▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
★「自我判定」や「禅書」の申し込み方法はこちらです★
【
ご依頼・ご注文の方法
】
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[643]
■
★雑記/NO.643【ドーパミンから見た20世紀】
by:
鈴木崩残
2016/11/05(Sat)08:23:04
20世紀という時代
●今朝、冷え込む空気の中、ごみを捨てに行った。
歩いていて、ふと、ある事を感じた。
「距離 だったんだ。
多くの人々が自分の感じる苦痛との間に、距離を必要とした。
だから、20世紀は、ニコチン依存症への手段が増えた」
またまた、ニコチンやタバコの話かと、うんざりしそうになった人は、
ちょっと我慢して、この先を読んでください。
論旨は簡単なことなので、ごちゃごちゃな話にせず、出来るだけ短い文章にします。
●数日前に依頼された、無心の書を書くために、
昨日は、「ニコチンパッチ」を貼りました。
しかも今までで最大の36mg含有のもの。
ここ最近、かなりニコチンに拒絶反応のあった私の体に、
あえて、かなりの量のニコチンを入れたわけです。
これをすると、パッチを外してから4〜5日もの間、
ひどい離脱症状に見舞われることは覚悟の上でした。
パッチを貼った理由は、仕事にならないからです。
●そういうわけで、今朝は昨日のニコチンが少しの脳に残っています。
そのせいで、あることに、ふと気づくことが出来たと言えます。
その「あること」、とは「20世紀の大きな特徴の一つ」を、
私が改めて認識できたことです。
過剰なドーパミン放出を必要とされた時代
●ストレス社会という言葉が使われてから、だいぶ年数がたちます。
そもそも、ストレスとは何かと言えば、
私達の心身の限界を超えてしまう外圧があり、しかもその外圧の要求や、
その外圧と戦わねばならないという状況です。
この状況はむろん、私達が原野を走りながら暮らしていた時代にもありましたが、
その時代のストレスは、ここ一世紀ほど酷くはありません。
そして、ストレスに対して、最大の抵抗力、拮抗力、防衛力を持つものが、
ドーパミンであると私は思っています。
(総合的にはセロトニンや他の脳内物質もですが)
さらに言うならば、ドーパミンの最大の効能は、
やる気とか、喜びとか、満足ではなくて、
>心身の感覚との「距離を作ること」です。
ここが重要です。
ここに20世紀という時代を見ることの出来る視点の一つがあるからです。
*********
●ドーパミンは、もしも外部から薬理作用のある物質として摂取しなければ、
身体運動によって出すアセチルコリンで、
その受容体を刺激して放出する必要がある、
という話は、禁煙の分野では常識論です。
しかし20世紀は、特にデスクワークが増えたために、
運動不足の中では、要求された仕事をこなすだけのドーパミンは、
常に不足しました。
その時代には、むろん身体運動によって、まかなう人もいた一方では、
それと、知らずに、煙草の肺喫煙によって、
ドーパミンの放出をしていた人たちが大勢います。
●以前にも書きましたが、1950ごろにフィルターつきの紙巻タバコが作られてからは、
仕事場、戦場、家庭、公共施設と、どこでも喫煙することが、
社会的なブームに見える形で普及しました。
しかしそれは文化ではなくて、
20世紀以前よりも「異常になった社会」そのものが、
うっかり手を出した麻薬だったと言えます。
むろん、私もドーパミンを外部手段で放出するために、ニコチンに、
38年も依存し続けました。(今後も依存するかもしれません)
●そして、喫煙によって生ずる、
「非喫煙者と、喫煙者との差」は、こうなります。
喫煙者は、非喫煙者の何倍、あるいは桁違いに大量のドーパミンを、
脳内に発生します。それも喫煙という手軽な手段で。
ニコチンは手段ですから、重要なのはニコチンではなくて、
そのドーパミンの脳内での異常なほどの大量放出が、何を生み出したかです。
>実は、それは「客観性」です。
これを言ったのは、世界で私が初めてだと思います。
リラックス効果でもなければ、イライラの解消でもなければ、
負にダウンしてしまった作業能力を元に戻す作用でもなく、
(むろんそれらはありますが)
最大の効能は、
「自分の感覚を、客観視する視点の形成」の助力になる事です。
