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「分割自我復元」
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[541]
■
★分割自我復元★その541●【 報 告 より】●
by:
鈴木崩残
2015/11/30(Mon)03:19:24
報 告 より
■報告から、私事の部分を除いて編集したものですので、
全体の約半分ぐらいです。
■ところで、報告を下さる方にお願いが二つあります。
ひとつは、特殊記号(たとえば、丸数字)は使わないでください。
メール受信の段階で、既に文字化けしてしまい、番号がわかりません。
ふたつめは、これは大半の人たちは、ある程度読みやすく、
改行を入れてくださるのですが、読みやすい改行なしというものが、
たまにですがあります。(単なる改行のことではありません)
編集する側の私としては、今回の報告についても、やったことは改行のみです。
が、けっこうこれが大変なのです。
ところで、改行というものは、
私がネットをはじめた最初のころから、多用してきたものです。
また強調用語にあえて「 」をつけるのも私が初期から多用するものでした。
2000年当時は、どこのサイトも改行のない読みにくいものばかりでした。
紙に印刷をする本の場合には、改行をいれるとページ数が増えてしまい、
費用がかかるので、出版業界には改行を少なくする癖のついてしまっている人もいますが、
しかし非印刷媒体では、いくらでもスペースをいれられるのですから。
●今でこそ、どこのブログでも改行の多い文体になっていますが、
それは、他者に何かを伝えるときの、呼吸の間や、息継ぎだと思って
文を人に伝えるために書くという事の練習にしてください。
ただし改行や「 」を必要以上に使いすぎる読みにくい文章もあります。
要点を得ない、だらだらとして、しつこいだけ、
そういうバランス感覚の悪い人の場合になっています。
また、報告としてプリントアウトして読むときにも、
適切な改行がないものは、読むのに非常に疲れ、
または分析の区切り方が文意をつかみにくいということもあります。
そういえば、思い出しましたが、その点で、
マディアさんの報告は面白かったです。
逆に、改行を私が詰めないとならないほど、行間が空いていたのです。
報告のときに「間を活用」する人でした。
*********
■さて今回の方の報告は、いわば「独り言」のようなものです。
文中に、まるで読者の人や他者に向けて言っているかのような部分がありますが、
これは、あくまでも、この人がこの人自身に向かって言っているのだと
解釈しています。
ただ、気になるのは、ご自分でも、意志や実感が本当には、
まだ固まっていないものを、断定口調、強調口調で語る点もあることから、
AC人格に由来しそうな他者批判、ともとれる部分はありますが、
本来、これはブログへの掲載といったものではなく、
「報告文」ですので、こうした感情むき出しの箇所は、むろんあってかまいせん。
■全体に、苦しそうな息づかいの文となっていますが、
自分なりの行動療法を試みているという点で、参考になると思います。
AC人格を掘ったり、トラウマを分析したまま、
「ほら、トラウマを掘って、AC人格も分析したんだから、
変化がくるのは同然だ」とか期待して何も変化しない人にとっては
参考になると思います。
前にも書きましたが、
トラウマとAC人格の理解、これをするにも、誰であっても、
1年以上の時間はかかっていますが、
自我率がほとんど90%台後半になって、
ブログが止まって捨てられていたり、
あるいは報告が来なくなったり、
来ても同じところをぐるぐるしている人、
この場合に、最大の難関は、
「思考や行動を上書きして変える」ことでしか、AC人格の解除が出来ない、
ということが切羽詰って実感なされていないからだと思われます。
■このあたりは、それぞれ個々の人によって「タイミング」の違いがあり、
とても難しいのです。
ある人の場合には、まだトラウマやAC人格の理解が及ばないうちに、
行動療法のようなことを自己流にやっても、選択したその行動が、
AC人格によるものということはざらにあります。
これは下手に心理学や自己改善系の本を読んで参考にする人に多いです。
一方で、トラウマはかなり掘れたが、
それに基づく、どういうAC人格の行動を、自分がいつもしているか、
ということが、まるっきり見えていない人もいます。
さらに、そのAC人格の振る舞いが、頭ではほぼわかっていても、
現場や職場では、多少の文句を言えたという程度しか変化がなく、
基本的には、まるっきり今までと同様に萎縮したままとなり、
怨み言を頭の中で言っている状態のまま、妄想が止まらずに、
ふてくされた態度や、気晴らしをして、
ただ日々の生活をしのいでいる、といった人もいます。
このあたり、つまり自身のAC人格の挙動への理解と、
それを言動の上で変更して上書きする作業は、
自我復元では、最大の難関だといえます。
そのことは、
マディアさん、お姫ちゃん、朱いはがねさん、あびさん、基幹房さん、
この5人の自我復元の記録の足跡から、手に取るのようにわかると思います。
しかし、AC人格由来ではない行動を結構する、そのコツが一度わかると、
あとは加速的に全自我に向かうことも、事例から確かなことでした。
■今回の方の報告は、見る人によっては、不器用で、
無理のある力みも強いように見えるかもしれませんが、
これでこそ、いいのです。
かっこいい、体裁のいい自我復元などないのです。
切羽詰まったと自覚している人ならば、ただ必死になってやるだけなのです。
やり方にスマートも糞もありません。
一方で、「他者承認」とは、
無自覚のうちに毒親からの承認を「関係ない他者」に求めたり、
逆に、毒親へ反発して言いたかった事を「関係のない他者」に、
言ってしまうという病理ですが、
そうした、心の怯えと震えから、
「自己完結」する道にシフトするのが、自我復元です。
それが、他人から偉そうに見えるから、という理由でやったり
「自己完結している人間であるかのように」装いたいから、
というのでは全く駄目なのです。
また、私が提唱しているから行うのでもありません。
私が、書いたり、提唱しているのは「方法」と注意点のみです。
それ以前に、そもそも、
「自我復元による自己完結」を「したいか」「したくないか」、
それを決めるのは、あなた自身です。
他人から馬鹿にされると、機械的に「本気で怒ること」だけは出来たり、
怠惰にダラダラと、いつまでも物事をいじるだけしか出来ないのでは、
生きているとは言えません。
自分の「本当にしたいこと」を明確に決定して、
それに向けて 「本 気」 になれずに、途中でいつも萎える。
それでは、人間以前なのです。
___________________________
***************************
崩残様
こんにちは。
崩残様がお帰りになるまでは、
報告を定期的にお送りするつもりでいます。
どうぞ宜しくお願い致します。
中略
自分の気持ちを正直に相手に伝えることを心掛けている。
これをやっていると、言動不一致などということは有り得ないのだと分かる。
今までは、楽しいことは外からやって来ると思い込んでいた。
だから家でじっと待っていたが、
待っていても楽しいことなんかやって来ない。
自分で外に出て、楽しいことを探しに行くべきだ。
****
私は、相手に文句を言う時、
相手を怒らせたら殺されるかもしれないという恐怖心のせいで、
舌が極度の緊張状態になり、自ら話すことにブレーキをかけている。
体にACの逃避行動が染みついていて、
自動的に積極的な行動を抑制するようになっている。
ということは、相手にはっきり自分の思っていることを言って、
相手が怒った時、私は人生で初めて相手とやり合う機会を得るんだ。
これは経験してみないと分からないし、経験することが大事だ。
ならば、私は積極的に他人と会話をしに行かなければならない。
****
翌日、頭痛になった。
頭痛・体の具合が悪い・眠いのは、
AC人格から離脱するための禁断症状だと受け止めればいい、と思った。
こういう時こそ外出しよう。外出している間は頭痛がしない。
初めて行ったホテルのラウンジで紅茶とケーキを頼んでみたら、
すごく美味しかった。
お店の店員さんと積極的に話をするようにした。
聞きたいことがあったら積極的に聞く。
それから、お小遣いを増額した。
今までぎりぎりの額でやっていたが、そうすると遊びに行けない。
自分を遊ばせないようにしていたと思った。
****
ボイストレーニングに行ったのだが、衝撃的だった。
なんと、私はリラックスしてベロが出せない。
舌が常に緊張状態にある。
それ以外にも、呼吸と声帯が連動していないこと、
舌が緊張状態なので声帯が開いてしまって囁き声みたいになっていること、
呼吸の100%を声帯に送り込むべき所を、かなりの量を鼻に抜いてしまっていること、
意識を首の前の方に置いて発声するべきことを指摘された。
私は、幼少期から恐怖心のため常に極度の緊張状態にあり、
リラックス出来たことがない。
これが、その結果なのだ。
体が委縮して、意識が常に後ろ向きになっている。
二回目のボイストレーニングをやるかどうか考えていると、
先生の指導について行けるだろうかという心配をし始めた。
まず体をリラックスさせる方が先なんじゃないか、
という言い訳が浮かんだだけでなく、
体の調子が少し悪くなったり、すごく眠くなったりしたので、
どちらも意志で吹き飛ばした。
先月、血液検査をしたのだが、結果を見て確信した。
私の意識が、私の体を健康にもし、病気にもしているのだ。
体の具合の悪さはACの仮病に過ぎないし、
眠いのも逃避行動に過ぎない。
最近、母と仕事の分担について、
母の気持ちを聞いてから、自分の気持ちを言いながら文句を言う時や、
職場で言いたいことを言う時に、声が出しにくいと思っていた。
***
夜になると、頭痛がさらに酷くなったので、早く寝た。
寝ながら、この頭痛の出所を探ったところ、
どうも「不幸な母親を幸せにしたい」という思いが原因のようだ。
自分ではこれを認めたくない。
母から愛されていないのを知っているから。
それでもまだ、未練たらしくこんな事を思っている。
本当に母は不幸なんだろうか?
私は今まで、AC人格にまみれた他人を不幸だと思い込んでいた。
心底自分のことを不幸だと思えば、
どんな人でもそこから出ようと努力するものじゃないのか?
でも、トラウマ掘りを途中で止めてしまう人がいるのは、
その人の現状が不幸じゃないからだ。
彼等は変わりたくないと思っている。
なぜなら、今の幸せを壊したくないから。
つまり、彼等は今の状態で幸せなんだ。
私はずっと自分が不幸だと思い続けてきたから、私と同じように
「他人も不幸だと感じている」と思い込んでいただけなのだ。
母は今の状態で幸せなんだ。
他人に自立を勧めるのは余計なお世話だ。
他人から強制されて自己変革などやれる訳がない。
****
翌日にも頭痛がきた。小学生の頃、頭痛持ちだった。
今思えば、この頭痛は緊張性の頭痛だ。
まるで私を自由にさせない孫悟空の輪みたいだ。
私に何もさせないようにする頭痛。頭痛が来ると吐き気がする。
****
そういえば、本当の私を、しまっちゃう理由として、
大事だから誰にも触れさせなようにしなきゃという思いがあった。
子供の頃、物を買ってくれと親に要求することが少なかった。
その理由は、欲しい物を買ってもらうにあたり、
親にケチをつけられるのが嫌だったからだ。
だから私は、本当に欲しい物を親に買ってくれと言うこともなく、
ずっと我慢していた。
大人になってからは、素敵な洋服やアクセサリーやバッグなどを買っても、
もったいないからとしまっちゃって、ちっとも使わなかった。
脳内親からケチをつけられるのが怖かったからだ。
この恐怖は生死の恐怖とも連結している。
これが分かってから、タンスの肥やしになっている素敵な服を着ようと
思うようになった。
****
ピエロの柄は、一見可愛いのだが、ずっと見ていると怖い。
ピエロで怖い思いなどしたことなどないのに、なぜ怖いんだろうと考えたら、
ピエロ=道化師=面白い人と連想して、最後に父だと思い当たった。
父は冗談めかして笑いながら私や母を虐待したため、私はピエロが怖いんだ。
面白い冗談を通り越す恐怖の存在。
父は面白いことを言って、他人を笑わせていた。
私はとっさの機転もきかず、父のように面白いことを全く言えなかったので、
それが昔からのコンプレックスだった。
私は「他人に冗談が言える面白い人でなければならない」と思い込んでいた。
****
他人に頼りたい。
夢の中でも、他人に頼って、他人を利用して、後から責められる。
パワーストーンに頼りたい。
もしかしたら、この石が私をどうにかしてくれるのではないかと思ってしまう。
私は自分を100%信じていない。
他人から命令されている方が楽だし、自分が責められたくないからだ。
自分がやったことの責任を100%とりたくない。
なぜなら今までずっと他人のせいにしてきたからだ。
こんな事になったのは親のせいだ。
しかし、自分が自主的に選択して生きている限りは、
100%自分に責任がないなどという生き方は存在しない。
AC人格を選んだのも自分の責任だ。
「自分の責任じゃない」と思い込みたいだけだ。
自分の選択すら他人のせいだと言い続ける。
その根本には「失敗して責任をとりたくない」思考があるからだ。
私は今まで、他人から押し付けられた役割以外の責任をとったことが一度もなかった。
役割の責任は親や上司がとる。
つまり私は、役割以外の責任をとりたくないから、他人に頼りたいのだ。
そして、自分で責任をとったことがないから、
責任をとることがものすごく怖いことに思える
****
だが、卑怯者の群衆になりたいのか?
他人に頼ろうと思っていたら、終わってしまう。
誰にも頼らず、たった一人で進む覚悟がいる。
他人に頼って、「自分は変わりたいんです」なんて、よく言えるよ。
この怠け者の、恥さらしが。
他人に頼る人間が自己変革なんて出来るはずがないんだよ。
責任をとりたくないだって?
じゃあ誰がとるんだよ?
他人がお前の人生の責任をとるのか?馬鹿が。
責任をとる覚悟をしろ。
****
今までは、他人に自分の内面をさらすことは、
命に係わる危険なことだから、真っ平御免だと考えていた。
しかし今度は逆に、他人に自分の内面を自己開示しなければならないのだ。
自分の正直な気持ちを他人にはっきり伝えなければならない。
他人と話す時に、なるべく自分から積極的に話し掛けて
コミュニケーションをとるだけでなく、
自分の感情を言葉に乗せるようにする。
例えば、何かが可愛いなと思ったら、
「○○は可愛いね!」と言葉に出して何度も言ったり、
レストランですごく美味しい物を食べた時
「ああ、美味しい!」と言いながらゆっくり味わって食べ、
ウェイターの方に「すっごく美味しいです」と気持ちを込めて言う等。
以前私達は外食すると、たいして会話することもなかったのだが、
私が批判しなくなると、母は自分からしゃべるようになった。
意外だったのは、母はデパートやレストランで積極的に話し掛け、
他人と会話していたことだ。
以前私は、母を出来の悪い、躾の悪い人間だ位にしか見ていなくて、
マナーの先生の如く批判をしまくっていた。
私が批判しなくなると、母も自由に動くようになった。
母は、本当は母自身が思い込んでいるような人間でもないし、
以前の私が思い込んでいたような人間でもないんだ。
他人の許可なく勝手にずけずけと入って行き、
その人を批判することは、その人に干渉することだ。
お互いが批判せずに気持ちをしゃべり合ってこそ、会話ができるのだと痛感した。
****
防災館へ母と出かけた。
ここでは震度7体験や煙体験や消火器の使い方体験ができる。
震度7ではあまりに揺れが激しくて、テーブルの足にしがみついたまま何もできず、
悲鳴を上げていただけだった。
煙体験では、見知らぬ人達数人でチームを組んで、
一緒に煙に巻かれながら出口を目指すのだが、
こういう危機的状況では、他人を信頼しなければ、
一人では何もできないと実感した。
煙が来ると、予想に反して、軽くパニックになった。
誰かがこっちこっちと言ってくれ、ついて行くのが精一杯だった。
一番しっかりしていたのは、先頭を歩いていた中学生位の女の子だった。
実際に地震や火事になったら、お互い助け合わなければ、生き残れないのだ。
私は今まで他人を敵だと思い込んでいたため、信頼することに恐怖心がある。
本当に100%他人を信じて大丈夫なのか?
