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[552]
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★分割自我復元★その552●【復元ブログの動向】●
by:
鈴木崩残
2015/12/23(Wed)11:01:50
自我復元ブログの動向
●それぞれに、少しだけコメントをつけておきます。
朱いはがね さん
http://jibunnikaerutameni.blog.fc2.com/
やはり、とても重要な問題に着目してそれを扱っています。
毒親からの独立にもっとも重要なもののひとつが、住居です。
これについては、「親からは経済的に独立しているんだ」というのを
真に受けていたら、実は、親の不動産からの上がりで暮らしていた、
などという、とんでもない事例を見たことがあります。
一方で、中には、女性でありながら、その不動産遺産を、
毎日、階段や玄関や、屋上を掃除し、店子との問題を一生懸命に解決したり、
奮闘している人もいました。
また少し大きな物件になると、見積もると、耐震工事や、修繕費用が、
何千万円もかかることもあるようで、大変なようです。
この場合には、単なる遺産の相続ではなくて、「毎日」それを、
自分の手で管理し、経済的にも、大きなリスクを背負いますので、
前述のような相続の仕方とは少し違ってきます。
しかし、いずれにしても、毒親の持ち物から発生する金銭というものは
親が死んだあとも、ずっとペット的な人格のままになりやすいので、
本当に厄介なものなのです。
その点では、朱いはがねさんは、親から引き継いだものから、
独立することのリスクを覚悟しようとしている、という点で、
精神的に得るものは大きいと思います。
無干 さん
http://mmjhb11.exblog.jp/
いつも、雰囲気がスプラッターホラーのように彩られる原因が、
「汚物」という言葉の多様なのですが、ご本人の表現なので、
とやかくは言いませんが、
ただあの「汚物」という、見かけ上の汚さを表す表現を使い慣れてしまうと、
汚物というのは、ゴミや、糞尿や、腐敗物というイメージしかなくなり、
常に、そのイメージと言葉で、自分を縛り付けかねません。
●というのも、「汚物」というのは、いかにも不潔なイメージがありますが、
人間にとって、もっとも恐れるべきものは、汚物ではなく、「毒物」だからです。
汚物にしか、警戒の神経が行き届かないと、匂わない、色もない、
そういう「毒劇物」に対する警戒力がまったくなくなります。
その結果、無干さんタイプの人は、どうなるかといいますと、
あっという間に、女性にだまされます。
一番、簡単にだまされやすいのは、
女性からの「ちょっとした、褒めの言葉や、親切っぽい行為」を、
実はそれが毒であっても、毒と感じられない。
あるいは 全くの誤解によって、相手の言動を自分への好感と勘違いをしやすい。
なぜかというと、本当に有害な「毒物」は、
匂いを撒き散らしている、わかりやすい汚物とは見かけが違うからです。
くれぐれも、気をつけてください。
あび さん
http://mmjhb11.exblog.jp/
ここに、「私がやってきたこととは何か?」
というタイトルの投稿がありますが、
そこで、今回は、無明庵がやってきたことは何か、ということが
よくわかる、文章を以下に、引用しておきます。
これはあびさんへではなく、一般の読者の人向けにです。
>黄色文字部分は、私のコメントです。
*********
無明庵で行われてきたこと
■書籍より引用
*********
まず、あなたは自分が囚われているものを見付けるとよい。
それは必ず多くはないはずだ。
自分が一番囚われている思考を見付ける方法は、
一日の中で「自分がうっかり考えてしまうこと」の中で、
『何についての考え』が一番多いかを、
何日か時間をかけてチェックしてみることだ。
そうすると、心配とか、こだわりとかは、
必ず同じようなテーマの付近をぐるぐると回っている事が分かるだろう。
自分が今の人生の中で「何度も必ず考えてしまう思考の種類」
というものがあるはずだ。
それがここでの瞑想の対象になる。
一体自分は、その思考が「一日に何度頭をかすめるか」を数えてみるがいい。
するとその思考内容は、個人によって、いろいろなものがあるだろうが、
精神世界も世間も区別せずに書き出すと、おおよそ、次のようなものになろう。
生活の心配、金銭や仕事の心配、異性の事や結婚願望、あるいはセックスの事、
あるべき自分について。
ただし、これらには「倫理的なランクづけ」をしてはならない。
どれが精神的テーマで、
どれがそうでないかなどとは考えてはならない。
ここでは思考の種類や内容が問題なのではなく、
一日の間での『頻出度』が問題なのだ。
だから、この瞑想で対象になる思考は、
あなた自身が自分の頭の中を「正直に見て」、
何度も繰り返して出て来る思考を対象に決めることだ。
瞑想の対象とする思考を決定するのは、あくまでも『頻出度』であって、
どれが重要な問題かという事ではない。
平たく言うと、もしも、
頭から音楽の同じフレーズが何度も浮かんで離れないならば、
悟りの問題などより、そっちの方が問題になるということである。
さて、そうして、まずあきらかに囚われていると判断した思考を決めてみる。
それは実際にノートにいくつか書き出すとよい。
そうしたら、その中から囚われの強い思考をひとつを選び、
その思考が出て来るのを待ってみるとよい。
しかし、それはあなたが自分から考えるのではない。
そうではなく、その考えが「出て来るのを待つ」のだ。
あなたは身を引いてみて、その思考を観察してみるとよい。
はたして思考そのものが、
「自力で」妄想や連想を続けることが出来るかどうか、実験してみるとよい。
「どうぞ、勝手に思考をしてください」といわんばかりに、
完全にその思考をつきはなして、思考自体に主導権を渡してしまうのである。
あなたが、妄想という火に油を注ぐようなことをしないでいると、はたして、
思考の炎それ自体が燃え続けられるかどうかを見ることだ。
この方法は、どんな思考に対して行ってもよい。
ただ何度も言うように、
その思考は、あなたが囚われている比率が高いものに限るということだ。
あなたは、なんでも「うっかり」考えている。
たとえば、無心が大切なのだと「うっかり」考える者もいる。
自分は囚われてない、などと「うっかり」考える者がいる。
仏道は大切だと、「うっかり」考えてしまう者がいる。
思考や感情に対して観照者でなければいけない、
などと「うっかり」考えてしまう。
常にあなたは、うっかり考えているのだ。
そうすれば、そうしたものは、すぐに「習慣」になる。
そしてそれらは習慣なので、
全くそれを考える必要もないときにまで、
あなたはそれについて考えてしまう事が増えてゆくのだ。
だから、思考に例外をつけてはいけない。
「これについて考えるのはいいだろう」などとはせず、
とにかく、明らかに自分が「よく思考してしまう事」を見付け、
それに瞑想することだ。
>つまり、これが関心地図の原理の元です。
中略
あなたは馬鹿だと言われれば、反射的に不機嫌になる。
ところが馬鹿という状態を、
正確にイメージしてからあなたは不機嫌になっているわけではないのだ。
つまり、相手が言った馬鹿という事自体の、
その場における微妙なニュアンスを理解をしてから不機嫌になっているのではなく、
全くの反射として、言葉の理解もなしに感情が反応しているのである。
とはいえ、馬鹿と言った相手も、
正確に馬鹿をイメージしてから言っているのではないものである。
これと同じように、全く理解もしていない、
つまりイメージさえされていない誉め言葉でも、
あなたは「全く自動的に」反応する。
だが、これは全くナンセンスなことだ。
だから、この一日中、自分の頭の中での言語化をやめる事を試している間は、
自分のばかりでなく、他人の言葉のひとつひとつをも、
『イメージや画像』に変換してみるとよい。
