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[631]
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★雑 記★NO.631【 ブッククラブ回さん ニューズレター (番外編) 】●
by:
鈴木崩残
2016/09/16(Fri)09:15:14
☆ブッククラブ回さんの
ニューズレターに掲載されなかった取材原稿を
ここに公開しました☆
↑
これは、今回のニューズレターの表紙で使用した私の書を別の角度から撮影したもの。
■取材当日の様子はこの投稿にあります。
↓
http://www.mumyouan.com/k/?S630
誌面の文字数の枠に収まらなかった分を、ここに編集しました。
相当に長いので、休み休み、お読みください。
以下は2016年2月の時点の草稿。
2月当時に、私が突然に倒れたりする事とかもありそうだな・・・
と予感して、何かあった時のために、今年の2月に回さんに、
前もって送っておいたものです。
_______________________________
*********
無明庵のはじまり
*********
今回、取材のご依頼のお話を伺ってから、私の中には少しの戸惑いがありました。
私のような異端的な者が何かを語れば、回さんのニューズレターの
誌面汚しになるのではないか、という懸念が率直なところありました。
また数々の著名人の方の取材が並ぶ中で、何故、私のような、
ほとんど無名の執筆者にお声がかかったのかも、全くの予想外でしたので不思議でした。
これは決して謙遜ではなく、おそらくは回さんが取引をされている出版元の中で、
最も規模が小さく、最も知名度がないのが無明庵だと思います。
いつ何時にでも消えてゆくであろう本当に小さな「点」です。
私と回さんとのお付き合いは著者と書店という関係ではなく、
納品者と書店という関係でしたし、これからもそうだと思います。
在庫確認や納品の手続きでスタッフの方々と連絡を取るのが、
そのお付き合いの全てでした。
ですから、なぜ取材のお話が出たのか不思議でしたので少し考えてみました。
そこでニューズレターの記事のヘッド部分を見ると、
どういう方が取材対象となっているのかを知る事が出来ました。
>>「ブッククラブ回が開店してから、22年が経ちました。
>>今まで、たくさんの出版社の方々にお世話になってきました。
>>このコーナーでは、独自のクオリティをもつ書籍を
>>発信しつづける出版社の方にお話をうかがいます。
>>情報が飽和する中で、本を生みだす人々の重みある言葉にふれることで、
>>人々の本探しの助けになるのではないでしょうか」
既に言いましたように、私と回さんのお付き合いは納品者とスタッフの関係でした。
「足元の宇宙風景」というトークCDの中でも語りましたように、
1988年の回さんの初日の開店日に、少しご縁がありましたり、
その後、まだ東京に住んでいた1990年代にはカートを引いて、
直接に本を納品させて戴いていた時期がありました。
無明庵の場合には、取引をさせて戴いている書店が極端に少ないものですから、
新刊が出ますと2週間程度だけ、売り場の担当の方に、
ご迷惑をかけるといいますか、忙しくなる結果となってしまいます。
取り次ぎを通して全国の書店で売られる本でしたら、決してそうはならないからです。
そのために、書店の担当者の方にとっては、その「2週間だけ忙しくなる原因の発行元」として、
何かしらの印象が残る出版元となったのだろうと思います。
しかし回さんにとって、無明庵が何らかの貢献をした実績もほとんどなく、
またその関係は、あくまでも書店さんと納品者との関係です。
しかし今回ご依頼がありましたのは、著作物の内容に、
何らかのオリジナリティーがある場合に限りという、
その基準の枠の中で御選出を戴いたのだろうと思いました。
でも、ここで疑問が沸きました。膨大な量の回さんの保管されている書物は、
まるでヨーロッパの貴族の個人所有の「秘密の地下の書庫」のような、
品格のある空間に保管されている膨大な書です。
その中から取材の対象となる方の著作に目を通され、
内容の概略を把握した上でご質問をされるというのは、
大変な作業であろうという事でした。
時には個人的に全く関心のない分野についても、
会社の方針によって急遽、著作に目を通さねばならないという事も
生ずることもあろうかと思います。
そうなりますと、それは単なる書店スタッフ、
または書店のオーナーの方と被取材者との関係ではなく、
その段階で1人の読者と執筆者という関係に転じます。
またそうでなければ、それは新聞社や週刊誌のようなメディアが、
会社の職員として何かを取材するという形になります。
ですから、私の疑問はこうでした。
「無明庵の本を好む人がいるとは思えない」
「多忙の中で、うちの本のような、癖と刺のある内容の本を時間をかけて読む、
そのような書店のスタッフの方がいるとは思えない」。
では、「どういう視点での関心を持たれたのだろう?
それは、スタッフの方の個人的な関心なのだろうか?、
ニューズレターで取り上げるに値などするのだろうか?」と。
知名度もなく商業的な意味でも決して良好な発行元でも著者でもありません。
つまり「なぜ?」です。
そして、この「なぜ?」こそが、無明庵の原点です。
ですから、その「なぜ?」について、これからお話をさせて戴きたいと思います。
*********
全ての人間の原点
*********
無明庵という出版元の、その創設や著者の履歴の紹介という、
本質的ではない入口から入らずに、ストレートに本題にいきます。
無明庵の原点でもあり、また今現在も変わらないものについて
話をさせて戴く方が良いと思ったからです。
それは、今ここに、私の中にも、今ここで取材をされているスタッフの方の中にもあります。
そうは言っても、私はここで「真の自己」とか「意識」の問題を持ち出すつもりはありませんし、
「人間は皆、ある次元においては同じだ」などと、軽々しい事を言うつもりも全くありません。
しかし、私やあなたの、目の前のたった3歩先ほどに、巨大な地獄があります。
しかし多くの人がそこへ踏み込むことを躊躇するもの、それが無明庵が、
その始まりの時期から今日に至るまで、踏み込み続けた次元の世界です。
たとえば、そちら(N様、K様)に、私からお聞きしたいことがあります。
今日こうして取材をされて、それを終えますと、会社やご自宅に戻り、お仕事をされます。
あるいはまた明日には出社します。
しかし「何の為に?」でしょうか?
そこで理由は二つあると思います。
ひとつは自ら個人の生活の維持のためです。
もうひとつはそのお仕事、あるいは精神世界という分野が好きだから、
生きがいを感じるからかもしれませんし、そうではないかもしれません。
しかし人間は、もしも十分すぎるほどの資産と財産があり、
一生の間生活に困るということが全くなかったらば、
という「仮定の前提」に自分を置いてみて、それでもなお自分が関わったり、
やり遂げたい作業であるかどうかを自問した時に、
はじめて本当に自分がしたいことが浮上してきます。
これは私も含めてですが、「もしも食べてゆくのに困らなかったら」と「仮定」することで、
人は本当の意味で「自問」を始めます。
しかし現実的には私も含めて、本当にしたい事と、必ずしもしたくない
日々の個人生活や、生計を立てるための仕事とのギャップの中で、次のように問います。
「今日も、なぜ私は、この仕事をしてまで、生きているのだろう?」
「そもそも、死ぬまでの時間をどう過ごすべきなのか?」。
否、そもそも「なぜ自分は生きているのか?」「なぜ、何のために、どうして?」
毎朝、通勤のステップを踏みながら、この疑問を頭から振り払って、
この疑問を自らの足で「踏み潰して無かったことにする」か、
またはその問いを足で踏みしめて、そして、また一日を生きて、眠りにつきます。
しかし疑問は消えません。
数日間、数年間だけは誤魔化せても、何のために仕事をしているの?、
何のために生計を立てて生きて、そしていつか死ぬのか?。
そして、死んだ後には、どこかの誰かが自分の人生を評価したり、褒めてくれるだろうか?
それとも、何者かが、自分の何かの間違いを指摘してくれるのだろうか?
それとも、精神世界の言っていたことなど、単に信じたかった事にすぎず、
全ては嘘で、死んで骨粉となって、それで終わりなのだろうか?
どんな子供たちでも、あるいは老いた人でも、若者でも、誰であっても、
無限と永遠に続くと思えるこの宇宙にまで、自分の想いと疑問を広げれば、
自分があまりにも小さく見えます。
この取るに足らないほど小さな、この惑星の上で、人生だとか、
生きる目的だとか、生き延びる価値があるかないかだとか、人類の文明の進化、
または意識の進化だとか、私達は言い続けています。
「そんな小さな存在でも、きっと何か意味があるのさ」
この自己暗示的な呪文を唱え続けて、人間や社会は生存を維持しています。
しかし、時にはその問いは拡大することもあります。
宇宙の中にあっては砂粒以下の粒子のような自分個人、
または地球や太陽系や、もっといえば銀河系も含めて、存在をしている事には、
そもそも意味や、そしてその目的があるのかないのか?