でも考えてみれば、どういう人間をどこまで信頼できるのかという答えは、
私がこれから実際に体験すべきことであり、
体験してみなければ答えは出ない。
今まで私は自分自身さえ信頼していなかった。
母なんか全く信頼していなかった。
しかし、チームを組んで仕事をしているのだから、協力し合えばより良く仕事ができる。
母と私の視点は違うため、何かあれば母からヒントをもらうこともできる。
私は今まで自分のことを、誇大妄想を持ったダメダメ人間だと思い込んでいたが、
それじゃ今、私はどういう人間なのかと考えたら、
何かは出来るが何かは出来ない人間だと思える。それは皆同じだ。
****
私には行動力がないので、
「結局、すぐやる人がすべてを手に入れる」という本を読んでみた。
内容は自己コーチングの本だった。
自分を客観視できるように紙に自分の思いを書き出し、
自分で自分をコーチングすること。
崩残さんの日記の薦めと同じだ。
今までは手帳に日記をつけていたが、これでは小さい。
普通のノートに書くことにした。
最初、自分のコーチングをやりたくないと思った。
自分で決めるのが嫌だからだ。
自分で決めることは辛いことだ、覚悟がいる、楽しくないと思い込んでいる。
この変な思い込みを捨てて、
自分で決めることは楽しいことだと上書きしなければならない。
今初めて、私は自分で自分をコーチングしてみようと思った。
でも、本来なら自分で自分をコーチングするのは当たり前のことだ。
今までは他人にコーチングを頼むのが当たり前だと思い込んでいたが、
本来は逆だ。
自分が一番自分の事を分かっているから。
もし、今つまらない一日を送っていると感じるなら、
それを選択している自分に責任がある。
どんな人も、自分が自己選択して生きているのを見て知っている。
つまらない一日を送りたいから、送っているんだ。
つまり、私は自覚的に、意識的に「楽しい一日を送る」選択をしていない。
楽しく生活したいなら、自覚的に、意識的に楽しいことを選択しなければ、
ただボーっと待っていたって楽しいことはやって来やしない。
究極的なことを言えば、
「毎秒毎秒が自覚的・意識的な自己選択の連続なんだ」
という意識を持たなければならない所なのだ。
だが、いつもぼんやり無自覚で、無意識的選択をし続けているから、
惰性のつまらない日々の連続になってしまうんだ。
今まではトラウマ掘りのノートと日記を別につけていたが、
それを1つにして、気になった時にすぐにノートに書くようにした。
****
今まで私は、仕事は他人から与えられるものだと思い込んでいた。
だから、色々な人が「私は何もできないから」とか
「私はこれしか出来ないから」とか「私は年だから好条件の仕事がない」
と話すのを当たり前に思っていた。
だが、その思い込みは真逆なんじゃないか?
そう思っている限りは奴隷根性から抜けられない。
仕事というのは、皆が対等な立場で、
協力して目標に向かっていくものなんじゃないか?
そこにあるのは適材適所で、決して上下関係ではない。
そう思ったら、今の社会の在り方は完全におかしいし、
仕事とは本来、自らが創意工夫して作り出すものということになる。
****
桜の間で他人の名前を見る度に
「やはり自分はまだまだ遅れている」と例のACの比較をやり、
ものの見事に自分で自分を不快にする。
何が何でも私を貶めようという自動思考には恐れ入る。
私はお前なんかに貶められたくないんだよ、このクソACが。
私に自己分析をさせない気なんだ。
私を不快にさせれば自己分析をやめると思っているんだろう?
おあいにくさま。その手には絶対にのらない。
以前のように鬱屈して生きて、何も改善されずに死ぬなんて、真っ平御免なんだよ!!
****
ハウルの動く城というアニメをTVで見た。
冴えない女の子が素敵な魔法使いと恋をし、彼を救うという話だ。
こんな風に夢を見られたら、どんなに幸せだろう。
美しい夢だ。
もうこんな夢は見られない。
私が欲しかったのも、この主人公同様「救い」だ。
だが、実際には救いなどなかった。
絶望しながら生きるのが苦痛でたまらない。
気が狂いながら妄想に頼って生きる方が楽だ。
精神異常者や麻薬常習者のように。
私はずっとこのACの美しい夢にすがっていた。
私が綺麗な石や可愛いものが好きなのも、
私の夢の具現化したものだからだ。
AC人格の誰もが、とびきり美しい夢を見たがっている。
そのニーズにこたえたのがこのアニメだ。
幼少期に浴衣を着せられて、
初めてお祭りの夜店に行った時の興奮と楽しさ。
私にとっての美しい夢だ。ずっと手放せずに握りしめていた。
仲の良い親子や優しい母親、暖かい家庭というのも美しい夢だ。
もうこんな風にずっと握りしめていなくてもいいんじゃないか?
桜の間で名前の出る方と自分を勝手に比較しているのは、
自分自身に執着があるからだ。
こうでなければならないという自分への執着。
優秀な自分という夢。
他人に執着しているんじゃない、自分の思いに執着しているんだ。
こうだったらいいのにという理想像、
誰もが賞賛してくれるような理想像。
この意識はつまらないし、使えないし、もううんざり、飽き飽きだ。
今の使えない意識を捨てて、真っ白な新しい意識に乗り換えたい。
かつての自分と決別するんだ。決別する意識が必要だ。
自分はかつての自分じゃない。
全く違う人間に生まれ変わるんだ。
ようやく「私は変わりたい」と心から思うようになった。
もう私は終わった。
もうAC人格に頼って生きることができない。
妄想や美しい夢に頼って生きることができない。
私はAC人格に救われたかった。
だが、AC人格は私を救いはしなかった。
****
電車に乗っていると、現実は嫌だなぁと思う。不幸感ばかり感じる。
でも、電車に乗っていたり、街をぶらぶら歩いていても、
実際には嫌な事など一つもない。
なぜか漠然と現実は辛いと思い込んでいる。
2週間程これで苦しんでいたが、ふと、
「私はずっと苦しかった」という思いを、
自分自身が真摯に受け止めていなかったことに気付いて、ぎょっとした。
だから、自分の外側に苦しさを投影して、現実は嫌だと思い込んでいたんだ。
私は自分の内面をかなり見たと思い込んでいた。
しかし実際には、生まれてこのかた苦しみしか感じていなかったのだから、
そんなにすぐに全ての苦しみを受け止められる程の、半端な量ではないのだ。
今までの苦しいという思いを全て受け止められるまでは、
楽しいことをやった所で純粋に楽しいと思えるはずもない。
ACの私には、今まで苦しい人生だったと認めることは人生の失敗であり、
苦しいと口に出して言うな、今までの人生、苦しいと思ったら負けだ
位に思い込んでいた。
誰からも愛されない苦しみ、
認められない苦しみ、自己否定と劣等感しかない苦しみ、
罪悪感を認められない苦しみ、
病弱な演技をし続けなければならない苦しみ、
奴隷でいなければならない苦しみ、
私でない私を演じ続け、他人と比較し続け、
他人の顔色を見てびくびくしながら、
こんなの自分じゃないと思い続けて生き続けなければならない苦しみ、
もうこんなの沢山なんだよ!!
と苦しみ続けて、それでも生き続けなければならない苦しみ。
ほとほともう沢山だ。
こんな苦しさを全て受け止めるのは辛い。
そう思ってきた。
最初はあまりの苦しさに泣くことすら出来なかった。
私の人生は失敗だったと深く納得することが、
唯一苦しさを認められることなのだ。
ACにとっては、苦しい=失敗という認識だ。
しかし、本来は、苦しい=失敗という思考は明らかにおかしい。
苦しみと失敗は別物だ。
私は今まで、不安感と同様に、正確に苦痛を感じていなかったのだ。
苦しみが自己否定と結びつき、変な方向へ行ってしまっている。
苦しい=自己否定ではないのに。
ああ、そうか、私はこうやって自分を罰し続けてきたんだ。
自分自身に苦しいと思わせることが、自己否定を起こさせる燃料なのだ。
母の自虐癖を見た時、私にもあるはずなのだが、
自分のはよく分からなかった。
私の自虐癖はどこにあるんだろうと思っていた。
この2週間AC人格が酷くて、苦しくてたまらなかった。
桜の間を見ることさえ苦痛だった。
この苦痛を上から見る視点が一瞬あって、
「あーあ、自虐に酔っちゃって」と冷ややかに見ていたが、
その時私は「自虐って何のこと?」位にしか分からなかった。
****
他人とケンカをしたいと言いながら、ケンカができない。
祖母は良妻賢母を貫くためケンカを一切しないでひたすら我慢し、
我慢こそ美徳と思い込んでいたから、
家族全員に我慢することを押し付けた。
生気の無い家族が感情を爆発させてケンカをするところなど見たことがないため、
年下のイトコの兄弟がうちに遊びに来てケンカをするのを見て、
ケンカなんてうるさくて面倒臭いものとしか思えなかった。
兄は難癖をつけて理不尽に弟や妹を虐め、弟や妹は口でも腕力でも兄に敵わないから、
泣きながら怒って兄をただ叩きに行くだけ、というケンカをよく見た。
馬鹿馬鹿しいと思った。
だってこんなことやっても意味がないじゃない?
ところがこれが他人の理不尽さに、物を申す練習になっているとは、
思いも寄らなかった。
上司も同僚も他人にはっきりものを言う人達だが、
それは親がイカれた人で、子供の頃から親の理不尽な言い草と闘ってきたからだった。
考えてみれば、虐待をされた時、
祖母が我慢しているのを見てしまっているから、ケンカの買い方が分からない。
ケンカを売られても自動反応の我慢をしてしまう。
さらには「ケンカは馬鹿馬鹿しい」と思い込んでいるから、
尚のことケンカができない。
大声で泣きわめいて相手を叩きに行っても意味がないし、
大人じゃないと思い込んでいるから。
自分のリスクばかり大きくて、相手に対する効果が少ないとセーブをしているのだ。
そうか、私は、
ケンカに対してある一定の固定化されたイメージと思考回路を持って
いて、
それを手放せないからケンカが出来ないんだ。
状況は常に同じじゃない。毎回違うはずなのに、毎回同じ反応をしてしまう。
何か行動ができないのは、私の中に固定化されたイメージと思考回路があり、
それを絶対法則だと思い込んでいるからだ。
それを手放せないから、枠にはまった自動反応しか起こせないんだ。
確かに今まで、最小のリスクで最大の効果を得ようと必死だった。
リスクが大きいと感じられる場合は行動しなかった。
私は朝起きるのが辛いと思っていた。
これは現実は辛いというパターン化された思考から来るものだ。
だから、今起きないでもっと寝ていたいという自動化された反応しか出来ない。
私には今まで、現実は辛いという固定化された思考しかなかったから、
私の未来は決まっている(選択肢がない)と思い込んでいたし、
この思考が変化しない限り、私の未来は暗いと感じていた。
ところが、今ある現実は毎秒毎に変化し、決して固定化されたものではない。
その現実を固定化されたものとして受け取っているのは、
私が固定化されたパターン的思考を外側に投影しているからなんだと、
ふと気付いて、また認識が反転した。
現実が固定化されたものではなく、流動的なものだと感じられるのは、
なんて幸せなことだろう。
私は初めて気が楽になって、道を歩けるようになった。
あんなに暗く思えた現実に希望が持てるじゃないか。
もう決まったパターンでせかせか歩かなくてもいいんだ。
現実が流動的なら、未来も流動的で、私も変化していいんだと思える。
思考パターンから出られるのは、なんて幸せなことだろう。
監視檻から一つ抜け出したようだ。
自己分析という言葉の本当の意味が分かるのは、
自己分析を実際にやった人だけだ。
やった人でさえ、軽くやるか、とことんまでやるかで、
その言葉の意味は異なる。
つまり、自分が体験したことだけが本当に意味を持って他人に語れる。
体験しなかったら、語れる言葉なんかほとんどない。
「体験が全てだ」という言葉の意味が初めて腑に落ちた。
****
今頃になって、ようやく腑に落ちた。
他人は全く無関係なのだと。
私が、他人に不純な動機を投影しているのが問題なのだ。
私を認めろや優位に立ちたいだけでなく、
恐怖・怒り・羨望・嫉妬などを投影している。
つまり問題は他人にあるのではなく、自分の内面だけにあり、
その問題となっている思い込みを全て外側に投影しているから、
おかしなことになっているのだ。
他人と私は一切関係がない。
日記と関心地図から、毎日AC人格が出ているのが確認できる。
どういう時に顕著に出るかというと、
大勢の他人の中にいる時(街中)、
想定外の事態で焦っている時、
何かをしなければならないのにまだやっていなくて焦って、
苛立っている時だ。
AC人格は自分が狂っていると認識できない。
「自分はまともなんです!!」と常に主張し続けている。
私はずっとこのAC人格の認識の方に自分の重点を置いていた。
だから、自分をずっとまともだと思い込んでいた。
だが実際には、病んで、気が狂っている。
なぜ自分が気狂いじゃいけないのかというと、
ダメダメ人間確定の自己否定とがっちり連結しているからだ。
気狂いの自分なんて受け入れられない。
だが、本来は、自分は狂っていないか?