だから、ボケ防止になるのです。
●
私達は、自分にかかる心身の圧力、特に身体と感情に圧迫がかかると、
その苦を、なんとかして、やり過ごしたり、超えようとします。
超える手段は、ひとつは力に対しては力です。
外圧よりも強い身体の力、または強い感情を発生することです。
しかし、それが不可能となった場合には、
私たちは「意識の次元のようなもの」をシフトして超えようとします。
するとそこには、身体や感情の苦しみに対して、力で応戦するのではなくて、
「客観視」してそれに対処しようする方法があります。
そこでは、感情や身体の苦しみと、
>「自己同化しないようにしよう」という事を実現するために、
「客観視」「分析力」などをフル回転させます。
この、自分の心身の感覚や感情と同化しないような視点へシフトする時に、
大量のドーパミンが必要となります。
だから、ドーパミン不足の人は、客観性と分析力に欠けます。
しかし、ここで注意してください。
「それで良かった」のです。
客観性や分析力は、それほどなくても良かったのです。
●たとえば、非喫煙者と喫煙者との「溝」(対立)というものも、
20世紀にありました。
身近なところでは、喫煙天国時代には、男性が喫煙者で女性が非喫煙者。
家庭では、親が喫煙者で、子供は非喫煙者。
すると、非喫煙者のほうが、弱い立場になることが多いのです。
ただし、それは喫煙者が優れているからではなくて、
喫煙者はドーパミンの大量放出によって、
次の欠点が顕著になるからです。
それは、他者の感情が分からなくなり、
他者の心身の苦しみを共感できることがなくなり、
根拠なく、押しが強くなり、
とにかく、他人(特に非喫煙者である可能性が高い、女性や子供)の、
感情と身体の訴えに対して、無神経になることです。
この無神経さは、実は長所である「客観視」「分析力」「行動力」
と表裏一体になっています。
●だからこそ、20世紀は、分析力によって科学的な発明が加速的にされ、
分析能力が、戦争の勝ち負けをも決定しました。
これは客体化の効能です。
その一方で、他者や、他民族の心身と感情の苦しみを全く無視した、
侵略、戦争、そして労働環境が、作られていったのです。
それを20世紀に作っていった一因に、「ニコチン」による、
大量のドーパミン放出があると私は推測しています。
●
●家庭の中でも、女性や子供が、感情的に苦しいと訴えると、
喫煙者の親は、「理屈」でそれを罵倒します。
この「理屈」はどこから出てくるのかというと、実は知識の寄せ集めではなくて、
「相手の心情、感情、身体の苦しみ」といったものを「他人事」のように見る目からです。
なぜならば、喫煙者は、まず最初に、自分の身体の苦しみと感情の苦しみを、
ニコチンによるドーパミンの大量放出によって、
自分の主体から「分離」したからです。
自分がニコチンによる大量のドーパミン放出の助けを借りて、
自分自身の身体や感情が訴えていた苦しみを、
「他人事として見る視点」から見ることをしたからです。
なので、非喫煙者である相手(非喫煙者の成人や、子供や女性)にも、
同じような「客観的な分析力」があるものだと思い込んだり、
それを相手に要求したり、強制します。
だからこれも以前に書きましたが、喫煙者の毒親と戦うには、
子供も喫煙でもしないかぎり、かなり難しいということなのでした。
しかし今は、私はその方法には否定的です。
また会社にいる、喫煙者の強気な上司と戦うには、喫煙するしかない、
というのも一理あるのですが、これも私は薦めません。
いずれは、喫煙者は、駆逐されるか、全滅すると思います。
むろん、この私も含めてです。
●長い目で地球の歴史を見ると、脳内でのドーパミンの過剰分泌が
もたらしたメリットとデメリットは、繰り返しますと、こうなります。
■メリット
大量のドーパミンを使うと、
自然な状態で、身体や感情が訴えている声と
自己同化しない視点を作り出して、そこに避難できる。
その副作用または副効能のひとつが、「客観視や分析力」となり、
それが、20世紀の科学や産業を支えた。
加えていうならば、喫煙によるドーパミンの大量放出と、
そのスイッチングの簡単さは、労働者、企業戦士らにとっては、
無理難題の仕事を突きつけれた時に、その無理を出来る状態を作り出した。
構造的には、戦後のヒロポンとほとんど同じである。
■デメリット
身体運動によってであれ、喫煙によってであれ、
とにかくドーパミンが過剰分泌される場合には、
メリットである「心身の感覚との距離をとった視点を作れる」
つまり「俯瞰できる」「分析的になる」
というこれが、逆に仇となり、
非喫煙者である他者や、女性や、子供、
さらには、発達障害によってドーパミン不足の人たちの発する、
感情の痛み、身体の痛みの声に対して、
非常に「無神経」となり、その人たちの感情的苦しみを「無視し」、
「分析的論調に走る」ことです。
根拠もなく押しと断定が強くなりますので、毒親になりますし、
私自身も、自分を振り返ると、本当に、
読者の人たちの心に対しても、無神経すぎました。
●無明庵や、私の、客観的な視点、分析力、説明能力、行動力、
こうしたものは、ドーパミンの過剰分泌によってなされてきましたので、
自分を弱く感じたり、
そうした客観的になる能力が自分には欠けていると思っていた人たちにとっては、
心の支えになったり、または見て楽しむ娯楽になることは無論あったことでしょう。
しかし、ニコチンの摂取という行為は、
自らの心身と感情との間に「距離」「客体化」を作る目的で、
脳内物質の放出を酷使したために、その「不の作用」として、
他者の心身と感情に対しても、
自分にしたのと同じように、距離を作ってしまい、
結果として他者のこと(特に、喫煙者と「相対的に」ドーパミン不足の人)
の気持ちや状況が理解できない状態になってしまいます。
●話は少し横道にズレますが、
もしも、タバコのような手軽な手段での、肺喫煙によるような、
極度のドーパミン放出の手段がなかったらば、
戦後の学生運動も起きず、暴走族もおらず、
毒親もずっと少なかったのではないかと、私は考えています。
そればかりか二つの大戦すら、その様相が、どうだったか分かりません。
世界は、それ以前の時代のように、
もっとスローライフのままだったかもしれません。
変わりつつある時代
●喫煙者の持つ、長所と欠点が、満開になったのが、
20世紀の、ニコチンによる脳内ドーパミンの強制放出、
という異常な状態だったものが、
昨今の禁煙、嫌煙ブームによって、どこへ向かっているのかといえば、
大局的に見れば「正常・または、より自然」な方向へと向かうかもしれません。
しかし、そのためには、大量のドーパミンを放出しないと、
喫煙者(または、自然にドーパミンを大量放出している相手)と、
戦えない、仕事にならない、生きてゆけない、他者に負ける、他者に馬鹿にされる、
そういう時代が終わろうとしているかもれしないと思います。
20世紀は、サイケデリックな時代で、タバコも含めて薬物依存で、
それがもたらした、面白みのある、無理のある世界、ゆがんだ世界、
あるいは、いろいろな発見と、発明と、分析力の向上もあった一方では、
その「客観視して自分から分離する」という効能が表裏一体として持つ「欠点」が蔓延し、
そこでは、合法、非合法、または手段を問わず、
ドーパミンを大量に出す側の陣営と、出さない、または出せない陣営との間に、
力の差と支配構造と、対立までもが出来ていたのだと思います。
家庭内で、学校で、会社で、そして時には国家間にすら。
●無明庵、あるいは私というものは、これまで、
「ニコチン燃料」による「ドーパミンの大量放出」によって、
その視点、客観性、分析力、表現力、創作力を維持してきました。
それが持つ安心感や、娯楽性や独自性は、むろんあったと思います。
と同時に、その棘や毒は、そのような異常なドーパミン放出をしていない、
非喫煙者の人たちや、女性の感情や心身を、
ほんとうに傷つけるようなことを沢山言葉にしてきたと思います。
その20世紀の最後の時代に生まれた、
無明庵のテイストやセールスポイントを全て否定することは、私はしませんが、
それは過去のものとなりつつあり、
今後の時代には、それは合わないと思っています。
●私自身が、禁煙をしてみて、極度のドーパミン不足となり、
まるで廃人であるかのような、その無力さの、どん底で感じたことは、
喫煙によるドーパミン放出という社会習慣、生活習慣は、
「異常すぎた」ということであります。
自然ではありえないほどの、強制的な放出量が異常すぎます。
本来は、あまりにも、身体や、感情が苦しくなると、
人間は、まず運動によってドーパミンを出そうとします。
暴れたり、大声を出したりと。
ストレスには運動がいい、という基本中の基本に戻るわけです。
しかし、世間体から、暴れたり大声を出せない家庭や社会になったり、
そうした手段だけでは対処できないほどの、社会的な加圧や、
家庭や学校や企業で、過酷な我慢を命じられる事が、
20世紀には沢山ありましたし、むろん今も続いています。
身体運動や悲鳴だけでは、補充できないほどの、
ドーパミン放出による助けを必要とした社会は、
ちょうど産業革命や、紙巻タバコの一般普及などとも重なりました。
●タバコのニコチンは、誰かの陰謀によって広まったというよりは、
おそらくは全員が無意識的だったのかもしれませんが、
自然からどんどん離れてゆく社会の変化と共に、
増加していってしまう、自分の感情や身体の叫びを、
「それを超えた客観的な視点から見て、苦痛を軽減しよう」、
というところから始まったの「かも」しれません。
そのためには、自然な自己分泌を超えるほどのドーパミンが必要となり、
ニコチンという代替物を取り入れたのではないかと、推測しています。
●しかし、既に述べたように、
ドーパミンの過剰分泌によって、自分と苦痛との間に「距離を作る」
ということが、苦痛を和らげたり苦痛の原因を知る分析的力を得る、
と同時に、その結果として、
根拠のない押しの強さ、傲慢さ、他者への強制、理詰めだけに陥る、
その結果、相対的にドーパミンが少ない人たちの感じている
苦痛を理解できない、無神経さを作り出し、
その無神経さは、ストレスを生む社会システムや、家庭や、
戦争を加速する原因にすらなったのではないか、と私は思っています。
だから、無明庵や私もまた、そうした無神経な性質によって、
沢山の人たちの感覚や感情への不理解という欠点に陥ったと思います。
20世紀には、そうした「斬れるエッジ」「毒や棘が」、
娯楽や文化としても成立していたと思います。
●しかし今後の地球では、
ドーパミンを外部手段によって異常放出をしない社会、
自然放出を常識にするとしたら、現在よりも、ずっと、
心身や、感情が「楽に生きられる社会」にすることが必要ですが、
社会が個人に要求する過酷さは、いまだ昭和の時代のままです。
そのためには、私のような喫煙者も含めて、
ドーパミンの異常放出に依存してきた人間は、それこそ、
全滅するのがいいのだろう、とすら思っています。
自虐的になっているのではなくて、私は、本気でそう思っています。
***************************
■最後に、非常に卓越した記事を紹介します。
文化として喫煙を評価したりするのではなく、
また医学的な論点に立つのでもなく、
「喫煙者の生きた人生」について、
誠実に真実を綴っている点が打たれました。
↓
http://www.cbc-net.com/blog/qanta/2015/02/24/smok/
■以下は私見です
私は過去8ヶ月禁煙をしましたが、その間に、自分がとう掲示板に書いた原稿や、
人とどう接したか、何を日々考えたかを書き出してみて、
禁煙をして、ただの「ひとつも幸福だったことがなかった」ばかりか、
良いことどころか、喫煙時に「普通にまとも」だった自分すらも、
そこにはありませんでした。
言うまでもなくその原因はニコチンが断たれたことでドーパミンが枯渇して、
元喫煙者は、極度の無気力と無関心と希死念慮などに襲われるわけですが、
禁煙推奨運動者は、
「戦え」「必ず禁煙できる」「禁煙出来ている人が沢山いるんだ」と叫びます。
むろん私も非喫煙者には喫煙は決して薦めません。
しかし私の経験では、どう禁煙を絶対善として絶賛しても、
昭和のあの「モーレツ」な時代を、喫煙をしながら仕事をし、恋愛をし、
楽しみ、人生について考え悩んできた人たちにとっては、
禁煙をするということは、その何十年間の自分を根底から否定しかねません。
否定というよりも、喫煙時代の自分は1年以上は二度と戻らなくなります。
さまざまな統計を見ますと、禁煙後に、ある程度脳の機能が回復するには
(よく言われるような数ヶ月ではなくて)、
最低でも1年以上、2年半は必要と思われます。
これは、単純労働や、他人の命令だけで動く職種では、
少しずつそれに慣れてゆくのに問題はなくとも、
常に創作性や独自性や、複雑な論理構成を必要とするような職種に
いる人にとっては、命取りになります。
禁煙から約1年程度は、全く仕事になりません。
数少ない、禁煙でよかったことは、
一日のうちで、禁断症状に悩まされたり、
喫煙を我慢しないとならない場所や、喫煙できる場所に、振り回されなくなったこと。
肺活量は回復したこと。鼻くそが白くなったこと(パイプ喫煙をするまでですが)。
お金の節約。
たったの、これだけです・・・・・失ったもののほうがずっと大きいです。
■私のような救いようのないヘビースモーカーだった者が禁煙をしますと、
思考力の低下、注意力の低下、気力の低下から、
日々の何気ない喜びすらも減衰し、軽い冗談も言えなくなり、
それまで普通に他者と接していた自分はどこにもなく、
まるで鬱病患者のようになります(禁煙鬱と呼ばれます)
最もキツイのは自分の判断力に全く自信が持てないことです。
私も禁煙してみて、それが健康にとって良いことばかりである事や、
経済的な節約になることや、特に2000年以後、現代社会では、
禁煙や嫌煙が常識となり、デフォルトになりつつあることは理解できますし、
禁煙の持つメリットも100も承知です。
しかし、その個人の生きた世代、喫煙年数、喫煙時に吸い込む深さ、
喫煙していたタバコのニコチン濃度などのと兼ね合いによっては、
禁煙すると「健康」にはなっても「不幸」になるのです。
私のような禁煙8ヶ月程度の者では「禁煙成功者ら」から言わせれば、
「あと数ヶ月すれば解決する、頭もすっきりする」と言うでしょうが、
そのたったの数ヶ月が、「人生の命取り」になる人たちが多くいます。
それは離職中、求職や転職の途中、起業したばかり、あるいは
クリエイティブなアートを常に要求される人たちです。
この記事にも書かれておりますように、昭和の時代の喫煙者は、
自分にとっての、当たり前の自分らしさの「しきい値」が、
成人して社会で活動をし始めた、その最初の時から、
喫煙による脳機能と「セットになって」で維持されていました。
良し悪しは別として、ニコチンと二人三脚で生きてきたわけです。
ですから、その人たちが喫煙を中止するということは、
海抜ゼロメートルに長く住んでいた人に、
「標高4000メートルで暮らせ、
それが本来は住むのに自然な標高なんだ」と言うようなものであり、
もっといえば、喫煙者にとってのニコチンとは、
「水や空気」と酷似します。
それを摂取してきたことが(当時は)社会的にも「普通」であったので、
その後の時代に、医学的、社会的にどう罵倒されようが、
その人たちから喫煙を取り上げる、または本人が自主的にやめることは、
精神の命に関わる現象を引き起こします。
(この深刻さの度合いや種類には、むろん個人差がかなりありますが)
これに対して現在の社会は、
絶対に負けない正義の剣を振り回すかのように、
喫煙経験者も、喫煙非経験者も、
「中毒したのは喫煙している者の自業自得だから治せ」と大声で言います。
しかし昭和の時代に、日本の特定部門の企業が世界でトップだったことは
会議室での大量の喫煙と無関係ではありません。
出版関係、放送関係、そればかりか町工場の職人さんもそうです。
むろん喫煙者が、喫煙をしない人よりも何か特別な能力を
喫煙によって得るわけではないですが、
少なくとも、「喫煙者にとって」のタバコ(ニコチン)は、
食物と同じぐらいの基本的なレベルの「燃料」だったのは事実です。
あまり大きな声では言えませんが、アートの世界に限っては、
非喫煙者や禁煙者よりも、喫煙する人の方が、
独創的だったりエッジのある作風になる気が「個人的には」します。
ですから、禁煙で経験する暗黒の日々の長さは個人で異なるでしょうが、
禁煙者は、それまでに培った、人格や、スキルそのものの、
根幹的なエネルギーがほとんど「電源切れ」の状態になります。
禁煙をはじめるにあたっては、
職種との兼ね合いや、禁煙を開始するタイミングを間違うと、
健康だけは得られても、それまでの何十年分もの
幸福を失うリスクがある「場合もある」わけです。
なので、禁煙をいったん中止したことで、
自殺せずに済んだり、精神的に助かったり、
生計を立てる上でも助かった人たちというのは、かなり多くいると思います。
その人たちは、単なる禁煙失敗者ではなく、
喫煙時代の人生の遺産を棒に振ってまでの禁煙は「しないことを選択」
した人たちだと個人的には思います。
_____________________
★
.
返信 [643]
<<-- これ以前の投稿 10件
(643 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -