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「分割自我復元」
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[624]
■
★分割自我復元★その624【機能不全家族についての報告】●
by:
鈴木崩残
2016/08/19(Fri)15:37:48
自我判定時のトラウマ分析の報告
●まず、始めにお断りしておきますが、
現在、自我判定や、自我復元の報告は、原則としてお断りしています。
理由は、現在の私の状態では、スキルの精度が保障できないからです。
また、今回の相談者の方は、未成年者であったために、
垂鶴さんと同様に、料金は無料としました
(出世払いですが、その時に私は生きていないと思いますし、
生きていても、無明庵としての活動を維持できないと思いますが)
●また、特筆すべきことは、自我復元史上、
このNさんにおいて、はじめてのことですが、
私は、助言やアドバイスを、私以外の人に頼みました。
自我率の判定までは私がしましたが、具体的なトラウマの掘り方などは、
あびさんにすべて一任しました。
これは、数年間に、自我復元をはじめてから、初めてのことです。
しかし、いつだったか、まだ、あびさんが全自我でなかったころに、
私は、「この人が、全自我になったら、優秀なカウンセラーになる」と
確信していました。
もともとカウンセラーだったわけですが、
当時はAC人格満開のカウンセラーだったわけですから、
罪滅ぼしというわけでありませんが自我復元完了後には、
まっとうなカウンセリングをして欲しいと思っています。
そういうわけで、かなり特殊な扱いとなった相談案件であり、自我判定依頼ですので、
通常はこうした流れにならず、
原則として、現在、自我判定も、トラウマ分析の報告も、受け付けていません。
私の体調は、すこぶる悪く、かつ愛猫が重篤な末期の病状ですが、
それでも体を引きずるようにしてでも、今回、この方の判定に踏み切った理由は、
この方の「報告内容の深刻さ」を見れば、誰でも理解できると思います。
また、私がこうして、特定の相談者の方の報告内容を、
個人情報などを伏字にして、桜の間で公開するのは、
これもずっと、今までにも言ってきたことですが、
必ず、こうした報告が、参考になる人がいて、その人たちが、
自分の育ったり経験した境遇とダブる部分を発見すると、それが、
トラウマやAC人格の挙動に本人が気づくきっかけになってきたからです。
今回の報告のような、このような酷い機能不全の家庭環境の中、
そして最悪とも言える毒母親のもとで、よくぞ、今日まで、ご本人が、
「正気」を保つ視点を維持できていたと思います。
そのこと自体が、ほとんど奇跡のようなものです。
しかも、無明庵の多くの読者の人たちさえも、無関心になったり、
諦めてしまった、自我復元というレアな手法に、
たまたまネットで辿り着いたことも、とても稀有な道だったと思います。
それでは、Nさんの報告内容です
・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
*********
鈴木 崩残 様
はじめまして。
突然の連絡失礼します。
自我率の判定を依頼したく、本日メールいたしました。今回が始めての依頼です。
猫ちゃんの容態がたいへんな時期に、
また、崩残さんご自身の体調も万全でない折の連絡ですみません。
読んでいただけるとありがたいです。
以下が質問・アンケートの答えです。
○本名・年齢
■■■■です。
年齢は18歳です。男です。
○住所
■■■■
○家族構成
私、父、母、祖母の4人家族です。
○自我復元法開始の時期と回数
中 略
○復元作業中に感じたことや変化
中 略
☆現実生活における変化
中略
・話しかたが変わった
以前は営業マンというか上司にヘーコラする部下のような態度で、
変にへりくだって作り笑いをして「愛想よく礼儀正しく」を意識していたが、
それを気持ち悪く思ってやめるようにしたし、ふと出ることもなくなった。
アピールや自慢をしているときの顔がゆがんで、とても醜いと気づいた。
・家族、特に母との関係について考えるようになった
考える、というより「ぼくはどうしたらいいのだろう。どうするのがぼくにとってよいのだろう」
と子犬のようなしおれた気持ちで思います。これも後で詳しく書きます。
■夢について
出てくる人物に変化がありました。
自我復元を始める以前は小学校の友達が毎晩出てきて、
親はまったくといっていいくらい出てこなかったのですが、最近は親が登場するようになり
小学校時代の友達が出てこなくなりました。
母親を殴る、非難する、腕をつねる夢、
幼い私が母親のそばに座り込んでえんえんと声を上げて泣いている夢も一度見ました。
自我復元法以外の瞑想法など
していません。
○睡眠薬、向精神薬使用の有無
中略
以下はアンケートの答えです。
○無明庵を知ったキッカケ
ネットサーフィンをしていてたまたま閲覧した掲示板の、精神世界系トピックに
「虚無宇宙からの伝言」のリンクがはられていて、
興味本位でアクセスしたのがキッカケです。
精神世界へ足を踏み入れたキッカケ
両親が悪名高い◆の信者でしたので、(現在父親と私は脱会し、
母親は◆みたいなのの支払いが終わっていないとかで退会できていません。
教祖の◆◆の所業は父が話をし、"洗脳"はだいぶ解けたようですが、
退会しないのは支払い以外の理由、20数年の時間やら、
アイデンティティーやらの喪失への恐怖もあるのではないかとふんでいます)。
生まれたときから聞かされて育ちました。
私自身も小学校4年生あたりまでは、それなりに信じていました。
5、6年生になってからは神も仏もないような気分でしたが、
中学1年生の時から学校へ行かなくなり、
以来ずうっと、半ば引きこもりのような状態で過ごしたなかで、考えるというか、
結局は「救われたかった」ので色々本を読み始め、その中に精神世界系もふくまれていました。
すがりたい気持ちで、自分を苦しめたはずの◆の教団の本も母から借りて読み、
施設に出入りした時期もありました。程なく父から教団の実情を聞いて、
退会届を出してかかわりを断ったのですが、
かえって「何が"ほんとう"なんだろう」という思いが強くなり、
NHKの『こころの時代』というキリスト教徒や仏教徒の方々が出てきて話をする番組を観たり、
あるとき知った◆◆の本を読むようになりました。集まりに顔を出したこともありました。
本を読んで知識を蓄えれば、何かが変わるのだと思っていました。
本やそこに書かれた思想が、私の人生を変えてくれるのだと思っていました。
◆◆への興味は、◆という"ニセモノ"を押し付けて私を苦しめた母への復讐を
動機の一部としていました。
「お前の信じている◆なんか、ニセモノだ。散々ぼくを悪霊扱いしてくれたな。
お前は何にもわからない。無智だ無智だ」と用語を振りかざして、内面で母を馬鹿にし、
一方で「苦だ苦だ」と吠えて、ぼくはこんなに悩んでます、苦しんでます、
それも、もともとはあなたの所為ですと、言外にアピールし、
傷つけてやりたいとも考えていました。
いちばんの動機は逃げで、
「ぼくはこんなすごい思想を知っている。
同年代のやつらは、こんなこと知らないだろう、だからぼくは大丈夫」
「悟り以上に大切なものはないのだ。だから、引きこもりくらい、たいしたことではないのだ」
じゃあ、たいしたことねーなら、お前さっさと社会出ろよ、となります。
ほんとうに、醜く恥ずかしい思考で、馬鹿といわれても当たり前です。
ただ、いくらそうやって言い聞かせても、
どうにもならないのはある部分ではわかっていて、瞑想会へ行くのをやめました。
専門用語だらけでわからないとか、朝起きるのがつらいとかいうのもありましたが、
目の前にある問題を子供のような理屈で無視し続けることに、耐えられなくなってきました。
ネットで「悟り」「瞑想」について語っている人たちの文章の色みたいなのがいイヤで、
なんだアンタら、と思っている自分の中にも、その彼らと同じものがあることが苦しく、
けれどまだ、言い訳を続ける拠り所欲しさに、本を買ったりネットで調べたりしていて、
無明庵を知り、自我復元を知り、今は精神世界系の本は(無明庵のもの以外)捨て、
ネットで調べることもやめました。
精神世界は、私にとって最も近づいてはならない分野でした。
無明庵を知る少し前から、ネットで度々「精神世界に近づいて酔っ払いになるな」
「逃げるな」「現実を見ろ」「まずは人として当たり前に生きろ」などの言葉に、
立て続けに出会うようになり、去年の10月から、
まず人間の最低ラインに立つ為に、予備校に通い勉強を始めました。
自分で通いたいところを決め、親に話をして頼み、自分で入塾依頼の電話を掛けました。
6年もの時間を無駄にしました。
自分なりに考えてきた悩んできたと、自分はほかの人とは違う人生を歩むのだ、
無駄にはならないと思っていましたが、全部、全部、無駄でした。
何を読んでも何も知っても何を言ってもひとつとして変わらなかった。腐っていくだけでした。
この6年間ぼくがそうしてきた間、ほかの人たちは友達を作り、部活をし、勉強をし、
恋をした、自分はそういう、人生のかけがえのない期間を失った。
どんなに欲しても戻ってこない、大人になって「あの頃はよかった」
と振り返る「あの頃」さえない、そのことを考えると、苦しいです。
けれど同時に、このことをずっと知らんぷりし続けてきて、
でも今やっと見つめ始めたそのことが、ぼくにとってはとても嬉しいです。
6年間だけでない、18年間で初めて、自分で決めたことだったから。
本当に初めてなんです。
今年の2月になって自我復元を始めた時は、正直「巻き返し」を狙う下心がありました。
今は、社会に適合するために自我復元をやろうとする気持ちはありません。
根本原因が家庭にあったとはいえ、6年間うじうじしていたのは私自身の責任です。
私が私の時間を奪ったんです。そしてそれは帰ってこない。
このことをぐちゃぐちゃになっても受け止めないと、AC人格は抹殺できない。
人間の最低ラインには自分の力で這い上がってこないとならないし、
自我復元はそのためのツールではないと思っています。
たとえどんなに低い自我率だったとしても、社会に出て働いている人がほとんどなのですから、
引きこもりやニートの言い訳には出来ません。
私は今『■■』という試験に向けた勉強をしていて、すぐに就職しようかとも考えたのですが、
高卒程度の経歴はないと私が少しでもやりたい職業にも就けない可能性があり、
高校から先の進学も出来ず、「勉強をしてこなかった」負い目がずっと残るような気がしたので、
親に頼んで予備校に通わせてもらっています。
その試験に全科目合格して、就職をし、初任給で判定を依頼しようか、
あるいはちょうど今月一部の科目を受けひとつの「ヤマ」を超えたかたちになったので
一度お願いしてみようか、4ヶ月前から考えていました。
家が■■を経営しておりその事務手伝いを毎日していた時期があったのでお金はあります。
しかしそれも「毒家族」由来で、ちゃんと自分ひとりで社会に出て稼いだものでなく、
判定のお金に相応しいものか自信がありません。
くわえて中学1年の内容から勉強をやり直しているので、
最終的な合格までにどうしても後1年はかかってしまいます。
人間のラインに上がってくるまでは、私はメールを送る資格はないのではないか、
とも考えましたが、それを言い訳にこの先ずっと依頼のメールをしないで、
そのうち作業自体もやめてしまうことのほうが怖かったので、
今回、判定を依頼することに決めました。
◎自分の問題についての原因と分析
小学生の頃から、自分を偽っている、演じている、
と先生や親に叱られる時には口にしていて、
15歳の時にアダルト・チルドレンという言葉を知り、
自分がそれなのではないかと思いました。
その時は自分の問題を親のせいにしているようだと思い、
ウィキペディアで調べて終わりにしましたが、心のどこかでは引っかかりがあって、
いつか解決しなければならない問題だろうな、とぼんやり考えていました。
不登校になって以来、今日までずっと、
「自分は悪人である」いう観念に支配されていて、
今は親の寄生虫にとどまっているが、何かの拍子に蓋が外れて殺人を犯し、
這い上がれないような深みへ落ちてしまうのではないか、
奈落はすぐそばにあって、いつ落ちてしまうとも限らないのだと思っています。
……こうして、自分の気持ちをちらっと横目で見て 「己の悪を自覚するのだ」、
「日陰者の、無頼漢として生きてゆくのだ、それが芸術なのだ」と言い訳を生み出して
「だから自分はだめでもしかたない、だめだとわかっている、
無自覚ではないからましなのだ」と結論付けて何も変わらずにいる。
横目で見ることは出来ても決して直視は出来ない、
直視してしまったら言い訳など出来なくなるから。
実家に寄生して甘い汁を吸い、あるいは独り立ちしても「うつ状態」と診断を得て、
生活保護を支給されるか、日雇いの仕事でもして、酒と博打に明け暮れ、
「俺は退廃芸術を体現しているんだ。
己の悪を隠すことなどしない。みんな俺を見習えよ」などとほざいて、
平然としている将来へつながりかねないような、
この腐った根性を是正することがひとつの課題です。
現実生活で一番問題となっているのはアピール、妄想癖で、
TVを観ていて少しでも自分の知識を披露できそうだとおもうと、すぐそれに流される、
ブログやSNSで自分の知識や見解をさらけ出してみんなに注目される妄想に、
一日のうち何時間かはとらわれています。
一人で考え事をしていても、だんだんとアピールに変わっていき、
一人で考えることが出来ず常に相手を想定して、その人に「これでいいでしょ?
ぼくの意見は少し人とは違うけれど間違ってないでしょ?」と、
確認をとって評価される妄想で、「ぼくはこれでいいのだ、まちがってない」と安心する。
あるいは評論家、講師、教授、作家のような立場に立ったつもりで講釈をたれている。
実際何人か大人と話をするとき、本や他人の発 言を寄せ集めただけのくせして
居丈高に、自慢・アピールを垂れ流してしまった例があります。
「ぼくの、寄せ集めの知識とぺらぺらの弁術でもすごいと思ってくれるんだ。
大人ってたいしたことねぇな」と腹のそこで馬鹿にしてもいるのです。
しかし彼らから褒められるとうれしい。
馬鹿にしている相手から褒められたってうれしくないはずなのに、矛盾しています。
「自分の考えをきちんと持っている」「しっかりしている」「とても10代とは思えない」
こういうことを言われると「安心」するのですが、その裏にあるのは「自信のなさ」で、
6年間社会にでず勉強もやってこない人付き合いもまともにしてこない。
これでは自信がなくて当たり前で、
「ぼくは自分に自信がないです」と正直に言えばいいものを誤魔化して、誰かに、
「君はだめではない」「君はそうしてたくさん本を読んで考えている。だから大丈夫だ」
といってもらうのを待っている。
しかし、いくらそう言ってもらっても、言ってもらう妄想をしても劣等感がぬぐえない。
「他人を自分の感情のゴミ箱としか思っていない」
アピール妄想癖の正体はこれで、小学校時代からありました。
習い事の大会にでて、よい成績を残すとそれを餌に、
「俺はすごいんだぞ」と自慢し、事実より「もって」話をしたり、
気の弱い子、障害のある子をいじめたり、自分の趣味を押し付けたりしました。
「すごい」と思われたいがために、うそもたくさんつきました。
中学校で問題を起こしたとき、「友達がかばってくれなかった、俺だけに責任を押し付けた。
俺が一番の悪者扱いだ、俺はうそをつかず正直に話したのにみんな裏切った」
こう思うと学校へ行くのがいやになって、それから不登校になりました。
自分としては「これだけのことで、何もかもいやになったりするだろうか。
いじめられたわけじゃない、むしろいじめる側だったのに、ヘンな理屈だな」
と思っていたのですが、今回過去の記憶を探り分析していく中で、
「他人が自分の思い通りに動かなくなって、
今までの人をゴミ箱扱いするやり方が通用しないとわかり、
ではどう人と関係を築くのかがわからなくなり、
誰も信用できないと思った」からだと気づきました。
他人をゴミ箱扱いするのは、ほかならぬ母が私にした仕打ちでしたし、
他人の目、評価を気にかけるのも元を たどれば母の要求に応えるためでした。
他者の目を気にするがために、「自分のしたいことをとことんまでやった」経験がなく、
興味を抱いても数ヶ月すると冷めてしまうか自慢の道具に成り下がります。
将来何をして生きていきたいかを考えても、ゆがんだ欲望に基づくものばかりです。
○自分と家族間の問題
ここから、個人的に書き溜めていたノートからの引用が含まれるので、
文の調子が変わってちぐはぐになりますが、お許しください。
私は3歳から10歳頃まで母親にはたかれる、
蹴られる、足をつかまれて床にたたきつけられる、等の虐待をうけました。
怒鳴る、馬鹿にする等の精神的な虐待は11歳までありました。
父親は無関心でした。
「抗議したこともあった」と本人は言いますが、私からすれば虐待はやむ事がなく、
私が泣いていても「そのくらいにしたら」とさえ言わず
部屋にすっこんでしまうか、母親が私のしでかした悪事の「報告」、
(このときだけ、妻のようになる母親が気持ち悪い) を聞いて、
「ふうん」「そうなんだ」と言うだけの奴は、加害者だろうと思います。
ただその父にも1、2度髪の毛をつかまれて玄関に引きずり出された記憶があります。
1度目は食べ物のことで駄々をこねたとき、
(母に対していっていたのですがどうしてか父が激高した)。
2度目は私は覚えておらず母が言っていたのですが、父のパソコンを勝手に触ったとき。
「口ではかなわなかったから」といいますが、離婚したり虐待の様子を録画録音して
警察なりなんなりに提出するという手もあったのですから、
本音は私に関心がないのでしょう。
彼の最大の関心事は幼少期に刻まれた孤独感を誰かに「癒してもらうこと」で、
今でもそれは変わらず、依存癖の強く一緒にいると子供と話しているような、
私のほうが親のような気分になります。
現在同居している「父方の祖母」というのが猛毒ばばあで、
自分を悲劇のヒロインだと信じ込んで、
「悲しい悲しい不幸だ不幸だ」と嘆くのが大好きな人間です。
不幸を愛してしまっているので問題があっても解決しようともせず引き延ばし、
その所為で家業がたちゆかなくなり借金を背負うことになりました。
「あたしのせいだわ」と嘆くのにも陶酔しているのでどうしようもないです。
私、母、父の三人とも「ばばあ、早く死んでくれねぇかな」と思っています。
家業 を手伝っていた3年間に私も祖母の猛毒をいやになるまで浴び、
気が狂うのではないかと思ったので、
「この親にしてこの子あり」というのか、父の現状もやむなしというのか、
なんともいえない気分です。
幼稚園入学以前の記憶がほとんどよみがえっておらず、
暴力がなかったというのも母親から聞きました。
その頃は嵐の前の静けさを味わった時期のようで、私のなかにも幸せな記憶が残っています。
雨のあがってすぐ近所のだだっ広くて空きのおおい駐車場に
"かっぱ"を着て母と行き、アスファルトのくぼみを両足で踏みつけて、
溜まった水が跳ねるのとジャンプしていることそのもののが楽しくて、
ただそれだけを味わっているような気分、
(水溜りにうつった景色がゆらいではもどりゆらいではも どる)、
夏へ公園に行くと地面に埋め込まれた噴出孔からちろちろと、
ときに、いきおいよく水のあふれ、おさない私は噴出孔を足でおさえ、
足のうらにあたる水のなまあたたかさと、くすぐったいような感じを味わって、
子どもの腰たけくらいまで水はあがり体ぜんたいで、おさえこむと水が全身へふりかかる、
私は楽しそうに叫び声をあげている。
では母は無害だったのかといえばそんなことはなく、
教団のビデオや絵本を読ませ洗脳を施していた。
私のことを「天使」「神様に愛されて生まれてきた」
「神様のお役に立つまめに生まれてきた」「天才」「とってもいい子」
「やさしくて素直な子」「みんなを幸せにできる子」と呼び、
私もそう語るときの母の声音は優しく心地よかったので、疑うこと なく聞き入れていた。
ぼくはみんなの役にたつ人になるんだと子どもながらに考え、
出かけるときは常に■■を持ち歩いていた。
公園で遊ぶときはその場にいる人全員に挨拶をした。
今考えると、なにやら人工的だ。
それに、どうして「神様のお役に立つため」に生まれてきたと、母親が決め付けるのだろうか?
いったい何が役立ち何が役立たないというのか。
「天使」と書くだけで、◆の教団の世界観を押し付けられるようで、胸のあたりがむずがゆくなる。
そう言って聞かせると子どもがよい子に育つと育児書に書いてあったそうだが、
だからなんだというのか。
この期間は外部との接触もそれほど多くなく、
「母と子だけの世界」は犯されることなく幸せにやって 行けたのでしょうが、
幼稚園入学を迎えるとそうもいかなくなりました。
母はすこし遠くの幼稚園へ入園させるつもりだったようですが、近所の幼稚園へ入ることになり、
ただそこは土地柄もありいわゆる「ヤンママ」の多く、子どもたちも暴れザルがたくさんで、
おもちゃを強引に取り上げたり気に入らないことがあると叩く、つねる、物を投げる、
嬉しくて感情が高ぶっても手が出る、噛み付く。
「いい子」「優しい子」が通用しない世界です。
加えて私は朝起きるとすぐ図鑑をひろげて昆虫や動物、恐竜の姿かたちに見入り、
公園へ出かけても一人で草むら、木の根っこにしゃがみこんで虫と植物の様子を、
じぃっと観察するのが好きで、駈けずり回って遊ぶタイプでは なかったから、
幼稚園の遊具(ジャングルジムやのぼり棒、たいこばし)が怖く走るのも遅かったので、
サルのような子どもたちに馬鹿にされて毎日泣きながら帰ってきたようです。
毎日泣いて帰ってきたという記憶は自分のなかでよみがえってきていません。
親に泣かされた回数のほうがずっと多く、ずっとつらかったから。
母はうろたえて、私がどうにかいじめられないよう、◆◆を習わせました。
ウルトラマンに憧れていたから……と母は言うものの、
そのとき私は「やってみたい? どうする?」との言葉に、
なんとなく「うん、うん、やってみる」と返しただけで、
積極的な意思は有していなかった記憶があります。
すでにこの頃からなんとなく親の言うことを聞いておく癖があるのは悔しいことです。
親の声音なり顔色から、自分のことを慮っているのだろうと察して、
拒否できなかったのだろうと思いますが、私はそれを「親思い」「優しさ」とは言いたくありません。
◆◆のほかにも、「くもん式」や「右脳開発の教室」「音楽教室」「スイミングスクール」と
さまざまな習い事を、母は私にさせました。
「■■■」だけは楽しい記憶がありますが、そのほかは楽しくありませんでした。
◆◆もいつの間にか全国大会へ出場するようになって、
私は主力選手として、色々な試合に参加し表彰台へあがることも少なくありませんでした。
もう母親が「その気」になってしまい、私の気持ちそっちのけで週4日、
遅い日は夜8時ごろまで練習に参加させ、家でも練習を強制しました。
私に「指導」するため母親まで◆◆を習い始めた。
母は女性にしては驚くほど力が強く、頬を平手で張られると冗談でなく身体が吹き飛んだ。
母の前ではせっかく習った◆◆も役に立たず、
私はせいぜい顔をそむけて叩かれるのを拒むことしか出来なかった。
たとえ母の力がそれほど強くなくても私は反撃できなかったろう。
母の棘のある声が聞こえると、ただ体を硬くして、
許してほしい気持ちで頭がいっぱいになって「ごめんなさい」「許してください」
を繰り返すだけの無力な存在になった。
「くもん式」のプリントの計算がわからない、母が仕事で留守の間、
テレビを観てばかりでプリントやドリルをこなさなかった。
夕食時に不注意で味噌汁をこぼした。病院の粉薬の甘苦い味がいやで戻してしまった
……すると母は怒鳴りつけて私を打ちのめした。
私を叱るときの母の常套句は、
「今のあんたには悪霊が憑いてる」で、経文を読ませ仏壇の前で反省させたり、
悪霊撃退の修法を私に向けてすることもあった。
あの時感じた泣きたいような、やめてと叫びたいような気持ちは、
「屈辱」であったに違いない。
また「地獄へ落ちるぞ」とも繰り返した。
地獄では鬼や悪魔が棍棒や刃物を持って追いかけてきて逃げても殺される、
死んだと思ってもよみがえってまた追いかけられる、それを繰り返す世界にお前は落ちるのだ、
嘘をつけば畜生地獄に落ちて蛇や狐になってすごすのだ、
欲張りで人のことを考えられない人間は、
餓鬼地獄へ落ちて飢えに苦しみわずかな食物をめぐって浅ましく争うのだ、
そういう人たちは人の気持ちがわからないからゆずることをしない、
だから一生天国へは行けない。
こう説教されるたびに、漫画で見た醜い人面獣の姿がよみがえった。
地獄に落ちるといわれると、自分自身の存在すべてを否定されたような気分になった。
ぼくはそんなにいけないのだろうか、ぼくはそんなに醜いのだろうか。
幼稚園では私をよくからかっていた子の腰巾着になっていじめから逃れた、
それ以外の方法は思い浮かばなかった。
その子と一緒になってふざけ、汚い言葉を使い、障害のある子をいじめたけれど、
優位に立てることはなくて我慢することはあった。
遊んでいたブロックを取り上げて放り投げられたこともあったし、
スモックの両ポケットに母親がアイロンでつけてくれたワッペンをぐちゃぐちゃにして、
はがされたこともあった。
やめてとは言えず、めくれて、だれんと垂れたそれを手で押さえつけ、
あいまいな笑みを浮かべた。
仲良くしていた女の子のことを彼がキライといえばぼくもキライと言わなければならなかった。
おなかが冷えるのでマーブル柄のタイツをはいていたのを「タイツばばあ」とからかわれた。
柄が可愛くて気に入ってはいていたからまさかそんなことを言われるとは思ってもいなかった。
◆のキャラクターが好きなこと、『◆』が好きなこと、 『◆』が好きなことを馬鹿にされ、
なぜ自分が好きなものに対して後ろめたい思いをしなければいけないのかわからなかった。
いやなくせに困ったように固まった笑みを浮かべるしかない。
「悪いこと」の奥にある私の気持ちを、
「なんでそんなことしたの」と叫ぶ母親は知らないし、聞く耳持たなかった。
だってこわいんだもん、そうしなきゃぼくがいじめられちゃうんだもん、とは言えなかった。
母にとってそれは「口ごたえ」だった。
怖くても、いじめられたとしても「悪」と戦うのが「天使」なのだろうか。
おびえて、嘘をついたり一緒にわるいことをしたりするぼくは、「天使」ではないようだった。
そういうとき、母は私のことを「◆」と呼んだ。
私が3つのときに亡なった祖父が孫につけたがっていた名前で、
それが気に入らない母にとっては「悪魔のつけた名前」らしかった。
「■■は、神様がつけた天使の名前。
でも今のアンタは◆だね。◆は悪魔の名前。
◆は天使じゃないから、いらない。じゃあね◆」
ぞっとする、非人間的な声で母が言う。
そのときのぼくは比喩でなく地面が割れるような感じがして、
足元がすうっとなり頭は真っ白になった。
ママは本当にぼくを棄てる気なんだと思った。
怖くなって何度も何度もごめんなさいゆるしてくださいお願いしますと、
顔をぐちゃぐちゃにして叫んでも「ばいばい◆」、
そう冷たい声で言って、取り合わず、ほかの事を始める。
後を追って謝っても許してくれない。
あの自分の全存在を否定される怖さに勝るものは無かった。
これを言われたらもう終わりだった。
あの時、私は精神的に母に殺された。尊厳を殺されたといっても大げさではない。
このことを思うと私は強い怒りにかられ、きわめて原始的に、
金属バットで母親を殴打し、ミンチのように形をとどめない
ただの肉片にしてやりたい衝動が湧き上がってくる。笑みさえ浮かんでくる。
たとえその後どれほど罪悪感や後悔にさいなまれても、
母親を撲殺し誰かもわからない状態に仕立て上げるその瞬間だけは、
最高に気持ちがよいに違いない。
「◆」という言葉(名前)は、私に植え付けられた最大の屈辱だ。
自分が息子にどれだけ愛されているかが気になるようで、
しょっちゅう「ママのこと好き?」「好きな人はだあれ」とたずねた。
説教の最中「ママとパパが 別々に暮らすとしたらどっちと一緒に暮らしたい」と聞きもした。
私が自分の手元にあるかどうか確かめるみたいに。
「パパは浮気してるんだよ」
「パパは体の調子が悪いからっていうけど、体が悪くても、
もっとお金を稼いでるお父さんだっていっぱいいるんだよ」
「寝顔だけは可愛い、おきているときはあんまり可愛くないとパパが言っていたよ」などと、
父から遠ざけて母-私の関係を作り上げる工作もした。
父と母どちらと一緒に暮らしたいかという問いは、よくわからなかった。
ぶたれたりしなくて済むなら父と一緒がいいような気もするが、
かといって父と二人だけの生活が楽しいものかは想像できない。
説教の最中だったから母を快く思わなかったし、
かといって父と答えたら母が悲しむだろう。
「わかんない」と答えたときもあったし、「ママ」と答えたときもあったような気がする。
ある日母が外で、「ママのこと好き?」とたずねた。
私がうなずくとじゃあ怒られた時はどうかと言い、一瞬の間をおいて「きらーい」と答えた。
私はそのときすこしだけ母の手を強く握った。そっかと母は笑った、私も笑っていた。
しかし笑って済まされるようなことだろうか。母は私を怒っているのでなく虐待している。
どうして笑ったのか、私もおかしくなっていたのか、
それとも笑いながら、きらーい、というのが精一杯の抵抗だったのか。
私はずっと母にこう聞きたかった。
ねぇ、ママはなんでぼくをぶつの?ぼくはぶたれてもしょうがない奴なの?
