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[604]
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★分割自我復元★その604【口中香】への感想●
by:
鈴木崩残
2016/04/29(Fri)12:26:07
「口 中 香」の感想
■以下の、感想は、CDを聴いた人には、うなづけるところや
言っている感想の意味が、よくわかると思います。
・おひとりめ・
体調回復とのこと、何よりです。
さて、早速、「食べ方」を試してみました。
食べ方は、今までに、いくつか試したことはありましたが、
呼吸ひとつで、これほど味覚が変わるとは、思いませんでした。
確かに味が口内に染み渡ります。
当然のように、食べるスピード、噛むテンポもゆっくりになります。
そして、味覚を感じるところが、舌よりも口内の上側、軟口蓋という
部分ですごく味を感じていると思いました。
まだ2回の食事での感想ですが、私は軟口蓋付近で濃い味覚を感じました。
また、吸った息を止めた状態が、一番味覚が飛んでしまうと思いました。
今までのような食べ方は、味覚を感知する時間は、わずかで、
味覚が飛んでしまう状態で噛んでいたということになります。
今回は、私にとって、嬉しい副産物を見つけました。
実は、このような食べ方をずっと探していました。
今まで、いくつか試してみたものの、
ただ食べるテンポがゆっくりとなるだけで、
これと言った変化がなかったです。
私は、困ったことに食事中に度々、左の頬を奥歯で噛んでしまい、
口の内側が腫れ、血が滲み、口内炎となり、
食事が不快な状態になってしまうのです。
この頬を奥歯で噛んでしまう時の痛みというのが凄くて、
椅子から転げて落ちてしまいたくなるほどの痛みなのです。
激痛です。
ゆっくり食べていても噛むときは、噛んでしまいます。
そうなると、1年分の不満が降り注ぐような、
イライラ感に襲われてしまいます。
本当にこれには、参ってしまいます。
なので、私は口内炎に悩まされる時期が多いです。
食べる状態を観察すると、私は、顎が歪んでいるのか、
又は、利き顎とでも言うのか、いつも左側で噛み砕いているようです。
今日、「口中香」の食べ方を試していると、
この利き顎が自然に左から右に移っていました。
右奥歯でゆっくり噛んでいるのが分かりました。
全く食べ方が変わっていました。
これは、不思議ですね。
呼吸ひとつで癖が変わってしまいました。
この食事法なら、頬を噛み潰すことは、なくなると思います。
「中心技法」の時も、顎の動きが変わりましたが、今回も同様でした。
この食事法、思わぬ副産物もあり、ホント、いいですよ!
しかも、自然と身についてしまいそうです。
ありがとうございました!
*********
2016/4/24
________
・ふたりめ・
>以下は、「あびさん」からの報告なので、
>技法というものの本質や、自我についての話も、
>途中に多く盛り込まれています。
崩残 様
今、ちょうど、一話目を聴き終えたところです。
まだそこしか拝聴しておりませんで、
それも途中ですが、お菓子とお茶を用意して、さっそくやってみて、
感じたこと、発見したことを、まず、書かせていただきます。
細かいところは、まだ、これから見ていく予定ですが、
最初に感じたこと、これを、書きます。
お菓子は、ミニどら焼き1つ、シナモン風味の薄めのクッキー3枚、
カカオニブというチョコレートの原材料になるもので、味はビター(米粒状)、
それと、無農薬栽培のお米にお砂糖をまぶし、少しだけお塩をかけたものを、
グリルで小さめの焼きおにぎりのように温めたもの。
お茶は、ミルクティーです。
中略
味覚のことを、これから書かせていただきますが、
私は「半分は、損していた」というのが実感です。
そして、なにより、
これは自我復元で日々思うこと、この頃、特に思うことですが、
崩残さんが、「ずっと味を途切れることなく味わう」というそのこと、
そもそもですが、そういうことを「しよう、試みよう」とする意識、
これが、自我が働いたときの、関心の持ちようだと思っています。
中略
かつて、崩残さんが桜の間でもおっしゃっていましたが、
死後、その世界では、
「自分が作用させようと意識した分しか、何も起こらない」と、
言葉は違ったと思いますが、そういうことを書かれていましたが、
昨日から、そういうことを痛感しています。
1mmしか動いていないのに、1km動いたように錯覚させたり、
1km動いたのに、1mmも動いていないように錯覚させたり、
そういう「現実でない、妄想」を生きる(死ぬ)ように調教したのが、
毒親です。
それは、毒親が都合がいいように、ただそれだけのために、です。
でも、現実は、1mm動いたら、1mmだけ、実際にそっちに動いている、
それが「現実」であり、それが、生きている、という実感であり、
私が、自我復元中であろうと、その後であろうと、一貫して
「楽しい」と表現したことは、そういうことでした。
自分がした分しか、何もならない。
まず、こんなことを感じました。
そもそも、こういうことをやってみよう、という関心、
それはどういう主体性が「持ちうるのか」ということを、
聴きながら、とっさに、思いめぐらせました。
さっそく、味覚のことです。
私が白米だけ食べる、それをやっていた頃、
ラップにおにぎりにして、タッパーにそれごと入れて
仕事の休憩中、食べていたわけですが、たびたび、こう思ったことがあったのです。
「お箸で少しずつ食べるより、
おにぎりで、ほおばったほうが、美味しいなあ・・・」と。
ただ、その時は、「味覚」は無視していたような意識状態でしたので、
それは、ふと、感じたこととして、今日までわすれていました。
その謎が、わかってきた、ように思います。
実は、私は、先ほど書いたように、
「半分、損していたなあ」というのが実感でした。
最初、お茶とお菓子で試したとき、
それほどは、いつもと変わらない、と感じたのです。
いつもは、どう食べて、飲んでいるのだろう、と見てみると、
わりと、崩残さんが今回紹介された方法に「近い」のでした。
しかし、まったく違ったのは、まず、口をあけるときに、私は、
「息をとめて」「口から空気を吸ってから」口に食べ物を運んでいる、
ということでした。
一見、吸っているようには思うのですが、実は、「息をとめている」のです。
つまり、食べた「その瞬間」は、「味わっていない」のでした。
味がしていない、ということです。
その次から徐々に私は、今度は口を閉じて、鼻から息を出しながら
味わって食べます。
飲むときもそうなることもあるのですが、
飲むときも基本的には、同じではあるのですが、
「ごくん」と飲んでしまうと、
結局、息をとめて口に入れて、ごくんと「その瞬間」飲んでしまうと、
ソムリエ方式に後半部に似ていて、その「残り香」くらいしか、
その後に味わっていない。
・・・となると、口にあるその液体自体の味は、
飲み物の場合、固形物よりも、味わっていない時が多いのではないか、
と思いました。
もちろん、味わおうとすると、
ごくんとは飲まず、食べるように飲むので、固形物のように
味わって飲むこともあります。
ただ、それでも、「口にいれた瞬間」は、
鼻からの吸気はとめているので、
「半分」味わっていなかったのは確かでした。
今回の方法にした瞬間に、
食べたその瞬間から味わえた、味わえるようになった、
というのが、第一の発見。
中略
つまり、物理的なこの「舌」で
「どんなふうに味を感じているか」を強く観察しようとすると、
どうやら、1と2のその呼気吸気方法を、もしかしたら、
人間はとるのではないか?ということ。これが、2番目の発見。
3つ目です。
実は、口を大きく(大きめ)あける、
これはすごいことだ、と思ったのです。
まさに、「おにぎり」ですが、「ほおばる」と、美味しいのです。
さっき、急いでチャーハンをつくり、
大きめのおにぎり、と、お箸で食べられるように、
チャーハンをお茶碗によそったものを用意して食べ比べました。
中略
何が違うか、ですが、ほおばる、と何が起こるか、というと、
口に入れた瞬間には、もう「吐く動作」に入っているのでした。
そして、「自然と」もぐもぐ、という動作がゆっくりになるのです。
つまり、吐くとき、ゆっくり、それを味わっています。
細かく箸で食べると、
味わおうとしてさらに細かく食べようとすると、呼吸も細かくなり、
結局、「味しない」「する」をデジタル的に繰り返すような感じで、
・・・つまり、
それは、のっぺりと無自覚的に食べている、だけになります。
実は、これに気づいたのは、前に崩残さんがくださったバームクーヘンです。
あの時、私は、食べたその瞬間に、
このバウムクーヘンは美味しいと思ったのです。
「口にした瞬間」です。
なぜか、わかったように思います。
私は贅沢にも、手づかみで「ほおばり」ました。
食べた瞬間に、もう、吐いていたのです。
だから、私は、このバウムクーヘンが特別に美味しいのだろう、と
思ったのです。
しかし、この「ほおばる」ですが、実は、「小さいもの」でも、
本当にそれを味わおう、としようとすれば、
実は、おのずと、口を大きくあけ、そうやって食べていたことに
さっき、気づいたのです。
つまり、本気で味わおう、意識的に味わおう、
それを本気でやろうとすれば、
この呼気吸気方法と口の開け方を人間はするのではないか!
という発見でした。
だから、誰もがしたことがあると思います。
しかし、それを「日々」「意識的に」するかどうか、という問題です。
音も、そのようなことで、ふと、思ったのです。
続き
仕事から戻り、2話以降、拝聴いたしました。
その前に・・・なのですが、
「ほおばる」といえば、と思って、リンゴを2つ買ってきて、
1つは「丸かじり」、もう1つは、8等分に切って、食べ比べをしてみました。
わかったのは、やはり、大きく口を開けると、
ガブッと、かもうとする瞬間に、呼吸が切り替わり、
「ゆっくり息を吐きながら」もぐもぐしている、ということでした。
8等分にしたリンゴも、「味わおう」と意識すると、
それは自然に、そんなに大きな口を開けなくてもいいのに、
やや大きめに口を開きますし、ゆっくり食べる、つまり、
ゆっくり、息を吐く食べ方をしようとします。
しかし、無自覚に、ただ食べようとすると、
とくに、急いで食べようとすると、だいたいが口の動きも早くなり、
「細かい動き」になりますし、
それにあわせて、呼吸の「吸う」「吐く」のリズム自体が速くなります。
速く、というより、「雑」になる感じです。
やはり、強く感じたのは、食べる側の意識です。
本当に美味しく食べたいのか、
ただ食べているのか、
味わおうと「今」しているのか、
なんとなく、味わっている「そういう時」が「そこそこあればいいのか」、
その、食べる人の意識状態によって、何が変わるか?といえば、
今、体験していることに対する注意深さ(敏感さ)であり、
なにより、たとえば味でいえば、
「味を感じていない、その時の状態」その状態が「自分にあること自体を」
「そういうことが自分に起きているその体験を」どう感じ、どう思うか?
それは、食べる側の意識次第だと思ったのです。
今回のトークは、一般トーク、ということですが、
やはり、私には、これこそ、崩残さんが、
ずっと桜の間で言ってこられたことの、中心にあるもの、とさえ
私には思えます。
味を感じていない時がある。
さて、これを「不快」に思うか?
不快、というのは、味を感じていないから不快という意味ではなく、
「自動的に」「そうさせられている、そうさせられてきたこと」
に対する納得のいかなさ、です。
自我復元で修理してきた部分は、まさにこれだったのです。
自分の意志でないことが、当然のように自分の身に起こっている。
味でいえば、食べていて、美味しく食べているつもりが、
なんと、味を感じていない時がこんなにある、みたいな。
しかも、それを知らなかった、あるいは、知っていてもどうしようもなかった、
など、このような理不尽さです。
崩残さんは、いつも、言ってこられました。
「どんな技法も、それを必要としていない人には何の意味もない」と。
本当に、何かを必要としているのなら、その技法に意味はあるが、
求めていないのなら、何の効力もない、と。
理由は明確で、やる、ためそうとする側が、
「本当は、そんなこと、求めていないから」です。
その意味で、私は、今回の「口中香」という「技術」も、
おそらくですが、多くの人は、知ってもやらない可能性が高い、
と感じました。
興味本位で、数回試すとは思いますが、
本当に、ああ、これは自分に必要だ、と思う人は、
きっと、全自我の人だけじゃないか、と思いました。
というのは、必ず、「めんどくさい」と言う、と思います。
あるいは、
「そんなこと考えながら食べたら、疲れて、かえって味わえない」
とか、屁理屈をいって「やらなくなる」というのがAC人格共通の性質です。
たとえば、私が一番苦戦した「日記」。
これは、れっきとした「技法」です。
しかも、誰にでもできるはずの、簡単なことです。
しかし、AC人格だった私は、上に書いた文句と同じことを思い、
私は、日記に対して、どうして、こういう思いを抱いてしまうのか、
相当に悩みました。
そして、今だからわかることですが、一言でいってしまえば、
「本当に、自分のコントロールで、生きたい」と本気で思っていない、
いなかったことが原因です。
AC人格だったのですから、それが本音なのです。
これも最近、思ったことです。
「今、私に本当に起こっていることは、何か、どれか?」と。
そうすると、当然、その妄想にリアリティーはありません。
今は、そこに気づけます。戻れるのです。
しかし、かつては、目の前の現実の多くを、
「本当には起こっていない妄想」で「埋めてしまう」のです。
AC人格は、この「穴埋め」が得意です。
他からの嫌がらせの妄想なら、本来なら「不快」なわけですから、
そんな妄想しなきゃいいわけですが、毒親は、必ず、
「飴」をセットに、そういう理不尽さを植え付けてきました。
つまり、どんな不快な妄想であっても、
「心地よい」と思うような、保身になるようなものがあるから、
妄想を「やめない」のです。やめられないのです。
これを断つ、のが、毒親分析であり、AC人格との格闘なのですが、
私が今書きたいのは、そうやって、
「現実を」「自分の都合のいいように」「変えてしまう」
という悪癖が、AC人格、毒親にあったことなのです。
味でいえば、
本来、ずっと「途切れず」美味しい、と
そう自分が意識を向けている間、そう感じているのが本当はいい、
それこそ、崩残さんがCDで話されているように「もったいない」のです。
一秒がもったいないのです。
しかし、本当にその「一秒」をもったいない、と思うかどうか、
逆にいえば、自分のコントロールができないような時間があっても
「別にいいや」と思っているのなら、
これらの技法は「やらなくなる」という、いつもの、ACがとる
「止める」という逃げに簡単に入ります。
「なんとなく、美味しい時が少しはあるからいいんじゃないの、
そこまで、はっきり、ずっと美味しくなくても、
素敵なレストランで、好きな友だちと話してワイワイしてりゃ、
そのほうが、美味しく食べられるんじゃないの?」
・・・そうやって、正論を言っているようでいて、逃げています。
何から逃げているか?といえば、
自分がコントロールできないことや、そういった時間が自分にあること、
そこから、逃げているのです。
そして必ず言います。
「仕方がない」と。
自我復元でやってきたことは、決してそれは、
「仕方がない、とあきらめることなどではない」ということ、
そうやって、あきらめて、やめさせて、
自分の都合のいい子どもに育てたのが、毒親なのだ、と。
仕方がない、と、自分の舵を放棄する、というのは、
言うまでもなく、「生きていない」ということです。
それでもいいんだ、など、本当の己は言いませんから。
コントロールができていない、できない、というそういう事態を体験したら、
それを全身で感じて逃げないのが「自我」というものの正常な機能であることを、
私は、ここ毎日、感じています。
中略 *********
わかりやすいのが、「どもる」ことに対して、私が日々感じていることです。
私が元気を失わない、と書くのは、
何も、いつも元気そうにいる、とか、問題がない、というわけでは当然なく、
問題があっても、それをその問題と等身大のまま感じ、
違和感もそのまま感じ、上手くいかないこともそのまま感じ、
どもることも、それを、なんとか、自分で解決したい、と本気で取り組むのです。
それは、どもるのが悪いからではないわけです。
ぶっちゃけ、どもってもいいわけです。何の問題もありません。
他人からどう思われても、どもっているな、と思われるだけで、
それこそ、そんなことは、生き死に重要なものではありません。
しかし、生き死にに重要な問題とは、
「どもる」ということが、「自分の意志に反して起こる」
そのことに対して、私が麻痺してしまったり、感じなくなったら、
それはダメだ、という感覚、
これこそ、生きるか死ぬか、という問題なわけです。
だから、私は、なんとかしよう、とします。
なんとかしようとした「その分」、
なんとかなるように「その分だけなる」ということを、目的にしているわけです。
それが「楽しい」のですし、
「自分が、生きている」のであるからです。
私が、取り戻した自我の感覚は、そういうものでした。
そして、私は、一秒も無駄にしたくない、と
たびたび、その思いをブログを書きながらも確認してきました。
それは「途切れない明晰な意識」を
私、この自分という自我は「求めている」という実感のことです。
だから、決して、どうでもいい、仕方がないことなど、
そんな死んだような寝言は無いのです。
日記とは、私にとって、それは
「途切れた意識も含め、すべてを明るみに映す鏡」だと思っています。
その鏡を直視し、快、不快、すべてを「観る」、というのが、
AC人格には、きつい、ということであり、
いや、正確には、誰でもきついのです。
しかし、その問題と向き合うか、逃げるかの違いです。
今の私は、「逃げられない」のです。
というか、逃げたくない。
どんなにきつくても、逃げないでいる、そういう状態それ自体が、
「楽しすぎる」体験なのです。絶対、それは「楽しい」のです。
コントロールができないのなら、それをモロに感じる。
ちょっとも誤魔化してはなりません。
であれば、それは、楽しいはずです。
生きているからです。
私は、本当に、このことを自我復元で知りました。
生きている状態とは、どういう状態なのか、ということ。
それは、今自分に起きていることを、妄想なので穴埋めをせず、そのまま、観ること。
本当に起きていること以外、起きていないのです。
中略
そういうことと、本質的には、白紙のスケッチブックに、「何かを書く」という
その「書き始める出来事」は、同じことだ、ということ。
また、それは、「日記」でもあるのです。
それらは、同じように私には思えるのです。
日記に書いていないことは、起きていなかった、とすら言えます。
だから何でも書けばいい、ということではなく、
それが、「現実だ」ということです。
しかも、そのことを、本当は、感じ、知っている。
そこで、それをそのまま受け取れない場合、
妄想で脚色したりして、自分を大きく見せたり、
また小さく見せたりする。AC人格がいつもやることです。
結局、そうする目的は、「現実を見たくないから」であり、
