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★分割自我復元★その513●座るということ●
by:
鈴木崩残
2015/10/16(Fri)05:16:23
座るということ
●この「座る」という言葉は非常に誤解を招きやすい。
誤解というよりは皆さんが「妄想」に陥りやすいのである。
たとえば「静かに座る」と書けば、今までに静かに座ったことのある
イメージまたは、そういう理想を皆さんは妄想してしまう。
「ただ座る」ということを書けば、どこかの本に書いてあった言葉だ、
だから何か意味があると、すぐに妄想を始める。
瞑想ごっこや、座禅ごっこをしてきた者は、特に妄想をしやすく、
また、瞑想や座禅を小馬鹿にしてきた者は、さらに妄想に落ちてゆく。
●「座る」ということの最大の意味は、何かの理想的な状態を
妄想することでは決してなく、
いかにその理想的と妄想している状態から自分がかけ離れているか、
さらに言えば、自分がいかに狂っているかを、
人生の中で、ちら見するのではなく、完全に断定するに至る
ここにのみ座るということの意味がある。
一日の間、または一日の最後に、眠る前に、
「座って自分の中を見る」、このことをしている人を
私はほとんど見たことがありません。
ぼけーっと座っているのではなく、ちゃんと座っている人のことです。
今、これをできているのは、おそらくは、
関心地図を必死にやっている人たちだけです。
*********
その話の前に、岡本太郎の言葉に、こんな言葉があります。
【生まれてきたから、しかたなく(なんとかなく)生きている。
そんな生ならば、生きている意味などない】
あくまでも「意訳」であるが、こういう言葉である。
すると、とたんに皆さんのAC人格は、
「俺は、私は、なんとなくでなくて、しかたなくでなくて、
自分の目的を持って生きているんだ」
といい始めます。
「自分は、あれをしている、それをしている、これをしてきた。
自分は、あれを考えている、これを考えている」と、
「自分は、目的なく、しかたなく生きているんじゃない」
という言い訳や、主張をおっぱじめます。
●一方で、「意味や目的なんかないさ」と斜に構えた態度で
知ったような事をほざいて、へらへらしている者も、
「自分はそういうことに囚われていない。
いっぽう、お前らは頭が自由じゃない」
というAC人格の目的を生きていることを、
簡単に暴露してしまうことを言ってしまっています。
●では、真の意味で「なんとなく」や「しかたなく」ではなく
生きている、とはどういう状態であるのか?
それを知るには、自分の狂いっぷりを直視するためにこそ、
「座る」ということから最初の起点にしないとなりません。
すべての、まともな探求は、そこから始まるのであって、
それ以外のどんな、技法や、教えや、道からでもありません。
毎日必ず15分以上座る
●おそらくこれをしているのは、関心地図を毎日している人だけです。
すでに書いたように「座る」ということは、
ある目的を実現したり、維持したり、静かなふりをしたり、
または何かにじっと集中することでもありませんし、
「俺様はただ座っていて、あるがままだ」、
などと自己暗示に浸ることでもありません。
「座る」とは、
自分の頭の「狂いっぷり」に直面することです。
●では、それがどれぐらい狂ったものであるのか、
それを知るには、まず皆さんは、真っ暗ではなくて良いので、
部屋の明かりを落として、「目を閉じて」ください。
そして、まず、そうやってじっとしていることです。
そもそも、たった15分の、こんなことすらもしない人が大半です。
瞑想や座禅をしている人たちは、そこに余計なものを持ち込みますから
私が定義するところの「座っている」ということになりません。
●座れば、まず最初に、起きることはただひとつです。
>「全くどこにも行き着かない、無意味な思考の去来」
これのみです。
そうではない、そんなことは思考していないと言い張るならば、
やってみれば良いのです。
あなたの頭の中を去来する思考の大半は、
1/「今、それを考える必要が本当にあるのか?」
と呆れるほどの脈絡のない事をあなたは思考してしまっているはずです。
2/次に、何かの言葉、または文節が、ふと浮かんだ
たったそれだけのことで、その言葉からの「連想」へと陥ります。
3/あなたが思考してしまう内容というものは、主に、
>> ・その日に行ったり考えたことの中で、関わった回数の多いものの思考や
>> ・短い時間だったが、楽しかったり、逆に不快だったりした結果、
>> 印象の強かったものの思考や
>> ・たまたま、ついさっきまで考えたり、やっていた事が継続しての思考や
>> ・性妄想をはじめとする、その他の願望妄想の思考。
こうしたものがほとんどのはずです。
AC人格の場合には、ここにさらに、
>>4/・自分が他人から馬鹿にされた出来事に関する妄想
>> ・自分が他人を馬鹿にした出来事に関する妄想
>> ・他人への恨み、悔しさの妄想
これを、いつまでも連想し続けています。
>>5/そして、自分の精神状態は、正しいのか、違うのか、
>> いやこれでいいはずだ、いやどこか違う、いやそんなはずはない、
と、「状態確認の思考」に陥っていることがほとんどです。
●もしもこの事実を否定したいのであれば、
>薄暗い部屋に、じっと座って、
>自分の頭は、何を勝手に思い出してしまい、どんな連想が去来しているのか?
>それを、ただ見ればいいのです。
●しかるに、多くの人たちは、
常に何か考えたり、やり続けていないと、落ち着きなくなり、
テレビをつけたり、ラジオをつけたり、
もっとも、愚かしいのは、ただの暇つぶしのために、
ネットや、スマートフォンにかじりついていたりです。
また読書もそうです。
また、何かのために論理的に物事を考えているという状態も
この「座る」という「意味」だけの基準でいえば、
全く、ほめられたものではありません。
●じっと座って、自分の頭の中は、
自分のコントロール外のところで、どんな思考内容に占領されているのか、
その去来する内容の、くだらなさと、カオスと、無価値さに直面したくない、
それが人類の99%以上の人たちが、
一日の終わりに「座らない」理由です。
●座るということは、落ち着きを実現したり、
何かの能力や、無心とかの精神状態を作り出すためではなく、
「自分の頭の連想、雑念、妄想は、どうかしている。イカれている」
その事実をまず直視することが最大の起点となります。
●だから、何かの理想的な精神状態を自分は作り出せるんだという
妄想をするためや、
あるいは、座れば、何か知ったり分かったり、体験できるから、
分かったら、それをネットで他人に自慢してやろう、といった
早く死んだほうがいいような人たちが持つような「腐った動機」など、
こうした不純な動機を一切持ち込まないことが絶対条件です。
●座って、目を閉じて、
自分の頭の中で何が始まるか、それをまず見ることです。
ここを「出発点」にしないと、
あなたが「何について」考えようが、
「何をできる」ようになろうが、
「どんな能力」を獲得しようが、
「何の分野への関心」を持っていようが、
全くもってして、それらは「最初の一歩から狂ったまま始まった事」となり、
「生まれたから、したかなく生きている」
「習慣で、なんとなく生きている」
「なりゆきで、生きている」
「ただの連想によって生きている」
という状態のままとなり、
自分が生きているには、
「なんとなく意味があるのだろう」、と思ったまま、
「またはなんとなく意味がないのだろう」、と思ったまま、
そのように全てを「なんとなく」習慣的に妄想したままで、生きて死ぬ、
ということになります。
*********
●一方で、関心地図をしている人の状態とは、
「自分がたった今、何を思考しているかに、
あとからではなく、今、その瞬間に気づくこと。」
「自分がたった今、何を思考しそうになるきっかけとして
どこに関心が向いたか、それをその瞬間に気づくこと」
ここに、はっとして、自分を思い出すまで、
延々と、連想から連想へ暴走している普通の人たちの状態との違いがあります。
●くれぐれも言いますが、
何も意識していないようなボケた状態になって、
それでいいんだと思い込むことでもなく、
むろん眠りこけることでもなく、
何かのイメージを固定することでもなく、
呼吸を数えたり、経文を唱えてごまかすことでもありません。
重要なのは、
もっとも狂ったもの、
狂っているとしか思えないような、日常会話や、
狂っているとしか思えないような、あなた自身の頭の中に沸く、
何の生産性もないような、妄想や連想、
これに全力で監視の目を向け、
しかも「後から気づくのではなく」
今この瞬間に、向けること。
この密度の高い15分以上の「座る」行為。
これを私は関心地図と名づけ、
特に、トラウマ掘りと、自我復元の進んだ人たちには、推奨しています。
●そして、この作業をさらに推進するのが、
「脳の中に、自己意識の中心を探し、中心に休む」というメソッドです。
トラウマやAC人格の分析や解除というものは、
その中心へと「向かう」ためのものであり、
また真逆のベクトルから言えば、
本来、本当の掘る力は、「その中心部から出てくる」ものなのです。
●「中心からAC人格を見ればいいんだ」、とか、
「いや、AC人格を掘るのが優先だ」、とか、
そうした「やりやすいように単純化」をしようとするのが
まさにAC人格です。
ですから、
どちらか一方から、向かえばいいというのではなく、
2つの極の「双方」から攻めるのが、
常に「正しい(効果のある)方法」の道なのです。
トラウマまみれのAC人格は、常に
二つのものを示されたら、どちらか一方しか選ぼうとしません。
それは毒親が、めんどうだから、子供に対して、
「早く、どっちかに決めなさい」と命令をしたせいです。
しかし、このことを、和尚は、
「エゴは、どっちかしか選べない」と言ったはず。
しかし、第三の道が本来の道です。
それは 「ポ」 です。
YesでもNOでもないこと。
ただし今回の文脈の中では、
「どっちも やる(OK)」 ということです。
だからといって、
物事を「どっちでもなく、あいまいにしたまま」にしたり、
欲しい二つのものを「どっちも欲しがっていいんだ」というのは
それは言葉の「悪用」です。
●二つのもの、二つの道、二つの「方向性」の違いを、
この上もなく明確にしたうえで、
なおかつ、どちらも重視するということです。
そうやっていると言い張ったり、
そうやっている気になるだけではなく、
「本当にそうする」のは、普通の意識状態では、不可能なのです。
*********
・自我復元の作業(呼びかけ/回収/胸で整形し脳に回す)
・幼少期の記憶掘り
・トラウマ掘り
・AC人格の羅列
・関心地図
・中心に戻る
(胸で整形して脳に送る部分が、この「前段階」になってます)
・日記
どれも、おろそかにせずに、頑張ってください。
決して、これらのひとつたりとも、
生きたという事において、無駄にはなりません。
●これらをすることによって、
何を自分は獲得できるのか、何を自分は獲得できたか、
それを求めるのは間違いです。
これらを「する中」それをしている「最中で」、
それまで死んだような人生を引きずっていた、あなたが、
自我復元と前述の自己に向き合う作業の中で、
生きていた、あるいは生きた、ということそのものが
強烈な現実として記憶されるならば、
そこにこそ、地球で生きて、自我復元をした価値があります。
自我復元と、
・幼少期の記憶掘り
・トラウマ掘り
・AC人格の羅列
・関心地図
・中心に戻る
・日記
これがもたらす「成果」を期待するよりも、
これらの「作業自体の中」で、既に、輝きを放つ人たちがいる、
ということを見てください。
試合に出てどういう成績を残せるか、ではなくて、
その「練習の中」で、もう既に、輝いている人たちです。
だから、その人たちは、口を揃えていいます。
「むろん、しんどい。だけど生きていて 自我復元が楽しい」
Abyさんも、朱いはがねさんも、基幹房さんも、その他数名も、
かつては、
「つまらない人間に思われたくない」
ということに努力と時間とお金を使い、
その結果、「つまらない人間」になっていたと思います。
しかし、どれだけ自分が「つまらない人間になり下がっていたか」
ということを、(分かったふりではなく)本当に直視しはじめた瞬間から、
その人たちは、「つまらなくない人間」となっていったのですから。
この世で、唯一、つまらなくない人間とは、
何かの「研究者」や「達成者」や「能力者」ではなく、
「自己探求者」です。
その探求対象には、自分以外の物体や道具も必要なく、
地域的な伝統や、社会や、宗教や、他人から教えられた理念も理想も、
全く何ひとつも必要ありません。
あなたの、主に、意識、思考、記憶、感情、
それだけが自己探求する対象です。
*********
●そして、その生き方の中では、断じて「ふり」をしないことである。
そもそも
「知っている ふり」
「わかっている ふり」
「理解した ふり」
「出来ている ふり」
「知らない ふり」
「なんとも感じていない ふり」
一体、これらは、あなたが「誰に対して」行使したものなのですか?
すべて、「親」に対してです。
これらの「ふり=嘘」によってその場を凌いできた相手は、
まず「あなたの親」、次にあなたの「友達」、
そして次に「伴侶や家族」、そして「職場の人間」に対してです。
こんなものは、全部「他者」の都合に合わせたり、
他者からの攻撃を受けて不快にならないための「ふり」じゃないですか?
そんなものが、
相手が「自己しかいない自己探求」で、
通用するとでも思っているのでしょうか?
それらが通用するのは、
誠実さのかけらもない他人に対してだけです。
自分に対しては、いかなる「ふり」も通用しません。
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