▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[500]
■
★分割自我復元★その500■ いくつかの「私見」 ■
by:
鈴木崩残
2015/09/28(Mon)07:23:57
いくつかの「私見」
●生きていて、何をするか、
主に何を意識するか(注視するか=現実として認識するか)、
といった問題は、そもそも個々人が生まれる前に設定してきた目的と
生まれたあとに設定した目的によって、決められます。
このために、あらゆる問題に対して、普遍的な方程式というものはありません。
生命経験の中で優先されるのは、事前に決めてきた「経験内容」です。
●単なる一例としてですが、
私の知るかぎりにおいてなので、確かなことは言えませんが、
「食事」の中でもとりわけ「味覚」の種類に関しては、
この数千年で、相当量の種類の記録が地球で捕獲できました。
これは珍しいことです。
他の次元や天体であれば、ほとんど植物に近い組成で生きていたりするので、
自分以外の動植物の生物をこれほどに多種多様に食べた人たちがいた星は、
珍しいかもしれません。
●では、それらの記憶はどのように保存されるかとなりますと、
二つのものが必要です。
ひとつは食べた対象物の味ですが、もうひとつは食経験のソフト
つまり味わうための主観側のソフトです。
たとえば、海苔や、梅干や、納豆を美味く感じるには子供のときからの
食事の記憶が必要なわけで、これなしに外人さんがいきなりそうしたものを
食べておいしいと感じられないのと同じことです。
●したがって、思考だけで形成されている世界で、
地球の人たちが経験した味覚経験を再現しようとすると、
その食文化の背景をもプログラムに組み込む必要があります。
単にチーズを食べた味の記憶ではなく、
どこの国のどういう食文化を経た人が食べた味の感覚を再現したか
というものが組み込まれるわけです。
●ちなみに、この時に、食べたあとに身体にどういう症状が出たか
ということまでは、再現経験のツールには組み込まれていません。
それがあるとしたら、
また別の「苦痛ランド」に別格として保管されているはずです。
つまり、地球上でのここまで多様な味覚経験というものは、
味覚経験として「独立」して保存されるために、
それを食べ過ぎたり偏食して、体がその後どういう苦痛を経験したか
というところまでは、組み込まれません。
わかりやすくいうと、もしも皆さんが2000年後に、
地球をある次元を経由して訪れて、
ここで、過去に人々が経験した味覚を自分も経験してみたいと思った場合には、
体や精神を害することなく、現在の私たちが経験した味を
「経験希望者」は、経験できるということです。
●その中には、たとえば、猛烈に体に悪いといわれているコーラの味
などというものも含まれるかもしれませんし、
化学物質や、合成食品の味も、ことによると、
それも記録しておきたいと思った存在がいたら、記録していると思います。
必ずしも、天然由来の食品だけではなく、
加工品、発酵品、そして調理された料理の味まで、すべて記録していると思います。
いちおう、とりこぼすことなく、すべてを記録しておいて、あとで、
その中から精査して、「娯楽商品」として人気の出そうなものに
絞りこむと思います。
娯楽商品とは、はっきり言ってしまえば、
精神が死にそうになるほど逼迫した時の、
「退屈しのぎ」になるかどうかです。
*********
●そういう意味では、残念というか、当たりまえというか、
この地球で経験されるどのような種類の拷問的苦痛も、虐待も、
あるいは、病気や体調不良による不快や、心理的葛藤も、殺意も、
狂気も、それが第三者の「趣味、嗜好」にとって、「出来が良ければ」
保存されます。
ただし保存されるのは、主に生成されたエッセンス部分のみです。
この話は、ずいぶん昔に、
★その209■ 短編小説 『はじめてのバー』 ■
という話で、おもしろ、おかしく書いたと思います。
*********
●このように、ここで私たちによって経験される相当に悲惨な経験も
自殺願望から、享楽的な快楽や、日ごろの鈍重な無意識的な生活も、
いちおう、とりあえずは、記録され、のちに精製されます。
ただし、私が生まれてみて、いささか拍子抜けだったこと、
予想と違っていたことは、