虚勢を張ったり、卑下自慢をしたりして、
「仕方がない」理由を捏造する。
>気がついたら、無意識に、できているということはなく、
>自動化は、してくれませんでした。
>毎回、意識的にあのようにする必要がありますが、
>そこから受ける恩恵としての味覚は、今までの何倍もありました。
いろいろ、自我復元への思いや、今、感じていることを書きましたが、
この崩残さんが、メールで言われていることの真意を
やっと、私は、今、実感できるようになったと思っています。
だから、思ったのです。
口中香、というこの技法も、
確かに、関心地図にしても、日記にしても、誰でもできる。
しかし、「やめない」という必要性に迫られている人は、
やはり、AC人格をなんとかしよう、
と必死にしている人だけだと思ったのです。
誰でもできるし、やり始めても、
「こんなことまでしなくても・・・別に、生きていけるし・・・」
というのが、私自身、40年以上、やってきたことでしたし、
この「怠惰さ」こそ、AC人格のなんたるか、でした。
生きていない、そのこと自体に、気づけなかったのです。
本当に、生きていない自分を実感するまでは。
中略 *********
ところで、今度は「音」を聴く、ことについてです。
2話目の話で、嗅覚、視覚の話があり、これは、すぐ、理解できました。
視覚ですが、たまたま、PCのメディアプレイヤーの画面で
ただ真ん中に音符マークが一つあったのですが、
息を止めているとき、まさに、くっきりしました。
中略
何度も書きたいことですが、偶然にすごいことが起こったりしても、
そんなこと、何も面白くありません。
刺激的なことや、スピリチュアル体験とか、ほんと、どうでもいいです。
自分が為そうと意志したこと以上のことが起きても、ぜんぜん、嬉しくない。
それは、音楽を聴いていても、だんだん、わかってきたことでした。
「ああ、いいなあ」というのは、そんなに面白いことではないんです。
そんな、どこから降ってきたかのような快感は、
本当は、自我にとってみたら、「だから何?」なのです。
私、という自我は、自覚的に、意識して、意志して、
考え、行動し、その結果を見て、よしあし区別なく直視して、
まさに、1mm動いたら、1mm進んだ、あるいは後退したその結果を
現実として、当然のように感じ。
中略
でも、私は、それが、誰か知らない何かによって、知らずにもたらされ、
それすらも自覚できなくなる自分であることは、
もう、許せない「人間」になりました。
人間は、ロボットではないのですから、
なんだかわからないけど、そう命令されているみたいでそうなっています、
なんて、嫌です。
「嫌だ」とか「気持ち悪い」ということを、決して見ないことにしないこと。
それが、私は、生きている、ということだと思います。
続き
さて、さっそくですが、まず味覚で、2つ、「おお」と感じた、体験です。
一つめは、小さなプリンを先日買いました。
中略
このプリンで、口中香を試したとき、
「2つ、食べているくらい、プリンが増えている!」
という、「おお!」でした。
プリンを食べたいな、なんて思うとき、というのは、
プリンを、できたらちょっとたくさん食べたい、のですが、
たいてい、プリンは「ちょっと」しかありません。
小さい容器に、ちょびっとです。
そうすると、なんとか、味わいたい、
と思うのは当然なのですが、今回の食べ方で食べると、
この前書いたように、口に入れた瞬間から美味しい。
実は、口に入れた瞬間、というと、「わずかな時間」かのようですが、
とくに、プリンのように、少しの量をほんとに一口ずつ味わう場合、
この「わずかな瞬間とその後直後」というのは、
食べている時間の「半分」くらいには相当しているのです。
と、後でわかったのですが、食べていて思ったのは、
もうそろそろいつもなら無くなる頃、
「まだ、プリンがある!」という、「あれ?」という感覚でした。
・・・多い、と思ったのです。
満足感が、ぜんぜん、違うのです。こんなに、食べた、って!
