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[501]
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★分割自我復元★その501■ 【近死体験という変わった経験】 ■
by:
鈴木崩残
2015/09/30(Wed)10:20:30
近死体験のようなもの
ほんとうに、かなり久々に、早朝が快晴になりました。
といっても、9:30現在もう既に雲が出てきていますが。
私は「自然」という言葉のあいまいさが好きではありません。
また「何々が自然である」とか「自然はすばらしい」とか軽はずみに
いう人は好きではありません。
というのも、「自然」というと主に、
人が介在しないという意味と、自然法則のことを意味することがあります。
自然というと、とかく「風景としての自然」を想う人もいれば、
その作用を想う人もいるでしょうが、
どうも世間では、おもに、漠然とした「自然物」を指しているようです。
岩とか、砂漠とか、山とか、海とか、大自然とか小自然というやつです。
また人間以外の生物を指すこともあります。
ミクロという意味では細胞レベルでの自然を言う人もいます。
●しかし、いずれにしても「自然」というときには、
「自然が食べ物をくれるから」とか、
「自然の空気がおいしい」とか、
「眺めが癒される」とか、
とにかく、人間の勝手な都合で「自然」に親しみをもったり
心にもなく、賞賛したりします。
災害になると、自然の脅威とか言い始めたり、
祟りだといい始めたり、
また学問的な人は、自然を見るといっても、
彼らの専門分野として見るので、
植生に興味のある人はその目で、土壌に興味のある人はその目で見ます。
だから、個々の人の言う自然というのが何を指しているのかも、
かなりあいまいであったり、定義されていないので、
私が好きではない言葉の一つです。
*********
●話は変わりますが、これは私個人の感覚だと思うので、
他の人のことはわかりませんが、
もしも、これから地球を離れて、他で、複数の環境で何度か生活をし、
異なる生命を何度か繰り返し、5000年経過したころに、再び地球を見たら、
というより、その地球は別に未来の地球ではなく過去のそれでもいいのですが、
私個人は、かなりここの自然に親しみというか、ノスタルジーというか、
シンパシーを感じると思います。
●実は、自然と呼ばれるもの、
つまり、それの設計が、どこの誰の手によるものかは別として、
少なくとも、私たちが知るところの人間ではない者によって
作られているここの生物、植物、鉱物、またはその集合体の景色などを見るとき、
いくら、五感を研ぎ澄ませて、木々や水や岩や空気を、
見て、聴いて、触って、味わって、嗅いでも、
それで自然を味わったことにはならないですし、
何かそれは、自然の中のごく切り取られた一部を
無理にクローズアップしているような感じです。
●また、たとえば自然を見て、いくら明確にオーラが見えたり、気として感じても、
それもまた、切り取られた一部にすぎず、
それによって、自然というものを、何かの視点からリアルに感じられるとも思いません。
●前にもした話ですが、私は若いころから、あるときまで、
「現実にどう対処すべきか」で相当に悩み続けました。
ただしその現実とは、社会生活とか対人関係のことではなく、
現在、目前に見ている風景、音、温度感覚など、
こうした基本的な感覚の中から、
どれをどう知覚するのが、現実を知覚していることになるのか
ということをずっと考え続けていたからです。
●つまり、現実の捉え方そのものに、何かエラーがないだろうか?
ということです。
ただし、それは霊視によるものが正しいとか、そういう次元の話ではありません。
そうしたものは、単に知覚器官が違うだけであり、
私の求めた答えにはなっていなかったのですから。
●だから、たとえば、知人とどこかに旅行に行ったときに、
人々が、「わあー、綺麗な自然だ」とか、「いい空気だ」とか
そういう感覚が、私にはわかりませんでした。
つまらない、というわけではないのですが、
特定の目的や意志なしに、対象物に関わることに意味を感じませんでしたので、
感覚を習慣にまかせて放置して、それによって何かを感じていること
というのにまったく信用をおいていませんでした。
それに以前にも言いましたが、
自然とか、空気とか、気配とか、そういうのを賞賛したり、
感動したように言っているほとんどの人たちが、
実は、非常に鈍感で、そのような感性があるのではない、
ということも、のちによくわかりました。
それらは、なんとなく、弾みで、口で言っているだけで、
中には感性のある人もたまにいるのですが、
それらの感覚は、何かの記憶と関連付けられて、感動という妄想に
発展していたことがほとんどです。
つまり、よく言われる「あるがまま」には見ていないのです。
●ところが、この「あるがまま」というものは実は存在せず、
いくら禅師や瞑想屋が「あるがまま」といっても、
それは、他の人が注視していない部分に注視しているというだけであり、
知覚が生ずるときには必ず、仕組みというものがあります。
漠然とした、理由もない「あるがままの知覚」や認識など存在しないのです。
それがどれほどに、高度なものであっても、
それは「極度に、抽象化された認識」であったり、
または、「非対象化認識」であったりと、とにかくシステムが介在しているのです。
*********
●話が長くなりましたが、
それで、今朝、ふと、私が朝日の中で見た風景、特に植物のそれは、
奇妙な「親しみ」でした。
だから、冒頭に、この風景、この植生、この植物や昆虫や、動物を、
もしもまたいつか、かなり時間と経験を経てから見たらば、
親しげに、もっと言えば、大切に感じるだろうなと思ったのでした。
●そのとき、自分の中に二つの視点があることを認識しました。
ひとつは、自分の身体や精神も含めて、
作られた側のモノとしての私が見ているその、自然風景。
もうひとつは、それを作り出した者たちの視点。
この二つの「狭間」に立って、この世界を見ると、
特に、被造物を見ると、
作られた側の立場と、作った側の立場の両方が混ざった状態で見るので、
普通に自然風景を見るのとは違う認識が生じているわけです。
別に私が設計したり、私が創造に関与した生物や植物がいる、
などということではありません。
そうした者たちの側の意識が「混ざっている状態」「挟間に立つ」と、
この世界の見え方は、少し、皆さんが思っているような「自然」という様相とは、
だいぶ違ってくるということです。
わかりにくい話でしょうし、私個人の問題なので、
この話はここまでにしておきます。
ただひとつ、私に言えるのは、
地球という環境(特に、物理的環境)と、私たちが五感で感じるそれは、
かなり出来のいいものであり、
現在のこの種族である人間さえ、いなければ、
相当に、素敵な惑星であるということです。
つまり、はっきりいって、
今、私たちが見ている、感じている自然や、生物や、風景といったものは、
この私たちの為に作られたものではなく、
もともとは、別の種族が利用するために、作り出したり運び込んだ
という可能性が高いわけです。
何かしらの「入れ替え」または「事故」
もっと平坦にいえば、無計画な成り行きによって、
現在の、「品種改悪」された人類の手によって、乱暴にいじられることで、
ここまで酷い、滅茶苦茶な状態になったと言えます。
ここの自然を本来は、扱う資格はない、
そういう生き物に、なってしまったというか、させられたというか、
とにかく、カオスです。
計画性などほとんどありません。
計画性ということを言い出す、他の次元の者たちの言うことは
あくまでも、彼らの好みで思い込んだところの計画、ヴィジョンにすぎません。
地球という環境は、人間以外に関しては、
生物を含めて、かなり上出来で、活発な星で、
いわゆるグレイなどは、いくら科学技術が多少あろうが、