ここの人たちは、ちっとも(めったに)「エゴイスティック」でないことです。
正しく言うと、エゴに徹していないのです。
中途半端な自立主義と、中途半端な協調主義。
しかもその二つを、うまく使い分けているならばともかく、
どちらも、自主性に欠けた「なりゆきに流されてのこと」でした。
●そもそも、強烈なほど、エゴを生きて、
自分がやりたいことは、我慢せずに全部やりつくりして、満足したが、まだだ、
ということになってこそ、いろいろな精神世界の体系というものは
役立つものも(中には)あるのですが、
その前段階の自我、またはエゴを「強烈さ」を持って燃焼していない
というような人が、その枠を超えたところに共鳴するということは
不可能か、または常に、不完全燃焼で中途半端に終わります。
●私が残念に思い、非常期待はずれだったのは、
この地球は、もっと、エゴの塊のような人たちが散在していると思ったのです。
そうであれば、エゴというものは、必ずそのピークを迎えますから
そうなってこそ、その次の展開というものがやってきます。
ちょうど、性欲が、本人にとって完全に満足される形で、
もう十分すぎるほど経験した、となった後にやってくる無欲が本物であるのに対して、
まだ思春期になったばかりの子供や青年が、
「セックスを超えるべきだ」と、さまざまな修行をして、
結局のところ、頭の中は性妄想と、それを越えるという妄想、
この二つに占領されて時間を無駄にするのに非常によく似ています。
●これとまったく同じことが、悟りの問題についても言えますし、
そこまでいかなくとも、普通の精神世界のさまざまな技法についても言えます。
常に、あらゆる体系は、精神世界にかぎらずとも、スポーツでさえも、
「準備」が整っているかどうかが重要なのです。
たとえば、ローカルな話題の一例ですが、
「ボールを満足に投げられない人に、
棒手裏剣を直打法では投げられない」ということです。
まず、ボールを投げられるようになってから、
その、ただボールを投げることの10倍以上も難しい手裏剣術を出来る
というのに似ています。
*********
●私が自我復元というものの必要性に行き着いた最大の理由は、
何であれ、ここで何かを経験できる「準備」を整えるためです。
残念なことに、他では経験する機会が(比較的)少ない、
せっかくの封じ込められた自我枠やエゴを装備しているはずの人たちが、
それを行使せずにいるのを見て、長い歳月、大変に不思議に思っていたのですが、
(むろん、これは20年以上前の話ですが、
個人的に付き合った人たちの中には少数ですが行使していた人もいました)
そもそも自我やエゴの性質さえ満足に起動されていないのに、
精神世界も糞もないだろうということです。
また、ご存知のように、何かをするとき、何かを言うときの
動機が、「AC人格まみれで」あることかほとんどですから、
そもそも、自分が、何のために、何をしているのかもわかっていない、
これが希釈自我の人たちの病理です。
この無意識的な病理だけは、とても経験の「味」とは言えません。
むしろ、経験の質の「不在」です。
*********
●ところで、自我復元をしている、読者の人の中にも、
体調管理ということで糖質を制限したり、
あるいは、プチ断食をしてみたりと、そういうことに
昔から手を出したり、現在手を出している人もいるのですが、
私は根幹的なところで、その人たちは、何も変わらないと見ています。
(本人だけは、「自分は変わった」と思い込みたがるのですが、
たいていは、空振りです。)
なぜならば、何かをする時の動機、目的といったものが
非常にあいまいだからです。
動機について、たとえば、
「健康に働いて暮らしたいからです」などと、一見すると
当たり前で、世間でまかり通るようなことは誰でも言えますが、
では、「なぜ、健康に働いて暮らしたいのか?」
という問いには、答えられません。
仮に答えたとしても、
そもそも健康とは何かという個人による定義、
健康である必要はあるのか?という疑い、
働くとは何か?
暮らしとは何か?
これらを個別に定義できないのであれば、
そんな言葉には何の意味もないのです。
それでは、俗にいうところの、
「なんとなく幸せならいいんです」と変わりありません。
仮に、これが「神秘体験や、特殊な体験をしたいのです」でも
まったくその質は低いままです。
何のためになのか?
ここに、常に紛れ込むのが、
歪んだエゴ、ないしは、AC人格のとても姑息な思惑です。
まっとうに育った自我が持つ「好奇心」とは、
悪くいえば、ただの多動症的な、落ち着かない意識の病理なのですが、
それでも、それは、生産性のある好奇心となります。
●常に、最初に基軸としてないとならないのは、「目的」です。
そして、その個々の目的に応じた、食事というものがあり、環境があり、
人間関係があり、その目的を果たすための生活の組み立てがあります。
これが正しいというものはなく、
たとえば、極端な偏食だけが生み出せるダイナミックなアートもあります。
●そもそも、「食」というのは、いかにも目に見える形として、
ないしは感覚として、わかりやすい結果(変化)が出やすいために、
多く人たちが、安直に、いろいろな医療的な次元での食物論や、
オカルト的な意味での食物論の信者になりやすいものです。
しかし、食物論には、乱暴に大別すると、3種あります。
●ひとつは、まずそこに病気、病人がいたからこそ発生したもの。
つまり病人をどうこう回復するため、それが発端だった食物論。
これがおそらくは、地球の食物論の大半を占めていると思います。
●ふたつめは、何かの人体実験によって偶発的な発見されたもので
のちに医療として応用されたもの。
この場合、動機は、健康志向ではなく、「好奇心」です。
つまり、「人間を健康に戻すのが目的ではない」食物論があります。
●みっつめも、「不健康だったのを健康にするためではなくて」、
「特定の目的」を果たすために、計画的に試行錯誤されたり、
考案されたり、あるいは元から、伝承していた食物論。
*********
●だいたいにおいて、人生の中で、
自分の体の問題、体の違和感に年中、気になることがあった
というタイプの人たちが、たいていは、何とか健康法なるものをやったり、
または、専門的な道場や、体系にハマっています。
一般に、マクロビやっている人は、ほとんどみんな不健康な顔していて、
外見だけではなく、中身も、よぼよぼしていて、
言っていることと、やっていることがまったく違う、
といった傾向は、多くの人たちが知っていると思います。
●すると、「それは、やり方が間違っているんだ」
「砂糖を減らすのはいいが、肉は食べないと駄目だ」と言い出す人たちが、
後を絶たないわけですが、
そういう人たちは、せっせと「独立栄養生物」を目指すべきです。
ようするに、食べずに生きている人々のことです。
ここに参考にある記述が少しですがあります。(ガセかどうかは精査していませんが)
↓
http://x51.org/x/05/01/1506.php
●どうせやるなら、ここまでやらないと意味がないじゃないですか?
中途半端な健康論やバランス論をまくしたてるのであれば、
一生、飲まず食わずの人になってから、言えよと言いたいですね。
●ところが、こんな生活、つまりこうした生活の記憶は、
すでに、どこの世界にもあふれるほどあり、
珍しくもなんともないものなのです。
「何が健康か不健康かの根幹の問題」は、ひとまず横においておき、
希少価値があるかないか、という点では、
他の動物たちも、他の星の人たちも、こういう単純な食生活などは、
当たり前に経験しているので、経験の記憶としての価値がまったくないのです。
(私に言わせればですが)
●「蛇足」となりますが、
炭水化物を、もしも不自然として、狩猟民族であるのが自然である
などという人がもしもいたら、
その人は、自分の手で野生の動物を射って、殺して、自分で解体してこそ、
狩猟民族という事の本質があります。
そうでなくて、囲いで飼われているだけの家畜を食えばいい、
などと軽率なことを考えているのであれば、
それは「釣堀の魚を釣れば自然じゃん」と言っているのと同じです。
しかしそれでは、単にそこで育っているのが家畜の肉であるというだけで、
定住化した「 肉 の 製造農園 」であるわけです。
このように
↓
ですから、ただ単に、食物の「物理的な種類」で、
炭水化物とか、たんぱく質とか、油質に分けるだけの思考というのは、
信じられないほど、唯物的な考えです。
●私はむしろ植物を食べるときでさえ、
生産者がどういうポリシーの人であるか、
家畜はどのよう育てられて、どのように殺されるかを重視してきました。
その結果、どういう思念や経験がそこにあるかという観点から、
まずは、鳥と四足動物は、今後は、食べないという方針です。
これは、殺傷の仕方が残酷(意識的な痛みを伴う)から、だけではなく、
残酷な「生き方」をさせられた食物だからです。
それは生きた当の動物の中に「本来はこんな生ではない」という、
わずかな自覚があるからです。(この違和感は人間の持つそれと似ています)
私がもしも家畜の立場だったら、
そんな生気のない状態で育った自分の肉を、人間に食べていただきたいとは思いません。
