▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[510]
■
★分割自我復元★その510■ 「生きているとは?」 ■
by:
鈴木崩残
2015/10/09(Fri)22:09:40
生きている状態とは?
今回は、日記のようなものです。
この雲は数日前のものです。少し変ですね。
これは今回の話には関係ありません。
●少し遠くまで、自転車で買い物に行ったときのことです。
突然に、「生きている」というのは「どういう状態なのだろう」、
という疑問が、私を捕らえました。
自転車に乗ったまま、私は「生きている状態とは何か?」を問い続けました。
それは知的な疑問ではなく、極めて実存的な問いでした。
言葉で答えを見出そうとするのではなく、
今、自転車に乗っている自分の、生きているという状態とは何か?
この問いの中にいました。
この場合の「生きている」とは、
単に「意識がある」という事とは違います。
そうではなく、肉体を持って(持った感覚を意識しながら)生きている、
「この感覚は何か?」というものでした。
●分かりにくいかもしれませんが、
もしも自分が死んで、死後に、
「生きているというのは、どういう状態でしたか?」と誰かに質問されたら、
私はどう答えるのだろうと、自問してみたのです。
すると、私にとって、最もリアリティーがあったのは、
「生きている」とは、
1/息をしていること。
2/体重(重力)を感じていること。
まず、この二つでした。
生きているという感覚とは、
息をしている感覚と、体を感じる原因の重力です。
まず、これ以外の答えを見つけることが出来ませんでした。
もしも非言語コミュニケーションによって、
肉体を持たない存在に、肉体で生きるということを伝えるには、
まず、呼吸、そして重力感覚について伝えることになると思ったのです。
3/摂食と排便
これもおそらくは、生きているということの重要な一部でしょうし、
寒暖の感覚も、そうでしょう。
しかし、食べたり、排便したり、寒暖差を感じるのは、常にではありません。
一方で、体の重さや、運動感覚を感じることと、
息をしていることは、この毎瞬の中に、ずっとあり続けます。
常に感覚があるもの、
その中に、生きているということはどういう感覚のことか、
その答えがありました。
●では、これ以外のことは、生きていること、
または、生きたことの説明になるのだろうかと考えてみました。
私には、人間関係、おしゃべり、文明、芸術、労働、記憶、
そうしたものが、瑣末なものに思えたのです。
もしも死んで、自分が経験したことを誰かに「説明」するとしたら、
多くの人たちは、
沢山の人間に固有の、感情や、考えたこと、
そして、自分が何をしたかなどを、雄弁に説明するかもしれません。
しかし今日感じたのは、
私にはそういうことは本当に瑣末なことで、
「生きているとは何か?」「どういう状態であるか」の最も単純な答えは、
「呼吸をしていて、重力を感じていること」
ただそのことに、すべては集約されると思ったのです。
●そう実感したとき、
もしも、地球のような惑星を1から作り直せるとしたら、
私はどうしたいのかを想像してみました。
すると、現在あるような科学も、文明も、便利さも、何も必要ないと思いました。
人間ないしは、動物の肉体がそこにあれば、
ただ、息をして、重力を感じる、このことを生きている実感の基礎として、
あとは、動いて、食べて、排泄して、休んで、眠る。
たったこれだけの中に、肉体に生きていることの全部があり、
これ以外の、精神的探求やら、宇宙の探索やら、何が正しいだの、
そんな瑣末なことは、どうでもいいことだったという事を
深く感じました。
理想的には、居住区に自分の食べるものは野生の中に沢山あり、
ただ、それだけで十分に「生きている」ということの本質があると感じました。
●それに比べると、宇宙船を作ったり、フリーエネルギーを発見したり、
相互依存社会という文明を作る社会に住む生物というものが、
ひどく、悩ましいもの、必要のないもの、葛藤の大きなもの、
そして、何よりも、不安や、不満や、恐れ、あるいは退屈、
そうしたものを回避しようとして、
他の沢山の星の人たちも、社会を形成したり、価値観を作り出したり
宇宙像を自分たちなりに作り出したものと思われます。
●しかし、本当の意味での進化、または高度さというものがあり得るとしたら、
それは、肉体においては、生まれた惑星を出ることなく、
もしも何かを知りたいのであれば、
意識を向けるによって、どこの世界の事でも知覚すること出来て、
もしもどこかへ行きたいのであれば、肉体そのものを自分の意志だけで転送する、
つまり、機械を使わないで、自分の心身でそれをすることが出来れば、
それが、本当の意味での個体の進化だと思いました。
●さて、話は少し変わります。
買い物をすませて、帰路についたとき、あることに気づいて、
ふと、私は自転車を止めました。
それは、今日、出かけたところは、「たまに行く」ところなので
何度かは通っている道でした。
しかし、「あまり通らない道」というのは、
自分の視野、視界のフォーカスが、非常に大雑把で、広く分散している
ということに気づきました。
分かりやすくいいますと、風景の全体を、わりと漠然と見ているのです。
●ところが、ある交差点に来た直後から、
文字通り「私の世界」は、がらりと変わりました。
それは、たまにしか通らない道から、
「いつも通る道」に自転車が移動した瞬間でした。
そのとたんに、
それまで「たまにしか通らない、広い視界で見ている道」だったものが、
いきなり「慣れ親しんだ自分の知っている道」になった瞬間に、
何かの「密度」が極端に変わったのでした。
●それが何かが分かったのは、さらに帰路を進み、
自分の家の敷地に入った瞬間でした。
自分の視界が、極度に細かいものを認識し始めるのです。
つまり、
人は、知らない土地や風景は、そこで無事に生きるためには、
「全体」をまず捉えないとならないので、
視界は広がり、その分、ディテールの捕らえ方は甘くなります。
しかし、より自分が何度も見ている風景、
つまりは、「慣れ親しんだ現実」の濃度が濃くなるに従い、
視界のフォーカスは、より細部を見るようになるということです。
おそらく、私の家の敷地内をはじめて見た人の目には、
なんとなくそこに家があるとしか見えないと思います。
しかしそこに住んでいる私、
その景気の映像を見慣れている私の目には、
そこに落ちている葉っぱや、細かいものがよく見えます。
●これが意味するところは、
非常によく知っている場所、
たとえば自室。
家の周辺。
家の周辺の道。
家から遠くにある道。
たまに行ったことのある所。
全く初めての所。
このどこにいるかによって、
「現実の密度そのもの」がガラリと変わるのです。
皆さんも、自宅で、自分のいつも座っているところにいるときほど、
物の細部まで見ることが自然に出来ることはないと思います。
いったん、外へ出ると、
たとえば、ごく近くのコンビニに出かけてさえも、
その、慣れ親しんでいる自室の中にあったときの集中力、意識の明確さが、
自分の場所から遠くへ行くほどに、フォーカスが変わってゆくと思います。
自分知らないところ、知らない対象部に対しては、
自分がどういう所にいるかを、まず認識しなければならないので、
広がった視界で漠然と全体を見るようになり、
知っているところ、知っている対象物に対しては、
どこに何があるのかという状況はすでに知っているので、
そこでは全体を見る必要がないために、
集束するような視界で細かい部分を見るようになります。
●人が「落ち着く」または「落ち着ける」というのは、
自分が常に、よく知っているもの、
慣れているものに、意識が結びついている場合です。
その慣れの濃度と、安心感は比例します。
見知らぬ土地に行っても、その安心感や意識の濃度、視界がかわらず
細かい部分に集中できるとしたら、
その人は、常に何かの同じ思考法でものを見て、考え、解釈しているか
または、常に同じ身体感覚に集中しているか、のどちらかになります。
●つまり、人間または生物の知覚は、
「より既知」であるものを見ているときには、
既知のものには無関心でいられるために、
安心して自分の視点を集中できるが、
「より未知」であるものを見ているときには、
不安になったり視界が拡散する、
ということのようであり、
これもまた、「生きている状態とは何か」のひとつの側面だと感じました。
●安心というのは、
「特段に、注目してなくて良いこと」
つまりは、真の意味での無関心に非常に似た側面があります。
しかし、人々がよくいう無関心とは、
単なる盲目または眠り込み、
ないしは、思考だらけに占領されたままの無意識性です。
またはわざと無関心にすることによって逃避するわけですが
その場合には、結局は関心を持たされています。
しかし、関心が、無駄に動かないということは、
ある種の、安心と同質であるのです。
そのことこそ、「関心地図」が教えてくれるものなのです。
●なぜ、私が、トラウマを掘り、
AC人格を知り尽くしなさいと言うのかの理由もここにあります。
人間は、自由自在に関心を持っているのではなく、
自由なふりは出来ても、対人関係や社会において、家庭において、
自由にしていると思っているのは本人だけであり、
自動的に、無自覚に、特定のことに関心を持っています。
常に「そればかり」に関心がある、というものがあるのです。
特にAC人格の場合には、
「どこかに、上から目線で、小ばかに出来る相手はいないか」
「どこかに、自分の出番のあるところはないか」
「どこかに、偉そうにできるところはないか」
「どこかに、自分を認めてくれるところはないか」
「この相手は敵なのか、味方なのか」
「この相手は、自分を傷つけるのか、やさしくしてくるのか」
「仲間に入れるのか、嫌われるのか」
「自分は焦っていないように、他人から見えるようにしているはずだ」
など、
すべてこうしたことを、多くの人は、自動的に考えてしまっています。
気にしていないようなフリをしていられているだけで、
何に関心があるのかは、一目瞭然です。
それは、異性に下心のある人間にも似ています。
その人たちの関心のあることや、
警戒したり、または自分が仲間に入れそうだと判断することの
その対象物は違いますが、
常に、自分でもよく分かっていない衝動によって、
その人たちの関心は「固定」されています。
●それが、自らの意識の光に晒されて、そのAC人格の実態が暴露されると、
それにより「無意識のうちに習慣化していた、自分の関心」は、
一体、本当は、何に対してであったのか?
そして、どうして、そのようなことに、
無意識のうちに自分が関心を持ちつづけてきたのか?
その答えの多くが、
トラウマ由来であり、それ故の寂しさの感情であったりします。
その「自分の関心が、無自覚的な関心によって支配されていること」
これは当然に、その、すべての大元になる関心がそうなのですから、
「自分の思考すること」も、すべてパターン化してゆきます。
自由そうなふりを一生懸命に演じているだけで、
常に、同じ顔つきをして、
常に、同じことしか言わず、
常に、同じようにしか他人を判断できず、
常に、世界を同じようにしか見られず、
常に、同じ動機で行動している。
こうしたことから開放されて、
親が間接的にあなたに「植え付けた関心」の方向ではなく、
本当に、自由な関心が、開放されるためには、
トラウマとAC人格から「開放される」ことが絶対的に必要なのです。
だからこそ、トラウマやAC人格を持ったままでは、
暴走する思考をとめることも出来ず、
出来ても息を止めるかのような、
わずかな時間だけの、無理やりの思考の停止しか出来ず、
それも、他人から馬鹿にされたり、じゃけにされれば、
あっという間に、関心が動き、
関心が不動のふりをしても、
ちょっと、誰かに好かれたと思い込んだり、他人に、おだてられれば、
あっというまに、ニタニタと浮き足立って、
その人の関心が一気にある方向に吹っ飛んで行ってしまうわけです。
●だから、自分の関心は、何に常に固定されているのか、
なぜ、いつから、どうしてそうなったのか、というトラウマを知り尽くして、
自分の中に、無自覚的な関心などないように網羅して、把握しないかぎりは、
「精密な 関心地図」の作業は、出来ないのです。
_____________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(510 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -