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★分割自我復元★その553●【あびさんからの私信】●
by:
鈴木崩残
2015/12/24(Thu)23:19:33
私信と私信
●その前に、昨日の料理ですが、
本当は、少し前にレストランで頂いたディナーの
ステーキの周囲に添えられていた野菜類を作りたかったのです。
スープで煮込んだ、大根やにんじんと、
赤ワインで煮た椎茸。それにパプリカなどを焼いてみたのですが、
結果として、なんだか、バーベキューみたいになってしまいました。
一番難しかったのは、すべての野菜を暖かいままに出すこと。
お皿は暖めておきましたが、野菜の品数が多いので、
冷めないように手際よく並べるのが大変でした。
レンジでチンしてとかではなく、それぞれに違う鍋から取り出し
と同時にステーキを仕上げないとならない。
難しいだろうなと思ってチャレンジしたのですが、まーなんとか出来ました。
年に4回しか食べないと決めた肉料理ですが、
これで2回使ってしまいました。
肉はニュージーランド産の放牧されている牛です。
非道に、家畜産業として殺されてしまうことは同じですが、
薄汚い建物の中で、薬品だらけの飼料で育てられるよりはマシというにすぎませんが、
そのあたりは、いちおう、鳥でも牛でもこだわります。
だから肉を食べる量は、年に数回だけですから、
一般の人のくらべたら、えらく少ないですが、
どういう、飼育規制のある国の下で育てられ方をしたり、
どういう殺され方をしたのかによって(価格は少し高くとも)、
それによって、食材を選んでいます。
*********
さて、以下は、あびさんから頂いたメールのごく一部です。
私からのメールがどういうものだったかを、一切伏せてあることと
あびさんからのメールも、あちこちを抜いてありますので、
意味不明のところも多いでしょうが、そのまま掲載しておきます。
*********
崩残様
あびです。
今日のブログを書こうか、
それとも、返信から書こうか、悩みます。
どちらも何を書くことになるのかは、
わかりません。
私は、返信から書いてみることにしました。
中略
多くのことが自我復元と共通していました。
もちろん、多くのことが理解できないものでもありました。
しかし、私にとって、
この自我復元ほど、
「出会えて幸運だったこと」があるでしょうか?
ありません。
出会えただけでなく、そのいばらの道を歩いてこれたこと、
その決意は、ついに、今後も変わらないという宣言通りの道に
私が今立てていることは、誰にも確証などなかったことですから。
崩残さんは、いつも、体験(経験)ということを
いつもおっしゃられてきました。
私は、ずっと「体験」というものを、見続けました。
なぜなら、私は、自我復元でやり続けてきたこととは、
体験を体験すること、経験を経験することだったからです。
この今日、そして今、そして次の今、
私はこのようにエゴイスティック全開になることなど、
少なくとも私は予想すらしていませんでしたが、
今の私は、エゴイスティックしかできません。
それは当たり前と言えば、当たり前です。
体験は、私だけが、体験しているものだからです。
中略
リスクという話がたびたびありました。
そのたびに、自我復元のことを思いましたが、
もしも私が自我復元でのリスクを「実感として」
その1/100でも最初に知ったとしたら、その入り口で引き戻したでしょう。
これはかつてブログにも書いたことがありました。
自分を裏切らない、というのは、
とんでもなく大変なことでした。
なぜ自分がそれでも進んでいくのか、自分でもわからない、
今もそうです。
今日、体験したことですが、
すべてを見ようとするしか、ないのです。
誤魔化したりができない。
仕事をしながら思ったことがあります。
残された時間で何をしていくか、と。
ここに、どんな「なりふり」があるでしょう?
私は、リハビリを12月末日で終えることに決めて、
毎日ブログを書くことにしました。
必死です。「必死」以外、何もない。
誰もいないし、どうなってもいい。
どうなってもいい。
それしかなかった。
AC人格の解除とは、その絶対条件は、
「絶対に」「殺す」という、その
「絶対に」これだけだと思います。
絶対に、は、絶対に、です。
存在と体験は同じことです。
今、私が経験していることは、
「覚醒」とは違いますが、
AC人格という「今までの体験者」がおらず、
目の前のあらゆる存在と対面する時、
体験と存在は同じものであり、
体験している私がいない、と感じます。
最近は持参の弁当を食べて、
それを夕ご飯にしています。
食べていて、こう思いました。
味覚を失っても、いい、と。
口に運ぶ白米、その存在、それを食べる、その体験、
これは、人間の思惑どころか、味覚すらも不要と思えるほどに
十分に十分なものだったのです。
話はあちこちと行き、戻りますが、
思ったことは、繰り返しになりますが、自我復元は、
私にとっては、悟りや覚醒などよりも、
これに出会えたこと、自我復元に出会えたことに
私が取り組むすべてがあり、出会い、また、やめなかったこと、
これらすべてが「奇跡」としか、正直、思えません。
なんでやめなかったのか、私自身がわからないのですから。
やめなかった、やめない、
やめることは絶対にない、という現実だけがあります。
やめる理由なら、何百とあったはずです。
一方、やめない理由がないままに、やり続けられた、
そして今もやり続けていて、
これからもやり続けることが、
「奇跡」としか、言いようがありません。
私は、以前もそうだったように、悟りや覚醒のことは
まったくよくわかりませんでした。
しかし、自我復元との共通点はたくさんあって、
私には、その共通点こそ、今、私が生きている地点です。
そして、何より、それが宝だと思っています。
今日、仕事に行く途中で自転車に乗りながら思いました。
後天性全自我に至るまでの「体験」は、
おそらく、この劣化した地球で、自覚的な苦しみを体験できる、
唯一かつ高リスクな「地球ならではできる最後の体験」であったと思います。
地球で崩残さんと出会える確率、ACに屈しない確率、
これらを掛け合わせたら、限りなくゼロに近い確率です。
はじめから自殺しに地球にこようとする人は、いるわけがないのですから。
崩残さんに言いたいことがあります。
私は、地球に生まれてきて、よかったです。
結果として、ですが、崩残さんに出会う、という「大事故」があり、
私のなかの「子ども」は、最後の可能性を信じたのだと思います。
昨日、お風呂に入っている時に、こんなことを思いました。
「*****」という妄想ですが、
これは、素晴らしい妄想でした。
なぜなら、
次の瞬間、
起こりました。
中略
私のなかの「子ども」が、やっと、
やっと、
笑ってくれた。
文句なしの笑顔です。満面の、笑みです。
言葉はありません。ただただ、満面の笑みです。
略
*********
●そういえば、少し前までは、あびさんとは、
大真面目な、下ネタのことを話していて、
あびさんは、わずか数日で、あっと間に、遮断射精の技を出来るようになりました。
ちゃんと私は本に書いたのですが、ちゃんとできた人は「初めて」です。
射精反応に関しては、
「寸止め」と「管止め」と「継続止め」という3つの方法があり、
3つとも、セックスをする以前の重要な「基礎」となります。
これについても、こんなメールを、何週間か前に、あびさんから頂いていますが、
これも、あちこち、削除してあります。
*********
略
すると、わかってきました。
これは、私が今まで知らない快感なんだ、と。
例えると、今まではパラシュートがどーんと急落下していく感覚で
その「ぶっとび感」が快感で、しかし、ドーンと落ちて興ざめ。
しかし、今回のは、飛行機でいえば、
着陸してからも、止まるまで、「快の地面」を滑走し続けている。
これは、4回、5回と回を重ねるうち、今までとは違う質の快が
「長く続いている」ことがはっきりしてきました。
女性のことはわかりませんが、
女性は男性よりもオルガズムが長く続くと聞きます。
そのようなものとは別だとは思いますが、
少なくとも、今までは出したら「急落下」だったものが、
まるで飛行機の着陸時の滑走のように、と、
まるで、「ゆるく」快が続くようです。
どういう質の快か、というと、
それは「奪われない快」でした。
そういう表現が一番ぴったりきます。
奪われる快、すなわち、今までの射精による快は、
そもそも、どこか、他から「快」が与えられます。
それはまるで、気持ちよくなる「薬」のようです。
そして、ふわっと気持ちよくなると、
薬がきれる、薬をとりあげられる。
つまり、依存性がある。
また欲しい、ください、という気持ちが
イクたびに、スタンバイされて、この快に支配されてしまう。
ところが、今回の自慰は、
中略
ここが、なんといっても、今までの自慰とは、
「ぜんぜん」違うのです。
中心の技法を今まで自我復元でやってきましたが、
これと、とても似た感覚があるんです。
中略
この新しい自慰を知る前は、今までの自慰がすべてでしたから、
疑問に思わなかったのですが、このこすり始める、始めた、
その時点が、「へん」「おかしい」ことに、新しい自慰との比較で
気づいたのだと思います。
関心地図でいうと、「亀頭」「亀頭の感覚」「亀頭の快感」が
まさに、「遠く」にあるのです。
私は別なところにいて、それを見ている。
そして、おそらくは、だんだん気持ちよくなるにつれて、
その「遠くの快感」に「飲まれてしまう」のだと思います。
結果、我を忘れる。
ところが、新しい自慰は、
「我を忘れない」のです。
遠くの感覚に飲まれるようなことがない。
なぜなら、
最初の最初から、
「性の中心」にいる感じがあるからです。
今自我復元でやっている自分の中心のそれとは違うとしても、
「性の中心」という感じが、しっくりきます。
私にとって、快楽、性の快楽とは、
その酩酊感、自分を忘れた感、ぶっとんだ感、
要は、自分の舵などどこにもない酔っ払いであり、
その一瞬に集中した「酔い」の感覚が、性の快感だと思っていたのです。
ただの「麻痺」とも言えます。
それは、まるで、
AC人格の不満を、何かで埋められた時に、
その不満を忘れられてすっきりした気持ちになるのと、
なんら、変わりありません。
でも、それが快だと思っていた。
AC人格の餌に、AC人格が快を感じていたのと同じだと思います。
その違いを、今回、感じるのです。
<かつての自慰>
1.刺激を与えはじめてから、射精痙攣の手前まで。
⇒なんだか、自分と快感が離れていて、ここは気持ちよい時間では
「本当は」ない。「本当は」と書いたのは、かつては、ここも
気持ちよく、この快感が高まっていくと、イク、のだと思い込んでいた。
2.射精痙攣中
⇒我(結局、これはAC人格のこと)を忘れられる。
最高に酔った気持ち。恍惚状態(ACのそれでしかないが)。
3.痙攣がおさまった後のしばらく
⇒我(=いつものAC人格)に、「急激に」、かえる。
溜息が出る思い。薬をとりあげられる、あるいは、酔いが急にさめる
喪失感。快が奪われた感(結局、元の「遠く」に快が戻っただけ)。
だったものが、これとはまったく違うことが起きる。
<新しい自慰>
そして、それはどういう意味かというと、一番感覚的に近いのが、
中心の技法で中心に戻る、その感じに、とても似ている。
きっと、亀頭の快感という「遠く」を「観察する私」がいない、
という意味で、その観察者の「我」がいない、ということかと思います。
勝手に私はこれを「性の中心」と呼んでいますが、
中心でこの「1」の過程は起こっていて、ずっといたいな、
と思ってしまうほどです。そのくらい好き。
へんなたとえかもしれませんが、左手中指を円を描くように
刺激していると、女性がオナニーをしているようだ、と思ったりしました。
イクための手段、という感じでなく、この時間自体、気持ちいい。
中略
2.射精痙攣中
⇒これが、「ぶっとばない」ので、最初、あれ?気持ちよくならない、と
思ったところ。今はまだ「新しい自慰の快」を毎回少しずつ味わえつつ
ある段階なので、ここの快を上手く表現できないのですが、素朴に気持ちいい。
寸止めを何度か繰り返すことで、ここの快の感じ方が変化(倍増?)するのかな、
と思ったりしているのですが、寸止め2回(内、一度は失敗)の経験では、
まだ、そこはよくわからない。
ただ、それでも思うのは、ここでの快が、たとえば、今回の失敗で1/4程度に
なったように感じても、「素朴に続く、静かでおだやかで」、そう、
「気品のある気持ちよさ」は、私が今まで知らなかった快感に感じています。
「1」と続いている感じがあって、その意味では、好きなまま、この
「2」が起こります。ぶっとばず、自分の舵がここにある、酩酊していない、
その自覚は、たいへん心地よいものです。
3.痙攣がおさまった後のしばらく
⇒これが、昨日書いた部分と重なりますが、まるで飛行機が着陸し、
しばらく静かにおさまるまで、心地よさが続く、そんな感じです。
自分の舵、オールをゆっくりとおさめ、陸に停船していく感じです。
なんていっても、静かなんです。パラシュートでドーン、の後のあの
まるで祭りの後に「はい、掃除しまーすっ」との合図で興ざめのごとき、
「後始末感」がなく、その意味でも、
「出さない」というのは、気品のあるまま、自慰を終えた気持ちがします。
中略
なにより、私が今、思うことは、
こう書いてみると一目瞭然なのですが、
<かつての自慰>は、実は、不快から始まって、
快を「ほれ」とどこか他から与えられ、
なんだか、自分が(こすっているから)気持ちよくなった気持ちでいるが、
それも束の間、与えられた快(酔い)は、ほどなくさめる。
与えられたものが奪われていく、こういう不幸な自慰である一方で、
<新しい自慰>は、最初から気持ちいい。
快からスタートし、また快のまま、快のまま閉じる。
まったく、ずっと幸せな自慰だ。
以前、崩残さんが記事にも、
また、書籍にもずっと書かれていたことですが、
不幸から始まったものは、幸福にはならない、と。
この新しい自慰は、幸福から始まっています。
そこが、今の時点で、私がこの新しい自慰をして、一番、好きな点です。
ただ、これに入りこめたのも、
やはり、エロ妄想がことごとく毒父由来のものであり、
エロ妄想がつくりだす性欲(という不満)から、私が自慰をしない、
したくない、と思ったことが、まず大事だったように、今、思いました。
中略
これがいい悪いは別として、
まったく、性欲が襲ってくることもなく、
だいたい、女の人を見ても、まったくエロ妄想も起こらず、
おっぱいにもまず目がいかず、
そもそも、今までずっと続いてきた「あ、女の人だ」という
その識別判断にすら囚われなくなってきています。
今までは、自慰をする時、どこかで
「やっぱり物理的にこするだけよりは、エロ本とかで抜きたいな」
と、感じることが、ふと、ありましたが、
今は、そう、さっきも、普通に出してみよう、でもぜんぜん立たないな、
たまにはエロ本でも見てみる?と自問してみたりしたのですが、
ぜんぜん見たくないんです。
中略
とりあえず、不満を埋めるような快を求めなくなっているのは確かです。
こういう思いは、ブログにも書いたりしましたが、
食についても、また、自我復元全体に対しても、
くまなく、同じ思いが今、強まっています。
不満からスタートすると、ともすれば、ただの分析に終わってしまう。
今、私が本腰を入れてすることは、食もそうだけれど、
「なぜ、そうなってしまうんだろう」ではなく、
自分が気持ちいい、心地よい、自分の思いのままになす、やろうとすること、
そういったことを「実現」すること、
したいではなく、本当に具現化することこそ、
覚悟して本気でやらねばいけないことだ、と毎日、感じています。
ACにビビるのではく、ACが出てきても殺せばよいことで、
ひるんでいる場合ではなく、
今の私に必要な自覚は、いつもそこに戻りますが、
「私は、やれる」と、逃げないでやれるんだ、という決意に戻ります。
昨日も仕事をしながら思いました。
ブログで「泣きながら生きていきたい」と書きましたが、
泣きながら仕事をしよう、と思いました。昨日。
そうすると、何が、今までと一番変わったかというと、
目の力がゆるんだことでした。
それは、素手、素っ裸で、すべてに向き合うような
「受動的」な目でした。
不思議な感覚ですが、受動的であるがゆえに、
なんでも、なすがままになせばいい、と思えるのでした。
思うこと、感じることを言えばいいのだ、と。
それは、すごく、清々とする思いでした。
結局、私は、構えていたのだと思ったのです。
崩残さんから、一番はじめ、私のかつての姿を見てくださった時、
構えている力みがある、といったようなことをご指摘いただいたことを
覚えています。
他者に対する構え、とおっしゃっていたと思います。
これが、今まで自己分析してきたような「委縮」でもあり、
それは、泣けない、という力み、それが構えとして、
目や身体にも出ていたのだと思います。
ですから、力まない、というのは、結果論であって、
脱力すればいい問題ではなく、自我復元すべてがそうでしたが、
緊張の原因をしっかり直視し、対応し、解除実行することが大事で、
結果、目の力がとれ、そして後、昨日感じたのは、顔の力がとれた感じ、
さらには、二の腕の力、下に下がると、肛門がゆるんだように思いました。
ただ、これがよい状態だ、としがみつくのは、リハビリとは言わず、
自己暗示でしかありませんので、
AC分析、AC解除、という今までやってきたことを、
当たり前のように徹底することで、
委縮から開放されていくことになると思います。
その接点となっていたのが、
「泣く」ということだったと思います。
それ(泣くこと)はACにとっては怖いことでありますが、
私本人にとっては、そうしたかったこと、そうしたいことです。
昨日はそこに気づいたとき、自分像が見えたように思いました。
泣いている私です。「泣ける私」です。
中略
性の話とはそれてしまいましたが、
そしてまたそれたことを書いてしまいますが、
桜の間に書かれていた土壌プロジェクトもやりたいと思いますし、
掘った穴に欲しいものを書いて埋める、それもやりたいと思います。
しかし、これら、性のことだけでなく、泣く、泣けること、中心に戻ること、
すべてが、今、どれもが同じことのように感じています。
それは、妄想ではない世界です。
私が生きている世界であり、ずっとここに開放されたかった世界です。
それは何もすごい世界でもなんでもなく、私が委縮せず、
本当はものを言い、行動してよかった、今までの世界なのです。
変えていく、変わっていくのは私であって、まわりではなく、
しかし、私が変わることで、まわりが変わっていく毎日を、
今、実感しながら過ごしています。少しずつですが。
性の話に戻りますが、
中略
私は、かつて子供に関する仕事に関わったとき、
犯した一番の大きな間違いは、
「ここなら安全だよ」という牢獄で、
子どもを鎖でつないでしまったことでした。
自らの保身のためにです。
でも、こういう仕事をする上で、する人が備える最低限の資格と自覚は、
この世界は安全ではない、という自覚の上で、
子どもにもそこを偽ることなく、子どもだけでなく、
他の誰に対してももちろん、自分自身に対しても偽ることなく
「安全でないことを」「言い」、
その上で、どう、ここを、私が、あなたが、生きるかを、
どんな困難にも目をそむけずに、考え、考え、行動していく場、
そこを、私の職場とすることが、闘う私のこの生での生き方、
否、死に方だと思います。
中略
今、私は、マイナンバーもなんでもそうですが、
こういう汚い、人殺しそのものだろ、っていう無責任丸出しの生き方が
許せなくなった。
それは、私自身のACを許せないのと同じ、まったく同じ。
でも、許せない、と憤り、恨み、というのではないもの。
それが、闘う、生きる、というもので、
これが「快」だ、と、私は今、はっきり思えることで、
自分の前の道が、無数に開け始めているのだと感じるのです。
だから、やりたい、と思えるんだと思います。
それはそうです。
恨み言、怒りに満ちた場所で子どもたちと過ごしたいなど絶対に思いませんし、
思わないどころか、一番、やりたくないです。
中略
まったく、私の生は、無数の自由(へんな言葉ですね、無数に決まっています)
に、開かれていて、誰も、罰する者などいないのでした。
面白くなりそうだ、どうなるんだろうこの旅。
中略
ほんの少しをほじくり掘ってきた、この血豆だらけになった自我復元が、
「ほんの少しのそれ」こそが、
本当は捨ててはならなかったものだったことを、教えてくれたのですから。
泣くもそう。
我慢できるでしょ、じゃないんだよ。
我慢などしなくていい。
なぜ、我慢しなければならないのか?
そう問い続ける正常な自我こそ、
私がこれから失った時間の何倍もの努力で、
育て直さなければならない私という自我だ。
中略
今まで、私は、
「こんなことをして死んで後悔しないか?」
ばかりの妄想しかできない人格を40年以上、生きてきました。
今、思います。
いつ、何をやっていても、
そこで今すぐ死んでも後悔しない生き方をしなければならない
・・・ではなく、
「それを実行しなさい」
ここから私はようやく逃げない私になってきました。
強迫観念から焦るのでなく、
ゆっくり考えるなどという習慣づいたAC癖は捨てていき、
中略
それは、何もすごい知識とかではなく、
いつも自分の思い、正直な思いをまっすぐに出すことを
どの場でもどの局面でもやり続けた人だ、ということだと思います。
私は、まだまだ初心者マークでまさにそれを痛感しましたが、
リハビリの目標、というか、ああいうふうに動けるように、
このこわばった自分を元に戻していくぞ、と、
本当にいい体験を今回させていただいている最中です。
中略
崩残さんの松の間の実践の徹底とはケタが違い過ぎます。
回数、これは、大事です。
というか、私に欠けているのはこの回数の大事さ、
それに伴う楽しさの経験、新たな展開と発見の経験です。
私は、ずっと、回数なんて、と
馬鹿にしていたAC人生でした。
要は、ちっとも面白くない人生を自分が送っていることを
自分で暴露しているだけ。
略
*********
年内、毎日、更新される
あびさんの「リハビリの巻」は、こちらです
↓
http://mmjhb11.exblog.jp/i6/
________
★
.
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