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[498]
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★分割自我復元★その498■ あまりにも重要な「日記」
by:
鈴木崩残
2015/09/20(Sun)07:03:38
誰も見ない日記の重要性
●今、この掲示板を見ている人のいったいどれだけの人が、
「日記」というものをつけているのか疑問です。
ただしその日記というのは、インターネット上に絶対にアップしないものにかぎります。
日記というものは、本来は、本人以外の誰も見てはならない、
ということが大原則です。
その理由は、他者が見た瞬間にその効果はゼロに等しくなるからです。
他者が見たその瞬間にそれは何の価値もないゴミになってしまします。
自分以外に決して誰も見ない日記の効果とは、
「自己管理」に対する絶大な効果です。
●ブログなどで日記をつけるというのは、全くの間違いです。
それは、他者承認ないしは、他者の目を意識しているので
全く日記にはなりません。
ちなみに、自我復元の報告をしてくれる人たちの多くが、
「日記」からの抜粋という形のことも多くあります。
そもそも、日記をつけ続けるということがどれほど重要なことであるか
それを認識していない人の方が多いと思います。
●日記というものは、他人が決して見ないということが大前提ですし
次に重要なのは手書きであることです。
決してキーで打ったものではならないこと。
もうひとつは、音声の日記でなく手書きの文字であることです。
その理由は、文字は紙面の上で回路図のように
「関連性」を見ることができるからです。
*********
●日記の最大の効能は、
「現実とは自分が見ている世界であり、
現実とは、自分が生きている世界であり、
現実とは、自分が作り出しているものである」
という当たり前のことを、ほかのどのような方法よりも明確に
認識できるからです。
●日記というものを毎日書かずに、もしも生きていたら、
それはすべて「成り行きに流されて人生を無駄にしている」ということと
等しいのですから。
何度もいいますが、その日記とは他人に見せるものではなく、
「自分に見せるもの」「自分が自分のために見るもの」です。
●夢日記といったものは、夢は勝手に見るわけですから、きわめて受動的です。
しかし普通の日記は、そこに書かれることというのは、
自分が一日一日と、経験してゆくことが書かれます。
日記に記するもので重要なことは次のことです。
*********
1/
実際に起きたこと、経験したこと。
特別なことでなくても、コンビニで何かを買ったとか、そういうことで全くかまいません。
2/それについて考えたこと、またはそのときに考えたこと。
3/それについて感じたこと。
つまり、事象、現象をそのまま書くことと
考えたことを書くことと、
感情を書くこと。
これは3つが全く別のことです。
この三つはほとんど一致しないのです。
現象(ただしくは知覚したこと)
思考したこと
どういう感情を持ったか
この3つを個別に、または関連づけて記するのが日記です。
●最初は分析的なことなど書かなくてもかまいません。
ただ起きたこと(経験したこと)、考えたこと、感じたこと、
この3つが常に毎日、自分の中で起きていることである
という現実に向き合うのが、日記の目的です。
●自分で生きた今日一日は、あなただけのものです。
自分だけのものなのですから、それを振り返るのも自分一人だけです。
誰か他人があなたの一日を見てくれるわけではないのですから、
それを見てあげられるのは、あなた一人だけです。
●自分をないがしろにするとかしないとか、
言葉だけを連呼する人がいますが、
そもそも、ないがしろにするとは、なかったことにしたり、無視することです。
自分で自分の一日を無視して、そのまま眠ったり、酒をあおったり、
あるいは、ネット中毒しているいるような人に、自分があるわけがありません。
●それらは自分という中心から、徹底して遠ざかる結果となります。
それでは「自分自身」に向き合うのではないのですから。
しかし、ネットに繋ぐ時間で1時間を使ってしまう時間を、
手書きの日記をつけることに振り向けるだけで、
その人の人生は、相当に違ってくるものなのです。
*********
●私は20代から30代のころに、日記をつけていました。
前述したような、起きたこと、考えたこと、感じたこと、
この3つだけです。
中には、そこから思考が展開して何ページにもなることもありましたが、
基本的に重要なことは、それが「自己管理」の第一歩だということです。
●もしも人間が、自分で見るための自分一人だけの日記、
というものを書かなかったらば、
自分が生きている日々を、自分のもの、自分において責任のあるもの
とは絶対に認識できません。
自分自身以外のこと(他人の言葉や本)への共感や批判に明け暮れて
気がついたら、何も出来ない人間になっているだけです。
●さて、たとえば、全く何もなかった日というもがあったとします。
しかし、全く何もないということはありえず、
少なくとも起床という現実はあり、食事をする現実はあり、排泄をする
という現実はあります。
ならば、その単純なことを記録すればいいのです。
特に目立った思考も感情もないならば、その部分は何も書かなくてかまいません。
●こうした日記を日々つけているうちに、あなたは気づくはずです。
「今、目の前で経験していること。
これが今日の日記に書かれることの一部になるかもしれない」
そういう目で、現実の一瞬一瞬を見たことが果たしてあったでしょうか?
常に、なんとなく、漠然と見て、聞いて、あいまいに日々を生きただけ、
それを何年も何十年も続けてきただけではないでしょうか?
●しかし経験したことが日記に書かれるという意識をもって生きる
ということは、日記につまらないことを書きたくないのであれば、
生きている現場でその流れを変えることを人間は始めます。
また、その現場でどう感じたか、どう考えたか、
それを意識的に覚えていようとします。
これを支えてくれるのは、一日の終わりにそれを日記に書く
という目的があるからです。
●Abyさんがかつて、日記をつけるという単純なことを
それまでしたことがなったと、とブログに書いてありましたが、
日記をつけないということは「自分で生きていない」ということと
ほとんど同じことになってしまうのです。
誰もが、生きているのは、自分が生きているんだ、
そんなのは当たり前だと思いがちですが、
自分で自分を監視、管理し、自分に手を加える、
ということを、なんとなくではなく、意識的にするということを
もっとも支えるのが、自分しか見ない日記、自分のために書く日記です。
*********
●日記というものは文字通り、一日をまとめるものです。
いっぽうで、「関心地図」は、その扱うスケール、範囲が、
たったの数分です。
ですから、それは「分記」と読んでもいいものです。
日記は一日に起きたことを記しますが、
関心地図は、数分間の間に起きていることを「メモに単語として」記します。
●このどちらも、他人のことではなくて、自分自身に取り組むということなのです。
ひとつは一日という長い時間、
もうひとつは、数分、数秒という、時間の中で。
*********
●たとえば何か稽古事や趣味をやっている人も日誌というものをつけると思います。
しかし、それは、あなたの人格、あなたの一日の中から、
ごく一部の切り取られた現実しか扱いません。
料理日誌や、稽古日誌、夢日記、その他、部分的な出来事だけの日記。
これでは、トータルな日記になりません。
それが、どのように不快なことでも、楽しいことでも区別せずに、
おきたことをくまなく大切に拾い上げるには、
テーマなしの日記が必要なのです。
*********
日記というものは、自我復元を別にしても、おそろしく重要なものです。
日記をつけない人には、
正常な自我がほとんどないとすら言って過言ではありません。
ですから、これが自我復元をしている人であれば、
なおさら、日記は重要なものになり、またそれが力になります。
●繰り返し言いますが、その日記は、
★決して、他者に見せないこと。
(自我復元報告の場合は、原文ではなく抜粋にすること)
★PCなどに打ち込まず、必ず手書きの文字やイラストにすること。
★記録する話題を区別、差別しないこと。
どんなにとるに足らないことでも、つまらないことと切り捨てないことです。
なぜならば、どんな些細なことに対しても、
人間は、大小の感情を起こしたり、大小の思考を起こすからです。
すべてを思い出す必要はありませんが、
一日を振り返って日記に書く時間を、30分でも1時間でも持つことは、
ほかのどんなことをするよりも、重要なことです。
なぜならば、それによって、はじめて、
「自分が一日を生きた」と言える基盤ができるからです。
「生きたのは自分だった」「自分で生きた」そう思えるのは、
自分を客観視する、日記という作業を通じてのみだとすら言えます。
●
一日を通じて、自分の経験したことの記憶、
それについて思考したこと、
それについて感じたこと、
それを、その主体であるあなたが見たり、確認したり、管理しないで
いったい、誰がそれをするというのでしょうか?
●この日記を、三日坊主や一ヶ月坊主で終わらないためには、
モチベーションというものが必要です。
ただしそれは他者に見せるためであってはなりません。
自分自身に見せるためです。
●私はこの生涯で、
長く日記をつけている人をほとんど見たことがありませんでした。
たとえば、何かの研究をしている人は研究日誌はつけますが、
自分自身に向き合うための日記はつけていませんでした。
交換日記は完全にアウトです。必ず嘘や誇張が入りますから。
またネットへの書き込みや、ブログも、
嘘つき日記や、AC人格まるだしの、誇大妄想日記になります。
●私自身が、日記帳というものを、ほとんど高度な魔術儀式そのものとして
使っていた期間が非常に長かったために、
日記の重要性は、いくら書いてもきりがありません。
(魔術修行では、日記は「現在から時間を逆戻りして」起床した時まで
遡りますが、ここでいう日記は、普通の日記、つまり、
起床から順を追う形でかまいません。
この「時間を逆向きにして、五感の全体を使って思い出す手法」は、
大昔からバトラーなどが紹介していたあれです。
もしも、起床したところから思い出すのが出来ない人の場合には、
現在の時間から逆に、戻って一日の記憶を辿ってもかまいません。)
*********
●そもそも一日すらも、振り返ることもできない人に、
関心地図という、数秒間を振り返ることなどできないのです。
加えていうならば、
単なるメモ書きや、まとまった内容の報告書ではなくて、
「日記」こそが非常に重要なのは、
そこに、必ず、「睡眠」が入るからです。
●つまり、一日が終わる前というのは「臨終」と相似形であり、
日記をつけ終えて眠るということは、「死と相似形」だからです。
だから、不規則なメモではなくて、
毎日、一日の終わりや、眠る前、つまり擬似的に「死ぬ」まえに
それをまとめておくのが重要なのです。
その作業を終えて、睡眠(=擬似的な「死」)に入ることが重要なのです。
●ですから、日記をつけるとき、
はじめて、「自分の人生は、自分が生きている」と実感できるものになります。
口だけでそう言うのではなく。
●ルーズリーフでもノートでもかまいませんが、
決心がついたら、1年分か2年分は、最初にノートなどを買い込むことです。
そして、ボールペンや鉛筆でかまわないので、書き心地の悪くない筆記具も。
●日記には、前述の3要素を書き込むことが重要です。
とくに、感情は無視してはいけません。
それは思考とは分けて扱う必要があります。
また、たとえば、自分に日記に、
「私は、何何がしたい」とか「あいつなんか死ねばいいと思う」などと
「思考や感情」を書いたとします。
しかし、すかさず、次の疑問、自問が浮かぶはずです。
「では自分は、どれぐらい、本気なのか?」
日常会話やネットというものは、
思ってもいないことを思っていると思い込んで、
言ったり、書いたりしているものがほとんどです。
自分自身に対して、正直に接することができるのは、
自分以外に、誰もいないのですから、
日記の魔力の鍵は、「とことん、自分に正直であること」に尽きます。
一生を振り返る日が来るときに、
「自分に正直に生きた」と断言することはできなかったとしても、
「自分を正直に見ることはできた」となれる人は、
たくさんいると思いますので。
そのために、日記が重要なのです。
日記とは、偉ぶった屁理屈や、理想論を書くものではありません。
自分に対する、「正直な自己告白」を自分に向けて書くということです。
これは生きている時、
死ぬ間際の時、
死んだあと、
そのいずれでも、重要なものとなります。
*********
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