→自己分析→やっぱり狂っていた→自己修正、
というのがまともな意識で、
「私はまともです!!」と自己分析もせずに根拠なく言い続けているとしたら、
こっちの方が完全に気が狂った意識ということになる。
この世界で常に正気でいるためには、
自分は狂っている(どこかおかしい)んじゃないか?
と常に自分に問い続けなければならないということだ。
自分のことを分かるのは自分しかいない。
自分のことを100%分かるのが正常な意識で、
自分のことがちょっとでも分からないとしたら、これは大変な異常事態だ。
****
予定調和を求める自分に違和感がある。
なぜ予定調和を求めるかというと、
不測の緊急事態についていけず思考が停止するからだ。
想定外の出来事が起こるという思考がAC人格にはない。
ACの私にとっては、毎日がいつも同じな予定調和の一日になるように望んでいる。
以前は毎日が同じでつまらないと思っていたが、
ふと、毎日が同じであるはずがないと気付いた。
毎日は同じようでいて、気温も天気も、起こる出来事も全然違う。
そもそも毎日が同じだなんて幻想だ。
ACは毎日同じだと思い込みたいだけで、
そうやって安定を、変化しないことを求めているだけだ。
この瞬間、実際には、現実がものすごいスピードで流動的に動いているにもかかわらず、
止まっているように感じるのは、
ACの固定化された思考を外側へ投影しているからなんだ。
私は今まで、未来は固定化されたものだと思い込んでいた。
「今、自分が変われば、未来が変わる」という意味が全く分からな
かった。
実際には現実は流動的なものだと腑に落ちて初めて、
AC人格だけがその流動的な流れに逆らっているのだと、ようやく実感した。
自分を前に出すのが怖い。
目立ちたくない。
私は後ろの隅っこで立っていますから、という気持ちがある。
11年間の拷問部屋は効いた。
私は全く動けなくなった。
父は勉強に関係ないことは全て叩いた。
女であること、母の娘であることもだ。
父は私に勉強しかさせたくなかった。
勉強だけやっていろ。
勉強以外は目立たなくていい。
親の後ろに下がって、親の言うことだけ聞いていればいい。
父には(祖父母にも)勉強以外の価値観がない。
勉強以外やってもしょうがない。
やっても評価されないから、やる前に諦めてしまう。
勉強という言葉には、
嫌々やらされるものだという固定化された負の思考パターンしかない。
****
買い物に出て、道を歩いていると、空ばかり見る。
これは向こうから来る人と目を合わせないようにするためだ。
私は歩きながら
「私を見ないで下さい。目立ちたくないんです。
地味にしていますので、私に注目しないで下さい」と考えている。
なぜだ?
夕飯の後、フラッシュバックが来た。
父が私や母の悪口をひたすら言い続けている時、
内心「もう聞きたくない!もう止めてくれ!!」と私は常に叫んでいた。
でも、ただ黙ってひたすら我慢した。
本当なら「もう止めてくれ!!」と叫んで、父と喧嘩するべきだった。
だがそんなこと全く出来なかった。
この時の気が狂わんばかりの惨めな気持ちったら。
この気持ちを今再び味わうと、
私は今でもノイローゼで、父も完全な精神異常者だったと断定できる。
うちにはまともな人間は一人もいなかった。
今でもこの時の気持ちを思い出すと怖い。
食事の度に父から自己否定を受け続ける恐怖。
お前はダメだお前はダメだと呪文の如く言い続けられる恐怖。
こんなこと食事の時にすることなのか。
トラウマ掘りを始めてから、
父が死んでくれて本当に良かったと何度も何度も感謝した。
私は父が本当に恐ろしかった。
目立てば攻撃されるから。
なるべく静かにして攻撃が止むのを待つ。
この消極的な人生。
****
夜、布団に寝ていると、相変わらず不快で眠れない。
理由を考えていて分かった。
布団が気持ち悪いから。
私は両親からいつか殺される。
だから両親と一緒に寝るのが怖い。
その恐怖心がこの布団に染み込んでいる。
私にとっては、いまだに今の布団が子供の頃の和室の布団と同じだ
という認識だからだ。
もちろん布団は変わっている。
だが、私の認識は更新されないまま、
あの布団に寝ているとずっと思い込んでいるんだ。
だからあんな夢を見たんだ。
AC人格は拷問されたままの状態を続けさせたい。
変化を好まないのだから。
認識を更新し続けるということがいかに大事か、よく分かった。
現実は流動的で、同じ日は一日たりともないと感じるようになってから、
自分も変化していいんだと思えるようになってきた。
本来は、外側に固定されたものなど一つもありはしないのだ。
全ては変化し続けている。そして自分の内側も外側も同じだ。
去来という言葉の意味がようやく分かった。
以前は去来は辛い言葉だった。
自分が一点に留まって他人だけが動いて行くと考えていたから、
ひどく不安定に感じられたが、
自分も動いている方に入っており、同時に他人も動いているのだと考えると、
去来するのは当たり前のことなのだと思える。
自分に変化していいんだと許可を出し続けることと、
認識を更新し続けることは、イコールだ。
****
仕事から帰ってくると、母が
「通販から連絡があったわよ。布団は明後日来るって」と教えてくれた。
それを聞いてから具合が悪くなってきた。
翌日は具合が悪くて、朝起きるのが1時間以上遅れた。
めまいと吐き気がする。熱はない。
例の如く病気であることを、私は脳内親に見せているのだった。
前日私は、今度の新しい布団にはACの汚染された思考パターンを
絶対に持ち込みたくないと考えていた。
その反動がこの朝の反応だ。
すごい自動反応じゃないか。
麻薬中毒者が麻薬を抜く時と同じだ。
意志力だ。気合を入れろ!気合だ!と自分に喝を入れた。
すると起きられるようになった。
布団が来る当日、朝は問題なく起きられた。
布団の宅急便が10〜12時の間に来ると連絡があったからだ。
早く掃こうと焦っていた。
急いで力を入れて掃いていたため、右手首をひねったらしい。
激痛が走った。力が入らなくなってしまい、軽く掃きながら掃除を終えて戻って来る
と、10時ちょっと前だった。右手首に湿布を貼った。
予定通り布団が来た。
大きいダンボールを畳んで片す際にも激痛が走る。
そこで浮かんだのは、
「私にはこんな力仕事はできません。無力なか弱い女なんです」という思考だ。
祖母の悪癖だ。
何が無力でか弱い女だよ!ムカつく。
この思考パターンのせいで、子供の頃首を3回ひねったし、
手首を2回ひねり、5回も整形外科で痛い注射をされるはめになったのだ。
また、心の中でまだ「私は病弱で・・・」と言う声も聞こえる。
いい加減にしてくれ!
私は病弱でもなければ、か弱い女でもないんだよ!と思ったら、
右手首は痛まなくなった。
驚いた。
これではっきりした。
焦ると必ずACが顔を出す。
怪我は確実にACの仕業だ。
体は、意識を変えれば瞬時にその意識についてくる。
つまり、病気だと思えば病気に、
怪我だと思えば怪我に、
健康体だと思えば健康になるんだ。
体ってすごい。
****
夜、パソコンのゲームをしていた。
PCを落とそうかなと思っても落とせず、ゲームを続けてしまっている時、
一瞬自分の中の「ある空間」が目の隅にちらりと見えた。
あっ、これは私が見たくない空間だ。
これを見たくないばかりに必死にゲームを続けてしまう。
それはすぐに閉じてしまい、PCを落としたらいなくなった。
これを闇の窓と呼ぶことにした。
ゲームを夢中でやっている時には、この窓は開いていない。
ゲームが終わって、もうこれでやめにしようかなと思った時、
この窓に気付いて、そこを見るのが怖いので、
やっぱりもう少しやろうと思ってしまう。
ゲームに飽きてもう止めだと思うと、この窓は閉まる。
恐らく、この窓は私の意識の横に開いているのだが、
私がこれを見たくないばかりに、必死で見ないようにしているから、
今まで一度も気が付かなかったんだ、と思えた。
この窓を見たくないがために、
必死で夢中になるものを探してしまう。
何もしていない時不安になるのは、
意識の横にこの窓が開いているのが分かるからじゃないだろうか。
寝ている時に不快なのは、布団が不快なせいじゃない。
今、新しい布団でとても気持ちが良いから、布団のせいじゃないのは明らかだ。
この窓を見たくないから不快で、
必死に気を紛らわす何かを探してしまうんだ。
この窓をもっとよく見たい。
****
もう模倣なんかするんじゃない。
才能のあるなしも関係ない。私は闘う。
私が自分の好きに生きられるようになるまで、
毎回毎回自分のACと闘うんだ。
ACは動揺した時に必ず出る。
他人と比較して自分がダメだと感じる時は、
私を惨めな気持ちにさせるのが目的だ。
以前、惨めな気持ちになったのはどういう時かといえば、
父から母の血筋の悪口を言われていた時、
幼稚園で毎回お弁当を完食できなかった時、
私が弟を殺したんだと思い込んだ時、
自分は誰からも愛されていないと思う時だ。
3パターンある。
私が加害者
親の攻撃の被害者
私が私をダメ人間だと罰する。
私は自分に満足していない。
だから私は自分の理想像、すなわち誰よりも優秀で完璧な自分を目指して、
事ある毎に他人と比較して自分を罰している。
脳内親の提示するあの理想像を見ろ。お前なんかダメだ。
私の自動自虐装置だ。
ダメな私にダメ出しして落ち込む。
でも、冷静に考えてみたら、
生きられられないのは、単に経験が少ないせいだ。
自分が理想の自分じゃないからじゃない。
つまり私は、「自分が理想の自分じゃない」からと思うことで、
自分が一番下手だという現実から逃げただけなのだ。
こんな下手な自分は自分じゃない
→自分が理想の自分じゃないからだ
→やっぱり「自分はダメだ」で思考停止したのだ。
心理学ではレッテル貼りというのだそうだ。
「自分はダメだ」というレッテルを貼って、
自分を目の前の問題から切り離す。
何度も何度も読んでいたのに全く気付かなかった。
ということはだ、私は「自分はダメじゃなかった」ということだ!
えーっ!そうなんだよ、自分はダメじゃなかったんだよ!
私が私に勝手に「自分はダメだ」というレッテルを貼り、
目の前の現実に対処しないように、
ダメじゃない自分をダメだということにして切り離した。
そうすれば脳内親の思うがままだ!
現実に対処させないようにしているんだから。
お前はダメだと言えば、一瞬で思考停止し、
私はダメだ、自己否定で惨めになって動けなくなる。
こういうカラクリだったとは気付かなかった。
****
徒歩で買い物に行った。
歩きながら、「みっともない恰好で来ちゃったな」と思う。
誰に対してみっともないんだ?
自分で自分をそう思って、罰しているだけだ。
街には綺麗な恰好をしている人が多いのは分かっているじゃないか。
服がみっともないと感じるのなら、なぜもっと良い服を着てこなかったのか?
それは、私が無意識で「自分がダメだ」から、
目立たない地味な普段着で行こうと思ってしまっていたからだ。
最初から「自分なんかダメだ」と思い込んでしまうため、
それ以後の現実への対処法を間違ってしまう。
自分なんかダメだ→目立たない地味な普段着にしよう
→ほら恥ずかしい→やっぱり自分なんかダメだ。
綺麗な服を着て行く時もある。
そういう時は気張っている時だ。その場合は恥ずかしいと思ったことはない。
私は「自分がダメだ」から、気張らないと綺麗な服が着れない。
そして、「自分なんかダメだ」から
「私を見ないで下さい。目立たないように隅っこで地味にしていますから」
と思ってしまう。
「自分はダメだ」という最初の無意識のレッテル思考が、
現実への対処法を狂わせている。
これを言われると、見事に何事も途中でやる気を失う。
現状に立ち向かわせないのだから、当たり前だが。
****
確かに、ずっと無意識で「自分はダメだ」と自分に言い続けている。
自分はダメだから、この程度の物でいいんですと思う。
最良の物は取れない。
なぜなら、ダメな自分に最良の物はふさわしくないから。
私はダメだから、この程度の食事でいい、この程度の服でいい、
持ち物でいい、住宅でいい、職場でいいとずっと思っている。
「この程度」というのはどの程度かと言うと、
自分の社会的地位に対応した所以下だ。
学校にいる時から自分がどこの位置にいるか、ACはずっと確認し続けている。
分相応以下がACの「この程度」だ。
他人と競争し、負けた時に感じる「自分はダメだ」という
お仕着せの感情への激しい怒りがある。
この怒りは反転し、他人に向かい、
「よくも恥をかかせてくれたな。殺してやる」位の勢いで
脳内で他人を攻撃するのだが、
実際には「自分はダメだ」とレッテルを貼った自分のAC人格に対する怒りだ。
私はこのACを憎悪している。
絶対に殺してやる。
****
私には「中心で休む技法」はまだ早いと思っていた。
ACと闘うだけ闘って、万事休すになった時、この技法を始めようと思っていた。
桜の間のアドバイスを読んで、始めることにした。
****
私は母から愛されていないのを知っていたから、孤独だった。
母と二人で歩いていても、母は私のことなど愛していないと考えると、
恐ろしく辛かった。
こんなにそばにいるのに、ぞっとするほどの孤独感。
母と二人でこんな寒々しい道を歩いて行くのが心底辛かった。
あまりに辛くて泣きそうだった。
実家へ行っても孤独だった。
だから行くのが嫌だったんだ。
うちにいる時も同じだ。
両親から愛されない孤独感。
家族が6人、犬もいるのに、恐ろしいほどの孤独感。
これから逃げるために、TVを見たり、病気になったり、
祖父母についていったり、もうもう必死だった。
この孤独感を今まで認めたくなかったんだ。
この気持ちを受け入れたら突然、自分自身にお礼が言いたくなった。
「ありがとう」と自分にお礼を言い続けた。
変な気持ちだ。受け取ったことがない気持ち。
なぜか号泣した。
私の周りにいる全ての人や物に「ありがとう」と言った。
私はずっと、他人から祝福されない人間だと思い込んでいた。
親から愛されなかったから。
だから、他人からの「ありがとう」を素直に受け取れなかった。
でも、自分のありがとうを素直に受け取ってみたら、
「私は祝福された人間なのだ」と思えるようになった。
****
ACにエサをやらないために、
焦らないこと
自分をダメだと責めないこと を心掛けている。
寝る時に特に感じるのは、私は過剰に緊張しているということだ。
いわゆる24時間指示待ち状態で、常にリラックスできないでいる。
休みだから私は何もやりたくない、
病気になれば何もやらなくていいし、
母に全て押し付けられる、という逃げのAC思考が原因だ。
具合が悪くなると思うのは、
自分の人生脚本と祖母の洗脳にかなり酷くやられているということだ。
祖母の「私は無力でか弱い、可哀想な女です」という洗脳が、
私の中でさらに2つに発展した。
一つは
「私も無力でか弱い、病弱な可哀想な女です」という設定に、
もう一つは
「私が好きな、祖母のような無力でか弱い人を見たら、
私が守らなければならない」という設定になった。
好きな人は私が守らなければならない。
だから、私が好きな人やぬいぐるみが他人から虐められているのを見たり、
妄想したりすると、現実でも妄想の中でも私は激怒して、
虐めた人間に仕返しをしに行ってしまう。
これは当事者同士の問題であって、私には一切関係がないのに、だ。
桜の間で、毒親が
「ぬいぐるみの耳をひっぱったり、首をひねったりした」のを読んで、
うちのぬいぐるみがそんな目にあったらと思うと、一瞬血の気が引いた。
子供の頃、親に可愛いぬいぐるみを買ってもらわなかったのは、
私が親に逆らえないからだ。
ぬいぐるみが虐待されても、私はぬいぐるみを守れないから。
だから欲しくても買ってもらわなかった。
****
掃き掃除の時、意識的にリラックスしてみた。
すると、箒を大きく柔らかく動かしている。
ということは、右手首が痛くなるのは過緊張によるもので、
怪我も過緊張によるものだということになる。
リラックスして掃いていれば、右手首は痛くない。
一体私はどれだけ緊張しているんだろう。
買い物に行く時も意識的にリラックスしてみた。
すると、体が楽になる。
いかに自分がリラックスしたことがないかがよく分かる。
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