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[381]
■
★分割自我復元★その381■ 『 リアリティーの連結 』
by:
鈴木崩残
2014/08/02(Sat)03:32:36
現実化する時間周期の違い
■前回の投稿で、生前記憶との向き合い方は、やさしくはないという話をしましたが、
もっとも難しいのは、リアリティーのあるなしです。
これまでに、皆さんから寄せられた自我判定時の報告、
いろいろな変化報告や、特にトラウマ、AC問題に関する報告は、
まさにリアリティーの塊であり、それが掘られたということは、
人生何回分もの価値があります。
つまり、4度も5度も、無意識的に人生を繰り返すよりも
価値があるということです。
ですから、ACへの自覚というものは、前にも幾度か話しましたが、
あなた一人の問題ではなく、人間全体が抱えた負の遺産を
個人が払拭し、それを集合意識にフィードバックをしているのであるので、
ある意味では、個人的なものと非個人的なものが交差しています。
もっとも、だからといって利他的だから価値があるという意味づけを持ち込んで、
AC人格的な、自己満足に陥ることは許されません。
単に事実であるからいっているのであって、
いまさら、AC人格に、生き延びるための餌をくれてやるために
言っているのではないからです。
■さて、トラウマ、AC人格掘りにおいては、リアリティー以外の
何ものでもないもの掘り出した人たちは、本当に沢山います。
私は、その人たちがしてきたこと(今も自我復元をしている人たちのしている事)は
偉業の一つだと思っています。
どれだけ賞賛して褒めても、足りないほど大変な事をなしとげています。
■それはAC、トラウマをほとんど掘った人だけではなく、
今も、まだ必死に格闘している人も同じです。
その人たち(皆さん)の、ひとつひとつの小さな歩みが、
たとえ小さな掘り方であっても、それらは、大げさに言えば、
ほかの「同じ層のトラウマ」「同じAC人格に悩んでいる人」
その全員をも、同時に掘っていること、
つまり、やや美化して言えば、他の何百という人たちを助けている事になります。
むろん、他人助けるという意識でやってはならず、
自分ひとりを助け出すつもりでやることが重要であるのは言うまでもないことです。
■AC人格というものは、
もともとが、個人が作り上げたトラウマではなく、
集合的なもの、世代間連鎖してきたものだからこそ、
皆さんが掘ろうとすると、そこには社会の常識と同じぐらいの強固な壁があり、
大変な力を必要とするのであり、
それ故に、自我復元による、意識の基礎体力の強化が必要でもあるわけです。
■ですから、今、トラウマをあらわにし、AC人格を掘っている
その全員の人たちがやっていることは、各自の立ち位置で、
ほかの「似たような誰か」の苦痛の自覚にも寄与しているわけです。
何度も言いますが、ことさらそれを自覚する必要はありませんので、
下手に、利他的なことをしているという意味に解釈すると、
またまたAC人格が、醜い顔を出すので注意してください。
私は事実を言っているまでで、AC人格の怠惰で鈍感な神経に
飴玉や、餌をやるつもりはありませんので。
もっともこの「偉業」の様子は、別の次元から見ればその様子は明白なのですが、
AC人格者には、その価値が分かりません。
■余談ながら、いわゆるスピリチュアル系の馬鹿な人たちが、
「みんなの意識が変わるときが来る」とか言いながら、
何十年しても、絶対に、彼らが一歩も変わらない最大の原因は、
その彼らの精神世界がAC人格が作り上げたものだからです。
つまりは、ただの妄想と、都合のいい現象をつまみ食いして、
自己正当化と、自らの劣等感の払拭に悪用し続けたからです。
つまり私が言うところのリアリティーがないのです。
嘘に嘘を上塗りしつづけた精神世界と、
自分が自分の本音、本心、率直な感情についている嘘を、
次から次へとはがしていった、自我復元の中のトラウマ掘りとでは、
その差は歴然としています。
ですから、皆さん一人一人の、それぞれの自分流のトラウマ掘りが、
実際に、この地上の人の集合意識の中で、
その自我復元者に似ているトラウマを持っている人に、
現在も、日々、少しずつ影響を及ぼしています。
■「影響を及ぼす」と聞くと、すぐに、何かそれが正しいこと、あるいは、
何か偉い事をしている、その裏づけとなると思い込んで、
この餌にとびかかかる、本当に愚かなAC人格者が多いわけですが、
もう多くの自我復元者が分かっているように、
その挙動というのは、
自分の親にすら影響を及ぼせず、無力なままに親の意志に従属し、
経済的にも自活も出来ず、
精神的な自立も出来ずに、社会でも職場で他人に屈した、
そういう生き方をダラダラしてしまい、しみったれてしまったAC人格が、
ここぞ、今まで冴えなかった自分の出番だ、影響できるぞ、などと思い込みたがる、
という、毎度お馴染みの、
「他人に影響したがりAC人格」の無様な茶番ですから、
そういう、親に仕込まれた毒性のある動機ではなく、
本気でこのままでは不満だということに気づいた人たちが行っている
AC人格掘りに限定して、それを「偉業だ」と私が指摘していることは
言うまでもありません。
また「原主体の起動」までは、
ここで生きて行くのに十分な軸になると思います。
*********
記憶の保管されている層の違い
■一方で、とても難しいのは、その次に歩を進めた場合です。
AC、トラウマ問題であれば、その記憶は現在の身体の脳にあります。
ですから、きわめてリアルなものとして扱うことが出来ると同時に、
たとえば、親と自分との関係の重大な問題に気づけば、
その翌日から、その瞬間からでも、親との関係が変化する、
ということも、多くの人が経験してきました。
つまり、AC人格に気づくということには、環境への即効性があるわけです。
■しかし、生前記憶がある場所は、物理的な脳ではありません。
物理的な脳が保持していられるのは、母体の体内での記憶以後です。
生前の記憶を掘るということは、少なくとも最低限1層は、
肉体とは異なる層の身体と、顕在意識の認識が結びつく必要があります。
簡単にいうと、ここからはオカルトであり、精神世界に一歩踏み出します。
しかし、何度も警告、勧告したように、
その95%以上が、妄想とAC人格によって汚染されつくしている
この地球の精神世界しか見てきていな皆さんにとっては、
精神世界などという、ありとあらゆる、
自分勝手な都合のいい解釈をしている分野に頭を突っ込めば、
それは、自分の問題からの逃避以外の何ものにもなり得ません。
その結果、全く本人は、AC人格のままだらだらと生きてきただけ、
そして、次の生でも繰り返す、または、より劣化し、
劣悪な精神状態になるという結末になっているわけです。
■生前記憶を探るということは、
AC人格には不可能であるばかりでなく、
仮に、AC人格がかなり解除されたとしても、
現在意識している顕在意識そのものだけでは難しいのです。
むろん姿勢としては、これまでに掘ってきた、そのリアリティーを伴う
自己検証の繰り返しと全く同じ姿勢こそが十分に生かされるですが、
それを拾ってくる先が、一個人の脳の記憶からではない、
というところが難しいのです。
■そこで、AC問題までは非常リアリティーに富んだ報告だった人が、
生前記憶を掘ってみたら、とたんにそれまでのリアリティーとの接点を
失う、ということが起きます。
リアリティーを失うとはどういうことかというと、
今回の生のAC人格との関連づけが、強引になってしまう傾向がある点です。
時間がないので、さっさとはっきりさせたい、という欲望によって、
「結論を急ぐ」のがその主な理由だと私は見ています。
もう少し、間をおきながら検索すれば、違う角度から生前記憶の
素材が見つかってくるはずです。
それを急ぐと、
せっかくトラウマとAC人格を掘ってきたリアリティーと連結できない、
断絶が起きてしまうのです。
■ただし、いったん、生前の記憶に意識を振り向けた
ということは、無駄にはなりません。
今は、役に立たない分析結果となったとしても、
現実生活の中で、それに呼応する現実的な問題提起やトラブルが起きてくれば、
はじめてそこで、思い出そうとした部分と、ここでのリアリティーとの
繋がりが出来てきます。
■そういう意味では、生前記憶は、
現在この瞬間にどれぐらいリアルな形で影響し、
また自覚されているかということが効力を持つのですが、
現時点では、これまでに生前記憶を自分自身で掘った人は、
いったん、それについては放置し、忘れて、
それが問題意識として浮上するような、
現象として現れてくるのを「待つ」のがいいようです。
*********
■私の経験から言えることは、
現在の肉体の生の記憶の中にある問題を解決した場合、
それは翌日からでも変わり得る即効性がありますが、
前の生の記憶に自覚が本当に及んだ場合、かつ「強烈な意志」によって
そこに変更を加えた場合には、
それが記憶されている層は、慣れ親しんでいるリアリティーの世界とは
違うために、現れてくる時間が違います。
おそらくは5年から10年してようやくあるポイントで自覚したことが
現実に影響してくるという様相になります。
そのようになる最大の理由は、ひとつは、前述したように、
この世界の脳の記憶とは周期そのものが違うことと、
もう一つは、それによって、配置換え、運命の変更が起きた場合には、
変わる部分は、あなた個人だけではなく、
その後、あなたが出会う人、影響される人、そういった部分も変更されるために、
その人たちの運命の一部も変更されることになり、
その準備には、時間がかかることです。
個人的な話
●余談ながら、2004年以後に無明庵、というよりは私に縁が出来た人たち、
というのは、それ以前とは性質がかなり違います。
実際、現在に至る有用で意味のある出会いは、
すべて2004年以後に私と縁を持った人たちだからです。
●これには理由があります。
まず第一に、それまで長く住んだ東京のある拠点を離れたこと、
それは東京という土地と私との契約が切れたことを意味しますが、
その契約は、30年前に明確に意識的にしたものでした。
それまでの実家から、自分が住む場所を選ぶのに、かなり、
ある地域を念入りに歩き回りました。
と同時に、ある種のコンタクトや、ミッションもしていました。
と同時に、団地という形状の細胞のような箱に入ることによって
それと符号する集合意識との接点が出来ました。
(その前は親の自宅に住んでいました)
●しかしそれが、自分の次の活動領域には不向きとなってきた時点で、
ちょうどよく、住宅の立てかえによる立ち退き問題が起こり、
現在の富士五湖に移転しました。
しかしこの富士五湖のある場所に、私が唾をつけておいたのも、
これまた、23年ほど前で、まさに自分がつけた印のすぐ近く
(たった数十メートルしか離れていない場所)に自分が住むことになる
とは、当時は思ってもいませんでした。
その印とは、「短剣」を、23年前に地中に埋めていたのです。
●集合住宅やアパートには利点があると同時に、欠点もあり、
それは、より大きな集合意識へとは連結しないことがあることです。
また、「集合同士の対立」もよく起きます。
これについては、説明するのが面倒なので詳細は省きます。
しかし、借家とは言え、まがりなりにも一軒屋で、
全く自由に部屋も改造できる、使用できるとなったために、
そこから、それまでの数十年とは違うプログラムが作動しました。
●2004年に現在の位置に移転したものの、
その後は、ややそれまでに継続していた問題の整理もありました。
それが終わって、最も大きな変化が始まったのは「禅書」からでした。
もとはと言えば、生活が立ちゆかなくなったために、はじめたことであったのですが、
どうせお金を戴くのであれば。この世界で、自分ひとりだけしか出来ないことで、
お金を戴くのが筋である、という自分の考えがありましたので、
それを実行したまででした。
他の人では出来ないこと、他では同価格では絶対に出来ないこと、
代行者はこの世界のどこにも存在しない、
それしか自分にとっては他人様からお金を戴く価値を感じなかったからです。
*********
単なる利便性を超えるもの
●実は、この考え方の基本は、地球外で認識したものなのですが、
これは、とても面倒な話になるので今回はしません。
宇宙の「ある領域」では、独自のものを創造するアーティスト以外は、
存在している意味がない、というきわめて「極端な考え」があり、
それは「地域限定ながらも、そのエリアでは究極的な意味では正しい」
と私個人は考えているからです。
それは「アーティスト」であり、単なる労働や科学や技術ではありません。
それは明確に「芸術」の分野であり、かつ、単に演奏者とかではなく、
自分自身の「芸術作品」を作り、
自己満足に終始するのではなく、それを他者に分かつ人たちのことです。
この「芸術作品とは何であり、宇宙では何に還元されるか」という定義が、
地球のそれとも似ている面と、
かなり異なる面とがあるので、説明は控えておきます。
たぶん、自我復元者の中に、ある時期から、
アートに関連する職種の人たちが増えたのは、そのせいだと思います。
あくまでもある領域の次元での話なので、
この世界、とりわけ地球では適応されませんが。
●芸術が、その世界で、最も重要視されて価値をおかれている事の「片鱗」は、
次のような言葉の中に、少しだけ含まれています。
それが、工業用品でも、あるいは科学分野や、単なる散文でさえも、
また、料理や、スポーツでさえも、
この世界で最高の賞賛と、敬服を集めた「褒め言葉」は、
「まるで、芸術だ」「まるで芸術のようだ」
という言葉だからです。
この言葉の中に込められた意味は、
実用性や、論理性や、合理性や、製品精度を遥かに超えた何かが、
そこにある事を示唆しています。
簡単に言うと「作り手のセンス」なのですが、
そのセンスを作り上げるのは、「アートセンス」です。
それが「芸術以外の分野」である場合に限り、
おもにこの賞賛の語句は使われますが、
それが、工芸品やアートなどのように、
直接に芸術作品である場合には、
「これこそ、アートだ」という言葉に置き換わります。
これは、確かにある種族たちには、尊重され、重宝されている。
それが、良いか悪いかは別問題として。
●ただし、前述したアート系の自我復元者の人たちも、
動機が、親に馬鹿にされたり、兄弟間差別をされたために、
親を見返すとか、親に自分を認めさせたい、そういうものが
他者に転じた歪んだ動機となっていたことにはっきりと気づき、
いったん、アート系から離れた人たちもいます。
その人たちが再び芸術の分野に踏み込むときには、
他人に自分を認めさせたいという事の一切ない
純粋でまっすぐなものにする(自然になってゆく)、
それも自我復元が理想としている地点です。
●とにかく、すべての是非は「動機」に帰着します。
動機というのは、皆さんがまとめたAC人格の項目の、
「結局、何が言いたいだけの人格か」という項目にあるものです。
もしも、何かを作るその動機が、
他人から認められなかった疎外感や、AC人格に由来するのであれば、
何をしても、何を作っても、すべてが醜いまま、汚く汚れたままです。
また、親の金銭的な援助を元にしたようなものは、すべて毒ですので、
独自性のあるものは生まれません。
その最たる理由は、
親の金銭や資産に依存している者は、
無力な小言、陰口程度の文句は言えても、
その者は、絶対に親に「逆らえない」奴隷のままだからです。
ご主人様に嫌われたら生きて行けなくなる子供なのですから、
そんな状態で、ご主人様たる親のことを、
本気で批判したり、自分のAC人格との関係を掘れるわけがないのです。
*********
●さて、話は戻りますが、
東京にいたときとは、まるで違う種類の人たちと
縁が出来ることになりました。
禅書というものは、書店にある本や、掲示板とは違い、
まったく個別に異なるもの、注文者の方との直接のコンタクトがある、
カウンセリング的な書であった、ということが理由となり、
2003年まで、東京にいたときによりも、はるかに多種の他県の、
日本全国の人たちとの縁が出来ました。
すべて、これは、この場所と私との関係に由来します。
たとえば、この地元の人や移転してきた他の人がやっても
同じ事にはなりませんが、
私と富士五湖には、1980年代から明確な繋がりがあったからです。
また富士山という日本を象徴する山が、
今回は、全国の人たちと私をつなぐツールとなりました。
●その「禅書」が、やがて変形して発展して、
現在の「自我判定」になっていますので、
まずは、禅書を注文してきた人たちというのは、
それまでの私とは相当に違う動きの中にあり、
さらに決定的に、
私の意識のエリアに出入りできる人材が入れ替わったのは、
2010年の「自我復元」からでした。
さらに、2012年から2013年の、
AC、トラウマ人格掘りの重要性へと続き、
現在では、かなり無駄なく、AC人格に気づく意志のない人や、
不要な物、不要な情報には関わらず、
今後の通路の構築に重要となる事にだけ集中できる状態になりました。
*********
ということで、意識的に、大規模な変更をすると、
現象の変更には、かなり時間がかかるということの一例でした。
そもそも、自我復元開発というものは、私の今回の生の計画には
全くありませんでしたので、そのまったく新しい分野を手がける為には、
事前の長い準備と、人脈の整理が必要だったわけです。
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