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★分割自我復元★その517●家に帰ったブリジット●
by:
鈴木崩残
2015/10/25(Sun)15:33:30
>投稿の最後に、もう一本、ブリジットの動画と頂いたメールを追加しました。
家に帰ったブリジット
●出来るだけ、短く書きますが、少し長い話になるかもしれません。
10/25、昨日日曜日の朝、裏庭で、作業をしていたところ
ブリジットの飼い主さんが、やってきて、
「実は、昨日、ブリジットが死にました」と言いました。
私は思わず「なんでー!」と叫んでしまいました。
そして砂手を呼び起こして、二人で飼い主さんの家に向かいました。
徒歩の途中で飼い主さんから聞いた話では、
昼ごろに、車に撥ねられたらしく、ご自宅の前に倒れていたのを
近所の方が、知らせてくれたそうです。
その時には、息絶えてはいたものの、まだ暖かかったらしいです。
昼ごろといえば、私もちょくちょく裏庭に出ていて、
ブリジットとも会っていました。
日差しが強かったので、傘を置いたところ、その傘の影で座っていたのを
通りがかった親子連れが見て「あれ見て、猫だ。かわいい!」
と言っていたのを覚えています。
おそらくブリジットはそのあと、数十分後に、
私が外に居ないときに、撥ねられたのだと思います。
●10/24の土曜日の昼に事故に遇い、翌日の日曜日にご前中に
飼い主の方の家に伺いました。
そこにいたのは、とても静かで、少しにっこりした顔にすら見えた、
ブリジットの遺体でした。
飼い主さんも、砂手も、目を腫らしていました。
私はブリジットに触れましたが、気のせいではなく、
まる一日が経とうというのに、暖かさすらも少し感じたので、
「戻って来ない?、あ、でも戻ってきたら体が、痛いよね。
かえって大変だよね」と語りかけました。
本当にいろんな人に可愛がられた猫でした。
●私が、人間の死でも、他の生物の死でも、いつも気にかかるのは、
死ぬときに、苦しくなかったかどうかでした。
飼い主さんの話によれば、近所の人が知らせてくれたときには
もう息が無かったということなのですが、実際は即死だったのかどうかは
分かりませんでした。
しかし、ブリジットの姿は、体のどこかに外傷らしきものがなく、
道路には血痕も全くなく、本当にただ静かに、そして、
最後まで「美しいまま」の姿でした。
事故にあった動物というのは、本当に悲惨な状態になることも多いのは
知ってのとおりです。
公道ですと、跳ねられたときには、まだ形を保っていても、
後続車に、ひかれて、頭や体の一部がつぶれてしまっていたり、
沢山の血が流れていたりすることも多いです。
しかしブリジットは、本当にほとんど何も変わらない姿でした。
飼い主さんが、「おなかの横が腫れているので、ここが当たったのだと思います」
と言われたので、触れてみると、確かに腫れがありました。
あとは、少しだけですが鼻から血が漏れていました。
でも、本当に、最後まで、自尊心があり、凛々しいままで、
その遺体も、美しいままに他界しました。
飼い主さんと私たちがブリジットの思い出について話していたところ、
あれ?と思いました。
ぷーっと、「鼻ちょうちん」か膨らんだのです。
まるで息をしたかのようだったので、飼い主さんも、
「あれ」っとしたお顔をしていました。
下記の右の写真です。
●おそらくは肺や気道などが、死後に時間も経っているので、
縮んだりしてそれで鼻から空気が押し出されたためか、
あるいは私たちが撫でたので、少し圧力がかかったのかもしれません。
それにしても、最後まで、「お茶目」な子ですね。
私たちへの最後の挨拶が、「鼻ちょうちん」なのですから。
******
●このような死というのは、皆さんにとっては、全くの他人事であることは
言うまでもありません。
たとえば、皆さんの知人や、近所の人が、そこのご家族や、動物が
死んだと聞いても、残された人とその他界した相手との関係にも大きく関係しますが、
悲しいだろうと、推察することしか出来ませんし、
社交辞令的に、声をかける以外に出来ることはありません。
誰にとってもそうですが、
他者の死は、当事者以外の人には、全く実感のないこと、
関係のないことだからです。
これは良し悪しではなく、私が常に言うように、
個々の現実感覚とはそういうものですから、当然のことです。
●むろん、眼を真っ赤にしておられる飼い主さんの悲しさと寂しさ、
そしてブリジットが大好きだった、砂手にとっては、
自分の一番親しい友人、親友が他界したほどのショックがあったと思います。
私も本当に沢山の思い出が、2009年から、7年間にわたって、
ブリジットとの間にあります。
アップした手裏剣の稽古の動画にも、一時は随所にブリジットが
登場していました。
ある時から、ブリジットが、他所の猫とのケンカでやられてからは、
半野良から、部屋猫に昇格し、以後は安全な室内で、
飼い主さんに、思いっきり、可愛がられてきました。
家猫になったので、前のように、頻繁にではなく、
たまに、少しの時間だけ外に出るという生活をここ数年、
ブリジットは送っていました。
来ないとなったら1ヶ月以上、全くうちの裏庭に来ないこともありましたので、
いささか寂しかったのですが、
今年に入ってから、特に、ここ2ヶ月は、
滞在時間はたった数分なのですが、土日になるとわりと会いに来てくれていました。
会いにきてくれるわりには、けっこう、つれないところがあり、
あからさまには甘えないのですが、それとなく気を使ったり、
分かりにくい形で、ちょっとだけ甘えるので、
基本的には、ツンデレな子でした。
●その昼ごろに、斎場でブリジットの火葬があるというので、
私と砂手は、ブリジットに別れを言って去り、
斎場へはご一緒には行きませんでした。
*********
家に戻った私は、いつもブリジットがやってきた、家の裏に立って、
紅葉の始まった木々を眺めていました。
地面には、枯葉が落ちています。
そして、思いました。
たった今、世界中で、沢山の人、沢山の生物が
今、この瞬間にも死んでいる。
それは、この地面の枯葉のようなもの。
またその数も、ここに落ちている枯葉ほどの数に違いない。
私たち人間も、他の生物や、昆虫も、
等しく、皆、この枯葉のようなものかもしれない、そう感じました。
つまり、
その死の中には、人であっても、他の生物であっても、
誰も、何一つも特別視しない、この枯葉のような死も沢山ある。
本当に誰もその死を何とも思わず、枯葉のように踏み潰すだけの死もある。
それが悪いというのではなくて、事実としてです。
それほどに、生きているものは、この枯葉と等しく、
誰かがそこに、価値や、意味や、親近感や、愛着を持たないのであれば、
死とは、ただの死である、という事実の一面である。
しかし、中には、もしかすると、この沢山の人や生き物の死を象徴する、
誰も注目もしない、この枯葉の中で、
右の写真のような枯葉が、もしもどこかの誰かが
本当に長年育てた、植木の枯葉だったとしたら、
その人だけは、その枯葉を、他の人とは全く違う目で見るに違いない。
●他人には、全く関係ない、全く関心のない、ただの枯葉でも
その中の一枚に、一人だけ、何かの想いを持っている人もいるかもしれない。
実際、毎日、世界中、宇宙中で、個体としての生物が膨大に死ぬ中で、
誰も、見向きもしない死もあり、やたらに、特定の人や集団の人に、
注目される死もあり、これらはすべて、生きている側の、
それぞれの「勝手な思い」、
あるいは、それぞれの「自由な想い」である。
●人の死でも、親しい生き物の死でも、
私も含めて、多くの人は、
「きっと、思い出の中に、これからも存在し続ける」と言います。
実際、死んだその瞬間から、特に、火葬、埋葬された後は
身体の形はなくなりますので、
まさに、思い出の中や、記録された写真の中にしか存在しなくなります。
もしも地球が滅びたり、人々の沢山の記憶も写真も、
宇宙の中で塵のような粒にすぎない地球ですから、
それも一緒に消滅します。
●もっとも、「生き物の経験した記憶」というのは、
データのように保存されている可能性は否めませんが。
そうすると、人間も含めて、生物にとっては、
どういう生きかたの経験が、保存されたり、大切に保管されるのだろう。
どういう仕分けがそこにあるのだろう。
そういう事を私は思わざるを得ません。
●と、同時に、死んだ何かは、思い出や、遺品や、写真、
そしてまた、「遺作」の中にしかない、という事実は、
それもまた事実の一面。
私は、多くの人達が、そこで、
「これからは、あの子は、あの人は、
ずっと私たちの思い出の中にあるのだから・・・」とするものを、
「今はどこにいるのか?」
ということをどうしても無視できません。
私の母が、突然に他界した時もそうでしたが、
母が意識不明になって、あとは死を待つのみと診断された、その瞬間から、
私が探したのは、思い出の中にある母の記憶ではなく、
「たった今、どこにいるのか」です。
死んだのは肉体だけ、
全く死ぬこともなく、生きているのはその上位身体なのですから。
●そこで、目を閉じてブリジットの行き先を、追いました。
まず、事故に遭ったときに、ブリジットが考えたことは、
「あ、イタい!
あっ、だめだ、終わった。
まー、しょーがないわね。」
と、苦しんだ痕跡はほとんどなく、
死に対しても、まったく、あっさりと受け入れていて、
何かしたかったとか、何かを恨んでいるとか、
あるいは、もう少し、長く生きたかったのに、などの思い残しは、
何もありませんでした。
私がそう感じたいから、そう捏造した、というのではないと思います。
そして、そのあとすぐに、ブリジットがこう言っているのを察知しました。
「あ、また、”ここ”に戻ったのね。
あ、ここ知っている。
思い出したけど、ここは、前に居たところよね」
生まれる前に、そこ(中間の世界)にいたということを
はっきりとブリジットは認識していました。
そして、この話は、もっともっと、奇妙かつ、
私自身も、身近には初めて見たような世界へと続きます。
*********
●その前に、私はブリジットの突然の事故死には、
突然であった、というところは、残念には思ったのですが、
ブリジットの死を悲しみ、懐かしんでいる人に対しては、
とても面と向かっては、言えないことなのですが、
私は、なぜか、全く悲しみがなく、
むしろ、あまりにもブリジットの死の全てが「正しい死」であることを
感じていて、
本当に飼い主さんや、悲しんでいる人には申し訳ないのですが、
「これで、良かった」と、確信しているのでした。
自分でも、どうしてそれを確信しているのか分かりませんでしたし、
自分が、ほとんど悲しくならず、
むしろ、何か物凄くブリジットにとっては、
まるで抜けるような、雲ひとつない、昨日と今日の、
この「真っ青な秋空」のように、
「澄んで、晴れやか」な死に、感じ続けていたのでした。
●むろん、その理由のひとつには、
ブリジットの遺体が、本当に眠っているようで、綺麗だったこともあります。
また、土曜日のお昼休みの直前に、ご近所の人から知らせを受けて、
飼い主さんが、午後はお店の営業がなかったことも、
素晴しい日にちの選択でした。
もしも平日であれば、飼い主さんは、悲しみを抱えたまま、
そのまま、仕事をしなければならなくなっていたのです。
でも土曜の昼から土日の休みに入るので、ちょうどそのときに
飼い主さんが、ずっとブリジットの死後の世話をしてあげられる日を
ブリジットは選んだのかもしれません。
しかも飼い主さんの、家のほぼ前で事故に遭った点もそうです。
●なぜならば、たとえ帰る家のある半野良の猫であっても、
遠出をしたり、近所から離れたところで、事故に遭い、
首輪がなければ、その猫のことを知っている人がいないところだったらば、
そのまま廃棄物として持ってゆかれてしまうこともあり得ます。
また弱ったまま、動けなくなり、自分の飼い主のところに帰れなくなり、
誰にも発見されないで、少し離れた場所で息をひきとることもあります。
そうした点では、自分の飼い主にすぐに発見される場所で、
おそらくは、事故による死後、時間を経ずして、
飼い主さんの腕に抱かれて、自宅に戻れたこと、
これらも、すべてブリジットにとっても、飼い主さんにとっても、
本当に、良かったと思います。
●もしも、たったひとつでも。何かの「運命の歯車」が違っていたらば、
こうした死にはならなかったからです。
もしかすると、事故で障害を持ったまま生きることになったり、
あるいは、長く苦しむ期間があり得た可能性は否めません。
また、事故でなくとも、
病気で長く不自由な状態を生きることになる人間、そして動物もいます。
●それに比べると、すべてが潔くて、
飼い主さんのところにすぐに戻れて、
そして、外傷もほとんどなく、静かに綺麗なままに他界したブリジット。
私には、すべての歯車が何かどこかで正しいかみ合わせになっていると感じ、
それで、悲しみというものが出てきませんでした。
●むろん、「逆」に言えば、
運命の歯車が、たった0.5秒ちがっただけ、
ブリジットと車の関係が、わずか数十センチ違っただけで、
ブリジットは、間一髪で、無事となり、
今日も、いつもと同じ日々がやってきて、
飼い主さんと一緒に遊んで、楽しくすごし、
また私たちのところに、いつものように、
ちょっとだけ顔を見せに来てくれたり、したかもしれません。
しかし、そのような、
「いつもの日曜日」は、来ませんでした。
ブリジットは、あの姿では、二度と再びこの世界には存在しません。
どんな似た猫がいても、
ブリジットは、二度と存在しなくなったこと、それも事実です。
●ブリジットの姿は、写真や動画の中に沢山残り、そしてブリジットを知る人、
とりわけ、ブリジットを大好きだった人達の記憶の中に、
その人が死ぬまでだけですが、残ります。
が、しかし、既に言いましたように、私がもっと関心があるのは、
ブリジットは、「今何をしているか?」でした。
******************
ここからはフォントの色を少しだけ変えます。
これ以後は、「ただの電波話」、単なる「御伽噺」としてお読みください。
***************************
多くの人たちは、いろいろな信仰や、あるいはイメージをもって、
他界した知り合いや、親族や、ペットが、
どこか別の世界のようなところで、魂がまだ生きている、
あるいは、生き続けていると思うものですが、
それを「心理的に死に直面しないように、人間が作り出した妄想」
と言って冷笑する人達もいます。
●しかし私は、生まれたときから、正確にいえば、
それを思い出した、ある年齢のときから、
肉体に起因しないものが、肉体に「乗り込んでいる」ということを、
全く当然の事実として、日々「実感」してきましたので、
疑う余地もなく、
いわゆる、ここで認識しているような肉体、ではない状態から、
この状態へと知覚範囲を圧縮したことを、
「現実そのもの」として感じています。
それは、自分が、無になることを信じたくなくて作られたものではなく、
むしろその「逆」でした。
どれぼとに絶望し、苦しみ、あるいは退屈し、消えたくとも、
死が存在せず、消えることは出来ないという本質的な次元のほうが、
世界の根幹として存在し、
また、「問題(苦痛の原因)」は、むしろ、そちらのほうにあると。
しかし、それを抜きにしても、
私という存在の基盤をなしているものは、
どのような経験でもなく、どのような知識でもなく、
どのような後天的な学習でもなく、どのような思考でもないこと、
これは私が物心ついてから、明白すぎるほどの事実となり、
逆にいえば、いわゆる普通の人達が悩まなくて済む問題で、
長年に渡り、考え込むことになりました。
●生きている理由が分からない、などという、
そんな疑問よりも、はるか以前の問題として、
生きているとか、
生きていないということの区別の認識を成立させている、
この意識それ自体に、完全に私は、自己同化していたということです。
生命の存在意味を知って、それでどうしたいのか?
そもそも、それを知りたがる衝動はなぜあるのか?
また、この意識は、
それ自体が何かの作用、何かの位置づけを持つか否か?
そもそも、それ(意識や認識や知覚)は本当に存在しているのか否か?
なぜこれが存在をしているかのように、私が「感じる必要」があるのか?
しかしまた、
知覚とは、極度の意識の限定作用であることも事実だった。
●つまり、私は、
どうしたら、他人にどう見られるとか、評価されるとか、
親や、友達から相手にされるとか、されないとか、
どうしたら、不安がなくなるとか、どうしたら、心地よくなるとか、
そうしたことには全く関心なく、
またAC人格が、他の主要な現実問題を、見ないふりをして誤魔化すために、
こうしたことに関心を持っているふりをしているのでもありませんでした。
私個人は、幼少期にも、誰一人からも馬鹿にされたことはなく、
むしろ、学校や、社会に出てからも、
沢山の人から、仕事や性格や、能力を評価されてきたほうでした。
楽しい趣味や、恋愛もセックスも、沢山、沢山しました。
その全くの「平穏な、または充実した日々の生活」の中で、
そもそも、
自分の意識、記憶、感覚、知覚、それらがそこにあるという、
そのこと自体が、そっくりそのまま謎となり、
自らの最大の関心事として、一日たりとも離れることのない、
自己探求の中心となったのでした。
■仮に宇宙のどのような様相を知覚したとしても、
知覚者の側のシステムを知る必要があり、
それを知らないで、何を知覚しようが、分かった気になろうが、
全体または、核心部分は把握できないと、そう思ったのでした。
私が知りたかったのは、
宇宙の出来事や、また応用可能な法則や、
あるいは、宇宙の中の自分の位置や役目などではありません。
「これ、この、今この瞬間にあり続けている、
まさに、この意識の、その由来や、目的や、その作用とは何か?」
それが知りたかったのみです。
もっとも、のちに理解したのは、
それが、宇宙というものの探求の一側面でもあるのですが。
*********
さて、話は、ブリジットのことに戻ります。
今まさに私が書いたように、
知覚されるものを「現実として担保するもの」は何もありません。
しかしそれでも、「限定的な意味においての相関関係」というものは
認識しても、あながち無駄ではないということがあります。
ここから、私自身も初めて見た、不思議な話へと入ってゆきます。
*********
昨日、夜になったころに、裏庭に出て、
そうしていると、また、明日もブリジットが走ってくるような
そんな情景をイメージしていました。
むろん、それは、ありえない妄想ですから、それはそれとして、
ただブリジットが、たった今、どこにいるのか?、だけは気になりました。
・・・・・・・・・
すると裏庭の、ある範囲の場所だけにおいてなのですが、
そこに立つと、女性が頭の中に現れました。
そして年齢が、10歳前後の「女の子」もです。
その母親らしき人が、私に言いました。
「この子が、本当に、お世話になりました」
そう深く頭を下げるのです。
横にいた女の子は、とにかく、ニコニコしています。
本当に、太陽のような顔で、
本当にまっすぐな目と、強い意志のある顔でした。
母親は、とにかく、「この子が本当に、お世話になりました」と言う。
私は、当然のこととして、
「ブリジットが、人間に対しては人間の姿のほうが、コンタクトが
取り易いと思って、対人間のプログラムを使っているんだな」
ぐらいにしか思いませんでした。
つまり、猫の側が、人間を配慮して、人間の姿をとっているか、
さもなければ、私の側が、猫を擬人化して遊んでいるのか、
そのどちらかだろうと、状況を軽く見ていました。
●しかし、疑問がすぐ出ました。
それぞれに「単体」の姿としてならば、わからなくはない。
つまり、
ブリジット一人が、少女の姿として挨拶をしにくるのは分かる。
一方で、母親らしき人物がブリジットだとしたら、
ブリジットの猫年齢からいっても、人間の姿になったらば、
ちょうどその女性ぐらいの年齢だろう。
しかし、
どうして「母子」で、私の前に現れたのか?です。
母猫は、そこまで自分の子猫のことを心配したりしません。
動物は、自分の子供に付き添うほど、べたべたしていません。
●そのことを不思議に思ったものの、私は言いました。
「私よりも、飼い主さんに、お礼を言ってください」
するとその母親は「もう、そのお礼は、済ませました」と言いました。
さて、私の側の問題は、この状況をどう認識したらいいのかです。
●なので、その10歳前後の、女の子の顔をじっと見ました。
(絵に書けるぐらい、はっきり見えましたが)
その瞬間に、一瞬で、「事の概略」を把握しました。
*********
その少女は、ブリジットでした。
正しくは、ブリジットになる前の人間。
そして、中年女性は、その少女の母親です。
僅か10秒もかからずに、私の中に入ってきた圧縮情報は、こうでした。
*********
ブリジットは、猫の前は、10歳で死んだ少女だった。
原因は、学校でのイジメだった。
そして、そのことを母親に訴えても、
「あなたも悪いのです」としか言わない母親、
そして大人への不信感。
そんな状況によって、
ブリジット(になる前の名前は「歩美(あゆみ)」ちゃんですが)
その歩美ちゃんという少女は、
友達も、親も大人も大嫌いになっていました。
また、母親に信じてもらえない、訴えを聞いてもらえないという絶望感よりも、
むしろ、この子にとっては、それが発展して、
「すべての人間に対する不信」にまで膨張していました。
そして、最後は、いわゆる自殺ではなかったとは思うのですが、
実質的には、半分は自殺ともいえる「交通事故死」によって他界していました。
●ここから、少し奇妙な展開だったのです。
歩美ちゃんは、中間生の状態において、
「次はどうしたいのか?」の問いに対して、
「絶対に、人間にはなりたくない。絶対に!
あんな人達と同じ生き物になりたくない」
そう願い、申告しました。
とうぜん、そこで返ってくる回答は
「君のすごした生活から、気持ちは分かるのだけど、
人間なんだから、また人間にしたらどうなのかな?」
これが一般的な「向こうの」対応です。
●しかし、歩美ちゃんは、「絶対に、人間なんか嫌だ」と
強く拒否しました。
そして、「猫のほうがいい」と言ったのです。
あまりにも歩美ちゃんの意志が強固なので、契約担当者は、こういいました。
「わかりました。どれぐらい猫を経験したいですか?
10年とか、何度も繰り返し猫になって80年とかもありますけど」
歩美ちゃんは、少しだけ考えてから
「10年!」と元気よく答えました。
そうして、歩美ちゃんの希望はかない、
きっかり10年だけ、猫に生まれることになりました。
それが10年前のブリジットの誕生です。
●誕生する前に、飼い主がいること、暖かい寝床があること、
そうした条件はきとんと希望し、また猫としての容姿も、
映像の中から、これだというものを選んだ結果が、
あのブリジットの模様の猫でした。
私たち、鈴木家の二人と一匹が、そこにいたからということは
その子の選択には、全く関係なく、
私たちはたまたま、近所に居ただけです。
●そうして、猫として生まれた歩美ちゃんの目的は、
気ままに、楽しくすごすことだけです。
猫に生まれた瞬間に、とうぜん人間であったときの記憶はすべて消えましたので、
猫の意識と思考をもって、「猫として」生活しました。
しかし、歩美ちゃんだったときの「性質」のようなものは残っていました。
歩美ちゃんだったときには、イジメと母親に理解されないことからの
人間不信によって、相当に、ひねくれてしまったのです。
そのひねくれた部分も、また絶対に自分の意志を貫く強い部分も、
そのまま、ブリジットという猫に受け継がれていたようにも、
「今になって思うと」、感じます。
また、歩美ちゃんが、そのような悲しい厭世的な感情になる前に
まだ純粋に輝いていたときの、子供の顔、それもブリジットは、
どこかに、ちゃんと持っていました。
しかし、むろん人間を嫌っていたことも、自分が少女だったことも
猫のときには、全く知りませんでしたし、意識のしようもありませんでした。
●しかし、他界して、「元の世界に帰った今、」
その今、ブリジットが戻ったのは、
猫のブリジットになる前の姿でした。
そして、その横にいる母親は、なぜそこにいたのか。
それは、自分の娘の死から数年して、その母親が、
歩美ちゃんに対する自分の態度を悔やんで、自殺をしたからでした。
そして死んですぐに、自分の娘は、どこにいるのか、
それを探し、そして、猫になっている自分の娘を見て驚いたのです。
それが10年という限定的な契約期間であることも知ったので、
母親は、自分も人間には生まれずに、そのまま中間生で、
ずっと、娘が戻ってくるのを待っていたのです。
娘が死んだことも、そして、娘が猫の生を選んだ原因も自分にあると、
母親は、強く後悔していたからです。
そして、ブリジットの猫としての契約期間が切れ、
ちょうど10年で、元の世界に戻りました。
●元に戻った歩美ちゃんに、私は、こういいました。
「これから、どうしたいの?」
すると、「人間になる」ときっぱりと言ったので、
「え?、そうなんだ。人間って、大変だし、
これからの時代は、もっと大変だから、あまりお勧めできないけどね。
特に、この国、この日本というところへは良くないよ」
すると歩美ちゃんは、
「どこがいいの?」と言ったので、私は、大した根拠もなく、
「デンマークとか・・・」と物凄く適当なことを言いました。
すると歩美ちゃんは、母親のほうを見上げると、
「デンマークって、どこなの?」と質問していました。
●どうも、人間に生まれるということだけは、強く決めているものの、
ただし、性別も、地域も、両親や、社会環境、
そういったものは、具体的には、まだ決めていない様子でした。
ただ、この子、昨日までは、ブリジットであり、
10年前より以前は、歩美ちゃんであり、
そして、今、また歩美ちゃんに戻ったのでした。
●その少女には、口癖があります。
子供なので、覚えたての言葉が口癖になるというのは、よくあることですが、
この子の口癖は
「ぜぇーーったい に!」なのです。
「絶対に、人間なんかになりたくない」、と意志し、
そして猫を楽しく経験してみて、
今は、「絶対に、また人間になる」と、強く意志していました。
「人間になるの?」と聞くと、
「うん、絶対になる」と言うのです。
●こうして、全体像は、少し見えました。
細かいところでは私にも分からないこと、関心を持てないことはありますから、
分かったのは、ほんの、さわりだけです。
この少女にとっては、ちょっとした寄り道になったのが猫の生。
人間の少女として、前回、達成できなかった何か、
何か、自分でも納得のいかなかったこと、
くやしかったこと、経験したかったこと、
それをするために、この子は、次に、再び人間になる。
他の天体や次元ではなく、この地球でだと思います。
でも、今横にいる母親は、
自分は母親としての資格はないと強く反省しているので、
歩美ちゃんと同じ家族としては生まれないと思います。
とにかく、歩美ちゃんのことだけが気にかかり、責任感を感じ、
猫から元の姿に戻るのを心配して、待っていただけでした。
●ところで、少し面白かったのは、
その母親に、私が「家の中で話しませんか?」と言ったところ、
「そこから先には、行くことはできません」と答えました。
うちに特殊な結界があるとか、そういうことではなくて、
今の二人の中間生の状態では、
人間の生活圏としての家屋の中には入れない、ということのようです。
人の住む家の中というのは、
その住人が作り出した「現実」という思念が支配しているので、
リアリティーが異なりすぎる場合には、入ることが出来ないようでした。
*********
ちなみに、ブリジットという猫として生きたときに、
車の匂いを嗅ぐという、変な癖がありましたが、
のちに分かったことは、歩美ちゃんは、女の子でしたが、
車が大好きだったのです。
たぶん、お父さんと車に乗るのが大好きだったようで、
父親との関係は、そう悪くなかったようです。
だからこそ、体が、ひっぱられるように、前回の人間だった時の死で、
車にぶつかったのも、自分の好きな車で死にたかったということも、
関係していたのかもしれません。
今回、ブリジットとしての生の最後もまた、車が原因でした。
むろん統計的にいって、
猫は特に、車での事故に遭う確率は高いですから、
単なる偶然にすぎないとは思いますが、
何か象徴的な、この2度の死に方に、意味があるようにも少し感じました。
●しかし、これで、私がどうして、ブリジットの死に、
全く悲しみを感じないどころか、何もかも全てが順調であった
ということに、むしろ、ほっとしているか、
お祝いの気持ちすらある、
その理由が、他人は誰も信じなくても、自分の中では、分かりました。
●歩美ちゃんが、猫を選択するに当たっては、少し無理はありました。
人間から動物への移行を選択する事は、あまり一般的ではありません。
それに、人間が大嫌いだからというのは、とても消極的な理由です。
●そもそも、最初に人間を選んだときに、
歩美ちゃんには、他の誰でもない、
ほかならぬ「自分に約束したこと」があったはずです。
それがイジメによって、
自殺とも事故死ともいえることで「中断」する結果となりました。
そして、「10年だけ」という約束つきで、猫に生まれました。
たぶん、歩美ちゃんとして生きたときに、猫が大好きだったのでしょう。
でも、その契約期限は、終わりました。
思い残すことのない猫としての充実した生活でした。
その10年間には、怪我なども、いろいろと、あったとしても、
本当に、楽しく気ままに、そして、飼い主さんや、私たちと接して、
どこか、無意識の中でも、
人間もイジメる人、理解しない人ばかりじゃないと、
なんとなく、猫の中で、猫の意識としていて、感じたかもしれない。
歩美ちゃんの、
止まっていた歯車が、
再び動き出しました。
でも、私も砂手も、飼い主さんも、忘れないでしょう。
そこに、どういう事情があったにしても、
歩美ちゃんではなくて、
ブリジットという、素敵な猫が、私たちの世界の中で生きたことを。
そのブリジットによって、
私たちが、沢山の楽しさと嬉しさを、私たちが与えられたことを。
このことは、歩美ちゃんに対してではなく、
猫としての ブリジットに、お礼をいいます。
沢山の、嬉しさを、くれて、ありがとう。
どこかで、 また、 会えるといいね
おまけです。
↓
●10/28 メールを頂きました。
ブリジットさんが、家に帰られたこと、
私にとっては、
やっぱり寂しく悲しいことでありました。
私は、ブリジットさんに会ったこともなく、
掲示板で拝見するぐらいであったわけで、
身近な方に比べればその気持ちは、
大きくはないのだと思うのですが、
それでも、
ブリジットさんはもう居ないのだと思うと私は寂しくなりました。
でも、それは、
残された側が感じている事であり、
亡くなった本人には本人の選択した事情があるということ。
そういった、他者の死を悲しむと言うことは、
他者の為ではなく、
自分がそうしたいからそうしているのだと言うことを、
今回、私は今までにないリアルさで感じさせてもらいました。
また、意識と体、この2つを一つとして
今の私があるという一面。
それは死後にはなく、
今の私にしか出来ない事があるのだという事を、
今回知らせてもらいました。
そう言った事を含め、
私は、
ブリジットさん
いろんな事を私に感じさせてくれて、
ありがとう。
このことは、私にとって、
今後の私の自我復元に役立ちます。
本当にありがとう。
そう思いました。
また、ブリジットさんの死や、その後の事をお伝えしてくださった、
崩残先生、ありがとうございました。
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