無明庵のことを、
もうこれ以上、何か面倒なことをしたり、
戦わなくても楽になれる場所
あるいはそういう事を言っていると思っていた人たちは、
楽になるどころか、スピリチュアルの分野の、
おかしな考えを、指摘され続ける。
●また、ある種の馬鹿どもは、
まるで自分の「不満の代弁者」だとでも錯覚してしまい、
ニタニタと、他人事を読むように、掲示板をただの暇つぶしに読み、
また、自分の無気力な人生や、
ゾンビのよな状態を肯定してくれているとでも勘違いして、
無明庵の論調を模倣してチンケなことになるだけ。
●しかし、「蓋の蓋」をさらにあければ、ここは「道場」なのである。
では、その卒業、免許皆伝とは、どの地点なのか?
それは、教師が生徒に対して、
「よし。もういい、あとは、戦って来い!」
これが武術道場の到達点だ。
「よし、もう練習はいい。あとは、戦って来い!」
私は、「あとは、何もしなくていい」などとは言っていません。
そうではなく、
「ようやく、戦う準備が出来た。
それで戦って、結果として、死んでも、生きても、
君自身が、悔いはないと、思える
そうなるまでが、ここでの稽古だった」
ということなのである。
その地点は、確実にあります。
宗教団体のイカサマ師が、あなたの鼻の先にぶら下げたニンジンのような、
いつまでも口に入らないものではありません。
現時点で、私が、
そう言える人は、3人います。
マディアさん、黒丸さん、
そして天音さん(本人にその自覚はないでしょうが)
この人たちには、私は言えます。
「いいから、自分が服従できないものに対しては、戦ってみなさい。
あなたは、もう大丈夫。
戦えば、痛いだろうし、怪我もするだろうし、間違うかもしれないが、
それでも大丈夫。
そう私が保証します。
極論すれば、死ぬか生きるかは問題ではない。
自分の魂を、決して他者に侵食させないという点においては、
その準備はもう出来ている。
あとは、行って、戦ってこい。
無様でもいいから。
私はその正直な無様さを、賞賛さえするのだから。
ついでに言うと、手放しで、喜んでいい。」
と、言えます。
堂々と、間違っていい人たち。
堂々と、失敗していい人たち。
堂々と、負けてもいい人たち。
堂々と、喜んでもいい人たち。
堂々と、叫んでもいい人たち。
堂々と、泣いてもいい人たち。
そうなれた人を、私は、「完成された全自我」と呼びます。
間違わないように、びくびくして、
その結果、いつも、間違ってばかりいて、その事に気づけない人ではなく。
この鍵は、復元作業と平行する、トラウマ掘りにこそあります。
それ以前に、堂々と何かをするフリなどしても、無意味です。
そして、AC人格掘りが、なされれば、
自分ではまだ弱く、AC人格に負けるように思えても、
とにかく、まず、やってみればいいのです。
失敗してもいいのですから。
そ し て 、
他の人たちにも、私が、そう言える日がくると思います。
ここでやっていることこそが、
本物の「カタルシス瞑想」なのである。
ここで、飛んだり、撥ねたりするのは、あなたの肉体ではない。
あなたのAC人格が、ひっかきまわされ続けるのである。
かつて、インド人の和尚という者が言っていた「エゴ」とは、
まさに、このまる一年間、桜の間で語りつづけた
「AC人格」のことなのである。
「エゴは、狡猾で、ずるい」、とあれほど和尚が言っていたのを、
あなたたちは、他人事だとでも思って、へらへら笑っていたのか?
それを、全く他人事ではない、自分の事だったと悟った人たちが、
今、ここに残っている
自我復元者たちだ。
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