野菜も、ただ農薬で生産すればいいという農家のものは極力買いません。
ただし、本当に理想的な、「無肥料野菜」というのが稀少で、
なかなか手に入らないのですが。
*********
●さて、前述したように、
不健康の反動として生まれた「医療的な目的食物論」というものがあり、
その行き着く先は、どこの世界にもありふれた前述の「独立栄養生物」です。
だから、私は、そんなに「デフォルト」がほしいならば、
早く自殺しなさい、というのです。
ここで一生をかけて、自分を飲食なしの身体にして、自己満足することが、
ここに生まれてきたときに自分が契約したり、意志した内容であるのか、
まずそれを自分で確認もしないで、あれこれの分野に足を突っ込む人たちを、
たくさんみてきました。
あれもやった、これもやった、というのですが、、、、
「では、何を出来るようになったのですか?」
これが問題なのです。
●何をしたか、ではなく、何を出来るようになったか、
経験したことを、外側に表現される作品として、どのように出力したか、
ここがもっとも肝心なところです。
●その何を出来るようになったか、表現したか、
そのためにこそ、経験というものが必要になります。
つまり最終的に、
何か「それまでの転生では経験できなかった」ような、
何かが出来るようになった、
そういう成果を持たないような経験は、
どれだけ主観的な経験でもほとんど意味がないのです。
また、前に散々やったことと同じようなこと、
古巣でやったことを繰り返しているというのも、
それらは地球ですることではありません。
●太古からあった知識というものは、
太古の人たちがすでに経験したものであるので、
その経験がいかに、現在と比べると進歩的に見えても、
別の世界での商品価値、希少価値という意味では、
繰り返しても意味がないものも多いのです。
そういう繰り返しで、意識が枯渇してしまい、うんざりした人たちが
この宇宙の一部を作り変えたからです。
*********
●しかしだからといって、地球の現在の状態を、
すべてOKとすることは私には出来ません。
ある視点から見れば、実は、すべてOKなのですが、
それはあくまでも、その視点や立脚点にいる者の持っている
「利害関係」によるものというだけの話です。
●また決して、混同してはならないのは、
自我の「意図的分割」と、
現在の契約による分割は、まったく別問題である、ということです。
自我(正しくは「知覚の枠」)を、
自分、または何かの要求との合意のもとで、意図的に分割するというのは、
たとえば、大精霊が、12個の小精霊に自分を分解するようなもので、
これは、目的があって自主的に意図的に行われるものです。
目的があるので、いずれ作業が終われば、元に回収されるか、
または元の意識を、その12の断片が持つ、などといった収束をします。
●ところが、現在の自我の分割は、
そんな、意識的で、自主性を行使して行われたものではなく、
自我をどんどん分割して、希釈させ、劣化させることで、
「判断力を失わせることが出来た」、
という視点を持っている存在たちがいるということです。
彼らの都合で行ったことであって、人間の為にやったことではありません。
これはちょうど、ある種の陰謀論ともダブるのですが、
いわゆる、俗に言う世間の陰謀論の世界ほど「悪意がない」
というところが、「もっと始末が悪いの」です。
それはちょうど、人間が家畜を育てたり、野菜を育てるときに、
「悪意がない」のによく似ています。
生産量を増やすために、成長を促進させる薬を飼料に混ぜたり、
肥料や農薬を混ぜたりしてしまった、というのによく似ています。
やっているほうは、
それが「本来の目的」にそぐわないという「間違いに気づくまで」は、
ごく当たり前だと思っているので悪意がないのですが、
ただし、結果として、劣化した自我に「乗り込まされた意識」のほうは、
経験できると思っていた経験の何分の一も実感のある経験になりません。
●こうした契約事故は、今から約2000年前には
そんなにあることではありませんでした。
あるところから、
(最近、よく言われる月がやってきて水が地球に供給された海面上昇のあとと、
その後の引力の増加によって)人間の寿命や身長が短くなったせいなのか、
それ以外の理由によるのか、
または人の一生の生存サイクルが短くなったせいか、
この地球にエントリーするときの契約形式が変えられたといえます。
●希釈された自我のまま、トラウマに気づかず、AC人格の動機で
生きてきた人たちが、
いくら、精神世界やら、食物論やら、OOBEやら、悟りやら、
そればかりか、恋愛やセックスや、仕事、趣味、道楽、
何にどう手をつけても、
そもそも、いろいろな魔術的な技法や、秘教的行為というものは、
>「もう、世間のことには、二度と振り返らないほど満足したな?