ママはぼくが泣いても、叩かれてふっ飛ばされても 何とも思わないの?
ぼくが死んじゃうとか考えないの?
それとも死んじゃってもいいの? ぼくは悪い子だから死んでもしかたないの?
悪い子は死んで地獄で反省しないといけないの? ママ、ぼくは地獄に落ちるの?
なら、ねぇ、ママはどうなの。ママは地獄に落ちないの?
悪いことをした人は地獄にいくんでしょ。ぼくを叩くことは悪いことじゃないの?
ぼくは悪魔だから、◆だから叩いたり泣かせたりするのは悪いことじゃないの?
いいことなの。神様が悪魔をやっつけるのと同じなの?
じゃぁ。ママ、何でママはぼくのこと好きっていったり可愛いっていったりするの?
天使だっていうの? 神様に愛されるために生まれてきたっていうの?
ぼくのことが宝物ならどうしてぼくを叩くの? どうしてぼくを泣かせるの?
ぼくが天使ならどうして地獄に落ちるの? 天使を傷つけるのはいいことなの?
ねぇ、ぼくはどっちなの?
天使? それとも悪魔? ママはぼくのこと好き? 嫌い?
どうして叩くのをやめてくれないの?
ねぇ、ママ、悪魔は、ママのほうなんじゃないの?
あるときは天才といい、あるときはさまざまな言葉で私をおとしめた。
ずっと抱いてきた「自分の中に善はあるのか、それともどうしようもない悪なのか、
どちらかわからない」という疑問の源流がここにあった。
悪く言われることのほうがずっと多く、
自分でも悪いことをたくさんしたと思っていたからそちらの気持ちのほうが多かった。
母がそう怒鳴るし、神様をだされてしまったらそう思うしかなかった。
しかし味噌汁やご飯をこぼすのは悪いことなのだろうか。
わからない問題があって泣くのも悪いのか。
いやだと思って投げ出したくなる気持ちは子どもならあるし、
大多数の大人にだってあるものではないか。
友達とはしゃいでいて別れて母と二人っきりになったとたん、
にこやかだった母が急変して握っていた手に力をこめ、
「あんた何ふざけてんの。みんなの前だから言わなかったけれど
何度ぶっ叩いてやろうかと思った」と言い、楽しかった気分が急速に引いていき、
家へ戻ると薄暗い玄関で8時頃まで説教を受ける。
私のどこがいけないのかわからなかったが、
家ではそれらは叩かれるに値することだったのだ。
「大事に思っているし、注意すればわかるとおもっているから叩く。
何をいってもだめな○○ くんとかには叱ったりしない」
「叩くほうだっていたい」
「昔はみんな子どもをこうして育てたのだ。
戦争でアメリカに負けてからむこうの教育方針が入ってきて、そこから子どもがだらしなくなった」
「おじいちゃんなんかは、怒られると雪のなか外へほうりだされて玄関の鍵を掛けられ
翌朝まで入れてはもらえなかったのだ。アンタはまだましなほうだ」
こんなふうに理屈をつけて正当化したけれど、
重要なのは私が、子どもが「どう」思っているかだ。
子どもが泣いていても何とも思わなかったのだろうか。
ひどい虐待をふるった後には半狂乱になって泣き叫んで許しを請う親がいるそうだが、
母はそのような振る舞いはみせない。
いいね、わかった? 「やることをやり終えた」後そういって頭をなでたり抱きしめたりして終わり、
翌朝には何事もなかったように挨拶をしてくる。どんな情緒なのだろう。
初めて嘘をついた記憶は幼稚園のカリキュラムのそろばんに関することで、
なかなか級が進まないの誤魔化して、一番出来る子よりももっとできると言って、
その「証拠」のプリントは、先生が忙しいから採点してくれないといって追求を逃れ、
数ヶ月誤魔化しとおして最近聞かれることも少なくなったし、
そろそろ事実を話しても忘れている頃だろうと思って打ち明けたら、覚えていた。
「出来ない」「わからない」は家では禁句だったし、仮に正直に話したら、
その日から「特訓」が始まるだろうからそんなのは絶対にいやだった。
ピアニカもハーモニカも工作も同じことで、
「なんでそんなことも できないの」「すぐあきらめる」「鈍くさい、ぶきっちょ」「バカ」
となじられるくらいなら、ほったらかしているほうがずっと幸せでいられた。
幼稚園の先生にそろばんを教えてもらうときは、わかる喜びを味わえて楽しかったから、
ひとえに母親の教え方が問題だった。
「くもん式」に通ったり、家で計算ドリルを解いたり、右脳開発の教室で長文をスラスラ暗誦して
「記憶力がある」と褒められたりする私が、そろばんを出来ないと知ったら、ママは悲しむし、
ガッカリするし怒るだろうと思うと、とても言い出せない。
小学校は遠くの「いい所」へ行こうと母がいい、
そのためには面接を受けねばならず何回も練習を繰り返した。
「お名前はなんですか、■■■■です、 おいくつですか、5さいです……」
スーパーへの道すがら、母のこぐ自転車の後ろに乗っているとき、
食事中、面接の練習しようねと母親が言うたびうんざりした。
小学校は、いじわるする子のいない学校へ通いたいとは思っていたのは確かだったけれど
(それならぼくも、いい子でいられるかもしれない)、面接の面倒くささはそれとは別問題だった。
どこがいいかなんてわからなくて、学校見学の際も母が「いいねぇ」だのなんだの
あれこれたずねてくるのに適当に相槌を打っていた。
何となくやだな、そうでもないな、というそれ以上のことは私の頭にはなく、
小学校の大きさにこれからこんなところへ通うのかと気後れするばかりだった。
結局電車で20分ほどのところにある小学校へ「越境」して通うことになり、
私の通学のことを考えて駅の近くへ引っ越した。
マンション選びのほうが学校選びより楽しかった。
そのマンション選びも父が駄々をこねて、私と母の希望とは違う一室を借りることとなった。
(そのくせ父は、その部屋ではなく、そこをあてがわれたのは私だったが、部屋の構造のせいで
明かりもエアコンも取り付けられずに、電気スタンドと扇風機で6年間過ごした。
母はますます落胆し私に父の愚痴を話した)。
入学式では、私だけ君が代を歌えないのが衝撃だった。恥ずかしくもあった。
幼稚園では国歌なんて習わなかった。いじめられるわけにはいかなかった。
容姿をからかわれたりしたことはぐっと我慢して笑ってやり過ごした。
◆◆を習っていることは真っ先に話した。
漢字もたくさん読めた、自分の名前を漢字で書けた、計算も速かった。
私の読んでいる本をみんなが気にしていた。母も得意げであった。
私はクラスの人気者、ムードメーカーの位置づけだった。
あとは面白ければ大丈夫。話が面白ければまずいじめられることは無い。
やんちゃな子、腕っ節の強そうな子にはそれで気に入られる。
隣のクラスに何人か怖そうな子がいたが、叩かれることも物を投げられることもない。
いっしょになって気の弱そうな子、身体的特徴の目立つ子、
軽い障害のある子をからかっていれば安泰だった。
幼稚園とくらべれば格段に楽しい小学校生活だった。
家では相変わらず母の虐待が続いた。週末に上履きを持ち帰るのを忘れる。
プリントを提出しそびれる、宿題を持って行き忘れたのに持っていったと言う 、
そうしたちょっとした嘘なのに、母は大げさに捉えて3時間も4時間も説教した。
あれだけ怒るからどれだけ悪いことをしたのかと振り返れば、
何のことはない、どこの家庭の子どもでもやらかしそうな間違いや嘘ではないか。
授業中にふざけてばかりいるのも、ドラマで見たりほかの人の話を聞くかぎり、
当たり前のエピソードのようだ。そんなことが最近になるまでちっともわからなかった。
幼稚園時代とくらべて嘘をつくことは増えた。それは友達からのウケを狙うためでもあり、
お金持ちの御子息御息女が多かったのでそのことへの劣等感でもあった。
ふつうに子供同士で遊んでいるだけならなんの劣等感も抱かないはずであった。
スネ夫のように金持ちをひけらかすような嫌味な子はいなかった。
マダム然としたお母さんがお迎えにきたりしても、すごいお金もちなんだなぁと思う
それだけのことだった。
母が、「あそこの家は会社をやってる」「あの子はヴァイオリンを習っている」
「家にエレベータがある」と話す、ここまではいい、
その後に、「うちのパパの会社はひどい会社で絶対に就職したくない会社として
雑誌に取り上げられたこともある」「お金がない」「パパは稼ぎが悪い、
◆の信者さんのお家でも体が悪くてもがんばって働いてる人がいるのに」
と家の現状を愚痴ると劣等感がうまれて色々と嘘をつき、
「ママ友」づてに母親が聞いて仰天し私を叱る、このパターンが多くなった。
この頃は景気もそれほど悪くなくて毎週寿司だ焼肉だを食べていたから、
羽振りはむしろ良かっただろうに、
そのお金が夫ではなく、夫の親から出ているのが母は気に食わなかったのかもしれない。
小学校3年生のとき、授業中にそれまですぅっと通っていたはずの呼吸が
胸の上部で止まってしまうことに気づいた。以来10年間ずっと息がラクに吸えていない。
(ただ最近あまり呼吸のしにくさを感じなくなった。
トラウマ掘りや復元作業のおかげなのかもしれない)
その時の担任が今振り返れば「日教組」と顔に書いてありそうないやったらしいばばあで、
私が彼女のことを冗談交じりに「キモい」というと、
「ちょっと、あなた、今、なんていったの、もう一回いって御覧なさい、ねぇ、みんな、
今■■君はなんていったのかしら、と唇をわなわなさせて激昂し、
私が学級委員をつとめていたのをよしとばかりに、「そんな人は、学級委員失格ですよ」と、
ねちねちくどくど責めたて、自分の席へ呼びつけて、
「ほかの先生に、あなたの事どう思うかって、聞いちゃったわよ」と得意げに言ったときには
私も子どもながら「ワーッ、性格の悪ィばばあだなぁ」と思ったものだから
区の教育委員会だかが寄越した「クラスと学校にかんするアンケート」なるプリントを
授業中に記入する際、「担任の先生には、なやみごとを相談したりできますか」という項目に
「出来ません」と回答すると、「見ることはないので安心して書いてください」といった筈の担任に
私ともうひとり仲良くしていた、がきんちょと呼びつけられて、
「ちょっと、これ、どういうことかしら、大人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいね」
と修正を命じられ 、「大人の汚さ」を味わった経験ではあったものの、
呼吸のしにくさの主要因は別にある。
中学校受験にむけた勉強をさせる塾に入り、加えて芸能活動も始め、
スポーツも続けていたから忙しさとストレスが一気に膨れ上がった。
幼稚園の年長の時にキッカケは忘れたが子ども向けファッション雑誌の
一般公募オーディションにたまたま受かって、
その時のスタッフさんにすごく個性的だと褒められたようで、
そんなものリップサービスかもしれないのに母は盛り上がったみたいだった。
一回だけの特別掲載ということだったので続けてモデルをやりはしなかったが、
以来母は私の服装に拘りはじめた。
デパートのテナントの子ども服ブランドで明るい水色やら黄色やらライム・グリーンやらの
色使いのお高い服を買って、その時も私は「あれが可愛い、こっちのほうがいい」と
夢中になる母親に相槌をうって着せ替え人形に甘んじていた。
「いつもありがとうございます」と店員さんがポップな袋を手に店の出口まで
「お見送り」してくれて親に袋を渡してから、私の背の高さまでしゃがみこんで、
バイバイと手を振り、私たちの姿が見えなくなるまで店先にたって見送っているのは、
居心地が悪いというのかどう対処して良いのかわからなかった。
それらの服を可愛いとおもうことはあっても心の底から着たいとは思っていない。
たとえコーディネイトは良くても街で浮きそうだし、自分には似合わない色だと自分で感じていた。
本当は着心地が悪かったのだが、両親と買いに来ているのでどれもいらない気に入らない、
とは言い出せず、親が似合っているというのだからそういうことなのだろうと納得させていた。
事務所に所属する直接のきっかけは小学2年生のときで、
区が協賛の「子ども演劇プロジェクト」だったか、そんなのにこれは私の希望で応募して
オーディションに受かって参加することになり、劇団員の方と一緒になってミュージカルだったから
歌ったり簡単な踊りをしたりするのは楽しい、もうちょっとやってみたい、
と話すと、母親がオーディション雑誌を買ってきて子役養成事務所に入った。
今考えるとこれが大きな間違いだった。
母親はもともと◆◆に入りたくてその一歩手前の養成所というのか、
専門学校のというのかにまでは入ったのだけれど、
お金の問題と両親(特に母親)の大反対にあって入団は出来ず 、
半ば縁を切るようなかたちで上京して以来父と結婚するまでずっと芝居をやってきた人で、
度々口にする、「私は親にやりたいことを反対されてすごく悔しかったから、
自分の子どもには絶対にやりたいことをやらせてあげるんだ、応援してあげるんだ」
という気持ちに火をつけたかたちになった。
出来すぎた話だ。
演劇への興味もいま自問してみると、ほんとうに抱いていたかどうかは怪しい。
母親の意識的な、あるいは無自覚な誘導があったのではないか。
確かにミュージカルに参加したのは楽しかった。
だが、芸能活動をしたい気持ちはあったかと振り返ってみると、
そこまでは考えていなかったというような気がする。
母が、私の怠け癖を叱責する際、自分が上京してお金の無いなかいかに努力したかを
話して聞かせた。自分が舞台の主役に抜擢されたときの事や、
その界隈では有名な劇団の団員として活躍していたこと、
著名な女優さんから評価されたことなども話した。
自分が◆◆へ行けず、上京した際の電話で、
「あんたなんか成功するわけないじゃない! バカじゃないの!」とそれだけまくし立てられて
電話を切られたのがいかに悔しかったかということも。
そんな話を繰り返し聞かされていた私の中に、
「ぼくがママの夢をかなえてあげるんだ」
「ぼくがお芝居をやるって言ったらママは喜んでくれるかなぁ」
こんな気持ちが芽生えることは十分にありえる。
母の「演技指導」は私にとってつらいものだった。
たまにTVで伝統芸能のお弟子さんとお師匠さんの稽古風景をやっていたりするけれど、
あれと似ていてひとつの台詞のイントネーション、
アクセントのつけ方まで拘って同じ台詞を何度も読ませた。
師匠がいらだって
「バカ、違うんだよお前は。何度言ったらわかるんだよ」と言っているのも同じだった。
違う、こうでしょ、はいこっからもう一度。
だんだんぼくの芝居の仕方が悪いのか、
ぼくの存在そのものが間違っているのかどっちなのかわからなくなってくる。
嫌で苦しくなって、否定されたのが悲しいのと悔しいのとで泣き出すと、
「何で泣くんだ、やらないのか、やらないのなら自分で事務所に電話して謝れ、
あんただけの仕事ではないのだ」と脅しをかけた。
私だけの仕事ではないのはそのとおりだが、そんな言い方することないじゃないか……。
「あんただけの仕事じゃない、あんたがにげたらたくさんの人に迷惑がかかる、
事務所の信頼にもかかわる、評判を落としたりしたらあんたが責任取れるのか」
そう言われるとぐうの音もでない。嫌でもなんでもやるしかない。
私が拒否できなかったという点においてスポーツも塾も一緒だが、
芸能活動は拒否することにともなう重みが違った。
とんとオーディションの話が来なければ拒否する余裕はあったが、
週に1回は受けていたし、ぼちぼちではあるけれど仕事もとっていた。
学校を早退してオーディションに向かう時は友達が帰りの支度を手伝ってくれ、
クラスみんなで「がんばれー」と送り出してくれたのでとても気分が良かった反面、つらくもあった。
ランドセルとは別の鞄に入った服に、駅の公衆便所で着替え、
電車に1時間ほど乗って地図を片手に道を尋ねながら会場にたどり着き、
名前の書かれた紙を持って写真を撮られ(囚人みたいに)。
審査員に向かって「○○からきました、■■です……」と型どおりの自己紹介と
印象付けの為の特技を披露し台本を読んで、
終わったら事務所と親に電話を掛ける。
そしてまた1時間かけて満員電車の中を揺られて家に帰り、
母にああだこうだ聞かれるのをうんざりしながら適当に説明し、塾の宿題に取り掛かる。
気づくと日付が変わっている。
塾の宿題も国語はまだ良いが算数が本当にわからなかった。
どこがわからないのかさえわからない有様だった。
それなのに同じクラスの子達は私がピリピリした母の隣りで半泣きになりながら
1時間取り組んでもわからない問題をスラスラ解いてしまうから、
何でぼくはこんなに頭が悪いんだろうとおもった。
先生の説明を聞いてもさっぱりわからなかったし、
通っている塾は指名されて答えられないと立たされるところだったので、
分からないことは駄目なことで恥ずかしいことなんだ、
という意識がますます強まって質問できず、どつぼにはまっていった。
つい最近予備校に通うようになって初めて、
分からないことは恥ずかしいことではないのだと知った。
それまではそんなことを言ってくれる先生は一人もいなかったし、親も分からないと馬鹿にした。
ぼくは疲れていた。
3年生4年生5年生と年齢を重ねるにつれて、
自分の中からどんどん輝きが失われていくように感じた。
その代わり何か別のものが取って代わって現れた気がした。
オーディションで特技を披露するとき、
えいやっと自分を投げ出すようにしてやるのがしんどかった。
写真を撮られるのも嫌だった。
うまく笑えないし撮られた自分の顔を見ても醜いとしか思えなかった。
1年生のときと3年生のときの写真を見比べて、
「昔は可愛らしかったのに、今は顔つきが悪い。悪霊の憑いている証拠だ」と母が言った。
日差しが強くて顔が険しくなったのだと言おうとしたがやめた。
それだけでなく顔つきの悪い気がしたから。
「もうちょっとしたら、アンタは髪を染めて悪い仲間とシンナーでも吸うようになる、
そういう映像が最近のアンタを見ると浮かんでくる」とも言われた。
そうかもしれないと思ったから、何も言い返さなかった。
けれど別にそれでも良いような気がした、どうで もいいことだ。
家の雰囲気が嫌だった。
血が通っていないみたいに空気がよどんでいて、最上階のはずなのにいつも薄暗い印象がある。
父は買い物依存症のピークでいわゆる「汚部屋」になっていて、
入り口にまで腰の高さくらいモノというかゴミが溢れていて、
大股でまたがないと奥へは進めなかった。
そんな部屋には、とても友達は呼べない。内緒で友達を家に入れて、
父の部屋は物置なんだ、といって誤魔化そうとしたが、友達はおびえた顔をして
「いい。オレ、帰るわ……」といった。あの顔は今でも忘れられない。
学校も仮病を使って早退したり、保健室のベッドに寝っ転がって、
殆どの授業をサボる日がポツポツ出始めた。
みんなが心配してくれるのが嬉しかったし、
それに、体というわけではないがどこ ががだるいのだった。
休み時間になると担任の先生と、当時いつもつるんでいた子が様子を見に来てくれて、
保健室でその友達と、担任の先生と保健室の先生相手にふざけたりする時は、
少しだけ心が和んだ。
今思えばあの時の担任には、まだ若い人だったのにたくさん迷惑をかけてしまった。
それでも見捨てたりせずに注意したり、
家や塾の愚痴を聞いてくれたのはありがたいことだった。
母は私の体を心配するそぶりは見せていた
(すると、私はかろうじて、母親の愛情を感じた)けれど、
どうしておなかが痛いのかまでは思いがいたらないみたいだった。
分かっていて、知らない振りをしたのかもしれない。
「本当は、いやなんじゃないの」とは聞いてくれなかった。
オーディションも嫌だ、撮影も嫌だ、 塾も嫌だ、受験も嫌だ、勉強も嫌だ、
何もかも嫌なんだと私も言い出せずにいた。
どうでもいいじゃないか、それに、どうせ言ったって分かってくるわけが無い。
以前はまだちょっかいや、からかいのレベルに留まっていた行為も、
相手の胸ぐらをつかんで脅したり、
筆箱の中に「死ね」と書いた紙を入れたりするなど悪質ないじめに変わった。
何度叱られても一向にやめなかった。
自由帳の落書きも過激なものになり、ランドセル漁りをする母に見つかって言い争いになった。
「ムカつく」「ウザい」「死ね」が口癖になった。心の中では「どうでもいい」と繰り返した。
親の金をくすねてゲームを買った。
小遣いは1500円で、友達と遊ぶにはそんな小額じゃとても足りないけれど、
頼んだってどうせくれないだろうと思った。
修学旅行ではお土産代をカツアゲし、
何人かで駅のキオスクや薬局でお菓子を万引きするようになった。
イタズラ電話も毎日した。事務所に迷惑がかかるとかは考えなかった。
そういう頭は無くてただ楽しいから、万引きをしてイジメをした。
1人ではやらなかったがそれは勇気の有無以前に1人でやってもそんなに楽しくないからだ。
正確を期すなら楽しいというより「スッとする」のだ。
当時思っていたような最悪の言い方をするなら、
口の広い、入れやすくて容量のありそうなゴミ箱があったから、
そこへ自分の鬱憤を投げ入れるとスッとした。
発覚して2年連続で校長室へ行くことになった。
「◆年生のときもう過ちは犯さないと決めたはずなのにまたしでかしているのは、
本心では反省なんかしていないからなんだろう」と。
先生に怒られて泣いていたのも、怒られて怖かったからで反省していたわけではない。
校長室で母は涙声で、「私たち親の責任もあると思います。
私たちもみんなの歳と同じだけしか親をやっていなくて、
だから間違えてしまうこともあります、ごめんなさい」と話した。
無感覚というかだるさがすべてを支配していたから、ふぅん、とだけ思った。
でも、あんたら、「人間」は俺たちの4倍やってるはずじゃねえのか。
40年以上生きてきて、子どもをぶっ叩くのが悪いってのは教わらなかったのか?
間違いだと分かってるなら、どうしてやめられないんだろうか?
校長室に行った翌日、クラスのみんなの前で事情を説明することになった。
なぜ説明しなければいけないのは分からなかったが、
「皆さんが受験を控えた時期に、こんな大事をしでかしてしまい申し訳ありませんでした」
と土下座した。何の恥も感じなかった。
どうしてそんなことをしたのですか。とても正直で純粋な女の子が聞いてきた。
何でだろう。その時は自分でもよく分からなかった。
「世界がぐにゃりとゆがむような気がして、何もかもどうでもいいような気持ちになるからです」
その頃読んでいた漫画にそんなシーンがあって、
自分の気持ちともあながち外れていないように思ったので、そう答えた。
「そう思うことは、みんなにだってあるよね」と、先生が尋ねるとクラスメイトがまばらにうなずいた。
「うるせぇ、絶対お前らなんかに分かるわけねぇよ、
お前ら親にぶん殴られたことないだろ、
悪霊が憑いてるだなんて言われたことねぇだろ、
毎日のように人格否定されたことなんかねぇだろ、
違う(悪魔がつけたと称する)名前でよばれたことなんかねぇだろ、
冗談じゃなく、なんで生きてるのかわからない死にたいなんて思ったことねぇだろ?
わかるんならそりゃ異常だよ。みんな異常なのかよ。
でもみんながやらずにいて、俺だけがやってるってことは、やっぱり俺が特別異常なのか。
そうかもしんねぇな、ぜんぜん人の気持ちなんかわかんねぇもんな。
俺はそのうちクスリでもやってヤンキーになって一生過ごして、
死んでも地獄行きの悪魔なんだろうな。なんだよ、ばばあの言う通りじゃねえかよ」
ある日、仕事のことで言い争いになって家を飛び出して、
捕まらないように親が通らないような 道を全速力で走ったが、
駅を前にすると足が止まってしまった。
ぼくはここから先へ行くことが出来ない。ICカードのチャージ残高がなく、手持ちの金も無く、
電車に乗っても行けるのは学校のある駅までで、そこから先いったいどうすればいいのか?
「あんたが警察に言って迷惑するのはあたしたちなんだよ」という母の言葉がよみがえった。
自分のしでかしたことが分かっているからそんなことを口にするのだ。
事務所のこともこの時は気にかかった。
遠くへ行きたい、遠くへ行きたいんだ。
銀色の腹を光らせて停車する電車を見上げながら思った。
こんなときまで、しがらみにとらわれて動くことが出来ない自分の幼さが、
プラットホームでライトが橙や赤や緑や、あるいはしらじらと光っているのがきれいで、
そのことも悔しかった。
自殺することも考えたが出来なかった。
だがその一方でお構いなしに自殺してやりたい気持ちもあった。
親の行為をあらいざらい書いた遺書を残して警察に見つけてもらい、
それがマスコミにもわたって週刊誌やワイドショーで取沙汰され、
「子どもを殺したのはお前だ」「鬼のような親」「お前が死ねばよかったのだ」
そんな投書が家に届き、どこへ逃げても噂され、
もう2度と日陰を歩けなくしてやりたいとも思った。
夜中ベランダに立って、遠くを見つめていると街のネオンがぼうっと光って、
何で生きているんだろうと思うと、どうにもならない切なさと悲しみが胸にこみ上げてきた。
中学では失敗しないぞと心に誓った。もうあんな過ちは犯さないぞ。
ここから新しくスタートさせるんだ、と。
受験勉強は本当の最後の最後まで続けていた。
学校見学に行っても何の興味も感じずどうでもよかったが、
家の近くの中学校へ行くわけにはいかないだろう。
それに俺はどうしようもない奴だし、俺なんかが考えることは全部間違ってるんだから、
親に任せとけばうまいこといくだろ。
……けれど受験する気力もなくなって、打算的に学力試験ではなく、
面接と作文で選考してくれる入試みたいな試験を経て私立の中学に入学した。
3年間嫌だ嫌だと思いながらも続けてきた勉強も、すべて水の泡にしてしまった。
いったいその年月は何だったのだろう。
けれど近所の中学へは行かずに済んだし雰囲気も悪くない、
新しい人生を始められると思っていた。でもやっぱり何も変わらなかった。
いくら場所を変えようが、私自身が変わらなければ何も違う出来事は起こらないのだ。
道化に徹して「スクールカースト」上位のグループの盛り上げ役のポジションを確保して、
芸能活動の話をしたりウソを吐いたりで「尊敬」を集めようとし、
気に食わない奴には大勢で、「学校くんな」「死んじまえ」と電話を掛け、
問題になって反省文を書いてくるように言われ、反省文を届けてからは学校に行かなくなった。
3年連続で問題をおこした、しかも入学して1ヶ月しか経っていない。
自分は心底どうしようもない奴なんだ。当然事務所はやめた。
俺は自分が嫌いだ。
そう思うとすべてのものが嫌いになった。
街中で同年代の子に会うと、俺を馬鹿にしているに違いないと考えるようになり、
視線を避けるために髪の毛を長くのばし、しかしその事で余計に注目が集まった気がした。
相手が見ているような気がするのは、自分が相手を見ているからなんだとは気づかなかった。
ゲームと、ネットと、マンガと、オナニーだけの1日を繰り返した。
父に誘われて家業の手伝いをするのが、小遣いも貰えるし、
少しは誰かの役に立っている価値の無い存在ではないと思えて「救い」になった。
祖母の存在が気に入らないなら手伝いをやめれば良いのに、
小遣いがもらえなくなると思うとやめられず、加えて「仕事の問題」に首をつっこんでいると
大人の仲間入りをしたような気がして気分がいい。
引きこもってから1年後、ネットで◆◆を違法ダウンロードし、
そういうものにはウイルスが入っていると知って、強迫性障害を発症した。
何をしていても一瞬の空隙に強迫観念が入り込んで、息苦しさは強くなって、
空嘔吐が止まらなかった。
そのくせパソコンは現実から逃げるために必要だったから手放せなかった。
これも自分の責任だからと、病院には通わず睡眠時だけが安らぎの時のような生活を、
数年過ごした、3年半経って限界になり病院へ行った。
そこの院長先生が■■を知ったキッカケだった。
祖母との衝突にも、強迫性障害にもうんざりして、
感情をなくしてしまえば楽だろうなと思って、本を読み始めた。
本を読んで知識を蓄えていくと誤魔化せたような気になったが、
ドキュメンタリー番組で社会的弱者とされる方の様子をみたり、
マザーテレサの本を読んだりすると、
胸から振動のように感情がこみ上げてきて、ぼたぼた涙が溢れた。
彼女のいう「誰にも愛されていないと感じている人びと」とはドキュメンタリーで観た方々であり、
そして自分であると思ったから。
スポ根マンガを読んでも同じ気持ちになった。登場人物たちの姿が私には眩しかった。
何も無い自分が浮き彫りになった。どうして自分にはこんなことが起きないんだろう?
懸命になれるものもなく心を通わせる仲間もいない。
ふつうのことの筈なのに自分には出来ない。
普通並みになれないのを都合よく解釈して、自分はみんなと違う経験をしている。
これもまた得がたいもののはずだ、この経験を生かせるような時がいつかきっと訪れると、
本を読みながら信じるしかなかった。
たとえ学校を変えたとしてもおんなじことの繰り返しだろうから意味がない、
もうこれ以上自分に失望したくない。復学は考えなかった。
5年生の修学旅行の事件があって以降、母の態度が変わった。
叩くことも声を荒げることもしなくなった。
引きこもりになっても、学校へ行きなさいとかお前は駄目な奴だとか一言も言わなかった。
「何もかもお前のせいだ、お前のせいで俺の人生めちゃくちゃだ」と怒鳴り散らして、
母親に土下座させたこともあった。ちっとも気分は晴れなかった。
「私は許してくれなくてもしょうがないと思っている。
それだけのことを今までしてきてしまった」と母は言った。
泣いていた。私が傷つけた、と盗み見た母のノートに は書いてあった。
2年前から母のことを名前で呼ぶようになった。
この人が自分の母であると認めたくない気持ちがそうさせたのだが、
お母さんと呼ばない、いわば他人だと思うことで甘えられた。
旅行に行くこともあって、自分たちは仲が良いのだ、
昔のことは乗り越えたのだと最近まで錯覚していた。
でも違うのだ。どれだけ仲がよさそうに見えても、
この人はぼくのことを悪魔だと言いぼくの尊厳を踏みにじった、
そういう覆らない事実がある。
だとしたら今目の前にいる母親は何者なのだろう。
私が引きこもったことによって、これでもう自分からは離れることがないと
心のそこでほくそ笑んだ「余裕」の結果が今なのか。
そう断定するのには勇気がいる。
彼女は今では、私に何かを押し付けたりはしない。
私をバカだと、鈍くさいと、人格を否定する調子でいったりはしない、今は、叩いたりしない、
もう◆などという名前でも私を呼ばない。
それだけで十分だった。それだけで嬉しかった。
あと、あとせめて10年早くこうであってくれたら、
ぼくはこんなに、ぐちゃぐちゃにならなかったかもしれない。
けれど時間は戻ってこない。
何度ごめんと言ってもらっても、どんな理由を聞いても、
生まれてからずぅっと味わってきた恐怖、苦しさ、孤独感はなくならない。
過ぎてしまった時間のむなしさばかりがつのった。
それに私が母に抱いてきたのは恐怖、苦しさ、孤独感だけではない。
怒られるたびいつも、ママを怒らせて苦しめているのはぼくなんだ、
ママ、ごめんなさい、と思っていた。
自分のせいで母親が怒っていたり悲しんでいるのがつらかった、母には笑っていてほしかった。
笑っているときの母は好きだった。手をつないで買い物にいくとき、
抱きしめて優しい声音で「◆君は天使なんだよ」「ママの宝物だよ」と、
頭を撫でながら言ってくれるのは、ぼくの人生の重荷にはなったけれどそれでも嬉しかった。
自分を大好きだといってくれる人が、自分のせいで怒っているのが苦しかった。
罪悪感を感じずにはいられなかった。
母が、料理バサミでダンボールを突き刺したり、雑誌を手で破いたりして、
床いちめんに雑誌が散らかったことがあった。
ママはおかしくなってしまったんだと思った。ぼくのせいでママがおかしくなっちゃったんだ。
ママ、ごめんね、ごめんね、ぼくが悪いんだよ、ぼくが全部悪いんだよ、
ぼくがバカなのが悪いんだよ、ぼくがぶきっちょで鈍くさいのが悪いんだよ、
ぜんぶぼくのせいでママが悪いんじゃないんだよ、
だからねぇ、ママ、そんなことしないで、そんなことするのはやめて……。
勉強でも、芝居でも、なんでも、熱心に付き添った母の期待にこたえられないこと、
母がぼくに強く出てほしいと願っていた作品に、
最後の最後にオーディションで落ちて出れなかったこと、
もっと仕事が取れたら良いのにとれないこと、
塾でも思うような成績が出せないこと、問題にすんなり答えられないこと、
いやだからすぐ怠けてしまうこと、学校でもふざけてばかりいて先生に迷惑をかけていること、
お金を盗んだり取り上げたり万引きしたりしてしまったこと……
毎日毎日、少しずつ少しずつ 母の期待を裏切っていること、
どうしても母の思うような自分でいられないこと、
ほんとうはそれがどんなことより苦しかった。
受験勉強も、スポーツも、芸能活動も、すべて中途半端に投げ出してしまったぼくのどこを、
母は認めてくれるというんだろう。
あの時みたいに「◆はいらない」といわれたらどうしよう。
「お前は私の役に立たないからいらない」、と言われたらどうしよう……。
ママ、ぼくはふつうの子じゃいけなかったの? 天才でないと意味がなかった?
ぼくはふつうが良かったな。
ママと普通の家族になって買い物したり一緒にご飯作ったりお出かけしたりしたかったよ。
でもママはそんなの許してくれなかったもんね。
ぼくが部屋でマンガを読んだり絵をかいたりカードを見たりしていると怒ったもんね、
くだらない、って。ゲームもやらせてくれなかったね。
ママ、ぼく疲れたよ。
ぼくもう休みたい。
ごめんね、でも、もうママのために頑張るの疲れたんだよ。
ぼくはずぅっと、ぼくが生きていてくれるだけでいいんだ。
それだけでママは嬉しくて幸せなんだって、言ってほしかったなぁ。
「勉強の出来る」ぼく、「優しい」ぼく、「天使のような」ぼく、
ではなくて「ぼく」のことが大事なんだって言ってほしいよ。
……母に、どうして虐待なんてしたの、と聞いたら、母はこう言った。
「あのころは、私と貴方がべつの人間なんだっていうことがわからなかった。
私と貴方はおんなじ気持ちでいるって思ってた。
それにすごく不安だった。
幼稚園でいじめられているのは私の小さいころと同じだったし、これから先、
もし私が死んじゃったらこの子はどうやっていきていくんだろうって思うと怖かった。
教団の人にも、周りのお母さんたちにも色々聞いたけど、だれも私の納得できる答えを
言ってくれる人はいなかった。だから、私が母親にされたのと同じようにしてしまった。
腕っ節が強ければ、勉強が出来ればいじめられなくなろうだろう、強い子にしないと、と思った。
苦手なことから目を背けてしまうのはお父さんと似ていて、怖かった。
お父さんみたいになってほしくなかった。お父さんの家のことを考えるとますますそう思った。
叩くときは自分でもどうして……とわけがわからなくなって手が出た」と答えた。
「ぼくは、普通でもいいって、言ってほしかった」と話すと、
「わからなかった」「そういう育て方があるんだって知らなかった、ごめんね」と言った。
私が生まれてからの数年間、父は持病の新薬のテスターとなったのだが、
その副作用で腑抜けになってしまい、家にいて仕事をしないでいたようで、
加えて性格も今よりずっと怒りっぽく、そして寂しさが前面に出ていたそうだ。
幼稚園の時には「鍵が閉まっていたから」というわけのわからない理由で、
窓から飛び降りて足を折った。私の中にも父が松葉杖をついていた記憶がある。
「そんなにヘンな人とどうして結婚したの?そのしわ寄せが全部ぼくにいっている。
ぼくはあなたの感情のゴミ箱じゃない」
「私が何とかしてあげなくちゃ、私がこの人のお母さんの代わりをしてあげるんだって思ったの、
でも私に抱えきれる問題じゃなかった。私と貴方はそうならないようにしよう、
この流れは私たちで終わりにしようって思って、
一緒に立ち向かう「同志」みたいな気持ちでいたの。
私と貴方は、こうなんだ(自分のほうへ抱き寄せるジェスチャーをする)って、
私には◆くんしかいないんだって……」
私「そんなの、ぼくの知ったこっちゃないよ、そんななら、産んでくれないほうがよかったよ」
母「ごめんね……」
こんなやりとりが最近あった。結婚の動機も不純だと思った。
確かに、父の家庭環境は凄絶であった。
はじめの夫が暴力をふるうので、曾祖母の助けをかりて、
寝具ひとつで祖母と父とは逃げてきて、見合いで再婚した次の夫も強烈だった。
ものすごい巨漢で怒鳴るとそこらじゅうに声が響き渡るような人だったようだが、
何か才能があったのか、金を手に入れるために夫婦で興した会社は大成功して
一流企業の下請けとなった。
ただそのあおりを受けたのが一人息子の父で、
母が嫁に来るまではろくすっぽ会話もしないような状態で、
家が会社と従業員の寮をかねていたから、
酒を飲みながらマージャンをする酔っ払った男たちの大声のなか、
じっと耐えてテレビばかりを観ていたのだという。
いつも、お母さんは忙しいんだから……と祖母には袖にされて、アトピーが酷く夜になると
掻き毟って翌朝布団が血だらけになっているのにも気づかず、
曾祖母だけが気づいて、「おめぇかあいそうになぁ」と洗濯してくれたのだという。
要は精神的なネグレクトをうけたということで、
父が祖母に前こんなことがあったんだけど覚えてない? と訪ねても、
そんな昔のこと覚えてるわけないじゃないの、と爪楊枝で歯をせせりながら言い、
つい最近父から聞いたところによれば、
父の生まれた病院の名前さえ覚えていなかったのだという。
同居して4年しか経っていない私でもこりゃひでぇ親子関係だな、と思うのだから、
前はもっと酷かったというし、何とかしてあげたくなる母の気持ちは、わからないではないが、
それは自分の親との修復できない関係を、父の家庭に投影しただけではないか。
母の実家は両親ともがアスリートで、
長女の母をアスリートに仕立て上げたくて仕方がなかったらしく、
母の願望を徹底的に弾圧した。
それでも母は劇団に入りたい夢をずっと持ち続けて、専門学校へ入れてくれるのならばと、
スポーツの名門校へ入学したのだが、両親の期待するような成績はおさめられなかったらしく、
それでは、と幼稚園の先生になるための短期大学に入学させた。
そこを中退してようやく劇団の学校に入ったが、入団は出来ずに絶縁覚悟で上京した。
姉妹間の待遇の差にも悩まされたらしかった。
人権を無視した扱い方をされた母とは対照的に、歳の離れた妹(私のおば)は、
身体の弱かったこともあってか、蝶よ花よと扱われたようだ。
ただ、母が上京してから祖母の矛先が妹のおばのほうへ向いたらしく、
その子ども(私のいとこ)も私と同じような道をたどって、同じように学校へ行くのが苦しくなっている。
母の私に対する「指導」はアスリートの両親のめちゃくちゃなやり方を引き継いでいるのだろう。
母も私と同じように、バカだ、何度言ってもわからない、出来ない、鈍くさい、
といわれ続けて育ったのだろう。
だから私がぐずぐずしているのを見ると自分の過去の姿とかさなっていらいらしたのだろう。
繰り返し言って聞かされた努力、とか、頑張る、という言葉もそうなんだろう。
努力していればいつか親も自分の夢を応援してくれるようになるかもしれないと、
母は信じて生きてきたんだろう。
私は、努力という言葉が嫌いだ。
だって確かに私は母に言われて叩かれながら努力したのに、結局なんにもならなかった。
母だってそうじゃないか、努力したのに望みの道へは入れず、子どものような夫と結婚し、
自分のことしか目に入らない姑に悩まされ、息子は私のような人間だ。
いったいどこが「神様は頑張っている人の味方」なのだろう?
「出来ることがあれば何でも言ってほしい、それで許されるとは思わないけど」
という母に対して、償いはいい、どんなことをしてもらっても昔はなかったことにならないし、
これからもぼくのことを踏みにじるようなことを言わなければそれだけでじゅうぶんだし、
予備校のお金を出してもらっているのは有難いと思っている。
それでも、どうしても、というのなら、
「神様は頑張っていれば必ず応えてくれる」とか、そういう希望のようなことを言わないで、
自分と自分の両親との関係について考えてみてほしい。
ぼくに暴力を振るった原因はそこなのだから、と話した。
◎何を人生において、最も重要視しているか
他者や本からの借り物でない、アピールのためでも安心のためでもない、
自分の内側から出てくる信念はありません。
そうしたものを持たないままこの18年すごしてきました。
ただ、それでは「人生」とはいえない、何もないなら死んでしまったほうがいい、
と飛び降りるなりしたところで、結局は心の中の親に殺されたのだから「自殺」とはいえない。
だからまず「人生」の最低ラインに立つ、これを今の生活の目標にしています。
◎自分に問題があってそれを解決したいと思っているか
解決したい、というよりは休みたい、と思っています。
6年間だらだら過ごしてきて、
だけれど一日も休まず親から埋め込まれたパターン(人格)が起動していた。
この歯車とねじのひとつひとつをはずしていって、ほんとうの意味で休めるようになりたい。
中心の技法は、私にはまだ早いと思うので取り入れていません。
◎自分の嫌いな点評価できる点
「自分」がないところが嫌いです。
そのくせ他人の意見を寄せ集めてさも自分のものであるかのように取り繕って、
他者に認められるか自分で確認して「安心」を得ようとする。
バカにされるんじゃないか、と思っているから怖いのに、自慢・アピールしたがる。
バカにしている人間に認められたって嬉しくないはずだし、
それに自分のことを馬鹿にしている人間の認識が、私のちゃちな知識自慢で改まる、
とおもっているあたりに、考えの浅さを露呈させていて格好悪い。
悲しいなら悲しい、苦しいなら苦しい、つらいならつらい、と、
気持ちをストレートに表現できないで、ヘラヘラしている、それが一番格好悪い。
評価点ははっきりとは思い浮かびません。
ユーモアと感性が、皆無、というわけではなさそうなところ、くらいです。
◎かかわりを持った宗教団体
◆
◆
◆
○これまで読んだ無明庵の本
『廃墟のブッダたち』
『虹のオーガズム』
『性のレシピ』
『分割自我復元』
『いらない親』
現在の職業
無職
趣味
小説を読むこと。
これだけは、アピール、自慢をのぞいた、個人的な興味があると感じています。
カギカッコつきの「文学」ではなく小説作品そのものを読んで接する楽しさと悦び、
研ぎ澄まされ計算された表現に出逢ったとき背筋を駆け抜ける快楽、
作品の構造を解き明かす面白さ。
なによりすぐれた芸術家の、徹底的に「個」に没しようとする姿勢、
社会の情勢に影響されることはあっても常に作品の軸となるものは己の内側にあり、
絶えず個への凝視と対話を重ねながら作品をつくり上げている、その姿勢に憧れがあります。
私もいつかそんな作品を書いてみたい。困難な道だろうけど絶対楽しいから。
今までに習ったスポーツ
中略
◎自我復元をしようと思った、最大の理由
母にとっては、幼い私と自分とがすべてで、私しかいないと思っていた、
と語りましたが、私にとってもそれは同じでした。私にも、母しかいなかった。
母だけが私に価値を与えてくれた人だった。
歪んではいたが、母だけは私に才能があると、特別な子なんだと言って、
私が成果をあげると誰よりも喜んで、褒めてくれる人でした。
私のことを狂信ではあっても信じてくれていると思っていた。
その時だけ、私は自分に価値があると感じた。
もっとも荒れていたときでさえ、
母の私に対する感情の芯となっているのは「愛情」だろうと信じていた。
自分の価値を認めてくれる人に認められたくて、自己を棄てても期待にこたえようとした。
信頼と、憎しみと、依存と、愛情が渦巻いて、
今もずっと「私と母だけの世界」が続いている。
愛憎半ばする感情が、母との性行為として夢に現れたときもありました。
私は、この二人だけの檻のなかから出て、自分自身で世界を知覚してみたい。
「親離れ」がしたいのです。
母親が昔と変わったのであれ変わらないのであれ、
大事なのは私の気持ちがどうあるかで、
私としては就職したら家を離れて関係を見直してみる予定です。
予備校のお金を出してもらってる現状では、いくら憎んだり「いらない」と思ったりしても
矛盾が生じる。このままずるずると、母親の罪悪感を利用してお金を吸い上げ、
実家に寄生したままの生活を続けたくない。
それは私にとっても、母にとってもよくない。
母は私の道具ではないし、私へ贖罪をするために生きているのではない。
それは鏡映しのように私にも言えることだ。
私は母の道具ではないし、母へ贖罪をするために生きているのではない。
以上になります。
長々とお目汚しになりますが、ご一読いただけると嬉しいです。
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