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[536]
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★分割自我復元★その536●【 「最強の毒母」 報告より 】●
by:
鈴木崩残
2015/11/21(Sat)12:06:13
報告より
■今回の掲載(引用)にあたっては、まず「前提」を少し書いておきます。
1/一部のみ略しましたが、ほとんど原文に近いです。
したがって、文書量はあります。休み休み、お読みください。
2/私は、この人の第一回目の自我判定をして、
「この人は駄目だ」と思いました。まったくの夢遊病のようでした。
明らかな毒母親に育てられたことは、一目瞭然でしたが、
その、あまりの鈍感さには、目を見張るものがあり、お断りしたい、
という報告内容でした。それほど酷いものでした。
ただ、一点、何かの才能がありそう、という印象はありましたが、
それよりも何よりも、全く眠ったままという事が救いようがなかったです。
3/3年間の時を経て来た報告は、高評価に値するものでした。
特に何の誇張もなく、正直に書いてあり、
とにかくAC人格を掘り下げようとする努力の形跡が見られました。
4/ただし、感情が掘り当てられていないこと、
両親の親がまだ調査されていないという点では、トラウマ掘りとしては、
段階分類では、掘り始めて「記憶を整理している段階」となります。
自身の中にあるAC人格を列挙するというあたりの段階です。
5/よって、感情の岩盤には行き着いていないという点では50点ぐらいですが、
単体の「報告」としてみた場合に、満点に近いです。
現段階でのトラウマの記憶の掘り方は、これでいいということです。
6/そして、特筆すべきことは、この人の「表現力」です。
言葉の使い方、用語の使い方としては、本を読みすぎた人に多いのですが、
用語の使い方よりも、整理のしかたと描写力に注目しました。
特に、誇張したり、自己暗示的にならず、また読み手の私のことも
気にしないようにと、注意しつつ書いています。
7/逆にいうと、その分析的な目が仇となって、温度のない文章
ということも出来ます。
しかしながら、この今回の報告一つで、それだけで、
「私の母は毒母だった」という漫画になるぐらいの「汎用性」があります。
つまり、こうした毒母親が、決して他人事ではない人たちが、
ここを読んでいる人にも、たくさんいると私は推測しています。
8/しかも、この人の全く同じように、それが猛毒の母親だとすらも
気づいていない、考えてもいない、そういう人に役立つものとなります。
最初から毒母親だと気づいていた人や、あるいは既に、
さんざんに毒親について、自分自身を掘ってきた人にとっては、
これを読むと、自分の母親も(金品を与えるか否かは別にして)
「毒母の行動原理」とは、まさにこれだったと理解できるはずです。
それは子供を使った「代理復讐」です。
子供を自分に依存させ、主体的に何も出来ない子供のままにし、
不幸のままの子供にすることによって、親自身の親に復讐しているのです。
9/最後に記しておきますが、この方は専業主婦ですが、
同じような専業主婦だけではなく、中高年の男性で、鬱になっている、
またはもっと年少の、いわゆる「ニート」「ひきこもり」
これらの状態にある人は、自分と共通する部分をピックアップして、
直視するといいです。
さて、では、その報告となります。
報告を受けての、私とのやり取りもあるのですが、
それは、様子を見て、またの機会にするかは、まだ分かりません。
自我復元全体のプロセスとしてみれば、むろん、未完で不完全です。
しかし、「ひとかたまりの報告」として単体で観たときに、
私は、これほど、毒親の性質が「凝縮された」報告を見たことは、
いまだかつてありませんでした。
************************************
「症状」編
ご無沙汰しております。
以前に1度だけ判定をお願いした****と申します。
その節は醜悪で失礼なメールを送ってしまい、
しかも無様に逃げ出すようなことをし、大変失礼致しました。
あれから3年が経ってしまいましたが、その間自我復元は続けておりました。
年数の割りには回数も少なく、3年も経ってからの報告だなんて
やる気を疑われても仕方ないとは思っています。
しかし、散々途中で停滞はしましたが、
途中で止めようと思った事は一度もありません。
今回判定をお断りされてもそのまま自我復元は継続していきますし、
今よりも明確に自分が変化したと思えた時に、
また改めて申し込みさせていただくと思います。
もう色々遅すぎるのかも知れませんが、
今一度チャンスを戴けないでしょうか?
長い時間をかけ過ぎて増改築を繰り返し、
読みにくい文章になってしまって申し訳ありませんが、
判定をどうかよろしくお願い致します。
>>★自我復元の作業について
今年の春以降、極端に復元作業が進まなくなりました。
うっかり寝落ちしてしまったり、忘れてしまったり、
作業のイメージがしずらくなったりしたのです。
イメージがしずらいというのは、具体的に言うと、
イメージ自体がつくりずらいというのと、
イメージをしても途中で、
イメージが破壊される映像が入ったりすることの2つです。
私はクーラーボックスの形を一般的なアウトドアに使う
クーラーボックスとしてイメージしているのですが、
その蓋が壊れて開いてしまったり、
もち手の肩掛け紐が千切れて手から離れてしまったり、
そういうイメージが見えてしまうようになったのです。
リングを形成し胸に吸い込むときにも、
リングが乱れて胸に吸い込まれる前に拡散してしまったりもしました。
これらは今年の4月以降10月一杯くらいまで続きました。
最近やっと安定してきましたが。
今思えば、このときは復元作業自体をやりたくなくなっていた上に、
精神的に停滞して、トラウマも掘れなくなっていました。
自我復元を全く諦めてはいないのに、何故か作業をしたくなくなる。
日常生活も、仕事も、体調も、何もかもが停滞して苦しい時期でした。
>>★体に関すること
年齢のせいもあってか、命に別状はないものの不具合ばかりが切れ目無く起き、
その対処に追われていました。
起こる不具合は一応病院で見てもらい、更年期ではないこと、
重篤な病気ではないことを確認しています。
その上で、対症療法ではなく、
体質改善を目指した治療をしてもらえるところに病院を切り替えたり、
鍼灸や整体をあちこち試しては通いと、素寒貧には大変に痛い出費です。
中略
これら不具合の対処をしている間に、いくつか気がついたことがありました。
症状のうちの多くは、復元(というか精神状態)と関係があるように思えました。
復元が停滞し精神的に鬱屈していたり、
その鬱屈から抜けようともがいていると症状が悪化するのです。
具体的には朝起きれず、周囲に無関心になり、
髪が抜け、頭痛と吐き気と手の痺れが起こり、胃腸を悪くするなどです。
2015年の夏ごろからこの傾向が顕著になり、
秋には余りの反応の正確さに笑う程でした。
実家で母と話しているうちに吐き気がこみ上げ、
急いで自宅に帰るとその瞬間に吐き気が収まるし、
判定依頼の報告を書こうとすると吐き気やめまいや強烈な眠気が起こるのです。
以前はこんなに急性ではっきり自覚できる
メンタル由来の症状など起こらなかったのです。
正直生まれて初めてなので驚いています。
これは年のせいで体力が落ちて変化に敏感になったせいもあるでしょうが、
センサーの感度が上がったのだと思っています。
また、受けたストレスの感じ方が違ってきているようにも感じます。
以前は例えるなら、
耳栓をし目を閉じ分厚い布団をかぶった上から鈍器で殴られ続けるような感じ。
きついし行動不能にはなるけれど、ぼんやりとしていて、肉体的には痛みが無い。
現在は、ストレス源が近いというか、くっきりわかるというか、
とりあえず「布団をかぶった感じ」が薄くなりました。
肉体的にはダメージが明らかに増えているのですが、以前よりは何かがマシ。