> その覚悟がなければ、やるな」
といわれるのが「当たり前」のことなのです。
●だから私は、まず「準備」として、
欠損している自我の修復と、
その欠損によって出来てしまった自我の器(知覚の器)の歪みを
元に戻すことだけを薦めています。
そうすれば、他人や多数が何をしにかたかではなく、
この自分個人は、何をしにきたのか、
何が自分個人にとっては、そのために、
他の何をさしおいても重要なのかは、本人が見出すからです。
それは「個別に」違うのであり、普遍的な目的というものはありません。
●ただし、ここ数百年で、どんどん希釈されて個性が薄くなっているので、
「漠然とした目的(戦争のない所に生まれたい)とか「食べ物が十分にあるのがいい」
とかは、本当に、もんやりとだけ、あるようなのですが、
その漠然とした目的すらも、
>ひと昔のような、強烈な自我とエゴを経験しようとするのではなく
>もんやり、ぼんやり、なんとなく生きて、死ぬだけという
>どうにも食えない味に劣化してしまったようです。
この状況には、どのような肯定的な意味もこじつけられませんし、
自我が弱まることによる「集団的利点」は、何も存在しません。
それは、ただ集団的暗示にかかりやすい家畜になるというだけです。
もしも家畜が、家畜としての快適な生活を出来るならば
家畜として生きることに契約するにも意味もあります。
(ペットのように、不自然ではあるが快適な生活というメリットです)、
しかし、希釈される分割自我には、それもあり得ません。
●そもそも、自我枠を強化し、外側と内側という明確な区分の中で
その摩擦を経験しつくした人が、その枠を、
流行りとか、その時代の空気や情報によってではなく
自分の強固な意志で、その弁を開閉したり、または崩すということがあってこそ、
それは、まっとうに秘教的になり得たり、魔術的になり得ます。
それは、そもそも「不健康を健康にする技法」なのではありません。
>自分では問題で感じないという意味での健康を存分に経験しつくした人が、
>あえて不健康のリスクおかして、別の世界を切り開こうとするものです。
******************
世の中(つまり宇宙)には、大別すると、二つの分野があります。
1/
原点回帰を目指すもの。(一部は成功しますが失敗もします)
何かが悪いと感じた場合には、
元にいけば行くほど、正常になるという信念体系。
2/
原点に回帰するのでは意味がない。(これも一部は成功し、反面では失敗します)
カオスのように混乱していても、先に進むべきだという信念体系。
現在の無明庵の場合には、1も2もどちらもありますが
そのバランスの配合が「非常に難しい」のです。
「この部分は、元の方が出来が良かった、
この部分は、昔より今のほうが、面白く出来ている」
という二面をどちらも否定ができないからです。
たとえば、自我は原型のポテンシャルに戻したほうがいい。
AC人格など、微塵もないほうがいい。
ですが、一方で、地球の人たちが、たとえ不健康といわれても
ここで作り出した、味、音、造形、五感の記憶といった文化には、
ある次元の視点から見てれば、それはのちに
私たち自身が、その成果を「受け取る側」になったときには、
明確な価値を感じるであろうものがある。
ということです。
ですから、食生活や、意識生活でも、どの生命の視点に立つかでは
「確かに元のほうがいいもの」、と、
「元と同じでは、死にたくなるほど退屈すぎて、まったく面白みのないもの」、
というのがあるのです。
■ちなみに、私に言わせれば、
断食や、食事制限などよりも100倍も重要なものがあります。
それは「断信」と「断心」です。
断「信」とは通信のことです。
これは、ネット中毒、スマホ中毒を絶つこと。
生きてゆける、最低限度にまで、
いわゆる唯物的な意味での「外」からやってくる情報を絶つことです。
暇つぶし以外の何ももたらさないような情報を絶つということ。
もうひとつは、思考やイメージを脳内から絶つということです。
●これがまったくなされないまま、一生、過ごすのであれば、
断食もせずに、休みなく胃袋を動かす暴飲暴食を、
自分の意識に対してやっていることになります。
断食したり、食事制限をしても、
「脱思考」あるいは計算し、計画された「思考制限」をしなかったら、
まったくそれは、唯物的な次元のものに過ぎないのです。
脱思考というのは、(潜在意識上では無理でも)顕在意識上で
