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「分割自我復元」
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[602]
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★分割自我復元★その602【 雑 記 】●
by:
鈴木崩残
2016/04/21(Thu)11:41:36
・ 雑 記 ・
4月中は、サポート情報を書けるほどには、
まだ体調は回復をしないと思いますので、雑記を続けておきます。
*********
今朝、夢の中で、(ご丁寧なことに)3度も、繰り返し同じことを解説された。
眠る前に、疑問に思っていたことがあるせいもあるものの、
私の思考の自己演出による可能性は低いものでした。
(ただし、向こう側の私が、こっちの私に説明していると言えなくもない)
しかし、それで、わかったことは「ひとつ」だけ。
他人様に、
何かを教えて欲しい、とか、
わかりやすく説明してほしいと、
皆さんや私が、誰か(人間であってもそうでなくても)に、
気安く言って、説明を要求するという、失礼・無礼な癖がありますが、
どれだけ「ちゃんとした説明」をしても、
そもそも、質問した側には、それを「理解しようとする気が最初からない」、
これがこの世界での理解が成立しない最たる原因だということ、
これだけが、明確に理解できた。
■その夢の中で説明された解説というのは、
「世界や宇宙の意味や価値といったものは、
最初から、あったものではなく、
必死になって、ひねり出して作り出すものである、
だが、作り出すことに中毒してしまい、
ひっきりなしに、生きる意味や目的を作らないと落ち着けない、
または枯渇を恐れて動き続ける、という精神状態はよろしくない。
が、逆に、壊すことに囚われてもならない」
といった、ごくごく、当たり前の「宇宙の常識」の説明だった。
しかし、「どれだけ、親切に説明」しても、
聞き手が、はなから、受け入れられない、
または理解できないことは、理解できないのであり、
それは説明者の説明が悪いからではなく、
聞き手が理解しようとする気がないため、であることは、
「どういう問題おいても、同じだ」と、今回、よく理解できた。
■さて、そもそも、精神世界という分野は、
それがビジネス的な側面を持っていても、まったく無償のものであっても、
どこもかしこも、まず、人間や人間社会に対して、
「今の状態はよくない。
だから、正すべきことがある」
「現在よりも正しいあり方がある(はず)」
という前提から、まず話を始めているから、始末が悪いし、
これ自体が、相当に、イカれているのである、
ということを、私はトークCDの「何が問題なのか?」と、
「足元の宇宙風景」で、きちんと説明している。
■かくいう、無明庵の自我復元も、自我はかつてのような元通りがいい、
と、「あるべき元の状態」がいいという論法で行ってきたが、
それは、決して、全自我であると、生きる気力が出るとか、
生きるためのスキルがアップするとか、そういうことではなく、
何かを探求し、集中するならば、必要不可欠であるので、全自我に戻れ、
というのである。
そもそも、全自我というのは、毒親育ちのトラウマ持ちが、
就職したり、恋愛したり、親から自立して働けるようになるためとか
そんな程度の低いことを期待して行うものではない。
そもそも、全自我になるということは、
「本当の意味での探求者にとって、それが必須だから」であるにすぎない。
*********
そういう点でいうならば、
現在、全自我の3人は、「もともと、探求者であった」のかもしれないと
私は、かなりリアルに思っている。
自我を復元したから、探求者の資格を得たのではなくて、
もともと、探求者の資質を持っていた人たちだったものが、
不運、+自分の選択の甘さによって希釈自我を選んでしまった、
だから、自分らしくない、おかしいと気づいて、
自我復元をしようとして、実際に戻れたということ。
そこが、他の多くの自我復元者と、この3人はかなり違う。
この3人の全自我帰還者は、私が頭を悩ませたことがほとんどない。
ある時期には、注視したり、
ごく稀に、まとまった助言をしたりはしたが、
他の復元者に対して私が思ったような、
「困ったもんだ」とか、「やれやれ」とか、「この人は、駄目だろうな」
といった感覚を、ただの一度も持ったことがなかったのである。
この3人の全自我の人たち以外に、
そう思わなかった人たちは、ごくわずかしかいない。
たいていにおいては、私は、自我復元者の挙動を観察していると、
途中からは、その行く末を、絶望的に感じることが多い。
■というのも、自我復元によって、
「まともな自我を取り戻す」というのは、
取り戻してから、何をするかを決めるのではなく、
最初から、取り戻したあとに、やりたいと決めたことが本人の中にあり、
それも、漠然とではなく、はっきりとあり、そういう復元者でないとならない。
むろん、軟弱な精神と馬鹿ヅラをさげて、「悟りたい」とか、
苦しいから死にたいとか、そういうくだらない、願望であったら、意味がない。
また、家庭で親から、そして世間で、
異性や他者や、学校で、馬鹿にされたり、イジメられた、
そういったことはトラウマの原因にはなり得ても、
そもそも、そういったトラウマに起因するAC人格を治すだけが、
自我復元の目的ではないのである。
*********
だいたいからして、自我復元をやろうと思い立つときの、その人には、
「私に必要なのは、これだ」という確信めいたものがある事が多いようだが、
私に言わせれば、その「これだ」という思考は何を根拠にしているのかである。
何が、これだ、なのか?