いや、精神面と行動面にもダメージはあるし、
しかも復元を始めたばかりのときよりも苦痛が多いし鮮烈な気がします。
なのに平気、いや、平気と言うのとも違う感覚。
なんといったら良いのかわかりませんが、
以前の状態に戻りたいかと言われれば絶対に拒否します。
あんなクソは二度とごめんです。
恐らくこの感覚の鈍さやものの見えて無さに起因するのだと思いますが、
昔、いや結構最近まで私は自分のことを
「自分はパワーがあり頑丈なのだけが取り柄」だと信じていました。
メンタル由来の肉体の病気が起こらなかったというだけなのに。
引きこもって何も行動できず、
終日だるいままネットを徘徊しているだけなのにです。
そして、後述する衣服に関することと重なるのですが、
自分の体なのに、自分でメンテナンスしたり、
より快適に過ごそうとしたりすることに引っ掛かりがあります。
ひっかかりというか、
もっと正確には罪悪感、身の程知らずの贅沢をやらかしている感。
さらに掘り下げると
「自分のことしか考えてない」
「自分の体のことには神経質なんだね」
という母の忌々しい表情がちらつく。
しかもそれを正当なこととして受け取り、申し訳なく感じてしまう。
この罪悪感に関しては母の項でまた改めて書きます。
体だけではなく広範囲にまたがる話だと思うので。
それと、初めてダイエットに成功しました。
炭水化物を減らす事で、4ヶ月で7kgの減量です。
幸い今のところ体調に変化はありません。
むしろどんなに運動しても取れなかったむくみがとれて喜んでいます。
今年に入ってから急に自分の体の醜さが気になってきたのです。
というか、今まで薄目で見てみないふりをしていた事に気がついてしまい、
誤魔化すのが辛くなったのでした。
老化と不摂生により、体の形が崩れ、何を着ても不恰好な始末。
どうして今まで平気でいたのだろうかと思います。美的な意味でも健康的な意味でも。
いまさらこの年で改善できる程度は限られていますが、
この体でこの年齢なりのまっとうな容姿と佇まいが欲しくなり
ダイエットを実行したのでした。
まさか自分のやったことに望んだような結果が出るとは。
今後の予定としてはあと数kgくらい減量してから安定させるつもりです。
感覚の変化もありました。
嗅覚が鋭くなったというか、嗅覚を前より使用することが多くなりました。
昔も感じていたはずだけれど気がつかなかった匂いに気がついたり、
匂いの良し悪しを感じることが多くなったり。
匂いで良し悪しを判断する場面が増えたりもしました。
また、自分の「利き感覚」についての発見もありました。
利き感覚には、視覚派、聴覚派、
身体感覚派(視覚聴覚以外の感覚の意)があるのですが、
自分はかなり強度な「身体感覚派」だったのです。
最近、発覚したのですが、
確かに嗅覚、触覚、プレッシャー、圧力、迫力を中心に判断をしています。
実際に復元作業時にも、足が接地面をつかむ感覚や、
体が風を切る感覚を再現しようとしていました。
これまでは、世の大多数が視覚優位であることだし、
自分は絵を描くのだから当然「視覚派」だろうと思っていたのです。
このことは新鮮な驚きがあり、実際に役に立ちそうな面白い発見でした。
>>★私を行動不能にさせるものについて
上であげた自分の鈍覚っぷりと事実誤認の流れで思い出したのですが、
ちょうど一年程前、私は強い恐怖や不安や緊張に見舞われると
感情が鈍磨し強烈に眠くなることを再発見しました。
具体的にはテストや面接の直前、病院や歯医者にいる間などに起こります。
暖かい待合室なら実際に寝てしまうこともありました。
もちろん睡眠不足とは関係なくです。
実は若い頃からこの現象はあったのですが、
当時は解釈を間違っていたのでした。
かつてはこれを「危機に当たってみるみる心が凪いでいく」
と解釈しており、自分は大物っぽいなあと思っていたのです。
心が凪いでいるのはまあ当たってるかもしれませんが、
研ぎ澄まされた戦闘モードになっているわけではなかったはず。
むしろ凪ぎすぎて気絶しそうな程眠いというか、
ショックで失神する御婦人的なものであり、
大物とは真逆のベクトルです。
ここ一番で立つべきとき、危急存亡の時に電源断。
最近、この状態のマイルドで薄いものが、
もしかしたら、私の日常を侵食しているのではないかと思いました。
昔からのことではありますが、毎日だるくて眠いのです。
活動するべき昼間に。例え睡眠時間が足りていようとも。
実際には睡眠周期が固定されず動き続ける状態が多いのですが、
基本的には昼夜逆転気味です。
一応形ばかりは日中起きているのですが、
眠くてだるくて自分の思うようには動けません。
全ての欲望や意志が吸い取られて消えていくようです。
なんとか眠気が収まってくると既に夕方。
しかし夕方には夕飯の準備が始まるし、溜まった家事で時間をとられ、
夜には寝てしまう(なかなか寝付けませんが)。
なので、自分のためだけの時間がほぼ無くなっているのです。
暇で保護されている専業主婦だと言うのに。
体感的には、私の人生は、
他人の半分以下の時間しか割り当たっていない感覚があります。
何度も改善を試みたのですが、現在に至るまで成功したためしがありません。
目が冴えてきて夕暮れの空を見ると、監獄の窓から外を見る気分になります。
この時の、消える今日を悔やみ、
次回に期待しつつも半分諦めているような。
そして何か取り返しのつかない事がされているのに
自分には黙って見ているより他にない感じ。
それと寂寥感(わびしさ)。この感覚は子供の頃には既にありました。
話は眠気に戻ります。
最近やった関心地図で、もしかして?!と感じたものがありました。
朝、夫を送り出した後に開始。
天気もよく、静かで、締切も無く、予定も無く、家に一人。
多少退屈かもしれませんが、自由、完全な休み、安らぎであるはず。
なのに真っ先に心を占めたのは謎のざわざわ感。
耐えられずに、思わずいつものとおり
PC、スマホ、TV等に手を伸ばしかけましたが、なんとかそれらを止める。
するとまた、ざわざわが感じられてしまう。
我慢して続けると、取り留めの無いことが頭に浮かびますが、
その合間に雑念が途切れる時、やはりざわざわ感が来るのでした。
そしてこのざわざわは結構な苦痛で、
無意識のうちにこれを消そうと、
ネットや本や音楽や妄想や仕事や家事に逃げているようでした。
逃げるのは簡単、というか、
このざわざわを見逃さず感じることの方が難しい。
チラッとかすめただけでも、反射レベルで息をするように逃げるのです。
今回は逃げ道を潰してざわざわを見ようとすると、
今度は眠ってしまいたくなりました。
眠いというか、能動的に意識的に眠りたくなったのです。
それでもなお、このざわざわについて探ってみると、
探ったとたんに消えました。
そこに目を向けると見えなくなるようです。
この感覚にとても関係のありそうなことと
直感で浮かんだ結論が、浮かんではいるのですが、
今はまだ一本の話には、まとめられない状態です。
なので、この件に関するメモからの抜粋をします。
要素ごとにぶつ切りで申し訳ありません。
・直感的に浮かんだ現時点での結論
強い恐怖や不安や緊張による意識のシャットダウンのマイルドなもの
=眠気が、ざわざわを感じぬように、使われている可能性
私に生命感が無いこと、
意志と行動が消えること等もざわざわに関係がありそう
・ざわざわに類似の感覚
「待望のバカンスなのに心が停止して楽しめなく、
その状態に死っぽい不穏さを感じたとき」
「死について意識するとき」
「集団の中で率先して働かなきゃと思うが
何をしたらいいかわからずオロオロしているとき」
・ざわざわは日中の時間に途切れずに通低音(通奏低音?)として存在する可能性
ざわざわを避けるための逃避が昼間に頻繁におこる。
そして通低音(通奏低音?)だとするなら、
私は昼間、逃避無しには一切精神的に休めてない
・「生命感」「躍動感」「燃焼感」「崇高なまでに強烈な意志」への強い憧れは、
ざわざわ=生命力の無さ(又は死に関係する何か)を回避、または代償するために存在?
この憧れを動機にする嗜好や目標や行動が大変に多いが、
だとしたら私の人生は、薬物中毒と変わらない
・ざわざわは夜になると消える
自分発の欲求が自然に出てくるのも
「私の生きる時間が来た!」と感じるのも夜
やっぱり昼間は基本くつろいでない、何かを強いられている
・起源がわからない
・メモ中には「やらなきゃ!」(何を?)が、ざわざわと近い距離に複数書いてある
・ざわざわ感自体が何なのかがわからない
わからないものの、意識にのぼせるのも拒むくらいには苦痛
日中の眠さ以外にも、もう一つ、私を行動不能にさせるものがあります。
どんなに楽しみにしていても、長年の計画があったとしても、
その直前になると、みるみる気力が萎え、感情は鈍磨し、
対象についてどうでも良くなり、下手をすれば嫌悪感すら発生し、
結構な高確率で行動を止めてしまうことがあるのです。
無理やり努力して実行しても楽しみきれなかったりもします。
他人との約束、予約した歯医者や美容院、請け負った仕事、
これらはまだ何とかなります。
十分辛いですが、約束や信用や金銭や制度、
こういったものがギリギリでも私に締切を守らせます。
しかし、映画やライブを見に行く、
絵を描く等、娯楽でもお金を稼ぐ行為でも勉強でも、
自分発の欲で、自分固有の利益でしかなく、
自分で意思決定をし、実行をする、こういったものがとても困難なのです。
気分も具合も悪くなりながら、
ギリギリの時間までかかって出かける支度をしながらも、
結局はその映画を見に行かない。
あんなに楽しみだったのに。しかも最後の上映だったのに。
結果、私に残るのは、後悔と敗北感と安堵。
「また死んだ」
「また勝てなかった」
「もうこんなのは嫌だ」
と唸りながらも、同時に何故か少しほっとしていたりする。
毎日が停滞と敗北と諦めと先送りの積み重ねです。
こんなに辛いのに動けないし、無理に動いても辛い。
かつては無理にでも動いてしまえば
気分の切り替えも不完全ながらも出来ていたものを、
最近は切り替えにも強い意志必要なばかりか、
切り替えも不可能で拒否感と嫌悪感を抱いて憔悴したまま作業をし、
椅子で寝落ち(寝不足由来ではないはず)までする有様。
一番症状がきついのは、好きで始めたはずの絵の仕事と、
自我判定のための報告を書くときでした(今も吐気をこらえて書いてます)。
どちらも自分が今一番必要であり、やりたいと思っていることです。
一方、自分の中で優先順位が低いものに関しては、
比較的少ない苦痛で実行が可能。
この症状も今のところ、起源が不明です。
状況からすると母由来だと思うのですが、
明確にこれが最初の又は致命傷になる一撃だと言えるものが
まだ実感を持って思い出せないのです。
心当たりがありすぎて特定しにくいことと、
今の私の解像度がまだ低いことが理由だと思います。
さて、この症状のことを自我復元を始める前は、
やる気や根気や集中力の無さ、だらしなさ、
先延ばしの癖として自覚していました。
訓練すれば改善するはずなのに、
その努力を出来ない私はダメな奴だと自分を責めながらも、
どこか他人事のようにのほほんともしていましたし、
根拠も無く何とかなると感じていました。
何がどうダメかを今一把握していないのも、
辛いのに、のほほんとしていられたのも、
上で書いた「布団をかぶった」ような鈍覚のせいだったと思います。
そして初回の申し込みメールの時点で
「壊れてうまく動かない重機の操縦席で
「おかしい!動かない!」と首をひねる感じ。
計器見ながらアクセル踏んでも動かないのをいぶかしむ風情。」と認識。
今見返すと、確かにそうなんだけれど、
のんきだし、大雑把な認識だと感じます。
また(当時の)この症状において、
昔は認識できなかった少量の安堵があることがわかりました。
これは、辛い精神戦が終わったことへの安堵なのか、
私が自分の意志を貫けなかった事(=母の心を守った)への安堵であるのか、
まだ区別がつきません。もしかしたら両方なのかもしれません。
追記
後日の関心地図中に、ざわざわ感があったので追いかけたところ、
「何かやらなきゃいけないけれど、何をしたらいいか決められない。
だって決める機能がないから。
なのに決めなきゃ身の置き所が無い。」
という感じがする。
そして、ざわざわに追い立てられるように行動欲が出た直後、
「行動直前に強烈に気力が萎えるか逃げたくなる」感覚が起こり、
行動が横道に逸れ、大変に苦痛であり時間と精神力を消耗している。
その苦痛をマスクする為に、
本来すべきだったことではなく、
ネットの徘徊やゲームに時間を費やしている。
というところまではわかりました。
これは自我復元開始後に気がついた習性
「アクセルとブレーキを同時に踏んでいる感じがする」を
現在の解像度で理解したものです。
また、ざわざわはそのボリュームが上がると
不穏や恐怖や良くないことの起こる予感に近い感触になります。
これは外出先で用事が済んで、この後は街で好きなように
自由時間を過ごせることになったときにわかりました。
不穏な気分のまま服や靴や本を物色してみましたが、
気力体力が急速に減る上に焦燥感と不穏さは消えませんし、
気に入ったものを買ってもそれは変わりませんでした。
義務を果たし、何がしかの「成果」を手にしても苦痛が消えないとは!
そういえば過去においても、
各種「こなすべき事」を終えたところで充実感も安らぎも一瞬のこと、
毎回すぐにざわざわは押し寄せてきていました。
これらのことから考えると私は、
「こなすべき事」が無い空白時間を、
自己研鑽にも娯楽にも休息にも使えず、
ざわざわをマスクするための逃避行動の為にしか使えていないまま、
「成果」を勝ち得ても勝った気がしないまま生きてきたようなのです。
そしてそれは、恐らく小学校中学年の時には既にあったように思います。
それよりも幼い時にもあったかどうかは記憶にありません。
恐らく、母に頻繁に
「勉強しないの?」
「宿題やった?」
「早くしなさい」
「必死さが足りない」
だの、つつきまわされていた事あたりが臭いのですが、
「当たり」感に乏しく実感が湧きません。
今後も観察を続けて必ず正体を突き止め抹殺します。
さし当たっては、これを最優先で片付けていきたいと思います。
本当にこのコンボさえ無ければ、
相当に話が進むのが早かったはずなので
(もっと早くに2回目の判定申し込みをできたはず)、
そして私の人生は灰色の牢獄で過ごす囚人のようなものではなかったはずなので。
■■■■■■■■
「原因の回想」編
>>★服の買い替えの実行
母に買ってもらったものや、母のお下がりが余りにも多すぎました。
当然スポンサーの意向に沿ったものしか買わないので自分の好みとは違っています。
今思えばおかしいことですが、母は既に別世帯になった娘に、
やたらと服やかばんや靴を買い与えたがっていたのです。
海外旅行すら奢っていました。
母「1人分だとツアー代金が高くつくから、
ちょっとお金を足してあんたを連れてった方がいい」。
私「荷物もちや席取りや緊急時囮にも使えるロバみたいなもんでしょ、
行きますよどうぞ使って下さいねー」
こんな感じで、のこのこついて行った自分を、
今となっては絞め殺したいです。
話がずれました。服に戻ります。
たんすから服を出すと、今の私には着られないもの、着たくないものばかり。
外出用の服ほとんどが、流行と体型の変化により不良在庫と化してました。
ひきこもってルームウエア的なものばかり着ていたせいで気がつきにくかったのです。
今は母由来のものは喪服とかばん数個くらいしか残ってないと思います。
これもお金が入ったら自分で買いなおしますが。
それにしても、がっかりするくらい、
今の自分の美意識に合わないものが多かったです。
本当は、当時も美意識的には合ってはいなかったのでしょう。
例えそこそこ似合っていたとしても。
しかし、買ってくれることを拒否できなかったし、
処分することもできませんでした。
自分の美意識に合ってない理由としては、
・自分の好みが明確に主張出来るほどに形を成していなかったので、
代りに母の美意識を採用していた
・他人から見て無難・批難されないこと、
目立たないことを自分の美意識より重要視していた
・そもそも自分がどういう服をどのくらい好きかってことを
曖昧なままに過ごしすぎた
買ってくれることを拒否できなかった理由は、
・母の好意を無にするのが辛かった
・母のセンスを否定するのも辛かった
・母の意志や感情を丸ごと受け入れてあげないと申し訳なかった
・親子で買い物したり遊んだりすることは親孝行だと考えていた
・母に精神的・体力的・経済的に
優位に立ってもらい続けることが親孝行だと考えていた
買ってくれたものを処分しづらかった理由は、
・母の好意を捨てることになるから
・くれたものが無駄に高品質だから
(自分なら買えないし、何よりも価値あるものが
無下に捨てられることが非常に辛い)
・いつか使うかもしれない
だいたいこんな理由で不良在庫しかない箪笥になっていたのでした。
これを2013年から3回くらいに分けて処分しました。
一度にできなかったのは私に経済力が無かったからです。
自分で稼いだ金でしか服飾品は買わないし、病院にも行かないし、
遊びにも行かないと決めていたのでしかたありません。
しかし、絵の仕事は安い上に不定期。
まとまった入金がある時にしか大胆な処分は実行できなかったのでした。
気に入らないとはいえ、一張羅のコートを手放すのも、
数少ない外出できる服を手放すのも無理でした。
しかも何故か体調不良が酷くなり、
病院や歯医者に通いつめ、資金繰りが厳しくなる始末。
母由来の服を捨てようと思い立ってから、
ここまでくるのに何年もかかってしまいました。
一番最初の処分の時はものすごく勇気が必要でした。
しかし、最近はそのハードルは服に関してだけは下がりました
それと、服つながりで思い出したのですが、
母に会うとき自前で買ったものだけを身につけていると、
母の意志や思惑に流されにくくなってて驚きました。
もう、今となっては母由来のものは、呪いのアイテムのように感じます。
というか、本当に呪いのように縛る気満々で、
私に買い与えていたではないかと思います。
買い物の時に、「将来はよろしく頼んだよ」と、
冗談めかしてよく言っていたのですが、あれは本気だったのかなと。
お土産やお下がりをよこしてくる時は、
「いらないんなら無理してもらわなくていいから!」、
と、妙な空気で言ってきます。
もちろん私が受け取ること前提で。
かつてはツンデレ風に
(表面は強気ながら受け入れてくれるか少々不安がある感じ)、
ちょっと前は、おどおどと探るように。
会えば何かと物を寄こしてきたものですが、
私の態度が変わってしまったせいか、最近はほとんどそういうことはありません。
そもそも無駄に会わないように気をつけるようになったのもあるのですが。
今年の正月にはやっと自然に
「もう物を増やさないようにしてるからいらない」ときっぱり言い切れました。
当たり前な上に、しょぼいことではありますが、
これは私としては結構なエポックメイキングという感じでした。
追 記
最近気がついたのですが、母がやたらと物をくれようとするのは、
母なりの好意であり絆を形成するための行為だったのかもしれません。
とはいっても、母の好意とは
「私の精神的奴隷・痰壷・安定剤になってくれるよね?」というものであり、
絆とは堅牢な支配構造のことであろうから、全くもって嬉しくないのですが。
ところで、私と母との関係性には年代別に性質の違いがありまして、
1/幼少時〜高校生→常時怒られてうなだれているが、
無意識かつ行き先の無い母への反抗心があった
2/大学〜社会人(高収入)→両親との接触頻度が少なく、開放感に溢れている
3/社会人(低収入)〜結婚後自我復元前→母と最も「なかよし」だった蜜月期
4/自我復元後→母が敵だとわかった時期
今思い返すと、一緒に買い物や旅行をして「仲良く」過ごしていた。
この期間は最も「物」をもらっていた時期なのでした。
それまでも当然もらっていたのですが、
扶養義務の延長線程度と捉えていました。
しかし、どういうわけだか私が学生だった時よりも、
明らかに「物」は高額になり頻度も上がっていたのでした。
そして、「物」の娯楽要素も増えていました。
生活必需品ではなく、
贅沢品や娯楽のためだけに存在するものの割合が高くなっていたのです。
仲良し期には、これまでの時代とは打って変わって小言や説教が消滅しました。
また、ピリピリしたオーラも無くなり余裕さえ感じさせるようになりました。
そこへ来て、ふんだんに物をくれ、一緒に遊ぶようになったので、
ここで母に対する印象が一気に良くなった事を思い出しました。
なんで急に怒らなくなったのか、少々疑問にも感じましたが、
そこは当時は流しました。
一緒に海外旅行に行き、買い物をし、カメラ修行をして楽しく過ごしました。
恐ろしいことに全て「奢り」です。
この期間は8年間あり、
「とても穏やかで特に大きな問題もなく楽しい時期」でした。
両親と私の3人で遊んでいると、
世界から切り離されて3人でパックされたような感じがしました。
しかし、生命力の枯渇が最も進んだのもこの時期なのでした。
生きながらに腐れて行く濁ったピンクの肉、
生まれることなく胎内に吸収されていく胎児、
漠然とした理由の無い死への恐怖
こういったイメージを映像として
頻繁に見るようになったのもこの時期以降です。
停滞感、じりじり退化していく感じを日々感じており、
ゆっくりと時間をかけて、
それを「大人になったからだ」「若い時期が終わったからだ」
と納得していった覚えがあります。
大人になることは、
歩みを止めること、戦いを止めること、
みたいな事も思うようになっていました。
この停滞感や腐る肉のイメージは、
何でもない穏やかな日常を大切に生きる事の代償なんだ、
とも思っていました。
が、冗談じゃありません!
大人になると生腐れるのが当たり前で、それを受け入れろだなんて!
昔から無気力で怠惰ではありましたが、
この時期までは腐敗を受け入れてはいませんでした。
そのことを思い出しました。
というか、やっとわかりました。
母に支配され自分がどんどん消滅していったのが、
この時期だったことを。
そのことを腐る肉のイメージで日々見ていたにも関らず、
私は今まで何も気がつかなかった。
私の中のある部分はずっと警報を出していたのだと思います。
警報が来ても何が起こるのかと、
その原因とを結びつけることができなかった。
今年の1月に不快年表を書いたのですが、
「自分がゆっくり死んでいく」感と、当時の出来事は、
既に書き記されていました。
しかし、今の今まで、関連性が一切掴めなかった。
遅い!
金と物と笑顔がどんなに恐ろしい効果があるか、やっとわかりました。
母に対して、
「勝てなきゃ死ぬ、戦わなきゃ勝てない」と常日頃、
謎の反抗心を感じていたのはちゃんとした理由があった。
実際に「殺されて」いたからです。
そういえば幼少時、
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない強情な子だと、
散々怒られていましたが、
それは敵に対して屈服するのを良しとしなかった事の表れだったのだと思います。
母以外にはありがとうやごめんなさいを言うことに、
抵抗がありませんでしたから。
>>★若干物を処分しやすくなった
この半年は特に加速がついた気がします。
母由来のものであろうと、自分が買ったものであろうと、
売ったり捨てたりしやすくなりました。
普通の人からすると、まだまだダメなのだと思いますが。
どう考えても自分にデメリットしかない情況でも、
本当に物が捨てるのが辛いのです。
服と本は処分することに相当慣れてきたのですが、
食品、書類、工芸品、高額商品、強い思い出がこもるものが
まだ不当に辛いです。
食品、工芸品、高額商品などに対しては、
・「存在意義を全うさせてやれなかった」
・「価値あるはずのものを無残に壊し汚し捨てる」
・「望まれなかった子供を森に捨てる」
的な罪悪感に囚われて、そこから先に進めなくなるのです。
保証書や契約書や領収書などの書類に関しては、
「貴様の覚えていない不始末がいつか襲ってくるだろうが、
その件に関する証拠になるものを手放していいのか?
破滅してもいいのか?備えよ!
備えたところで貴様に逃げる場所などどこにも無いがな!」
と脅されているように感じ、恐怖と不安に追い立てられます。
書類の類は見るのも触るのも辛い物質です。
リサイクルショップに回すと罪悪感が激減することがわかったので、
工芸品や高額商品はこの線で行こうと現在箱詰め中です。
多分回を重ねれば慣れてくるとは思います。
問題は書類の恐怖と思い出アイテムの罪悪感。
これは、ちょっと今は具体的な対策が思いつきません。
いや、ちょっと待ってください。
書類恐怖にに関係するであろう記憶を今思いだしました!
学校からのプリントを見せずに溜め込み、
母から怒られ続けた記憶が関係している気がします。
恐怖の構造がまるっきり同じなのです。
ちゃんと対処したかどうか、
記憶がおぼろげになるまで放置した学校からのプリント。
これが恐らく書類恐怖の原風景です。
1日親に出すのが遅れると1日分恐怖と不発弾が増える。
母に見せるのが遅れれば遅れるほどにそれらは増える。
かといって、プリント自体をこっそり捨ててなかったことにする
ということは、何故か大罪に感じてできなかった。
学校からの連絡や行事自体を
無かったことにしようと思う程には思い切れなかった
ただひたすら恐怖と不安を背負いながら日々を過ごし、
背負いきれない程大量になった恐怖と不発弾は、
いつの日にか母の激怒と長く執拗な説教によってチャラになる。
巨大な重荷がチャラになる為には、
精神的にも現実的な意味でも最悪の状態を通過しなければならない。
用件の期限ギリギリになって
どうしようもなくなって母に自発的にプリントを提出するか
(まさに自分で断頭台に立つ気分)、
強制的に母に溜まったプリントをかばんの底から出させられる
(ある朝突然逮捕状を突きつけられ身柄確保される気分)
そして期限ギリギリに迫った要件をマッハで片付けさせられる。
片付けられなかったこともあったはずなのですが、何故か記憶にありません。
これでやっと「その1件」に関しては開放される。
しかし、放置した不発弾は複数発、
いい感じに時間差で途切れなく配置されているのです。
これを小中高と12年間休み無くやっていたのです。
こんな行動パターンになるための「最初の一撃」は
プリントの件自体ではない可能性もあります。
ですが、こと書類のみに限った恐怖と嫌悪は高確率でこの件が起源だと感じます。
・「隠さないと怒られる」
・「見つかると怒られる」
・「素直に出しても怒られる」
・「紛失すると怒られる」
・「用件の中身を忘れると怒られる」
・「用件自体を遂行できないと怒られる」
・「その件に関する恐怖と不安が終了するには手続きとして
「社会的or精神的に殺されるクラスの」苦痛が不可欠」
これらが刷り込まれた後に、
自分に関係する書類を処分するに当たって、
「社会的or精神的に殺されるクラスの苦痛」無しに書類の処分をすると、
手続きを踏んでないが故に巨大な不安と恐怖が残る。
そういうことなのだと思います。
だから、今でも大学生のときのアパートやネットの契約書、
以前勤めていた会社の契約書、子供の頃からの手紙が捨てられていません。
捨てようと何度も試みましたが、凄まじい恐怖と不安が襲ってきてダメでした。
それに、ある朝突然、警察なり何がしかの取立ての人達なり機関なり、
とにかく自分個人で抗えない正しさと力と無慈悲さの権化が踏み込んでくる光景を、
幻視するのです。
全く持って非現実的だとは思うのですが妄想も恐怖も消せません。
中略
書類を見るたびこんな恐怖に襲われるのです。
そして、こんな風に記憶が薄かったり無かったりする件は、
だいたい自分ひとりで決断し行動した件なのです。
「怒られて心を折られてないから終わった気がしない」だけでも酷いのに、
自分が自力で行動すると記憶も経験値も貯まらないというのもなんというか、
酷過ぎて意味がわからないです。
私とは一体なんだったのか。
母の心を癒すサンドバッグだったのでしょう。
それか、遠隔操作と余所から入れられたプログラムによって、
無人なのに動いてる不審車。
無人なのが外から見て分かるから、
人に良い様に動かされたり、いたずらされたり、
イライラされたりした挙句、見放される。
なぜなら、付き合っていこうにも
「中の人」の存在や意志が一向に分からないから。
いじめてきたり馬鹿にしてくる人達には、私のことは、
敬意を払うべき同じ人間には見えなかったのではないかと思います。
鋭い人なら「中の人」がいないことすら見抜いたでしょう。
実際そのような意味のことを揶揄されたような記憶は何度かあります。
当時はまるで意味が分かりませんでしたが。
この書類恐怖の件で思い出しました。
自我復元開始後1年くらいまでの間は、
「この世で一番無能で不確かで信用できないのは
自分(主に意志、感情、感覚の面で)」
と心の底から実感していたし、信じていたし、他人にもそう言っていました。
しかも自分のダメなところを正直に申告しているのだから、
これは誠実な振る舞いのはず。
賞賛してくれてもいいよ?、とすら考えていました。
しかし実際にはこの言葉は、
「この車運転手いないよ!
しかも鍵も掛かってないよ!
好きに荒らしていいよ!
しかも怒らないよ!」
もしくは
「変な人、なんか気持ち悪い。」
くらいにしか、
他者には、解釈できないのだと気がつきました。
自分の意図とは全く違うサインを
他人に向かって送っていることに気がつかなかった。
そして、この言葉を一番回数多く言った相手は、
母だったと思います。
その際には高頻度で
「お母さんが一番確かで有能でしっかりしている」
という言葉も添えていたように思います。
母は私の情けない言葉を注意するでもなく、
当然といった雰囲気で満足そうに微笑むのみ。
言った私も孝行した満足感と安心感で、心和ませている始末。
その場に居合わせている父も、やはりニコニコしているだけで
疑問も不快感も感じてないばかりか、
「お母さんは常識あるしキチンとしているからなあ、
何でもまかせられる」と完全に同意。
このおかしさに気がつけなかったし、
完全に受け入れていたのだからぞっとします。
>>★新しい人間関係を築こうとしてどれも失敗に終わったことと母について
最初の申し込みの後、いくつかの人間関係に関する試みをしました。
友好的な人間関係を新たに構築し、それを維持するというものです。
しかし、今のところどれも惨敗でした。
具体的には、派遣会社に登録し3ヶ月働いて、知人友人を増やす。
ほぼ縁の切れた古い同僚に会ってみる。
ほぼ縁の切れた古い知人の紹介で大学院でボランティアをする。
の3本です。
どれも躓いたところは一緒。
A 自分から相手に働きかけることが出来ない
B 自分の中に確固たる主体が居らず、
自分の欲求がよくわからないので相手に働きかける動機が薄い
Aは試みの前から自覚はしていました。
しかし、Bに関しては全てが失敗した後、つい最近気がついたことでした。
Aに関しては自分発の欲求を相手に伝えることができない
ということなのですが、
どうも自分から何か働きかけるという発想自体が既に無いという事と、
自分から何か働きかけても受け入れてもらえる気がまるでしない
という事の2つが要因だと思います。
他者からの要請には可能な限り応える事、
自分は他者の邪魔を絶対にしない事、
邪魔をしないためには黙って何もするな、
というのが、私の中に岩のようにしっかりあってどかすことができません。
どう考えても幼少時の環境と母の接し方のせいなのですが、
いまいち実感が湧きません。
母は幼児の私とは遊んでくれず、怒ってばかり。
内容は、
「早くしなさい」
「きちんとしなさい」
「片付けなさい」
ばかり。
そのころ母は病弱だったのでそばに行っても追い払われるし、
皮肉や冷淡な言葉しか返って来ませんでした。
多分嫁姑間のストレスが最も強かった時期なので、
常にイライラしていた事もあるのでしょう。
自作の服、自作のおもちゃ、
そういうものは結構ふんだんに与えてくれるのですが、
何故か一緒に楽しく遊んだ記憶がありません。
父はというと、大変に忙しく、極力邪魔をするな、休ませてあげて。
母にそう言われて、だんだん父にも遠慮するようになっていってたはずです。
なので、私の遊び相手は主に虫と猫と本とおもちゃでした。
母と遊んだ記憶はゼロというわけではないのです。
しかし、一緒にぬいぐるみで遊ぼうと寄っていっても、
母は私の顔を、にやにや見ながら、
ぬいぐるみの耳や首をひねり上げて虐待するし、
一緒にお絵かきしようとしても、
「みなさい!私の方が上手」と誇示するように絵を描くのです。
幼児相手にです。
母は絵を趣味にしていて実際上手くはあったのですが。
私が嫌いな、にんじんを食べてみせても
「馬みたいだね」と鼻で笑う始末。
とにかく自分から母に働きかけていって、
楽しい目に会ったことはあまり無かったはず。
実際自分から母にくっついていった記憶は1つしかありません。
恐らく3〜4才、お父さんとお母さんどっちが好き?と言われて
2人の間を行ったりきたりした、そのときのみ。
幼少時に困ったり怖かったりすることがあったときは、
恐る恐る母に上申したものです。
十分酷い目に合って泣いてるというのに、
母にがっちり怒られてまた泣くからです。
もちろん私に非があるか否かは問題ではありません。
今思えば母を恥をかかせ、イライラさせ、不安にさせ、
恐怖を感じさせた時点で有罪だったのでしょう。
説教は常識と理論で絡めとり、屈服させるまで決して私を逃がさないスタイル。
しかし、暴力や締め出しや監禁を使ってないので
これは正しい躾であり、反論できない。
当時はそう思っていたのです。
怒ることなしに、イライラした空気無しに、
怪我の手当てや、問題の解決や救援を受けた記憶がありません。
ちなみに「心配するでしょ!」は頻出ワードでしたが、
現在の私が記憶を再現すると、
どう考えても私の身を案じたのではなく、
母自身のもともと持っている不安や恐怖の八つ当たりにしか見えません。
これでは、何かを自分から言う、ということに消極的になるのも、
無理は無い気がします。
しかしこれは記憶のある4〜5歳児の頃の話。
同時期に保育所でたくさんの友達と楽しく遊んだ記憶は無いし、
自分から誰かを誘って遊んだ記憶も無いのです。
もしかしたら、保育所という外界に出る以前には既に、
コミュニケーション面で問題があったのかもしれません。
だとすれば当時ほぼ母と二人きりであったのだから、原因は母であろう。
そんな推論はできるのですが、
実感の伴った強烈な感情と記憶がまだないのです。
ただ、少し前に私が4歳位のときの母の写真を実家で見たときに、
一瞬で全身総毛立ち、猛烈な恐怖に襲われた事はあります。
あれは自分でもぎょっとする程の、生死が掛かっているレベルの、
一方的にやられるだけの絶対に勝てない天敵という感覚でした。
絶対昔何かあったのだと思わざるを得ない、
ものすごい、くっきりとした感覚。
しかし今はそこで何があったのか、
具体的な記憶を掘り出すことができません。
Bについてなのですが、心から「この人と仲良くなりたい」
「一緒に何かをしたい」という欲求が溢れてきたことが無かった事に
気がつきました。
他人に遊ぼうと誘われて遊ばないと、
遊びたいという欲求に気がつかないというのでしょうか。
遊んでみると確かに楽しいのだけれど、
自発的に遊びたいという欲が湧いてこない感じなのです。
外からの刺激を楽しいと思っても、意識的に自分から求めないあの感じ、
「夢の中の自分」のように主体性が薄い感じといえばいいのでしょうか。
中略
>>★聞く音楽が明確に変わった事
これまでは浮遊感や美しさを求めてテクノを、
どうしようもない無力さや恨みの念を癒す為に、
「日陰者の傷のにおい」のする音楽を好んでいました。
しかし自我復元開始後1年以内に、
それまでとはうって変わって、生命力、炎、感情、迫力の塊のような音楽を、
好むようになりました。
シンフォニックメタル、バイキングメタル、メロディックスピードメタル等です。
内容的には戦士、騎士、ドラゴン等が出てきて、
勇ましく壮大で熱くて音がでかくて早い。
最近はこれにオペラも加わりました。
これは明らかに、自分に足りない要素、
もしくは失われた要素を補充するものでした。
もっと命、熱、重さ、力、速さが欲しい、
自分の中にエンジンの音を感じたい、
誇りが、「かっこよさ」が欲しいと飢えて憧れていたのです。
ここでいう、かっこよさとは、自我復元を成し遂げた方々に共通する、
潔さや決断力や、難しくともやり通すあの感じのことです。
自分の中に、かっこよさが致命的に足りない!
かっこ悪すぎて生きるのが辛い!
己の醜さ、無力さ、無価値さ、無気力、卑怯さ、希薄さ、
何もかもが辛い!
実際に去年の夏あたりには、
「かっこよさが足りなくて死んじゃう!」と号泣しながら聞いていたものです。
去年にはライブにも行って見ました。
ボーカルの声がレーザビームのように貫通力があり素晴らしかったです。
意外にも、会場は私のようなオタクまるだしの人間が、
結構な割合を占めていました。
メタルということで、自分とは間逆に位置する、荒くれ者が多いのかと
恐れつつも期待していたのですが、ちょっと肩透かしでした。
異種族の中に入っていくことで、何かが変わるかもと期待していたのです。
それはさておき素晴らしいライブではあったので、また絶対に行くと思います。
あの内臓を震わせる感覚はヘッドホンでは味わえない快楽でしたから。
>>★趣味の変化について
写真を撮らなくなりました。
もともと母が無理やりに近い形で私にカメラを持たした事で始まった、
母に植えつけられた趣味だったのです。
高級な機材をホイホイと買い与え、
一緒に写真を撮ろうと山林や湿原に連れ出され、
いつの間にか好きになっていた、そういうものでした。
しかし困ったことに、もともと絵を描くことに近い感覚のある趣味なので、
その延長感覚で実際に楽しいのでした。
そして楽しいからこそ、支配のための飴として有効なのです。
今思えばこの趣味は、
私の主体性というか生命力をいい感じに削いでくれました。
ただ物を与えるだけでなく、一緒に遊び、同じ事で盛り上がると、
私はどんどん母への反抗心を失っていきましたから。
笑ってしまうのが、
上から目線で私に伝授した写真も、
私が上達してくると同時に、母は興味を失ってしまったのです。
実際のところ、私の腕前がどういうものなのか、
確かめたことが無いのでわからないのですが、
母としては何か面白くなかったのでしょう。
しばらくの間は例え私の写真を褒めても、
「ピントが合ってない、見切れている、ぶれている」等、
必ず難癖をつけてきたのですが、
あるときから私の写真を褒めつつも、
自分(母)の写真は図鑑のようにきちんと正確に取れてるから!
と、聞いてもいないことを言うようになりました。
その後、私にコンテストに出すことを薦めるようになって、
母自身は写真から手を引いたのです。
もしかしたらまだ撮っているかもしれませんが、
私を誘うことはなくなりました。
問題は私の手元に残ったカメラです。
写真が面白いことはわかっていて、
また写真を撮ってみたいと思っているのですが、
そのときは自分で買ったカメラで再始動したいと思います。
母からのカメラ、これを母に返すべきか、売り払うべきなのか、
どうするのが最善か考えている最中です。
>>★観る夢の傾向の変化
自我復元作業をはじめてから3年くらいの間、
これまで見たことのない特徴的な夢を繰り返し見ていました。
引越し、入学、入社等の新生活の始まりで、門出・幕開け感のある夢です。
中でも引越しと思われる場面を何度も見ていました。
爽やかな新居か搬出が終わった空の部屋に、
たたずんでいるものが多かったです。
色彩も爽やかで明るく瑞々しい、光に満ちた、まさに幕開けな感じ。
今思えば引越しの作業自体の光景は一切見たことがないのですが。
その後ある夢を境に、
「爽やかで呑気な幕開け感の夢」はほぼ無くなりました。
起きた後でもしばらく気になるくらいには衝撃でした。
内容としては、
「実家の家屋ギリギリの距離まで、
白くて大きなワゴン車が突っ込んで来た。
敷地の角にあった電柱をぶち折り、塀を壊し、庭を破壊して
車は止まった。
車が突っ込もうとしていたのは、
かつては私のものであり、後に母のものとなった部屋」
というものです。
これ以降現在に至るまで、自我復元に関連のありそうな夢は、
自分の係っていた部屋なり家屋なり作業場を
片付け・掃除・駆虫する夢ばかりになります。
どれもかつて自分が住んでいた実在の場所ではないのですが。
片付けをしているのは自分であることもありますが、
知らない複数の他人であることもあります。
これらはだいたい彩度明度が低く、
どうにも寒々しいイメージであり、幕開け感は微塵もありません。
舞台となる部屋もだいたいみすぼらしくて荒れ果てています。
カビ、埃、煤けが酷くて水墨画かモノクロの古い映画のよう。
どの夢も特に感情が動くことのない、淡々とした気分。
そして今に至るまで、
その片付けが終了した場面はまだ見たことはありません。
かつて何度も家財搬出後の空の部屋の夢を見たというのに。
また登場人物の変化もありました。
身内の一人が良く出てくるようになったのです。
これまでほとんど見たことのなかった人間です。
これは自分でも驚きでした。
夢では*は私に好意的であり、同情的であり、
一緒にドライブしていたり、
私の片付け・掃除・駆虫作業を手伝ってくれたりしています。
追記
上記のほかに特徴的な夢のレパートリーが増えました。
一つは夢の中の私が住む家の構造に関するもの。
自室の壁面が、ふすま、レースのカーテン、
ガラス戸だけで構成されていて憤慨している。
上の階の住人の工事ミスで天井に大きな穴が開く、
勝手に他人がぞろぞろ入って通り抜けられる構造の家等。
もう一つが、圧倒的多数の敵の中、隠れたり逃げたりするもの。
相手は敵国人だったりゾンビだったり
街の防衛システムだったりとバリエーションがあります。
それと秋の初めに強烈な夢を見ました。
私に関する重要機密を探しているが、
ことごとく母に阻止される夢です。
重要機密を隠した場所をそれとなく指し示す青年が、
母に首を絞められ顔の肉をえぐられ断末魔の呼吸音を響かせる。
その青年は前世の私、あるいは私の分身で(という事になっていて)、
精神遅滞であるか後天的に意志や知能に障害を持った青年。
20歳は超えていそうなのに小学生のようにも見える。
それが数人。
皆、身振りや視線で隠し場所を示すが、
全員母には抗わず、大人しく虐待される。
もちろん私も追われるのだが、
必ず青年達が真っ先につかまり、殺されるか半殺しにされる。
起きた時呆然とするくらいに衝撃的な夢でした。
>>★周囲の人間に対する認識の変化
母について。
今からどんな技を繰り出されても、母の株はもう上がることはないでしょう。
健康的な食事を用意し衛生に気をつけ、
病院や学校に十分に行かせて、
暴力がなく、
兄弟間に、金銭や物理的な待遇の差が無くても、
それでも私のような人間は育つのですね。
具体的なことは書ききれないので骨子だけまとめると、
母が私に強いた事は
・母の意思どおりに考え、感じ、決定し、行動する
・母とは違う考えを持ったり、母の想像のつかないことを考えたりしないこと
・母に反逆をしないこと。
例え戦ったとしても勝てない生物でいさせること
・常に母の支配下にあること
・常に母のサンドバッグや盾や笑い話のネタ元(道化?)であること
・常に母よりも不幸で不満足で不自由であること
・しかしシビアな不幸は母の繊細な心が痛むので良くないこととされる。
ヘビーな不幸は面倒だし、処理能力を超えるから。
・決して母より強く賢く美しく自由になってはいけない。
母の優位性と有用性を脅かしてはならない。
・母に恐怖と不安を感じさせてはいけない。
例え私自分を殺してでも。
・心理的にも物理的にも母に手間をかけさせてはいけない
思い返してみると本当は幼少時から色々な事があったのです。
私が全く気がつかなかっただけで。
物理的な派手さはありませんが、地道にこつこつと慎重に、
長い年月をかけてやってくれていました。
自我復元が無かったら一生気がつかなかったでしょう。
最初の判定をお願いした後のメールのやり取りで、
初めて母に疑問が発生。
そのまま復元作業は続行。
その2ヵ月後、母と海外旅行をした際にはっきりとした違和感を感じ、
最初の判定から5ヶ月目には、毒母言動を列挙できるようになっていました。
そして、それらが母の性格の問題点や私自身の性格・欠点と
どう関係するのかもほぼ同時に判明。
当時は、私の解像度が低いせいで確信を持てなかったけれど、
今見返してもそれほどずれたことは記録に残してはいませんでした。
どうして今まで気がつかなかったのか!
きりがないと思ったけれど、やっぱり少し列挙してみます。
・素敵な工芸品を見かけると「これなら自分でも作れるし」がお約束。
自分じゃかなわないセンスだった場合
「これならあんた(私)でもつくれるでしょ?」
と私に話を振る。それが作者の目の前でも。本当に止めて欲しい。
・なにかというとキチンとしてないこと、精密でないことを批判する。
それが他国の民芸品や芸術品でも私の書いた書類でも
他国の鉄道のダイヤでも、あらゆるものを得意げに。
自分の能力を上回っていたり個人の管轄外のものを批判したい場合、
「日本人だから」と民族の特性を傘に着てまで、
キチンとしていないことを批判する。
・私がが家族に彼氏(現在の夫)を紹介すると、
明らかに異常な敵愾心を表し、初顔合わせの会食の席で彼を完全無視
・私が夫婦仲良く幸せそうに過ごしていると
「夫がいると大変でしょ息が詰まって」と水を差す。
「特に苦労は無いが?夫大好き」と返事をすると何故か悔しそう。
・母の薦めた趣味を私がはじめると喜ぶが、
私の方がうまくなるとさりげなく辞める。
そして新たに始めた趣味の腕前を自慢するというか褒めさせたがる。
負けはイヤなのでコンクールや品評会等の
外の世界には自分の作品は持ち出さない。
・私がいやな目にあっても私を助けたり慰めたりせず、むしろ苛立ち怒り叱る。
例)祖父母(父方)が嫌がる幼児の私を追回し構い過ぎ、
触りすぎているとき(幼児〜学童期)
級友からのいじめがあったとき(小中学生時)
・「教えてあげている」という体で脅してきていた。
脅している時は嬉しそう。
例)外反母趾=恐怖の手術が待っている(学童期〜青年期)
迫り来る老いと死の体感について説明し「これが死だ」と脅す(近年)
一般基準や道徳の道に外れる=最悪の恥&悪徳(幼児〜青年期)
私のお気に入りのぬいぐるみを私の目前で笑顔で虐待する(幼児期)
・「あんたおかしい!精神分裂病なんじゃないの?!」
威嚇するように蔑むように言われる(幼児〜学童期)
私が怒られても引かずに反論したり、ぶちきれて極論に走ると良く出たフレーズ。
後で医学書で症状と処置を確認しイヤな気分になっていた。
今考えると当時の私の状態と統合失調症の症状とは合わないので、
単純に私を脅したかったのだと思う。
・幼少時お手伝いをすると「仕事が増える!」と怒りとともに拒否されるか、
やらせた上で不完全な仕事ぶりを怒られる
・自分の父(私の祖父)の死に際し涙一つ見せず、
まるで長年の敵が滅する様を見るような表情だった。
絶対親子関係はうまくいってなかったのだろう。
・あらゆる注意や忠告や手助けは必ず上から目線であり、
嘲笑や苛立ちを混ぜる。対象は父と私のみで他の家族は除外。
・近年なにかというとと「親に似てるのねえ」を繰り返す
その際「不恰好で不利な特徴」ばかり父に似ているといい、
父を不機嫌にさせている。
笑顔で定番の冗談として言うが、頻度が高いし、得意げで嬉しそう過ぎる。
温厚な父をして「良いところは全部お前(母)から弟にいったんだろ!」
とキレさせるレベル。
これらを全部、普通で全うなこと、として受け止めてました。
他にもあるのですが、
何が決定的な一撃だったのかは未だにわかりません。
思い出せる案件が全部現象としては、
小粒なのもわかりにくさの原因だと思いますが。
私の感触ではこれだけではないはずなんです。
以下は私の幼児期の負の思い出です。
・みんなと楽しく遊ぶのが苦手、というか楽しさがわからなかった
・既にいじめられていたし、反撃もできなかった
・はしゃいだり奇声を上げたり走り回ったりする子を蔑んでいた
・ご飯を食べるのが苦痛で遅い。
昼食時間内に食べ終われずに保育所の事務所に移動して食べ続けるので
昼休みに遊んだ記憶が無い。
・一人で図鑑を見るのが好きで、絵本の存在意義が良くわからなかった
感情や感性の部分で理解ができず、
絵本の簡単な文章と内容を「幼児だからと馬鹿にしている」と思っていた。
・自分は拾われてきた子なんじゃないのか妄想
・さびしいとか甘えたいとかで辛かったが、脳内の妄想で補充していた。
人間以外の大きな哺乳類なら体温をくれるのではないか?等
・自分では支配しきれぬ存在感や負けや恐怖を嫌う母は、
私のことを「大人しくて扱いやすい良い子」と評価していた
保育所に通っている頃(4〜5才)には既にこの状態ですし、
小学校1年生の父兄参観で私を見た父は
「みんな楽しそうなのに一人で窓を見つめて、
なんてさびしそうなんだ、どうしたんだろう」
と不思議に思ったそうなのです。思っただけで終わったようですが。
未だに感慨深げに言われるので、本当にそうだったのでしょう。
実際当時友達と遊んで心底楽しかった記憶はありませんし、
既にいじめられてましたし。
なので少なくとも6歳までの間には、
私は残念な人間になっていたことになります。
そして当時私と密接な交流があったのは母です。
交友関係が貧弱な私は母としか付き合わず、
他に逃げる先は無かったでしょう。
というか、既に逃げる先は妄想か図鑑か自然環境でした。
以上のことから、
私がこんな状態であることの戦犯は母だと思っているのですが、
どうにも具体的なとどめの一撃が、わからないのがもどかしいです。
話は変わりますが、母は私を育てるにあたって
「一人でちゃんと働いて生きていけるように」
と気をつけていたのだそうです。
母の話を総合すると、
・何でもキチンキチンと油断無く精密に定刻どおりにすること
・絶対に突っ込まれないよう、落ち度の無いように振舞うこと
ができるように目指していたようなのですが…
しかし実際には、私は落伍者で、引きこもりになりました。
本当の「一人で生きていくための能力」っていったいなんなのか?
少なくとも母が教えようとしていたことではなかったなと思っています。
それがわかったのは、
アバターという映画を見たことがきっかけでした。
映画のストーリーとは多分少し関係の無いところで衝撃を受けたのです。
本来親が子供に伝えるべき
「一人で生きていくための能力」のうちの一つとは
愛し愛されるだとかそんなものよりもっと手前にあるもの。
自分vs世界の関係の法則を信じられることなのではないかと。
押したら押し返される
何かすれば何か反応がある
問えば答えがかえってくるかもしれない
求めれば与えられるかもしれない
そんな感じの作用反作用の法則を、
私は信じてもいなければ理解もしていないことが判明。
恐らくは対人のみならず対世界
(個人ではなく集団としての人間、社会や経済の仕組みや法則レベル)
においてまで。
本当に確信が持てているのは物理法則くらいなのではないでしょうか。
映画アバターの主人公は、
非友好的な異星人相手に交渉し信頼関係を築き上げます。
何も知らない赤子状態で未知の惑星に放り出されても、
彼は出会った異星人に教えを請うと、怒らせてしまって、
かなりギリギリだったけど受け入れられて、
地球人とは異なる体の使い方から文化までを学習した。
そして恋人ができ、ライバルができ、一族の一員となり、
ついには一族の長にまでなった。
それは他者との接触・交流ができたから。
問いかけると答えを聞ける可能性がある。
助けを請うと助けてもらえる可能性がある。
対象に働きかけると何がしかの変化が起こる。
そういう作用反作用の法則を理解し、有効に使うことができたから。
だから知識0で、本物の裸一貫でも生き延びた。
なにもこんな絢爛豪華な大活躍でなくとも、
普通の日常を暮らすだけでも、
いや、生命維持のためだけですら、
この作用反作用の法則を理解し使えなくてはならないのに。
私は、それができていなかった。
これでは人間関係の維持も仕事も不可能です。
なるほど、道理で、
一人で完結することしかできなかったししてこなかった。
そもそもこれは、
この世で生きるに当たってもっとも根幹になるルール的なものなはず。
そんなものが使いこなせなければ何一つうまく行かないのは当たり前。
こんな状態で、よく今まで生きてたと思います。
いや、今引きこもりなので妥当な結末でしょうか。
すみません、やっと母の話に戻ります。
こんな基本法則を使えないようにさせるって、
最悪の子育てなのではないでしょうか?
家事を教えないとか学校に行かせないよりも遥かに酷い。
「一人でちゃんと働いて生きていけるように」
とか本気で言ってるのか?と思います。
当時は具体的な技術を、
厳しく一生懸命教えようとしているように見えたけど
今思えば自分の優位性・有用性を誇示したかったが故の言動にしか思えません。
しかも恐らく無意識にやっていることなので、
いくら母を糾弾しても理解してはもらえない気がします。
訴えたところでろくな反応が返ってこないでしょう。
普段の言動と母の両親や嫁姑の事情から想像するに、
母は私よりは法則を理解していそうですが、
他人を脅したり操縦したりする為に使用したように思います。
しかもそれが良くないことだと知っており、
悪事を堂々なせる程強くないので、
餌食になったのは恐らく家族のみ。
家族以外には、あくまでも、
お利口でお上品でお優しく善良で通していくスタイル。
なんてかっこ悪いんでしょうか。
悪なら悪で、威風堂々と明らかな悪でいて欲しかったです。
追記
そういえば母が普段私によく言う小言の一つに
「自分の事しか考えてない、自分勝手だ」というのがありますが、
諸悪の根源であるお前が言うなと言いたい。
そして、それは完全に母自身の性質の開示であったし、
母がかつて味わってきた辛さを、
私にぶつけていただけだったのだと今は思います。
恐らくずっと
「私のことを考えて!安心させて!喜ばせて!
そのためには自分の支配下について!」
そんなようなことをずっと言外ににじませてていたのでしょう。
こういうことはできれば人生の初期に気がつきたかったです。
私はなんて馬鹿だったのでしょうか。
そして今もなんて馬鹿なんだと思います。
私の母に対する感情は怒りと恨みと反逆が大部分なのですが、
この状態でもなお母を完全に「切る」のが難しいのです。
認めたくないのですが、
何がしかの愛着だか憐憫だか絆的なものを感じており、
それを完全に抹消できないでいるのです。
自我復元が進めば自分なりの決着がつけられるようになるのでしょうか?
父に関して
父に関してはダメだこりゃと思うことがあっても、
父からは悪意や人を操作しようとする意図を感じません。
両親は子育てに当たって、母が躾で厳しく指導する担当、
父が優しく可愛がる担当と役割分担をしたのだといいます。
役割分担は別としても父からは、私に対する敵意や悪意は感じません。
むしろ本気でかわいいと思ってくれている様子。
しかし、視野狭窄になりがちで思い込みが強く突っ走る。
そしてだまされやすい。
また、どうにもものの見方が薄っぺらで単純に感じるし、しかも鈍感。
うまくいえないのですが、
善良であり好意的なのにいまいち話が通じない印象があるのです。
純粋というよりは、なんだか精神のある領域をブロックされているような。
美しい良い話しか信じず、
邪悪な都合の悪い話は脳から締め出す傾向はあるかもしれません。
そして相談をしても現実的で有効な答えが返ってこなさそうな。
私には有効ではない、
教科書めいた効力の無いことを本気の目で言われそうな。
父の脳内にある父の想像した私を見ているのであって、
現実の私をきちんと見ていないような風情があるのです。
そして仕事を異常に根つめてやることも、
「不器用ですから」ではすまない何かがあるように感じます。
印象としては何かを必死にやり続けることを
「麻酔」や「めくらまし」として使ってるようにも見えます。
何を感じたくないのかまではわかりません。
しかし、すさまじい強烈な毒母(私には祖母)を持っていたので
それが関係するのかもしれません。
母よりも語ることが少ないのは、
辛い思い出が少ないことと、接した回数が少ないせいでしょう。
そして、仕事が忙しすぎたのも大きかったです。
私がつまらないことで助けを求めたが故に、迷惑がかかったら駄目なので
父はそっとしておこうと思わざるをえませんでした。
母もそのように子供に教育しましたし、
実際帰ってくると相当疲れている様子でしたから。
私としての印象は仕事の出来る人としては良かったかもしれないし、
人間としては善良だが、精神的な頼りにはならなかったと思っています。
母の話を聞けば夫としては不満足なところが多々ある様子です。
母の性格からすると、
どうせ誰を相手にしても完全に支配するまでは、不安で仕方が無いのでしょうが。
>>★崩残さんについて
実は最初の判定から半年〜1年くらいの間、
崩残さんに謎の怒りと恐怖を強く感じていたのです。
当時の記録を見ると、最初の判定から数ヶ月以内には、
お門違いの感情だということはわかってはいました。
しかしどうにも消えず困っていたのです。
今はもちろん消えたので、こうして報告を書いています。
これも2度目の判定申し込みがなかなかできない理由の一つでした。
自分に起こった変化の報告を書こうとすると、
いや、その手前の考えをまとめようとする段階で、
「でっもっさあ!あれだろ?どうせ勘違いや思い込みだって言うんだろ?」
「そんなに簡単にできると思わないでください、
だってお前だもの。とか言うんだろ?」
「それで鼻で笑ったあと無視するんだろ?わかってるぞ!」
「絶対に私の存在を認めないし、まともに相手にする気はないんだろ?」
「私の考えや感覚はどうせ間違いなんだろ?!
例え方向性はあってたとしても威力はないんだろ?」
「完全回答持ってきても絶対褒めないよな、わかってる?」
「私のこと、虫でも見るような目で見るんだろ?」
「何かが成功したとて認めないだろ?必ずどこかにケチつけるだろ?」
こんな風に頭の中が(自分の言葉で)荒れて、
それ以上全く筆が進まなくなってしまうのでした。
このまま報告を書けば2/3は上記の繰り返しで埋まるレベル。
むかつくことを言われた程度で、これはないだろう。
むかつくと言っても、
私の症状を、ありのままに告げられただけのことなのに。
しかもそれが正しいことだったと理解した後なのに。
まとめると、
所詮、私の思考や決断や感覚は全て間違い、的外れ、威力不足。
そして崩残さんはそれを馬鹿にして、私のことは未来永劫認めないだろう。
崩残さんにこのように扱われるのだと感じていたのです。
実際には、こんなことを長年私に感じさせてきたのは私の母なのに。
この感情は明らかに、母に対して長年抱いていた感情と同じものでした。
私をいたぶり決して逃がさない、無慈悲な灰色の聳え立つ壁への反抗心。
そういったイメージです。
私が脱獄物の映画をやたらと好む理由は、
このイメージが心から消えないからでしょう。
「畜生!絶対に死なねえからな!必ず生きて帰る!覚えてろ!!」
と鼻血出しながら叫ぶような、この感覚。
自我復元を始める前は、
もしや自分の前世は酷い扱いを受けた捕虜だったのでは?
そんなことを疑ったこともありましたが、
何のことは無い、毒を受けたが故の、ただの妄想でした。
しかし何故、崩残さんだけにそれを誤爆したのか?
他者に対してこんなに長く続く感情の暴走は、
これまでに記憶が無い、異例のことだったのです。
今でも理由はわかりません。
でも、崩残さんへの誤爆はいつの間にか消えていたのです。
長くなりましたが、報告は以上です。
長文を集中力を保ったまま書き続けるのは難しかったです。
まっとうな大人としての、
恥ずかしくない言葉遣いも勉強すべきだと痛感しました。
しかし自分の中の感覚を正確に表そうとすると、
頭もガラも悪く礼儀も知らないような表現に走ってしまいがちになります。
結局は私の中身がそのまま出ているだけなので、なんとも恥ずかしいです。
いろいろな面で、日ごろの精進が必要だと痛感しました。
ご多忙のところ恐縮ですが、どうか、よろしくお願いいたします。
___________
この本人の方は、まだ実感が、ないかもしれませんが、
この母親は、今年の「毒母親」大賞に、鈍く輝いています。
可愛げゼロです。
ただの鬼です。
今までに、基幹房さんのところの毒母親、
または、風琴さんのところの母親、あのレベルが最悪と思っていましたが、
その上を行っています。
体罰がないというところが、もっと姑息かつ巧妙です。
徹底した、愛情の欠落の見せつけと、
犯人が分からないようにしたトラウマ、
金品で手なづけたという意味で、
駆除するのに、厄介なトラウマAC人格のひとつです。
■ここのところ、男性の自我復元者の話題が多かったですが、
自我復元のブログを持ったことのある女性や、
現在、やめてしまったり、一度は掘ったことのある人たちの中には、
この人と同じように、
結局は、心身ともに、最後には、毒母親を頼らざるを得ない、
と思い込んでしまっているままの、
そういうAC人格のままにされている人が、
何人もいるように、私には思えます。
少なくとも、私の知るかぎりでは、7人ぐらいいます。
そして男性は普通は、金品は毒父親に支配されているのですが、
男性であるのに、母親にそれを握られているタイプの人も、
かなり少ないですが、います。
いずれにしても、金品だけの問題ではなく、
「私の子供のお前は、不幸のままでいろよ」
「そういうふうに、せっかく育ててやったのだから」
という「毒母の本音」を分かっていながら、
心のどこかで親を慕ったり、頼っている、そういう女性、または男性がいます。
しかし、これ以上、私にはどうすることも出来ません。
あとは、
(最悪のケースですが)、手遅れになった時でもいいので、
復元作業と、トラウマAC人格の問題に取り組む必要性に気づけば、
それでも、そのまま何も気づかずに、何もしないままに死ぬよりは、
いくぶんか幸運なことだと思います。
___________
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