すると、思考のプロセスというものが、
言語が介在すると、いかに歪曲されるかが洞察できるだろう。
子供たちは覚えている言語数が少ないために、
言語化できない無数の印象を持っている。
だから、感性が伸び伸びしており、
大人なら一個の答えしかしないものに対しても、
時には10人が10人とも違う答え方をしたりする。
さて、言語化という作用が停止したり、または極端に減ると、
その分、物事の知覚がそれまでとは比べものにならないほど明瞭になったり、
自分の頭を通り過ぎるいろいろな印象や雑念に対して、
客観的に敏感になってくるものだ。
そして、これは、もともとは動物や子供の思考の仕方だ。
言葉ではなく「実感を伴った印象や、画像の断片」を並べて
物事を思考するのである。
>死後の領域で重要になる「明確なイメージ」のことです。
>しかしAC人格の大半は、言葉だけで洗脳されています。
中略
「探求者」と言うときには、それは、世間や宗教や科学で言うところの
探求者と似ている面もあるが、異なる点がある。
無明庵では、『病人を探求者と呼ぶ』。
探求者というのは、別にそのようなレッテルを張ったからと言って、
それで探求者になれるわけではない。
袈裟やローブを着たからそれで探求者になるのでなく、
瞑想や修行をしたからそれで探求者になるのでもなく、
また本を読みあさったからといって探求者になるのでもない。
探求者と定義するものは、
『その根底に苦がなければならない』。
それ以外のどんなものも『原動力』になり得ない。
『どうにもならない苦がある事、それがイコール探求者である』。
なんなら、探求者ではなく『大病人』という言い方をしてもよいだろう。
中略
どんな知的探求も、感情と連動しなければ持続力や爆発力がないからだ。
これは、誰でも何となく経験的に理解できる事だろう。
冷静に冷笑的に物事を傍観しているよりも、カーッとのぼせて、
何かに入れあげて感情的になっている時の方がパワーがあるものだ。
だがこれには心の「法則」としての根拠がある。
その最大のポイントは、
感情と結びつかない思考は「恐怖」にならないという事実だ。
知的探求にとって最大のエネルギー源は、実は「恐怖」だ。
そして、恐怖とは死活問題がかかってくる場合にしか発生しない。
無気力な者からは、どうやっても力などは絞り出せないのである。
もしも他人から言われるのではなく、自分で自分を叱咤したいのならば、
あなたが自分で『自分の心身の死活問題にかかわるようなテーマ』を
探求の対象として選択すればいいだけなのだ。
通常、宗教家や瞑想者が陥りやすいのは、
感情を剥き出しにする事を「恥」や「はしたない事」「大人気ない」
「冷静な人間でない」として抑圧することだ。
だが、そうして抑圧された感情は、
別の形で「言い訳や自己正当化や卑下や妬みや冷笑」という
『屈折した表現』をとって累積する事になる。
そうした事を人生で繰り返して来た者には、
典型的な独特の「人相」がある。
それは、顔の皮膚が硬直しており、見るからに重苦しく無表情なのだ。
その顔は、誰が見てもひどく歪んで醜いものだ。
顔の「造作」の問題ではないレベルの独特の「表情の醜さ」が、そこにはある。
それはあらゆる感情を経験しつくした、すっきりした透明感ではなく、
情意のなさからくる幽霊のような弱さ、
密度のない希薄さから来る透明感だ。
怒りは醜いとか、波動が低いとか、他人に害があるとか、
口で言う以前に、怒りというものが、生存が脅かされる時の
「生物の正常な反応」として認められた時は、
それを逆手にとって「探求の為の莫大な力」になるものだ。
感情的になる事、ムキになること、あるテーマに死活問題がかかわることなど、
こうしたものが「かつての無名庵」では、中間コースあたりから、
それと分からぬ形で組み込まれていた。
冷静に黙って座禅をしているだけでは済まなくなるのであった。
感情と思考が「同時に過熱」しない探求心は、どこへも至ることがない。
それは、満足どころか、「絶望」にすら至ることが出来ない。