どこが、これだ、なのか?
私が言ったから、そうだろうと信じてはじめたのか、
それとも、「分割自我復元理論」のCDを読んで、
理論的にそうだと思ったからなのか?
それとも、他の復元者の、ブログの内容や、桜の間にある、
トラウマ報告や、毒親の描写や、AC人格分析を見て、
そんな手遅れな時期になってから、
「自分のところと、似ている毒親だから、自分も問題ありそうだ」
となって、弱弱しく、復元をしようとしたのか?
それとも、自我復元の完了者3人に、復元中との意識の違いを確信して、
そうやって、他人の様子(成果のあるなし)を、横目で見ながら始めたのか?
それとも、自分に本当に、何かが欠けているという実感や、
自分が、こんなことでは全力ではない、と不満を感じて始めたのか?
こうした、自我復元を始める動機には、いろいろなレベルの差があるものなのである。
*********
公式の自我復元ブログを、全自我の人、3つだけにしたのは良い判断だった。
というのも、
復元ブログが本人に与える利点というのは本当に少ない、ということが
この5年でわかったことだった。
最初は夢中になって、誰もが始めるのだが、やがて、
「見ている人は、自分が全自我になるのを期待しているのか?
それとも、自分の自我復元の挫折を、意地悪な目で、期待しているのか?
あるいは、トラウマなどで、参考にする部分を読んでいる人は探しているのか?」
とか、その他、さまざまな邪心、余計な考えが見え隠れしていた。
もともと、自我復元ブログは、本人のいろいろな欠点の浮上効果や、
AC人格にとっての「誘惑材料」も含んでいた。
そうしたブログが今後も、勢いは最初だけとか、
あるいは3年ほど進んで、そこで止まったままになると、
今後、5年以上してから、復元ブログを知った人は、
あちこちのやりっぱなしのブログを見ることになり、
新参者の人が無駄に時間を使う「ロス」が一番気になっていたのである。
今回、ブログを削除いただいた二名の人も、今後は、
「自我復元ブログを、維持しなければ」というプレッシャーを離れることも出来て、
今までよりも、地道に掘りすすめて、解除してゆけるかもしれない。
昔の初期の読者の傾向
これは、ずっと以前にも、分類して、まとめておいたことですが、
無明庵のサイトの読者は、次のどれかしらの入り口からここへ来ました。
古い時代から順に整理しますと、
1/1998年以後に「悟り」というテーマで検索にかかったか、
1990年代の後半に書店で無明庵の本と出合った。
2/同じく「SEX」の指南書に書店で出会ったか、または、
無明庵の性の情報についてネット上で知った。
2000年から数年間ほどの時期。
3/2009年ごろの「禅書」というイベントに興味を持って。
4/2010年の「自我復元」に興味を持って。
5/2012から2013年あたり以後の、
「トラウマ掘り、AC人格」の報告事例に興味を持って。
この4と5では、相当に違う。
4の段階での「自我復元」に興味を持った者のほとんどが、ただの興味本位。
「トラウマ問題が出たあと」に興味を持続的に持てた人は、
本当に問題意識がきちんとあった人。
トラウマ問題が出たあとに、興味だけ持ったものの、
きちんとした指導のもとで、AC人格と向き合わず、判定もしなかった者は、
どん臭い「ただり乗り遅れ」。
*********
しかし、この5分類の中で、もっとも多かったのは、
「1」のカテゴリー読者層である。
無明庵を、いつ、どうして、どこから知ったかというアンケート回答では
性や、武術の経由など、ほとんどなく、
機能不全家族や、AC・トラウマ問題経由は、ほんのここ数年のことであり、
無明庵の書店とネットを含む活動時期である、この過去21年で
無明庵に興味を持った読者の9割が「悟り系」に関心を持ってしまった、
ということなのである。
*********
●もしも、1995年以後に、無明庵を知った、その人たちが、
「本気で、本人がその人生を賭けて、本当に、突き詰めていった、
その結果、無明庵の本に出会った」
というのであれば、その人にとって、無明庵を知ったことで、
人生の状況はかなり違っていただろう。
しかし、私が見たところ、本気で自分の探究心を全開にした結果、
無明庵の書籍(初期の悟り系の本)に出会ったのではなくて、
他所や、他の宗教や瞑想、特に、自分が何者にもなれなかった、
変わることが出来なかったような、そういう他所に対するわだかまりから、
そうした他所の体系や指導者を馬鹿にして、見下げたいために、
無明庵の本を悪用してしまった人もかなりいた。
その傾向は、年齢に全く関係なかった。
現在、50歳を過ぎた人にもいるし、逆に20歳前後の者にもいる。
この愚かしさは、年齢によって違うものではなく、
どう観察しても、その者の育った機能不全家庭の環境、
つまりAC人格に由来することは確実だった。
逆にいうと、AC人格の動機には由来しない、「本物の探求者」、
というのに出会うことは、かぎりなくゼロに近く、ほとんどなかったと言える。
それは、2016年現在でも変わらない。
もしも、本気で、命を賭け、生活や自分の生命も賭け、
むろん、毒親などに依存せず、
そうやって、真剣に、いろいろなものを実践し、
それでも、他では満足できませんでした、
だから無明庵にたどり着きました、という、本腰の入った者がいれば、
状況はもう少し、マシだったのだろう。
余談であるが、
他で満足できなかったから、無明庵に辿り着いた、というマトモな人はほとんどおらず、
他で「満足しそこねたから」という者たちが圧倒的に多かった。
しかも、罰当たりなことに、Oshoや、ダイジといった、
その対象物が「本物」であったにもかかわらず、
そこで満足しこねた、変容しそこねたから、相手にされなかったから、
一角の者になれなかったから、という、
そんな「どうにも変化できず、なり損ねた者」
これが圧倒的に読者に多かったのも、無明庵の不幸な出来事のひとつだったが、
これは、おそらくは、うちでなくても、どこの団体でも同じことだろう。
ただ、ひとつ、無明庵がメリットを持つとしたら、
コアな読者は、絶対に、どこかの特定の組織、ワーク、カルチャースクールには、
もはや、属せないということである。
(期間が21年も、あったのに、
何も学べなかった者は、ほかで、ぼったくられればいいのである)
というより、
そもそも、無明庵に「正しく影響された者」など、どこにもいない。
単に、他の組織や、他の宗教を見下げる視点として悪用して、
わかったようなこと、それこそ、無や絶望こそが絶対なんだなどと、
私が桜の間のトーク動画で語った、
「パワーインフレ」の妄想に酔ぱらっているだけ。
大げさな話ぱかりに自己投影して、目前の自己の状態から逃げているだけ。
そんな、中途半端な者たちが、
文句ばかり言い続け、挙句には、
中学生ですらも出来る、自殺すらも出来ず、
(下手に、あれこれと、大人としての体裁をおぼえたせいもあるが)
結局は、死んだような生を、今もまだ、引きずっている。
1995年から、何も変わってはいない。
今も、そんな人たちしか徘徊していない、
それが、今のここの、精神世界という「檻」なのである。
■私から、言えることは、どんな体系であっても、
2年やっても、当初の自分の望んだ目標が、達成されなかったらば、
その体系は、あなたに合っていないので、
迷わず、やめるという、潔い決断が必要だということだ。
本気で本当にやったら、どんなものでも、2年で結果は出る。
結果や成果が明確に出ないなら、それは、ほとんどの場合において、
「あなたの、道の選択の感覚が、間違っている」のである。
______________________________
先日、ようやく、外で紅茶を飲もうと思えるぐらいに、回復したので、
お嬢様と一緒に、日向ぼっこをしました。
●最後に、面白い話をひとつだけ。
3月の終わりに退院して以後、もう3週間以上になるが、
一度たりとも、
自宅から、半径10メートル以上外側の世界を歩いていないのである。
朝のゴミ出しも、私は行かず、砂手に頼んである。
以前に、いきつけだった散歩コースも全く歩いていない。
ただし、それは私が体力が回復していないからではない。
どういうことかというと、今回の入院で、私と、
「この世界との接続が切れたまま」になっていてくれている、
そこには、めったにない利点がある、ということである。
ただし、自分の「肉体との接点」は、回復していますし、
肉体との接点は、退院後も自宅で、注意深く管理してきました。
私の肉体と、私の意識は接続されていますが、
「肉体と、世の中(物理的環境)」が、ほとんど「未接続のまま」ということです。
こういう機会は、
つまり、意識と肉体は接合できているが、
意識や思考は、ネットには接続されていても、
自分の肉体が存在している「物理的環境」と「再契約」をしておらず、
周囲の環境にまだ縛られていない、のである。
普通は、体と接続すれば、自動的に体と接続されていた世界とも繋がるものが、
今回は、体と繋がっても、体と環境との自動的な繋がりが、
あの入院時の経験で、消えてなくなっている。
こういうのは、私にとっては何十年ぶりかで、めったにないことなので、
貴重な機会として、「ぎりぎり」まで、利用するつもりである。
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