少なくとも、無思考状態を、たとえ一分間でも維持すること。
(ただし、これは睡眠状態でも、半睡眠状態でもありません)
そういえば、大昔、OSHOが、
「時計の針を、本当にまったく無心で、ただし油断なく目覚めた意識で
1分間見ていられたら、あなたは悟りを一瞥していると言える」
と、いっていたと思いますが、1分すら出来ないのが普通なのです。
水を飲まないと10日しないうちに死ぬといわれていますが、
思考(正しくは「印象」)の次元での窒息は、
おそらく数分で混乱し始めるからです。
いっぽう、思考制限とは、自分で計画的に、
特定の思考だけを徹底して排除するものです。
体や食においてやることは、
思考や感情においてもやらないと、意味(相互作用)がないのです。
断食をしたり、食事制限をしているのに、
いつもと同じ調子で、他人としゃべっていたり、メールしていたり、
タブレットや、ネットに何時間もかじりついていたら、
まったくもってして「馬鹿」みたいなのです。
食であれ、言動であれ、
「減らす」とか、「制限」をするのは、
外にあるものに目を向けたり、振り回されるのではなくて、
内部から出てくるもの、または自分の中の内部作用、内部の「反応」に、
注意深くすることが、大前提なのですから。
*********
そもそも、食べない生活をしたいならば、
てっとり早いのは、死ねばいいのです。
すくなくとも、「物質的な意味での食物」は必要なくなりますから。
ただし、その分、「別のものの新陳代謝」に追われることになります。
地球のような植生の環境の惑星は、たくさんあるでしょうから、
ここの環境は、そう珍しくはないのですが、
ただし、食物連鎖のサイクルは、かなり複雑です。
たぶん、意図的に複雑にしたのだろうと思います。
食物の種や生物の大半が、
あきらかに、幾度か他の天体から持ち込まれているはずです。
植物のように土の養分とか、または液体の摂取だけで生きる知性体は
かなり相当にいると思いますし、むしろ標準かもしれません。
その点では、地球ぐらい食物連鎖が多様なところはめずらしく
当然に、そこでは、弱肉強食も多様となるわけですが、
これが自然な状態であるかというと、私の感覚では基本的には、Noです。
弱肉強食は自然だから、というのは「自然なのだ」、
ということの理由になりません。
平均的には、
「食べるって、何だそれ?」
「死ぬとか、眠るって、一体何のことだ?」
となる世界の方が多いと思います。
なので、地球という実験場は、かなり人工的に作られたものなので、
狩猟生活も、農耕生活も、どちらもデフォルトではありません。
ただし、もともと最初は(恐怖もストレスも)娯楽とした作られたものなのに、
ここまで、悲惨な、緊張と、
飢えや不幸への恐怖の慢性化が、長く続いてしまうと、
それは「行き過ぎ」なのです。
行き過ぎると、何事も、シャレにならなくなるのです。
*********
そのうち、未来には、
地球ではなくても、どこかで、
微粒子から、味だけではなく、形まで現物とそっくりの、
食物合成を出来ると思いますが、
そのときに、地球でのたくさんの人たちの多様な味覚経験は、
その自然さ、不自然さ、健康か不健康かには全く関係なく、
「独立した感覚情報の分野」として重宝されるデータになると思います。
地球で生み出されたものを、
進化状態の低い、下等生物の作り出したガラクタと見る部外者もいれば、
変わった素材として、関心を持ち、評価する部外者もいるわけで、
まさに、殺す神あれば、救う神々もあるわけですから、
皆さんは、それぞれ、自分の個性を売りに出せる神々、
自分の経験したことを買い取ってくれる神々を、必死に探すといいです。
どいつが正しいのかではなく。
*********
その他、完全な「断食」=「不食」に関する記述
↓
http://x51.org/x/03/06/3049.php
http://x51.org/x/03/11/2452.php
【短編小説「はじめてのバー」】
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S209
_____________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(500 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -