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[380]
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★分割自我復元★その380■ 【生前記憶の検索は難しい】
by:
鈴木崩残
2014/07/29(Tue)16:35:54
生前記憶の掘り出しは易しくはない
●前回の投稿で説明したように、現時点では、「AC人格の実際の生活圏での解除」、
これが進んだあたりを、全自我判定の基準としています。
ここを基準とする理由は、現実の生活の中では、
自らのAC人格をすべて分かっている、というだけでは不十分であり、
それは「欠点は分かっていますが、改善できません」とか
「わかっているんだから、それだけでいいだろう。改善しなくても」
といった言い訳に陥るからです。
しかし、そのツケは死んだときにやってきます。
現実生活で繰り返すAC人格の癖は、死んで治るものではなく、
より顕著になるからです。
●さて、そこでAC人格の解除までを自我復元の現在の終点として
それ以後のことは、個別に異なる事情がありますので、一般化はしません。
ただ、ここのところ、数名の方に生前記憶を探っていただいた結果、
読み取りのエラーを起こす事例が数名あったので、
そのことについて説明しておきます。
*********
●たとえば、誰かが、自分の前世を見たいと欲して意志したとします。
そこで目を閉じた状態で浮かんだものや、目を開けているのに
肉眼で見ているかのような情景やシンボルが見えたとします。
一例として、風景、人物の外見などが見えたとします。
それが、老人だったり、子供だったり、女性だったり、男性だったり、
時代背景もいろいろです。
すると、あなたは、見えたという事だけを理由に、
「もしかすると、これは自分の前世の姿かもしれない」と考えます。
●しかし、ここで大きな疑問点があります。
なぜ、見えたり感じたその姿や映像を「自分そのもの」だと
思ってしまうのでしょうか?
前世を探るということは、記録された映画を見るようなものではありません。
それは映画の1シーンのようにあなたの姿を思い出すという事は
ほとんどの場合にあり得ません。
●なぜならば、人間が自分の姿を客観的に強く意識したのは、
近代の数百年であるからです。特に庶民層ではなおさらです。
今でこそ、皆さんは、写真や、ビデオを通じて自分の姿を
客観的に記憶していますが、
写真技術が出来る前には、鏡しかありません。
また、女性は鏡を見ることは多くても、男性はそうでもありません。
毎日鏡を見て、磨いた歯を見たり、男性が髪型を整えるなどというのは、
ほんのここ数十年のことです。
●つまり前世の記憶、特にそれが古いものである場合には、
鏡と写真に接することがない時代であるほど、
水鏡を通して以外には、「自分の姿」に冠する記憶は少ないはずです。
であれば、見えたり、見えた気がしたとか、感じたから、
というだけで、過去の前世の映像のように誤認した可能性があり、
誤認したとしたら、それは何だったか?となります。
●それは、あなたの前世ではなく、
前世のあなたが見た「他者」の姿というのが最もあり得る答えです。
もしもそのまま、その見えた他者の姿を追ってイメージを膨らませたり、
分析的なことをしてしまったら、その時点で、他者の前世を見ることに
没頭してしまった、ということになります。
これをした可能性のある人が2例ありました。
●そもそも、
「自分の」前世の記憶を掘り出すということは、
過去に「どんなものを見たか」ではなく、
過去に、「どんなものを見た人物であったか」を探ることです。
つまり、主体である本人の中に、いなければなりません。
「見えたもの=対象物」ではなく、見ている主体の中にあるものが重要です。
その情景を見ている視点の位置に、同調しないとならないわけです。
●戦争の場面などは、あなたは見たかしもれない。
しかし、そこで見える他人は重要ではなく、
それを見ている側のあなたの中に焦点があっていることが重要です。
つまり、誰の体の中から見ていたかという視点のありか、
これを間違えたり、見えたものが自分の姿だと誤認すると、
関係のない人の記憶を掘り出して、分析も間違ってしまうことになります。
*********
●そういうわけで、今のところ、あくまでもの前世の本人の体の中から
前世に、自分がどういう考えたをしていたか、という地点から
ブレが全くなかったのは、マディアさんだけで、ほかのかたは、
大なり小なり、見えたと思った対象物に、ひきずられていました。
こうなると、とめどもなく、あちこちに意識が散乱してしまい、
当初の目的が果たされません。
●そもそも、前世を掘るのが直接的な目的ではなく、
今回の親から洗脳や調教やトラウマを受けた、その前から、
既にあなたの中にあった、方向性、価値観、などを探ること、
そして今回生まれるにあたって、過去の経験のどういう反動から
現在の親や環境を選んだか、何が望みだったか、
これを確認する作業が、生前記憶におけるワークです。
トラウマ掘りが、親子関係による影響を掘るものだとしたら、
前世掘りは、自分との関係による影響を掘るものです。
ただし、ここだけ掘っても無意味であり、
まずは、余計な曇りを目から取る必要があり、
トラウマやACをしっかりと自覚分析することそのものが、
前世を見る目を養うということも既に、最近の過去の投稿中でも述べたとおりです。
それはAC人格分析の延長にあるものであり、
そこだけ見て、わかったつもりになって済むような問題ではないのです。
●なお、原主体あたりも個別に発動の仕方が違うので一般化できませんが、
生前記憶は、これは探ったほうが理解が速くなる人と、
探らないほうがいい人と、まちまちです。
また、自主性の発揮具合にも個人差がありますので、
以前書いたように、古巣に戻るのがもっとも楽で、理にかなっている人も、
一人ではなく、何人かいます。
人間に生まれた回数にもよりますが、
ほとんどの場合に、ルーツが分からないほど、何度も人間をしていますので、
帰還するルートが分からないケースが多いです。
人間に生まれた回数の少なめの人は、戻る道を探せる場合もあり、
これは、記憶を失った人よりも、利点や有利なことと考えるべきです。
そうは言っても、だからといって、
「そうだ、私はあんまり人間に生まれたことがないから、
生きるのが下手だったんだ。
そうだ、そうだ、きっと別の宇宙が、私の故郷に違いない」
という、こういう、反吐が出そうな妄想と、AC人格が叫ぶ現実逃避は、
二度と聞きたくも見たくもありません。
そういう人は、自我復元をあきらめた人の中にも多くいそうです。
しかし、そういう人にかぎって、思いっきり、人間のAC人格の醜さを
満載して、何度も人間をやっているものなのです。
●しかし一方では、私個人の観察点から見ると、
地球にいるのは、どうも間違っているな、と思える人も「少数」ですがいます。
ここで、ひとつ、昔から精神世界のある領域の体系で、
繰り返されてきた「格言」を引き合いにだしてみます。
何人かの人は、聞いたり読んだことがあるはずです。
【これでもない、これでもない、
そうやって、これでもないと、すべてを否定してゆくこと】
その果てに、道が見えてくる、
あるいは、「これでもない」と削ってゆくうちらに、
必然的に、より普遍性のあるものが残るというものです。
なのであれば、
よく皆さんは、
「AC人格を理解している気になっているこれもAC人格ではないか」
ということで、迷うことがあるようですが、
迷うのであれば、
「これも違う」と、切り捨てればいいのです。
むろん、着実にそれを使い切って、なおかつ、分析しきった上で
捨てるのであって、
最初から、AC人格を掘ることを放棄してしまえばいいんだ、
というのは、愚か者のすることです。
●さんざんに、いままで、
本をあさり読みしては、えらそう見えたり、すごそうに見える言葉に
魅せられたり、この言葉を乱用すれば、自分を馬鹿にした親や他人を
見返せると、幼稚なことをし続けていたり、
そうした言葉が、ずっと気になっていたり、
それを分かったような気にだけなって、
他者の前で、あほ面下げて、偉ぶっていたのであれば、
あるがままだの、無為自然だと(到底、AC人格には無理なこと)
と並んで、
「これでもない、これでもないと、やり続けること」
これを、口先で言っているだけではなく、
ちゃんと、親を相手に、あるいは自分を相手に、社会を相手に、
実践する必要があります。
そういう点では、最近更新された、「どんがめ」さんのブログの
この最期の言葉は、AC人格を掘るときには、常に必要なものです。
>>『いったいどのツラさげて舞い戻ってきたんだ?
>> また、やるんじゃないのか? どうなんだ?』
●どれもこれも、またもAC人格がやってやがる、
と本当に、あなたが自分で、分かっているならば、
切り捨てなければ、気持ち悪くて、違和感だらけで、気がすまないのが、
当たり前であり、
切り捨てられないとか、切り捨てる気が起きないのであれば、
ようは、AC人格とは何かを、
未だに「分かっていない」ということなのです。
よく分析して、自問したら、これもAC人格だ、あれもAC人格だ、
と、そうやって、掘り続け、掘りつくそうとする事に勝るような、
瞑想や修行などめったに、他にあるものではありません。
もっとも、「どんがめ」さんは、
私とは「違う文脈」の中で、あのように最後に書いているわけですが、
私としては、
他人の声だろうが、自分の声だろうが、全部を疑ってかかり、
違うものは切り捨てられ、残るものは、おのずと残るということです。
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