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★分割自我復元★その526●【地球を去った一人の恩師】●
by:
鈴木崩残
2015/11/09(Mon)18:02:44
>更新 11/10 文末に、当時のUFO組織の資料をリンクで追記しました。
地球を去った一人の恩師
●今回の記事は、私の、極めて個人的な「思い出話」です。
これを書くにあたっては、
いつもと違って、とても難しいな、と思ったのは、
「どういうスタンス」で書くかでした。
たぶん、「その人」であれば、
「鈴木君、そんなのは、自分で思うように書けばいいんだよ。なっ。」
と、当事の私には言ったと思います。
しかし地球人という少し面倒な生き物を、50年以上もやっていると、
きわめて人間的に、いろいろと気も使うようになります。
●この思い出話を綴るには、
自分の思い出として語ると同時に、
恩師に対するリスペクト、またはお礼という気持ちがあり、
さて、どの切り口から書くかは、
これを書いている今も決まっていません。
が、少しずつ、加筆してゆきます。
●まず時代背景から。
時は、1970年代の前半から中期ごろです。
私は当時、中高あたりです。
そのころに、私は同じクラスの顔見知りから、ひょんなことから
「冊子のようなもの」を貰い、
それがその私の恩師の一人とも言える人との出会いでした。
クソ生意気な、この私にも、恩師といえる人がいます。
今回は、その物語です。
●恩師といっても、中学生、高学生だった私が、
約3年か4年ほどご縁があった人です。
おそらく、私が、世の中に出て、初めて関わった、
組織的な「会」、「研究会」というものが、そこでした。
ずっと以前にも書きましたが、当時、同級生の友達の他に、
その会の会合に参加することによって、
私は私よりもずっと年上の人たちと、同じような話題をシェアするという、
まだ子供だった私にとっては、ワクワクするような経験を経ました。
●その時の、その会の代表者だった人が、その私の記憶の中の恩師です。
恩師といっても、武術の恩師とか、禅寺の恩師とか、そういうのではなく、
当事、まだ中学生か高校生ぐらいだった私にとっては、
理想的な「兄貴」のような存在でした。
●ここ数日、私が、遠い自分の過去の記憶を掘っていたときに、
その人の名前を思い出して、
今、どうしているのかな、とネットで調べました。
すぐに飛び込んできた文字は「****氏、他界」という文字です。
その人は、甲府市内に、長く住んでいました。
甲府で、書店の店長さんをしているということは、
私が20代ぐらいのときには、人づてに聞いた覚えがあります。
私が東京から、今のこの富士五湖に引っ越したのが、約11年前で、
甲府といえば、ここからバスで1時間ぐらいですから、
会いに行こうと思えば、行けたのです。
でも、いつか会いに行って、当時のお礼を言って、
軽く、挨拶だけしておきたいな、と思いながらも、歳月は過ぎ、
そして、数日前に、ネットで、その人の他界を知りました。
●この年になれば、
いろいろな知人、親族の他界の知らせを受けることも増えてきますが、
前にも書きましたとおり、
私たちの現実感覚や、自分にとって、現実として実感すること、というのは、
その個人の記憶と思考に大きく左右されますので、
誰かの他界の知らせを耳にしたり目にしても、
それが、たとえ親族や、かなりよく知っている人だったとしても、
中には、正直言って、ピンとこない場合も多いものです。
●しかし、40年以上も、
全く会わなかったブランクがあるにも関わらず、
その人の他界を知ったときに、ひとつの時代が終わった空気の香りを感じたととも、
「自分の当事(40年前)」を振り返るきっかけとなりました。
●恩師というより、やはり、「どひきり、いい兄貴のような人だった」。
このことは、私だけではなく、当事のその研究会にいた誰もが思ったであろうことでした。
氏よりも年上の人たちは、どう思っていたか知りませんが、
私は、大人たちの中に混じって、最年少でしたので、
私の主観の中では、一回りぐらい年上の、「兄貴的存在」でした。
とか書くと、
「どんなヤクザな世界の話なんだよ、暴走族仲間か?」と思われそうですが、
今で言う、精神世界というカテゴリーに分類される世界での話です。
●その人の名前は、「山本佳人」といいます。
おそらく、この掲示板を見ている人で、知っている人は、
ごくごく一部の人だけかもしれません。
書籍を通じては、知っている人も少数いるかもしれませんが。
私が今回、思い出話として書くにあたり、難しいと思ったことの一つは、
私は高校を卒業して以後は、
山本氏(「かじん さん」と皆、呼んでいたので、以後そう書きます)
の書籍を読んでいません。
読んだのは、最初の書籍のみです。
私は一度だけですが、高校生のときに、会員の方と、
甲府にお邪魔したことがありました。
従って、全く会うことのなかった、この40年間の間に、
佳人さんの考え方や、心境が、その後、どう変化したか、
ということは私には、考慮はできません。
遺作となった書籍についても、まだ目を通していませんので、
晩年の最期に、佳人さんが、その眼で、どのような世界を見ていたのか、
この世界をどう見ていたのかも知りません。
私の中では、佳人さんとの思い出は、
私が高校生の時の時計の時刻のまま、止まっています。
その止まった針の時代の話を、これからしたいと思います。
「宇宙意識」という用語の発端
佳人さんが立ち上げていた、当事の研究会では、
J・アダムスキーの「生命の科学」という書籍を、
日本語版でなく、英文から独自に和訳したテキストを使っていました。
実は、中学生だった私は、
当事、GAPというアダムスキー派のUFOの会みたいなところに
たまにお邪魔していました。
確か、会場は、上野公園内の会館だったと記憶しています。
代表者は、翻訳者の故・久保田八郎氏です。
ただ、そこの会、ナーナーでおとなしい雰囲気は、
どうも、私の性格というか、肌に合わなかったので、
すぐに私は佳人さんの会にのみ参加することになりました。
たぶん、世の中に数十人は、
当事の、この二つの会のことを知っている人はいると思います。
●そういえば、月一回であったか、年数回であったか忘れましたが、
佳人さんらの会合の、二次会はルノアール、
三次会は、いつも、池袋の寿司屋だったのを覚えています。
よくある、いわゆる「会の集まり」での風景ですね。
●それで、「宇宙意識」という、今では誰で使っている用語の一つですが、
当事は、確か、言い始めたのがアダムスキー(の和訳としてのそれ)。
のちに、世の中(というか、精神世界業界)では、
アダムスキーの体験記それ自体の信憑性への疑惑や、
(OOBE説や、小説説)、またその本当の意図がどこにあったのか、
などが論議されたのですが、その話は、横においておくとします。
それで、山本佳人さんの最初の著書が、
「宇宙意識の哲学的研究」というタイトルでした。
私自身は、確かこの本が出る前に、佳人さんに会ったと記憶しています。
硬派な装丁でよく知られた「霞ヶ関書房」からでした。
佳人さんは、その本を、
エドガーミッチェル(か、もしくはニールアーロストロング)に
贈呈したと言っていました。
NASAに送ったのかな?と当時の私は思ったのですが、
英文でないと読まないのではないかとも思ったのを覚えています。
でも、たぶん、言語の問題ではなく、その本それ自体を、
「何か」を体験した宇宙飛行士のもとに届けたかった、
というほうが強かったのだと思います。
●しかし、私の記憶にある佳人さんの思想、体験については、
そこで、私の中では、当事のところで止まっています。
ですから、その後、40年の間に、この世の中、この惑星を見て、
佳人さんが、何を思い、何を経験し、どう哲学したかは分かりません。
ですから、ここ40年だけではなく、近年の数十年の間も、
佳人さんは、私の記憶の片隅に、ひっそりと残ったままでした。
●しかし、思い出してみれば、現在の私にまで連なる、
その始まりは、佳人さんとの出会いでした。
3年か4年という期間でしたが、また少年の私にとっては、
どれだけいろいろな経験をさせて頂いたか分かりません。
むろん、ただ佳人さんの言うことを信じていたというのではなく、
その言葉について考えたり、悩んだり、疑ったり、経験しようとしたり、
そうして、私は、その後、成人してから自分の生を生きました。
その中でも、とりわけ、佳人さんのことは、記憶に刻まれています。
何が刻まれているかというと、その人柄です。
一方では、哲学者であり、
一方では、ある意味で霊視の出来る人であり、
一方では、ごく普通に、恋愛について相談に乗ってくれたり、下ネタもありで、
そうした「バランス感覚」において、抜群のところに、
運よく、まだ、ただの子供だった私が関われたことは、
今日の、私自身に大きな影響を与えていると自分では思います。
●たとえば、ちょっと透視とか出来る人が代表者とかなると、
たいていの会合や組織は、今でいうカルト化してしまうものです。
(当事は、そんな言葉すらありませんでしたが)
だもので、当然、佳人さんの会合でも、
二次会とかなると、相談に乗ってほしいとかいう下心のある人もいて、
(いや、私だって、そういうところは、なくはなかったですから)
まー、そういう展開になって、オーラ診断とかしてもらう事もあるわけですが、
佳人さんが、くったくなく、
世間話やいろいろな話をするその姿勢というのは、
本当に、身近な足元の問題と、意識の問題とを均衡を取って扱う、
という姿勢であり、
決して、修行僧めいた話し方になるのでもなければ、
本当に、ごく普通の「あんちゃん」という話し方でした。
しかし、当然、その話の奥にあったものは、
その後、私自身が経験することになった要素の「いくつか」を含んでいました。
しかし当時、まだ高校生だった私が興味があったのは、
第一に自分自身の問題(自分を自覚する意識への絶え間ない違和感)
第二に、UFOとかそういう話
第三に、アダムスキー哲学なるもの。
私は佳人さんが、高校生の時に経験した神秘体験については、
当時は、さして関心を持たなかったのです。
というより、理解できないものを、
無理に理解を自分に強いることはしたくなかったのです。
●しかし、私は当時は、それとまったく知らずに、
のちに、私が30を越えてから直面することになった、
「意識の自己認識」というこの問題と、
ほぼ同じ領域を、生命の立脚点とする人物に出会っていたことになります。
●一方では、哲学者であり、神秘家でもあった佳人さんが、
いろいろな組織や、特に精神世界の組織や宗教の中でのような
上から目線では全くない、接し方をされていたことは、
少年だった私の心に、深く印象を刻み、
その後の私の対人関係にも、少なからず、影響したと思います。
どんなに精神や、意識の問題について語っても、
ごくごく人間的な部分を、何ひとつとして、決して、ないがしろにしない、
という佳人さんのスタンスは、
まだ高校生だった私が、無意識のうちに、
佳人さんから学んだ、最も大切なものだったかもしれません。
●佳人さんの素敵だったところは、
その人それぞれから、その人にとって、最もその人らしい、
潜在的な才能を引き出すということだったかもしれません。
誰かを叱ったり、否定するということはしませんでした。
ダンディーな、その響く声で、
どんな人にも優しく、かつ論理的に、+ユーモアを必ず交えて、語りかける人でした。
何らかの、神秘体験、または意識体験をした場合というのは、
おうおうにして、人は、極度に、厭世的になるか、
または何かの宗教でも始めてしまうか、
または、商業的なるか、そうした方向に、とかく走りやすいのですが、
佳人さんは、医学書の書店の店主として、静かに暮らし、
自らのしたい研究に没頭したのだろうと推測します。
●実は、私が参加してた当事、佳人さんのところには、
UFO関連だけではなく、神智学関連や、ヨガ関連からと、
けっこう、いろいろな分野の人が、交差していました。
透視だけの、一部の能力だけに限ればN君という人は
抜群の能力だったらしいですが、私には確認のしようがありません。
今思うと、実に「狭い世界」でした。
「あっ、あんた、こっちの会にも、足をつっこんどるんかいな」
みたいな、「あちこちで見かける人」とか、いましたね。
●そもそも、いわゆる、エソテリックサークルみたいなもの、
ないしは、精神世界の研究会みたいなもの自体が、
当事はごく限られた種類のものでした。
有象無象の、いわゆる宗教の世界とは違って、「あの分野」は、
超心理学にしても、ヨガ関係者にしても、UFO関係者にしても、
だいたい顔なじみの人が、数少ない研究会を、あちこち往来していた時代でした。
●ところで、佳人さんが、医学書の書店の店主になったのには、
その理由らしきものを、当事聞いた覚えがあります。
もしかすると、それは医学書店に惹かれた理由としては、
本当は違うのかもしれませんが、
佳人さんの、こんな言葉が記憶に残っています。
「オーラとか、身体の状態を見る場合にね、
人体図とか、内臓とか、神経とか、血管とか、
そういうものの、物理的な位置や構成を学んでおいたほうが、
より、奥行きのある透視とか、助言を出来るんだよ」
意訳すると、そんな言葉でした。
でも、それが医学書の書店を担当した理由がどうかは分かりません。
何か、それとはまた「別の縁」があったのかもしれません。
●40年という時間経過であっても、
それは、意識の中では計りようがありません。
部分的には記憶が曖昧なところもたくさんありますが、
今この瞬間から見れば、私にとっては(誰にとってもそうですが)、
すべての過去は、意識からは「均等の距離」にあります。
どこかの記憶をクローズアップすれば、
40年前のものでも、20年前のものでも、それは、大げさに言えば、
昨日のことであったとすら感じることがあります。
その過去から、現在までの間に、
たくさんの自分の記憶の物語を敷き詰めてしまうと、
人は時間を「経過」として感じますが、
ただ、その時のことだけを、今、思い出せば、
それは、昨日の事のように、すぐそこにあります。
人生の中で、その多くの物事は、いつしか忘れ去られるものですが、
私の中では、佳人さんは、
兄貴のような友であり、
また、当事、いつも、思いっきり悩める少年であった私の恩師でもあり、
そして、何よりも、「とても、地球人らしい、異星人」でした。
そう。
とてもよく、地球人のことを知っている、異星人。
異星人を知っている地球人ではなくて、
「地球人をよく知っていた、異星人」だったのかもしれません。
たま出版の韮澤氏が撮影した、佳人さんの晩年の写真が、
たった一枚だけ、ネット上にありました。
「ぜぇーん、ぜぇーん、変わってねぇーじゃん」と思いました。
どんな事象に対しても、何ひとつも無視をしない、その眼は、
あの40年前と変わりませんでした。
当たり前ですよね。
それが「意識」というものなのですから。
ただ、私が記憶していた、40年前の佳人さんより、
ずっと、シブくなって、かっこ良くなっていました。
天才ドクターとか、発明家、そんな風に見えました。
今頃、佳人さんは、地球を見て、
「さて、どうすんべ?」と思っているのか、
それとも、片方では、ご家族を見守りながら、
片方では、別の天体へ、何かの研究に行ったりして往来しているのか、
それとも、もう一度、この惑星へ、
自らの生命のテーマとした実験を試みに来るのか、
その足跡を、意識で追うことは、私はしていませんが、
たぶん、地球が、もう少し落ちつくまでは、
この惑星には来ないような気がします。
むしろ、佳人さんにとって、忘れられない親しい人たちが、
その人生を、思い残すことなく謳歌し終えて、
同じ次元の世界で再開するのを、待っているかもしれません。
・・・・思えば、
せっかく、富士五湖の、すぐ隣の甲府にいたのだから、
何かの機会に、行って、ただ、一言、
当時のお礼だけを言いたかった気持ちが少しだけあった。
でも、このお礼の気持ちは、
きっと、ご家族の意識を中継基地にして読んでくれているかもしれない、
とか、「適当な事」を思っておく事にします。
いろいろな意味で、本当に、ありがとうございました。
恩師とか、そういう堅苦しい言葉は使いたくないのですが、
今回の生での、私の意識の旅にとって、
その最初の学びの場となった
本当に、重要な4年間でした。
1947年〜2021年までの、ある意味を持つこの同じ時代に、
この惑星でお会いできて、同じ時代を生きたこと(生きていること)を、
誇りに思います。
イカした、にぃちゃんの佳人さんへ
鈴木君より。
____________________________
その1970年代の、
「異種精神世界の絡み合い」の様子が少し分かる資料を見つけましたので、
リンクしておきました。
↓
https://ufo70s.wordpress.com/2008/02/16/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%9B%B4%E5%89%8D1973%E5%B9%B4/
なんとなく漠然とは思っていたのですが、
自分が1970年代の、マッドサイエンスと宇宙と神秘学が
闇鍋の中でごったに混ざり合うような、
そういう日本の精神世界の初期のサブカルチャーの渦中を
そうとは知らずに、高校生のぶんざいで、
当たり前の感覚で、うろついていたことを、
つくづく痛感させられた、ここ数日であった。
■こちらは、山本佳人氏の著書からの抜粋です。
この話は、私は、ほとんど知りませんでした。
というより、当時の私は、神秘体験(意識体験)なるものについては、
興味がほとんどありませんでしたから。
今、読みますと、ほとんど「それ」のことじゃないですか・・・
↓
http://www.geocities.co.jp/noboish/case/hutuh-1/yamamoto.html
つまり、自分の最初の恩師が、
そもそも、「その世界」の探求者だったわけです。
____________________________
★
.
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