生き物、ないしは意識としては、まったくクソ面白くもなく、
不健康で、つまらない奴らだと私は思います。
集団の知識や技術によって維持される、科学によってではなく、
自らの個々の身体そのものを進化させたという意味では、
爬虫類型の生物や、アルファ・ドラコニアンたちのほうが、
ずっと生命力と魅力があります。
私個人は、爬虫類系でもなく、トールホワイトでもなく、長頭系でもなく、
どこの側の種族でもありませんが、美観と健康性という点では、
多様性のある生物のほうに、親近感を感じています。
生物としての魅力、私の個人的な美観という点では、
比較的「突起物」の多い生物のほうが、
のべっとした、抽象化した形状の生物よりも、
ずっと多彩であり、個性があり、健康美を持っていると私には見えます。
●ついでに、もっと「個人的」な話をしておきます。
これはここ数日のメモからの抜粋です。
近 死 体 験
今月に入って、二度目の近死体験をした。
私はこれを臨死体験とは呼ばない。
臨死体験との違いはいつか別記するとして、
この近死体験は、緩慢にやってくる死の「確認」といえる。
ただし病気は一切ない全くの健康体の中でこれは起きる。
どれほどの人が、今までにこれを経験したかは、私は知らない。
臨死体験は山ほど見たり聞いたりするが、近死体験は様相が全く違う。
それは死の予感というのではなくて、
死がすぐそこまでやってきて、
「あと何か思い残したことを確認することはありますか?」
という問いをしているのに酷似している。
たとえば、医師に「死期まであと数日です」と余命を告知された人とも少し違う。
大怪我や病気で病室にいる場合には、
その体調不良という事実のほうが現実として大きいために、
私が今経験している近死体験よりも純度が劣るだろう。
死が近いとか、可能性を示唆されたというのではなくて、
「現物の死」を、「選択するか否かの確認」を、
たった今、目の前でしているかのような臨場感のある体験なのである。
面白いもので、ここまで現実の体調や生活に全く何も問題のない状態において、
ここまで純度の高い「死」がすぐ自分の目前に来るということが、
これが死を想像しているというのではなく、
実感としてその入り口または「契約書」が目前におかれている
という、とても奇妙で、斬新な経験を、私は今している。
身体的に、唯一、いつもと違う感覚は、
横になると背骨全体が振動しているような感覚がすることである。
ほかには、猫の博士君が、ここ数日、ある時間帯になると私から離れない。
「まだ逝かないから大丈夫だよ」とは諭してあるのだが。
一度目と、二度目の近死体験の違うところは、
一度目は意外にも、自分が連れ添ったこの肉体への哀愁があったことだった。
笑ってしまうような話であるが、一度目の近死体験のときには、
地球の食べ物は美味しかったという記憶と、
もう2度とあれが食べられなくなるということに、
若干の躊躇を感じたことだった。
しかし、今回の二度目はそれはなく、
この身体にいるのはこれで終わるという感覚が半分と、
あとは残される物品(遺品)の整理を、連れ(砂手)がする苦労が
少しばかり気にはなった。
近死体験は「死ぬかもしれない」という経験ではない。
また、死んで体を離れる経験でもない。
死ぬ「かもしれない」経験をするときには、
人はその大怪我や病気から来る感覚イベントに注意のほとんどを奪われる。
また臨死体験では、その体験内容のみが拡大されて意識され、
「死」そのものは意識されないのである。
しかし、私が「近死体験」と呼ぶこれにおいては、
まるで「現物の死」を目の前に出されて
「だんな、これ買いますか?」と死神と話をしている「かのような」
場面にたとえることも出来る。
実際にはそれは死神などという物騒なものではなく、
何かの「ご案内」がきたというものなのだが。
「死ぬきっかけになるもの」ではなくて、
ダイレクトに「死」をこれほど「間近に実感」をできる機会は、めったにない。
自分が先日と今朝、経験している事に最も類似する話は、一つだけ覚えがある。
それはラマナ・マハリシが16歳の頃に、
まったく何の前触れもなく、
突然に死の実感が自分を訪れた、という話である。
この私の近死体験は、非常にそれと酷似している。
ただし今回の私のは「自我の死」ではなく「身体の死」であることは、
間違いないと言える。
この経験を、どう喩えたらいいのか難しい。
死を想像しているのでもなく劇化しているのでもない。
目の前にまるで「死そのもののスイッチ」があるかのようで、
それを押せば、身体が、いかに現在健康であり、
どのような災害や事故に見舞われなくとも、
肉体を離れる契約が成立する。
そういうボタンがまさに目の前にあり、
そこに自分が指先を軽く触れている、かのような状態である。
たとえば自殺志願者が自分の首にロープをかけている、
という状態に心理状態として似ているかといえば、全く「否」である。
自分を追い詰めるような要素はなく、思考も穏やかであるので全く違う。
深く平安な状態でありながら、
死の選択が全面的に「自分の意志」に委ねられている、
そういう「不可視のボタン」が、明確にそこにあるのである。
今月に入り、この近死体験は2度目であるが、
ひとつずつ自分の、心残りや躊躇するものはないか、非常に丁寧に確認し、
そして、ひとつずつそれを確認して経験するほどに、
そのつど、その対象物への関心が薄まったり消え去るようである。
これが突然の事故でもなく、病床でもなく、
「全く何の問題もない自分の身体」の中で起きている事が、
大変に興味深いので、今こうして言葉に残しているのである。
この経験をもしも、人生に不満や不服のある人が経験したらば、
どう感じるかはわからない。
嫌な環境にいたり、身体に我慢ならぬ不具合があったり、
自己嫌悪があったらば、早く死がやってこないかと願う人もいるに違いない。
しかし、私個人は、今回の生が、あまりにも充実した人生であったし、
やり残したものという意味での心残りがないためか、
非常に唯物的で面白いのであるが、この人生で、かなり使い込んできた、
「自分の身体」に対しては、
意外にも、まだ少し躊躇がある、というのは、自分としては新発見だった。
ずっと以前に「この手の、世界との離別」の経験をしたことがあるのだが、
そのときには、単なるシミュレーションだった。 つまり本番ではない。
そのときには青い地球を、かなり上空から眺めていた。
おもしろいもので「2度と再びここに戻ることがない」 ということが、
100%の確実な実感としてそこにあると、
心情的には、若干の寂しさをも、人間は感じるものなのである。
繰り返される可能性のあるものには人は、哀愁を感じない。
たとえば、いつかまた行ける土地を去るときには、特段の寂しさはない。
「二度とそれがない」これが「死」の定義に似ている。
なぜならば、
二度目があるのであれば、それは「移動」に過ぎないからである。
●今回の、この近死体験は、「本番」である。
「そのスイッチを押していただければ、
すぐに明日から、この世界での全ての経験はなくなり、
その肉体を使うことも二度となく、終わります。
さて、どうなさいますか?」
ということにすべての自問のテーマが凝縮している。
とても緩慢で静かで、全く健康で、
私の自由意志が尊重されているという点で、
これは、本当に「純度」の高い「死との隣接」といえる。
ノイズが、ほとんどまったくない。
「死ぬ 経過 として現象」ではなくて、
「死そのもの」が、最近、私を来訪するのである。
●実は、この状況は長いスパンでは、予定をしていたものであったことと、
昨年2014年の後半から、私の意識内で始まっていた、ある現象
(病気とか体調不良とかではまったくありません)も関係するのですが、
その話は、また近日中に、別のときに。
今年の春ごろの早いうちに、掲示板で書こうかな、と思いながら、
とうとう、もう10月になってしまいました。
今年の6月ごろからは、
ほとんど、まったく何にも、関心を持つことが出来ないので、
関心をわざと向けてみたりするのですが、長続きしません。
基本的に、誕生する前に予定してきたことは、
昨年の暮れの段階で、すべて終了したからです。
なので、今、何がこの世界との繋がりの必要性として残っているのかを
近死体験を通じて、ゆっくりと、チェックしているところです。
あるいは、新たに意図的に関心を作り出さないかぎりは、
ボタンを押す時が来ると思います。
押してから、どれぐらいして契約が履行されるのかは知りませんけど。
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