このようなことを通勤の時にふと思い、また自宅で一人で夜中に思うことが、
誰しもあると思います。
つまり、「なぜ、私は、この仕事をして生計を立てて、そして生きているのだろう?」という、
最もありきたりな質問に対しての答えとしては、
「自分がその仕事をしている理由」は沢山掲げることが出来るでしょうが、
それはその人が、「そもそも生きていることの原因や理由」ではありません。
そうではなくて、
「私はこういう自分の思いによって、自分の生きる意義を保ち、
死なずに済むように自分をコントロールしています」という事が、
その人の言わんとする事です。
しかし、翌日の朝になり「人間のいつもの生活」というものが始まります。
誰かに「あなたは、どうして生きているのですか?」と質問をされれば、
「生計を立てるために、自分は生きています。家族のために生きています。
自分の為に生きています。社会のために生きています。
魂を成長させるために生きてるのです」などなど、となります。
つまり、「こんなことをしてまで、どうして自分は生きているんだ」という疑問は、
今この時間に世界中で、今まさに、自らの首を吊ろうとしている1人の少女から、
仕事に疲れた男性、育児に疲れ果てた女性、結婚に失敗した女性、
仕事で破産した人、その人たちが自死をしようとしている瞬間の疑問そのものです。
それは確実に、世界中でたった今、起きていることです。
私はいつもその事を強く実感します。
あるいはどれだけ財産と知識と経験があろうが決して解く事の出来ない、
この「なぜ自分や人間は生きているのか?」という疑問は小学生から今
この時瞬間に、臨死を迎えようとしている人まで、
誰にとっても最も「当たり前の疑問」です。
私達が日々の生活の中で、人生の時間の中で、幾度となく振り戻されるのが、この
「自分個人は、なぜ生きている?何のために生きている?」という疑問です。
しかし、それは「自分の生」の意味や目的のありかを問うことで、
終わってしまう事も多いものです。
いわゆる「自分探し」の地点でだけ留まる場合です。
しかし、やがて、その問いかけを
「そもそも、世界自体が何の為にあるのか?」
「これは幻想ではないか?しかしその幻想の存在意味は何か?」とか、
あるいは「人間が見ることが出来ていると信じている宇宙が本当の宇宙かどうかは別問題としても、
その宇宙がそもそもなぜ、何の為に存在しているのか?」といった、
根本的な疑問になる場合もあります。
多くの人達は、誰でも自分の問いを
「自分が想像し得る範囲内で、宇宙にまで向けたこと」があると思います。
ただ、その問いかけを、通勤の歩みによって踏み潰して消し去り、
伴侶の苛立ちの相手をすることでその疑問は消え去り、
そして、変わらぬ日々という一つの現実に戻り、生の意味は不明なまま、
今日も生存し、また生存の為の努力をします。
今、ここにいる、私も、あなたも、そして誰もがです。
その生存そのものの意味や目的はを多くの人々は問いません。
それを問わない理由はこうです。
「そんな事を、考えていたら生きていられない。ほら、仕事に戻れよ」と。
でも変ですよね?
そんな宇宙とか存在全体の意味や目的など考えていたら、
「生きていけない」「子供や夫の世話は出来ない」
「学校に行けなくなる」「仕事が出来なくなって首にされる」
だから、「そんな小難しいことは考えずに働け。
あるいは世の中に役立つようなことでもしろ」と世間から言われます。
しかし、これは全く私には受け入れがたい「暴言」でした。
なぜならば、大変な労力と時間を使い、
時には大変な不快さを我慢してまで、今日を生きている、
その大切な日々の生活そのものの意味や目的が分からないままに、
この自分の生の中にいるのだとしたら、
その事を許しがたい「謎」とすることが、
人間として当たり前の「心情」であると私個人は思ったからです。
ですから、「生活の為にしかたないんだ。誰にも分からないような、
そんな疑問に取り合っている暇はない」と言う人達とは異なる生に、
私は突入しました。
それは私が中学生の時でした。
しかし、その私の個人的な出来事は、ここではいたしません。
このように、ここにおられるスタッフの方も、そして私自身も、
「今日も生きているね」「良かったね、今日もなんとか元気で生きていて」
と挨拶をしながら、自分の部屋に独りでいる時には、こう想うこともあると思います。
「でも、私は、なぜ生きているの?」
「私だけではなく、世界や宇宙が何の為に?」
どんな子供も、大人も、その素朴な疑問を、たったの数歩進めるだけで、それは、
個人が全宇宙を相手に繰り広げる、極小にして極大の「究極の問い」、
または「究極の破滅」または「究極の答え」を求める旅へと出かける道に繋がっている。
そう私は思います。
ただそれを見ないようにするために、
その問いを「塗りつぶす何億もの文字」があり、
それに「蓋をする何万という言葉」があります。
それこそが「精神世界」でもあると、私個人は感じています。
*********
精神世界とは何か?
*********
その精神世界の専門書店が回さんです。国内ではとても珍しい書店だと思います。
ではある内容の本が、精神世界のカテゴリーに入るか入らないかを、
オーナーやスタッフの方はどうやって分類しているのだろうか、
と私は考えてみました。するとおそらくは、こうなると思います。
「人生の心の問題に何かのヒントになる事」が書かれている内容の本。
これが貴店の書棚に陳列される結果となるのだと思います。
「広義な意味での精神作用をテーマにしており、かつ生活にヒントになるもの」
これが精神世界の定義かもしれません。
しかしもっと一般には「摩訶不思議な世界」という枠で分類されることもあります。
いわゆる「謎学」ですね。
そうなりますと、最新の脳科学から、超古代史論から、UFO問題から、
趣味の園芸や子育てや恋愛や農業まで、何でもかんでも、
おそらくはどんな分野のどんなテーマであっても、
そこに「スピリチュアルな要素か、あるいは謎解き、または幸福へのヒント」
これらがあれば、それは精神世界に分類されて、書棚に並ぶのかもしれません。
そこに「哲学的な側面」があればいい、ということにもなりますので、
誤解を恐れずに言えば、または、真に知性を行使するならば、
「暴力の中の精神世界」「殺戮の精神世界」「戦争の中の精神世界」なども、
十分にテーマとなり得るわけです。
その切り口のいかんによっては、それは精神論と関連づけることは容易なことです。
それが常識や社会からどう批判されたり共感されるかはまた別問題としても、
学問的な「研究分野」としては成立するわけです。
実際、そうしたネガティヴだと言われてきた領域の中で、
無明庵が、かつて大きなテーマにしたものが「自死の中の精神世界」です。
ご存知とは思いますが、アルベールカミュの「シーシュポスの神話」の
冒頭の第一文はこう始まります。私の意訳ですが。
「真に重大な問題は一つしかない。それは自殺ということだ。
人生が生きるに値するか否かを判断する、
この答え以外の全てのことは、それ以後の問題であり、そんなものは遊戯なのだから、
まずこの根本問題に答えねばならない」
*********
自殺防止薬としての精神世界?
*********
私の言葉に不快になる人達が、この世界の99%を占めていることを覚悟の上で言いますと、
「私個人の定義する精神世界」とはこうなります。
「精神世界とは、人が、自らの命を絶たないで済むために、手に取る綱である。
その綱は、一見すると、どんどん取り替えられてゆくように見える。
しかし綱は、いつも同じ”手触り”だ。
その人達が手にしたいロープの、その感触は、いつも同じだ。
その同じ“感触”とは、
“これならば、自分は生き延びられるかもしれない”というもの。
しかし、それでは、なぜ生き延びるのか?の答えにはなっていない。」、
要約すればこれが私の視点であり、無明庵の立ち位置です。
「なぜ生きているのか?」「何のために生きているのか?」という疑問よりも、
「どうやったら、どの考え方ならば、自分が絶望の中で自死しないで済むか?」
これを多くの人が求めて手にするのが「精神世界」の書籍だと私は思っています。
「生き延びる手段として有効なもの、または有効に思えるものもの」です。
しかし、肝心の、この上もなく、根本的で、シンプルで、重要であるはずの、
「問い」は、見捨てられたままです。
人間は自分の精神や肉体や(あるいは魂でもいいですが、その)魂なるものが、
生き延びるため、進化するため、または、その個人が想像している神や神々に、
自分が見捨てられないようにする方法を、探したり、考え出しています。
しかし、どうして、それほどまでの事をして、生きて存在する必要があるのでしょうか?
「なぜ生きているのか?、生きているように感じるのか? 何の為に?」
子供であってさえ想う、この、ごくごく正当で、問われて当然の疑問に対する、
膨大な量の「説明、説得、いい訳、あるいは時には嘘」、
これが精神世界のほとんとだと私は結論しています。
これについて「一体それは、どういう意味なのだ?」と私の言葉を奇妙に思われる方は、
本当に心底、その疑問がその人自身にとって誠実なものであるならば、
CDの「何が問題なのか?」を聴かれるのも良いと思います。
自らの持論に対して、信条的または感情的に反するものに対して、
常に批判や反論をしようと、狙いすまして構えているのではない
「冷静な人」にとっては、それこそ「何かのヒント」になると思います。
それは人生を豊かにするヒントにはなり得ない、と思いますが、
人生を哲学的に考えるきっかけにはなると思います。
ですから無明庵は、自らが精神世界の書店や、書店の精神世界コーナーの一角で、
お世話になっていながら、その恩義も無視して、
「アンチ精神世界」であり続けているのかもしれません。
*********
家族関係でトラウマを背負った人々
*********
「アンチ精神世界」かもしれない無明庵にあっても、
このトラウマやアダルトチルドレンや、各種の機能不全家族の問題は、
一見すると「人生のヒントになる」という精神世界にカテゴライズされるかもしれません。
が、実はそうではない面がありますが、それは後でお話します。
多くの人達、特に私が相談や報告を受けてきた沢山の人達が、
家庭内で受けてきた、絶対に許されざる子供への毒親の仕打ちがあります。
私はそれらの報告を読んで幾度、涙を流したか分かりません。
それは、たとえ暴力や恫喝が全くない家庭であってさえも、
それは、あまりにも酷く非情で、親としてすべきことではないことを、
全く無自覚のうちに、その人達の親たちは子供にしてきました。
これについては、「いらない親(毒親無用)」という著書に、
本人が忘れていたり、見ないようにしてきた、自らのトラウマを、
本人自身が掘り続けた報告事例を載せてあります。
この「いらない親」は、万人に手にして欲しい本の一つです。
自分の親や家族には問題はなかったと固く、あるいは緩く、信じている人達も、
全員に読んで欲しい本です。
また自分には問題はないと思うのだけど、自分の妻や夫や祖父母の挙動に違和感がある、
そうした人も一度でもいいので目を通して欲しい本です。
それこそ「ヒント」があります。必ずヒントが見つかります。
どうして自分の家族はあのようだったのか、という原因についてのヒントです。
しかし、そうした相談と報告に、涙を流すのが私のすべきことではなく、
涙をふき取ったらば、私はその人達に向き合わなければなりません。
でも、これは私がその人達の助けになるのでは断じてありません。
その人たち自身の本来の自分が、自分を救出する、そのお手伝いをするのみです。
他人が誰かを助けるのではなく、私に出来るのは、その人たちの
「自己救出」の方法を示唆出来るのみです。
それが「自我復元」という方法論として確立していったのが、
2010年から今日までの無明庵でした。
ちょうど、3.11の災害と原発事故という公害を跨いで、この数年間続いてきたことです。
実際に、自我というものを立て直し、またそれは単なる立て直しに終わらずに
「新生した自我」となるケースもあり、
その「自我復元」の成果も確かなものになりつつあります。
その方法論は、おおむね、現在の一般的なトラウマ克服のプロセスと似ていますが、
その方法論の「ごく一部に」ですが、一般的なカウンセリング手法から見れば、
全くのオカルトとしか認識されない技法があります。
ですから、多くの人達は、その方法自体を信じないと思います。
しかし、一般的なカウンセリングでは解決することが出来なかった理由の一つとして、
自我復元という特殊な方法が生み出された背景の解説が、
「分割自我復元理論」という書籍にあります。
が、そうは言いましても、そもそも人間にどうして、
自我として「認識される境界線」が存在するのか?
この問題は、実は「広大な次元」にまで、またがる難問です。
ですから、無明庵の読者の方たちのうち、実践に踏み込んで、
その本来の状態を復元しようとしている、その「自我」そのものが、
どうして人間に装備されたのかについて、私は「足元の宇宙風景」の中で語りました。
人間や動物における食物連鎖それ自体が、
それは、いわゆる自然界の法則によって発生したようなものではなく、
それをある意図を持って、作為的にプログラムした「何者か」が存在する
その可能性について詳しく説明をしました。
*********
「自我復元」と「悟り」の接点
*********
細かい説明をする時間がありませんし、誌面も限られると思いますので、
極端に短く説明いたします。
自我の復元と悟り、このどちらも共に、
「自己同化が壊滅する」というプロセスにおいては酷似しています。
自分が自分の意志で結婚したり、就職したり、あるいは趣味を持ったり、
好奇心や関心を持ったこと、そのほぼ全て、あるいはその多くが、
毒親から受けたトラウマに由来するということを、
驚きと絶望とともに発見するのが「自我復元」における認識です。
無明庵の方式の自我復元でなくても、一般的なカウンセリングでも、
その部分においては同じであると思います。
「自分で決めたと思っていただけで、自分の決めたことではなかった。
自分の性格や、自分の個性や、自分の意志決定だと思っていたものが、その真相は、
親の身勝手な意向、親の感情的な八つ当たりだった事、
そして親の支配や脅迫を受けていた事を引きずったままの人生だった」こと。
それを知ることになるのが自我復元でのトラウマ掘りや、
AC(アダルトチルドレン)人格の自己分析の結果です。
それを抜け出せるかどうかは、そうした何十年も全く自覚なしに自己同化していた、
「聞こえざる親の命令」から自分を引き離せるかどうかです。
また子供が親を慕い、頼り、親の愛情や関心を自分に向けて欲しいと願うのは、
哺乳類として当然のことです。
しかし毒親はその無垢で無力な子供の感情を無視したり、さらには非情な言葉や、
威圧的な態度で子供の感情を押さえつけています。
子供にとって親は、人生で最初の他人であり、もっと言えば神々に等しい存在です。
その親が子供の心を傷つけるようなことを、いささかでも、悪気なしにしたとしても、
その傷は老いても残り、死ぬまで残ります。
私はその事例を本当に沢山目にしてきました。
「どうして、あの親は私を子供として守り、愛さなかったのか。あまりにも悲しい」
それが子供の時の感情として当たり前の叫びだったのです。
ただ、それは物心がついて6歳を超えるあたりから、
人間社会という一種の病理とも言える生活の中で、忘れ去られてゆきます。
しかし5歳以前に発したあなたの叫びは、無意識の中にそのまま残ります。
ですから、今の大人としての考えや視線や、あるいは親に対する怒りを
隠したその視線からではなくて、その当時子供だった自分の視線にまで戻らないとなりません。
子供だったその時の深い悲しさを認め、それを自分で救出すること、
それが「感情」を掘り出すという作業です。
ここもまた、一般的なカウンセリングの目指す方向と、ほぼ同一です。
しかしそうして自己同化が外れてゆき、縛られていた鎖が解けて楽になってゆく、
その一方で、次の「新たな問題」が発生します。
この領域に対して、現代のカウンセリングや精神医療は全く無力です。私はそう断言できます。
見えざる親の、詐欺的な手口の影響、それと自分とが自己同化していた状態から、
自分が離脱するに従って、逆に
「では、自分とは何なのか?、親の影響を離れた自分とは?」この疑問が立ち現れます。
これは決して知的な遊戯としてではなく、恐怖を伴う実感としてです。
自分自身のトラウマを解明した人は、ふと気がついたら
「自分の個性など育っていなかった」という現実に直面するわけです。
ここで多くのカウンセリングがしようとすることは、
「新たな自己を自分で構築しましょう」という、いわば親離れ、精神の自立です。
しかし失敗例が多くあります。
それは親から距離をとって「自分の生活に集中する」ということによる
誤魔化しにすぎないままに終わることが多いのです。
しかし死ぬまで「誤魔化せないもの」が、そこには残っています。
自己同化が外れた時、その時、その人は「一体何ものなのか?」です。
この自己同化が外れるという意味においては、
実は、悟りの中で起きる大きな破壊も、この自己同化の壊滅でもあるのですが、
悟りの場合には、親や、その他の何かとの自己同化が殲滅(せんめつ)
させられるに留まりません。
それは生命として、もっと正確に言えば「魂として」生き延びようとする、
その生存意志との同化が、突然に、あるいは少しずつ崩壊してゆきます。
これは事実上、自己の死などというものではなく「生命そのものの死」です。
自我の復元によって再起動した自我(それを無明庵では「原主体」と呼びます)と、
悟りの間には、その二つには破壊されるものの「範囲の違い」があります。
それは、それまで本人が信じていた全ての信念体系と生命維持への意志までもが崩壊するか、
それとも何か自分の中の特定の記憶との自己同化からの剥離に(無事)
とどまるか、その違いがあります。
それは桁違いの巨大な差異ですが、
しかし「何かとの自己同化が剥離する事によって、その何かを失う」
という事においては、似ているのです。
ですから、俗に言うところの精神世界の盲点の中に溺れている人々は、
「毒親の分析なんて、スピリチュアルでもなんでもなく、ただのカウンセリングじゃないか。
私はそんな低いレベルではなく瞑想をしているんだ、
座禅ならば、そんなものも全部解決できるんだ」と言い、
そのような誤謬の海中に消えてゆきます。
その人達に、私から言えることは、
「このトラウに対して向き合う姿勢は、
いずれは人間が神々や神に対して自立する姿勢の縮図になる」と言うのみです。
その人達が、そんなに何もかもに、いちいち、
スピリチュアルな意味づけを要求するのであれば、ですが。
CDの「何が問題なのか?」とそれに続く「足元の宇宙」では、
宇宙と人間の関係について、ある程度は明確な説明を試みたつもりです。
とても信じられないという人達は、
むろん「仮説」として受け流して戴いてもかまいませんが、
極めて整合性のあるものだと感じる感性のある人も少数は出てくると思います。
一方で、「はじめての無明庵」というCDの中では、
私達の持つ「独りの感覚」について語りました。
*********
ただの独りではない「ひとり」
*********
独りの時間を持つことを多くの人もしていると思います。
「独りが一番落ち着く」という人も多いでしょうし、
「自分は、いつも一人だった。そんなのは当たり前のことだ」
と、言葉の上だけでは言う人も多いと思います。
しかし本当に全く何もしないで独りでいる時間を、どれほどの人が持っているでしょうか?
全く何もしないとは、つまり座禅や瞑想のような、
そうした余計な事もしないということです。
むろんあらゆる通信ツールは停止します。
自宅にいながらにして、洞窟に篭っているかのように、独りで
「本当に何もしない数時間」ということです。
ここで重要なのは、その無為が無目的であることです。
部屋は薄暗い程度でよく完全な暗室にする必要はありません。
足を組む必要など全くありませんし、
むしろ特定のポーズをすることは、とても有害です。
真夜中に、家族や隣人が寝静まっているときに、独りでそうしていると、
普通の人間であれば、自動的に起きてくる事があります。
まず第一に、落ちつかなくなることが起きます。
その無為を続けることが出来ずに、何かを始めてしまいます。
読書、PCを開く、あるいは運動、何でもです。そこから逃げます。
無為にいられずに、いつもの自分の活動感覚の中に逃げ込みます。
第二に起きることは、こうです。
何もしないようにと、自分に強制すると、頭の中に、
全く必要もないと思える思考や、あるいは心配事や、関心が向いている事があれば、
あなたの頭の中は、それに関する独り言やイメージで溢れかえります。
自分がそこにいたこと、つまり自分は自分に起きている事を見ている、
という事を思い出すのに、時には何時間もかかると思います。
そして第三に起きることは、こうなります。
ひとつめの「自分のしている行為」と、
ふたつめの「自分の考えている思考」のこの二つが、
どちらも、何かのきっかけで、その力が衰えて、
その人の意識を侵略しないものになります。
ここでは、自分の思考との距離が、わずかにであっても発生します。
この「自分が考えている、と自分で思っている」という状態に対する距離が、
頻繁に起きるようになったり、その距離が非常に遠くに離れるようになると、
そこで起きるのが「自らの思考との自己同化の剥離」です。
ここから先は、ある意味では「煉獄」です。
それは断じて、気づきの世界とか、瞑想的な安堵の世界なのではありません。
全く無自覚なままに何十年間も自己同化していた「自分の信じているもの」
ないしは「信じたいもの」にまつわる思考そのものとの距離が開きます。
その乖離が頻繁になるにつれて起きるのは、決して思考からの自由ではありません。
多くの、本や、瞑想指導者がここを勘違いしています。
思考から距離を保つのは、それがそのまま、思考からの自由や、雑念からの開放や、
安心や安堵といった、生活に役立つリラックスや、
それこそ、「生きるヒント」になる精神状態を生み出すのではありません。
自分の、あらゆる種類の思考、信念体系、感情、
時には肉体の感覚からも距離が発生すれば、そこで起きてくるのは、
「ならば、それらではない、この私は、一体何なのか?」
という根本的かつ実存的な問いです。
思考と距離をとって思考を見守るという行為は、
それを継続することに何らかの価値があるのではなく、
それはまさに自分の人生を必死に支えようとしている、
その価値感そのものを殲滅してゆく結果となる場合があります。
むろんその被害の大きさには個人差がありますが。
ですから、自己同化が崩壊してゆくという点では、
「自我復元」の結果として現れる「原主体」も、
その原主体が十全に生きて「燃え尽きたあとの可能性」としての「悟り」は
全くの別ものではありません。
ただし同一でもありませんので混同しないで下さい。
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今後の精神世界について
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少なくとも、私がこの地球で生きている間には、全く何も変化はないと思います。
何ひとつもです。
ただ、とても小さな個人というレベルでは、これから起きるのは、
「神々からの自立」「自分が神として信じていたものからの自立」、
これがごくごく一部の人達の中でだけですが、起きるであろうと予測しています。
その人たちは別に何かに優れているという意味ではありません。
しかし、少なくとも、その人達は、心底「自分で疑い、自分で考えた」
その結果として、
信じる宇宙を失い、信じる神や神々を失い、信じていた高次元世界を失
い、
この広大な宇宙にあって、「たった独り」で旅に出ないとならなくなると思います。
精神世界は、とかく「つながり」を強調し、「もともとは全ては一つに違いない」
という「一体性や全体性」を叫びます。
しかし、そして、そう叫ぶ人の目の中に、
私はただの一度も「確証の眼の輝き」を見たことはありません。
そうした、「人類も宇宙人も皆、同じ、創造の中の大切な出来事」
という言葉を発しても、それは単なる主張です。
それは単なる思想です。単なる妄想です。
それは宇宙、または意識に対する冒涜ですらある、
と、そう私個人は思います。
それもまた、単なる妄想であるとしても。
なぜならば、人々は、まるで宇宙が人間や沢山の生命の為に存在しているかのように
思っているふしがあります。
しかし「人間や知的生物のために宇宙が存在しているのではない」、
という事ぐらいは、当たり前に理解すべきです。
それよりも、私達の個としての存在感覚が、大きな範囲から断絶され、
つながりがなくなった、個別の「この自我」には、
その自我があるが故に、何をこれから経験できるのか?、
何を経験することができたのか?を観るといいと思います。
「足元の宇宙風景」で私が語ったように、
視点を変えれば、この狭い自我という乗り物は「楽なもの」でもあるのですから。
しかし、それを決して、肯定的に賞賛することなく、否定的に拒絶することなく、
時にはそれを賞賛することに失敗してしまい、
時にはそれを否定することに失敗してしまいながら、
万物は、これからも生存してゆくと思います。
しかし、それでも、宇宙は、
私達の、あるいは、この宇宙中に存在する、
無数の、頭を抱えた哲学者たちの問いに、
何ひとつも、答える事が出来ていません。
それに、答えようとすらしていません。
「我々は、そして、宇宙は、万物は、一体、何のために存在しているのか?
あるいは、宇宙や万物が、あたかも存在するかのように見える、
それを見てる、この意識とは、何のためにあるのか?」
2016年2月20日
7:00〜10:00 鈴木崩残 記
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なぜ、人は精神世界に惹かれるか?
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おそらくですが、次のような理由によると思います。
私達は生まれてからそのあと、ずっと「行動指針」を与えられます。
それは最初に親からであり、次に学校、そして社会からです。
そこで与えられたり、または自ら学ばないとならなくなるのは行動指針です。
「いかに行動するか」「どういう行動は賞賛されるか」ということです。
ところが、親も学校も社会も決して教えてはくれないことがあります。
それを私は「状態指針」と名づけました。
「状態指針」とは、
自分がどのような意識の状態、知覚の状態、心の状態にあれば良いのか、
または正常と自分で判断できるのかの指針です。
平たく言うと「どう在ればいいのか?」です。
早い人であれば子供時代に、
遅い人でも思春期を迎えるころに、こう思うことがあったと思います。
「まわりの友達や家族は、自分が見て、感じているように世界を感じているのだろうか?。
自分とは違う感じ方なのだろうか?自分の感じ方は何か変なのではないだろうか?」
でも、これはその子供に何か特別な感覚があるという意味ではありません。
ごくごく普通の感覚の中にあって生ずる疑問や不安です。
家庭や学校や社会ではこの「状態指針」は全く教えてくれません。
せいぜいそれは、「注意深くしなさい」「ぼーっとしていないように」ぐらいです。
そしてそれはすべて社会的な目的や倫理上のもので、
私達の本質に関するものではありません。
しかしそうこうするうちに、いろいろなことが、自分の知覚する周囲で起こり続け、
「世界が、どんどん自分を追い越して勝手に現実感を増してゆく」という感覚を持ちます。
しかし子供は本心ではこう言っています。
「ちょっと、待ってよ。ちょっと待って。
まわりの現実が私を追い越してゆくのが気持ち悪いから、ちょっとだけ待って!」
しかし周りの世界が現実感のある鮮やかな輪郭を伴うものになればなるほど、
自分が何であるのかが分からなくなり、自分の意識の置き所は分からなくなります。
つまり「外界との折合い」がつかなくなってゆきます。
そして、やがてそのまま、大人になり、恋愛をし、仕事を持ったり、
結婚したり、家庭を持ったりしながら、自分が生きているというよりも、
どんどんと世界に追われ、自分の見ている世界に追いつかなければ、となります。
仕事や子育てや趣味など、何をしても、
外側の世界の現実感と内側の自分の現実感との調和が崩れないようにするのに、
必死になります。
これが崩れるのを大小の「精神の異常」と私達は認識します。
自分の中で何かがおかしくなっているのではないか?と。
ここにもしも「状態指針」という、自分が生きるよりも以前の、
何か行動や思考をする以前に必要な、
または正常な精神的なコンディションがある事を教えるものがあれば、
人はそれに大きな関心を持ちます。たとえ子供であってもです。
「何をするにも、どんな時にも、
こういう精神状態、意識状態で生きてゆけばいいんだよ」
と教えてくれるものを、自分でも知らずに切望しています。
そして、それを教えてくれているのではないか、
そう理解したり、または誤認したりするもの、
それが精神世界なのではないでしょうか。
逆に言いますと、その切望がない場合には、
それは「謎学」とか「不思議世界」となります。
そこにはUFOや、不思議な話が含まれますが、
そこに「どう在ればいいか?」の問いはありません。
しかし1970年代のUFOに関する本の中では宇宙的な哲学のようなものが登場し、
そこには一種の在り方に関する指針のように見えるものも混ざっていました。
こうして、UFO関連、魔術関連、心霊関連という、
いわば心の娯楽に過ぎないように思われている「不思議世界」すら、
常にそこには、道徳指針や行動指針だけではなく、
「人の在るべき意識状態」についての何らかの示唆らしきものが混在していました。
ですから、「何をしたり、何を考えたりするかが問題ではない、どう在るかだ」という
この種類の言葉は、人の関心を強く引きます。
それこそ、本当は求めている指針だからです。
生きる方法や道徳ではなくて、
「そもそもの在り方」に自信が持てないのです。
私も中学生の時から、その後長い間、ずっとそれに悩み続けました。
日常の事が手につかないぐらいになることも、しばしばでした。
この行動や思考以前の「在り方」を強調しているのが、
いわゆる瞑想という分野に属する世界です。
しかし、そもそも
「自分の在り方は、これでいいのかと不安を持つ、その原因」、
その根本原因についての答えを、
私は既存するどんな情報の中にも見つけることは出来ませんでした。
私の精神探求はそこから始まりました。
この「何か、常に意識の居場所の定まらない感覚。何かしっくりこない、
違和感のある、この在り方」に対して、
「どう瞑想すればいいか」が私の問いではありませんでした。
「なぜ、こんな慢性的な違和感を、
自分(や人間)は感じるのか、その原因を突きとめたい」
これが私の人生の大きなテーマでした。
だからその答えを探して、私は意識を、宇宙に向けました。
20代の後半のころでした。
そこで得た所感のいくつかが、
「何が問題なのか」「足元の宇宙風景」で語ったことでした。
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崩残
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性の問題についての著作
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これについては、私自身が若い頃に、大真面目に興味を持ち、大真面目に実践し、
自分なりに研究し、実際に経験して行った結果から、書き記すべきと判断しました。
1997年ごろからです。
もしも周囲に良き「性の手引書」があったのであれば、それを私も参考にしたと思いますが、
それがなかったために独自に構築してゆきました。
それはまさに実験と言えるほどのものでした。
といっても冷たい実験室の中でおこなわれたのではなく、極めて人間的な場でです。
それらについては、「性恋愛教本」「虹のオーガズム」「性のレシピ」
などに全てを書き記しましたので、ご覧になっていただくとしまして、
ここ最近分かったことがあります。
それは、女性は性行為の後に「幸福感」を感じる必要があるということです。
もっといえば、性行為のあとに幸福感を感じる「機能がある」ということです。
しかし男性にはそれがありません。
男性には、単に心理的な意味での自己満足や、生理的な意味での
すっきり感はあるでしょうが、
女性が感じるような、翌日または「数日に渡る幸福感の持続」はありません。
むろんこれは、男性側に技術的な未熟があったり、
また女性に対するケアの気持ちがなければ発生しません。
男性の身勝手なセックス行為によっては、女性の中にこの幸福感は喚起されません。
しかし、私はその女性に固有の性行為のあとの幸福感は、
心因性のものではないと推測しています。
それは女性にとっては、自覚される形としては幸福感と感じられるのですが、
実際には生理的な現象です。
これを引き起こすのには必要不可欠なプロセスがあります。
それは女性がオーガズムに至り、それが数分かけて終息するまでのその間、
ずっと男性の男性器が勃起したままに維持されることです。
また、そのまま次のステージに入れば、女性はそこから続けて1分おき、
又は数分おきに、3回、あるいは5回と、オーガズムが連続的に続きます。
女性がオーガズムを迎えるのと同時に男性も射精する、というのが一般的に、
男女が一致するオーガズムとして奨励されたり、その「同時に果てる」
という一致感を「幸せ」と感じる男女が多いようですが、
それでは女性の中に、その独特の幸福感は生じません。
女性がオーガズムを迎えても、なおも男性器が勃起をしたままであると
女性の脳は「勃起が続いているということは、
まだ精液を受け取っていない」と判断します。
そのような「誤認」をした女性の脳は、
「精液を受け取ったからもう安らいでいい」とは判断せずに、
性行為は完了していないと判断して、さらに膣内に活発な運動を起こします。
この結果起きるのは膣内の温度上昇です。
これは女性自身が、お湯が溢れ出るように感じることになりますが、
男性も自らの性器にその温度を感じます。
体感感覚では、他の部位よりも約2度は違うと思います。
言うまでもなくこれは女性の膣、子宮、付近の血流が増大している結果の現象です。
一度か、数回のオーガズムに至ったり、またはオーガズムの直前にある時の女性の体内が、
この状態になっている場合に、男性が女性のオーガズムのあとも、
持続して膣内で性器を勃起をさせたままにしておくと、
前述した「誤認」が女性の体に起きます。
その結果、「まだ、この性行為における自分の体の役目は終わっていない」
と判断した女性の体が続けてオーガズム反応を起こします。
このオーガズムは男性の精液を吸収しようとする動きと考えていいです。
あるいはその膣内の運動によって男性のオーガズムをうながす役目があるのかもしれません。
この女性の体内に挿入された勃起したままの男性器によって、
複数回のオーガズムを女性が経験した場合には、その活性化によって、
翌日もその状態(オーガズムが続くという意味ではなく、何らかの生理反応)が続き、
結果としてそれは、幸福感として感ずる脳の状態になると私は推測しています。
ところで、この幸福感は、女性はそれを感じることは出来ても、
男性は感じられない理由は簡単です。
自然界では、精液を受け取った側は、そのあと安静にして、
そして安心して時間を過ごす必要があります。
受胎し妊娠へと移行する中において、「母体」となる身体は、
リラックスしていることが、胎児となる細胞にとっても理想的だからです。
このためにも、良い受胎の為には、女性のオーガズムが必要不可欠であると私は考えています。
女性がオーガズムに至らずに男性だけが自己満足するような性行為は
決して許されるべきものではないと考えています。
さて、男性は、性行為の直後から「その女性を守る側の立場」に戻らねばなりません。
気を抜いて、だらけている暇はないのです。(野生の世界においては、です)
これ故に、性行為のあとの男性の態度が「少し冷たい態度」「味気ない」
と感じる女性が多いと思いますが、これは、男性がセックスによって
幸福感を感じることが出来ない仕組みを持っている「残念な生き物」であるからだ、
と理解したほうがいいです。
一方で、女性はセックスのあとで、幸福感に数日ひたることが出来る場合がある、
ということを男性は知る必要があります。
がしかし、それは前述したように「条件つき」です。
技術の習得、つまり自分の性反応へのコントロール能力と、
女性の身体の様子を観察する注意力なしには、
女性の中に、質の良い、「心身ともに幸福感」を実現する事はできません。
こうしたことは、いわゆる「女性の心理」「女性の気持ち」について
理解するだけでは不十分であり、多くの性行為の経験を経て、
時には手引き書を参考にしながら、
長い試行錯誤を経て「体得」してゆくものです。
「他の男性とのセックスはもう出来なくなった」と、女性が言ったら、
それを言われた男性は(とりあえずその女性とのセックスにおいてだけは)
合格した、ということになろうかと思います。
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以下は8月の時点の草稿
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精神世界の難民キャンプのようだった無明庵
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うちみたいな、行儀の悪い発行元は、回さんの誌面汚しにならないかが心配です、
ということは以前にも言いました。
と言うのも私にとっては、精神世界それ自体が、
人間の心身が生きる上での指標になるとか、
信ずるべきもの、信じたいものがそこにある、というよりも、
人類の「悪あがきの歴史だった」ような気がしてならないからです。
トークCDの「何が問題なのか?」でも言いましたように、
それは、私たちが自分の意識の外界にあると認識している外の世界と、
折り合いをつけようとして、失敗をした膨大な記録かもしれません。
意識と外界とは一体であるという主張はここではどけておきます。
そして、これもCDで語りましたが、
「存在しているんだから」
「だから、宇宙や世界は正しい、何かの目的や意味がある」
と、疑うこともなく信じて、
はたして、それで折り合いがつくだろうか?
という疑問が一環して私の中にあります。
こう言いますと、無明庵というのは、
なにやら、ひどく厭世的なように聞こえますが、
実際に、私たちが自分が知覚している世界や宇宙に対してしていることは、
「存在している世界の、意味をひねり出すこと」
「存在世界それ自体の、意味を問うこと」
「世界の意味を問うことを、忘却すること」
この3つのどれかです。
さて、以前にNさんに「目を閉じて話しませんか」と提案しました。
ちょうど死後の世界でお互いに声だけで話しているような感じです。
つくづく思うのですが、今のこの地球では、他界した人にとって必要なのは、
急かされるように、次の生を選択したり、
何かを体験するために旅立つのではなく
「休息所」が必要だと私個人は思う。あくまでも私個人は、ですが。
転生がもしもあるならば、それを急ぐことなく、
何かに諭されたり、急かされることなく、
これまでの生を自分でじっくり精査し、考えるために、
なんなら100年ほど、休憩できる空間を作り、
そこに閉じこもったほうがいいような気がします。
宇宙や惑星での生命経験というものを、
勢いと習慣と慣れで、走らせてきたとしたら
どこで、一度、長いブレイクをいれて、考え直す時間が必要だと思うのです。
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無明庵のあゆみ
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経歴
1994年
出版社から電話があって、その出版社とは別のところに原稿が運ばれましたが
全く進展せずでした。
出版業界と音楽業界は、場合によっては
非常識なほどルーズであることが多いです。
1994年
「廃墟のブッダたち」「続/廃墟のブッダたち」
「地球が消えるときの座禅」「ひきつりながら読む精神世界」
これらが各たったの100部の製本でした。
印刷所のポプルスとの縁は(知人が同人誌印刷所として紹介)で
印刷にこぎつけました。
実は、ポプルスもうちもどちらも「ギリギリの淵」での印刷だったのでした。
(その印刷所は、その月の社員の給料の支払いに困窮していました。
私は、なけなしの貯金の70万円を、初版の印刷代に回しました。)
1995年
書泉グランデに、最初は各1部、次は各3部、次は5部と、
少しずつ書店からの注文部数は増えていきました。
そして、ある日突然に漫画古書店のまんだらけの古川氏から
直接に電話がありました。
自社から出版したいということでした。
しかもなんと「編集しない」という条件を承諾していただきました。
今では世界的に有名な中野ブロードウエイのまんだらけからの出版でしたし、
その後も同じビル内にある精神世界の古書店(大予言)に
納品させていただいていたので、
無明庵というのは、その発端から、どこまでもサブカルチャーの世界の
生き物なのだ思います。
決して、メジャーにはなりません。100年後は知りませんが。
そうして奇跡的に出版元が見つかり、少しですが印税が入りましたので、
それによって5作以外の「反逆」と「小さなブッダ」の印刷経費を
なんとかまかなっていきました。
この間も、何人かの読者の人たちから印刷代、その他の支援をうけて、
とてもお世話になりましたが、そうした人たちのご好意に甘んじたままでは、
よくないと思ったのです。
ここでひとつの転機を私は感じました。
悟り系の話題によって集まってきたり、ごく稀に手紙その他で、
コンタクトをとってくる人たちと話していて、何か違うと強く感じました。
このままでは両者は、ずっと平行線のままとなると。
非人間的ともいえる領域に踏み込むには、
その前に人間性や欲望を生きる必要があるのに、
それがなされていない人たちが、
悟り系の話題に群がってくることを感じました。
のちにこれを私は、「一発逆転を狙う、愚かな発想」と呼びました。
*********
自然葬をいち早く自分で実行
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少し話題が変わりますが、それとは別に、
2003年ごろまで自然葬の試行錯誤の試みをしていました。
長く、母子家庭だったのですが、
看取った私の母を、実際に自然葬にして経験から、
「完全自然葬マニュアル」というコンテンツをサイト内で現在も無料で公開しています。
1999年から2000年に書かれたこのマニュアルは、実は今現在、
自然葬をしている大小の会社の基礎マニュアルのベースになっていると
私は思っています。
1999年当時は、自然葬というと、日本では、自然葬をすすめる会以外には、
せいぜい2つ程度の海洋自然葬を請け負うところがあったのみです。
それが今現在では、自然葬を依頼できる沢山のサイトがあります。
つい先日、最近の自然葬の様子をネットでざっと見てみたのですが、
細かい工夫やサービスでは個性がありますが、基礎となっているのは、
無明庵の自然葬のマニュアルと見受けられるところも多かったです。
そういう意味では、団体とも関わらず、全く個人で自然葬を試みた点で、
当時の無明庵は、自然葬を個人ですることを試みた先駆けだったかもしれません。
それで、2004年に富士五湖に引っ越したときに、実は役場に二度ほど、
自然葬の企画書を郵送しました。
内容は、富士五湖の湖すべてを、散骨できるように、行政で決めて、
役場で許可書を発行したらどうか、という提案でした。
富士五湖は、許可が下りれば、散骨できるとなれば、
そうすれば、観光資源にもなるし、
日本人なら、富士山が見える湖に眠りたいと思う人も多いですし、
またその後も遺族が参拝するだろうから、
民宿などの観光業界にとっても悪くないだろう
・・そういう提案でした。
私が役場に、熱いコールを送った結果は、むろん「なしのつぶて」です。
さすがに、湖に骨粉を沈めるという、そのイメージが、
富士五湖の漁協などに敬遠されたのかもしれませんし、
そもそも、こんな企画は受付けないのだと思います。
でも、私はいいと思いますよ。
富士五湖の全部でなくても、どこかの湖が、役場が散骨を許可することは。
むろん、散骨をする人の身元証明とか、
粉にした遺骨に関する埋葬許可書の提示とかは手続きとして必須です。
なので、回さんのニューズレターの誌面をお借りして、
皆さんに伝えたいことがあります。
皆さんご自身やも皆さんの親類や、知人などで、
ある程度広い、原野とか山林の私有地を持っておられる人で、
沢山の人たちがそこで自然葬をしてもいいと思っている人は、
ぜひボランティアで、サイトを立ち上げてみてください。
とにかく「陸上での自然葬」において、何よりも真っ先に必要なのは、
この先、最低でも10年から20年は、所有者(地権者)が安定している
「私有地」です。
さらに眺めや環境がよい、山林、原野、農地の一角や、里山であれば、
さらにベストです。
ですので、まずは、そうした、
自然葬を許可できるという土地を所有している人が、
まず土地を提供して、あとは簡単な事務や法律的な基礎さえ押さえておけば、
自然葬は遺族らがお金をかけずに出来ます。
今はもうご縁がありませんが、当時の私の知人の農地で行った自然葬の
具体的な方法を知りたい方は、ぜひ、無明庵の「完全自然葬マニュアル」で
検索をかけてみてください。
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迫り来る不景気の波状攻撃
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さて、そうこうするうちに、
2008年から2009年のサブプライムローン問題が発生しました。
それまでは社会の経済の動向には、ほぼ無関係だった無明庵でしたが、
これには影響をうけたようで、
この後からうちの自主発行本の売れ行きも低迷しました。
2008年あたりに、なんとなく直感的に、はじめた「禅書」で、
その後なんとか運営を続けました。
のちにこの禅書の時に使った無心の意識状態の技術こそが、
自我判定を可能にすることが出来ました。
しかし、2011年の東日本大震災以後、さらに社会の不安や不景気は、
本の売れ行きに影響をし、無明庵の運営も危機的になりました。
それでも、お金とか自分の生活のためではなく、無明庵を必要としている人や、
うちのやり方が何かの役に立つ人たちのために、
本の発行維持以外に、個別にサポートを続けてゆきました。
自我復元は始めた当初は、順調に行くように思えたのですが、
まさかトラウマ問題がその中心テーマとなるとは予測しておらず、その後、
本当に大変な数年間を経てきました。
これは相談で対応をしてきた私が大変というだけではなく、
誰よりも一番大変だったのは、
トラウマを解決しようとしてきた、自我復元者の人たちでした。
さて、私の生活(生計)は、あいかわらず、とても厳しい状況だったので、
自分個人の生活の為の収入は、無明庵としての活動以外のところから、
生み出したり調達をする必要がずっとありました。
これは出版を開始した1995年からずっとそうでした。
しかしやがて、いろいろなものが、
2015年から段階的に静まってゆくのを確認しました。
1995年から、精神世界難民の人たち向けて、
あるいは精神世界というカテゴリーの「場(フィールド)」に、
もしかすると、小さな一石を投じた「かも」しれない、無明庵は、
ひとつの仕事を終わったという感覚が私の中に生まれたのです。
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アンプラグ状態から死への旅立ちか?
はたまた、延長戦へと突入か?
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そして今年、そんな節目の時に、
2016年の3月に、私個人が大きな病気なり、その後も、回復が遅く、
後遺症がなかなか治らない体調不良となりました私自身を見ますと、
無明庵としての活動も終焉を迎えようとしているのではないか、
と思っています。
ですので、今後の自分の身の振り方を考えるために、
現在、自分の状態と、自分を取り巻く環境の動向を観察しているところです。
今後は、まだ明確な予定はなく、
無明庵としての存続もどうなるかは、わかりません。
書店さんに迷惑をかけないように納品は継続したいとは思いますが、
その他に関しては活動を、極端に縮小すると思います。
普通はこうした取材の最後の言葉は
「今後の活躍を期待しています」などとなるのでしょうが、無明庵の場合には、
これが回さんのニューズレターの読者の皆様への、
「最初で最後のご挨拶」となるかもしれません。
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回さんとの質疑応答/番外編
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>>「全自我」になった人は、至高体験を感じるようになるのかと思いましたがいかがでしょうか。
全自我になった人というよりも、全自我に戻った人です。
しかし、そうした人たちのことは、「後天性全自我」と呼びます。
さまざまなトラウマや問題点から、自力でひとつずつ離脱した人です。
一方で、「先天性全自我」というのは生まれつきのものです。
しかし、先天性でも後天性でも、全自我の人というのは、
そもそも何かを困難とは思いません。
そこで困った問題が生じているとは認識しても不幸を感じることはありません。
困難を前にして、ことさらにチャレンジ精神を奮起するわけではありませんが、
何をどうしたいか、という個人的な目標にブレがないのが、その「健康人」だ
と思います。
何をどうしたいかわからない、または対立する目標が相殺しあっているのが
強いていいますと、非健康人かもしれませんが、
そうなる原因は主に2種類あります。
ひとつはその人の毒親がそのような、何も決定や判断が出来ないような
毒親の都合のいい人間にしてしまった可能性。
もうひとつは脳の萎縮による鬱病や、あるいは脳内物質の異変などです。
それで、問題の「至高体験」ですが、
そもそも、ご質問者の至高体験の定義が、
この言葉だけで、あまりにも曖昧ですので、回答が出来ません。
「至高」というからには、頂点的な体験という意味なのでしょうか?
私にはこの質問をされた人が、そう思っているとは思えません。
おそらくは何らかの「神秘体験」という低い敷居で考えておられると思います。
ある人の人生に多大な影響を与えた、何かの内的な体験、
といった漠然としたものとしてイメージしていると思います。
いわゆる
「そうした何かを体験すれば、認識がかわり、人生が変わるのではないか」
といった期待を大勢の人々からされている、そういうタイプの体験です。
全自我の人についていえば、そうした「神秘体験」または「至高体験」など、
全く必要としない人になった、といえば正しいと思います。
そのような、特別な体験を目指したり、期待するのではなくて、
日々の当たり前の体験を、当たりまえならざるものとして、
子供のような視点で、体験し直すことになると思います。
特に最も重要なのは、子供の時に毒親に殺された「感情」の再体験です。
そして自分の意識、思考、記憶、身体といったものを、
初めて「自己操縦」をできている感覚をつかみます。
というのも、毒親が子供から奪ったもの、
または、分割自我が失っているものは、この自己操縦感の喪失だからです。
この自己操縦感というものは、はっきりいえばエゴの塊です。
しかし、それが十分に熟するまでは、その次の段階は立ち現れません。
もしも質問者の方が言われる「至高体験」というものが、
人生に多大なる影響を与える、非日常的な体験を意味するのであれば、
そうしたものを体験できる、本当の基礎というものは、
「日常体験の成熟」以外には、ありません。
日常体験の「限界」に突き当たるときに出てくる渇望や飢えは本物ですが、
日常体験への不満から出てくる希望や羨望は、
人をどこへも連れてゆけませんので。
「自分の意志で出来ることは、すべて、やるだけやったが、
この先にいけない。もう絶対に、納得がいかん。」
そう自分にきっぱりと言える日がくるまでは、
他人の撒き散らした至高体験の記録になどに翻弄されないほうがいいと
私は思います。
>>富士山を毎日身近に感じて過ごされていると思うのですが、
>>活動の拠点を富士山の近くに置かれたのには、何か理由があるのでしょうか?
特にありません。
引っ越した当時の、なんとなくの成り行きでした。
ただ、東京から距離が近いこともあり、
20代の終わりのところに、富士吉田市の北口本宮の浅間神社や、
富士五湖、特に西湖あたりは、知人の車で、よく訪れていたので親近感はあり
ました。
>>今回の取材場所として御室浅間神社を選んでくださいました。
>>鈴木様にとって気持ちの良い場所を選んでくださったと思うのですが、
>>神社という場所、富士講、神道について、鈴木様のお考えをお聞かせください。
特に、全くありません。
神道や神社について、いろいろな歴史や、レイラインなどの薀蓄を、
とめどもなく語る人は多くいると思うのですが、
今回、この浅間神社での取材が実現したのは、神職の「権禰宜(ごんねぎ)」
の方との個人的なご縁、というところが大きいのです。
実は、「猫つながり」なのです。
数年前に、動物病院で、この神社の方に偶然にお会いしたことが、
ご縁の最たるものです。
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その他
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私個人は、「悟りの意識というものは、地球では不要で、不毛で、無駄である」、
という認識の中にいます。
無明庵としての初期の本を発行してから、数年が経過したときに、
「こんなことをしていても、これでは、ゆくゆくは、
ただの小規模の宗教もどきになるだけだ」と感じました。
「悟りについては、永久に平行線のままで、全く何も正しくは伝わらないし、
誤解と偏見以外には、何も生まれない。
これでは、昔の時代の、その不毛な行く末と何も変わらないだろう」
と明確に結論しました。
そして、そこから、長い時間をかけて、
掲示板や著作の中で「重視する力点の変更と調整」をしました。
それは悟りの問題ではなくて、
悟りに到る前段階の、人間の生命経験にとって、
何が必要なのかを、精査するのが目的でした。
それが、その長い役目を終えたのが、今年の3月です。
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最後に、普通の精神世界では、あまり知られていないことについて説明します。
悟りの意識といったものには、何種類かありますが、
便宜的に、ここでは2種類に分けます。
ひとつは、一度達した悟りの意識状態のまま、今回の生を終える人たち。
おそらく8割は、このタイプです。
そして、悟りの意識は、一度達したら、失われないはずだ、
と多くの普通の人たちは思っています。
実際、そういう覚醒者のほうが、表舞台では目立っていましたから、
いたしかたありません。
しかし残る2割の人たちは、ある時期に悟りを捨てます。
捨てるというよりも、脱皮するように、剥がれ落ちます。
その人たちは、悟りを自分の主観的な経験として、
または個人として、達したい認識として経験するのではなく、
それを、他者に対して、表現すること、
説明をしなおすことに、主たる目的がありますので、
それを表現しつくしたらば、
その種となっている意識の仕組みは「用済み」となります。
分かりやすくいいますと、
たとえば、書の神様が、誰かに降りたとします。
するとそれが降りている間は、
その人は、自分個人の探求とか、個人的な経験のためではなく、
書の神様(そんなものがいるならの話ですが)が
表現したかったことを現す「媒体」となります。
しかしそれが終わったら、その媒体からは、書を描く能力は去ります。
昔、幽霊音楽(心霊音楽?だったか)というのがあって、
とっくの昔に死んだ作曲家が、(ピアノが全く弾けないと称する)霊媒を通じて
自身の未完成曲を完成させたとか、その手の、怪しい音楽です。
そんなふうに、何かの表現のミディアム(媒体)となる場合には、
その能力や意識状態は、本人の所有物ではありません。
一定期間の間、媒体となる者を「通過するのみ」です。
そして高濃度で、短期間にそれを表現し終えたらば、
そこで役目は終わります。
役目だけではなく、そのために使われた意識状態や人格も、
そこで、脱ぎ捨てることになります。
常に、悟りという分野に蔓延している、何らかの誤謬やアンバランスに対して、
バランスを取ろうとする動きが発生することがあります。
今回ニューズレターに紹介記事を掲載する運びとなった、
アメリカの覚醒者のスティーブン・ノーキスト氏もそうです。
そういう意味では、無明庵というところも、
もしかすると、その精神と意識の池に投じられる、
「一石」の媒体として24年間を過ごした「のかも」しれません。
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☆その他の雑談☆
悟りの状態について、人々が最も理解しがたいこと、
理解を拒むこと、理解しようとすればするほど、理解できなくなることは、
悟りの中では、物質も、生命も、何も必要なかったことを実感することです。
それらが動きとして流出する以前の原初の意識の位置では、
存在それ自体が、そもそも必要のないものと認識されます。
あるいは、その意識は何かの因果関係による結果ではないので、
それゆえに、原初と呼ばれてしかるべきものですが、
それが在る以外には、何もないわけです。
そうした状態に、肉体や私生活を持ったままの人間が突入した場合には、
個々により結果は違うでしょう。
ある者は死に、ある者は狂ったかのように周囲には見え、
ある者は、何事もなかったような顔をして生活し、
ある者は、語り始めるかもしれません。
しかしそんな彼らに付きまとったり、彼らを見たいと思う人たちの動機は、
常に、歪んでいます。
それは究極的な実存や実相と引き換えに、自分を犠牲にしようとする、
探求者のそれでは到底ありません。
誰がしかが、覚醒したらしいと聞くと、あるいはそうした者が書き記した本を読むと、
人々は、次のような動機で、その覚者たちに関わろうとするのです。
1/品定めの動機によるものがあります。
「そいつは本物なのかどうか」を、彼らの貧相極まりない意識と、
ガラクタの寄せ集めのような知識で判断しようとします。
2/この者なら、自分も覚醒体験に類似した体験をしたことを認めてくれるに違いない、
という傲慢で無知で子供っぽい期待です。自分に同意して欲しいと期待しています。
3/あげくには、自分と親しくして欲しいという動機まであります。
この場合には幼少期に親との関係に問題があったと考えた方が妥当です。
4/その覚者に関わること、その覚者に自分が協力をすることで、
何がしかの恩恵や、良きカルマになる、
またはそれを光栄であると自分が感じたいために関わるという動機の人もいます。
いわゆる宗教カルトの世界に溢れかえっているタイプの人たちです。
5/人々の興味をそそることで、なおかつ人々が知りえない話、
そういう話を聴きたい、聴いて楽しみたいという、暇つぶしや、
「娯楽志向」によるだけの動機もあります。
しかし、人々が撒き散らす、これらのどの動機にも、覚者は関心がありません。
●ただし、完璧かつ、究極的に単純なる、意識性の状態にある者が、
その意識を希釈し、レベルをダウンさせる方法はとても簡単です。
それは、やってきたその他人の「妄想」に聞き耳を立てるだけでよいのです。
ただそれだけ、です。
全く理解しなくても良い。
聞き耳を立てるだけで、十分に意識は「汚染される」からです。
覚醒状態から一切の妥協を出来ない覚者は、
そもそも、人々の質問や妄想に聞き耳すら立てないでしょう。
あるいは、本質的な質問、つまり人の変容に直接に関わるような質問を
出来る者以外には、関心すら示しません。
しかし、多くの覚者たちは、その周囲に寄ってくる他人に接するだけ、
そして人々の話を耳で聴く、ただそれだけのことで、
誰も助けず、何も説明もせず、彼らに何もしなくとも、
十分に次元を落下することが出来たのです。
その覚者が、自らの純白の布のような意識を、
他人が少しずつ汚すことを許せば、の話ですが。
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「いまここ」という誤謬の標識
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精神世界の中で、もっとも人々を汚染し、混乱を引き起こした言葉のひとつが、
「今、ここ」です。
「今」、これは問題ないでしょう。
なぜならば、人が望むと望まぬに関わらず、
人が、自分がどの時間にいるかという思い込みに関係なく、
意図しようがしまいが、今この瞬間以外には存在していないからです。
これは自明のことで、それに対して何もする必要はなく、
強いていえば、今という瞬間を忘却してしまうような頭の妄想に
翻弄されないことぐらいです。
ところが、問題は「ここ」のほうです。
「今ここ」の「ここ」とは、
現在知覚している、どの知覚なのか?
これが明確ではないのです。
たとえば、「ここにいる」という知覚を意味するのであれば、
それは皮膚感覚なのか、
呼吸の自覚感覚なのか、
身体感覚なのか?
それとも、目に入っている景色の知覚なのか、
その瞬間の連鎖の中で耳に聞こえる音なのか?
どこまで知覚を明晰かつ集中かつ、拡大すれば、
それを、今ここの「ここ」としてよいのかです。
ここの「何を」認識すれば、「ここにいる」ということおける合格ラインになるのか?
これが明確にされないままに、今ここという言葉が独り歩きしました。
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覚者ごとに悟りは微妙に違う
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ところで、覚醒体験、悟りの体験には、共通性が見られることもりますが、
一方では、本質的には、それは人の数だけ個別に違うものである。
この事実を理解できる人がほとんど存在しません。
宇宙または意識といったもの、
つまりその者が、究極の真実として求めたその対象を、
どの角度、どのフォーカス、どの視点からそこへと溶解したか(観たかとは言わない)
によって、悟りは人の数だけ、異なる現れ方をします。
なので、悟りの体験には、上下はなく、レベルの差もないのです。
仮にあるとしたら、「違う悟りの体験」がそこにあるのみです。
もしも、自分の悟りとは異なる悟りの次元に興味があるならば、
その覚者が経た様相に類似する、角度と焦点と位置から、
そこへ飛び込めばいいということなのです。
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宇宙における究極的な俯瞰から見た意識や宇宙は、
無機的な数式のようなものであって、
かつそれは人の幸福のためには応用が全く不可能な数式とも言えます。
それを知りたい、否、体験したいと、命をかけて挑んだ者が
それに直面すれば、その者にはそれは何物にも代えがたい価値があるのでしょうが、
地上で泣き叫んでいて、人の持つ悲しみを僅かであっても和らげたいと欲する者には、
俯瞰した視点から、人が体験した究極的な境地など、
全く何の利用価値もないと、私個人は思います。
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