食いしん坊ゆえの報告ですが、これが、さらに発見その1です。
おかげで、以前より、白米(おにぎりにしたご飯の個数)を
食べる量が減りました。もういいかな、と思うようです。
おかずが「倍」に感じるからかな、と思っています。
そう、その前に、感じたのは、
きっと今書いたことにつながっていることだったと思うのですが、
それにしても、食事が「濃厚、濃密」になった、と感じました。
さて、その2です。
やっているうちに、口中香の食べ方が、難しいものが一つありました。
「あつあつの、スープ」です。
どうしても最初、口に含んで、息をとめたまま、
ごくん、としてしまうのです。これでは、今までと同じです。
原因は、熱いから、なのですが、しかし慣れると、これも、
口中香の方法で飲めるようになりました。
すると、「美味しい・・・」と感じたのです。
こんなに、スープ、美味しかったっけ??!って。
あつあつのスープ、これを、初美味しい体験したのです。
たしかに冷めてくると、かつても味わおうとすると、
口中香に近い味わい方はしていました。
ただ、冷めた時と、あつあつの時は、やっぱり違うのです。
だから、「こんなに美味しかったっけ」となったのかな、と思います。
まだまだ、実験中でこれからどうなるかわかりませんが、
まずこの2つ、「嬉しい発見」です。
食事がそれこそ、何倍も楽しくなります。
それと、食べている時、気づいたことがあります。
口に含んでからその後味わっている最中、
気づくと、私は、目をつぶっているのです。
気づくたびに、「あ、また目をつぶった」と。
これは、もう一つ、発見したことと関連しているようです。
それは、実は、何度も感じていたのですが、
食べている最中、脳の「中心」の圧、が高まることです。
これは、呼吸、と関係していそうです。
崩残さんが、「ゆっくり」ということ強調されていましたが、
これ、私は今回やっていましたが、よくわかっていませんでした。
このことは、もう少し、試していきたいと思うことなので、
途中報告、といった感じですが、
肝心なことは、これらは、おそらく、
「鼻の奥のほうを、開く」感じなのだと思います。
身体の構造はわかりませんが、そう感じます。
ゆっくり息を鼻から吸うことで、それが可能になります
・・・が、しかし、「ただゆっくりと吸う」という場合には、
鼻の奥のほうを開く感じにしなくても、できてしまうことが問題でした。
つまり、鼻の奥のほうを開くことを意識的にすれば、
その最初に吸っておくその段階で、「口の中の奥」もすでに開く準備が
できていますし、すでに開いているとも感じます。
しかし、ただゆっくり吸えばいいんだ、だと、口のなかの奥が、
「べた〜」と、なんというか、「くっついて閉じたまま」
になってしまうのです。
それでは、ものを口に運ぶ前に、ゆっくり息を吸う、
「その準備動作」に意味がなくなってしまう、という発見でした。
口の容積を大きくして、鼻の奥に「通り道」を作る。
「そのための、準備、あるいは、すでにその作業に入っている」
というのが、その「ゆっくり息を鼻から吸う」というものだったことに
薄々、気づいてきました。
そこで、はっと、思ったのですが、
この呼吸の仕方は、
かつて、「中心の技法」で、鼻から息を吸うときに、
中心に向かう、その吸い方だったのです。
つまり、かつて、私は、その時も最初は、できなかったのです。
ただ、吸っていたから、です。
ではなくて、おそらくポイントは、
「鼻の奥を開いて、なんらかの通り道を作っている」
ということではないか、と思います。
この、ゆっくり鼻から息を吸う、
そして、唇を閉じ、縦に開くように口の広さを広くする、
・・・さらに、重要なのは、
「ゆっくり鼻から息を出しながら」味わう、ことです。
これも、最初、勘違いしていました。
たしかにゆっくりやってはいましたが、
やはり、大事だと思うのは、口の中がちゃんと広いままになっているか、
その状態が維持されているか?ということでした。
これは、わかっているつもりでも、
かなり意識的にその効果を感じながらやっていかないと、
それこそ、やっているつもり、で終わってしまうようなことでした。
口の中が、なにげなく「ぺしゃん」となってしまうと、
いくら、鼻からの呼吸をゆっくりにしても、台無しになってしまいます。
それが、(知覚の)「ムラ」を作ってしまい、
感覚のはっきりさを喪失させます。
これは、実は、漬物などのようにわりと味が広がりやすいものではなく、
白米や、あるいは、チーズのように、
