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[378]
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★分割自我復元★その378■ 『 AC人格列伝の一例 』
by:
鈴木崩残
2014/07/24(Thu)05:50:49
報告の一部のみを掲載
少し前に、「36種のAC人格」の報告から、概要だけを掲載しましたが、
その投稿では、「原因となった家族の事件」を省略しました。
それは、お手本というものにすぐに飛びつくAC人格の人が
ここの読者には多いからです。
(ここにではなくて、この地上のどこにでもなのですが。)
しかし、その130頁にもなる報告のごく一部を引用します。
個別に、その人それぞれに事情が違いますので、
他の自我復元者の人にも、汎用性のありそうなものに絞り込みました。
*********
AC人格列伝の「原因分析」の一部
<タイプ> イイ子アピール
<AC人格名>
私は大丈夫人格(手がかからない私はエライ)
<原因となった親子関係の事件>
手がかからないこと、イイ子でいることは、母へのアピールの一つだった。
この「手がかからないこと」は、
近所の大人たちや先生にも評判がよくなることもあって、
ますますアピールに拍車がかかる。
「年齢の割に、しっかりしてるわね。大人ね。」という褒め言葉を欲しかる。
母が、他の兄弟の前で、
「***ちゃんはちゃんとできるのに!」と言って、
その兄弟を叱っていると、私は気分が良くなる。
そして、ますます大丈夫な自分を演出するようになる。
結局、家族の中での自分の有り様が「大丈夫な私」だった。
これは、決して私の本来の姿ではない。
私はいつだって自信が無いし、いろんなことに脅えている。
でも、「手がかからないイイ子」でなくては、母に相手にされない。
だから、この「大丈夫人格」が、私の表面的な顔になった。
そして、私はこの「表面的な顔」のまんま、学校へ行き、社会に出た。
そして、いろんな弊害が出ることとなった。
「私は大丈夫」とは、常に自分に嘘をついている。
元々は母の注目を得るための仮面だったのだから。
私本来の自己肯定とは、全くかけ離れている。
私は自分に四六時中、無理をさせていたことになる。社会に出ても。
でも、無理をしているので、柔軟性が無い。
そして、この人格の基本は「手がかからない」なので、創造性もないのだ。
創造性を出せと言われると、そこでまた萎縮してしまう。
他人から「柔軟性が無い」と言われることになった。
「手がかからないこと」が、自分の中では大人に認められる最上級なことと
錯覚していて、それをずっとやってきてしまったこと。
それをほどく機会を持たなかったこと、
これが私に出ている弊害の一つともなった。
そして、心の中で、こんな自分を認めて欲しいという欲求もある。
同情を貰おうとしているのだ。
その「けな気さ」もアピールしている。
<タイプ> イイ子アピール
<AC人格名>
万引き人格(他人の意見を無自覚搾取人格)
<原因となった親子関係の事件>
1/母の「周りの子と比べて、自分の子はどうだ?遅れているか?
恥をかいていないか?」という子育てが最初の心理的な影響ではないかと思う。
母の「焦り」だ。私は「手がかからなかった」といつも言われるけれど、
おっとりと育てられたわけではない。
赤ん坊の時から、近所の他所の子との比較があった。
その子ばかりを褒める母に、私だって!という態度だったのかどうかは
正しく思い出せないが、発達の早いその子との比較があったし、
逆に発達の遅い子供との比較もあった。
結局、私は最初の近所の子との人間関係から「比較」がもぐりこんでいた。
その「比較の目」は、母そのもののコピーで、
母と同じ目線で発達の早い子を見上げ、発達の遅いを見下げた。
あと、「不安感」もある。
同じことをしているグループ内で、自分だけ遅れているとか、
そういう状況をものすごく怖れる。
比較によって、「焦り」と「不安」が生まれてしまった。
これは、そのまんま、母から受け継いだものと思われる。
近所の子より、遅れていれば、私は価値がないのだった。
たまたま、向かいに発達が遅い子がいて、私は「中の上」で落ち着いた。
母もその子を「見下げる」ということはしていた。
2/あと、カッコつけたいのだ。この部分は、父に似てしまったと思う。
人の知らないこと(父の場合は他人の格言の引用)で、偉ぶる。
しかしそれは別に父が考えたことでもなんでもない。
3/私は、変なエサの取り方を覚えたとも言える。
誰かに気に入られるため、見捨てられないために、
その恐れから他人の書いたものを引っぱってきて、
私も頑張ってます!私も同じ症状が出た!とやりたがる。
復元の報告に出やすい。崩残さんにちゃんとやっていると思ってもらいたい、
また、復元実習者の中で、自分は常に「中の上」で有りたがる。
「焦り」が自分を突き動かしているので、
結局、報告が自分の直視したものにならない。
その見ている視線は「崩残さんの評価」で、
この「焦り」、自分でも強いなと思う。
私は崩残さんを自分の母、または兄と混同して見ている。
私は兄に気に入られなければ、生きていけない、
そんな風に、恐怖の目でみていて、
それと同じことを崩残さんにもしている。
どうやっても、崩残さんに見捨てられたくない。そう思っている。
ただ、私は実習生で、その復元の報告を届けていけばよいだけなのに、
何かヘンテコなものがついてる。
一体どうして、崩残さんの「お墨付き」が必要なんだ?
他人の模倣までして、どうしてそんなことをする?
「お前、幼いのに、よくわかってるよな。」そういう、
家族から言われて嬉しかったセリフ、これを結局、
崩残さんから貰いたいのではなかろうか。
そして、その「お前、幼いのに、よくわかってるよな」
と言ってもらうことで、そのセリフで、
他の実習している方を殴ろうとしている。
「お前、幼いのに、よくわかってるよな。」
この親のセリフには、声には出さないが続きがある。
「お前より年上のあの兄弟は、ボンクラだけどな。」
私はこの聞こえないセリフを待っているのではなかろうか。
そして、よしよしと褒めてもらおうとする。
親は、私を褒めることで、別の子供を殴っていたのだ。(←母と同じ手法)
私が崩残さんと自分の兄弟を混同していることからオカシイが、
期待しているセリフを待っていることは、もっとオカシイ。
ただの点数稼ぎのアピールで済まないところが、私病理の重症なところだ。
私の本音は、「他の実習者を殴りたい」なのだ。
<タイプ> イイ子保身
<AC人格名>
イヤだと言えない人格(=イヤだと思う人格が無い人格)
<原因となった親子関係の事件>
母にまず、「イヤだ」と言えなかった。
言われたこと、指示されたことと反対のことを言うことは、
それは「わがまま」だと思っていた。
「わがまま」な子どもは嫌われる、人から嫌な眼で見られる、
のけ者にされる、そう思ってきた。
わがままとは、つまり、イコール「自分の兄弟」のことだった。
姉はわがままだから嫌われるし、怒られるんだと思っていた。
そして、そんなわがままな兄弟を、私はさげずむように見ていた。
家の中のルールでは、兄弟のように「口答えする」「反抗する」は、
最もあってはならない行動だった。
その恐怖で、「イヤだ」と言えなかったともいえるが、
こう書いてきて思うに、私自身にそもそも「イヤだ」と感じる自分が
なかったように思う。
「イヤだ」と思う自分が無いので、主張できない事に、
そもそも苦痛も感じなくなっている。
私は、ほとんど、母と同化しているんだ。
私は、かなり早い段階で、自分を母に売ってしまった。
だから「イヤダ」と思う感覚もなかったし、
私自身による「おしゃべり」すらもなかった。
私が無口なのは、自分という主体的な感覚が、
あまりに希薄だからかもしれない。
いつも、誰かに同化する道を選ぶ。異性と一緒のときは、その相手に同化する。
友達と一緒のときは、友達に同化する。
私は、幼いころに身につけた術を、まだ対人関係の中で繰り返している。
イヤダと言えない人格でもあるけど、
「イヤダと思う人格が無い人格」とも言える。
ずっと、こんな生き方をしてきたので、「主張する」経験が薄くて、
いざ、断らなくてはならない時、
自分の考えをはっきり提示しなければならない時、
伝え方がわからないばかりか、相手の顔色ばかりを伺うようになった。
いつも「同化」している相手から、
切り離されると思ってしまって、恐怖なのだ。
言えないのは「イヤダ」だけでななくて、
私の感情のほとんどのこと、表すことができない。
喜ぶこと、楽しいこと、そういったことも相手に合わせてきたし。
私はそもそも、自分から先に口火を切ることができないんだ。
「楽しいこと」ですら、楽しいと言っていいのか?
ケッ、こんなのつまんないよって言った方がいいんじゃないか?
こう考えながら、相手の出方を待つ。
そして、相手が「楽しいね!」と言ったところで、
「そうだよね、楽しいよね」と私が続く。
私は調教されて育ったから、
調教される関係でないと、うまく立ち回れないんだ。
私は結局、
自分のあるがままの感情を出せないように母に調教された。
他の「兄弟」と言う見せしめと、その真逆の
「お母さんと一緒になれば(同化すれば)安全」という見せしめ。
「両親に虐待される他の兄弟」という見せしめで、私は主張する喉を失い、
「お母さんと同化すれば安全」という見せしめで、私は自分自身を売り渡した。
まだ、他の兄弟のようになったら見捨てられるという恐怖の見せしめの方が
マシに思える。
そこには、まだ「恐怖」がある。
だが、「お母さんと同化すれば安全」の見せしめは、体感できる恐怖がない。
私の場合は、この後者の方が、より問題なのではなかろうか。
私はこの母との「同化」が解ききらなくて、
「罪悪感」を持ってしまうのではなかろうか。
「罪悪感」は、本当は罪悪感ではないのではないか。
「同化」が切れる恐怖ではないの?
それを「罪悪感」に置き換えてる。
この罪悪感がある限りは、「イヤダ」とは言えない。母にも、他人にも。
<タイプ> 共依存
<AC人格名>
頼る人が欲しいの人格=私一人を頼りなさいよ人格
(ファザコン=マザコン人格)
<原因となった親子関係の事件>
1/父に甘えなかったこと。父に抱っこされて安心をした記憶がない。
父は子供をどう扱っていいかわからず、
私を抱っこしていた時も緊張していたのではないだろうか。
父自身、3歳まで「様子見で育てられる」という境遇だったし
(発育が悪ければ、子売りに出す)、
その間、子どもを大事にするという風習がなく、
父自身もわからなかったのかもしれない。
父の単身赴任期間が長かったこと。
単身赴任も大きいけれど、でも、一緒に住んでいたとしても
同じ結果になった気がする。もしくはもっと醜くなったか・・・。
私の見たいテレビ番組も「教育に悪い」と言って見せてくれなかったし、
だいたい父が帰宅すると、他の兄弟と共にともに「あーあ」と自室に戻った。
父と私の関係は、ほとんど「つきあい」だ。
家の中での父は、テレビのある部屋でパンツ一つでゴロリ。
他の兄弟にはずっとおこごと。
当然、癇癪のようにキーッと怒る。(父は顔が真っ赤。)
母はそんな父に脅える。
父はアルコールを飲んでいなかったが、
アル中とそんなには変わらないのではないのかとも思う。
家の中の恐竜で、ただ、アルコールが入っていないだけだった。
そして、世間での見てくれ、評判は良い。
しかし家では、家族のことはかえりみず、パンツいっちょで本を読む。
おならが臭く、冬はコタツの中に落ち着いて入れない。
父の風呂の後は、どうにもお湯が汚い。
(お湯の中で、皮膚をかくのか、後に入る人のことなど考えない。)
2/この人格は、母そっくりでもある。母の有り様を私自身が真似している。
母は父に依存させることで、そのポジションを安泰させていた。
父がパンツいっちょの赤子でいてくれることは、
母にとっては都合がよかったのだ。
母は父に依存するために、自分に依存させた。
また、その行為は献身的な妻像にも結び付いて、
他の人からも良しとされたし、母自身も満足だったはずだ。
母自身もファザコンであって、自分の父親に甘えていないし、
父親の愛情不足というのが、私にも連鎖している。
3/「私一人を、頼りなさいよ。私ほど、あなたのことを理解して、
優しくする人はいませんよ?だから、頼りなさい!」。
これは、私の中に響いているお経のようでもある。
この声の主は、母だ。
私は、この母のお経から抜け出していない。
だから、心に罪悪感の針が刺さる。
どうして、ここまで母のお経は、
私の心の針として、存在し続けているのか?
私はファザコンでもあるけど、マザコンだ。
私はまだ母に本当の母像を求めている?
私一人を、どこまでも受け入れてくれる人が欲しい。
「どうしたの?何があったの?」聞いてくれる人が欲しい。
父にも、母にも、その願いは叶わなかった。
父も母も、私の姿を見ていなかったし、私の心も見ていなかった。
世間体の修復に毎日、忙しい。
いい人は、体裁に忙しいのだ。
私は、「どうしたの?何があったの?」と、
親身に聞いてくれる人が欲しい。
一度だって、そんな人と出会わなかったから。
私はその望みを愛人に投影したんだ。
そして、私のいつもの取り引きによって、成功させようとした。
でも、それは、相手に対する本当の愛情じゃない。
私は、私のことしか見ていなかった。
そして、その愛人さんなら成功できるともくろんだんだ。
私はその人を見下していた。だから、コントロールできると思ったんだ。
その男性は極度のマザコンで、
たった一人の人を妄信する性質があった。
私はそこも、しっかり見抜いた上で関わった。
母の「私一人を頼りなさい」、
このお経が生涯にわたって心の針として温存している人、
これがマザコンなんだ。
私は、このマザコンに、まだ支配されているということだ。
<タイプ> 被害者演技型
<AC人格名>
言ったことと反対の行動をする人格(黙りこくり人格)
(あてつけ人格)
<原因となった親子関係の事件>
1/母の行動を真似している。
思い通りに行かなかった時、子どもが反対意見を言った時、反抗した時、
母は「黙りこくる」という作戦をとっていた。
母が黙っていると、ご飯もどうしていいかわからないし、
何より自分が母を苦しめてしまった・・・と考えてしまう。
この苦しめてしまった・・・という思いに耐えられなくて、
子どもの方が先に切り出す。
母から謝りに出ることは、なかった。
子どもの方が先にシビレを切らすことを、母はよく知っていたのだと思う。
だって、重要な「飯」「お金」の実権は、母が握っているのだから。
これは、母の調教のやり口の一つだ。
子どもから先に謝るように仕向ける。
それが実行されるまで、ガンとして動かない。
子どもから先に謝らせる、怒っているのを察知させ、
子どもが先にひれ伏すのを待つ。
結局、母は、
「だれが一番エライか、わかりなさいよ!」と、言いたいのだ。
母方の祖母も、同じやり口で、母を調教した可能性はある。
「だれが一番エライか、わかりなさいよ!」
この、声に出されないセリフ。
祖母譲りではないのか?
実際、祖母は一人っ子で一家の長だったし。
育ての母親(後妻さん)より、権力を持っていたし。
こうやって、周りの人を調教したのではなかろうか。
この人格のポイントは、仕掛けた本人は「善人」でいられることだ。
だって、子どもが勝手にひれ伏してくるのだから。
母は、自分の育った家庭を
「なんも、言い合いみたいなことはなかった。けんかもなかった。」
と言っていたけれど、
この「自分は善人でいながら、子どもや旦那、育ての母を調教する」
これが横行していたのではなかろうか。
ケンカがなかったのは、調教されて、誰もモノが言えなかったからだ。
この手法が、そのまんま伝授されたということなんだ。
2/昨年の2月、電話で母と口論になった時も
母は「黙りこくる」手法を使った。
私が折れず、じっとこちらも黙っていると、母から電話をブツッと切った。
子どもが思い通りにならないと、気に入らないのだ。
ましてや、いつも言うことを聞いていた私が反抗してきたとなれば、
気に食わなかったのだろう。
無言の電話で聞こえてきた声は
「アンタが先に謝んなさいよ!」だ。
3/
中略
考えたら、このやり口、母のやり方を皆、真似ているのだ。
ストレートにケンカしない。
まだ、まっすぐケンカしていれば健康だった。
しかし、モノに当たることで、解消ではなくて、相手にアピールしていた。
「アンタの存在がムカツクのよ!」と。
そんないがみ合いが、何年間も続いた。
そこで「善人」でいたのは、母だ。
母は、兄弟のいがみ合いが続いている間も
「お母さんは、可哀そうな人なのよ」で通っていた。
<タイプ> モルヒネ
<AC人格名>
言い訳人格(私側)
もっと不幸になれ人格(毒親側)
<原因となった親子関係の事件>
1/食べてごまかす、寝る、この方策は、母はそっくりだ。
母は、甘いお菓子を食べて、
困っている私をほっといてガーガー眠り、糖尿病になった。
(母は、遺伝的体質だと言い、これまた言い訳をしてくる。
自分の生活態度を問い直したりはしない。)
まぎらわし方は、母はそっくりだ。
父は、読書でまぎらわし、
兄は音楽でまぎわらし、
姉も甘いモノとご飯でまぎらわす。
2/私側からすると、言い訳人格だけれど、
親側からすると、「もっと不幸になれ人格」となる。
どうやって感染したんだ?
無気力にさせられたところからだろうか。
親に自分の主張を無視されたこと、数々のことから、
私は自分の感情を両親に出すことは無くなった。
私はまじめに学校に行っていたけど、ずっと満たされないままで、
家では、自分の感情を出さないというより、
感情をあきらめていたと言った方が近い。
この「感情のあきらめ」から、
言い訳でごまかすようになってきたのではなかろうか。
だから、自分は自分の感情に気がつかない。
言い訳のボリュームが大きくて、自分の本心がわからない。
自分の本心がわからないとは、
親にとって最も都合のいいことではないか?
親に反抗することもないし、コントロールしやすい。
親自身の優越感のために、子どもをいくらでも利用できるのだ。
そうだ、成功すれば、一生、その優越感が約束されるわけだ。
よく「自己否定」っていうけど、
これも無気力なことの「言い訳」なんじゃないの?
その言い訳の総称ではないのか?
「どーせ、私は、何やってもうまくいかない」
「どーせ、できるわけない」
「無理だよ」
これらは、私を主体にして言うから、こういう言葉になる。
でも、毒親由来の正しい言語に直すと、
「アンタには、私の上をいかせない!」
「アンタは、どうやったってできるようにはさせない!」
「アンタは無理だということを思い込ませてやる!」
こういうことになるのではないか?
この毒親由来の言葉を、
さも、自分が唱え出したように思わせる、
これが私の中の言い訳人格の本当の姿ではないのか。
私の親は、直接私に言わずにして、
「もっと不幸になれ名言集」を私の中に置いていったのではなかろうか。
私はそれに気づかず、40年間以上も、真面目に唱え続けてきたということだ。
また、親も同じように埋め込まれたのだろう。
その最初のきっかけは「無気力にさせること」かもしれない。
そこさえ成功すれば、
自然と、親が望むような文言を自分の中で唱え出す
「自己否定人間」ができあがるんだ。
<タイプ> モルヒネ
<AC人格名>
「一発逆転」妄想人格(妄想人格の、さらなる妄想)
<原因となった親子関係の事件>
1/親の影響より、社会に出た私が、作り上げた人格だと思う。
母は、外にほとんど働きにでなかったし、
父も、****まで昇りつめて、社会的地位もあったし、
私ほど、コンプレックスが重症でなかったかもしれない。
私は、父方・母方の機能不全家族を掛け算した格好になり、
そして社会でコテンパンになった期間が長い。
この人格(正しくは病理)は、私のコンプレックスの深さを象徴していると思う。
私は、コンプレックスが深くありながらも、
親譲りで「中の上」のポジションを欲しがったのだと思う。
だから、「一気にコンプレックスが解消できるもの」でなくてはならなかった。
「中の上」のポジションを「中の下」または「最低クラス」に変更すればいいのに、
それは行われない。
親からの受け継いだ目線はそのまんま。
「中の下」「最低クラス」では、プライドが許さないのだ。
自分から見える景色は、絶対に変えない。
さらに、精神世界によって、「上の上」を狙ってさえいる。
一発逆転を、まったく独りよがりで狙っている。
日々の生活はそのネタ探しだ。
自分の都合のいい部分だけを拾っていく作業なので、
なんの実にもならない。
妄想だけが膨らみ、その妄想を他人やネットで共有すると、
その妄想癖はひどくなる。この繰り返し。
2/自分で作り上げてきたものと思っていたけど、
この性質の大元は、父だと思い始めてきた。
父が宗教に入信したあたり、とても臭う。
父は****に就職したけれど、当初は父親や兄に、小バカにされていたようだ。
「なんで、そんな安月給のところに。バカだな、お前。」
父は、こんな風に何をやっても小バカにされていたのだと思う。
父の私への大いなる遺産は、「我慢」だ。
私は母から「復讐」と「調教」を学び、
父から「我慢」と「逃げ」を学んだ。
一発逆転は、「我慢」と「逃げ」の人生の、
最後の望み(腐臭)だ。
私は、父に偉大な遺産を貰っていたのだ。
そして、見事に妄想人格を開花させた。
<タイプ> モルヒネ
<AC人格名>
○○だったら、いいのに人格(妬み人格)
<原因となった親子関係の事件>
1/自分は社会に出て、この妬みを多く持つようになったと思う。
この部分は、親よりかなり重症化している。
年齢を重ねて、人と比べることにより、
劣等感をより多く持つようになってしまった。
若い頃は、スタートラインから「よーいドン」で始まって、
そんなに距離がなく、周りとも離れていないように見えたのだ。
でも、今、何を見ても、歴然とその差が見えて、
そしてその差を埋められないと思ってしまって、
ただ妬むことに終始するようになってしまった。
2/母は、自分を改善しようという意思がまるでない人だった。
糖尿病になったのも、心臓が悪いのもすべて
「家系がそうだから、しょうがないのよね。」で終了。
自分が甘いモノを食べすぎて太ったことは棚上げで、その部分は見ない。
自らダイエットを試みることすらしない。
また、母は私の容姿と比較して、妬むこともあった。
別に取るに足らないことだと私は思っていたが、
母が盛んに、容姿の妬みを繰り返すところをみると、
そんなにお洒落な方ではなかった母も、
実は見た目をかなり気にしていたと思われる。
自分に無いものを子どもがやすやすと持っていると妬むのだ。
私の顔を見るたんびに、イライラムカついていたのだろう。
3/妬みの元栓は一体どこだろうと考える。
「本当はこうしてもらいたかったのに、してもらえなかった。
あの人はしてもらえているのに。ずるい」
こういう感情の積み重ねのように思う。
幸せな人が許せない。天真爛漫な人がもっと許せない。
天真爛漫で幸せだったら、このやろう!だ。
私は親から心を汲んでもらうことがなかったし
(親は、そういう余裕さえなかった)、
その心遣いの無さの積み重ねだろうか。
私は他の兄弟のようにいびりの対象にはならなかったけれど、
でも、他の兄弟は被害者になることによって、親から関心を得ていた。
私はほったらかしにされたとも言えるけど、
ほったらかしにされたという事実だけで、
「妬み」まで行くとは思えない。
そこにはまず、自分の欲求があって、
それを聞いてもらえないとか、邪険にされるとか、
そういうことがあるのではなかろうか。
我慢の溜め込みすぎか。
それが発酵して吐き出しきらず、妬みになったか。
自分としては、我慢さえすれば、ある程度幸せになれると思っていた?
でも、結局、そうはならなかった。
そう気がついた時には、もう、周りはとっくに幸せをつかんでいて、
私は独り、置いてけぼりだったということ。
そのことを直視せずに、
「周りはいいわよね、ラクして幸せになってさ。
私はさんざ苦労したのに、このザマじゃん?
なんだよ。話が違うじゃん!」
と、言いたいのではないのか?
我慢して、周りに尽くして、イイ人をやっていれば、
自分は最高の幸せが得られる。
そう信じてやってきたのに、実は、自分は欲求不満だらけで、
吐き出しきらない心からは臭い臭気が出るばかり。これが、妬み。
私はこの妬みの箱をずっと開けてこなかった。
妬みで周りを見ていたことにすら、最近まで気がつかなかったぐらいだ。
でも、ここに本当は、私の本心がいるんだ。
私はイイ子という宗教を信じてきた。
人に尽くすという宗教も信じた。
でも、日々のそれは、結局、
妬みの燃料を作ることにしかなっていなかったのだ。
でも、表面では相変わらずイイ子を続ける私。
私は、あってはならないものを信じた。
それは、自分自身に対して、一番あってはならない「自分への裏切り」だった。
それを、40年以上もやってきてしまったということだ。
母・父の生育環境と、父の信仰していた宗教の影響、
私がさらにマジメだったことが、
この「妬み」感情を膨大なものにしてしまったのだ。
<タイプ> 脅え体質
<AC人格名>
ほら、やっぱりできない人格(自虐型)
<原因となった親子関係の事件>
1/結局、この声の主は「母」。
私は母からおこごとを言われたりとか、ほとんど無かったが、
母は本当は「やっぱりできやしない・・」という目で
私を見ていたのではなかろうか。
2/母からかぎ針の編み物を幼稚園の頃から習ったけど、
褒められたことはなかった。
「ほら、お母さんのを見なさい」と言う感じで、
母のきれいな粒のそろった網目を見せられる。
子どもの不器用な手ではどうやっても母に追いつかないのだが、
私は自分が不器用だから悪いんだと思っていた。
私の「不器用」の始まりかもしれない。
折り紙でも同じだった。
折鶴を覚えて母に見せても、「お母さんのを見なさい」で、
母のきれいな折鶴を見せられる。
あやとりでも同じだ。
あやとりで「はしご」や「亀」いろんなものを作れるようになっていた。
でも、母に「良くできたね」と言われた記憶がない。
ここでも、母の上手な「はしご」をもう一度見せられる。
私はどうやっても喜んでもらえない。
私の不器用さは、母が「作った」のかもしれない。
私は手先が不器用だと思い込んだ。そして、その通りになった。
これは、祖母が母に向けていた態度、そのものだったのではないかと思う。
祖母は女学校で一番の成績を収めるほどの才女で、
文字も達筆で、裁縫もよくできたようだった。
なんでもできてしまう祖母にしてみれば、
母は不器用で(それでも私よりはるかに器用だが)、まったくできやしない
・・・のオンパレードだったのではないかと推測する。
一人っ子で一家の「長」となるべくして生きた祖母からすれば、
母は「甘ちゃん」なのだ。
祖母は、まったく人に甘えたことがないのではないかと思う。
後妻さんに育てられ、でも立場上は自分が上なので、
甘えるどころではなくて、その母である後妻さんを従えなくてはならない。
私の「たった一人で生きてきたのよ人格」とも重なるが、
幼いころから祖母は子どもらしくあった試しがないのだろうと思う。
それが結局、甘えていいはずの母も押しのけることになり、
そして、兄弟や私もその連鎖を受けた。
3/いちいちジャッジするこの声、そして監視の目は、
祖母から連鎖しているものと思われる。
そして結局のところ、できないと「安心」してしまう構造も、
この祖母からの連鎖だろう。
祖母からしてみれば「いつまでもできない娘」がいる方が、
自分の不幸を見ずに済むのだ。
毎日毎日情けない娘を見られることの方がはけ口になるし、
それこそが「日常」だったに違いない。
つまり、出来てしまっては「困る」のだ。
これはあらかじめストーリーの決まっている「お約束」のようなものなんだ。
______________________________
「朱いはがね」さんのブログからの引用
朱いはがねさんのは、一部だけの抜粋というのは、したくないのですが、
それでも、あえて「重要箇所」と私に思えた部分だけを抜き出してみました。
行間が開いている部分は、省略された文がある所ですので、
原文を読むこともお勧めします。
*********
私は今まで、
恫喝された→だから怖かった→トラウマになった、
といった具合にとても平坦な掘り出しだったのだけど、
この投稿で父を怖がる理由には
父の言葉や行動を自分がコピーしてしまい洗脳され、
そこから抜けれなくなって父のようになってしまったらどうしようと
焦ったり、
親子だからやっぱり、
どうやってもいつか父のようになってしまうのだろうかという
焦りがあったことを思い出した。
ただ、単純に怖いだけではなかったのだ。
それを、必死に防ごうとしてAC人格が出来ていったのだった。
父と会っている時に
今も父のようになりたくないと、必死に焦っている自分がいるという事を
生々しく実感したのでした。
そして、焦るせいで父と話すときに、
必要以上に力んで大げさな口調になったり
声が大きくなったりするので、
相手を緊張させ会話がギクシャクとしてしまう原因になっている。
だから、今回のように話を聞き出せない要因になっているのだった。
それは、父だけではなく母にももちろんおなじだ。
また、他人にもそうやって、
一方的にまくし立てるように話して一気に畳み込んで
終了させようとすることをして、
上手くコミュニケーションが取れないという事がものすごく多い。
とにかく、そうなるのは相手を受け入れれないという事なのだが
その理由は、相手の意見を受け入れてしまえば自分はなくなってしまうとか
洗脳されて自分がなくなってしまうという事を恐れていて
必死に防御してしまうからだった。
*
自分も同じような思いを何度も何度もしていたことを思い出した。
それは、以前結構詳しく掘った記憶で、
「自分が楽しい=親にとっては嫌な事」だから、楽しんではいけない、
楽しくなったら急いで我慢しなきゃいけないと思い込むようになってしまった事件だった。
ただ、以前掘った時は
幼少期に親の都合で押さえてしまった自分の感情が現在も抑えたままになっている。
という、現在と幼少期がつながっているという実感が薄かった。
以前掘った時にわかった幼少期に親によって抑えてしまった感情
「自分が楽しくなったら、喜んだら、親が怒る、親に迷惑がかかる」
と現在との繋がりは、私はどう処理していたかといえば、
最初に、ピンと来る勘のようなものを感じ、次に
現在の感情を抑える感覚や場面と幼少期のそれが
瓜二つに思えるので、それは幼少期から続いているんだと思った。
また、その時は、つづいているということよりも、
「抑えた現場がやっぱりあったんだ。」
という発見の喜びの方が大きかった。
もちろん、その場面を詳しく掘って行き思い出したことは、
喜びなんかなくて、ただ苦しかったり、悔しかったり、
無力感にさいなまれていたりするものだった。
また、私は大人になってからの自分の歴史をあまり掘っていない。
なのでいきなり、幼少期から始めているというのが
実感を伴わないことになっているのかもしれない。
なので、私はまだ、不快年表を製作できていない。
現在、製作しなければいけないと思っているが、
どんどん幼少期の親の問題が沸き起こってきて、
その処理を優先しているという現状だ。
そういったことから、掘り出された記憶は事実で、
その押さえ込みが今もあることも事実なんだけど、
トラウマが今でも続いているという実感が薄いのかもしれない。
そして、もう一度、その頃の記憶を掘ることにした。
*
自分が嬉しくなったり喜んだりすれば、親は機嫌が悪くなる。
とくに、父は私が元気よく騒ぐと機嫌が悪くなる。
だから、僕は喜んではいけない。
楽しんではいけない。
本当は、僕はここに居ない方が良い。
そう思って、すごく胸が苦しくなっていったのだけど
そうなることが、
父や母の躾けに従って生きていく立派な人間なんだと思っていた。
