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[503]
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★分割自我復元★その503■ メモ書き ■
by:
鈴木崩残
2015/10/02(Fri)18:26:05
ただのメモ書き
今回は、ただのメモです。
*********
最近は、たまにですが、原発事故による汚染について、
多少なりとも産地に注意したり、産地偽装もあるので、
測定結果の見て、現在の傾向を知るように皆さんに言うことがあります。
しかし、そもそも社会情勢であっても、陰謀論であっても、
その他、どんなことであっても、
個々の「現実」とは、限られたものです。
自分の生活に侵略してくるもの、それ以外は、
「現実」として認識されないというのが鉄則です。
自分の衣食住(生死や老病や苦)に直結するまでは、
どんな問題も優先される現実になりません。
たとえば今、自分の子供が死にそうな母親にとっては、
自分のその飢えさも、現実になりません。
人間の問題に限らず宇宙にまで視野を広げても、
知ってどうにか出来る現実「認識」と、
知ってもどうにも出来ない現実「認識」とがある。
しかし知ってもどうにも出来ない現実を、
どうにか出来ないかと考える事が肯定されるように、
知ればどうにか出来る事を放置することも肯定されるのである。
社会的、ないしは倫理的な善悪観念を一切排した上で言うならば
個々の人間性というのは 幼少期から現在まで
「習慣的に」何に対して関心があるか
または関心を向けさせられているか
という事によって個々の現実が形成され
その中で優先的に重視される現実は
分、日、月、年 単位で変化し続けるものである。
まだ幼い子供から、臨死にある老人に至るまで
人生で非常に「難問」であるのは、
無数とも言える自己の中に生じている
「自分の事だから知っているさ」と、思い込んでいる現実と
無数の他者に生じていることを「知っているだけ」の知識の中から
どの現実を優先的に認識する事が
自分にとって意味があるのかという事である。
個人の習慣(意識的な意志によるよりも習慣性が支配している)で
相当の量の関心を向けている事象であっても
予期せぬ大怪我や病気や災害被害で いとも簡単に吹っ飛んでしまう事がたまにある一方で
全く優先順位ではないと頭で自覚している問題に対しても
習慣的に関心を向けてしまう傾向があるものだ。
家庭、学校、社会、このいずれの場でも、
衣食住を緩慢に奪ったり制限することによる恐怖を植えつけることで
成立していた教育(調教)が、
行き過ぎると 褒めたり伸ばそうとするのであるが、
何の為かというと、やはりそれも親の持つ恐怖に起因している事が多い。
個々にとって「何を現実とするか」という「優先順位」というのは難問である。
森林を一日数十円で切って生活する人達は、
自然保護団体から罵声を浴びても、それをしないと生きてゆけない。
どの視点からの、どういう判断が、全世界に利するかという事と
個人にとっての切迫問題は一致しない事が多い。
人が自分の一日を振り返る時に、
その日に量的に多く、考えた事、持った感情や経験した事の集計を取ると、
それがその個人にとっての一日の「現実」となるとも言える。
「社会的(ないしは環境的)整備」という意味では、
自然環境のまま、
またはシステムによって、
一生誰もが全く衣食住と医療サービスに困窮しない事が実現できると
犯罪、子供のトラウマ問題、夫婦の離婚問題の大半が解決するのは予測できる。
すると残るのは、あるいは始まるのは、
「そもそも、なぜ生きているか」という「意味の捏造作業」である。
ところで、
あなたがもしも時事ニュース番組を全く自由に作れるとする。
実際やろうと思えばYoutubeで出来るのであるが。
これを1億人が個々に作ったらば、
個人によりクローズアップしたい問題は異なっている。
その中で「数」として多くの人がテーマにするものが
俗にいう「世論」となるだけのことである。
メディアは、とても限られたものなので何も知る事が出来ないとして
この世界には大書店にある書籍の数ほどの、
世界中のそれぞれの価値観や現実の種類がある上に
それをはるかに上回る、一人一人の現実がこの一瞬一瞬に生じている。
いわゆる社会と、漠然と言っているものは、そのうちから
「どの共通条件には同意するか否か」が作り上げる総体である。
どこかの世界や地域が、相対的に他と比べて、
より自由かそうでないかという定義は、
とても大雑把に言ってしまえば、
ルールが少ないほど健全で自由に育つ事になり
ルールが増えるほど問題と恐怖を抱えていることになる。
これは家庭、夫婦間、村、学校、社会、地球、宇宙のどこでも同じであろう。
だから私は、行き過ぎた規制には同意できない。
人類を、もしも、
精神や、心理や、神秘主義的な視点ではなく、
あえて社会学的に、その是非を見ようとする場合は
その国家または地球全体の「法律史」を調べると良いかもしれない。
なぜならば法律や規則とは
「何をしてはいけない。それをしたらこうして罰するぞ」
という事の集大成だからである。
法学というのが、
その民族や種族が作り出した「鞭の歴史」であるとすると
一方で「飴の歴史」つまり
「何をすると、どういう快適さが与えられる」という歴史があると思いきや
実はそのほとんどは「鞭の裏返し」であるものだ。
それは「何かをしないと与えられない」という「罰」の一種だったりするのである。
「ルール」と、それを破った時の「罰」と、
何かをしないと「得られない」という「罰」。
人が最初にして最大の、この「罰への恐れ」を埋め込まれるのが
幼少期に、両親または家族からされる「ルールと罰」である。
しかしこの病理は、
社会と個々の家庭の両方が同時進行したので 発端の原因の特定が難しい。
ところで、
子供を褒める時に「理由」があったら駄目だね。
たとえば、あなたの子供が動物に優しくするの見て
「偉いねー」というのは大間違い。
この「偉いねー」と「お利口さんだね」は
大人や親が子供に絶対に言ってはならないことである。
そうでないと、
「偉い」とか「お利口」と言われることを
子供が目的にしてしまうからである。
そうではなくて、
子供がそうやって 「楽しそうにしている事」こそを褒めてやらないと。
これは、まかり間違うと子供は生物を虐待しかねないが
それは時間をかけて親が説明すればいいだけのこと。
簡単に言うと、
大人の事情で、子供を褒めたり、叱ったりするなということ。
喧嘩も、多少の暴力も子供同士(10歳以下なら)でやらせておけばいい。
幸いにして凶器や危険物を手にしないかぎりは子供の力は限られる。
だからこそ取っ組み合いは、子供の時だけは出来るし、やっても良いただろう。
とにかく、5歳か6歳までが勝負である。
この時期の子供の「喜怒哀楽」を一切妨害しないかどうかだけが
親としての責務である。
子供のしたいように自由に、
泣かせ、笑わせ、怒らせ、悲しませ、楽しませる。
そこで、僅かでも親からの叱りや恫喝を気にして、
その時期の子供が、自分で喜怒哀楽を封じたら、その傷は一生残る。
今回のメモは 個々にとっての現実とは何かというテーマから
最後は子供の事に話が回帰したが、
究極的に言えば、
現実とは 今この瞬間に認識されている事以外にはないのだが、
人間は自分の関心によって記憶された事の、
ある時間的な範囲内の「総体」をもってして「現実」と呼ぶ事が多い。
つまり意識にとっての現実と、思考や記憶にとっての現実と
感情や身体にとっての現実とは違う。
幼い子供にとっては、家庭内、
特に両親、兄弟が、 その子供の意識の「現実」の、ほぼすべてとなる。
いくつかの外界の自然との接触や、
自分の身体の異変の感覚以外には、
子供にとっては親こそが現実世界のすべてになる。
そのことの意味と、恐ろしさと、責任は計り知れない。
よく世間では
「18歳とか20歳ぐらいになったら
それまで家庭で何があろうが、何をされようが
あとは子供自身の問題だ。社会で立ち直ればいい」
などと無責任なことを言う親たちがいる。
だが5歳の時に親の仕打ちにつまづいて、
今も立ち直れないままの人や、
そのまま老いて死んだ人を、私は沢山知っている。
*********
続くかどうか不明
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