口に入れた瞬間その瞬間には風味が「すぐには」感じにくいもの、
で試すと、わかりやすいことでした。
白米は、それこそ、ゆっくり味わえば、稲わらの香りがします。
チーズもそうでしたが、食べた瞬間から味わうためには、
出来る限り「最初から」口の中が広がっている状態を作っておかねばなりません。
それを助けるのが、「最初の、ゆっくりとした鼻から吸う息」でした。
このあたりも、もっと試してみます。
まだ、何度か試しただけですので。
つまり、私が今感じているのは、口中香の3つの方法は、一連して、
「鼻の奥の通り道を、開いた状態を最大限に維持する」
そのための手順だと感じています。
ということと、中心の技法はとても似ていて、
これを知ると、中心の圧が「高まったまま」の状態が維持しやすい、
という発見でした。
その状態で食べる、イコール、味覚の深み、とつながるかは
まだじっくり見ていませんが、少なくとも、この前にもメールで書きましたが、
そもそも、こういう行為の「目的意識」は
「途切れない、明晰さを維持したい」、といいますか、
その意識が自動的に阻害(切れる)されてしまうことへの
疑問にあると思いますので、
中心の圧が維持され続けることと、味をはっきり感じ続ける、
とは無関係とは思えません。
このあたりは、まだ、これから何度も体験してみたいと思いますので、
記述はこのあたりにします。
それと、触覚で、あっ、と思ったことがあります。
背中がかゆい時、かいている間、
「かゆい〜」と「その気持ちよさを感じている間」、
息を「とめている」ことでした。
触覚のことで、少し、試していた時でしたが、
この触覚というか、感覚、というのも、
気持ちいい時には、息をとめて、それを敏感に最大限に
感じようとしているのではないか、ということです。
中略
そういえば、私は食事をしていて、
「ほっとしているなあ」という安心も、目をつぶっている時に感じていました。
口中香をやったことで、これは感じたことでした。
もぐもぐとゆっくり咀嚼している間、ですから、
やはりこれも、ゆっくり吐いている時です。この時、安心しています。
目をつぶる、ことに関して追記ですが、
中心の技法の時も、こうやって、目を閉じることで中心の圧をとらえやすくなります。
中略
あと、これも、ふと思ったことなのですが、
この中心の圧を維持するような呼吸にしようとすると、
つまり、それは、食べている時もそうでその味のはっきりさを、
途切れさせないようにしようとすると、
要は、意識が「落ちない」ようにしよう、とするので、
呼吸を吐くときにも、だら〜と吐いたりはしないのです。
そのことを少しやっている間、
ふと思い出したのが、死人禅の時の呼吸法でした。
作業としては長くやっていたので、あの複雑な呼吸法を
この身体が思い出した、といった感じです。
とくに、身体の「前面」を通るようにして吐いていく
その息の吐き方は、安易に、意識が落ちてはきません。
そんな感じが、ふとしました。あくまでも、ふと、
そう感じた程度です。今のところ。
これは、さっき、ふと感じたことなので、
確信はまったくありませんが、ただ今の時点で書けることは、
あの死人禅の呼吸法を私のこの身体が思い出した、ということだけです。
まず、ここまで、です。
ブラシは届いたら、さっそく、試してみたいと思います。
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ちなみに、我が家では、砂手も私も、この食べ方以外は、出来なくなりました。
私は、もともと早食いではないですが、
極端にゆっくり食べるタイプの人間ではありませんでした。
しかし、今では、口中香の方法を使う以前より、2倍の食事時間になっています。
ただし、ゆっくりしようとはしていません。
味わいたいのに、ゆっくりになってしまう、わけです。
●「口中香」を聴いて、実際にやってみた人は、
私がCDの中で、何度も、3つのプロセス、3つの大切なポイントを、
繰り返して言っている理由がわかると思います。
3つのうちのどれかひとつでも、適当だったり、おろそかにすると、
味わいの深さが浅くなってしまうからです。
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なお、ブラシの感想も楽しみです。
どうせならば、何でも、深く楽しもう、ということで、
ここのところ、「快の追求」がマイブームとなっています。
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