つまり、親の機嫌を取ろうとしていた。
だけど、私の家の場合は、
まだ親に寄りかかっても良い部分が多少あった。
だから、私は完全に自分が存在しない方がよいという考えや
楽しんではいけないという方向に染まるのではなくて
そういう、かわいそうな自分を親にアピールして
『すねる』という方向にいった。
それでも、我慢はやっぱり我慢なのだ。
その我慢は相当に酷い状態で10歳ごろまでは、
その苦しい胸の状態がいつまで続くのか
どこまでも、こんなに我慢していたら、
いつかパンクするんじゃないかと心配になったりしていた。
*
私は、もうすでに親の洗脳にはまっていて、素直に喜べない状態だったのだけど
自分が人として異常な緊急事態になっているとは思っていなかった、
そんな余裕もなく、ただ親に怒られたくない、
躾けに従わなくてはいけないと恐怖に屈して
目の前の日々を乗り切ることしかしていなかった。
その結果
「こんな状態にさせる親に腹が立つ。」
「親の躾を守る自分は良い子だ」
と矛盾した二つの思考が発生して
どうすればよいかわからなくなり苦しむようになった。
当時、この矛盾の間を行ったり来たりしていて
文字通り「迷路」にはまっている状態だった。
それでも、なんとか歪んで方向もずれながらも、
苦しみから逃げ出そうとした方法は
「親の言葉に従ってしまう苦しくて悲惨な状態を
親が気が付き自分が救われる時がくる。」
と思って我慢することだった。
それは卑屈になり「すねる」という表現になった。
親から自分を守るために歪んでできた自分=「AC人格」の始まりだ。
そして、親が私の心境に気が付くことも気を使うことも一度もなく、
ただ放置されていた。
これでは、どんどん苦しくなるばかりだし、
結局親の思ったとおりの親そっくりのAC人格になっている。
*
また、
あの時ああすればよかったのに、ああしたかったのにと、
想像の中で「我慢しなかった自分」の妄想を
しょっちゅうやっていたことを思い出した。
これは、今でも同じようなことをやっている。
その妄想物語のほとんどが、
「他人が自分をどう思っているのかが、わからないと怖い」
というのが発端になっている。
そして、他人がどう思っているのか、
どうしたいのかという想像は当然のこととして
想像できる範囲を超えているために、想像力が追いつけず、
想像が嘘っぽくなって虚しくて苦しくなり、
結末まで導けず止めてしまうということを繰り返している。
*
それが、寝る前の悩み→不眠症へ繋がっている。
またそれは、親の躾け、
親の脅しによる「恐怖」を他人から同じように受けてしまうからだ。
それは、他人もしくは社会を見ているようで、
実はそこに親の面影を見ているという事だ。
もっと言えば、他人に自分のAC人格を見ているという事になる。
そして、思えばその頃から自我復元を始める前までの約30年間、
寝る前に悶々と他人の文句を脳内で言っていたり、
自分の行動に後悔したりして不満に苦しみ、
不眠症になっていたことに気が付いた。
大人になってからは不満の相手に親が出る回数が減っただけで、
ストレスの構造はそのころから一緒だ。
親から植え付けられた「自分の感情を我慢する」というトラウマ、
AC人格の仕業だ。
そうだ、ずっと続いている。
我慢しているからだ。
本当に一時の楽しい時や、ストレス解消したなと思えるとき
思いっきり睡眠不足の時、そんな時を省けば、ずっと不眠症。
そうだ、小学、中学と、ずっと朝起きるのが弱かったのは、
この我慢ストレスが原因だ。
だって、ずっと脳内では
「誰がどう思っているか」という恐怖は続いてきたじゃないか。
そうだよ、私はこの頃、布団に入ると必ず親や友人のことを考えて
妄想を繰り返してストレスを解消しようとしていた。
*
どうして、今までこのことに気が付かなかったのだろうか?
つまり、私は、
幼少期に独りになる時間を作って我慢を処理することが必要なぐらいに我慢していた。
それはその時間だけではなくて、
寝る前にいつも、同じようなことをやって悶々と悩んでいた。
その寝る前にやっていた悶々時間は大人になっても続いていて
今までずっと、やってきたという事だ。
それが原因でずっと、不眠症だった。
それが復元を始めてから夜の悶々時間は無くなった。
私はやっぱり自分が思っている以上に
重症なトラウマを背負っているんだな。
そして、幼少期に話は戻りますが
私は当時我慢をせずに自分の感情をもろに社会で出す
という事は発想すらもしたことはなかった。
親の躾の方向性からそれは、
自分勝手なやつでけしからんという事になっていたからだった。
だから、
我慢することは当然のこと、我慢しないなんて考えれなかった。
なので、我慢処理時間が必要なことが異常なんだとは思っていなかった。
物心ついた時から続いていることだったということもあり
我慢する苦しみが異常な事態だとは思えなかった。
*
今書きながら思い出した。
この現実感覚が「甦ってほしい」と強烈に思うときは
特に楽しくなりたい時だった。
「僕は楽しくなっているんだ、楽しみたいんだ、でも楽しめない」
そう思っている時が多かった。
「楽しい」と感じた瞬間に楽しんで良いのかどうかと
周囲をうかがって楽しくなくなってしまう。
やっぱり、喜びを我慢したんだ。そうだ我慢していた。
「自分の喜び」
そうだ、8歳の頃にはもう自分の喜びを素直に出すことが
困難になっていた。
諦めて、無気力にもなり始めていた。
無気力になる自分に、危機も感じていた。
そうだよ、「怒り」それも出しちゃいけないと思っていた。
母親の無能な思い込みを植え付けられて、
喧嘩とかやっては駄目だと思い込んで、苦しかった。
そして、
このような、大勢の人の中に入ると、怖くなったり、
現実感覚が麻痺して行ったりする対人恐怖症についてわかったことがあった。
そのヒントは、クラス替えや入園式のように
初対面の人が多いときに酷くなる思い出が多いことにあった。
家庭という狭い範囲で、母、父、妹とか家族の中だけでなら、
まだ親の言う勝手なことするなとか、
自分勝手は駄目だとかそういう親の勝手な躾も、
我慢したりして、
そうだねお母さん正しいよと親をおだてていれば良かった。
親をおだてていれば、親は機嫌の良くなる方向へ行くし、
そうすれば自分は家で安心して暮らせるからだ。
だから親の躾を聞く=自分の安心という方程式がなんとか成り立つ事ができていた。
なので、私は我慢して自分の感情を抑えた。
もしくは親に脅されて感情を我慢した。
その結果、私は
家庭の大人たちの不和によってもたらされる不安に、
みんなをおだてるピエロのようなペットとして、
親の躾に従ってご機嫌を取ることが、自分の安定、安心になると思い込んでいたし、
それしか出来ない状態になっていた。
室内犬のようなもんだ。
でも、そのまま幼稚園や小学校で大勢の子供達の中に入ればどうなるだろうか。
際限なく自由に暴れる子供達と家庭の大人を入れ替えれば、
私はもう抑えきれないぐらいに不安になるしかないだろう。
だから、私は怖くて自分を放棄してしまうしかなかったのだと思う。
こうやって、無気力で無能で迷惑な人間が出来上がり
不毛な人生が始まってしまうのだ。
本当に、トラウマというのは、なめちゃいけない。
*
そうだ、母は私を1人の自立した人間として育てようとしたわけではなかった。
本人は気が付いていないけど、自分の父の代理を求めてきたんだ。
父にしてもらえなかったこととか、父や長男に、やられた迷惑の恨みを
私に代理復讐して解消しようとしていたのではないだろうか?
自分の子供であろうと、幼少期から実家で植え付けられた男性観で
私を見ていたとしても全然不思議ではない。
*
母が私に仕掛けてくる事は、本当は自分の父にやりたかった事
やってもらいたかった事じゃないのか?
私は、母の幼少期の家庭問題を解消する為にいいように利用されているだけなんだよ。
私は、小さい頃、
親の理不尽な恫喝や”自分に振り回されている母”に振り回されて
自分が悪いんだ、自分さえ居なければ良い。
そう思うように、なっていた。
そして、親がいない家に生まれ変わりたいと思っていた。
私が放浪の旅とかにあこがれてしまう動機はそこから始まっている。
それはここに、居たくない。ここを出れば変われると感じていた。
*
私は、差別する側(叱られていない側)に入っている時、安心感を得られて、
叱られる妹を見て楽しさまで感じていた。
そう、
母の躾けや、子供を叱る姿は、
私にとって兄妹間差別を助長するものになっていた。
妹も似たようなものだと思う。
それは、自分達が選ばれた人間なんだ、
だから他のやつらは駄目なやつでどうなってもいいんだ、
差別して突き放していいんだという、
選民差別主義に浸かる甘みを憶える事に繋がって行く。
もちろん、これを植え付けられたのは母からの影響だけではない。
父、祖母も酷く人を差別して自分を安定させていた。
なので、私の家では幼少期から、選民差別主義がはびこっていて
誰かを自分よりも下に見て家族全体で相手を馬鹿にして自分を安心させるという
醜い姿が蔓延する中で私は育ってきている。
そして、選民差別人格は今も私の中にある。
私は、集団の中で1人嫌われ役で差別されている人がいると
うれしかったり、楽だったりする。
そして、その人間をダシにして
「あいつ、今日もこんなことしていたよ、信じられない」
と他人とのコミュニケーションをとる道具として使ったりしている。
また、その人間を集団で馬鹿にすることを喜びにしている。
そして、その人間がいなくなることを恐れている。
その人がいなければ、人とコミュニケーションを取る話題がなかったり
何か都合が悪いことは全部その人のせいにして、自分のやるべきことも、
へまも隠してその人のせいでへましたし、
やりたいこともやれないんだとしてしまって、
あぐらをかいて楽したいと言うのが、このAC人格の目的だからだ。
この時の私の心境は、
やっぱり妹が叱られている時に感じた安心感にそっくりだ。
誰かを仲間はずれにして困らせて、自分に謝らせよう、
安心しようとする醜い行為。
*
今やっと本当にやっとわかったけど、私は泥沼のような
「祖母VS母戦争」に巻き込まれて、はまっていたのだった。
そうだ、私達に「祖母と仲良くするな」とか、
「誰の子供か?」と泣いたり
子供を無視したり、騒いで不安になっているのは母で、
私達はもともと祖母の事をなんとも思っていなかったし、
2人の仲の為に心配をさせられたり、兄妹で憎しみ合わされたりする必要はない。
そして、それは紛れもなく母自身の問題で私達は巻き込まされただけだったのだ。
それは、確かに祖母、父の母への態度も良くない部分はあったとは思うし
事実としてこの2人も、問題はあるとは思う。
でも、子供をその戦場に送って、心配させられたり、憎しみ合わされたり
差別を憶えさせられたりして、
子供がどういうトラウマを背負ってしまうのかという
そういう気使いをまったくしていない。
自分の主張ばかり通して、
後は「え??難しいことはわからん。それが親の気持ち」
「わはははは」とトラウマの巣穴に戻っていく。
それが私の母。
笑うジャイアンのようだ。
ちくしょう
絶対に、抜け出てやる。
どんだけ、泣いても、恥かいても
絶対に、抜けてやる。
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