探求者であるかぎりは、冷静である事などには、どこにも美徳はない。
それは単なる煮詰まらない知性だ。
そうした感情のワークや怒りのワークは、
決してアシュラムで行ってはならないのが原則だ。
なぜならば、そこは「安全区域」だからだ。
それではあなたはそれを「ワークだから」で割り切ってしまう。
しかし、世間の真っ只中でそれをやったら、
それはワークでは割り切れない。
それはあなたの社会的な死活問題にかかわるだろう。
だからこそ、そこでこそ、恐怖心は本物になり、探求も本物になる。
ただし、とても難しいのはバランスの問題だ。
感情だけでも駄目だし知性だけでも駄目だ。
本当の奥義というものは力の量ではなくバランスの中にあるからだ。
だが、知性だけでは探求者は歩けない。感情だけでも歩けない。
知性と感情は、探求のための両足なのだ。
>感情というものが、どれだけ重要かというここ数年のテーマそのものです。
かつて大悟した者たちの中で、
彼らの人生そのものを賭けていなかった者が、
果たして、たったの一人でもいたかどうかを見れば、
こうした問題には、どこにも反論の余地はないものなのだ。
そして、それが命を賭けた賭博だったという事は、
とうぜん彼らは、その途上では、とてつもなく恐怖し、感情的にもなり、
そして、その総体が一体となって、思考を超える飛躍の原動力になったという事である。
「あなたは五体満足、どこも問題ないですよ」と言われたからといって、
あなたが幸福になって満足するわけではない。
それは単に身体の「部品」がちゃんと揃っているということにすぎない。
「部品」に問題がないという事と、
それが正常に「機能」している事とは全くの別問題だ。
知ることへの、気の狂ったような情熱ぬきには、
決して、そこへ至ることはない。
もしも、それでも、いわゆる探求者の中に、そこへ至るものがいるとしたら、
それは、ほとんど狂ったように、求める者だけだ。
そして、そういう者は、本当に稀にしかいない。
そういう者は、誰が尻をたたかなくとも、必ず自分でそこまで行く。
誰の助けもなしに行くからこそ、彼らはユニークになる。
「まー、いいか」では、何事も済ませられないような人間である事が、
探求者であるためには、何よりも必要になるだろう。
>これは、自我復元をなし得た人、
>そしてなし得る可能性のある人にも、同じく共通していることです。
中略
全く同じ地上の人間同士でさえも、これだけの争いと、嫌悪感を毎日作り出し、
しかも、こんなにも「住み慣れた自分の生活」の中で、
それらを生み出しているというのに、
これが、別の生物や別の次元に知覚や行動範囲が拡大したら、
一体、どういう事になるか、一晩かけて、じっくりと想像してみるがいい。
知覚の拡大は、理解を生むと思いがちだ。
たとえば、知覚の拡大は、他の生物の心を直に感じ、
彼らを理解出来ると。
また、テレパシーが出来れば、
他人の心を直に感じ、お互いに誤解なく理解できると。
ところが、「理解することと、解決できる事」は全くの別問題だ。
また、何かを理解することと幸福という事も、全くの別問題だ。
たとえば、あなたが、
他人の不幸を直に直接的に感じることが出来たとしても、
あなたは単にその他人に共感だけして、
あげくの果てに涙でも流す事しか出来ない自分の無能さを痛感して、
結局は、よけいに苦しむことになる。
ようするに、知覚の拡大では、
自分の都合のよいものだけを選ぶことは出来ない。
その拡大した領域にあるものは、あなたの好みで選ぶことは出来ない。
あなたは拡大した周波数領域のすべての情報に直面しなければならない。
また仮に、
あなたが新しく拡大した知覚領域である法則や解決法を理解したと思っても、
次の別の領域に直面すれば、
それらは常に「ある限定した範囲でしか通用しない」という事実を何度も経験する。
そのうちにあなたは、何か確実な事を他人に言うことは出来なくなってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
真に「生きているとき」には、人は物事は理解できない。
感じ、生きて、そこに存在するだけで、精一杯であるからだ。
しかし、そうした時、つまり理解のないときには、
人は「生きている」と言える。
一方、もしも理解が増えれば増えるほど、あなたは生きてはいなくなる。
その時には、あなたは生命を生きているのではなく、
自分の理解や力を「反復して試してみるため」に、
生命そのものを利用する事になる。
あなたの関心は、自分が何を理解し、何を確実に反復できるか、
という「成果」にしか興味がなくなってしまうだろう。
そうなったら、そこで生きているのは、生命それ自体ではなく、
蓄積した自己のひけらかし、
あるいは「自己能力」の訓練になってしまう。
理解というものは、もともとは
『心が安定したいという願望』から生まれたものだ。
しかし、子供が次第に自由な感性を失うのは、
常にパターンを理解して覚えることからだ。
どうすれば「よいか」という事を覚えるときから我々の不幸が開始する。
「そのどうすればよいか」という学習は、確かにエゴにとっては夢中になるだろう。
しかし、どうしたらいいのか、全く分からない、
どうなっているのか全く分からない、
何もかも、本当に全く理解できない時、
その時だけ、あなたは「生きている」と言える。
なぜならば、分かっている暇などあなたにはないほど、
経験そのものの中に融合しているからだ。
>あびさんが、日々の生活の中で、身を投じているのが、ここです。
この今の瞬間の中に、ありもしない別の理想郷や心の境地を持ち込んだら、
この瞬間はすべて否定されてしまう。
もしもそうなったら、
否定されたこの瞬間が、あなたを愛するなどという事はありえない。
いや、正確に言うと、
あなたがそこから愛を「感じ取ること」など出来なくなる。
「お前なんか、わたしの理想とする瞬間じゃない」と、
この瞬間に対して言えば、まさに、そのように言うことが、その瞬間を破壊する。
別にあなたがそう言ったから、この瞬間が壊れるのではない。
瞬間のほうはというと、そんなあなたには関係なくただそこに在り続けているのだから。
>無干さんが、見つけようとしている、世界との正しい接点です。
歴史を見れば分かるように、原則として、
「誰でも救われますよ」と言えば
『普通の事も出来ない劣等感を持った愚か者』が必ず集まり、
「選ばれた一部の者しか救われない」と言えば
『優越感を持った傲慢な愚か者』が必ず集まるものなのだ。
どこの修行体系も、よくもこうも同じ愚かさを、
何千年も続けられるものだ。
その間抜けさには、笑うどころか、哀れさを感じる価値すらもない。
まともな神経の歯医者ならば、
可能なかぎり歯を大切に使うことを勧めるし、
詰め物や、被せ物をして、その歯を長く使えるように治療する事だろう。
ところが、患者は言い張るのである。
「俺の歯のことは俺が解っている。
これはもう駄目な歯なんだ。あんた医者だろう。
患者が頼んでいるんだから、歯を抜くのが仕事だろう」。
これが、患者、すなわち(自称)求道者たちの言い分なのだ。
もしも歯というものを、
(仮に)それを人間のエゴに例えるならばの話だが、
エゴや欲望は、何十年、あるいは一生の間使えるものであるし、
それを抜くことが必ずしも良いとも思っていない。
それは、出来る限り大切に使い、
どうにもならなくなったところまで腐ってしまい、
その痛みが限界に来たならば、それは抜く必要もあるだろう。
だが、それまでは出来る限りの治療をして、歯を使ってやらねばならない。
しかし、彼らは虫歯は悪いから抜けと
「どこぞかの宗教」で仕込まれたせいで、
まだ少ししか痛んでもいない歯なのに「抜いてくれ」と懇願するのだ。
老朽化して抜ける時期でもない歯を、うかつに根元からなど抜けば、
顎の筋肉も不自然に痩せてしまうことだろう。
これと同じような別の例をあげれば、
膝を擦りむいただけの患者、または風邪をひいただけの患者が
「手術をしてくれ」と病院の入り口で叫んでいるようなものだ。
一体どこに、彼らのためにオペをやる医者がいるかね??
確かに、痛みというものは主観的なものであり、
患者本人が言うのであるから、
痛みを沈静するのが医者の最初の仕事である面はある。
しかし、「痛んでいる」と彼らが言っている部分をつっついてみると、
実はそれが全くの嘘であったり、
実に単純な事で痛みが消えてしまうことが多々ある。
病状がどうであるかは、医師が判断することであって、患者が判断することではない。
しかも、あげくの果てに、
患者の主張する痛みの主張すらも当てにはならないのだ。
こうしたことは、精神科の現場では、嫌になるほど毎日起きていることだろう。
無明庵では、何度も何度もこうした人々を、追い返す必要が生じた。
また無明庵には、病気の治療システムはないし、ここはセラピーでもない。
怒りの発散が抑圧されたとか、愛に恵まれなかったから癒してくれなどと、
まるで八百屋へ来て、肉を注文するような事をされても困るし、
悟った者たちを「なんでも屋」や「便利屋」と勘違いしてもらっては困るのだ。
また、彼らはあなたたちのご機嫌を取るための「おだて屋」でもないし、
あなたの暇つぶしの「遊び相手」でもない。
実際には、まだ何十年も使える「エゴの牙」を、彼らときたら、
まだ、ろくに使ってもいないのに「抜け」と我々に言うのだ。
そして、もしも抜きでもしたら、後になってから、
「やっぱり抜かないほうが良かった。
なんであんた医者なのに、そんな事も解らなかったんだ」
と文句まで言い出す始末になりかねない。
むろん、世の中には、
そういう人々こそを「待ってました」とばかりに歓迎して、
そうした患者(カモ)の歯を抜いては、
そこに「宗教」だの「宇宙意識」だの「光明だの悟りだの」という名の
『差し歯』を入れ、金をぼったくる連中も多いことだろう。
しかし、我々にはそんな真似はとても出来ない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうしたことから、無明庵という場の役目は、
ある時期からは「必要性」の見極めが主目的となった。
自称探求者や、
自称求道者の本人の自己申告などは全く当てにはなりもしない。
探求者と導師の関係を「釣り」に例えるのは、私は嫌いであるが、
だが仮に釣りに例えるならば、
引きが悪い「弱々しい魚」
つまり、本気で食いついて来る活きのいい魚ではない場合には、
吊り上げる事はしないばかりか、
自分から早々に糸を切ってしまう事もしばしばである。
彼らは、その糸がまだ「釣り人」とつながっていると錯覚しては、
そうやって、餌と浮きが付いた仕掛けをくわえて、どこかへと泳いで行くのだ。
中略
宇宙という、その、とてつもない空間、その密度、その多角性についての、
一切のなんらの経験も実感もないのに、
彼らは、さも自分が「根本疑問に犯されていて、
存在のすべてを無価値だと実感しているのです」と言い張るのだ。
そして、とどのつまりは、
「どうにかしてください。何をすればいいんですか???
私のエゴの虫歯を引き抜いて下さい」などと言い始めるのである。
こんな馬鹿者たちでは、まったく手に負えない。そうは思わないかね??
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、そうした彼らの特徴と言えば、
論理的に何かを判断する能力が極度に欠落しているという事だった。
彼らはごく単純な利害関係に基づく感情でしか物事を判断できなかった。
彼らは、実にくだらない、本質的ではないような些細な事
(カルマだの御利益だの善悪だの)にしか関心を持たず、
また、同時に、実に些細な事で感情に傷がつくという精神的に弱い構造をもっていた。
>この状況をどうにか正常に戻すために、自我復元が作られたわけです。
つまり、少し前の投稿で、お馬鹿なレビューを例にして書いたように、
何一つも、周回遅れ などではないのです。
今やっていることは、
かつてやっていたことを、もっと精密かつ、本質的にやっているだけのことです。
宇宙のことやら、自分に関係もない宗教のことなど、
誰が本気になる? 誰が命をかける?
しかし、毎日、自分にあびせられる、軽蔑、冷笑、あるいは虐待、
ないしは、さまざまな心理苦、そして、学校や社会での、日々の生活、
その中で、どうにもならない自分に直面すること、
これならば、「自分の問題」として本気になるからです。
それでも、のうのうと、鈍重なAC人格と、
毒親に調教されたまま、50歳を超え、60歳になる人もいるのです。
実際、皆さんの親は、50歳、60歳を超えて、
ただ年をとったという、それだけのことで、
一センチでも、賢くなったり、意識が変わったでしょうか?
加齢が、自動的に変化をもたらすことなど、ありえないことです。
だから、たとえ、何歳から、はじめるのであっても、
やり直しは、子供時代の記憶を掘るしかないのです。
■そして、自我復元を完了した人でなければ、
前述したような、無明庵の過去の書籍に書かれたその意味を、
身にしみるようには決して理解できないのです。
「体験」を経ないものは、言葉だけを頭に詰め込んでいるだけで、
「あー、書いてあるとおりだよねー」程度の、本当に中身のないもので、
そんなものは、全く何の役にも立ちません。
自我復元という、
「自我」に重点をおいている分野を突き詰めていった数人の人たちだけが、
無明庵の過去の本に書かれていたことを、
強烈な実感とともに、理解できるのです。
_________
★
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